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廃村八丁の土蔵の歴史


                                            2014年2月 1日 柴田昭彦 新規作成  
                                            2014年5月11日 更新(八丁の紀念碑文等について更新)
                                            2014年7月17日 一部修正(7.文献・・・1940年)
                                        2014年7月24日 土蔵崩壊の時期がほぼ判明(2.姿の変遷)
                                                 (1991年11月~1992年5月の間に倒壊した。)
                                        2014年7月26日・29日 インターネットのサイト情報の追加
                                            2014年9月24日 Wikipediaの「廃村八丁」の立項(7.の末尾)
                                        2014年10月28日 「テレビ朝日|ナニコレ珍百景」について
                                        
2014年12月7日 「民家をちこち14」の出典が「新住宅16号」と判明
                                        2014年12月13日 インターネットのサイト情報の追加
                                        2014年12月31日 ヤマケイ関西の写真の紹介、旧版地形図の紹介
                                        2015年1月10~13日 「ハイカー」「山と渓谷」「岳人」の資料を追加
                                        2015年1月16日 土蔵の壁画の作者の記念写真を掲載
                                        2015年1月17日 文献資料を追加 
                                        2015年1月18日 「廃村八丁の変遷地図」を作成
                                        2015年1月23~25日 資料を追加(新住宅)
                                        2015年1月29日 資料を追加(近畿の山、1965年) 
                                        2015年2月3日 資料追加(京阪神ワンデイ・ハイク、1983年)
                                        2015年2月8日 資料追加(丹波路、1958年)
                                        2015年2月28日 資料追加(『ワンデルング』1983年)
                                        2015年2月28日 資料追加(北山クラブ会報、1960,62,65年)
                                        2015年3月3日 『北山』(北山クラブ会報)について
                                        2015年3月4日 資料追加(北山クラブ会報、1992年,96年)
                                        2015年3月6日 一部追加
                                        2015年3月8日 「9.土蔵の壁画に描かれた場所はどこ?」の追加
                                        2015年3月12日 「東京案内」(昭和33年ごろ)の資料を追加
                                        2015年3月15日 「5.」の「二チレの山小屋」(角錐小屋)について
                                        2015年12月30日 「1.」の「麗杉荘」の読み方についての追加情報
                                        2016年1月1日・2日 「麗杉荘」の読み方について、一部修正
                                        2020年6月12日  1969年夏に撮影された土蔵の写真を追加
                                            2020年12月9日 土蔵の壁画の作者名は「伊藤義夫」であることが判明

1.廃村八丁の土蔵の壁画の描かれた年代と作者
2.在りし日の土蔵の姿の変遷
3.八丁の廃屋(分教場の先生の家など)
 (廃村八丁の見取図・変遷地図)
4.
八丁の廃屋(民家の外観・平面図・内部)
八丁の歴史(山論時代~土蔵の壁画の歴史) 

6.離村のきっかけとなった大雪の年代
7.八丁を語る文献等の紹介
 (インターネットサイトから)
8.「八丁山」の歴史(北桑田郡誌 近代篇)
 (参考地図、明治・大正期)
9.土蔵の壁画に描かれた場所はどこ?



1.廃村八丁の土蔵の壁画の描かれた年代と作者

 筆者が山歩きに親しむようになったのは、1987年(昭和62年)の夏で、八ヶ岳登山がきっかけとなっている。

 ガイドブックを購入し始めたのも、1987~8年(28歳頃)からである。

 従って、
山と高原地図(昭文社)を買ったのも、1987年が初めてであった。

 廃村八丁という、ノスタルジー(郷愁)を誘うような不思議な場所を紹介する
「京都北山2」(昭文社)の初めての購入は1988年であった。
 今も手元にある
1988年発行(6刷)の「京都北山2」は、購入当時すでに故人となっていた金久昌業の創設した北山クラブによる調査執筆にかかるもので、もちろん、廃村八丁が、廃村のロマンたっぷりに描かれて、紹介されている。

 (その後、古書店などで、「京都北山2」の1971年版、1972年版も入手した(初版は1969年発行であろう)。

 その廃村八丁のシンボルは、1988年当時、もちろん、写真に収録された
「白壁の土蔵」で貴重な観光資源であった。

 しかし、筆者が、その存在を知った1988年には、実は、白壁の土蔵は、崩壊寸前であったが、もちろん、その当時には、その状態を知るよしもなかった。

 有名なハイキングコースへ出かけるのに忙しく、廃村八丁は気になりつつも、交通の不便さについ後回しになってしまい、ようやく出かけることを決断したのは
1993年(平成5年)であった。

 1993年7月26日、降りた広河原の菅原町バス停から歩き始めて、ダンノ峠から刑部滝を経て、廃村八丁に入った。土蔵は崩壊しているとの情報は得ていたが、柱ぐらいは立っているものと期待していたが、残念ながら
「京都北山2」の小冊子に載せられていた土蔵の姿は跡形もなく、かろうじて柱の一部が井形になって横たわっているのみとなっていた。土蔵が見られなかったのは残念であった。もっと早い時期に訪問しておくべきであった。

 筆者は、かねてより、廃村八丁の土蔵の白壁の「東京のビル、富士山、ヨットに乗ってポーズしている水着姿の女性」を描いたのがいったい誰なのか、気になっていた。そこで、
2002年(平成14年)に、次のような投稿記事を書いたことがあった(文中の「銀座」は間違いなので注意。後の追記を参照のこと)。


新ハイキング関西63号(2002年3・4月)の「せせらぎ」の中の記事

(86ページ)
 廃村八丁にかつて、白壁の土蔵があったことは、あまりにも有名であるが、その白壁に描かれていた
銀座通りや水着美人の絵が、いつ、だれによるものかについてはほとんど知られていないようだ。

 
北山クラブ編『京都周辺の山々』(昭和41年)に、「土蔵の白壁の見事な落書」と題した高島屋付近の銀座通りの壁面の写真があり、「1957、9、26 YOSINO IT□」というサインが読み取れる(2との部分を支柱らしきものが隠している)。八丁が廃村になったのは昭和16年であるから、その16年後に描かれたことになる。

 昭和48年ごろには、土蔵の二階の板の間が仮泊に利用できたという。
『京都周辺の山々』(昭和57年)には、土蔵の側面の上部に、水着美人と富士山が写り、下側にはスター食堂といった文字通りの落書きが見える。

 
森本次男『京都北山と丹波高原』(昭和39年)では、「銀座・富士山・美人」の壁画の優秀さを称賛しているから、昭和32年に描かれたものに違いあるまい。その土蔵の写真には軒下の複数の支柱と側面の板・庇が見えるが、昭和57年頃の土蔵の写真(本誌4号)にはなく、朽ち果てたことがわかる。壁面の絵もかなり消えかけていて、その後、風化は急速に進み、昭和625月の某山岳部の報告では、土蔵は崩壊していたという。八丁名物だった白壁土蔵はもう写真でしか見ることができない。

 私が廃村八丁を初めて訪問したのは1993726のことで、土蔵は骨組みの残骸が残るだけであった。廃村八丁の土蔵が崩壊した正確な年代と、その壁画のサインのフルネームをご存知の方がいれば、ご教示いただければと思う。



この記事に対するリアクションはまったくなく、少なくとも、新ハイキング関西の読者の中に、落書きの作者について、ご存知の方はいなかったということになる。

この記事の中では、「YOSINO IT□」と読み取っていたが、どうも、姓が「よしの」ではないかと考えていたようだ。それで、IT□が不明であった。しかし、不鮮明な写真を、その後、何度もにらめっこして判読すると、「YOSHIO IT□」と読めることに気づいた。理由としては、二つ目の「O」の左が、やや左に傾いた「I」であり、二つ目の「O」の次の「I」も同じように左に傾いているので、書き方のくせが似ていること、「S」の次が「||」のように見えるが、横線が薄くなっていて、本当は「H」と思われたからである。したがって、YOSINO IT□」ではなく、「YOSHIO IT□」が妥当と考えるようになった。「IT」は、名ではなく、姓のほうとすれば、「ITO」としか考えられないということになる。

(2015年3月8日、追記)文中には、
土蔵の壁画の描かれた場所を「銀座」と紹介しているが、描かれた高島屋は東京・日本橋(にほんばし)にあるので、「日本橋」が正しい。銀座通り」は銀座1~8丁目の通りに限定されるので、「銀座通り」は間違いで、「日本橋通り」というのが正しいことになる。「中央通り」(上野~日本橋~京橋~銀座~新橋)の一部分が、「日本橋通り」(日本橋室町1丁目~日本橋~京橋)と「銀座通り」(銀座通り口~銀座8丁目)ということになる。

東京の地理に不案内な関西人によって、高島屋付近(日本橋通り)が「銀座通り」であるという誤解が生じた可能性が大いに考えられる。

(2015年3月10日、追記)文中の「昭和625月の某山岳部の報告」というのが、どこの山岳部のレポートなのか、今では引用元出典が見つからず、わからなくなっている。出典ではないが、次の報告があることを紹介しておく。

 春ののどけき廃村八丁  高井由美子  ・・・
崩れかけた土蔵の付近には10数名のパーティーが3組程来ており、このコースも随分ポピュラーになったものだと思う。・・・〔第3278回例会 4月19日(日) 参加者 高井夫(L)妻  ・・・ 以上14名〕 (『北山 第357号』北山クラブ会報、第31巻6月号、1987年5月18日発行、17~8ページ、第31巻227~8ページ)


 私のホームページの「山ものがたり」では、この63号の「せせらぎ」の記事を「廃村八丁の土蔵の落書きについて」というタイトルのみで紹介しているが、その記載を見た、愛知県在住の I さんから、壁画の作者について知りたいとのことで、記事の内容の問い合わせ(2012年11月21日)があり、上のような引用文および下の一覧表(年代表)データを知らせた(11月23日)ことがあった。その時は、作者名はまだ曖昧であったが、問い合わせをきっかけとして、再度、調べ直してみたところ、次のようにして判明することになった(ただし、壁画の作者名は、読み方だけが判明)。

北山クラブの会長、金久昌業(かねひさ まさなり)(1922-82)編集の『京都周辺の山々』(創元社、昭和52年第3版第1刷、昭和57年第3版第4刷)の215ページに次のようにある。北山クラブ会員の執筆と言うが、名文だ。たぶん、昭和51年以前ごろの様子を伝えるものだろう。 (もっとも、壁画の絵が、八丁人によって描かれたものと想像してイメージが膨らんでいるのは誤解を招く表現ではある。また「銀座通」「銀座の風景」というのも誤りで、正しくは「日本橋通り」「東京・日本橋の風景」とすべきであった。) 

「八丁を語るとき必ず登場する有名な壁画のある土蔵は、八丁川のほとりにひっそりと立っている。銀座通と水着美人の絵は風雪にさらされて下方より消えつつあるが、銀座の風景にも水着のファッションにも二昔ほどの星霜が感じられ、じっと眺めていると、これらの絵を通して滅びゆくころの八丁が、そしてさらには人々が生活を営んでいたころの八丁が、まぶたに浮んでくるようである」  


毎日新聞京都支局編『京の里 北山』(淡交新社、昭和41年)の76~78ページ、廃村八丁の記事中に、廃屋(土蔵)の写真があり、なんと、サインがフルネームで読み取れる! 

「195*.9.2  YOSHIO ITO」 

『京都周辺の山々』(創元社、昭和41年)の181ページでは次のように読み取れていた。 

「1957.9.(2?)6  YOSHIO IT 

上の二つをあわせると、サインは明白です。 

「1957.9.26 YOSHIO ITO」 

ついに、やっと、日付と作者名(ローマ字表記)が確定できたことになる。
 

(まとめ)
東京・日本橋通りの壁画の下に書き込まれた作者のものであろうサインは、その描かれた日付が、昭和32926日であること、作者の名前は、「いとう よしお」 であることが確定したということになる。私の推定が正しいことが『京の里 北山』で証明されたわけである。 

参考にした2冊の本は、同じ「昭和41年」発行であり、北山の本の毎日新聞京都版への連載は昭和405月開始なので、写っている土蔵の姿は、おそらく、どちらも昭和40年以前の撮影だろうと考えられる。 

さて、作者が「いとうよしお」さんと判明したが、いかなる人物なのであろうか? 

もし、何らかの形で活躍されている人物ならば、同定できる可能性はあるかもしれない。

なお、I さんから2012年12月10日に届いたメールによると、「心当たりを探したところ、作者が判明しました」とのことだった。


<作者が土蔵に壁画を描いたいきさつ>(禁無断転載)
 この壁画は1957年(昭和32年)秋に描いたものである。八丁周辺の杉材の伐り出し、運搬に、3ヶ月くらい従事していた。
廃村の倉庫(土蔵ではない)に寝泊まりしていたが、無聊(ぶりょう。退屈で何もすることがなく時間をもて余す状態)を慰める
ために、土蔵の壁面(漆喰塗りの純白)に絵を描くことを思いついた。昼休みを利用して都合1週間くらいかけて完成させた。
高い所なので、足場を掛けて、一人で描いた。筆は自家製で、シュロ皮を一旦ほぐして再び束ねたもので、材木の木口に
数字(直径)を書くために使っていたものである。
 描いた当時の現地での記念写真2枚が残っている(I さんから届いたメールに写真が添えられ、真実と確定できた)。
雑誌に壁画のことが載っていることを聞いた覚えはあるが、問い合わせを受けたことは今まで一切なかったという。


<土蔵の壁画の作者の記念写真(1957.9.26)>(禁無断転載)(2枚とも)
  


(筆者から)

描いたいきさつを紹介することは貴重な情報と思うので、お知らせしました。いきさつ・上記写真2枚の無断転載は禁止します。
なお、プライバシー保護のため、筆者にも実名(漢字表記)は知らされていませんでしたが、本人のご逝去(2018年)に伴い、2020年には、実名の公表が認められましたので、「伊藤義夫」(浜松市)であることをお知らせします。奥様からも「本人にとっても名誉なことなので、公表してもらって結構です」とのコメントを頂戴している。なお、電話帳には、本人の意向(その表記を好んだということ)によって、本名ではない「伊藤義雄」名義で記載されていることを申し添えておく(2020年12月9日、記)


(2015年2月28日、追記)
 その後、2015年1月に、北山クラブ会報『北山』の中の廃村八丁関係の記事を探していて、その第95号(1965年8月号)の中に、次のように、壁画の作者名を記載している箇所を見つけた。会報『北山』にある作者名を記した唯一の記事である。もちろん「マジック画」は勘違いである。「幻滅」「つり合わない」などと批判しつつも、「絵の腕前」を高く評価している。

・・・次に「あれですよ」という声と共に目に入ったのが、白壁に描かれた近代的マジック画である。1957.YOSHIO ITOのサイン入り。正に幻滅!本人は暇に任せて大画家気取りで描いたのかも知れないが、八丁にビルディングが建ち並んではつり合わない。これだけの腕があるのならもう少し山男らしい気のきいた落書きをして欲しい。でもそれにしてもよくもまあこれだけ描いたものだ。とおかしなところで妥協し自分を納得させる。(中島弘美) 〔第570回例会 1965年6月27日 参加者3名〕
(『北山 第95号』北山クラブ会報、第9巻8月号、1965年7月26日発行、2~4ページ、第9巻203~5ページ)



 廃村八丁新緑ハイキング報告(2001年6月3日)には、土蔵の壁画の作者について想像をめぐらせた次のようなコメントがある。

 1964年発行の山と渓谷社の「京都北山と丹波高原」(森本次男著)によると、廃村八丁に人が住み始めたのがいつ頃からかは分からないが、明治維新で山林の所有権が不明になった機会に5人の発起人が明治新政府に働きかけ、明治5年に村有とした。村には分教場もあり先生も住み込んでいたが、昭和8年の豪雪で極端な食料不足となり離村したという。
 この本にも、10年ほど前に買った昭文社の登山地図「北山2」の解説にも、廃村八丁に1軒だけ残った建造物である土蔵の写真がある。その土蔵の白壁一面に銀座4丁目の風景らしい精密な壁画が描かれている。地面からは手の届かない高さに明らかにわざわざ足場を組んで描かれた、縦2メートル以上、横4メートル以上もある本格的な壁画である。
 10年前の写真では風雨のためか36年前の風景の下半分が既に消えてしまっている。
こんな人里離れた山奥に精密な銀座風景をはめ込むという不思議なことを考えたのはどんな人だったのか。この壁画が見たかったが、来るのが遅すぎた。土蔵の跡と思われるところには低い石垣と朽ちた廃材が残るのみであった。    (引用者注記) 銀座4丁目は間違いで、「日本橋2・3丁目」である。


<土蔵の絵に対する誤解について>

 北川裕久『ワンデルングガイドⅢ 京都北山』(岳洋社、昭和60年)の144ページには、土蔵の写真に「八丁人の悲哀が偲ばれる土蔵」という説明があり、本文には「土蔵に残るものといえば、八丁人によって描かれた銀座通りの絵と富士山、そして水着美人の絵だけである」とある。
 
 この文章は、土蔵の絵が、八丁で暮らしていた人によって描かれたものと考えていることになるが、実際には、八丁人の離村(昭和9年3月~昭和16年)より、かなり後の1957年(昭和32年)9月に描かれたものであり、八丁人とは無関係である。

 この他にも、逢魔が時物語 第十四夜「八丁廃村」 に同様の誤解が次のように見られる。
 
逢魔が時物語  -本当にあった恐い話・不思議な話-  第十四夜  「八丁廃村」**** 99/04/24号 めざせ週刊 *

<逢魔が時物語からのメッセージ>
・・・逢魔が時物語の「読者の体験談」で、紹介させていただきます。では、気をつけて逢魔が時に足を踏み入れて下さい。   執筆・雲谷斎

 第十四夜 八丁廃村
・・・ただ、八丁廃村が登山者の間で人気があるのは、感傷と自然だけが残されているからだけではない。じつは、朽ち果てる寸前の土蔵が、往時の暮らしの語り部のようにポツンと残っていることも一因になっている。そして、土蔵の中の壁には、昔の銀座の風景が彩色あざやかに描かれている。場違いといえば、あまりにも場違いな絵。柳並木の街には路面電車が走り、華やかなよき時代の銀座が封印されているのである。いつ、だれが、描いたのだろうか・・。深山の廃村の土蔵に描かれた壁絵の違和感が、逆に好奇の的となり、その絵を見るためにこの山に登る者もいるほどだった。

推測すれば、村人の誰かが、かつて行ったことのある帝都、銀座の華やかな印象を土蔵の壁に密かに描くことで、あまりにも寂しい山奥での暮らしの慰めにしていたのかも知れない。しかし、銀座の華やかさが際立てば際立つほど、ここに住んでいた人たちの物悲しさがうかがい知れるような気がして、だんだん気分がやりきれなくなるのである。

八丁廃村を訪れる人は、ほとんどが昼食のあと、そそくさと下山してしまう。村はずれの薄暗い木立の奥にはズラリとお墓が並び、廃村を立ち去る登山者をうらめしげに見送っているかのようである。この廃村の真ん中に、ポッカリと草の空き地がある。さんさんと陽が射し、野鳥の声とせせらぎの音が聞こえ、緑の森に囲まれた別天地である。しかし、なぜか、ここでキャンプをする者がいないのだ。こんなに気分のいい所なのに・・。なぜだろう。・・・

 まあ、これは、怪談風の物語なので、その中での単なる推測に過ぎないのだが、実際に、土蔵の絵を見ていたら、1957年に描かれたことがわかるはずである。それはさておき、土蔵に泊まった人がどのような体験をしたのかは、逢魔が時物語 第十四夜「八丁廃村」You Tubeでお確かめくださいませ。

  (→本サイトの「9.土蔵の壁画に描かれた場所はどこ?」も参照のこと)(文中の「銀座」は正しくは「東京・日本橋」である。)


<土蔵の絵を紹介した森本次男と金久昌業について>

森本次男(もりもと つぎお)(1899-1965) 登山家、教諭  北大山岳部「47樹林の山旅 森本次男」
 1899(明治32)年2月8日、群馬県前橋市の猪谷家に生まれた。スキーの先駆者の猪谷六合雄(いがや くにお)(1890‐1986)猪谷六合雄(Wikipedia)は従兄にあたる。父は乃木大将の副官を務めたという軍人で、後年、大日本奉徳会会長になって京都に移住する。1912(明治45)年4月、早稲田中学入学。京都移住に伴い、中学四年の時、京都府立第三中学校(現・山城高校)にかわり、1917(大正6)年3月卒業。山歩きが好きで、山岳部などのない頃(中学時代)から山を歩く。1922(大正11)年3月に京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)を卒業。1922年6月、兵庫県立神戸商業学校教諭となる。1923(大正12)年2月、京都府男山八幡宮宮司の森本家に入籍。1923年4月、京都市立第二商業学校(現・京都市立西京高校)教諭になり、物理・化学を教える。1962(昭和37)年3月に定年になるまで同校で勤めた。京二商では山岳部長をずっと続け、勤務の傍ら、京都北山、奥美濃の藪山など近畿の山を中心に登山を行い、後進の指導に尽くした。1928(昭和3)年9月以来の日本山岳会会員で、1942(昭和17)年には終身会員となった。京都北山に精通し、1935(昭和10)年9月、京都北山の直谷(すぎたに、すぎだに、すぐたに、すぐだに、すぎだん、すぐだん、すぐたん、すんだん)に、麗杉荘(れいざんそう)二ノ瀬ユリ道(麗杉荘) 山城五十山(麗杉荘)を建て、“麗杉荘の会”を結成し、同校山岳部の「北山課程(北山スクール)」の拠点とした。その教え子には、住友山岳会で活躍した塚田三郎や京都府山岳連盟会長であった小谷隆一(1924‐2006)らがいる。1936(昭和11)年6月、登山雑誌「関西山小屋」(朋文堂版)を発行すると共に、関西山小屋倶楽部・京都部会を創立し、1941(昭和16)年に京都山小屋倶楽部と改称。1936年12月、京都青年山岳同盟を創立(1940年12月解散)。1943(昭和18)年には京都山小屋倶楽部が京都山岳会と合併すると、その初代会長となった。1947(昭和22)年、国民体育大会復活を機会に京都山岳協会を結成し、委員長(会長)に就任。1948(昭和23)年7月、京都府山岳連盟〔京都岳連〕と改称し、副会長(会長は今西錦司)を務めるなど、京都の山岳界を代表する人物だった(1950年以降は京都岳連顧問となる)。戦後の1950(昭和25)年の名古屋国体登山部門が鈴鹿で行われたとき、山と渓谷誌や岳人などに鈴鹿のことも載せている。山岳紀行や随筆、旅行記、案内書など十冊にのぼる著作がある。1965(昭和40)年11月26日、66歳で病死(胃がん)するが、その没後一周年の1966(昭和41)年11月27日、ゆかりの麗杉荘前庭に佐藤久朗作レリーフが設けられた。その碑文には「京都岳派の先蹤者を記念して之を建てる」と記されている。そのレリーフは一時、破損して撤去されていたが、2001(平成13)年9月に、京都市左京区花脊にある「山村都市交流の森」に移設された。小谷隆一は「いつまでも北山の父として、山登りを学ぶ私たちの幸せを見守っていただきたい」と述べている(小谷隆一「パイオニアたちの思い出 森本次男」、『ヤマケイ関西 京都北山・比良山』別冊山と渓谷、2002年5月、96~97頁)。 山城五十山(森本次男レリーフ)
          
 雪の麗杉荘と荘内に於ける著者(「京都北山と丹波高原」1938年、口絵) 
森本次男(「京都北山と丹波高原」1965年2版、奥付)

1938(昭和13)年に、ガイドブック「京都北山と丹波高原」(朋文堂)を出版し、多くの登山者に利用され、名著として知られる。1944(昭和19)年には、改訂版が出され、初版と合わせた発行部数は1万部を越えたという。著書としては、他に「樹林の山旅」(1940、朋文堂)、「山の言葉」(1942、朋文堂)、「山・旅・人」(1948、蘭書房)、「木曽路の旅」(1962、山と渓谷社)があり、その中で、奥美濃の山行随想である「樹林の山旅」は名著として知られ、氏の代表作である。他のガイドブックとしては「京都を繞(めぐ)る山々」(1942、京阪電気鉄道株式会社)、「ハイカーの径 第4輯ノ一 京都附近の山(東山・西山篇)」(1949、宝書房)、「比良連峰」(1961、山と渓谷社)がある。「京都北山と丹波高原」(1964 初版、山と渓谷社)は全く内容を書き改めた新版であり、戦前版同様に詩情にあふれた名著として、登山者に利用されたが、装丁を新たにした同書の2版(1965) が出たあと半年で著者は亡くなった。「白川郷の旅」(「越飛文化」第十二号、昭和40年12月発行、富山県東礪波郡利賀村坂上 西勝寺内 越飛文化研究会)(『復刻 樹林の山旅』付録に収録)が絶筆となった。随筆集の「山と漂」(1940、朋文堂)、「山の風景」(1948、蘭書房)は、ペンネームの朝史門(尊敬するイギリスのアーサー・シモンズのもじり)名義で出版している。 山を歩いて考えること(朝史門)   アーサー・シモンズ(1865-1945)(Wikipedia)イギリスの象徴派詩人・翻訳家・文芸批評家・雑誌編集者  (※『復刻 樹林の山旅』の付録38・54頁に、朝史門はアーサー・シモンズのもじりであることが明確に述べられている。昭和4年ごろから使用という。)

(参考文献:『復刻 樹林の山旅』復刻及解題・付録、1978年、サンブライト出版、付録頁)

(参考文献:斎藤清明『京の北山ものがたり』1992年、松籟社、154~5頁)
参考文献:『ヤマケイ関西 京都北山・比良山』別冊山と渓谷、2002年5月、山と渓谷社、53、59、91~93、96~97頁
(参考文献:中村圭志「森本次男と麗杉荘」、『ヤマケイ関西 京都北山』2003年11月、山と渓谷社、118~9頁所収)・・・「アーサー・シモンズをまねて」とある。

※『京都周辺の山々』(初版・第2版)には、「麗杉荘(れいさんそう)」「直(すぎ)谷」とある。『京都周辺の山々』(第3版)には「麗杉(れいさん)荘」「直谷の読み方を雲ガ畑や二ノ瀬の里人に聞いたところ、「すぎだん」「すぐだん」「すんだん」といろいろであった」とある。

※森本氏と身近に接した人たち(金久昌業、阿部恒夫など)は、「れいさんそう」の読み方を採用していることがわかる。
  次のように「れいさんそう」のふりがなが見える。「杉」は一般的に「さん」と読む。しかし、これは妥当な読み方なのだろうか?
○金久昌業『京都周辺の山々』1966年、創元社、121頁・・・「麗杉荘(れいさんそう)」
○阿部恒夫「樹林の山旅 解題」(『復刻 樹林の山旅』復刻及解題・付録、1978年、サンブライト出版)付録の50頁;155頁(年譜)・・・「麗杉荘(れいさんそう)」

○斎藤清明『京の北山ものがたり』1992年、松籟社、141頁・・・「麗杉(れいさん)荘」
○内田嘉弘「魚谷山」(『京都府の山』新・分県登山ガイド[改訂版]、山と渓谷社、2008年)74頁・・・・「麗杉荘(れいさんそう)」


※上のような資料の存在にもかかわらず、現地で「麗杉荘」の入り口には「REI ZAN SOU」の表示がある。そのため、広く「れいざんそう」と呼ばれている。ただし、森本氏自身は、新旧の『京都北山と丹波高原』では、ルビを付していない。それが食い違いの生じた原因のように思われる。このローマ字表記は森本氏自身による呼び方なのだろうか。次の本では、「れいざんそう」となっている。
○北川裕久『京都北山』(ワンデルングガイドⅢ、1985年、岳洋社)28頁・・・「麗杉(れいざん)荘」
○中村圭志「森本次男と麗杉荘」(『ヤマケイ関西 京都北山』2003年11月、山と渓谷社)118頁・・・「麗杉(れいざん)荘」


  ← 森本次男レリーフ(佐藤久一朗製作)(『復刻 樹林の山旅』より)
魚谷山 より

[ REI ZAN SOU ] の表示は、金久昌業・阿部恒夫・斎藤清明たちの読み方(れいさんそう)と異なるが、なぜ? 


(2015年12月30日、追記) 『麗杉荘の読み方は「れいざんそう」が正しい』 (最終の結論)
ホームページ「山城五十山」の「4.8貴船山と魚谷山」および
「7.京都北山登山の変遷」には、「れいざんそう」とあるので、
その筆者である上西勝也(うえにし・かつや)氏に2015年10月8日に、メールで問い合わせてみたところ、10月9日に、
次のような貴重な返答を得ることができた。これによって、「れいさんそう」は誤読であり、「れいざんそう」が正しいと確信
することができた。

「お問い合わせをいただきありがとうございました。
わたしは60年以上前から北山歩きをしておりますが、麗杉荘は「れいざんそう」としており「れいさんそう」というのは
聞いたことがない
ため、今回、問題提起をお聞きするまで、考えたこともありませんでした。

問題は森本次男さんがどのように呼んでおられたかです。わたしの手持ちの資料で麗杉荘と記述されたものは

森本次男「京都北山と丹波高原」 朋文堂 1938

が最も古いのですが、ルビがないためどのように呼んでいたかは不明です。

しかし森本さんの京都二商時代の弟子、山岳部員であり麗杉荘をよく利用された小谷さんのご著作

小谷隆一「山なみ帖」 茗渓堂 1981

p64~「京都北山 森本次男先生を偲んで」には麗杉荘のふりがなが「れいざんそう」になっており「ざ」と濁っています。

以上がとりあえず調べたところです。

また国語上の読みとしては比叡山(ひえいざん)のように「い」のつぎの「さ」は濁り「ざ」となることが多いようです。
森本さんご自身かあるいは当時の京都二商山岳部の記録がみつかればいいのですが・・・。

また「谷」については「××谷」は京都ではかつて「××たん」と発音していることが多かったように思います。
直谷は「すぐたに」または「すぐたん」と呼んでいました。

なお京都二商の後継は現在、京都市立西京高等学校になっておりますが山岳部はないと思います。
小屋も放置されたままではないでしょうか。

上西 勝也


※上西氏の指摘を受けて、小谷隆一『山なみ帖』(茗溪堂、1981年)の64頁を調べると、「京都北山 森本次男先生を偲んで」
という随筆(62~65頁、1967年1月)があり、64頁には「麗杉荘」に対して、
明確に、「れいざんそう」のルビがついている。
小谷隆一氏は、森本氏の教え子の一人であり、最も身近に接した人であるので、「れいざんそう」で間違いあるまい。なお、直谷
の読み方について、上西氏は「山城五十山」の文中では
「すぎたに」「すぐたに」と記していることも書き添えておきたい。


※念のため、小谷隆一『山なみ帖 その後』(茗溪堂、2008年)調べてみたところ、「森本次男先生のこと」(46~50頁)があり、
その47頁の「麗杉荘」に対して、「れいざんそう」のルビがあり、50頁に「麗杉荘」の写真もある。著者の小谷氏が2006年3月に
他界したあとの遺稿集とはいえ、内容には細心の注意が払われているものと思います。

※不思議なのは、森本氏と交流のあった金久氏、阿部氏のご両人が、なぜ「れいさんそう」と間違えたのか、という点であろう。
あるいは、単純なミスに過ぎないのかもしれない。斎藤氏、内田氏はご両人に従っただけなのだろう。
それにしても、「おさわがせ」である。私(柴田)自身も、存在しないはずの疑問に振り回された被害者というべきであろうか?




(森本次男レリーフ碑文)(『復刻 樹林の山旅』より)

     
森本次男先生(1899-1965)

 京都二商山岳部々長 西京高校山岳部々長
 京都山岳会及京都府山岳連盟初代会長

「 京都北山と丹波高原 」を始め 数多くの著書による先
生の精神的遺産は大きい 此處は北山課程(スクール)
の誕生地で 是等のヤブ山は ヒマラヤの峯に連なつてい
る  ” テラ・インコグニタ ” ( 知られざる土地 ) の偉大
な開拓者で 京都岳派の先蹤者を記念して之を建てる
     (1966年11月26日 一周忌に當たり)
                          松浦勇次書


           
付録50頁(「樹林の山旅 解題」阿部恒夫)            付録39頁・38頁(座談会『樹林の山旅』をめぐって、杉之原毬子・塚田三郎・小谷隆一・阿部恒夫)
(出典:『復刻 樹林の山旅』 復刻 及 解題・付録、1978年、サンブライト出版)



金久昌業(かねひさ まさなり)(1922~82)大正11年2月16日、京都で生まれ、京都で育つ。小さい頃から体が弱く、柔道・剣道をやらされ、日曜日は山へ連れていかれたため、だんだん山が好きになり、京都一中時代より京都の北山を好み、一人でよく北山に入る。学校に行き、京都一中の山小屋(北山荘)に泊り、また学校へ行っていた。1957(昭和32)年9月、北山クラブを創設し、会長(代表)として、後進の指導にあたる。京都北山を中心に鈴鹿、奥美濃、中国山地などに足を延ばす。月刊会報「北山」のほか、『京都北山レポート集Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(北山クラブ著)を発行。北山の好きな人なら誰でも入会でき、自由な山行をクラブの主旨とした。北山に関して調査や執筆を依頼されるので文筆を業とした。生涯ずっと京都北山を愛し続け、1982(昭和57)年2月16日、永眠。著書としては、以下のものがある。『京都周辺の山々』『京都北山(一)(二)』は多くの登山者に利用され、『北山の峠』は名著として知られる。『京都北山(一)』(昭和42年6月初版)の著者略歴に「十二支会会員。職業出版業。年令44才。」とあった。町では着物を着ていたが、山では、カッターシャツや背広姿であった。金久千津子が、夫のあとを継ぎ、北山クラブ代表となった(2011年3月を以て、北山クラブは閉会した)。なお、病気になった森本次男と一番最後にしゃべったのは、金久夫妻であったという(「北山クラブ創設者・金久昌業のこと」、『ヤマケイ関西 京都北山・比良山』53頁)

北山クラブ著『京都北山レポート集Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(北山クラブ出版部、昭和36年、38年、42年)
北山クラブ編『京都周辺の山々』(創元社、昭和41年初版)(昭和45年第2版)
金久昌業調査執筆『京都北山(一)』(昭文社、山と高原地図、昭和42年初版)(昭和47年第7刷)
金久昌業調査執筆『京都北山(二)』(昭文社、山と高原地図、昭和44年初版)(昭和46年第3刷)(昭和47年第4刷)
京都市都市開発局著『野外活動からみた京都北山 : キャンプ適地調査報告』(京都市都市開発局発行、昭和45年)
金久昌業著『関西ベストハイキング』(実業之日本社、ブルーガイドブックス、昭和47年)
金久昌業著『京都北部の山々 丹波・丹後・若狭・近江』(創元社、昭和48年)
金久昌業編『京都周辺の山々』(創元社、昭和52年第3版)
金久昌業著
『北山の峠(上)(中)(下)』(ナカニシヤ出版、昭和53年、54年、55年)


(参考文献:金久千津子「北山クラブ創設者・金久昌業のこと」、『ヤマケイ関西 京都北山・比良山』別冊山と渓谷、2002年5月、山と渓谷社、51~53頁)
(参考文献:中村圭志「金久昌業と北山クラブ」、『ヤマケイ関西 京都北山』2003年11月、山と渓谷社、120~1頁所収)

                           
金久昌業(『京都北山(一)』1967年初版、小冊子43頁)         
金久昌業(『京都北山(二)』1969年初版、小冊子46頁)
 


(2015年3月3日、追記)  北山クラブの会報(全642号)について
 北山クラブは、1957年9月22日、当時35歳の金久昌業氏によって設立され、その会報第1号は1957年10月1日に発刊された。以後、会報は毎月、すべてガリ版の謄写版印刷で欠かさずに発行され、55年間に5174回もの例会が企画された。最後の会報は第55巻の3冊目、第642号で、2011年2月20日に発刊された(3月号)。北山クラブ会報『北山』の概要は、北山クラブ編『北山に入る日 京都北山の詩人・金久昌業のことば』(2014年2月16日、北山クラブ発行、税込2100円、品切)に紹介されており、会報の1~642号の全冊は、京都府立総合資料館に所蔵されていて、誰でも参照することができる。閲覧の際は、1~642号の号数で指定するとよい。所蔵形態は、12号分を1冊に綴じたものが多いが、6号分を1冊に綴じたもの、1号分ずつ単独になっているものもある。
 なお、『北山に入る日 京都北山の詩人・金久昌業のことば』は金久昌業氏の構想していた著作の内容を「覚え書」に基づいて紹介したもので、「最後の著書」に等しいものである。発刊後1年を経過し、在庫がなくなり、増刷予定もないので入手は難しいが、京都府立総合資料館で閲覧することができる。

『北山』(北山クラブ会報)・・・全55巻、全642号
第1巻 第1号(1957年10月号)~第3号(1957年12月号)
第2巻 第4号(1958年1月号)~第15号(1958年12月号)・・・・・発行(1957年12月~1958年11月)・・・・・1957・58年発行
第3巻(1959)16~27号
第4巻(1960)28~39号・・・・以下、1年分ずつを、「4(1960)28~」のように略記。
5(1961)40~、6(1962)52~、7(1963)64~、8(1964)76~、9(1965)88~、10(1966)100~、11(1967)112~、
12(1968)124~、13(1969)136~、14(1970)148~、15(1971)160~、16(1972)172~、17(1973)184~、
18(1974)196~、19(1975)208~、20(1976)220~、21(1977)232~、22(1978)244~、23(1979)256~、
24(1980)268~、25(1981)280~、26(1982)292~、27(1983)304~、28(1984)316~、29(1985)328~、
30(1986)340~、31(1987)352~、32(1988)364~、33(1989)376~、34(1990)388~、35(1991)400~、
36(1992)412~、37(1993)424~、38(1994)436~、39(1995)448~、40(1996)460~、41(1997)472~、
42(1998)484~、43(1999)496~、44(2000)508~、45(2001)520~、46(2002)532~、47(2003)544~、
48(2004)556~、49(2005)568~、50(2006)580~、51(2007)592~、52(2008)604~、53(2009)616~、
第54巻(2010)628~639号
第55巻 第640号(2011年1月号)~第642号(2011年3月号)・・・発行(2010年12月~2011年2月)




2.在りし日の土蔵の姿の変遷    

 (筆者からのお願い)
※ 目的が「土蔵の姿の変遷を追う」ためのものなので、文のみでは資料不足であり、書籍とインターネットサイトからの引用多数ですが、すべて出典を明示しており、転載をご理解ください。
※ 写真撮影の年代が明示されないものが多く、掲載文献の発行年の1~3年前ごろを年代推定の根拠としたので、間違っている可能性があるので注意されたい。

★八丁の土蔵に壁画が描かれていない時代の写真を見たことがない。
  壁画が描かれる前の土蔵はどこでも見られるような姿であったからであろう。


★1957年(昭和32年)秋に、廃村八丁に残された土蔵の白壁に壁画が描かれた★
  (一週間を要した。完成したのは、サインにあるとおり、9月26日であろう。)
  (作者は、現地で杉材の伐り出しと運搬に従事していた、いとうよしお氏である。)
  (描いて完成したときの記念写真2枚は、先に紹介したとおりである。)

  これ以降、八丁の土蔵は名所的存在となっていく。とりわけ、森本次男(1899~1965)氏
  北山クラブ(昭和32年9月22日、金久昌業(1922~82)氏が創設)による土蔵の壁画の紹介が
  多くの人々を八丁に誘うことになるのである。

  ※北山クラブの創設は昭和32年9月22日、廃村八丁の土蔵の壁画の作画は昭和32年9月20日~26日頃であり、ほぼ同時である。
   まったくの偶然ではあるが、象徴的な出来事として、たいへん興味深い事実である。 



1961年(昭和36年)
出典:小林譲(フォト&ガイド)「フォトガイド/43丹波高原・廃村八丁」
    (『ハイカー』(特集/近畿の山・志賀高原)昭和36年10月号、通巻72号、山と渓谷社、60~63ページ)の62ページ掲載写真

※2015年1月、「日本の古本屋」で「近畿の山」を検索していて見つけた「ハイカー」72号を入手してみると、何と、廃村八丁の昭和36年当時の記事が掲載されていて、しかも、貴重な珍しい写真が掲載され、当時の廃村八丁の家屋残存状況を知ることができた。森本次男氏によって昭和39年に著書で紹介されるよりも早い時期の「土蔵の壁画」の紹介であることが貴重である。とりわけ、軒続きの部分や小屋などの様子は、この写真でしか、うかがい知れないので、とても興味深い。現在から53年以上前の土蔵の姿である。ちなみに筆者(柴田)は、昭和36年10月末に2才なのである。

※国会図書館の「廃村八丁」のキーワード検索では、「山と渓谷」「岳人」の記事が見つけられるが、この「ハイカー」(国会図書館所蔵)の記事は紹介されていない。国会図書館にあるので、複写も申し込めるはずである。

※「ハイカー」は山と渓谷社が編集・発行していた雑誌で、1955年(昭和30年)4月に創刊1号を発行し、1971年(昭和46年)3月に終刊185号となり、翌月には「日本と世界の旅」と名前を変えて186号が出て継続されたが、1974年(昭和49年)3月の221号まで出して廃刊となった。185号での終刊当時、筆者(柴田)は小5であり、書店で並ぶ雑誌を見たことはなく、最近まで「ハイカー」という雑誌の存在も知らなかった(以前、何となく聞いたような記憶はあるが)。


※手前に支柱が7本見える。
1962年(昭和37年)以前
         出典:森本次男『京都北山と丹波高原』(山と渓谷社、昭和39年初版、昭和40年2版)65ページ



1962年(昭和37年)以前                 ※原書では、壁画の作者のサインが読みとれる。  ※支柱は6本である。
             出典:毎日新聞京都支局編『京の里 北山』(淡交新社、昭和41年)76~77ページ




1962年(昭和37年)以前         ※壁画の作者のサインが読みとれる。上記書と併せると、1957.9.26 YOSHIO ITO である。
      出典:北山クラブ編『京都周辺の山々』(創元社、昭和41年4月、初版第1刷)(昭和44年7月、初版第7刷)181ページ



1963年(昭和38年)ごろ撮影1999年4月 廃村八丁の歴史を訪ねて記載年代)(撮影:津田昭二)  ※支柱は4本である。

 出典:中島暢太郎監修・京都地学教育研究会編『新・京都自然紀行』(人文書院、1999年)155ページ



1968年(昭和43年)以前                          ※支柱1本が見える。

   出典:金久昌業『京都北山2』(昭文社、昭和44年初刷、昭和46年第3刷、昭和47年第4刷)小冊子12ページ

     
1968年(昭和43年)以前                           ※支柱1本が見える。
              出典:塩見昇『峠と杉と地蔵さん』(教育史料出版会、2011年)23ページ

    ※出典には、1959年当時の写真とあるが、他の写真との比較から判断すれば、明らかに違う。






1969年(昭和44年)夏撮影






1969年(昭和44年)以前                     ※上の塩見氏の写真の状態より少し後と思われる。
                                       「スター食堂」「別荘」といった新しい落書きが見える。

出典:北山クラブ編『京都周辺の山々』(創元社、昭和45年8月、第2版第1刷)(昭和48年4月、第2版第4刷)181ページ



1972年(昭和47年)以前
  出典:金久昌業『京都北部の山々 丹波・丹後・若狭・近江』(創元社、昭和48年)87ページ 



1973年(昭和48年)以前
                     出典:『京北町誌』(京北町、昭和50年)501ページ



1973年(昭和48年)以前

    出典:京都趣味登山会編『京都 滋賀 近郊の山を歩く』(京都新聞社、1998年)43ページ



1974年(昭和49年)5月撮影
   2002年8月 ボタリング危機一髪



1974年12月(昭和49年12月)と推定   写真(撮影:高田収)

   出典:高田収「YAMAKEI WEEKEND PACK ⑫ 北山・廃村八丁(雪の北山杉と歴史の峠路)」
       (『山と渓谷』1975年12月号、山と渓谷社) 折込カラーページの一部より




1976年(昭和51年)以前    口絵写真(撮影:森川莫臣)

   出典:金久昌業『京都周辺の山々』(創元社、昭和52年、第3版第1刷) 
      (第3版)・・・・・・第2刷(昭和53年)、第3刷(昭和56年)、第4刷(昭和57年)、第5刷(昭和58年)、第6刷(昭和61年)




1977年(昭和52年)以前                            (撮影:北川裕久)

     出典:梶良行「山越え、谷越え、豪雪に消えた最奥の集落へ 廃村八丁」の記事に掲載の写真
         (別冊山と渓谷 『ヤマケイ関西』No.2, 2002:「京都北山・比良山」山と渓谷社、2002.5.16発行、p.45-47所収)

     ※左右の一部をカットした同一の写真が、上記別冊の編集新版である『ヤマケイ関西ブックス 京都北山』(2003年)の8頁にある。

※記事では廃村八丁の元住人、菅原町の本田愛子さんの話を紹介している。その家は八丁のスモモ谷の入口にあった小学校を昭和17年に移したものと話したという。ただし、1996年2月発行の北山クラブ会報『北山 462号』の中の会員の記事によれば、1996年1月13日に菅原の最奥の民家で話を聞いた雪おろしのおばさんとは本田愛子さんと考えられ、その話によると、昔八丁にあった小学校の建物は家の横の二階だての物置小屋だという。そこでは牛を飼ったこともあったという。従って、家の母屋ではないことがわかる。

※記事には、京北町教育委員会編集の『八丁の歴史』による歴史の紹介もある。梶氏は京都バスで平成8年の京都北山三角点トレック開始時より事務局を担当。なお、京北町教育委員会編集の『八丁の歴史』に該当する文献は見当たらないので、何らかの錯誤が考えられる。『京北町誌』(京北町、昭和50年)の記述を指しているのかもしれない。



1978年(昭和53年)撮影
              出典:井垣章二『峠の地蔵 京都北山に捧ぐ』(ミネルヴァ書房、2006年)133ページ




1979年(昭和54年)ごろ

   出典:北山クラブ『京都北山2』(昭文社、1988<昭和63>年第6刷)小冊子14ページ

        北山クラブ『京都北山2』(昭文社、2002<平成14>年第22刷)小冊子14ページ
   (小冊子14ページの土蔵の写真は1988年版~2002年版すべて同一である。初版は1983年であろうか。)



1979年(昭和54年)撮影      2010年10月 りつめい探検 廃村八丁



1980年(昭和55年)11月27日撮影(メールにて撮影者に訪問日を確認済み) 出典:京都北山(工事中)



1982年(昭和57年)ごろ撮影
       出典:北川裕久『ワンデルングガイドⅢ 京都北山』(岳洋社、昭和60年)144ページ

    ※北山フォトクラブ「京都 北山を歩く<5> ―八丁の名滝・刑部滝と伝説を秘めた衣懸坂―」
      (『ワンデルング』1983年8月号、1巻5号、岳洋社、52~55ページ)の54ページの土蔵写真も同一のもの。
      
    ※『ワンデルング』は1983年4月号~1984年3月号まで1年間12冊、大阪の岳洋社から発行された山の月刊誌。
     西日本(中部・近畿・四国・中国・九州)を中心に紹介し、とりわけ、近畿地方を中心とする岳人・ハイカー向け雑誌。
     この雑誌は日本体育大学図書館(世田谷区)に所蔵されており、複写は公共図書館を通じて依頼すれば入手可能。



1982年(昭和57年)ごろ撮影
   「有名な土蔵も、ところどころ朽ちかけ、銀座の絵も消えかかっている」
出典:北川裕久(文と写真)「廃村八丁から衣懸坂峠」(『山と渓谷』1987年3月号、154~5ページ)155ページの写真



1984年(昭和59年)5月撮影   2007年12月 廃村八丁登山(3)
  2007年10月 品谷山2-3



1984年(昭和59年)5月撮影 (裏側) 
   2007年12月 廃村八丁登山(3)



1984年(昭和59年)5月撮影(土蔵の内側の壁画)
 2007年12月 廃村八丁登山(3)




1985年(昭和60年)ごろ?
出典:日本勤労者山岳連盟編『みんなの山歩き 大阪周辺②』(ハイカーズBOOKS、協同出版、昭和60年10月5日発行)125ページ


1988年(昭和63年)4月  崩壊寸前の土蔵
        出典:塩見昇『峠と杉と地蔵さん』(教育史料出版会、2011年)23ページ



1988年(昭和63年)ごろ               ※右側が上の塩見氏の写真とよく似ている。
               出典:澤潔『京都北山を歩く③』(ナカニシヤ出版、平成3年)154ページ


1989年(平成元年)以前 (裏側)   廃村八丁の象徴、崩壊寸前の土蔵
 出典:鈴木元・綱本逸雄編『ベスト・ハイク 京滋の山』(かもがわ出版、1990年)101ページ


  
1990年(平成2年)以前 (裏側)

  出典:斎藤清明『京の北山ものがたり』(松籟社、1992年)109ページ



1990年(平成2年)   「廃村八丁のランドマーク。崩れかけた白壁の土蔵」
  出典:岳人編集部・編『すぐ役立つ 四季の山 西日本70コース』(東京新聞出版局、1994年)14ページ (記事:生地正幸)

  
※生地正幸「丹波高原・廃村八丁」(『岳人』1991年4月号、通巻526号、所収)の記事をそのまま掲載したのが上記出典である。
    
この雑誌のほうの記事には、上の写真とほぼ同じ(フレームが広いだけ)写真「廃村八丁のくずれかけた白壁の土蔵」が掲載されている。



★京都市下京区在住の向笠(むかさ)氏の廃村八丁訪問記録より(2014年7月22日に受け取ったメールの情報によるもの)
   
「私が初めて
廃村八丁を訪れましたのが1991年(平成3年)10月30日(水)で、この時は確かに土蔵はありましたといっても南側の壁は崩れて倒壊寸前といった感じでしたが、傾きはありませんでした。内部は荒れていて気味が悪く、とても入る気にはなりませんでした。」

  
  1991年(平成3年)10月30日、向笠氏撮影


廃村八丁の再訪は1992年(平成4年)6月6日(土)でしたが、このとき土蔵はすでに倒壊しておりまして、とても驚きました。このときの様子は、土蔵が西側の入り口から東側に倒れ込んだ形でしたから、おそらく強い西風に押されて倒壊したのだと思いました。ただ、昨日今日倒壊したのではなく、倒壊してから少し時間がたっているようでしたので、冬の強風で倒壊したものと思いました。」


 1992年(平成4年)6月6日、向笠氏撮影


★従って、
1991年(平成3年)11月~1992年(平成4年)5月の間(おそらく冬季)に、土蔵は崩れ落ちたものと思われる★


  (読者へのお願い)平成3年11月~4年5月ごろの土蔵の崩壊の進行状況を記録に残している方がおられましたら、情報をお寄せください。

              メールは、トップページの ものがたり通信 からよろしくお願いします。


★1993年(平成5年)7月26日、筆者が廃村八丁を初めて訪問した。
    土蔵は完全に崩壊し、骨組みの材木の残骸が残るのみであった。


   
  2002年(平成14年) 2002年4月 近畿地方の山 廃村八丁


   
  2002年(平成14年)  2002年 10月 ヨッサン山へ行く 廃村八丁・品谷山

  八丁の土蔵跡
  2003年(平成15年)以前
      出典:鈴木元『新編 ベスト・ハイク 京滋の山』(かもがわ出版、2004年)74ページ


         
  2007年(平成19年) 2007年6月 廃村八丁                 



 2014年(平成26年)5月3日  筆者撮影 (廃村八丁の土蔵跡の現状)  


 2014年(平成26年)5月3日  筆者撮影 (廃村八丁の角錐小屋の脇に土蔵跡がある。)


3.八丁の廃屋

  A. ワラ屋根の家(土蔵の近くの小屋)


1960年(昭和35年)          「ワラ屋根の家」

 出典:大江幹雄「廃村八丁のあわれさ」
   (『山と渓谷 臨時増刊』(近畿の山々特集)(通巻259号)山と渓谷社、昭和35年10月、74~77ページ)75ページ掲載写真

      ※この写真の注記には「廃村八丁の家」とある。




1961年(昭和36年)           「ワラ屋根の家」
出典:小林譲(フォト&ガイド)「フォトガイド/43丹波高原・廃村八丁」
  (『ハイカー』(特集/近畿の山・志賀高原)昭和36年10月号、通巻72号、山と渓谷社、60~63ページ)の61ページ掲載写真

 ※四郎五郎峠を越えて木馬道をたどり、杉木立の中を抜けた先の
「雑草の茂る草むらの中」「ワラ屋根の傾きかけた家」である。




1965年(昭和40年)以前      
朽ちた「ワラ屋根の家」 (いまでは八丁唯一の廃家)(右手に土蔵がある)
           出典:北山クラブ編『京都周辺の山々』(創元社、昭和41年初版第1刷)183ページ

※北山クラブ編『京都周辺の山々』(創元社、昭和44年初版第7刷)182ページには「家は全部つぶれて」とあり、
  この廃屋も、昭和40年ごろは残っていたが、昭和44年には崩壊していたことがわかる。




1966年(昭和41年)11月撮影     「ワラ屋根の家」
          ※今井氏は分教場の建物は見つからなかったと記述している。

     出典:今井幸彦『日本の過疎地帯』(岩波書店、岩波新書678、1968年)90ページ

 
「ススキの穂先に見え隠れする茅葺き屋根」の建物跡(塩見昇『峠と杉と地蔵さん』22ページ)




1968年(昭和43年)以前      「ワラ屋根の家」     ※昭和44年には崩壊している。
       出典:
塩見昇『峠と杉と地蔵さん』教育史料出版会、2011年、21~23ページ)

※塩見氏は、「廃村八丁・分教場の跡」として掲載しているが勘違いで、分教場は早期になくなっており、これは「ワラ屋根の家」のほうだろう。分教場の先生の家との混同であろうか?

※森本次男「京都北山と丹波高原」(昭和39年」)に「古いかやぶきの家」が先生の住宅で、そのやや下手の石垣が学校であったと記述し、すでに分教場そのものは、石垣だけになっていたことがわかる。




  B. 分教場の先生の家(旧学校橋の南側)


1955年(昭和30年)以前    「分教場の先生の家」
   出典:羽田巌編『北桑田郡誌 近代篇』(北桑田郡社会教育協会、非売品、昭和31年発行、昭和34年再版、280ページ)


   ※出典には何らの注記もないが、他の文献の写真から、この家屋が分教場の先生の家であることがわかる。



1961年(昭和36年)       「分教場の先生の家」
出典:小林譲(フォト&ガイド)「フォトガイド/43丹波高原・廃村八丁」
  (『ハイカー』(特集/近畿の山・志賀高原)昭和36年10月号、通巻72号、山と渓谷社、60~63ページ)の62ページ掲載写真




※分教場の先生の家は京都大学高分子化学山の会の小屋の場所の辺りにあったという(下の地図も参照されたい)
    (金久昌業『京都周辺の山々』(創元社、昭和52年第3版第1刷、昭和57年第3版第4刷、215ページ)


         
出典:北川裕久『ワンデルングガイドⅢ 京都北山』岳洋社、昭和60年、145ページ)
         (注1)他の資料によると、「コンクリート製物置」は、「トイレ跡」である。
         (注2)「分教場跡」はこの地図では位置が間違っており、石仏(地蔵祠)の左側の石垣跡であろう。
         (注3)丸木橋の横には「土蔵」はないので、正しくは「飯場小屋」であろう。



※次のような廃屋の配置図(昭和35年当時)もある。

   1:ワラ屋根の家、2:白壁の土蔵、3:分教場の先生の家、C:分教場跡、となるのだろう。

出典:大江幹雄「廃村八丁のあわれさ」
  (『山と渓谷 臨時増刊』(近畿の山々特集)(通巻259号)山と渓谷社、昭和35年10月)77ページ掲載の見取図



 どれだけ、詳しく説明をしても、現地の状況を知るために、正確な地図に勝るものはないと思うので、今までに収集した資料の分析に基づいて、「廃村八丁の変遷地図」を作成したので紹介しておこう(禁無断転載)。
 数字・記号は、上の大江氏の見取図に対応させた(ただし、一部推定があり、完全対応ではないかもしれないので注意)。
 なお、図中の記載年代については、一部は推定によっているので誤差があるかもしれない。承知のうえで利用願いたい。



柴田昭彦「廃村八丁の変遷地図」(2015年1月作成) (禁無断転載)   ※ベースマップは国土地理院電子地図によった。



(参考地図)  2万分の1地形図 「黒田村」
 (明治26年測図、同28年製版、同年4月24日印刷・同4月29日発行、陸地測量部)より

※明治26年当時、八丁は5戸で、分教場は設けられていなかった。



5万分1地形図「知井村」(明治26年測図、同35年発行)より。




5万分1地形図「四ッ谷」(明治26年測図、大正11年修正測図、同14年印刷・発行)より。

※尾根に神社マークの建物が記載され、その下側に、「文」マークの分教場(明治33年設置、大正13年廃止)も見える。
従来5戸であったのが、最北東端(最も上流)に、分家が出来て、6戸目となったことが確認できる(大正13年解体・移転)。





国土地理院の電子地図(2015年1月現在)より 
※2.5万分1地形図「上弓削」(昭和46年測量、昭和47年発行)と内容は同一である(地名は修正)。




2009年5月5日  当時の京大小屋  薫風日記 品谷山(廃村八丁)


2014年5月3日、筆者撮影(京大小屋は2013年12月には崩壊していた)



4.八丁の廃屋(民家の外観・平面図・内部)

  <弓削村八丁 本田敬太郎旧宅> 

      
(川島宙次(絵と文)「民家をちこち(14)丹波の癈家(廃家・癈屋)」に掲載された外観・平面図・だいどこ・説明文)

             
※出典:2012年10月 歴史をつなぐ廃村八丁ハイク にあるPDFファイル(170~1頁のみ。172頁は省略)


     (2014年12月7日、追記) (2015年1月25日、修正)
      ※上記のサイトには、引用元が示されておらず、掲載誌名が不明であったが、雑誌記事索引等を調査した結果、次のような
        記事の存在が明らかとなり、結果として、
上記の文献の掲載誌と発行年が明確となった。各号は32頁の冊子である。
        京都府立図書館には、『新住宅』の「昭和23年上巻」(合本192頁)と「昭和23年下巻」(合本160頁)が所蔵されている。
        この合本と筆者の資料によって判明した、川島宙次氏の「民家をちこち」の(1)~(20)の全記事は次のとおりである。

        『新住宅 第1巻 11,12月号(通巻第3号)』(新住宅社、昭和21年12月)70~71頁: 民家をちこち(1)諏訪の穀倉
        『新住宅 第2巻 1月号(通巻第4号)』(新住宅社、昭和22年1月)4~6頁:        民家をちこち(2)十五坪の家
        『新住宅 第2巻 2月号(通巻第5号)』(新住宅社、昭和22年2月)58~59頁:     民家をちこち(3)八ヶ岳山麓の家
        『新住宅 第2巻 3,4月号(通巻第6号)』(新住宅社、昭和22年4月)93~95頁:    民家をちこち(4)二階建への過程
        『新住宅 第2巻 5,6月号(通巻第7号)』(新住宅社、昭和22年6月)112頁:       民家をちこち(5)井戸家形
        『新住宅 第2巻 7,8月号(通巻第8号)』(新住宅社、昭和22年8月)150頁:      民家をちこち(6)卯建のある家
        『新住宅 第2巻 9,10月号(通巻第9号)』(新住宅社、昭和22年10月)188~190頁:民家をちこち(7)山城のつのや造り
        『新住宅 第2巻 11,12月号(通巻第10号)』(新住宅社、昭和22年12月)218~9頁: 民家をちこち(8)吉野紙を漉く家
        『新住宅 第3巻 1月号(通巻第11号)』(新住宅社、昭和23年1月)14~17頁:民家をちこち(9)国宝吉村邸(その一)
        『新住宅 第3巻 2月号(通巻第12号)』(新住宅社、昭和23年2月)43~46頁:民家をちこち(10)国宝吉村邸(その二)
        『新住宅 第3巻 3月号(通巻第13号)』(新住宅社、昭和23年3月)77頁:    民家をちこち(11)雪の宿 (雪の温泉宿)
        『新住宅 第3巻 4月号(通巻第14号)』(新住宅社、昭和23年4月)112~3頁:民家をちこち(12)松本平の民家〔町家〕
        『新住宅 第3巻 5月号(通巻第15号)』(新住宅社、昭和23年5月)135~6頁:民家をちこち(13)松本平の農家
        
『新住宅 第3巻 6月号(通巻第16号)』(新住宅社、昭和23年6月)170~2頁:民家をちこち(14)丹波の癈家(川島宙次)

        『新住宅 第3巻 7月号(通巻第17号)』(新住宅社、昭和23年7月)25頁:    民家をちこち(15)塩焼く家
        『新住宅 第3巻 8月号(通巻第18号)』(新住宅社、昭和23年8月)56~58頁:民家をちこち(16)北攝の民家
        『新住宅 第3巻 9,10月号(通巻第19号)』(新住宅社、昭和23年10月)68~69頁: 私の家(川島宙次)
        『新住宅 第3巻 12月号(通巻第21号)』(新住宅社、昭和23年12月)146~8頁:民家をちこち(17)箱木千年家
         『新住宅 第4巻 1月号(通巻第22号)』(新住宅社、昭和24年1月)22~23頁:民家おちこち(18)すゞめおどり
        『新住宅 第4巻 2月号(通巻第23号)』(新住宅社、昭和24年2月)56~58頁:民家おちこち(19)諏訪の倉
        『新住宅 第4巻 3月号(通巻第24号)』(新住宅社、昭和24年3月)74~76頁:民家おちこち(20)西多摩の民家(
連載終了)

    ※『新住宅』・・・第1巻 9月号(創刊号、通巻第1号)  第1巻10月号(通巻第2号)

       ※通巻第1号~第7号、第9号~第24号は、尼崎市立中央図書館に所蔵されている(昭和21~37年分を所蔵)。
       ※通巻第11号(昭和23年1月)以降は、国会図書館に所蔵されている。







『新住宅』の「昭和23年上巻」170~2頁より (上の文は171頁、下の文は172頁)

 ※昭和23年6月の雑誌の記事だが、文中の末尾に「私が此の村を訪ねたのはもう十幾年も前の事である。その後戦時中近隣に・・・」とあり、昭和23年から遡って12~13年前と推定できること、戦前(狭義で昭和16年12月の太平洋戦争勃発以前、広義では昭和12年7月の盧溝橋事件と同8月の日中全面戦争勃発以前を言う。従って昭和11年以前)であることがわかる。また、記事は廃村後の描写になっているので、廃村になった昭和9年より後ということになる。
以上の材料から、昭和10~11年ごろと判断できるだろう。


<八丁に唯一残った民家の内部>


 八丁に唯一残った民家の内部。往時の生活が偲ばれる。  (注)正しくは民家でなく、戦後の飯場小屋であろう。
出典:北川裕久(文と写真)「廃村八丁から衣懸坂峠」(『山と渓谷』1987年3月号、154~5ページ)155ページの写真

※上(3)で紹介した、大江幹雄「廃村八丁のあわれさ」(昭和35年)の見取図の「6 廃屋を修理」の木造小屋を指すのだろうと推定したこともあったが、「5 飯場」の飯場小屋と考えたほうがよい。写真の右上に6の小屋の姿が見えるからである。写真に写っているのは、吊り下げ式の石油ランプ(オイルランプ)であり、明治時代に広く普及した照明である。電気のない八丁で生活するためには戦後であっても必需品であったことだろう。この戦後の飯場小屋は、平成17年までは存在したが、平成18年にはなくなっていた(おそらく撤去されたのだろうと思われる)。
 


5.八丁の歴史(山論時代~土蔵の壁画の歴史)
 


  ※ 各種文献からの引用のため、食い違う内容も見られるが、真偽不明のため、そのまま掲載しているので、ご容赦願いたい。
    あとで紹介している文献(引用)も参考にされたい。(2011年に初版作成)(2014年2月、大幅に改訂)

西暦 元号
年代
弓削八丁の様子と廃村後の様子 経過年
1307 徳治2年

八丁は古くから豊富な山林資源に恵まれ、その資源をねらって、北側の知井庄と南側の弓削本郷の間でしばしば山論(山の境界争い)が展開された。古くは徳治二年までさかのぼる。
(毎日新聞京都支局編『京の里 北山』)

1368 応安元年 応安元年(一三六八)南北朝時代の末期にも、弓削本郷と、枝郷知井との間に論争が起き、その年の四月、2名による徳治年間の裁決によると「知井村者為弓削加納六分一致其沙汰條先例也」と、裁決をくだしたが、山には六分の一というような境界を、現地ではっきり決められるものではなく、その後、弓削・知井側の双方の入会権を定める境界をめぐって論争が絶えることはなかった。(京北町誌606頁)
天正、慶長年間 安土桃山時代にもこの争いはつづいた。
(毎日新聞京都支局編『京の里 北山』)
1601 慶長6年 八丁山紛争発生、奉行所裁決(弓削敗訴)
 (山村安郎編集・発行『弓削歴史年表』)
       
1660 万治3年

弓削側が八丁山方面に押しかけ、炭ガマをつぶすなどの事件が発生した。
(毎日新聞京都支局編『京の里 北山』)

1682 天和2年 争いがつづいたので、江戸中期の天和二年についに八丁山一円は民間の立ち入りを禁じた御留山(おとめやま)になった。(毎日新聞京都支局編『京の里 北山』)天和二年(一六八二)上弓削・知井の両村が奉行所に呼び出されて、八丁山御留山を言い渡された。(京北町誌608頁)
1701 元禄14年 元禄十四年(一七〇一)周山村の吉太夫の御請山となる(京北町誌606頁)。元禄十四年(一七〇一)周山村の庄屋吉太夫が八丁山の経営を請負った(京北町誌608頁)。お上に嘆願書を出し、元禄十四年に周山の吉太夫が山にはいることを許され、吉太夫以下五人が居小屋をたてて炭焼きと畑作をしたことが記録に残る。周山村吉太夫の請負山となり上弓削村から3名と広河原村から2名が炭焼きを職として、153畝の新畑を開き、居住する。
1723 享和2年 享和二年(一七二三)佐々里の猪兵衛が吉太夫に代って八丁山を御請山として経営してきた。しかし、運上銀を滞納するので、ふたたび奉行所から御留山となった。(京北町誌606~7頁)
1743 寛保3年 上弓削村の請負山となり、5戸の者も上弓削村の山番として定住(廃村八丁の現地の案内プレートによる)。吉太夫請山当時から住んでいた五戸の者、日常のくらしに困りはてているところを、上弓削村が同情して八丁山御留山赦免と、八丁山御請山を嘆願、奉行所も上弓削村の願いを入れて、五戸はそのまま上弓削村の山番として炭を焼き、くらしをたててきた。(京北町誌607頁)(年代は記載なし)
八丁山、上弓削村請負(借地)となる。(運上金20石)
 (山村安郎編集・発行『弓削歴史年表』)
明治初期 明治維新ごろに八丁に隠居した会津藩士、原惣兵衛の尽力があり、八丁の山林を各戸均等に割りあて、収益も等分するなど一種の共産制度を施行したと伝えられる(毎日新聞京都支局編『京の里 北山』)明治維新になって佐々里村から八丁山払い下げ願いが出され、これを聞いた上弓削村も直ちに払下げを嘆願した。山番5戸を味方にした上弓削村領と決め、和済が成立した。
1876 明治9年 八丁山二番地を所有に移さんと発起者が明治元年より多大の苦心と費用を償い、明治九年六月京都府の許可を得て今日に至る(明治45年建之の石碑による)。明治9年、5戸5家族の人達の所有権が公に認められる。(金久昌業編『京都周辺の山々』創元社、昭和52年)
1878 明治11年 明治116月最終的に上弓削村と佐々里村との境界が決定する。明治十一年六月、上弓削村と、佐々里村とが和解する(京北町誌606頁)。
明治新政府が地租を定め、地券を交付するときの八丁山払い下げをめぐって、上弓削村と佐々里村が相争い、その結果、五戸に味方をした上弓削と佐々里とが和解して、鎌倉時代より争い続けてきた山論争の歴史は、明治十一年五月に終った。(京北町誌607頁)同一一年五月一三日、河内谷奥全域と掛橋谷全域の二ヵ所を知井郷九ヵ村に、その残り全部を弓削郷にとの和約が成立し、五七〇年にわたる山論は終了した。(『京都府の地名』平凡社、1981年、411頁)
 1882  明治15年  八丁山内に明治15年、八幡宮が建立された。(PDFファイル「五戸の住戸について」による。2012年10月 歴史をつなぐ廃村八丁ハイク
       
1889 明治22年 八丁の五戸の住人たち、京都府から八丁山の山林44町余を90円で払い下げてもらう(毎日新聞京都支局編『京の里 北山』)明治二十二年、八丁山住人の五戸が、永年、僻地にあって山林保護につくした労に報いるために、八丁山第二番地の内反別四十四町九反五畝を金九十円で上弓削から五戸に譲渡した。(京北町誌607頁)
1900 明治33年 博習校の分教場(小学校の分校)が設けられ、8人の児童に先生1人が教鞭をとった。
(廃村八丁の現地の案内プレートによる)
分教場では「少なくて三人、多いときで八人の子に先生が一人や」と坊房太郎さんは語った。(朝日新聞大阪本社版、昭和34年9月20日の「廃村八丁を訪ねて」の記事による)
明治33年4月19日、八丁に分教場を設置す。(『弓削小学校百年誌』昭和48年、18ページ) 
明治の末頃 分家が一つできたため六戸となる。
(塩見昇『峠と杉と地蔵さん』)
(朝日新聞大阪本社版、昭和34年9月20日の
「廃村八丁を訪ねて」の記事による)
大正初期 大正に入り、一時六戸となる。(京北町誌501頁)
 1924  大正13年   大正13年 八丁分教場廃止さる。
(『弓削小学校百年誌』昭和48年、19ページ)

大正13年ごろ、本田家の分家(本田糸之進)が広河原仏谷へ住居を解体移転。続いて、離村後、段下家、弓下家の2軒も上弓削に解体移転した。こうして、6軒のうち、3軒が解体移転し、3軒(本田家、弓下家、山本家)が八丁に残った。
       
1925 大正末年 経済のゆとりと、辺境の味気なさから、一戸が離村。また一戸と離村が続き、3戸となる。
厳しい自然環境のなか、大正末に一戸、また一戸と離村が続き、最後まで踏みとどまった三戸も三三年の大雪でついにこの地を離れた。
(塩見昇『峠と杉と地蔵さん』)
大正末に一戸が離村、歯が欠けるようにまた一戸が去った。最後に踏みとどまった三戸も昭和八年の大雪にあい、あきらめて立ち去った。(朝日新聞大阪本社版、昭和34年9月20日の
「廃村八丁を訪ねて」の記事による)
1931 昭和6年 昭和6年11月、京一中山岳部員の瀧山和たち3人が八丁を訪れる。途中、八丁で法事があったという坊さん2人に会う。田舎の分教場での授業の様子を描写している。子供たちが珍しそうに眺めていた。ごく普通の山村があった。
(斎藤清明『京の北山ものがたり』松籟社)
1933 昭和8年 昭和8年6月(廃村になる直前の夏)、今西錦司が八丁を訪ねる。文章としているのは、八丁のシャクナゲのみごとさだけである。
(斎藤清明『京の北山ものがたり』松籟社)
1933 昭和8年 最後に踏みとどまった三戸も昭和八年の大雪にあい、あきらめて立ち去った。 (朝日新聞大阪本社版、昭和34年9月20日の「廃村八丁を訪ねて」の記事による)
八丁の集落がなくなってから四十年余、昭和八年冬大雪後のことである。(京北町誌、昭和50年)
  ※昭和8年冬=昭和8年12月~昭和9年2月
       
1934 昭和9年 冬、降雪3mの大雪のため病死者の放置が起き、雪がとけた3月26日に住人は八丁を出る。廃村八丁では三㍍もの積雪があったと村人は伝えている。徒歩に頼っていた交通が杜絶し、この年の大雪のため、亡くなった方を三日間も葬式に出せず、放置しなければならなかった。この年の春、雪が解けた三月二六日、弓削八丁の人びとはこぞって村を捨てたという(『新・京都自然紀行』人文書院昭和8年の冬、大雪に遭って食料が欠乏し、病人が出ても医者の便もなく、さんざんな目にあった所から、村あげて山をあとに平地にさがり、昭和11年に廃村となる(廃村八丁の現地の案内プレートによる)
最後まで残った人々も、昭和9年の大雪に飢餓の辛酸をなめ遂に故郷を捨てる決心をした。最後の1家族が昭和16年に去ったとき、八丁は廃村となった。(金久昌業編『京都周辺の山々』創元社、昭和52年)
「昭和9(1934)年3月 八丁廃村(8年12月~9年2月の積雪3m、3月26日全5戸離村)」(山村安郎編集・発行『弓削歴史年表』平成23年)

※「京北町誌」は大雪を「昭和8年冬」としている。具体的には、大雪は「昭和8年12月~昭和9年2月」である。
0
昭和11年以前 『改訂増補 近畿の山と谷』(昭和11年)に廃村になったと聞いて八丁を訪れたのに人がいたと記す。これは雪が消えるのを待って、もとの村人が山林の手入れに一週間ほどの予定で戻ってきたのに過ぎなかった。斎藤清明『京の北山ものがたり』(松籟社)110~1ページには、『新版 近畿の山と谷』(昭和16年)での記事として紹介しているが、昭和11年版にある記事と同一である。    
 1936  昭和11年  八丁が廃村となる。(廃村八丁現地の案内板より)     2      
1938 昭和13年 森本次男『京都北山と丹波高原』(朋文堂、昭和13年):現在では八丁に常住の人達は誰もいない。草葺屋根の大きな田舎家が残る。寂しい分教場の教室は黒板、オルガン、張り紙がそのまま残る。
4
1941 昭和16年 最後の1家族が去り、八丁は廃村となる。
金久昌業編『京都周辺の山々』創元社、昭和52年)

八丁山五戸の弓下熊二郎・本田嘉右衛門・段下久右衛門・弓下三右衛門・山本吉左衛門、この五人は四十四町九反五畝を公平に五等分して、豊かなくらしをたてていたが、二メートルを超える豪雪地帯に病人が出ても医者を迎えることもむずかしく、ついに八丁山に永住する意欲を失い、離村する者が出ると、次から次へと八丁山を捨て、宗家の山本家が最後に八丁山を去ったのは昭和十六年頃である。(京北町誌607頁)
   7
1942 昭和17~18年ごろ 土蔵の白壁が気味の悪い程白かった。異様な静寂。分教場の床上には図画や習字の作品が散乱していた。八丁の廃屋では怖くてどうしても泊まることができず、わざわざ山腹のブッシュの中でやっと安眠できた(昭和17年ごろ、金久が友人と二人で訪れたときの体験より)。『京都北山レポートシリーズNo.1』(北山クラブ、1961年8月)の中の「八丁二昔」(金久昌業、1961年7月)より
(『京都周辺の山々』(昭和52年)には、昭和18年の体験とある。)
8
9
1947
~48
昭和22,3年ごろ の頃までは比較的、家屋はよく保存され、蔵の中には運びきれなかったかさばる家財道具や、分教場のわびしい九々の掛図なども見られた。
(角倉太郎・今井浩一郎『京都北山・比良』)
   13
   14
1957 昭和32年 『京の里 北山』(昭和41年)『京都周辺の山々』(昭和41年)掲載の土蔵写真から、ビルの絵の下部に、
「1957.9.26 YOSHIO ITO」と読み取れるサインが見える。壁画はこのときに描かれたものである。
23 土蔵描画 庇あり
1958 昭和33年  部落には、かつての住人の帰りをあきらめた荒れかたの廃屋三軒が残っている。 (1958年3月)(『京都北山レポートシリーズNo.1』北山クラブ、1961年8月)
       
1959 昭和34年 朝日新聞大阪本社版(昭和34年9月20日)「廃村八丁を訪ねて」の記事がある。
傾いたわら屋根の(分教場の)教員宿舎の床は抜け落ち、板壁にはった昭和6年5月の新聞がはげかかっていた。
宿舎の向かいの分教場は跡形もなく、石垣のみ。このほかに、わらぶきの家が2つ、3つ。土蔵が一つ残る。あとの家々はこわされてしまったらしい。
八丁生まれの坊房太郎さん(70歳)(八丁から紫野へ出た弓下益次郎の弟)が京北町小塩に住む。分教場は明治33年設置という。
(この新聞記事は、
塩見昇『峠と杉と地蔵さん』の22ページに概要が紹介されている。)
25 土蔵泊可
1959 昭和34年 塩見昇『峠と杉と地蔵さん』(教育史料出版会、2011年)の23ページに土蔵の写真あり。
昭和34年秋の訪問時のものとされている。しかし「
軒の庇はない。
  土蔵のビルと水着美人は鮮明。
側面板あり。
 
※従って、写真は昭和34年のものではなく、庇のなくなっている状態であることから、昭和40年代(昭和43年以前と推定される)に撮影されたものと推定される(分教場跡と紹介する写真の年代も同様)。
このときには、土蔵の2階に階段で上がることができた(同書23ページ)。
茅葺屋根の分教場跡(同書22ページに写真あり)が残っていたというが、他の資料から判断すると、
分教場の先生の住居跡であろう。
土蔵・分教場(先生宅)跡以外には、朽ちた民家が1,2軒残っていたという(同書22ページ)。おそらく、写真と同様に昭和40年代初め(昭和43年以前)の状況に相当すると思われる。
25 土蔵泊可 庇なし
(昭和34年の状態ではないのでおかしい)
側面板あり
1964 昭和39年 森本次男『京都北山と丹波高原』(山と渓谷社、昭和39年)の65ページに、庇と屋根を支える棒7本が見える写真が掲載されている。家は2つ残る。白壁の倉が一つ。古いかやぶきの家がもう一つである。
こちらは分教場の先生の住宅であった。そのやや下手に小高く今は石垣だけ残るのが学校であった。
先生宅の床板はまばら、板張りの隙間風を防いだ古新聞は昭和6年4月14日(火)の朝日新聞であった。
広河原の米田屋という宿(廃業)の老爺の話を聞いた。
30 土蔵と教員宅残存 庇あり 側面板あり
1965 昭和40年 毎日新聞京都版に、廃村八丁の記事を掲載。 31
1966 昭和41年 毎日新聞京都支局編『京の里 北山』(淡交新社、41年)に、廃村八丁の記事を掲載。八丁住人は京都へ出た。
最後の村民(広河原の本田はきさん)、八丁から広河原に養子に来た段下常三郎さんの話あり。
76ページに、
軒の庇の付いた土蔵(ビルと水着美人)の鮮明な写真あり。
32 土蔵と教員宅残存 庇あり 側面板あり
1966 昭和41年 北山クラブ編『京都周辺の山々』(初版、創元社、1966年)に八丁の土蔵の見事な壁画の写真あり。描いた日付と作者のサインが読み取れる。「八丁の廃屋」の写真あり。朽ちたわら屋根の住宅跡。わら屋根がしっかりした写真。
川原の近くに、派手な色に塗った京大高分子化学山の会の小屋がある。橋の先に飯場がある。
32 側面板あり
1966 昭和41年 今井幸彦編著『日本の過疎地帯』(岩波新書、昭和43年)昭和四十一年の十一月、二、三の小舎はかたぶきながらも辛じてこらえ、一軒の土蔵は散りしきる落ち葉のなかになお立ちつくしていた。「八丁部落の廃屋の一つ」の写真あり。    32
1969 昭和44年 北山クラブ編『京都周辺の山々』(初版第7刷、創元社、1969年)
小屋は山の道具の倉庫。
家は全部つぶれて土蔵だけが残っている。土蔵の壁画は八丁の新名所となった。
川原の近くに、派手な色に塗った京大高分子化学山の会の小屋がある。橋の先に飯場がある。
35 教員宅と
民家崩壊
名所化
1969 昭和44年 「京都北山2」(昭文社、昭和44年初版、昭和46年3刷、昭和47年4刷)に土蔵の写真あり。庇なし。細部不明。
土蔵には、崩壊のきざしなし。10人ぐらいなら悠々と泊まれる。蔵の前の井戸は年々浅くなってきている。
派手な化学小屋あり。石垣は分教場跡。飯場小屋あり(蒲郡の某氏が山林を購入し、植林に従事)。
35 土蔵への泊が可能 庇なし
1970 昭和45年 北山クラブ編『京都周辺の山々』(第2版、創元社、1970年)に八丁の土蔵写真あり。
土蔵の富士山・水着写真のある側。
庇はない。入り口上に「スター食堂」といった落書きが見える。
小屋は山の道具の倉庫。家は全部つぶれて土蔵だけが残っている。
土蔵の壁画は八丁の新名所となった。
川原の近くに、派手な色に塗った京大高分子化学山の会の小屋がある。橋の先に飯場がある。
同書第3版(1977年)の215ページにも同じ写真。口絵には、土蔵の違うカラー写真あり。
36 土蔵残存 名所化
庇なし
1973 昭和48年 金久昌業『京都北部の山々』(創元社、昭和48年)の87ページに庇のない土蔵入り口の写真あり。
八丁には、土蔵の前にニチレ、旧学校橋の所に京大高分子化学の山小屋が2軒建つ。三角屋根の現代調。
39 土蔵残存
1974 昭和49年 5月12日の訪問時の白壁の土蔵の写真がインターネットで公開2002年8月 ボタリング危機一髪下部は土壁がむき出し。中央に廃村八丁の木板あり。白壁の土蔵には東京銀座のビル、富士山、ヨットに乗ってポーズしている水着姿の女性まで描いてある。(ここはお風呂やかあ?)2002年8月17日更新。更新時、土蔵は崩壊。 40 土蔵残存 木板あり
(中央)
側面板なし
1975 昭和50年 『京北町誌』に土蔵の写真あり。下部は土壁がむき出し廃村八丁の木板が、左側寄りにある。  ※昭和49年以前の姿であり、木板の表示がもともと左にあり、のちに中央に移動して、昭和49年の姿になった。同じように木板が左側にある写真は、京都趣味登山会編『京都・滋賀 近郊の山を歩く』(京都新聞社、1998年)の43ページにある。 41 土蔵残存 木板あり
(左寄り)
側面板なし
1978 昭和53年 井垣章二『峠の地蔵 京都北山に捧ぐ』(ミネルヴァ書房、2006年)に八丁の記事あり。
133ページに、庇のない、
下半分の板がなく土壁むき出しの土蔵(上部の絵は残る)写真。木板なし。
44 土蔵残存 木板なし
1984 昭和59年 2007年12月から23年前(1984年)の土蔵の写真が公開されている(インターネット2007年12月 廃村八丁登山(3))。廃村八丁の木板なし
屋根の下地が軒に垂れ下がり、落ちそうになっている。白壁はまだ残り、絵も消えてはいない。庇はない。
側面下部の板はなくなり、土壁がむき出しになっている。裏側のほうは白壁が半分残り、半分は崩れて、骨組みが見えている。屋根からの下地のずり落ちがあり、今にもくずれそうになっている。内部の写真あり。
50 崩壊寸前 木板なし
1985 昭和60年 北川裕久『京都北山』(岳洋社、昭和60年)に「半世紀以上耐えてきたこの土蔵も、昭和五十九年の大雪で屋根が半壊し、崩れ落ちそうな状態である」とある。土蔵の下部の壁がむき出し(庇なし)の写真と、土蔵内部のビルの描かれた写真が掲載されている。 51 崩壊寸前
1988 昭和63年 「京都北山2」(昭文社、1988年、6刷)に土蔵の写真あり。下部はむき出しの壁。庇なし。廃村八丁の木板なし。(この写真自体は、昭和52年以前の撮影と思われる。) 54 崩壊寸前
1988 昭和63年 塩見昇『峠と杉と地蔵さん』(教育史料出版会、2011年)の23ページに土蔵の写真あり。1988年4月の訪問時のもの。土蔵の壁面は崩落し、中がむき出しで、白壁はわずかに残るのみで、倒壊寸前の状態になっていた。屋根も下地のみで脱落しかけている。 54 崩壊寸前
1991
~92
平成3年11月~
平成4年5月の間
この頃に、廃村八丁の土蔵は崩壊したと思われる。完全に崩れたのは、平成3年から4年にかけての冬季であろう。(当時、廃村八丁を訪れた京都市下京区在住の向笠氏の記録による)
57 崩壊
1991 平成3年 澤潔『京都北山を歩く③』(平成3年)には八丁の倉屋敷は廃滅の道をたどりつつある、とある。その倉屋敷の写真あり。その右側面は、塩見氏の1988年の写真とよく似ている。塩見写真に写っていない左側面はまだ白壁が大体残っている様子がうかがえる。同じ頃の撮影であろう。 57 崩壊寸前
1991 平成3年 2011年8月30日に出会った八丁の元住人(今は広河原)の話。土蔵は20年前(1991年)まであった。おばあさん(元住人)の本家が所有していたという。デパートの絵、水着の絵の記憶あり。
  
2011年8月 ツーリング 京都~広河原
57 崩壊寸前
1993 平成5年 1993年7月26日、柴田(筆者)、広河原より廃村八丁まで往復。廃村八丁の土蔵は崩壊してしまい、跡地には、柱の一部が井形に横たわっているのみであった。土蔵が見られなかったのは残念であった。もっと早い時期に訪問しておくべきであった。 59 崩壊後
1994 平成6年 岳人編集部・編『すぐ役立つ 四季の山 西日本70コース』(東京新聞出版局、1994年)に、塩見氏の1988年の土蔵写真や澤潔『京都北山を歩く③』よりも崩壊が進んだ写真がある。右側面の白壁が消え、左側面の白壁部分も半減している。1989~1990年頃の写真であろうか?    60 崩壊後
1997 平成9年 井垣章二「北山賛歌(24)」(白川学園月刊新聞「つくも 第364号」 H9.9.10掲載)に八丁の記事あり。
この再訪記事の中で、「目標としていた蔵がなくなっていた」とある。土蔵が完全に消滅。
63 崩壊後
2002 平成14年 土蔵は崩れてしまって、今は柱の一部と土台が残っているだけだそうだ(伝聞)。
2002.8.17更新のインターネット記事(
1974年5月当時の写真を公開)。2002年8月 ボタリング危機一髪
68 崩壊後
2004 平成16年 土蔵は倒壊し、一部材木が残るのみとなっている(インターネット記事2004年9月 廃村八丁~北山最奥の癒しの森へより)。 70 崩壊後
2006 平成18年 井垣章二『峠の地蔵 京都北山に捧ぐ』(ミネルヴァ書房)刊行。「つくも」の八丁の記事あり。 72  
2007 平成19年 cappaさんによると、土蔵の美人と銀座は、山口から当村で滞在の画家?が書かれたと、当村について詳しい菅原在住の方から先輩が聞いているという(2007年10月19日、インターネット記事2007年10月 cappaさん 品谷山 登山2-3より)。 73  
2011 平成23年 塩見昇『峠と杉と地蔵さん』(教育史料出版会)刊行。土蔵の存在当時の写真を紹介。 77  

現地の案内板より
   廃 村 八 丁

 八丁山は、明治
116月最終的に上弓削村と佐々里村との境界が決定
するまで実に
600年近い争いの歴史であった。1682年公儀の御留山とし
て立入りが禁じられた。
元禄14年(1701)周山村吉太夫の請負山となり
弓削村から
3名と広河原村から2名が炭焼を職とし153畝の新畑を
開き住居、
1743年上弓削村の請負山となり5戸の者も上弓削村の山番とし
て定住してきたが、
明治維新になって佐々里村から八丁山払い下げ願いが出
され
これを聞いた上弓削村も直ちに払下げを嘆願した。山番5戸を味方に
した上弓削村領と決め和済が成立した。


 明治33年には博習校の分教場も設けられ8人の児童に先生1人が教鞭
をとった。
昭和8年の冬大雪に遭って食料が欠乏し病人が出ても医者の便
もなく、
さんざんな目にあった所から村あげて山をあとに平地にさがり、
昭和
11年に廃村となった。(廃村八丁現地の案内板より)

2004年8月 福井の小さな日記

2006年3月 京都北山・廃村八丁と品谷
(1996年5月)


    2007年12月 ふーちゃんの京都デジカメウォーキング


2007年10月 山好き的日々 京都北山



※2014年5月3日、筆者が現地を訪れると、プレートは角錐小屋の外側に移動されていた。
  説明文のほうは、ごらんのとおり痛んできて、表面の一部がはがれて読めなくなりつつある。  


2014年5月3日 筆者撮影 (以前、木に取り付けられていたプレートは小屋に移動している)

(2015年3月15日、追記)この角錐小屋(通称「八丁小屋」)は、「現在八丁には、土蔵の前に二チレ、旧学校橋の所に京大高分子化学の山小屋が2軒建っている。いずれも三角屋根の現代調であり、土蔵とのアンバランス、廃村イメージの不調和を感じられるかもしれない」(金久昌業『京都北部の山々 丹波・丹後・若狭・近江』創元社、昭和48年3月発行、87ページ)と紹介されていることから、当時、「ニチレの山小屋」と認識されていたことがわかる。北山クラブの昭和55年当時の会報『北山 第270号』(第24巻3月号、1980年2月20日発行、2~3ページ、第24巻64~5ページ)の「廃村八丁」(坂田謹爾)の記事に「二チレの三角小屋」とあるのも、『京都北部の山々 丹波・丹後・若狭・近江』の記載を踏襲したものだろう。

「二チレ」とは「日レ」であり、「日本レイヨンのことに違いない。1899年創立の尼崎紡績会社を前身として、1926年に設立されたのが「日本レイヨン株式会社」であり、レーヨン糸の製造を開始している。その後、ビニロン、ナイロン、ポリエステルの繊維を製造するようになる、1969年(昭和44年)には、「ユニチカ株式会社」となる。スポーツ活動も盛んで、日本女子バレーボールチームは東洋の魔女と呼ばれて有名であった。その他、女子バスケットボール部、ソフトボール部、軟式庭球部、陸上競技部などの活躍でも知られる(Wikipedia)。この三角小屋が「二チレ」の山小屋であるというのは、金久昌業氏の昭和48年当時の認識であろうが、当時、既に「二チレ」でなく、「ユニチカ」であったはずで、食い違いも含めて、現在、それを裏付ける資料を筆者(柴田)は持ち合わせていない。あるいは、ユニチカ社史編集委員会『ユニチカ百年史』(1991年)に記載があるのかもしれないが、未調査である。

(昭和50年代の現地の案内板より)


   廃 村 八 丁

 
 
昭和九年から十年にかけてこ
の八丁は
大雪のため陸の孤島と
化し犠牲者や凍死者まで出し
その恐ろしさに昭和十六年頃

までに全戸が離村し廃村とな
りました。しかし山つヽじや
シヤクナゲの咲き乱れる自然は
そのまヽ残っています。
      府民ハイキングコース



(内藤保彦「京都 北山・廃村八丁  シャクナゲと飯盒炊さんのできる清流を求めて
 『ワンデルング』1983年6月号、1巻3号、岳洋社、21~23ページ)
 23ページの写真より



6.離村のきっかけとなった大雪の年代

八丁に大雪が降り、死者まで出した年代については、以下のように、昭和8年、昭和9年、昭和10年が伝えられていて、
わかりにくい面があり、一部では、大雪の時期を誤解している場合もあるようである。

さまざまな資料から判断して、実際の大雪の時期は、昭和8年12月~昭和9年2月とみて、間違いないであろう。



<昭和初め(初年・始め・初期)の大雪>
泉州山岳会編『近畿の山』山と渓谷社、昭和36年
森本次男『京都北山と丹波高原』山と渓谷社、昭和39年
仲西政一郎編著『アルパインガイド39 近畿の山』山と渓谷社、昭和48年
岳人編集部・編『すぐ役立つ 四季の山 西日本70コース』東京新聞出版局、1994年


昭和8年冬の大雪>
羽田巌編『北桑田郡誌 近代篇』北桑田郡社会教育協会、昭和31年・・・昭和八年の冬大雪
「幽鬼の里 丹波の『廃村八丁』を訪ねて」(朝日新聞大阪本社版、昭和34年9月20日(日)(14面))
  (昭和八年に残らず離村  「最後まで踏みとどまった三戸も昭和八年の大雪にあい、あきらめて立ち去ったのだ。」)
『京北町誌』京北町、昭和50年・・・「昭和八年冬大雪後」とある。
澤潔『京都 北山を歩く③』ナカニシヤ出版、1991年・・・「たしか昭和八年のまれにみる大雪の到来」「あの大雪はたしか節分の夜」と記述する。

「廃村八丁」(現地の案内板プレート)・・・「昭和8年の冬大雪」と記述している。
塩見昇『峠と杉と地蔵さん』教育史料出版会、
2011年
・・・新聞記事「幽鬼の里 丹波の『廃村八丁』を訪ねて」に従って、昭和8年と紹介している。
『廃村をゆく』イカロス出版、2011年・・・「廃村八丁」の現地の「案内板」プレートの内容を紹介し、「昭和8(1933)年の豪雪により」と紹介している。

<昭和8年から9年の大雪>
坪井憲二『京都・北山が聞こえる』(白地社、1988年)・・・「昭和九年、前年の暮れから降り続いた豪雪」
内田嘉弘『京都丹波の山(下)』(ナカニシヤ出版、1997年)・・・「昭和八年~九年にかけて八丁は大雪に見舞われ」

漫歩計の山行記録:京都北山・廃村八丁-時間が止まったような静かな廃村-2004年7月19日


<昭和9年の大雪(豪雪)>
住友山岳会『改訂増補 近畿の山と谷』朋文堂、昭和11年
   (当時山国村方面でも積雪一・五mに及んだというくらいで、八丁部落は三m以上に達して軒を埋め、里との交通杜絶すること
    二〇日以上、食料缺乏のため全村民餓死にひんせんとした)
  ・・・ <実際に起きた年代からほどない時期の記録>

角倉太郎・今井浩一郎『京都北山・比良』日地出版、昭和36年
毎日新聞京都支局編『京の里 北山』淡交新社、昭和41年
  「
昭和九年の冬、三メートルの大雪が降った。このため病死者の葬式も出せず、三日も死者を放置せねばならなかった。
   もともとみんな八丁にはいや気がさしていたので、雪がとけた三月二十六日、八丁をみすてた」

  (最後の村民でいまも広河原に住む本田はきさんや、八丁から広河原に養子にきた段下常三郎さんの話によるもの)

金久昌業編『京都周辺の山々』創元社、昭和52
北川裕久『ワンデルングガイドⅢ 京都北山』岳洋社、昭和60年
『京都滋賀 日帰りハイク』京都新聞社、昭和61年
渡辺歩京『北山の道・3』(白地社、1987年)・・・現地の立札の説明として「昭和九年の大雪」と記録している。
北山クラブ『京都北山2』昭文社、1988年

斎藤清明『京の北山ものがたり』松籟社、1992年

横田和雄『京都府の三角点峰』京都山の会出版局、1995年
京都趣味登山会編『京都 滋賀 近郊の山を歩く』京都新聞社、1998年

中島暢太郎監修・京都地学教育研究会編『新・京都自然紀行』人文書院、1999年
   (一九三四(昭和九)年、豪雪が村をおそいました。気象災害年表を見ると、この年の二月二七日、丹後地方にかなりの積雪がありました。
   日本海に面した宮津では、九一㌢もの記録が残っています。この年はその日までの積雪が多かったのか、廃村八丁では三㍍もの積雪
    があったと村人は伝えています。)
北山研究会『京都北山』昭文社、2003年


<昭和9年から10年の大雪>・・・間違い
高田収編『中高年向きの山100コース<関西編>』山と渓谷社、昭和57年
・・・「しかし昭和九年から十年の大雪で村は陸の孤島と化し」とある。上に掲げた「昭和50年代の現地の案内板」の内容と一致しているので、その記述を信用して間違えたのだろう。


<昭和10年の大雪>・・・間違い
金久昌業編『京都北山』レポートシリーズNo.1、北山クラブ、昭和36年
 (121ページ・・・八丁を見捨てた張本人のじいさんの話・・・「あれは10年だったかナ、8尺もの大雪が降りよって何日も交通がとざえたことがあったナ」)


<結論>
★中央気象台編纂『日本気象災害年表 1900年より1947年まで』(経済安定本部資源調査会事務局、資源調査会資料第17号、昭和24年7月15日)
 には次のような記事がある。


  昭和9年(1934) 1月19日~27日 厳寒多雪 京都府 丹波地方10数年来の最深積雪家屋全潰9 圧死者4 (『気象要覧』413号)

 また、この年表には昭和9年1月1日~31日の雪害(兵庫県但馬地方、30年来の大雪)も掲載されているが、昭和8年と昭和10年の記事には、
新潟県の雪害(昭和8年12月、昭和9年12月~昭和10年1月)があるだけで、関西の雪害記事は見当たらない。
 この年表が、雪害をどれだけ網羅したものなのかわからないが、少なくとも、昭和9年初めに京都府丹波地方で大雪による被害が出たことが確認できる。

 このことによって、八丁の離村のきっかけとなった大雪が昭和9年初めであったことが裏付けできよう。


中島暢太郎監修・京都地学教育研究会編『新・京都自然紀行』(人文書院、1999年)

 この本には、「一九三四(昭和九)年、豪雪が村をおそいました。気象災害年表を見ると、この年の二月二七日、丹後地方にかなりの積雪がありました。
 日本海に面した宮津では、九一㌢もの記録が残っています。
」とあって、『日本気象災害年表』の記述とは異なっている。



★『京都気象災害年表』(京都防災気象連絡会、昭和26年)の58ページには、昭和8~11年の気象災害は次のように記録されている。
 これが、上記の昭和九年二月二七日の丹後での積雪の出典であろう。京丹後市弥栄町(やさかちょう)野間は丹後の中でも豪雪地帯である。
 昭和8年・10年に大雪の記録は見当たらない。 (糎=センチ) (粍=ミリ)

(一九三三)昭和八年
 夏 旱魃 京都府雨量九一・五粍(六月)
(一九三四)昭和九年
 二月二七日 
丹後大雪野間二〇四糎
 九月二一日 大暴風雨(室戸颱風) 京都風速南二八・〇米瞬間四二・一
(一九三五)昭和一〇年
 六月二八日 山城大水害 京都雨量(一二時間)二六九・九粍
 八月一〇日 山城丹波南部水害
(一九三六)昭和一一年
 二月 三日 丹後大雪 野間二九〇糎
 二月 五日 山城大雪 京都三一・六糎
 二月二一日 大和川地震
 五月一一日 晩霜宇治田原茶園全滅
 九月 一日 京都洛北丹波南部大雷雨
 九月一一日 丹波西部及丹後水害


★京都地方気象台・舞鶴海洋気象台編『京都府防災気象要覧』(京都地方気象台・京都府防災気象連絡会、昭和43年)には京都府の豪雪の記録がある。

117ページの京都府下の観測所10カ所の「開設以来の積雪順位表」(1964年までの積雪1~3位の記録表)があり、1934年のものは次の通りである。

1934.1.23  54cm 周山観測所 (1913~64年、第3位)  (※)京都市右京区京北周山町
1934.1.23   84cm 福知山観測所(1913~64年、第1位)
1934.1.24  119cm 河守観測所  (1913~64年、第1位)   (※)福知山市大江町河守(こうもり)
1934.1.27  160cm 峰山観測所  (1913~64年、第2位)   (※)京丹後市峰山町
1934.1.28  120cm 中上林観測所(1913~64年、第1位)   (※)綾部市中上林(なかかんばやし)

※八丁に最も近い場所は「周山観測所」である。記録的な大雪のあった時期は、1934(昭和9)年1月下旬だということがわかる。

同じ順位表で、1936年の記録は次の通りである。

1936.2. 3  138cm 宮津観測所(1901~64年、第1位)
1936.2. 3   96cm 舞鶴観測所(1913~64年、第1位)
1936.2. 3   89cm 河守観測所(1913~64年、第2位)
1936.2. 5   39cm 園部観測所(1913~64年、第2位)
1936.2. 5   32cm 京都観測所(1910~64年、第2位)
1936.3.10   56cm 周山観測所(1913~64年、第2位)
1936.3.10  237cm 峰山観測所(1913~64年、第1位)

同書140ページには、家屋の雪害について、次のように報告されている。

  平野部においては積雪80~90cmになると非住家がまず倒壊し始める。更に積雪量が増加してくると、
  住家にも被害が出始め、 180~200cm程度になると被害家屋が多発している。


★山村安郎編集・発行『弓削歴史年表』(平成23年、非売品)には、次のように記録されている。

  昭和9(1934)年3月  八丁廃村(
8年12月~9年2月の積雪3m、3月26日全5戸離村)


(まとめ)
『京北町誌』が「昭和8年冬大雪」を採用し、廃村八丁の現地プレートでも、「昭和8年の冬大雪」としている。
正確には、
昭和8年12月~昭和9年2月が、冬季であり、まさに離村のきっかけとなる大雪のあった時期であろう。
昭和9年1月~2月ごろの積雪が3mに達し、死者も出て、昭和9年3月26日に脱出したというのが事実であろう。




7.八丁を語る文献等の紹介

廃村八丁と土蔵の様子は上の年表のとおりであるが、ここでは過去の文献の記述をそのまま抜粋して紹介する。


 ※なお、引用にあたっては、旧字体、旧仮名遣いについては、適宜、新字体、新仮名遣いに改めているので、了解いただきたい。一部は旧のままの場合もある。

 ※八丁の歴史、そして、廃村八丁の土蔵の歴史を伝えるために、文献の一部をそのまま引用したものであり、関係者のご理解をいただきたい。

<昭和初期以前の歴史>



 (『京都府の地名』平凡社、1981年、410~1ページ)


<1931年(昭和6年)>

八丁小学校の横に来ると、中からオルガンの伴奏につれて、ドラ聲の独唱が始まった、正面に行ってガラン洞の中をのぞくと夫婦らしき小学校の先生――といったって着物の上に大原女のはくパッチをはいて居る御仁だ。伴奏方は頗るヒナマレなお方だ。

昭和九年一月一五日納本の『嶺』第二号所載の瀧山和「弓削八丁方面ワンダリング」)
昭和6年11月22日(日曜)に京一中山岳部の瀧山和たち3人が八丁を訪れたときの記録)
(途中、八丁で法事があったという坊さん二人に会う。八丁では子供たちが珍しそうに眺めていたという。)
(この『嶺』が発行されたころ、八丁の人々は大雪に苦しんでいたのである。)

(斎藤清明『京の北山ものがたり』松籟社、1992年、107ページ)

  (※)八丁分教場は、明治33年4月19日設置、大正13年廃止とある(弓削小学校百年誌、昭和48年)。
     2012年10月 歴史をつなぐ廃村八丁ハイクのPDFファイル「五戸の住戸について」でも、大正13年3月31日廃校とある。
     従って、上記のようなオルガン伴奏・独唱の様子が、廃校後なのだとしたら、謎が生じてしまう。
     もっとも、分教場の教員宿舎跡には昭和6年4~5月ごろの新聞が見られたというから 朝日新聞昭和34年9月20日記事)
     
(森本次男『京都北山と丹波高原』山と渓谷社、昭和39年)、
昭和6年4月当時、教員宿舎が使用されていたことは確かである。
     いったん公式に廃校になったあと、昭和6年ごろ、八丁に夫婦で住んで、子供たちに教えていた教員がいたことになる。




<1933年(昭和8年)~1934年(昭和9年)>


廃村八丁
 昭和八年~九年にかけて八丁は大雪に見舞われ、陸の孤島となって多数の犠牲者や凍死者を出した。大雪の恐ろしさのため昭和一六年頃までに全戸離村した。

(内田嘉弘『京都丹波の山(下)』ナカニシヤ出版、1997年、142ページ)




<1934年(昭和9年)>

 八丁が廃村になった原因は、いろいろ伝えられているが、最後の村民でいまも広河原に住む本田はきさんや、八丁から広河原に養子にきた段下常三郎さんの話では「昭和九年の冬、三メートルの大雪が降った。このため病死者の葬式も出せず、三日も死者を放置せねばならなかった。もともとみんな八丁にはいや気がさしていたので、雪がとけた三月二十六日、八丁をみすてた」といっている。

(毎日新聞京都支局編『京の里 北山』淡交新社、昭和41年、76~78ページ)




<1935年(昭和10年)~1936年(昭和11年)>
 
 
白壁の土蔵は流石に堅牢で聊かの衰へも見せては居ない。・・・そう云へばその分教場も黒板には算式が描かれた儘であり・・・。




(川島宙次「民家をちこち(14)丹波の癈家(廃家・癈屋)」・・・『新住宅 3巻16号 6月号』新住宅社、昭和23年6月、170~2頁)

 ※昭和23年6月の雑誌の記事だが、文中の末尾に「私が此の村を訪ねたのはもう十幾年も前の事である。その後戦時中近隣に・・・」とあり、昭和23年から遡って12~13年前と推定できること、戦前(狭義で昭和16年12月の太平洋戦争勃発以前、広義では昭和12年7月の盧溝橋事件と同8月の日中全面戦争勃発以前を言う。従って昭和11年以前)であることがわかる。また、記事は廃村後の描写になっているので、廃村になった昭和9年より後ということになる。以上の材料から、昭和10~11年ごろと判断できるだろう。


<1936年(昭和11年)>

弓削八丁

 広大な丹波高原に属する地域には、数知れぬ多く部落が散在している。もとよりいづれも山村ばかりであるが、その中でも最も典型的な山村は、弓削村に属する八丁の部落であろう。地図を見ても判るとおり、海抜七〇〇m以上の山間の盆地に所在し、四方を八、九〇〇mの山嶺に取巻かれ、どの方面からこの部落へ入ろうとしても、八〇〇m内外の嶮しい峠を越さねばならない、全く浮世の外に取残された別天地である。屏風のように並ぶ山々に挟まれた谷の奥、実際見るに及んで予想以上の山村なることに驚いたくらいだ。現在の戸数は僅かに五軒、昔から一〇戸に足らぬ聚落を成し、各戸とも広大な山林を所有し、土地柄生活は不自由であるが、経済的には富裕な村として知られていた。それにはかような歴史があると土地の古老から聞いたままをお取次する。
 部落の祖先は、八丁に属する広大な山林の番人として定住し、幾世代かの長い星霜を経た。徳川幕府末期の混乱時代に、会津藩の志士と称する惣兵衛という人物が、反対派からつけ狙われる危険を免かれるため、八丁の部落に潜入し、村民に読書などを教えて身を隠していたが、なかなかの人物だったらしく、その尽力のお蔭で広大な山林は村民の所有と確定するに至った。一戸当り三〇余町歩になるというから大したもの。山には田は一町歩しかなく、一軒の食用にも足りない。山林収入の外に炭を焼き、米、塩その他の物資に替えていた。ところが時代の風はかかる山里にまで吹通うて、不自由勝な山の生活が厭になり、町に出て商売を始める人達も生じたが、山家育ちの俄商売では、もとより成功する筈はなく、山林を手離しては金に替え、次第次第に没落の淵に沈む村人もでき、最近まで五軒の家だけが土地を守ってきた。
 しかし
昭和九年に降った大雪は、全村挙げて山下の里へ移住するの余儀なきに至らしめた。当時山国村方面でも積雪一・五mに及んだというくらいで、八丁部落は三m以上に達して軒を埋め、里との交通杜絶すること二〇日以上、食料缺乏のため全村民餓死にひんせんとした苦い経験の結果、墳墓の地を捨てる悲痛な決意を抱くに至ったものである。
 無人の家屋のみが寂しく残る廃村を訪れるつもりで、卒塔婆峠を越えて村に入ると、取つきの家が開いて人がいた。前に大きな朴と栗の老木が茂って根元に小祠が祀ってある。聞けば山林の手入に、雪の消えるのを待って一週間くらいの予定で登ってきたとの話だ。八丁川の流に臨んで五軒の家が、とびとびに建っている。
家の造りもガッチリとしていづれも立派な土蔵がつき、建腐れのまま放置してしまうのは惜しいものだ。盛夏でも裸でいられる日は少なく、蚊帳を使ったことはないというから、暑を避けるには申分のない土地であろう。・・・
 ・・・八丁川の本流に合する附近は八丁部落の中心となり、谷間にやや広い平地が拓かれて空屋が離れ離れに散在し、
いたずらに白い土蔵の白壁や谷に架す頑丈造りの立派な橋などが、ありし昔の全盛を物語っている。

(住友山岳会『改訂増補 近畿の山と谷』朋文堂、
昭和11年、430~2ページ、435ページ)


    ・・・
蚊帳を使ったことはないというから、暑を避けるには申分のない土地であろう。
 
現在はここでは何か工事が始まって、家々は半島人の占拠する処となっていると、最近行った人に聞いた。

(住友山岳会『新版 近畿の山と谷』朋文堂、昭和16年、390~2ページ)  

    ※昭和16年版では、昭和11年版と異なる記述として、
上の1行が追加されている。他の記述は同一である。


<1938年(昭和13年)>

(巻頭言)



(丹波高原)西部篇 (廃村八丁を中心に)

 ・・・
の頃上弓削に属していた八丁は小盆地の周囲をことごとく山にかこまれて、何れの地へ出て行くにも峠を越さなければ出て行けなかった。・・・
 低いけれども由良川と大堰川、北日本と南日本の分水嶺をなす
の山塊は実に重疊としてきわまりない。
 八丁は
の間にあって村を取巻く巨大な山林を財源にして長く静かな平和な生活を続けて来た。
 明治になって私有山村の登記が行われる時に、
の八丁に隠棲していた奥州会津の藩士、惣兵衛と謂う人が村全体を代表して各箇の私有山林を村有の山林として、非常に広大な部分を村のものにしてしまったのだとう。
 
の時から村の戸数は限定されていて、収入はの戸数に当てられると云う共産制度の山村であった。がの制度もやがて時代と共に崩壊し、各箇の私有財産になると共にの財産を処分する者も生じて来たのと、文化の発達が人間生活を贅沢にして来たため忍従の生活に耐え切れなくなり数年前の大雪に交通が全然杜絶した時飢餓に瀕した結果、大挙一村あげて平地への生活に山を下ってしまったのであった。・・・
 兎に角其の間の変遷はさておき、現在では八丁に常住の人達は誰もいない。

 
草葺屋根の大きな田舎家は屋根にチギを戴いて、今もの主人の帰りを待つに立っている。少しばかりの山田も今は作る人も無く荒れはてて、芒が丈高き穂をいたずらに空に向けてのばしている。
 清水橋・学校橋・出合橋と今なお堅牢な木橋は八丁川源流にかかっているが通る人もない。
 静かに時と共に崩れてゆく砂時計の
に廃滅して行くこれは廃村である。
 八丁をたずねるのは秋が一番よいであろう、丈高き芒が銀の穂槍を空へなびかせ、秋風ゆらぐ時分に、芒原を分け分け散在する藁家をたずねたり、淋しい分教場の教室へ山靴のまま上って行けば黒板も昔のまま生徒への注意書も算術の九九の張紙も古ぼけたまま壁間に残って居り、オルガンさえ窓側に置かれてある。窓から芒の穂の上を滑ってさしこむ斜陽をあびて音のせぬオルガンを鳴らしているのは、山旅感傷を十二分に満足させてくれよう。
 所々の橡の大樹、
白壁の土蔵、流石は堅牢な作りであっただけに何年たっても壊れようともしない。自然の同化力もまだまだ働かない。だが自然の力は時間的には長くとも大きいものである。眼に見えない間に壁の隙間から戸の間からじりじりと同化作用は進むでいる。やがては狐狸の巣ともなり、いつかは此処に昔八丁と云う山村があったとうことを、崩れかけた石垣の上に腰かけて語る時が来るであろう。
 八丁も今後どんな変化をするかも知れない。今の間に廃村の気分を味わいに出かけた方がよいであろう。

 八丁への道

 広河原道 ・・・
の出合まで来れば八丁は近い。やがて谷はだんだん広くなり草原の間に白壁の土蔵が現われ橋が見え、足はず廃村八丁へと入って行くのである。・・・

 東谷 道はだんだん細くはなるが木材やマンガンの運搬に使用した道なので、
ず車道に近いとうことが出来よう。・・・衣懸坂登り口にマンガン採取の廃坑がある・・・の峠を卒塔婆峠とう。・・・
 峠を下ると云ってもごく緩い下りを行けば八丁川支流のババ谷の水源に出る。静かな人気の無い谷沿い道を下って行けばやがて八丁川本流に合する。
 道もよくなって右側に八丁の墓地がある。面白い自然石を重ねた墓も見られる。八丁の人達も生活としては八丁を捨て去ったかも知れないが、祖先の墳墓は流石に捨て去るわけにはゆかないと見えて、墓地は美しく清掃されている。時々は八丁に昔棲んだ人達が墓参に来るのであろう。
 
のあたりから猫額の山田が山の間に展開する。そしてず八丁最初の民家が諸君の眼に触れるのである。・・・

積雪期の京都北山と丹波高原
 ・・・
 
▲もはや今では北山の名所のように登山人にわれる八丁はよく八丁平と混同されるが、これは弓削八丁と云うと明瞭かも知れない。
 数年前の大雪以来
の冬季間の生活を脅かされた結果、全村をあげて平地に移住してしまったので二三年前からは全くの廃村になっている。の事実からして雪の多い事は考えられよう。立派な藁家はのまま朽ちて自然に帰る日まで狐狸の棲家になるのであろう。小学校の分教場には生徒の机は荒れはてたまま置いてあるが村童は一人もいない。秋は銀の穂芒の中にチギをいただいた藁家が淋しく立っているが、冬ともなれば丈余の積雪の中に軒まで埋められた此の廃墟は人間の代りに狸や狐の足跡、たまには熊の足も見出せようとう所である。此処を中心の山旅は冬以外ならば京都から日帰りも可能であるが、積雪期となれば日帰りは難かしい。・・・

(森本次男『京都北山と丹波高原』朋文堂、昭和13年、146~153ページ、189・192~3ページ



<1940年(昭和15年)>


北山日記 =山の季節=

       夏
 ・・・
 雨期が過ぎると渓の水は澄んで来る。そして山原は一面の緑でかくされてしまう。草苺は早や実をつけ始める。朴の木や橡の大葉が渓間の青空をかくしてしまう。胡桃が青いひょうきんな鈴を沢山枝につけはじめる。
 こうなると私共はもはや藪の尾根を捨てて渓を歩き始めるのだ。
 山靴の代りに草鞋をはいて谷の水の冷たさを悦ぶのだ。
 
八丁と云う廃村を中心に美しい谷がいくつもかくれて居る。
 
少々交通が不便なので此の廃村に憧がれて居る人は多いのだが行く人はあまり無い。
 
北山の最もよい所、種々な点で代表的な所だと私は思って居る。
 
八丁の廃村には未だ捨てられながらも使える家が何軒もある。其処にベースを置いて一日は八丁川を下ろう。殆んど一日中水に浸りながら・・・・・・。一日は八丁川を遡ろう。大きな懸崖にはさまれた廊下の間には、かなりな滝がいくつも連続してかかって居る。水に濡れ岩を楽しんで滝を全部登り切れば八丁の高原だ。
 大きな栂の木が空に聳えて、空にはもうムクムクと積乱雲が壮んな形を描いて居るのだ。・・・

 
(朝史門 〔=森本次男〕 『山と漂泊』 朋文堂、昭和15年、69~70ページ) 山を歩いて考えること(朝史門=ペンネーム=アーサー・シモンズのもじり)



<1941年(昭和16年)>

八丁山五戸の弓下熊二郎・本田嘉右衛門・段下久右衛門・弓下三右衛門・山本吉左衛門、この五人は四十四町九反五畝を公平に五等分して、豊かなくらしをたてていたが、二メートルを超える豪雪地帯に病人が出ても医者を迎えることもむずかしく、ついに八丁山に永住する意欲を失い、離村する者が出ると、次から次へと八丁山を捨て、宗家の山本家が最後に八丁山を去ったのは昭和十六年頃で、それから、誰が名付けたのか「廃村八丁」の名で全国に広く知られるようになった。

(『京北町誌』京北町、昭和50年、607ページ)



【廃村八丁】木材の宝庫として鎌倉末期から六〇〇年ちかく、知井庄(現美山町)と弓削庄(現京北町)の間で境界争いが続いたところ。明治十一年に至って和約が成立、八丁山番五戸が村を形成して五〇〇町歩の山林経営をする平和な生活が続いた。しかし昭和に入り、電灯も医師もラジオもない生活に人々は耐えきれず、同九年の大雪で飢餓の辛酸をなめ、四戸が故郷を捨て、最後の一家族も同十六年に去って八丁は廃村となった。

(京都新聞社編『京都滋賀 日帰りハイク』京都新聞社、最新版、昭和61年、215~8ページ)



<1942年(昭和17年)>

八丁二昔

 廃村八丁といえば、最近ではこれも八丁平と同じように北山の名所の一つになってしまった。
随分人が行くらしく、見せてもらった写真には土蔵の白壁に東京の銀座が刻明に画いてあった。
クラブの人達も大ていは訪れているのであるが、私は最近の八丁を知らないので八丁について何も語る資格がないと思っている。聞く所によると山仕事の人々も入って寝泊りしているらしく、あまり廃村という感じはしないらしい。折角荒涼たる廃村の風情を期待していったのにあれでは何も廃村、廃村とさわぎたてる程のことはないではないかと屡々聞かされるのである。これはもっともなことであろうと思われるので、一つ廃村が廃村であった頃の話をする事にする。私がはじめて八丁を訪れたのはたしか、昭和17年頃だったと思う。佐々里峠から880.7に向って尾根を歩いて来た私と友人の二人はその夜は八丁の廃屋で泊ることに決めていた。村に入って今記憶に残っているのは土蔵の白壁が気味の悪い程白かったこと。異様な静寂。図画や習字の生徒の作品が分教場の床上に散乱していた光景。それからこゝで泊るつもりでいたのにどうしても怖くて、わざわざ山腹のブッシュの中でやっと安眠出来たこと等である。この恐怖は純自然に対する恐怖とは異質なものであった。何かぞっとするようなもの、墓とか死とかにつながるような恐怖を感じたという感覚だけが残っている。今になって思えばこれは果して現実の実感であったのだろうか。又は年少の多感がさせたわざであったのだろうか。それとも狐狸のたわむれとでも云い去るべきものなのか。いづれにしてももう今ではフィルムの一こまのような古い思い出である。読む人によってどのように解釈してもらっても結構である。当時は既に太平洋戦争に入っており、北山など歩く人は数える程しかなかった時代である。今日のように幾組ものパーティがダンノ峠を登って行くというような風景は予想さえも出来なかった。こんなことを書いても今の若い人々は尚首をかしげるかも知れないが、こんな荒廃もあったのだということを知っておいてもらえばよいのである。私は何も昔がよかって今がつまらないというのではない。昔は昔のよさが、今は今のよさがあると思っている。だが何故かその后20年訪れてみようという気が起らない。(1961.7月  金久昌業)
(『京都北山レポートシリーズNo.1』北山クラブ、1961年8月、124~5ページ)

※金久氏のはじめての八丁訪問は「昭和17年頃だったと思う」とあるが、金久昌業編『京都周辺の山々』(創元社、昭和52年)には「昭和18年」、北山クラブ『京都北山2』(昭文社、1988年)には「昭和18年頃」とある。このレポートにまとめた1961年(昭和36年)時点で、すでに、曖昧になっていたのであろう。

<1943年(昭和18年)>

(丹波高原)西部篇 (廃村八丁を中心に)

 ・・・
の頃上弓削に属していた八丁は小盆地の周囲をことごとく山にかこまれて、何れの地へ出て行くにも峠を越さなければ出て行けなかった。・・・
 低いけれども由良川と大堰川、北日本と南日本の分水嶺をなす
の山塊は実に重疊としてきわまりない。
 八丁は
の間にあって村を取巻く巨大な山林を財源にして長く静かな平和な生活を続けて来た。
 明治になって私有山村の登記が行われる時に、
の八丁に隠棲していた奥州会津の藩士、惣兵衛と云う人が村全体を代表して各箇の私有山林を村有の山林として、非常に広大な部分を村のものにしてしまったのだとう。
 
の時から村の戸数は限定されていて、収入はの戸数に当てられるという共産制度の山村であった。がの制度もやがて時代と共に崩壊し、各箇の私有財産になると共にの財産を処分する者も生じて来たのと、文化の発達が人間生活を贅沢にしてきたため忍従の生活に耐え切れなくなり数年前の大雪に交通が全然杜絶した時飢餓に瀕した結果、一村あげて平地への生活に山を下ってしまったのであった。・・・
 兎に角其の間の変遷はさておき、現在では八丁に常住の人達は誰もいない。

 
草葺屋根の大きな田舎家は屋根にチギを戴いて、今もその主人の帰りを待つように立っている。少しばかりの山田も今は作る人も無く荒れはてて、芒が丈高き穂をいたずらに空に向けてのばしている。
 清水橋・学校橋・出合橋と今なお堅牢な木橋は八丁川源流にかかっているが通る人もない。
 静かに時と共に崩れてゆく砂時計
の砂ように廃滅して行くこれは廃村である。
 八丁をたずねるのは秋が一番よいであろう、丈高き芒が銀の穂槍を空へなびかせ、秋風ゆらぐ時分に、芒原を分け分け散在する藁家をたずねたり、淋しい分教場の教室へ山靴のまま上って行けば黒板も昔のまま生徒への注意書も算術の九九の張紙も古ぼけたまま壁間に残って居り、オルガンさえ窓側に置かれてある。窓から芒の穂の上を滑ってさしこむ斜陽をあびて音のせぬオルガンを鳴らしているのは、山旅感傷を十二分に満足させてくれよう。
 所々の橡の大樹、
白壁の土蔵、流石は堅牢な作りであっただけに何年たっても壊れようともしない。自然の同化力もまだまだ働かない。だが自然の力は時間的には長くとも大きいものである。眼に見えない間に壁の隙間から戸の間からじりじりと同化作用は進むでいる。やがては狐狸の巣ともなり、いつかは此処に昔八丁と云う山村があったとうことを、崩れかけた石垣の上に腰かけて語る時が来ることであろう。
 八丁も今後どんな変化をするかも知れない。今の間に廃村の気分を味わいに出かけた方がよいであろう。
 
私は改訂に際してこの一節をなつかしく読んだ。現在ではマンガンの採取と伐材のため労働者が多数入って飯場のようになっている。変化がかくも早くおとずれようとは私の予期しない所であった。だがこれも一時的のこと、亡びた村はいずれ自然の中に埋れてしまうであろう。

 八丁への道

 広河原道 ・・・
の出合まで来れば八丁は近い。やがて谷はだんだん広くなり草原の間に白壁の土蔵が現われ橋が見え、足はず廃村八丁へと入って行くのである。・・・

 東谷 道はだんだん細くはなるが木材やマンガンの運搬に使用した道なので、
ず車道に近いとうことが出来よう。・・・衣懸坂登り口にマンガン採取の廃坑がある・・・の峠を卒塔婆峠とう。・・・
 峠を下ると云ってもごく緩い下りを行けば八丁川支流のババ谷の水源に出る。静かな人気の無い谷沿い道を下って行けばやがて八丁川本流に合する。
 道もよくなって右側に八丁の墓地がある。面白い自然石を重ねた墓も見られる。八丁の人達も生活としては八丁を捨て去ったかも知れないが、祖先の墳墓は流石に捨て去るわけにはゆかないと見えて、墓地は美しく清掃されている。時々は八丁に昔棲んだ人達が墓参に来るのであろう。
 
のあたりから猫額の山田が山の間に展開する。そしてず八丁最初の民家が諸君の眼に触れるのである。・・・

積雪期の京都北山と丹波高原
 ・・・
 
▲もはや今では北山の名所のように登山人にわれる八丁はよく八丁平と混同されるが、これは弓削八丁と云うと明瞭かも知れない。
 数年前の大雪以来
の冬季間の生活を脅かされた結果、全村をあげて平地に移住してしまったので二三年前からは全くの廃村になっている。の事実からして雪の多い事は考えられよう。立派な藁家はのまま朽ちて自然に帰る日まで狐狸の棲家になるのであろう。小学校の分教場には生徒の机は荒れはてたまま置いてあるが村童は一人もいない。秋は銀の穂芒の中にチギをいただいた藁家が淋しく立っているが、冬ともなれば丈余の積雪の中に軒まで埋められた此の廃墟は人間の代りに狸や狐の足跡、たまには熊の足も見出せようとう所である。此処を中心の山旅は冬以外ならば京都から日帰りも可能であるが、積雪期となれば日帰りは難かしい。・・・

(森本次男『京都北山と丹波高原』朋文堂、昭和19年改訂版、167~174ページ、213・216~7ページ
  (※ 巻頭の「改訂版の序」、巻末の「登山者への注意その他」の日付は、
「昭和一八年九月」である。)



<1955年(昭和30年)>


八丁山

 京北町上弓削部落の奥山八丁山は、・・・こゝは今は無人となった癈村の跡として奥山自然林、渓谷の美を誇り都市の俗塵をいとうハイカー、登山家等の興味をそゝっているが、八丁山の歴史は亦山論の歴史でもある。こゝが明治一一年六月、最終的に和済が成って上弓削村と佐々里村との境界が決定する迄、実に六〇〇年に近い間の争いであった。
・・・(以下、山論の概略が、鎌倉時代から明治12年まで、文書の原文を引用しながら詳しく述べられている)・・・

 ・・・明治二二年八丁山住五戸の者共の永年僻遠不便の地に居住して山林保護の任を全うした功労に報いるため八丁山第二番地の中四十四町九反五畝を金九十円で売渡し、左のように変更された。・・・

 併しこのかげには在住五戸の者の明治初年以来の辛苦の努力のあとがあったらしく、一説には当時八丁山に隠棲していた会津藩士原惣兵衛が、五戸の者を代表して奔走したと言われているが、記録にとゞめるものとては何もない。・・・

 明治以後八丁五戸は依然としてこの厖大な実測反別約五〇〇町歩の山林を有して、分家すれば京都その他の地に出でて永らく五戸で以て続けてきたが、大正に入って本田嘉右衛門の次男糸之進が部落内で分家して六戸となった。明治三三年には博習校の分教場も設けられ、多い時で八人、少い時は三人位の児童に一人の先生が教鞭をとり、児童一人当りの教育費は全国稀な高額についたといわれるが八丁人は弓削村に苦情を言わせなかった。
 この桃源境八丁も文化の発達と共に次第に中央文化からとり残され、遂に
昭和八年の冬大雪に遭って食糧は欠乏し、病人ができても医者の便もなく、さんざんの目にあった所から遂に一村あげて住みなれた山をあとに平地へ下ったのであった。
 その後昭和一一年頃には山国村が村有林として買い込む話も極秘裡に進められたこともあったが、村内一部の強固な反対で遂に流れてしまったという。終戦後山林インフレと共に、この山をトンビが殆んど全国に売り歩いたが、遂に東京の竹村太市の手に入り、事務所を山国の小塩に置き、八丁集落癈墟の跡に木の香も新しい作業場を建て林業労働に従事している。
 現在癈村となっている部落の神社八幡宮の入り口にある八丁山記念碑には次の文字が刻まれている。


現今ノ八丁山ニ畠地ヲ所有ニ移サント発者ガ明治元年ヨリ多大
ノ苦心ト費用ヲ償
明治九年六月京都府ノ許可ヲ得テ今日ニ至ル
コノ由ヲ次第世ニ伝ント云爾
 発
者 山本吉右衛門 本田嘉右門 段下久右門  弓下門 弓

  明治四十五年四月三日建


(羽田巌編『北桑田郡誌 近代篇』北桑田郡社会教育協会、非売品、昭和31年発行、昭和34年再版、268、279、281ページ)
  (※序文は昭和31年1月20日付で、編集作業は主として昭和30年6月~12月に行われているので、実質上、昭和30年の著作である。)
  (※記念碑の碑文については、昭和39年の森本次男氏の解読文への注記も参照のこと。上記の文は『京北町誌』とほぼ一致するが、青字が、異なっている。)

   (※)この文献に掲載されている「八丁山」の項目の古文書を収めた全文は、後掲の 8.「八丁山」の歴史』 を参照されたい。

<1957年(昭和32年)>

98 八  丁

 廃村八丁で有名な八丁山は・・・その歴史は全く山論の歴史であり、鎌倉時代以来約六百年、明治の初めにいたり最終的に解決するまで長い間の争いであった。

 ・・・
 しかし明治二十二年に至り、八丁山住五戸の者の永年の労に報いるため台帳面積四十四町余の地を五戸の者に売渡してこの土地争いは終止符をうたれたのであるが、その後五戸の者はこの厖大な実測約五百町歩の山林を有して、分家すれば京都に出、永らく五戸のままで続けてきたが、大正に入り本田嘉右エ門の次男糸之進が部落内で分家して六戸となった。明治三十三年には小学校の分教場も設けられ、多いときで八人、少いときは三人位の児童で児童一人当り教育費は全国でも稀な高額についたといわれるが、八丁人は弓削村にも苦情を云わせなかった。
 この桃源境八丁も次第に中央文化からとり残され、遂に
昭和八年の冬大雪に見舞われ、食糧は欠乏し、病人が出ても医師の便悪く、さんざんな目にあったところから一村あげて山を出、廃村のうき目をみたのである。しかし終戦後は山林インフレとともに、今や新しい事業主の手に落ち、廃屋のあとに木の香も新しい作業場や、小屋が出来”八丁はも早廃村ではない”の言葉通り活気に満ちている。
 そして特に初夏から初秋にかけて、俗塵をいとうハイカーや登山家たちは、奥山の山林と渓谷の美を求めて訪れる数も次第にましているのがこの八丁である。(写真は八丁山記念碑)

(吉田證編・京都新聞社提供「丹波路―史跡と伝説―」日本科学社、昭和32年12月25日印刷、昭和33年1月1日発行、196~7ページ)
(※吉田證氏は京都府立園部高等学校教諭。上の本は、京都新聞の「丹波版」に昭和32年2月から連載された「丹波路」を編集したもの)
(※上の「八丁」の記事を読むと、上掲の昭和31年発行『北桑田郡誌 近代篇』の「八丁山」の記事をダイジェストしていることがわかる)


<1958年(昭和33年)>


廃村八丁

 そういう部落があつたということを聞いたのは随分昔のことであつた。・・・
 いつからそこに棲み始めたということも分らない。何処からこんな山の中に、何の理由があつて入つて来たのかも分らないが、・・・その山林が部落の各個人の所有でなく、村としての財産であり、各個がそれを分担して働いている。つまり共産制の生活をしていたという。その部落はかなり古い昔からあつたものらしいが、今から三十年程の昔、私がこの話を聞いた時から既に四五年前らしいが、その頃は今とちがつてかなり冬には大雪がふつた。・・・住んでいる人達が、こうした自然の恐畏(い)に耐えられなくなつたのであろう。一部落が合議の上、共有財産を分割処理して平地へ下つてしまつたという。そしてその部落は今や廃村になつて亡びつゝある、という話であつた。・・・
 八丁は地理的に周山町の弓削(ゆげ)という字(あざ)に属していたので、土地の人達は弓削八丁とよんでいた。この弓削にもきつと弓削道鏡の伝説でもあるのだろうと思う。・・・
 私が入つた時は部落の人達が引上げて、まだ何年もたつていなかつた時にちがいない。虎越から下りついた所はまだ立派に田の形を残していたが繁殖力のつよい芒がもはや一面に田の表に勢のよい葉をのばして白い穂を風にゆり動かしていた。田の間を通つて点々と散在している藁屋は、みんなかなり大きな家でがつちりとした丈夫な建物であつた。杉林とやがて紅葉になろうとする雑木の中に汚(よご)れのない白壁が気味の悪いほど眼にしみた。雨戸はたてゝあるが裏口はあいていて、そこには手おけや台所の雑器などが昔のように置かれてあつて、声をかけると「どなた?」と家人が出て来はしないかと思われるほどであつたが、何としても人間の棲まない家というものはいつの間にか気のつかないようなすみずみから崩壊(かい)を始めていた。白壁は下の方からくえ始めてひゞが入り、藁屋根の端はくされおち始めて、ぬぎ捨てられた草履が形のままでくさつていた。
 この八丁の部落には私一人だつた。そして何の音もしないほんとの静寂でつゝまれていた。・・・
 八丁川の清流はだんだん小流になつて村の道は清水橋、学校橋、出合橋と三つの橋がかゝつて居た。橋の名前はまだ朽ちる所まで行つてない橋の柱にほつてあつたのを読んでおぼえた。学校橋のほとりには小さな分教場があつた。教室が一つ控室が一つ、そして教室はこわれた机や小さな椅子が二つ三つ散らかつて、壁には破れかけたり、はげ落ちかけて、算術の九々や、生徒の成績が残つて居た。こわれたオルガンが一つ残されて居たが、キーをおすと音が全然出なかつた。窓の硝子はほとんどこわれて芒が白い穂を風にゆらせてのぞいていた。どんな先生が居て、どんな生徒がこの教室で複式授業を受けていたのか、などと考えてみたりした。秋の陽に照らされて白い芒の穂を渡る風に吹かれて、この朽(く)ちゆく廃村の分教場で音の出ないオルガンを鳴らしてみた時は、音が出たよりもよほど気味の悪い思いがした。
 分教場の前には先生の家があつた。これも部落でたてたものだろう。都会風に小ぢんまりした家は、分教場よりも腐(くさ)れかたが早く、床が落ちて畳がくさり、その間に草が青白い草をのぞかせていた。・・・
 これが私の最初に八丁に入つた時であつた。それから私は度々この廃村をたづねた。「ほろぶるものはなつかしきかな」という牧水風の感傷ででもあろうか。
 ある時は北の方の広河原の部落から入つた。広河原には米田屋(よねだや)という田舎の商人宿があつた。土曜日の夜をその薄きたない宿にとまつて八丁の話を聞いたものであつた。米田屋には明治五年生れの老爺が居て度々八丁の懐古談を聞かせてくれた。
 八丁が共産部落になつたのは、明治維新の時どこからともなく部落に入つて棲みついた奥羽の武士だという苗字は分らないが、惣兵衛という人が頭に立つて組織だてたのだということであつた。・・・
 米田屋の老爺はその惣兵衛さんに謡を習つたということであつた。いろいろな話を聞いたものだが何分昔のことでもあり、民俗学に興味がないのですつかり忘れてしまつたことはまことに残り惜しいと思つている。 ・・・
 次の道を左へとれば衣懸坂という峠を越えて山国(やまぐに)に出る。広河原の村人にたづねると越えられるだろうといつも云うが、三十数年の昔から全然道はない。ひどい籔漕ぎをして一度だけ越えたことがあるが、五万の地図には未だに点線路が記してある。・・・
 さて残りの道をゆくと谷をつめる手前で分れた小路を左へとつて登りつめるとダンノ峠という峠につく。・・・
 この高原をすぎると小川を渡って峠にかゝる。この小川は八丁川の源流なのだ。峠はまことに小さな峠だが下りは急だ。四郎五郎(しろごろ)峠というと広河原で教えられた。この峠を下つて谷を出はづれると白壁の家が見える。そして出合橋のたもとに出るのだ。・・・
 たづねる度に廃村は崩壊(かい)の度を増して行つた。やがてある家はかたむき、ある家は崩れかけた。田畑もやがて形を失つて雑草原になつて行つた。
 山国から小塩を通つて衣懸坂へ行く途の途中から思いがけない山腹へ登る小路がある。教えられなければ必ず分らないといつてよい路なのだが、その小路を登りつめると卒塔婆(そとば)峠という峠に出る。卒塔婆峠を下ると、やがて八丁、部落へ入る前に峠の麓に村の墓場がある。いつたづねても美しく清掃してある所を見ると村は捨て去つても、村の人達は現在の墓は絶えず清掃に来るらしい。昔風の人情の厚さが偲ばれる。ありきたりの小さな石の墓にまじつて自然石を利用した面白い形の墓が一つあるのが未だに印象に残つている。卒塔婆峠という名は多分この墓場が麓にあるからつけられたもののようだ。・・・
 釜ヶ原にはなお八丁の出合橋から品谷(しなだに)峠という峠を越えて下る山路もある。この道は殆んど人が通らないので大変草がしげつている。
 こうして私は度々廃村をたづねた。・・・
 ある時はマンガン鉱の採取に鉱夫達が思いもつこを肩にかついで八丁を出入りしていた。そして八丁はその鉱山の飯場になつていた。マンガンは京都は日本で一番産出額が多いと昔知つたが今はどうであろう。そしてこの辺のマンガンはポケツトという鉱床で少しづゝ存在するのだということだ。やがて八丁附近が掘りつくされると鉱山は中止になつて鉱夫達は山を下つてしまつた。そして八丁はまた静かな廃村になつて時をきざんでいたのだ。ある時は枕木(まくらぎ)の会社が伐木に入つて人夫が又沢山八丁の飯場に集まつた。やがて買取つた山が終了すると、人夫達は山をおりてしまつて八丁はまた静寂な廃村にかえつた。やがて又他の会社が山を買つて又伐木製材に入つた。そして八丁はまた賑やかな飯場になつた。だがこれも長くはつゞかない、伐木がすめばこの人達は山を下つてしまうのだ。
 私が八丁をたづねてからもはや三十年の年月がすぎた。その間に八丁はこのように変遷を続けてきたが、最初にあつた八丁はその年月に応じて亡びを続けている。やがていつか八丁は全く自然の中にとけこんでしまうのだろうと思われるが、卒塔婆峠の墓地もだんだん子や孫(まご)の代になれば忘れられてしまうことであろうが、たゞ一軒だけ広河原から登つて四郎五郎峠を越えて出合橋に来る途中に、いつまでも美しく白壁を残している家があるのを私は知つている。そして此家の人だけが昔の八丁を忘れずに、今でも時に登つて来て仕事をしているということも私は知つている。

 
 森本次男「廃村八丁」(新稿)(北川桃雄編『日本の風土記 京都・奥丹波』宝文館、昭和34年3月5日第一刷発行、234~243ページ)

 ※『日本の風土記 京都・奥丹波』は、『京都風土記 ―日本の風土記―』と改題して、宝文館出版編・発行で、昭和48年に発行された。
  内容は全く同一で、一切、修正されていない。後者だけしか知らない場合、森本氏の新稿「廃村八丁」は昭和40年代の原稿と誤解する
  おそれがあるが、最も新しい収録文は昭和33年発行書から選ばれており、「廃村八丁」も昭和33年ごろに執筆されたものと考えられる。

  昭和32年秋に描かれた土蔵の壁画についての記述がないので、昭和32年夏以前の情報によっていることが明らかである。



<1958年(昭和33年)>

廃村八丁昔がたり

(その一)
・・・私が八丁に興味を持ち始めたのはその部落が廃村であるという事、私の父がそこへ行きたがっていた事を母に聞かされた事と、八丁を捨てた張本人に部落についての想い出話を聞かされてからだ。弓削八丁は今日の地図にはもう書いてない。八丁に住んでいた五家族の人々は、昭和18年に部落を見捨てて、ほとんど京都へ移住して廃村となったのだが5、6百年も前から住んでいた人々が何故部落を見捨てたのか、その原因は語る人によって色々だ。
 第1語〔原文ママ〕 部落の長は本田糸之進という白髪の老人、冬の或る夜この糸之進の家の雨戸をたゝくものがある。糸之進が雨戸をくると、真黒い手が握手を求める様にさし出された。クマ! 家の中に餓えたクマが侵入してくる様では我八丁も安住出来ないと意見をまとめて部落を出る事にした。
 第2話 部落の弓下某の子供が重い病気になった。各戸から決死隊が出て医者を迎えに行った。医者がかつがれて部落についたのは三日目。子供は死んでいた。幼い生命を見殺しにする生活。二家族がまず部落を出た。
 第3話 八丁には水田が八反しかなく、戦時の食糧統制は配給米によっていた。処が雪に埋もれる11月から3月迄は主食配給をうける事が出来なかった。部落を見捨てるか、全部餓えて死ぬか――食糧統制が彼らを八丁から追い出した。
 さて張本人たるじいさんの話
「第1話は少しおかしいナー。今さらクマが出たからっちゅうて別にめずらしい事でもないのでナ。第2話、第3話も原因だよ。しかしだいたい人間が明治以来ハイカラになったんだナ。そしてあんな山奥での苦しい生活から逃げ出したかったんだヨ。あれは10年だったかナ。8尺もの大雪が降りよって何日も交通がとざえたことがあったナ。それを機会に思いきったんだヨ。おまけに・・・小塩の村のもんからは井の中のかわずの様に思われとった・・・」 さすがじいさんは寂しそうだった。
 弓削村下弓削の佐伯止戈(シカン)翁は今年93才。日露戦争時代から二期弓削村村長をつとめその後京都府会議員にも出た村の長老。この人の話では「八丁は平家の落人ぢゃ。昔はなかなか気位の高い連中で百姓共とはつきあわんとか申してつきあいにくい人達じゃったが、八丁ちゅうのは・・・・・」 翁は話好きだったが、八丁についてはそれ以上語ってはくれなかった。
 或る人の話では、八丁部落の先祖にあたる5人の者は、徳川幕府時代この辺一帯の山番として住んでいたと云う。部落には、かつての住人の帰りをあきらめた荒れかたの廃屋三軒が残っている。やむなく先祖代々の墓のある故郷を見捨てて移住したこれら5家族の人々の心からはあのなつかしい八丁部落はいつも消えさらないであろう。

(その二)
・・・今日はまだ2月だというのに日はうらら、まるで春のようだ。そして僕にとって待望の日なのだ。話し好きのおじいさんはさぞかしお待ちかねのことだろうと思い急いで出かけた。垣根越しに中をのぞくと、おじいさんは庭に面した縁側で日向ぼっこの最中だ。僕を見つけて「やあ」とにこにこ顔で迎えてくれた。・・・
じいさんは・・・「・・・八丁の伝説から始めよう」・・・「前にも話した通り八丁は5、600年も前からあった部落で、平家の落人じゃ。しかし今から300年程前に現在の場所に移転したんじゃよ。その以前は、ノコギリ谷にあったんじゃ。そこには今でも邸跡がある。それが何よりの証拠なんじゃよ。さて今から600年前の事じゃ八丁附近に八つ頭の大鹿が住んでおってあたりを荒し回わしとった。その事を聞いた都の大将が家来を大勢率れてその大鹿を退治に都からはるばるやってきたんじゃ。・・・」
(後略)   (1958年3月 芦塚 覚) 


(『京都北山レポートシリーズNo.1』北山クラブ、1961年8月、120~4ページ)

 ※八丁が平家の落人だという説については、郷土史家によって否定されている(
朝日新聞大阪本社版、昭和34年9月20日(日)の下の記事を参照)。


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「幽鬼の里 丹波の『廃村八丁』を訪ねて」(朝日新聞大阪本社版、昭和34年9月20日(日)(14面))

   ※「昭和8年の大雪で離村」とあるのは、昭和8年の冬(昭和8年12月~昭和9年2月)の大雪を意味している。
     昭和9年1月~2月に大雪で閉ざされ、死者も出た。そして、
離村は昭和9年3月26日であった。
     従って、昭和8年離村という表現は不適切である。

<1959年(昭和34年)>

廃村八丁

 北山の奥深くへ足を運ぼうとする人たちに、一度はぜひ訪れたいと憧れや郷愁の夢を感じさせてきたのが「廃村八丁」である。私が初めてこの地を訪れたのは一九五九年秋のことで、かねていくつか紹介記事は目にしていたが、さてどんな景観と出会えるのか、と広河原までのバスで揺られる二時間余を、あれこれ想像をめぐらしたものである。
 京都バスの終点「広河原」から峠を二つ越え、二時間かけてようやくたどり着けるという僻遠の地が八丁である。
一九三三(昭和八)年の大雪で最後の家も離村し、廃村となった。読者からのリクエストに応えるという形で
一九五九年九月二〇日に「廃村八丁を訪ねて」の取材記を載せた朝日新聞は、ここに「幽鬼の里」という見出しをつけている。私の初訪問とほぼ同時期の記事であり、いまも手許に残している。それによると、元禄年間に付近の村民五人が小屋を作って炭焼きをしながら山番をしていたが、明治維新後、京都府の管下に入ってから山番の五戸にそれまでの山林保護の功に報いるため、八丁の地を払い下げた。そこで五戸はこの山地を、家をこれ以上増やさないという申し合わせで、次・三男は外に出し、明治の末頃に分家が一つできたため六戸が助け合いながら八丁部落を維持してきたという。この六戸のために小学校の分教場も設けられた。しかし厳しい自然環境のなか、大正末に一戸、また一戸と離村が続き、最後まで踏みとどまった三戸も三三年の大雪でついにこの地を離れたことを伝えている。
 この記事と同時期に訪れた私の記憶では、形が残っていた建物は、川べりのしっかりした土蔵一個とススキの穂先に見え隠れする茅葺き屋根の分教場跡、朽ちた民家が一、二、それと少し高台に小さな宮さんが一つ、というのが、かつてここに人が暮らしていたことを語るすべてだったと思う。それだけに、村の西のはずれにある十二基の墓石がひときわあわれとわびしさを感じさせた。
 この土蔵が八丁名物で、その壁面いっぱいに見事な絵が描かれていた。この山中におよそ不似合いな大都会のビル街が描かれており、八丁を訪れるハイカーの目を楽しませてくれたものである。最初の訪問から幾度か訪れているが、初期にはまだ土蔵の二階に階段で上がることができた。しかし、最後に訪れた一九八八年四月には、壁面も崩落し、倒壊寸前という様子で、ひときわ寂しさがつのった。
 その後、八丁を訪ねていないが、土蔵はもう跡形もなくなっていることだろう。八丁は静かな自然に戻っているのではないだろうか。・・・

塩見昇『峠と杉と地蔵さん』教育史料出版会、2011年、21~23ページ)



<1959年(昭和34年)>

・・・この谷をしばらく下るともうそこは八丁である。草が生い茂り、藁葺の農家が傾き、壁が落ち、床は抜け、中はカビ臭いひがする。いかにも廃村という言葉「そのまゝ」であり、又時代の変化もなく停滞して「そのまゝ」という感じがする。こゝでは何もかもが「そのまゝ」である。少し河原の広くなった所は分教場の跡らしいが、何一つとして残されたものはない。しかしこの中からも人間が必死になって生き抜いて来た跡がまざまざと感ぜられた。この頃より曇り空から雨がポツリポツリと降り出した。我々は樵の飯場で昼食をいたゞくことにした。雨はそのまゝ降り続き、その中を帰路、井戸に向った。村はずれの所に墓石が、だれももう参りにくる人もないのであろう。全くわびしいかぎりである。・・・
(1959.11 3 内田嘉弘)

(『京都北山レポートシリーズNo.1』北山クラブ、1961年8月、134ページ)
(※北山クラブ『北山』北山クラブ会報、Vol.3,No.12,通巻No.27,1959年12月、4~5ページ、3巻192~193ページ)の「八丁」記事の再録
(※レポートでの「匂ひ」は元の会報では「香ひ」と記載されていた)


 とても楽しい山行きでした。始めから終りまで笑い通しといった感じ、お箸のころげるのもおかしい頃なのに・・・
 
廃村八丁の荒れ果てた土倉の前にもう少したゞずんでいたかった。・・・皆様どうも有難う。
(第133回例会 11月3日(火) 浅黄谷道子)


(北山クラブ『北山』北山クラブ会報、VoL.3,No.12,通巻No.27,1959年12月、5ページ、3巻193ページ)


<1960年(昭和35年)>
 八丁川遡行    木村英二

 ・・・釜ヶ原を通り過ぎてどこかよい食事の場所がないかとさがしながら歩くといよいよ道がきれて川にはいらなくてはならなくなった。川に沿って10分ばかりやっと良い木陰を見つけた時刻は12時20分、食事を終えていよいよわらじにはきかえ午后の出発の準備にかゝった。
1時出発でごろごろした河原の石をふみながらしばらく進むと左手にきれいな滝が見えた。そこで今日の記念撮影1時40分頃右手に広い道が見えた。その道を八丁に向ってピッチを上げた。途中右手に二つの滝をながめながら・・・・・   八丁に着いたのが3時30分
部落の眞中に一つの古ぼけた小屋があった。壁には銀座の市街図とある海岸の風景の壁画?が畫いてあった。その小屋で前日から魚釣に来ている二人の若者に会った。・・・
(第186回例会 6月5日  参加者 西尾(L) 本庄 井上 森 木村  以上5名)

(『北山 第34号』北山クラブ会報、第4巻7月号、1960年6月20日発行、5ページ、第4巻103ページ)




<1960年(昭和35年)>

 廃村八丁のあわれさ

 ・・・昭和の始め、まれにみる大雪に麓の部落との交通もとだえ、共有財産を処分して、長年住みなれた家、田畑や山林を捨てて峠をくだり廃村八丁がうまれたと伝えられている。・・・
 ・・・元八丁の住人のなかには九代以上八丁で生活を営んだ家もあったらしく、約三百年以上の春からここに人が住みついたようだ。・・・
 八丁にはそれより前に小塩西谷から峠を越える道が八丁川にであうあたり(引用者注:八丁の西南西1.5キロ付近)に二、三軒の家があったと伝えられており、その住人がもっと広い大地を求めて川をさかのぼり、八丁を開いたと考えられる。
 ・・・昔はこのごろよりもずっと雪が多く昭和9年には平常の倍以上の一丈(引用者注:3m)を越える雪が降りつもったらしくふもとと長い間交通もたたれ、家は今にも押しつぶされそうにミシミシと悲鳴をあげつづけ恐怖につつまれたことだろう。
 しかしこれ位の大雪だけなら昔にも降ったことはあるだろうし、廃村の原因はそれだけの理由ではない。明治の初めから原始的共産制によって山林などが共有財産となっていたが、この制度の崩壊や、文化の波が漸く山深い八丁にも及び、孤独で不便な生活を堪えがたいものにさせたことも考えられ、いくつかの原因が重なって、村を捨てることになったと思われる。
 早い人は大正の末期すでに家財を処分して京都へ新しい生活を求めたようで、なお祖先の土地を守り続けてきた人も昭和九年の大雪についに峠をくだり廃村となった。
 ただ近くの広河原に住居を移した一家だけは、終戦直後頃まで山仕事の仮の宿として八丁で生活する日も多かったように伝えきく。部落全部の五軒(分家及び先生を入れれば7軒か?)が集団で一度に部落を去ったものではなく、一人去り二人去り、だんだんと八丁はさびれていったものらしい。廃屋の中にポツンととり残された一家族だけの生活はどんなにわびしいものだったか、最後の人も麓へくだってしまった八丁は、気味の悪い程の静寂に包まれ乍らまだ人が住んでいるかのような錯覚を感じさせ、風雪にさらされながら空しく主人の帰りを待ちつづけているうちに、一年二年人の住まない家の壁には雑草がはえ、目にみえないけれど自然の確実な破壊が進み朽ちていった。
 八丁は終戦後まで、大体昔の面影を充分に残していたようだが、二十八年頃から山林の伐採が始められ、屋根がおち、傾いた家は修理され、木の香も新しい飯場がたち、山仕事の人達が住み、すすきの生えた田圃は耕され、あるときは切り出された材木が山と積まれ、一年一年昔の姿を失って行った。しかし現在は昔の姿をとどめないにしても徐々と静寂さをとり戻し、雑草の生い繁って朽ちた屋根は廃村気分を若干味わせてくれる。残念なことに先年の伐採作業で廃屋の中は全く荒廃し、床は破れ、柱はすすけている。中でも
持主が広河原に住まず最も廃村的だった最北端の家や倉が落書がひどいのでとりこわされたのは惜しまれる。又その下の白壁の倉も落書でみぐるしい。
 今の八丁は大きい期待を寄せるのには足りないけれど、現在の一番上の家には昔のまま神棚がポツンと残っており、その下の学校橋のたもとの家には昭和六年の朝日新聞や明治三十七年の昔風の新聞が黄色くなって残っており、昔の生活を偲ばせてくれる。多分板一枚のわびしい住居のすきま風を防ぐためにはられたものと思われ、こんな寒そうな家での雪に埋められた生活は大へんだったろう。これが昔この部落に共産的共有財産制をもたらした会津藩の落武者の住居で寺小(引用者注:原文のママ)屋になったとも聞き及んでいる。この家の前に石垣があり、これが分教場のあとではないだろうか。なお八丁川添いに下ると住居の跡を教えてくれる石垣や飯場等があり、一番最後の村はずれに子孫の捨て去った土地を祖先の墓のみがさびしく見守っている。
 いつの日かこの八丁に山仕事の人も住まなくなり、残された家もくずれ落ち、石垣に腰かけて風流な山旅人がここに廃村八丁があったそうだと語ることだろう。
・・・広河原菅原下車、橋を渡って左のホトケ谷に入る。このあたりはホトケ谷河原といっていつの時代か筏を流したそうだが、そんなにみえない小川添いに左に衣懸坂への道をみて約二十分で谷は二分し、右の谷添いの道は山道・・・
・・・ここからダンノ峠まで約三十分・・・峠は眺望に恵まれないけれどおちついた気分を味わせてくれる。八丁側は道はだらだらと下るが、しばらく雑木と熊笹の中にモミの大木がそびえる小高原風の所にでる。地元の人はこのあたりを段と呼んでいたらしく段の峠もこれにちなむものであろう。
・・・ダンノ峠から約四十分程で八丁に達する。・・・
 興味深いコースとしては、広河原から佐々里峠で一泊(石室の峠小屋があり、水場も近い)翌日佐々里から、今は出作りだけに使われている一軒家が山田の中にポツンと建つ釜ガ原に出て、小さな尾根を越えて品谷に入れば相次ぐ災害に道はないといった方がよいくらいで、・・・
 道はなく歩き易い所を選びコルを目指し直登を続けると、ガリー状の所を抜けるころより、異様な光景におどろかされる。昔は原始林で、モミ、トチ、栗、杉の二抱え三抱え以上の巨木が林立していたそうで、八丁の人々はこの巨木を切り倒し品谷峠へかつぎあげたもので、今は材木として価値の低いトチの大木がきり残され、まき枯されて、全山立ち枯れとなっている荒廃の様相は印象的である。
 熊笹と灌木の中に朽木が倒れている谷を、見かけのコルよりも左へ振り気味にルートを求め、出合から二時間前後で稜線近くの昔の道にでる。峠の熊笹のトンネルを抜ければ南側は今までの苦労はウソのようで、
やがて八丁の土蔵の横へでる。道に迷ったりして終バスをはずさないようにおそくとも佐々里峠を七時には出発するように心がけるのがこのコースの第一の注意である。
 ダンノコースと共に利用されているのは、京都駅より小塩まで国鉄バスで入り、東谷の自動車道を約二時間歩き、左に丸木橋のある所に「左八丁」と石の導標があり、ソトバの峠へ三十四曲りの急登が始る。
・・・卒塔婆の急登はつらい登り、いやという程単調な曲りをくりかえして峠にでる。峠は平凡であるがよく踏まれて静かな一時を与えてくれる。八丁側は道は可成あれている所もあるが約二十分で墓の前にでる。
 墓地には古風な自然石のものもあり、この墓地の手前七十メートル位の所で対岸にわたり、主として右岸の踏跡を拾い、とび石伝いに八丁川を下ると、滝こそないが谷は清く美しい。西への入口は注意しないとわかりにくいが何かの作業所の跡の辺りだろう。・・・
 八丁を訪ねるのには、四季それぞれの八丁のわびしさに色をそえてくれるが、私は中でも秋の八丁に一段の魅力を感じさせられる。  (北山登高会)
  
  大江幹雄「廃村八丁のあわれさ」
      (『山と渓谷 臨時増刊』(近畿の山々特集)(通巻259号)山と渓谷社、昭和35年10月、74~77ページ)






<1961年(昭和36年)>

丹波高原・八丁と八丁川(北小松・四ツ谷)

 八丁、そこは昭和の初め大雪のために、二十日間も閉じこめられたため、全戸をあげて祖先伝来の故里を去った部落、廃村八丁と人々の口にのぼった所である。・・・広河原の部落がある。・・・八丁川へ行く時は・・・村にたった一軒ある米田旅館に泊るとよい。旅館といっても田舎家風の建物で・・・

 ・・・やがて草原に包まれた、荒れた土蔵の白壁が見えてくる。八丁である。炭俵をつめこんだ小屋になっていたが、人が住んで居るらしいのもあり、杉の苗畠がある。その先には新しい家があり、子供も遊んでいる。畠は耕され、人がかなり入っているので、廃村という感じは少しもない。・・・

(泉州山岳会編『近畿の山』山と渓谷社、昭和36年、135~136ページ)



<1961年(昭和36年)>

 つい最近の陸測図までは衣懸坂と釜ヶ原の丁度中間の由良川上流の谷底に八丁という集落名が記載してあった。そしてそこには昭和9年までは確かに集落は存在し人々はそこで生活していた。5,6軒のひそやかな山村の生活ではあったが。昭和九年の大雪は人々に村を捨てさせた。弓下、本田の二姓を名のったこの地の人々は現在は京都市内に移住している。・・・京都市街から直線距離20kmの近くにありながら、きびしい山村の生活は、近代文明の発達にともなう、自然順応力の低下となって先祖の地を捨てさせたものであろう。・・・とにかく廃村八丁は幾つかの土蔵と廃屋で構成される無人の境である。・・・昭和22,3年ごろまでは比較的、家屋はよく保存され、蔵の中には運びきれなかったかさばる家財道具や、分教場のわびしい九々の掛図なども見られたが腐りゆく草屋根の雨もりと、心ない人々の破壊の結果最近は見るかげもなくなった。しかし、わずらわしい蚊のいない別天地だから夏の幕営の一夜にはこよなく楽しい思い出を綴ってくれよう。

(角倉太郎・今井浩一郎『京都北山・比良』日地出版、昭和36年、小冊子45~46ページ)


<1961年(昭和36年)>

 ・・・なおも木馬道をたどるとやがて杉木立の中<P⑤>を抜けて、雑草の茂る草むらの中に
ワラ屋根の傾きかけた家<P⑥>の前を通る。しばらく行くと
道の右側に荒れた土蔵の白壁が見えてくる<P⑦> その先で流れを渡った左側にある家は、<P⑧>教員宿舎の跡とか。その向かいの石垣跡には分教場があったという。廃村後まもないころは、教室にこわれた机やイスが散らかり,古びたオルガンが残されていたとのことである。炉傍に残された地蔵様<P⑨>だけが往時のことを知っているのだろう。八幡宮の鳥居の前を通ってしばらく行くと新しい小屋<P⑩>がある。山持ちの人が樹林の手入れなどに来たとき使うためのものだろう。


(「ハイカー」昭和36年10月号、山と渓谷社)
P⑦ P⑥

P⑩  
P⑧

小林譲(フォト&ガイド)「フォトガイド/43丹波高原・廃村八丁」
    (『ハイカー』(特集/近畿の山・志賀高原)昭和36年10月号、通巻72号、山と渓谷社、60~63ページ)


<1962年(昭和37年)>

 廃村八丁行   藤本靖二

 ・・・ふきのとうが根雪のとけるのを待ちかねたように芽を出している。芽をふまないようにぶらぶら行くと八丁川であり、もうそこは廃村八丁だ。残念ながらあまり廃村といった感じがしない。もうかなり前から山仕事の人々が毎年入って来る為だろう。もう自分の頭に描いていたイメージはどこにも見当たらない。一度冬に訪れて見たいものだ。冬ならば案外自分の抱いていたイメージを満足させてくれるかも知れない。・・・
〔第331回例会 4月8日 参加者 小森(L)、山下、松井、鶴岡、藤本  以上5名〕

(『北山 第56号』北山クラブ会報、第6巻5月号、1962年4月25日発行、7~8ページ、第6巻83~84ページ)


<1964年(昭和39年)>
 
森本次男(1899~1965)
(昭和40年の2版の表紙)


亡びた山村  
            ●八丁とその周辺

 そこが住みにくいというので、そこに住む人全部が村を捨てて出てしまったという山村は日本の方々の山地で見られる。・・・

 八丁という部落も、そうした亡びた村である。・・・

 われわれの知っている歴史はすでに明治の初め頃にはここに人が住んでいたということ、そしてここに住んでいた人たちが明治の初めの混乱時代に、地籍のはっきりしないこの部落中心の山地地帯を自分たちのもの、つまり村有林にしてしまったこと、それには維新の悲劇として有名な会津戦争の落人だという、会津藩士の惣兵衛という人がこの部落にかくれ住み、その人の努力によってできたのだということが伝えられている。こういう話は八丁山の山麓広河原の米田屋という宿(いまは廃業)の老爺から聞いたものだが、ほかにもこの広河原や西の弓削村などに八丁から下って住んでいる老人などからも昔話が聞けたものだが、今はこうした人たちももはや生きてはいない。
 八丁の中心になる小高い丘の上に八丁八幡社がある。社殿はなかなかりっぱで、現在でも八丁を捨てた村人たちが昔を忘れずに参拝するとみえて手入れも行届き、新らしい幟なども立っている。この八幡社の登り口に一つの石碑がある。それにはこう記してある。

 現今ノ八丁山
二番地ヲ所有ニ移サント発者ガ明治元年ヨリ多大ノ苦心ト費用ヲ償明治九年六月京都府ノ許可ヲ得テ今日ニ至ル由ヲ次第世ニ伝ント云爾

 発
者 山本吉左門  本田嘉右門  段下久右門  弓下門  弓左エ門 (※)

 裏には明治四十五年四月三日、とあって下にこれを建てた人々の名が記してある。
 この文章はちょっと意味が通じかねるほどで、うまいものとはいえないが素朴な村人が苦心して作ったものであろう。一体だれの所有地をだれのものに移さんとしたのかもわからない。ここには何か書けないものがあるように思われる。そこらが
会津藩士惣兵衛(姓はわからない)氏の努力だったのだろうと思うが、村の居候で賢者、寺小(ママ)屋の先生でもしていたかも知れないが、その惣兵衛氏の姓名はここには記されていない。
 こうしてかなり大きな村有林を持った村人たちは静かな年月をこの秘境に暮らして来たのだが、この昔の共産村もいつか私有林に分割され、文化の波がこの秘境まで入ってくるようになっては昔風な生活にも耐えられず、
昭和初年の大雪の年に非常な飢餓におそわれたのを期として村人は山麓に下ってしまったのであった。・・・

 谷に沿うて杉林の間をすぎるとやがて草原に出る。
右手に屋根のついた白い倉が見える。倉の壁は一面に銀座らしい都会の風景が描かれていて、楽書としてはなかなか優秀なものだ。側面の壁には富士山の見える海辺の水浴美人が描かれている。こんなところに楽書をと怒る前にだれもがそのみごとさに驚く壁画だ。八丁が廃村になって三十年、その間の変遷の間に、ここに暮らしたマンガン採取の人夫か、森林伐採か造林の人夫かがひまにあかせた楽書であろう。この白壁の倉がいまでは八丁に残っているたった二軒の家の一軒であって、他の建物は皆廃村になってから作業のためにつくられた家である。
 昔は田畑であったが、今は芒の生いしげる草原をゆくとすぐ川に出る。ここに昔は学校橋という橋がかかっていたが、今は川床を歩いて越えなければならない。向う側には小さな石室にお地蔵さんが祀ってあって、向いにこれもやがて朽ちてしまうであろう古いかやぶきの家がある。これが八丁で残ったたった二軒の家のもう一つの家で、分教場の先生の住宅であった。家のやや下手に小高く今は石垣が残っているだけだが、ここが学校であった。この学校はいつなくなってしまったのであろう。このあたりから南へかけた小平原に何軒かの家が散在していた。田畑のあとは芒原になっているが、それが昔の田畑だったということはわかる。しかしたった三十年の間に人間の棲み家はどこに家があったか全くわからないほどになってしまったのはどういうわけだろう。マンガン採取や森林伐採の人たちが廃材を利用してしまったのかも知れないが、人間の営みのはかなさをしみじみと感じさせてくれる。先生の住んでいた家もやがて壊滅してしまうにちがいない。床板もまばらになった屋内に入ってみると板張りの隙間風を防いだ古新聞が破れ残っているのがある。見ると
昭和六年四月十四日(火曜日)の朝日新聞であった。だから昭和六年にはここはまだ生きていて先生が住んでいたにちがいない。古新聞の破片は大変おもしろかった。今はない美顔水、七日つけたら顔をごらん、色白くなる美顔水、というなつかしい昔のコマーシャルがあったり、背広上下二十三円という、今の若い人が見たらびっくりするような広告もあった。
 昔の八丁をなつかしみながら草原の間を川に沿うて下ると途中に八幡社の登り口の鳥居があり、やがて
巨木が山際にあってその下に小祠のある所に出る。道は川の左岸を通るが、向いの草原を越えた山原に昔の八丁大道とよばれた虎越(とらごし)峠があった。これも今は全然あとかたもない。この辺にある家は造林人夫の飯場で八丁山全体を買った人が伐採のあとの造林を長期に渡って続けているらしくいつでも人がいる。大きな犬が二、三匹いていつも吠えてくれる。ここで八丁川は東から来る谷と合流する。この谷に沿うた道を登ってゆくと、八丁の墓地が路傍にある。自然石を利用したおもしろい形の墓がある。墓石には昭和十何年という年月が記してあり供花などもある所を見れば、村を捨てた昔の八丁人も、八幡社を忘れずに祀るように、この墓地に自分の墓を作る人もあるらしい。谷をつめて登りついた雑林の中の展望のない峠は卒塔婆(そとば)峠、これは峠下に墓地があることからつけられた名前だろう。急な峠を下れば東谷、谷に合した所に小さいが古風な石標があって「八丁みち」と記されてある。・・・
 
東谷登山口の「これより左八丁道」と彫られた古い石標
(注)金久昌業『北山の峠(上)』(ナカニシヤ出版、昭和53年、138頁)に記す(下記の引用参照)ように、今ではもう見当たらない。


 ・・・八丁にはもはや廃村といった面影はない。昔ここにかくれ里のような部落があったということに思い思いの夢を描いて楽しむことのできる山旅人には楽しい山旅であろう。しかしそんな夢がなくとも重なり合った緑の波のような複雑な小山脈とその間の峠と渓谷の旅は結構楽しいものである。


みなかみの隠れ里
               ●京大演習林付近

 秘境という言葉がある。戸川幸夫氏は「秘境は心の古里である」という・・・。

 私は年少の頃から、今でいう秘境、昔風にいえば桃源境とか隠れ里とかいうものにひどく興味を持っていた。・・・

 私がこの演習林へ初めて足を踏み入れたのは、もはや三十数年の昔になる。・・・私は廃村になって間もない八丁を初めて見たのもこの時であった。鬼気迫るというような廃村の気分を味あった秋の末のことである。そしてダンノ峠を下って広河原にあった一軒の宿でとまり、・・・


(森本次男『京都北山と丹波高原』
山と渓谷社、昭和39年初版、昭和40年2版、59~67ページ、70~74ページ)



(※)石碑に刻まれた文字は、今井幸彦編著『日本の過疎地帯』(昭和43年、91頁)と一文字(次第二→を除いて一致しているが、『北桑田郡誌 近代篇』(昭和34年、281頁)や『京北町誌』(昭和50年、501頁)とは食い違う文字が多い。どの文献が正しいのかは、現地の石碑で確認するしか方法がない。2014年5月3日(土)に筆者は21年ぶりに現地を訪れて、碑文の内容を確認することができた。

2012年4月 廃村八丁―カブの旅には、石碑の写真2枚がある。ただし、文字を解読できるほど鮮明ではない。
 森本次男と今井幸彦の両著、北桑田郡誌近代篇、京北町誌を参照して、カブの旅の石碑写真も調べて何とか読み取れたものは次の推定文であった。
    発者 山本吉左ヱ門  本田嘉右ヱ門  段下久右ヱ門  弓下右ヱ門  弓ヱ門 

 現地調査(2014年5月3日)の結果、上記の推定文は、完全に正しいことがわかった。

 
筆者が廃村八丁の八幡社への石段の途中に横たわる紀念碑を調査した結果は次の通りである。なお、「明治四十五年四月三日建之」については、隠れた裏側にあるため、未確認のままであるが、過去の資料から、間違いないだろうと考える。

(注1)「吉」は、厳密には、上が「土」で、下が「口」の「つちよし」である。
(注2)「仝」は「同」の意味であるが、すべての引用文に漏れていた文字であった。厳密には「工」の部分は石碑には「ユ」になっている。


(八丁の八幡社への登り道の途中にある紀年碑の碑文)(決定版)

   
紀念

現今ノ八丁山二番地ヲ   発起者
所有ニ移サント発起     山本吉左ヱ門
者ガ明治元年ヨリ多    仝
大ノ苦心ト費用ヲ償     本田嘉右ヱ門

明治九年六月京都府     段下久右ヱ門
ノ許可ヲ得テ今日ニ至ル
   弓下三右ヱ門
此由ヲ次第シ後ノ世ニ    弓下文右ヱ門
伝エント云爾  
   

明治四十五年四月三日建之


2014年5月3日 筆者撮影(紀念碑に刻まれた内容がはっきりと読み取れる)



2012年10月 廃村八丁へ行ってきました(その2)には石碑の姿が見えます。



<1965年(昭和40年)>

 丹波高原・八丁

 八丁という地形語は、「非常に、異状な、とびはなれた」という意味とか。この八丁も辺境の地だからその名が付けられたのかもしれない。だからここを訪(たず)ねるにはどうしても峠を越えて行かねばならない。そのため昭和初期に降った大雪のときには一ヵ月近くも外部との交通を閉ざされてしまい、部落の人びとは全戸をあげて祖先伝来の土地を去ってしまった。いわゆる廃村八丁はこうしてできたのである。このため現在の地図には部落の名は記入されていない。
 ・・・
 ・・・なおも木馬道を流れにそって下流へたどると、やがてスギ木立の中を抜ける。雑草の茂る草むらの中にワラ屋根の傾きかけた家を見る。廃村八丁である。家の前を通りしばらく行くと、
道の右側に荒れた土蔵の白壁が見えてくる。まだ柱などはしっかりとしていて泊れそうだ。その先で流れを渡った左側にある家は教員宿舎の跡とか。その向い側の石垣跡には分教場跡があったという。
 八幡宮の鳥居の前を通ってしばらく行くと、新しい小屋がある。山持ちの人が植林の手入れなどに来たとき使う小屋らしい。その先部落のはずれにコケむした先祖の墓が並んでいる。・・・             (小林譲)


(仲西政一郎編『近畿の山』<アルパインガイド1> 山と渓谷社、昭和40年初版、30~31ページ)





<1965年(昭和40年)>

 廃村八丁から鴨瀬谷山へ      中島弘美

・・・少し急になった傾斜を登りきるとダンノ峠。ここから四郎五郎峠への道を避けて、刑部滝への谷を下る。・・・
 廃村八丁の予備知識を持たないという私達に、リーダーが「山とは関係ないんですがおもしろいものが見られるそうですよ」と云われる。その言葉に自然と足が速くなる。間もなく杉林の間に小屋らしきものが見えた。その最初の小屋の前に立った瞬間、まず第一に目に入ったのが表札と思いきや、「建造物ヲ焼ク勿レ」という木札だった。通常山の中でこのような禁止札を見ると何となく嫌な気がするものだが、この時ばかりは不思議にそういう気にはなれず、反対にふっと笑いかけたい気さえした。廃村に今も残るかっての村人の人間臭さをこの陽に焼け黒くよごれた木札に感じたためだろうか。とにかく第一歩の印象はまずまずといったところ。次に「あれですよ」という声と共に目に入ったのが、
白壁に描かれた近代的マジック画である。1957.YOSHIO ITOのサイン入り。正に幻滅!本人は暇に任せて大画家気取りで描いたのかも知れないが、八丁にビルディングが建ち並んではつり合わない。これだけの腕があるのならもう少し山男らしい気のきいた落書きをして欲しい。でもそれにしてもよくもまあこれだけ描いたものだ。とおかしなところで妥協し自分を納得させる。木札のかかっていた家と、この白壁の土蔵との中程にある崩れかけた家。これが八丁村の全家屋だった。家材道具のようなものが残ってはいまいかとのぞいてみたが、それらしきものは見当たらなかった。・・・
〔第570回例会 6月27日  参加者 西崎(L) 藤原 中島   以上3名 〕

(『北山 第95号』北山クラブ会報、第9巻8月号、1965年7月26日発行、2~4ページ、第9巻203~5ページ)



<1966年(昭和41年)>


有名になりすぎた廃村  40 ダンノ峠から廃村八丁へ

 どうしてこれほど山奥に集落ができたのかと、いぶかしくなる山間の僻地(へきち)。流れは清冽で山の木々は緑にもえ大気はあくまで澄んでいる。その明るく平和な谷間にかつて小さな集落があった。・・・

 ある年、例年にない大雪は集落を餓死寸前に追い込んだ。生きるために、人々は父祖の地を捨てた。こども達の将来のためにも。・・・谷間の村は、時とともに崩壊の一途をたどりつつ、長く形骸を保った。いくつもの峠を越え、谷をさかのぼって訪れた人々は、分教場の床に散っている図画や、コケむしたワラ屋根にクモの巣がまつわりついた家々を見出した。死んだ村の中に立って、陽を照り返す崩れかけた土蔵のカベの不自然な白さを眺めていると、そこに住んだ人々の執念を感じて、鬼気迫る思いがしたという。
 しかし、時はすべてを流し去る。30年もの歳月は廃村八丁の姿を変えた。八丁は静かで平和な自然にかえろうとしている。山林労務者の飯場が設けられ、人影が見られるようにもなった。それでもなお、北山に残る廃村の名にひかれて、はるばる訪れる人は少なくない。

 ・・・ここまでくれば八丁はもう目の前だ。間もなく小屋が見えてくる。この小屋は倉庫で新しいが、むこうに本物の廃屋があらわれる。いまでは八丁唯一の廃屋である。朽ちたワラ屋根が、廃村のムードを感じさせる。
その右手に土蔵があり八丁の新名所となった落書の壁画が白壁一面に描かれている。このあたりが八丁の中心部で、ここを通りぬけると地蔵堂のある川原に出る。近くに派手な色に塗った京大高分子化学山の会の小屋がある。その先で橋を渡ると飯場があり、この前を通りすぎてソトバ峠への道をゆく。小屋が2,3軒建っているところで道は左へカーブし、八丁川本流をはなれてババ谷にはいる。その手前に墓地がある。およそ10基ばかり墓石が並んでいる。廃村の墓石の「累代の墓」という文字が妙に印象的である。ここから約30分でソトバ峠である。・・・

北山クラブ編『京都周辺の山々』創元社、昭和41年初版第1刷、179~180、182ページ)




<1966年(昭和41年)>

廃村八丁

きびしい自然の条件に人間が打ち負かされて全村民が離村し、人知れぬ山奥に静かに朽ち果ててゆく廃村の話は、山岳地帯のあちこちで聞かれる。昭和九年ごろ、人々が村をみすてて下山した廃村八丁のことは、関西の岳人の間ではすっかり有名になってきた。

 八丁は正確には北桑田郡京北町上弓削八丁山といい、由良川源流に位置し、四方を山に囲まれた山間の小盆地である。左京区の広河原からはいれば、ダンノ峠、四郎五郎峠と二つの峠を越して、約二時間の行程。山肌をぬう小道は、ようやく人一人が歩ける程度で、ササを押しわけ、ヤブの下をかいくぐり、谷間をくだると、やがて八丁に到着する。くずれかけた土蔵の壁が白く光っている風景は、雨月物語の浅茅ケ宿を連想させる。

 八丁は古くから豊富な山林資源に恵まれ、その資源をねらって、北側の知井庄と南側の弓削本郷の間でしばしば山論(山の境界争い)が展開された。古くは徳治二年(一三〇七)までさかのぼり、天正、慶長年間(安土桃山時代)もこの争いはつづき、万治三年(一六六〇)には弓削側が八丁山方面に押しかけ、炭ガマをつぶすなどの事件も発生している。

 このように争いがつづいたので、江戸中期の天和二年(一六八二)についに八丁山一円は民間の立ち入りを禁じた御留山(おとめやま)になった。これには住民もたいへんこまったらしく、しばしばお上に嘆願書を出し、元禄十四年(一七〇一)になって、ようやく周山の吉太夫が山にはいることを許され、吉太夫以下五人が居小屋をたてて炭焼きと畑作をしたことが記録に残っており、江戸時代から人が住みはじめたといってよいだろう。

 明治二十二年に、八丁に住む五戸の人たちは「山林保護の任を全うした」という功績で、京都府から、山林四十四町余を九十円で払いさげてもらった。このかげには、維新のとき八丁に隠居した会津藩士、原惣兵衛の尽力があり、「原は八丁の山林を各戸均等に割りあて、収益も等分するなど一種の共産制度を施行した」といった話も残っている。

 八丁の水田は全部あわせても七アールそこそこ。こうしたきびしい自然のなかで生きのびるためには五戸が精いっぱいで、あとつぎ以外は八丁を出てゆくのがならわしだったという。

 八丁が廃村になった原因は、いろいろ伝えられているが、最後の村民でいまも広河原に住む本田はきさんや、八丁から広河原に養子にきた段下常三郎さんの話では「昭和九年の冬、三メートルの大雪が降った。このため病死者の葬式も出せず、三日も死者を放置せねばならなかった。もともとみんな八丁にはいや気がさしていたので、雪がとけた三月二十六日、八丁をみすてた」といっている。かつての八丁の住人は、ほとんど京都へ出たが、山林のおかげで、その子孫はいまも豊かに暮らしているという。”廃村八丁”の名はいまはすっかり山仲間の間で有名になり、大きなリュックを背負ってここを訪れる人は日ましにふえている。

(毎日新聞京都支局編『京の里 北山』淡交新社、昭和41年、76~78ページ)



<1966年(昭和41年)>

 京都を去る日近い昭和四十一年の十一月、峠三つを越える二○キロ八時間の行程をとにかくやりとげてきた。ただ、角倉氏の記録とは逆に、私は思い出の広河原地区からはいっていった。そしてそこに多くの廃屋を発見し、かつての日、夕餉の煙の立たなかったのはそのような家だったということを知った。・・・

 目指す八丁にさしかかったのは午後一時ごろであった。最近はハイカーたちが訪れるためか、入り口の丸木橋はかなりしっかりしていたが、いよいよ部落内に入り、おそらくかつては学校橋と呼ばれていたと思われる橋などは特に老朽化も甚しく、渡る途中メリメリと折れ出して肝を冷した。分教場と、そこにわびしく残っていたという九九の掛図とを捜し求めて回ったが、夕日と紅葉に燃えるような晩秋の山々の谷間には、ただいたずらに尾花ばかりが生い茂り、いまは完全にひしゃげつぶれた古材木を養分に、野草がこれ見よがしにそびえていた。

 もちろん二、三の小舎はかたぶきながらも辛じてこらえ、一軒の土蔵は散りしきる落ち葉のなかになお立ちつくしていた。ただその白壁一面には、気まぐれなハイカーの筆になる銀座通りだの、ビキニ・スタイルの女の子の絵などが描かれていた。八幡様もそのすぐ近くにあった。簡素な鳥居をくぐるとすぐ左手に「紀念」としるされた高さ一メートルほどの石碑があり、その表には次の文字が彫り込まれていた。

現今ノ八丁山二番地ヲ所有ニ移サント発者ガ明治元年ヨリ多大ノ苦心ト費用ヲ償明治九年六月京都府ノ許可ヲ得テ今日ニ至ル由ヲ次第世ニ伝ント云爾」

 発
人は山本吉左衛門、本田嘉右門ら五名、裏には「明治四十五年四月三日建」とあった。
そこから少し登ったところにささやかな神殿があるのだが、
やや驚いたのはそこへの途を直径一メートル余もあろう杉の大木が横倒しになってふさいでいたことだ。先を急ぐ日程だったから正確ではないかも知れないが、その杉の木はどうも台風や落雷で倒れたものではなく、人為的に倒されたものとしか思われなかった。・・・

 “学校橋”のたもとには可愛いお地蔵さんもまだあり、部落のはずれには墓地も残っていたほかは、母屋から離れて建てられ、いまはただつたかずらの思うにまかされている雪隠ぐらいなものだった。

(今井幸彦編著『日本の過疎地帯』岩波新書、昭和43年、89~92ページ)

 ※今井氏の石碑の解読内容は、一字の誤りもなく正しいことが判明した(2014年5月3日)。ただし、厳密には、「
衛→ヱ」である。

<1969年(昭和44年)>

 
やがて村の入口の農具小屋が見え、それを過ぎると右手の草の中にかの有名な白壁の土蔵が見えてくる。白壁には東京銀座のビルや富士山や女性の水着姿の絵が書かれているが、廃村化してから三十数年も経っているのに崩壊の兆(きざ)しさえも見せていない。10人位ならば悠々と泊ることができる。蔵の前に井戸があるが、年々浅くなっていくようである。ここから草原の中のはっきりした道を下って行くと100m足らずで橋がある。これが昔の学校橋で、渡ると左手に京大高分子化学山の会の小屋がある。鮮明な黄と緑に塗られて相当派手なものである。付近に石垣が残っている所があるが、これは分教場の跡である。このあたりから、下流にも村の家々があったように記憶するが、今は一面の草原である。右手山側に八幡社の鳥居があり、記念碑が残っている。それからしばらく行くと橋があり、渡った所に飯場小屋がある。この飯場は戦後この八丁山林を買った蒲郡(がまごおり)の某氏のもので、半永久的に造林人夫の人達が住んで植林に従事している。

(金久昌業調査執筆『京都北山2』昭文社、
昭和44年初刷、昭和46年3刷、昭和47年4刷、小冊子13ページ)




<1969年(昭和44年)>

有名になりすぎた廃村  40 ダンノ峠から廃村八丁へ

 どうしてこれほど山奥に集落ができたのかと、いぶかしくなる山間の僻地(へきち)。流れは清冽で山の木々は緑にもえ大気はあくまで澄んでいる。その明るく平和な谷間にかつて小さな集落があった。・・・

 ある年、例年にない大雪は集落を餓死寸前に追い込んだ。生きるために、人々は父祖の地を捨てた。こども達の将来のためにも。・・・谷間の村は、時とともに崩壊の一途をたどりつつ、長く形骸を保った。いくつもの峠を越え、谷をさかのぼって訪れた人々は、分教場の床に散っている図画や、コケむしたワラ屋根にクモの巣がまつわりついた家々を見出した。死んだ村の中に立って、陽を照り返す崩れかけた土蔵のカベの不自然な白さを眺めていると、そこに住んだ人々の執念を感じて、鬼気迫る思いがしたという。
 しかし、時はすべてを流し去る。30年もの歳月は廃村八丁の姿を変えた。八丁は静かで平和な自然にかえろうとしている。山林労務者の飯場が設けられ、人影が見られるようにもなった。それでもなお、北山に残る廃村の名にひかれて、はるばる訪れる人は少なくない。

 ・・・ここまでくれば八丁はもう目の前だ。間もなく小屋が見えてくる。この小屋は
山の道具を入れておく倉庫で、八丁の廃屋ではない。
家は全部つぶれて、現在残っているのは、白壁の土蔵だけである。
この土蔵は頑丈で、壁は異様に白く、八丁の新名所となった落書の壁画が白壁一面に描かれている。このあたりが八丁の中心部で、ここを通りぬけると地蔵堂のある川原に出る。近くに派手な色に塗った京大高分子化学山の会の小屋がある。その先で橋を渡ると飯場があり、この前を通りすぎてソトバ峠への道をゆく。小屋が2,3軒建っているところで道は左へカーブし、八丁川本流をはなれてババ谷にはいる。その手前に墓地がある。およそ10基ばかり墓石が並んでいる。廃村の墓石の「累代の墓」という文字が妙に印象的である。ここから約30分でソトバ峠である。・・・

北山クラブ編『京都周辺の山々』創元社、昭和41年初版第1刷、昭和44年初版第7刷、182ページ)

北山クラブ編『京都周辺の山々』創元社、昭和45年第2版第1刷、昭和48年第2版第4刷、186~7ページ)



<1973年(昭和48年)>


 廃村八丁付近

 ここに紹介する八丁は、昔は弓削(ゆげ)八丁と呼ばれた由良川の支流八丁川の上流の小盆地。昭和の始め豪雪に耐えられなかったのが直接の原因で家屋を捨てて山を下りたことで知られているが、以来、この廃村は長年月の風雪を受け、当時の分校はじめ数軒の家屋は崩壊し、今では土蔵が一棟残るのみになったが、付近の景色や地勢が岳人やハイカーに人気があるのか、土、日曜や休日には訪れる人が多い。・・・

 廃村から谷沿いに八丁川を下ると橋があり、渡った右側には八幡社があって、昔の村の生活の跡がうかがえる。前述の土蔵もまだしっかりしていて二階の板の間は仮泊に利用できる。また左の草原には京大高分子化学の小屋が建ち、その先に伐材・植林用の飯場小屋が建っている。

(仲西政一郎編著『アルパインガイド39 近畿の山』山と渓谷社、昭和48年改訂第一刷、54~55ページ)
   (同書の昭和56年版のあとがきによると、「近畿の山」の大幅改訂にふみきったのが昭和46年春、とある。)




<1973年(昭和48年)>


由良川水系の水明と美林   8 廃村八丁

 概観  八丁が廃村になってから、40年近い年月が経つというのに、いまだにその悲痛な語り草と廃滅の美を慕って訪れる人が絶えない。これは、現代の若い人々になくなってしまったかに見えるものの、その人間性の深いところに底流するロマンとか物のあわれとかいったものをいつくしむ心情に、触れてくるからであろうか。・・・
 ところが現在の八丁には廃村の影像は見当たらない。植林会社が1軒の廃屋を利用して飯場にしている以外には
白壁の土蔵と10基の墳墓それに神社の遺跡があるだけで、かつて人々が生活した家々は1軒も見当たらない。・・・

 コース  ・・・細い木橋を渡ると、八丁からソトバ峠へ行く道に出る。この道を左にとって行けば植林会社の飯場があり、橋を渡って右にとって行けば、200㍍ほどで
有名な白壁の土蔵が見えてくる。
 現在八丁には、土蔵の前に二チレ、旧学校橋の所に京大高分子化学の山小屋が2軒建っている。いずれも三角屋根の現代調であり、土蔵とのアンバランス、廃村イメージの不調和を感じられるかもしれないが、こんなことで驚いたり不満をもらしていてはしかたがない。聞くところによると、近い将来京都府の施設がここに建てられるそうであるから、八丁の変貌はこれくらいではきかない。・・・

(金久昌業『京都北部の山々 丹波・丹後・若狭・近江』創元社、
昭和48年、82、84、87ページ)



<1975年(昭和50年)>

 廃村八丁集落跡(京北町上弓削)  八丁の集落がなくなってから四十年余、昭和八年冬大雪後のことである。もともと八丁山は、お上の運上山であったのが、明治の初年弓削領となった。八丁山五戸の由来は定かでないが、記念碑には次のように刻まれている。(※)
現今ノ八丁山ニ、畠地ヲ所有ニ移サント発者ガ、明治元年ヨリ、多大ノ苦心ト
費用ヲ償
明治九年六月京都府ノ許可ヲ得テ今日ニ至ル コノ由ヲ次第世ニ伝
ント云爾

               発
者 山本吉門  本田嘉右(広河原  
                    段下久右ヱ門  弓下
門  弓右ヱ

  明治四十五年四月三日建


 大正に入いり一時六戸となり、太平洋戦争の終戦直後、廃村となったが、その昔源義家八丁越えに、馬を止めたと伝えられる馬場谷の滝の絶景や自然の渓谷美は、ここを訪れるハイカー達の目を楽しませている。

(『京北町誌』京北町、昭和50年、501ページ)

(※)
記念碑に刻む内容が、赤字部分に関して、森本次男『京都北山と丹波高原』(昭和39年)および今井幸彦編著『日本の過疎地帯』(昭和43年)と食い違っている。『京北町誌』の別の箇所(607ページ)に山本吉左衛門とあるので、「左」の記載がない「山本吉ヱ門」になっているのは間違いと判断できる。正しい碑文内容については、2014年5月3日に筆者自身で確認した。その結果、今井氏の碑文が正しく、森本氏の碑文もほぼ正しい(一部は誤り)が、解読文に誤りの見られる『北桑田郡誌 近代篇』を参照した『京北町誌』にも間違いが多い。


 鴨瀬越え 
 鴨瀬を越えて八丁山へ行く峠である。八丁山の歴史は、遠く鎌倉時代から明治十一年六月、上弓削村と、佐々里村とが和解するまでの六〇〇年間は、流血の争いをつづけてきた山論争の歴史である。
 八丁山は弓削郷に支配されて、弓削郷本郷から奥山と呼ばれて、弓削の庄の領地は佐々里・知井・棚野(現在の鶴ケ岡)まで伸びており、八丁山の水は佐々里川に流れ、由良川に合流する。本郷弓削の水は弓削川となって桂川に注ぐ、いわば支配する表日本と、支配される裏日本との自然環境との違いと、八丁山の入会権をめぐって山論争を捲き起こしてきた。
 応安元年(一、三六八)南北朝時代の末期にも、弓削本郷と、枝郷知井との間に論争が起き、その年の四月、都管昌能、周「片兪」(※)の両名による徳治年間の裁決によると。
 知井村者為弓削加納六分一致其沙汰條先例也
 と、裁決をくだしたが、山には六分の一というような境界を、現地ではっきり決められるものではなく、その後、弓削・知井側の双方の入会権を定める境界をめぐって論争が絶えることはなかった。
 当時としては、人口に比例して弓削地内には山林が少く、ことに、上弓削村の炭焼きたちにとっては八丁山が死活を制する山稼場であった。
 絶えることのない山論争に困りはてた奉行所から、双方が主張する八丁山の境界線をめぐる絵図を出させたが、裁決はむずかしく、当分八丁山は奉行所の御留山となった。
 御留山の処分赦免の嘆願書が奉行所に出されたが、赦免したところで、双方、ふたたび、山論争を繰り返すだけのことで、八丁山は御留山のまま、元禄十四年(一七〇一)周山村の吉太夫の御請山となり、享和二年(一七二三)佐々里の猪兵衛が吉太夫に代って八丁山を御請山として経営してきた。しかし、運上銀を滞納するので、ふたたび奉行所から御留山となり、困ったのは吉太夫請山当時から住んでいた五戸の者、日常のくらしに困りはてているところを、上弓削村が同情して八丁山御留山赦免と、八丁山御請山を嘆願、奉行所も上弓削村の願いを入れて、五戸はそのまま上弓削村の山番として炭を焼き、くらしをたててきた。
 ところが明治新政府が地租を定め、地券を交付するときの八丁山払い下げをめぐって、上弓削村と佐々里村が相争い、その結果、五戸に味方をした上弓削と佐々里とが和解して、鎌倉時代より争い続けてきた山論争の歴史は、明治十一年五月に終った。
 明治二十二年、八丁山住人の五戸が、永年、僻地にあって山林保護につくした労に報いるために、八丁山第二番地の内反別四十四町九反五畝を金九十円で上弓削から五戸に譲渡した。
 八丁山五戸の弓下熊二郎・本田嘉右衛門・段下久右衛門・弓下三右衛門・山本吉左衛門、この五人は四十四町九反五畝を公平に五等分して、豊かなくらしをたてていたが、二メートルを超える豪雪地帯に病人が出ても医者を迎えることもむずかしく、ついに八丁山に永住する意欲を失い、離村する者が出ると、次から次へと八丁山を捨て、宗家の山本家が最後に八丁山を去ったのは昭和十六年頃で、それから、誰が名付けたのか「廃村八丁」の名で全国に広く知られるようになった。

 卒止婆峠
 小塩の馬場谷奥から卒止婆峠を越え、廃村八丁に至る峠道である。
 天和二年(一六八二)上弓削・知井の両村が奉行所に呼び出されて、八丁山御留山を言い渡されてから、両村とも御留山処分に困りはてて、御留山御赦免を嘆願したが容れられず、元禄十四年(一七〇一)周山村の庄屋吉太夫が八丁山の経営を請負った。・・・
 ・・・元禄十四年三月八日、山国では、八丁山請負契約満期の節には、道は廃道にし、元のようにして返す約定であったのが、その約定が守られなかったことが、かえって、八丁山に住む人々にとっては、くらしを支える物資を運ぶために便利なところから、卒止婆峠は山国を経て、京都に上る京街道となり、昭和十六年ごろ八丁集落が廃村になってからも使用されて現在に至っている。卒止婆の山に寺屋敷があり、元禄十四年には、吉太夫が山国十カ村への嘆願書に仏谷と記し、峠の名が卒止婆と言伝えられているところから、卒止婆の山一帯は名もない廃寺跡であると見られる。

(『京北町誌』京北町、昭和50年、606~9ページ)
  

(※)「片兪」はパソコンでは、一文字で表示できない漢字で、左のへんが「片」、右のつくりが「兪」の漢字である。



<1975年(昭和50年)>

(菅原)棟に千木がのったくず家ぶきの民家(丹波風)が点在する

(廃村八丁)昔は弓削八丁と呼ばれていたが、昭和の初めの豪雪に耐えられなくなったために廃村になった。現在は、白壁の土蔵と石垣と八幡社とが残るのみ
 白壁の土蔵の横の近代的な山小屋は、いつでも解放されているので利用できる。ほかに京大高分子化学山の会の山小屋あり
 十基ばかりの墓石が道端に並んでいるが、廃地の墓石はなにか印象的だ

    高田収「YAMAKEI WEEKEND PACK ⑫ 北山・廃村八丁」の地図に記入された説明文より
            (『山と渓谷』1975年12月号、山と渓谷社)




<1977年(昭和52年)>


自然に還ってしまった廃村  41 ダンノ峠から廃村八丁へ

 どこからそこへ行くにしても、高い峠を歩いて越えて行かねばならなかった。木材の宝庫である八丁は、この辺りの山村の富の源泉として、古くから争いの種となっていた。けれども明治9年、5戸5家族の人達の所有権が公に認められてからは、およそ50年の間八丁には平和な生活が続いた。昭和に入り文明の波がこのような山の中へもひたひたと押し寄せてきたとき、医師もなく、電燈もラジオもなく、郵便も新聞も来ない生活に人々は耐えることができなくなった。ひとり去り、また1家族が去ってゆく中に最後まで残った人々も、
昭和9年の大雪に飢餓の辛酸をなめ遂に故郷を捨てる決心をした。最後の1家族が昭和16年に去ったとき、八丁は廃村となったのである。
 思い切りよく京都へ出た人達、より近く広河原や小塩に住んで故郷(ふるさと)八丁と縁(えにし)を断ち切れなかった人達も、40年の星霜を経た今、八丁での生活の記憶のすべてが忘却の彼方に流れ去ろうとしている。・・・明治初年にこの土地を血と汗の代償として手に入れた父祖たちの記録は、今はただ八丁の八幡社参道に記念碑として残るのみである。
 故郷とは何か。八丁への旅はこのテーマで始まる。

 ・・・そのまま八丁へと入ってゆく。しっかりとした木の橋を渡り、手入れのよく行き届いた杉の林を行くと、道の両側に石垣がはじまり、目的地に入ってきたことを知るのである。
 最初に目に入るのは赤さびたトタン板に囲まれた家の残骸であるが、この家は八丁が廃村になる前よりあったいわゆる歴史的建造物ではない。滅びていった八丁の建物で今に残るものは、二つの
土蔵と一つのコンクリート製物置、丘の上の八幡宮とその参道にある記念碑、そしてあちこちに見える石垣ぐらいのものであろうか。八丁を語るとき必ず登場する有名な壁画のある土蔵は、八丁川のほとりにひっそりと立っている。銀座通りと水着美人の絵は風雪にさらされて下方より消えつつあるが、銀座の風景にも水着のファッションにも二昔ほどの星霜が感じられ、じっと眺めていると、これらの絵を通して滅びゆくころの八丁が、そしてさらには人々が生活を営んでいたころの八丁が、まぶたに浮んでくるようである
 壁画のある土蔵の先で、小さなお地蔵さんの見守っている橋を渡る。この橋は”学校橋”がかかっていたところで、橋下右岸の京都大学高分子化学山の家の建っている場所に、昔は分教場の先生の家があったという。分教場はもう少し下流にあり、八丁が廃村になって間もないころには教室にまだオルガンなどが置いてあり、私達北山クラブの会長が昭和18年にこの地を訪れたときには、床一面に児童の図画や習字が散乱しているのが破れたガラス戸越しに眺められたそうだ。
 憶(おも)えば、亡びゆくものへの限りなき惜別の情とは、そのころの八丁に感じられたものであり、ほとんどすべてが土に帰ってしまった今となっては、かつてここに営まれた生活に想いを馳せる手がかりを得ることさえ困難である。けれどもそれはそれでよいではないか。現在の八丁は、きれいな水、きれいな空気と一面の緑に囲まれた別世界というだけで十分である。自動車が入ることのできない八丁は、その価値を現代の”桃源郷”に見いだそうとしている。
 左岸に人家があり炊飯の煙のたなびく中で丸木橋を渡る。ここには蒲郡から来て植林作業を営んでいる人達が常住しており、八丁全体に植林の手入れがよくなされているのもなるほどとうなずける。家の前を通り過ぎてまっすぐに行くと、左手に墓地がある。比較的よく手入れがなされており、今もなおお彼岸や命日などにご先祖のお詣りに来るかつての八丁人があるのであろう。・・・

 5戸5家族の人々が八丁の地を手に入れてから100年、八丁は栄え、亡び、そして自然に還った。八丁を訪れて後、ここからソトバ峠を見上げるとき、家無き故郷をもつ人達の哀しみがかすかに伝わってくるかのようである。・・・


(金久昌業編『京都周辺の山々』創元社、昭和523版第1刷、昭和57年第3版第4刷、210~6ページ)



<1978年(昭和53年)>

 卒塔婆(そとば)峠

 卒塔婆峠は江戸時代の中期元禄の頃に出来た山国小塩(おしお)から弓削(ゆげ)八丁に越す峠である。・・・

 卒塔婆峠という名を聞いて、誰でもが思い浮かべるのは墓とか寺であろう。その通りで、昔この峠のあたりに廃寺があり、峠の名はその寺に由来しているらしい。だがその場所も寺の名前も一切不明である。元禄の頃既に廃寺であったというから、かなりの昔であろう。
 ・・・上ノ町から一時間近く歩くと、卒塔婆峠の登り口に達する。林道はもう少し奥まで伸びているが、左から小谷の流入する地点である。
ここに以前「これより左八丁道」と彫られた古い石標があったが、今はなくなってしまった。・・・

 ・・・ここから右に八丁川を溯る。と、ほとんどババ谷の対岸くらいに橋があって西南行する道がある。これが八丁川の川辺を下降する道の入口である。これを渡らず少し行くと右手に古い墓石を十基ほど見る。これは八丁人の先祖代々の墳墓であるが、今もなお離村した人々が花を手向けにくるということである。ここを過ぎるとまもなく八丁の山林業務に従事している人々の飯場の建物の前に来る。八丁の西の入口である。
 廃村八丁といえば今では知らぬ人がない程に有名である。まだ八丁に人が住んでいた頃は、弓削村に属する名もない一寒村に過ぎなかったのに、かえって廃村になってから俄然有名になった。現在では北山の名所的存在である。この原因はやはり廃村の悲話に起因するものであろうし、人々はその悲哀に惹かれて訪れるのであろう。だが現在の八丁に悲哀はない。強いて探せば
土蔵の壁の白さくらいであろうか。三十数年を風雪の中に閲(けみ)しているのに異様な白さを保っている。暮夜一人で訪れる時は悚然(しょうぜん)とするかもしれない。だが昼間は陽光が燦々(さんさん)と降り注ぐ明るい谷間である。周囲の山々は植林会社の人々の手によってきれいに杉が植林され、村の中も整然と道がついてよく手入れがされている。その上現代風な三角屋根の山小屋が二つも建っている。白壁の土蔵と三角屋根の山小屋が向い合っている風景、それは一見アンバランスな風景だが、白壁の生彩が勝るので気にはならない。これはよいものはよいという例証であろう。こんなに変貌した八丁であるのに訪れる人は今も絶えない。その名声にひかれて訪れる人が多いとしても、なかには敏感に廃滅の片鱗を感じとる人もあるのであろう。
 語り伝えられる悲話といっても、昭和四十年代に頻発した過疎現象の云わば”はしり”と云ったもので、大雪に孤絶する、病気になったとき医療がない、子供の教育に充全を期せない等の理由から廃村になったものである。現在このような廃村ならば丹後半島にでも行けば軒並みである。廃村五年、廃村十年と、もっと生ま生ましい荒廃の実感が得られる。それなのにここ八丁に集中するのは、やはり距離が近く京都から日帰りで行けるということが大きな魅力になっているのだろう。しかしこれだけではない。八丁を取巻く風土が勝れていることはもちろんである。適当に深く適当に開けているということが都会人のお気に召すのかもしれない。

(金久昌業『北山の峠 ―京都から若狭へ― (上)』(ナカニシヤ出版、昭和53年初版第1刷、昭和56年第2刷、136、140~1ページ)




<1980年(昭和55年)>

 八丁

 有名な廃村であるのは読者の先刻御承知の通りである。最近こんな処にという所にも廃村が増えて驚かされる場合が多い。しかしこの廃村は京都北山・丹波高原では草分けの廃村といってよい。
 八丁というのは手八丁、口八丁という語の示すように「強い」とか「異常な」とか「壮大な」とかなどの意を表わす語であり、それから発展して「飛び離れた」という意味をもつ日本の古語である。この八丁の場合もまさに山奥に飛び離れてある処、つまり飛地である。行政的には弓削村の飛地であって昔は弓削八丁といっていた。江戸時代の頃から、御所おかかえの炭焼き部落で三百年の伝統をほこり千木を屋根にもつ格式のある家が今でも廃村の中に残っている。・・・

 ・・・たしかあの夜は節分の夜で京都市街も稀有の大雪となり市電の架線も各所で雪の重みで寸断され交通の全く途絶したのを覚えている。・・・

 ・・・(八丁では)草ぶきの大屋根がかくれてしまう大雪にとじこめられて、ひるなお暗いランプの下で、寒さで死んだ年寄りの葬いも出せず、ホトケサマは暗い寝床で硬直したまま一週間も安置されたという。・・・

 今も八丁川の源流は六〇〇mの小盆地を北から南へ『方丈記』の文章そのまゝに流れている。”川水よ、心あらば 昔を語れ”と問いかけたくなる清冽な水である。分校もまだ残され、家々は釘づけされたまま標札が半ば風化したように淋しく掛っている。立派な神社も一段高い丘の上にあるが鳴らす人のない鰐口につけた破れかかった白い布が従らに高原を過ぎる風に身を任せている。
 墓地もそのまま残され、・・・。
 土蔵の白壁も心なきハイカーの落書きで汚されているのは痛痛しい限りである。
 しかし現在は夏場だけ鉄道の枕木用にする栗の材木作りに人々が村の家を利用しているらしい。・・・

(澤潔『京都北山と東丹波高原 山旅の蠱惑 ―地名語源考とその歴史―』自費出版、昭和55年、67~70ページ)


  (※)後に出版された澤潔『京都 北山を歩く③』ナカニシヤ出版(1991年、152~4ページ)の記述のもとになった文章がつづられている。



<1980年(昭和55年)>

丹波高原・廃村八丁

●京都北山の滅びた山村をめぐる

 京都の登山者だけでなく、京阪神の登山者にとって、同じく丹波高原にある八丁平とともに、廃村八丁のイメージというものは実に強烈で、なにかあこがれに似たものが感じられる。・・・
 右に四郎五郎谷をみて、間もなく廃村八丁のシンボルである白壁の土蔵につく。村人たちの悲哀に綴られた歴史を秘めた土蔵は、今では丹波高原の観光コースの一つに代表されていて、訪れる人の落書きなどで随分よごれてしまい、また周辺も草などが刈りとられて明るくなり、かつての秘境も随分変わってしまった。
 八丁川を下るにしたがって、八幡社の鳥居や分教場の跡が見られ、当時の名残りをとどめている。八丁の墓地を最後に、廃村と別れて支流のババ谷に入り、卒塔婆峠に向かう。・・・
・・・それから杉林の中の衣懸坂と呼ばれる斜面を登りつめると鞍部に出る。そこは八四八㍍と八一○㍍の峰のコルで、平安期の高貴な女性が世を捨ててここを通ったとき、絹を懸けて奥山に消えたといわれる伝説のある峠であるが、それにしてはいささか見通しが悪く、うっとおしいところである。

  中庄谷直「ミニガイド・近郊の山(京都) 丹波高原・廃村八丁」 (『岳人』400号記念特大号、1980年10月号、205頁)



<1981年(昭和56年)>


1廃村八丁
・・・やがて道は谷から離れて雑木林に入る。林をぬけると廃村八丁に着く。土蔵が一つぽつんとあり、白壁には市街を描いた楽書がある。・・・

(渡辺歩京『続・北山の道』白地社、昭和56年、7~8ページ)


北山の詩情
・・・北区のH子さんは歌人である。一つ山に登るごとに、何首かが生まれる。本書トップの廃村八丁を初めて訪れた感動は

「八丁の村は人住まず四十年村を流るる水豊かにて」

「屋敷跡は藤の花房重く垂れ風のまにまに揺らぎ止まずも」


・・・金婚式近い女性とは思えぬ力強い歌に敬意を。

(渡辺歩京『続・北山の道』白地社、昭和56年、91ページ)




<1982年(昭和57年)>

32廃村八丁からタキノタニ山

 ここは廃村八丁で、
銀座や富士山の落書きで有名な朽ちかけた蔵が残っている。それらは、かつて人々が生活していたことを物語っている。蔵の裏手には八丁川(刑部谷)が流れており、夏でも冷たい水が飲めるので、ここで昼食をとるとよいだろう。雨が降ったとしても、蔵か、そのそばにあるトタン葺の小屋で休むことができる。この弓削八丁は、かつて林業に携わる人々が生活しており、戸数も十数戸を数える小さな山村であった。しかし昭和九年から十年の大雪で村は陸の孤島と化し、食料も底をつき病人や凍死者まで出した。それ以来、この八丁の人々は一軒また一軒と、村から出て行ったのである。我々のように都会で生活している者にとって、こういう自然に囲まれた山村はなにか理想郷のように思われるが、現実は厳しいものであるらしい。
 広場を後に、かつて家が建っていたであろう草地の中を進む。やがて川を渡る。丸木橋を渡った所に小さな石仏が二体安置されており、さらに進むと三角屋根の京大高分子化学山の家が左にある。この辺りに村の分教場があったという。八幡宮の朽ちかけた鳥居や記念碑を見て、丸木橋を左に渡る。渡った所に飯場小屋がある。その裏を右に川沿いにたどれば、トラゴシ峠を経て上弓削方面へ出られる。しかし、ここではまっすぐ進む。ここには建物がふたつあり手前は飯場小屋で、雪のない間は山仕事の人が寝泊まりに使っている。もう一方は当時の家だが、今は住む人もなく、山林パトロールの休憩所になっている。
 右手に川を見ながら進むと、やがて墓地を過ぎる。・・・

(高田収編『中高年向きの山100コース<関西編>』山と渓谷社、昭和57年、86~88ページ)


※八丁の戸数は5~6戸であり、大雪は昭和八年から九年にかけてである。



<1983年(昭和58年)>


山峡の廃村に往時の生活を偲ぶ散策コース
⑧ダンノ峠から廃村八丁

 明治のはじめ、木材の宝庫である八丁(はっちょう)に、五戸五家族が生活をはじめた。八丁は峠を越えた山奥の地であり、生活するには決してたやすい所ではなかったと聞く。
 苦労して生活してきた人々も、昭和に入り、文明が届かない生活に耐え切れず、ひと家族ずつ去っていき、昭和16年に最後の一家が去って、八丁は廃村になってしまった。
 ・・・
 京阪三条駅から広河原行京都バスに乗り、終点の手前の菅原町で下車する。このあたりは夜になるとクマやイタチ、イノシシなどが道路を横断するそうである。舗装されたバス道でも、「けものの渡り」といって、クマなどが通る場所があり、夜は外出しないというのが面白い。
 ・・・若杉の植林地帯を抜けるとダンノ峠である。・・・
 ・・・そのまま進むと、四郎五郎(しろうごろう)峠への分岐があり、道標もある。ここから峠へは10分ぐらいである。この分岐から左へ刑部(ぎょうぶ)滝などの美しい滝が眺められる渓流道にルートをとろう。
 やがて川幅が広がり、流れも緩くなる。そして、谷から離れるともうそこは廃村八丁である。
まず目に入るのが白壁の土蔵。壁面に銀座の街の風景と水着美人が描かれているが、かなり消えかけていてなんとも物寂しいものである。
 丘の上の八幡宮には記念碑がある。分教場の教員の家跡に建てたという京都大学高分子化学教室の北山の家もかなり荒れている。
 石垣の跡が残る道をたどると、山林巡視員詰所である。木造民家の一群が見えてくる。
 やがてトラコシ峠経由ヤナギ谷の分岐があり、道標にしたがい、ソトバ峠に向かう。平坦な道をたどると、左手に古い墓がある。八丁の人のものであろう。この墓を過ぎると川の流れが逆になっていて、ババ谷に入ったことを示す。・・・
                                                  追手門学院大学WV部OB・中村圭志

(アルペンガイド編集部編『京阪神ワンデイ・ハイク』アルペンガイド14、山と渓谷社、1983年、50~51ページ)




<1983年(昭和58年)>

京都 北山・廃村八丁

  シャクナゲと飯盒炊さんのできる清流を求めて

 ここ廃村八丁は、北山を紹介するいくつかの案内書に幾度となく取りあげられ、知り人ぞ知る所となり、市街から遠隔地でありながら訪れるハイカーも決して少なくない。・・・
 ・・・分岐から十分も歩けば小広い台地に出る。ここが廃村八丁を語るに、常に話題にのぼる土蔵のあるところだ。
 土蔵のなかは小人数なら宿泊もできそうだ。炊さんするにはこの付近がもっとも適しているかもしれない。時間に余裕があるならもう少し付近を探索してみてはどうだろう。
 橋を渡り、流れに沿って下れば右手に朽ちかけた鳥居が現れ、鳥居をくぐり坂を登りきると八幡宮社に行き当たる。なおも流れに沿って下れば杉林の中に住居跡らしき石垣が目につく。さらに下ると道が急に途切れる。道は急に角度を変え、橋を渡り左岸へと移っている。飯場小屋のある所だ。そして少し下ったところにいまはなき八丁村人の墓地が残されている。・・・(京都趣味登山会)

(内藤保彦「京都 北山・廃村八丁  シャクナゲと飯盒炊さんのできる清流を求めて

 『ワンデルング』1983年6月号、1巻3号、岳洋社、21~23ページ)
      
    ※『ワンデルング』は1983年4月号~1984年3月号まで1年間12冊、大阪の岳洋社から発行された山の月刊誌。
     西日本(中部・近畿・四国・中国・九州)を中心に紹介し、とりわけ、近畿地方を中心とする岳人・ハイカー向け雑誌。
     この雑誌は日本体育大学図書館(世田谷区)に所蔵されており、複写は公共図書館を通じて依頼すれば入手可能。



<1983年(昭和58年)>


「京都 北山を歩く<5> ―八丁の名滝・刑部滝と伝説を秘めた衣懸坂―」

 生まれくるもの・・・・・・すべて自然に還ってしまうのである。廃村・廃道・伝説の”北山のロマン”を求めて、八丁周辺の峠を訪ねてみよう。・・・
 三条京阪から約二時間二十分で菅原町のバス停に着く。バス停横の橋を渡ってアスファルトの道を歩く。村のはずれで道は二分しており、この分岐横の民家の人が八丁に居住していたと聞く。・・・アスファルトの道が最奥の民家まで続いている。・・・
 休憩後、八丁へ下ることにしよう。・・・杉林の中の平坦な道で、左側に石垣が見えてくると八丁である。さらに前方へ歩く。右側、杉の間越しに、あの有名な土蔵がひっそりと建っている。誰もが一度は足を止める場所である。”廃村”という言葉から『北山』の名所になってしまった。
 土蔵に残るものは、八丁人によって描かれた銀座通りの絵と、富士山と水着女性の絵だけである。・・・土蔵横には円錐形の山小屋が一棟。さらに八丁川に沿って歩くと橋を渡った所に二体の石仏を見る。ここが旧学校橋の架かっていた所らしい。少し行くと左側が開けた所がある。ここに昔、分教場があった。その右側には朽ちた鳥居が立っている。この石段を登れば八丁八幡宮である。栄えていたころの八丁はどんなであったろう。何人もの人がこの神社の石段を往来したことであろう。
 神社から少し行った所の右側に、杉林の中にコンクリートの物置きが一棟残っている。このあたりに民家が集中していたのだろうか。石垣が数ヵ所目につく。この先で八丁川に架かる橋を渡る。・・・ここにも一棟の土蔵と二棟の木造の小屋が建っている。小屋の横は畑だったのだろうか。さらに杉林の中を八丁川沿いに進む。村のはずれに小さな苔むした墓地がある。盆や彼岸のころなどに供え物や花を見かけることがよくある。・・・   (本文・北川裕久)  (写真・北山フォトクラブ)

(北山フォトクラブ「京都 北山を歩く<5> ―八丁の名滝・刑部滝と伝説を秘めた衣懸坂―」
      『ワンデルング』1983年8月号、1巻5号、岳洋社、52~55ページ)
      
    ※『ワンデルング』は1983年4月号~1984年3月号まで1年間12冊、大阪の岳洋社から発行された山の月刊誌。
     西日本(中部・近畿・四国・中国・九州)を中心に紹介し、とりわけ、近畿地方を中心とする岳人・ハイカー向け雑誌。
     この雑誌は日本体育大学図書館(世田谷区)に所蔵されており、複写は公共図書館を通じて依頼すれば入手可能。



<1985年(昭和60年)>


る里へのロマン   廃村八丁と衣懸坂

 生まれくるもの・・・・・・すべて自然に還ってしまうのである。
 平和な生活の中で人々は何を思い、そして何を語ってきたのだろう。文明の波に耐えかねて故郷を捨てた人々、それに追い打ちをかけるような
昭和九年の大雪。それから七年、昭和一六年に八丁は廃村となってしまったのである。学校があった、平和な生活の笑いがあった。いつしか人々が去り土蔵や墓地だけが残った。・・・

 【コース】
 三条京阪京都バス乗り場より『広河原行き』バスに乗車。約2時間20分で『菅原町』のバス停に到着。下車後、バス停横の橋を渡ってアスファルトの道を歩く。村のはずれで道は二分しており、この分岐横の民家の人々が八丁に居住していたと聞く。・・・アスファルトの道が最奥の民家まで続いている。・・・

 廃村八丁へ
 さて、八丁へ下ろう。・・・スギ林の中の平坦な道で石垣が見えてくるとまもなく八丁である。
スギ林の向こうに、あの有名な土蔵がひっそりと建っており、誰もが一度は立ち止まる場所である。土蔵に残るものといえば、八丁人によって描かれた銀座通りの絵と富士山、そして水着美人の絵だけである。・・・土蔵横には円錐形の山小屋が一棟、さらに八丁川沿いに歩くと橋を渡った所に二体の石仏を見る。ここが旧学校橋の架かっていた所で、さらに行くと三角屋根の山小屋が一棟、その横あたりの広場が分教場があった所である。その前には朽ちた鳥居があり、石段を登れば八丁八幡宮である。栄えていたころには何人もの人がこの石段を往来したことであろう。神社から少し行った所、右側スギ林の中にコンクリートの物置きが残っており、このあたりに民家が集中していたと見られる石垣が多く残っている。この先で八丁川に架かる橋を渡ると一棟の土蔵と二棟の木造小屋が建っている。畑の横を通り50㍍ばかり歩くと小さな苔むした墓地がある。盆や彼岸のころになると供え物や花を見かけることがよくある。・・・


岩肌で舞う水流の輝き   八丁川遡行<一泊>

 
昭和一九(ママ)年の豪雪で廃村になって以来四〇年の歳月が流れた。崩れかけた土蔵、苔むした墓地。しかし八丁川の流れは昔のままに岩肌をすべり、瀬音もなく緩やかに流れる。静寂の中に村人の足音がいずこからともなく聞こえてくるようだ。

 ・・・対岸に卒塔婆峠への道が見えてくると八丁である。
 左をとって100㍍ばかり行くと右側に苔むした十数基の墓石があり、
小屋の横から橋を渡って右へ進むと有名な白壁の土蔵が見えてくる。半世紀以上耐えてきたこの土蔵も、昭和五九年の大雪で屋根が半壊し、崩れ落ちそうな状態である。・・・

(北川裕久『ワンデルングガイドⅢ 京都北山』岳洋社、
昭和60年、142~4、147~9ページ)



<1985年(昭和60年)>
廃村八丁
・・・やがてあたりは平坦な杉林となり、その林の中のあちこちに、とり残されて朽ちた石垣の姿をみる。昔はこの道の両側に民家が建ち並び、往き交う人達の生活があったであろうことを思いうかべながらなおも進むと、杉木立が切れ、明るい広場に出る。
 
ここには、銀座通りの落書きで有名な白壁の土蔵が長年の風雪に耐えて唯一その姿を残している。しかし痛みは年々ひどくなり、壁もあちこちがくずれ落ち、いずれはここで仮泊することさえできなくなるだろう。
 そこからさらに草むらの中を行くと大学の山小屋があり、八幡宮の鳥居や記念碑などを横目になおも進み、橋を渡ると飯場小屋と山林パトロールの事務所がある。
 一一基の墓地の前を通り抜け、やがて道は八丁川と別れ、ババ谷沿いに登っていく。雑木林の中をしばらく進むと急に眼前が開け、ソトバ峠に着く。・・・(大江六夫)

(日本勤労者山岳連盟編『みんなの山歩き 大阪周辺②』(ハイカーズBOOKS、協同出版、昭和60年、122~5ページ)


<1986年(昭和61年)>


廃村八丁―衣懸坂

冷気と豊かな自然
 過酷な大自然の条件に絶えきれず全村民が離村、人知れず、山奥で静かに朽ちはててゆく廃村・・・・・・。・・・なかでも北桑田郡京北町上弓削八丁山の「廃村八丁」は、北山を愛するハイカーの間ですっかり有名になってしまったところでもある。・・・

一級のハイクコース
 八丁山周辺は木材の宝庫で、最近は山林業者が入っているが、それでも近郊登山では味わえない濃度は薄まっていない。廃村跡を横切る時に多くのハイカーが感じる哀歓は、この山歩きが単なるレジャーでなく、「心の旅」にも転化できる第一級のハイクコースであることを示唆している。

コース
 ・・・さて川ぞいに八丁へと向かう。苔むした石垣が目に入ると、まもなく八丁。名高い白壁の土蔵を通りすぎると朽ちかけた鳥居が立ち、さらに進んで左側にかかる丸木橋を渡れば、八丁山林巡視員詰所がある。・・・

(215ページ写真の注記)廃村八丁のパトロール小屋として使われている最後の1軒

【廃村八丁】木材の宝庫として鎌倉末期から六〇〇年ちかく、知井庄(現美山町)と弓削庄(現京北町)の間で境界争いが続いたところ。明治十一年に至って和約が成立、八丁山番五戸が村を形成して五〇〇町歩の山林経営をする平和な生活が続いた。しかし昭和に入り、電灯も医師もラジオもない生活に人々は耐えきれず、同九年の大雪で飢餓の辛酸をなめ、四戸が故郷を捨て、最後の一家族も同十六年に去って八丁は廃村となった。
【衣懸坂】奈良時代末期、八丁山に八頭一身の巨鹿が生息、都にまで出没して人々をおびやかしたため、元明天皇の命をうけた香賀三郎兼家が退治にいく途中、この峠の木の枝に狩衣を脱いで懸け、甲冑に着がえたところから命名されたと伝える。巨鹿を射止めた兼家は佐々里で休息、この時、従兵の一〇人が同地に残り、知井十苗の古住人になったともいわれる。

(京都新聞社編『京都滋賀 日帰りハイク』京都新聞社、最新版、昭和61年、215~8ページ)



<1986年(昭和61年)>

12 廃村八丁
 今は昔、廃村をしのぶ

・・・
木の間から廃村八丁の代表のような蔵が見えてくる。
 蔵の前は広場で、後ろには八丁川が流れている。
蔵も随分傷んでいて、屋根は崩れ落ちそうになり、有名な楽書も半分ほどしか見えない。ここで昼食にする。
 時間があるので附近を歩いてみよう。左の道を行くと立札がある。昭和九年の大雪で、村人は飢餓に直面し、生活の場を他所に求め、一軒二軒と脱出し、遂に村は無人となり廃村になったと説明している。
 丸木の橋を渡ると右に八幡宮があり、登ると今は参詣する人もないお宮がひっそりと建っている。
 引き返して進むと橋があり、渡ると山仕事の小屋がある。小屋を左に見て流れに沿って行くと細い橋がある。この橋の道が、トラゴシ峠、コシキ峠へ行く道である。もとの橋のたもとまで引き返し、小屋の前の良い道を行くとお墓がある。よく手入れされているが、先祖の墓をここにもつ人が、年に一度はお参りにきて、掃除をしてゆくのであろう・・・
 蔵のある広場に戻り、八丁川の河原に出てみると、浅瀬であるがきれいな水が流れている。この山奥の水が、流れ流れて由良川になると思うと気が遠くなる。

(渡辺歩京『北山の道・3』白地社、1987年、55~58ページ)




<1986年(昭和61年)>

 3 廃村八丁から衣懸坂峠
     古きよき山村の生活の名残を訪ねる静寂の山旅

 廃村八丁――。北山を歩く者が一度は訪れる名所のひとつだ。べつだん、周辺の山々となんら変わりはないのだが、廃村という強いイメージが、私たちをひきつけるのであろう。
 八丁の歴史は古く、鎌倉末期から続いた境界争いののち、ようやく明治十一年に村が形成され、昭和に至るまで平和な生活が続いた。しかし、電灯も医師もラジオもない生活に人々は耐えきれず、それに追い打ちをかける昭和九年の大雪で、四戸が故郷を捨てた。それから七年、昭和十六年に最後の一家族が去り、八丁は廃村となった。平和な生活、子どもたちの笑い声も、今は遠い記憶でしかなく、八丁人の悲哀だけがこの地に残っている。・・・
 ダンノ峠には、変わった枝ぶりのブナの木が一本、峠の象徴のように立っている。・・・
 杉林のなかを行き、石垣が見えてくると八丁である。杉木立の向こうに、有名な土蔵がひっそりと建っている。廃村となって四六年、土蔵の耐久力には驚く。が、この土蔵も昭和五十九年の豪雪と落雷で半壊し、名物の銀座通りや富士山の壁画も雨によってほとんど流れてしまった。土蔵の横には円錐形の山小屋が一棟、さらに橋を渡った所に二体の石仏を見る。ここが旧学校橋の架かっていた所である。
 その先に三角屋根の山小屋が一棟、そして八丁八幡宮がある。かつては何人もの人がこの鳥居をくぐり、石段を往来したことだろう。神社をあとに杉林に入ると、コンクリートの物置や、民家の跡と思われる石垣がたくさん残っている。八丁川に架かる橋を渡ると、一棟の土蔵と二棟の木造小屋が建っている。ここが八丁最後の一軒屋であった。さらに五○㍍ばかり歩くと苔むした墓地があり、お盆や彼岸のころになると、供物や供花を見かけることがよくある。故郷を訪れる八丁人のものだろうか。
 八丁川に沿って下ると、道は小屋の横からババ谷へ入る。・・・
 ゆるやかな道を登りきると卒塔婆峠である。小塩から八丁へ越す峠で、ムクの大樹が印象的である。
・・・杉林のゆるやかなつづらおりを登りきると、衣懸坂の峠である。
 この峠には、ひとつの伝説が残されている。奈良時代末期、和銅六年、八丁山に八頭一身の巨鹿が出没し、人々をおびやかしたため、元明天皇の命をうけた香賀三郎兼家が退治に向かった。その道中、この峠の木の枝に狩衣を脱いで懸け、甲冑に着がえたところから峠が命名されたという。しかし、現在の峠は植林と雑木を分けるだけの鞍部で、ここにこのような伝説がなければ、おそらく峠はヤブのなかに消えていたにちがいない。・・・

     北川裕久(文と写真)「廃村八丁から衣懸坂峠」(『山と渓谷』1987年3月号、154~5ページ)



<1988年(昭和63年)>

廃村八丁

 北山の奥深くへ足を運ぼうとする人たちに、一度はぜひ訪れたいと憧れや郷愁の夢を感じさせてきたのが「廃村八丁」である。私が初めてこの地を訪れたのは一九五九年秋のことで、かねていくつか紹介記事は目にしていたが、さてどんな景観と出会えるのか、と広河原までのバスで揺られる二時間余を、あれこれ想像をめぐらしたものである。
 京都バスの終点「広河原」から峠を二つ越え、二時間かけてようやくたどり着けるという僻遠の地が八丁である。一九三三(昭和八)年の大雪で最後の家も離村し、廃村となった。読者からのリクエストに応えるという形で一九五九年九月二〇日に「廃村八丁を訪ねて」の取材記を載せた朝日新聞は、ここに「幽鬼の里」という見出しをつけている。私の初訪問とほぼ同時期の記事であり、いまも手許に残している。それによると、元禄年間に付近の村民五人が小屋を作って炭焼きをしながら山番をしていたが、明治維新後、京都府の管下に入ってから山番の五戸にそれまでの山林保護の功に報いるため、八丁の地を払い下げた。そこで五戸はこの山地を、家をこれ以上増やさないという申し合わせで、次・三男は外に出し、明治の末頃に分家が一つできたため六戸が助け合いながら八丁部落を維持してきたという。この六戸のために小学校の分教場も設けられた。しかし厳しい自然環境のなか、大正末に一戸、また一戸と離村が続き、最後まで踏みとどまった三戸も三三年の大雪でついにこの地を離れたことを伝えている。
 この記事と同時期に訪れた私の記憶では、形が残っていた建物は、川べりのしっかりした土蔵一個とススキの穂先に見え隠れする茅葺き屋根の分教場跡、朽ちた民家が一、二、それと少し高台に小さな宮さんが一つ、というのが、かつてここに人が暮らしていたことを語るすべてだったと思う。それだけに、村の西のはずれにある十二基の墓石がひときわあわれとわびしさを感じさせた。
 この土蔵が八丁名物で、その壁面いっぱいに見事な絵が描かれていた。この山中におよそ不似合いな大都会のビル街が描かれており、八丁を訪れるハイカーの目を楽しませてくれたものである。最初の訪問から幾度か訪れているが、初期にはまだ土蔵の二階に階段で上がることができた。しかし、最後に訪れた一九八八年四月には、壁面も崩落し、倒壊寸前という様子で、ひときわ寂しさがつのった。
 その後、八丁を訪ねていないが、土蔵はもう跡形もなくなっていることだろう。八丁は静かな自然に戻っているのではないだろうか。・・・

塩見昇『峠と杉と地蔵さん』教育史料出版会、2011年、21~23ページ)



<1988年(昭和63年)>


 ・・・狭い土地に村人は父祖伝来の営を守ってきたのである。・・・そんな平和な村に
突如大雪が襲ったのは昭和9年のことである。峠道の交通はとだえ人々は飢餓にひんするはめに陥った。・・・やむなく涙を呑で墳墓の地を捨てることに意を決したのである。・・・
 その後自然の破壊作用は容赦なく進み、家々の軒は崩れ、分教場では、図画や習字などの生徒の作品が窓を破った嵐のために教室中に散乱した。
人なき土蔵の白壁だけが薄暮の中に不気味に立っていた。これは昭和18年頃、第二次世界大戦のさ中に訪れた一登山者が見聞した光景である。・・・
 
 以来40余年、今や八丁は廃村のおもかげなく、山林労務者の飯場が半永久的に建ち、京大高分子化学山の会のスマートな三角屋根が廃村のイメージをかき消している。
今に残るものといえば白壁の土蔵と墳墓と神社跡にある記念碑だけである。村にも道にも荒廃の痕跡は感じられないし、白壁の土蔵は今や観光資源と化した観がある。それなのに今もなお訪れる人があとを絶たないのはどうしてであろう。・・・廃村のイメージが物語として定着してしまっているのである。これは廃村のロマンとでもいうのであろうか。・・・

 四郎五郎谷出合いから八丁はもう僅かである。
手入れの行き届いた杉林の向こうに有名な白壁の土蔵が見えてくる。白壁に描かれた東京銀座のビルや富士山や女性の水着姿の絵も雨風に打たれてもう大分と薄れてしまった。土蔵は二階とも合わせて10人位は泊まれるスペースがあり、八丁探訪の拠点としてよく利用されている様子である。ススキのなびく草原を抜ければ昔の学校橋。石垣は昔の分教場跡。左に京大高分子化学山の会の相当派手な小屋がある。巾の広いしっかりした道はまさに村のメインストリートの名に恥じない。右手の山に上る道は八幡宮へ。参道の途中には記念碑がある。再び橋を渡ると道が二分し、右へ直角に折れて川沿いに下る道はトラゴシ峠へ。卒塔婆峠へはまっすぐ行く。飯場小屋のように見えるのは「山林巡視員詰所」で八丁一帯の植林作業の基地となっている。・・・

(北山クラブ『京都北山2』昭文社、1988年第6刷、小冊子14ページ、17~18ページ)



<1988年(昭和63年)>

こぼれ話
2 廃村二題
 ・・・豪雪に堪えられず、長年住み慣れた父祖の土地を去り廃村となった村もある。
 廃村八丁――
昭和九年、当時の北桑田郡上弓削村の小さな字、八丁山の人達は、前年の暮れから降り続いた豪雪に閉ざされ、何日間も孤立無援、やっと連絡の付いたときは、村人の疲労は極限に達していた。豪雪が平和な村里を廃村に追いやったのである。
 京阪三条から京都バスで二時間半、鞍馬からでも一時間半、花背街道を北上し、菅原町バス停から、五、六キロの山道を行く。山城と丹波の境をなすダンノ峠を越え、由良川水系、八丁川のほとりに村跡がある。
 かつては、春祭りも秋祭りも行われていたであろう神社跡、今は朽ち傾いている鳥居にも正月には、白い幣を付けたしめ縄が張られていたことであろうに。
 川の南、山裾にささやかな墓地がある。村人は去っても、いつまでもこの地を訪う人もあるとみえ、数年前、それはお盆頃だったかも知れないが、奇麗に手入れをしてあったのが、人ごとならず嬉しかった。
 
ここを訪ねて、廃村のもつイメージを意外と明るくしてくれるものに土蔵がある。それは、廃村以来五十年近く、まるでこの村のシンボルのように、訪う人を温かく迎えてくれていたのであるが、最近屋根の一部が落ちてしまった。残念ながら全体が崩れるのも、そう遠くはなさそうである。八丁の廃村を訪ねる大多数の人にとっては、この土蔵を訪ねるのが目的の一つでもあった。土蔵はそれほど誰にとっても印象の深い建物であったのである。

(坪井憲二『京都・北山が聞こえる』白地社、1988年、136~7ページ)
 


<1990年(平成2年)>

23 廃村八丁

 ・・・ここを過ぎると、道は静かな流れにそって、何度か木ハシゴを渡って、やがて
崩壊寸前の土蔵のある廃村八丁
へ入っていきます。土蔵の前の広場に誰が建てたのか、周辺の自然と不調和な円錐形の山小屋があって、気分をこわしますが、この辺で昼弁当ということになるでしょう。
 土蔵の裏には、八丁川の美しい流れがあります。廃村八丁の村落は、ここから川下の墓地へかけてですが、昼食後ザックを置いて見てまわるといいでしょう。今も残る石仏や八幡宮の鳥居、石垣だけの住居跡などを見れば、人間の営みの跡が胸に迫ってきます。・・・

(101ページ写真の注記)廃村八丁の象徴、
崩壊寸前の土蔵   (※写真は別途、本HPに掲載)


(鈴木元・綱本逸雄編『ベスト・ハイク 京滋の山』かもがわ出版、1990年、101~2ページ)



<1991年(平成3年)>


 飛地「八丁」へ隠棲した会津藩士、惣兵衛

 ところで八丁というのは、手八丁、口八丁の語のように、「強い」とか「異常な」意の日本古語であるが、その「異常な」から発展して、「飛び離れた所」(飛地)をも指す。八丁平もそうである。飛地なるが故に、昔から弓削村と知井村の間で、境界をめぐる山論実に五七〇年の長きにわたる。僻遠の飛地である八丁開発の由来は判然としないが、少なくとも江戸時代頃から、京都御所出入りの炭焼き部落として三百年の伝統を保っていたのは事実である。それはさておいて、とにもかくにも、最終的に弓削村の飛地と決定したのは、ようやく明治十一年のこと。いわゆる弓削八丁と人は呼ぶ。
 ところが、そのドサクサ紛れに八丁に隠棲したのが、もと奥州は会津藩士の惣兵衛なる人物である。七人の侍よろしく家来を引き連れ、地もとの人々とも糾合して、自衛手段も兼ね共産制の村政を布く。
 それから幾星霜。たしか昭和八年のまれにみる大雪の到来である。・・・
 いま赤さびたトタン板の分校あとも、北山山林監視員の詰所と変貌、運動場あとの片隅には、薄紫の馬鈴薯の花が徒らに八丁高原を吹く風に揺らめいている。堅固な白壁の土蔵も半ば崩れ、鳴らす人もない丘上の八幡社の鰐口も、ただ黙するのみ。またババ谷口にある墓石群(おそらく両墓制でいう詣で墓でソトバ峠やババ谷は捨て墓)は昔日のまま。・・・
 想いおこせば、あの大雪はたしか節分の夜。千本で飲んだ夜ふけ、いつから降り出したのか、外は白皚皚(はくがいがい)のボタン雪。学生マントをすっぽりかぶり、水気を含んだ春雪にぬかるむ千本今出川にさしかかると、市電の係員が雪の重みで切れた架線に縄をつけて引っ張り回していたのを今でも覚えている。明くれば立春、京都の街は六十㌢ほどのドカ雪であった。
 後から聞いた話であるが、八丁でも北海道なみのドカ雪で草葺きの大屋根まで埋まり、近隣の家々との行き来もかなわず。昼なお暗いランプのもと、凍死した老人の弔いも出せないという始末。ホトケ様は硬直したまま一週間も放置されていたという。まさに幽鬼せまる鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)の愁嘆場である。
 あれから、もう半世紀を越える。いま八丁を吹く爽やかな高原の風や川水は、何事もなかったように私達山人の訪れを待っている。感懐なきに非ず。

(澤潔『京都 北山を歩く③』ナカニシヤ出版、1991年、152~4ページ)


<1991年(平成3年)>

 さて、八丁は、由良川源流のひとつ八丁川の奥にある山間の小盆地で、周囲を山に囲まれ、小塩や広河原、知井といった隣のどの村からも、峠を越えないと入れない、文字どおりの陸の孤島だった。しかし、山林が豊富にある。そのため、すでにふれたように南側の弓削の本郷と北側の知井庄の間で、たびたび山論が起きた。その争いの結果しばしば、立ち入り禁止の御留山(おとめやま)にもされてきた。
 江戸時代のなかばごろ、山番として上弓削から三人、広河原から二人が入って畑地を開墾するなど、このころから八丁に人が住みはじめるようになったといわれる。明治になって、八丁に住む五戸の人たちが、山林保護に功績があったとして、京都府から山林の払い下げをうける。そのかげには、幕末・維新のころに住みついたという元会津藩士の原惣兵衛
、村人に読み書きを教えたり、山林を各戸に均等に割り当てて世話をさせるなどの指導があったと伝えられている。また、八丁八幡宮も設けられ、その入口には、明治になってから、この地を村人が苦心を払って得たいきさつが、「紀年」碑に刻まれている。・・・

 きっと、きびしい、山の暮しだったのだろう。八丁の水田は八アールそこそこしかなく、冬には積雪のために毎年一一月末に食料を運び上げ、四月まで冬ごもりの生活だった。戸数も五戸が精いっぱいで、跡継ぎ以外は八丁を出ていくのがならわしだったという。極限の村だったにちがいない。
 ところが、皮肉なことに、八丁は廃村になってから、ハイカーなどの山仲間に知られるようになった。それまでは、名もない一寒村にすぎなかったというのに。
 この人気ぶりは、廃村というイメージが、ひきつけるせいなのだろう。・・・

 八丁は現在、かつての人家はほとんど朽ちてしまった。
土蔵がわずかに残っているにすぎない。街から訪れた人間が描いたのにちがいない、水着の女性や都会の町並みが落書きされていた蔵も、もう崩壊寸前になっている。それにくらべて、墓地はきちんとしている。まだ手入れがされているようだ。この地に骨を埋めた人たちのことをおもうと、やはり感慨にふけってしまう。
 廃村というイメージは、私たちの琴線にふれるものがあるのだろう。・・・


(斎藤清明『京の北山ものがたり』松籟社、
1992年、108~111ページ)(あとがきは1991年10月)



<1992年(平成4年)>

   廃村八丁と品谷山      拝野耕造

 ・・・涼感あふれるこの川を左に右に木橋を渡って進む。八丁は目前である。八丁への入口は古びた土蔵で始まると思っていたがそれらしきものは見えない。更に近寄って探すと意外にも
土蔵は倒壊していて、天井のハリや柱、壁が無残にも露呈している。去年の秋まではちゃんと建っていたそうだから、恐らくこの冬の雪の重みに耐え切れなくて崩れたのであろう。八丁びとの無言の証人であり象徴でもあっただけに寂しさを禁じえない。
 ・・・
 八丁川の河原を渡渉してスモモ谷へ入るとそこには苔むした石垣が整然と組まれていて、その跡があちこちに残っている。これは水田の石垣、これは倉庫、炭焼きガマの跡などと想像し乍ら昔を想う静かな谷である。石垣の中には、既に杉が大きく成長していて歳月を物語っている。
 本谷との出合を左に折れると杉の植林地である。さっぱりとした杉林をよく見ると、”熊ざき”の生々しい痕が見られる。熊が自らの存在を主張し、私達を威嚇しているかのようでもある。
 ・・・
〔第3703回例会 6月14日 参加者 島田(L) 木村 ・・・ 拝野 ・・・    以上13名  〕

(『北山 第419号』北山クラブ会報、第36巻8月号、1992年7月20日発行、4~6ページ、第36巻216~8ページ)

 ※土蔵が、1991年秋までは存在し、1992年6月14日には完全に倒壊していたことをレポートしている。その間の冬の倒壊なのだろう。



<1994年(平成6年)>


品谷山(西谷山)

 廃村八丁より
・・・やがて廃村八丁であった。
 品谷山へは、四角錐の山小屋と
崩壊した土蔵跡の間を抜けて谷を渡り、スモモ谷に入る。・・・(’94・11・20)

内田嘉弘『京都丹波の山(下)』ナカニシヤ出版、1997年、139~143ページ)



<1994年(平成6年)>

廃村八丁 山々に囲まれた廃村のたたずまい

 
廃村八丁は昭和初期、大雪の際に村を捨てた結果、廃村となってしまったところだ。・・・ハイキングの対象となっているのは、・・・「八丁」という地名がいかにも僻村を連想させ、現代人をくすぐるせいではないかと思われる。・・・

 向こう側は再び植林となって刑部谷からの道と合流して、
廃村八丁の中心地ともいえる白壁の土蔵に着く。以前は壁もしっかりしていたが、人が手入れしなくなった建物が自然に朽ちていくのがよく分かる。
 いまは骨組みもあらわになっている。
流れのそばに日溜まりがあるので、ランチタイムによい。
 ・・・流れが八丁川となり右岸に渡って下流に向かうと、杉木立の中に石垣や分教場跡がある。再び左岸へ渡って左に墓地をみると八丁は終わり、やがて寄り添っていた八丁川は向きを変える。これは由良川となって最後は宮津湾に注ぐのである。

(岳人編集部・編『すぐ役立つ 四季の山 西日本70コース』東京新聞出版局、1994年、12~13ページ)





<1994年(平成6年)>

往時の生活をしのぶ廃村ハイク
ダンノ峠から廃村八丁

 廃村八丁という言葉の響きには様々なイメージが浮かぶ。・・・廃村八丁も、あこがれはあるが、初めての向きには敬遠される地域でもある。アプローチの悪さも含めてである。・・・そこに生活があったことにも驚くが、創造的(自由に)に歩くのには好都合なところでもある。・・・
 ・・・杉林を抜けると廃村八丁に着く。刑部谷は、壊れかけた橋が多いので注意して通過しよう。
 木材の宝庫であった八丁に明治の初め五戸五家族が入ったが、文明が届かないこの地は、昭和16年に最後の一家が去って廃村になった。今も冬になれば二~三㍍の積雪になる八丁の生活がけっしてたやすいところではないとわかる。・・・
 
有名であった銀座通りと水着美人が描かれていた土蔵の白壁も崩れ、骨組みしか残っていない。
 廃村八丁からババ谷に向かう途中には八丁の家族のものらしき墓地がある。・・・  (中村圭志)

(山岳図書編集部編『京阪神ワンデイ・ハイク』山と渓谷社、アルペンガイド23、1994年10月改訂第3刷、100~2ページ)



<1995年(平成7年)>

 ・・・八丁の悲劇。――いつの頃からか広大な山林の番人として小さな集落をなしていた地に、幕末会津藩の志士が追われて潜入し、村民に読書などを教えて同化し、山民の山林所有拡大に尽力した。村の生活は不便だが豊かであった。しかし、近代化とともに村民は便利な生活に憧れ、山林を手放し村を去りだした。そして
昭和九年の大雪。二十日も雪に埋まり、食糧は欠乏した。最後まで残っていた五戸の村人も山を下りることを決意した――。
 廃村八丁は、北山で最も人気の高いところである。快適さと便利さをひたすら求める現代人は、八丁で何を見聞し、思うのであろうか。何を得て、何を失うのか、八丁の伝説は重い問いを私たちに投げかける。・・・

(横田和雄『京都府の三角点峰 ―全一八三座完登の譜―』(京都山の会出版局発行、ナカニシヤ出版発売、1995年、150~1ページ) 


<1996年(平成8年)>

  ダンノ峠     鎌田和子

 菅原でバスを下り身支度をして歩きだしたが雪が多いので
最奥の民家の前が除雪されていたのでワカンをつける事になった。すると小屋根の雪おろしをされていたおばさんが話かけてこられた。そして家の横の二階だての物置小屋は昔八丁にあった小学校の建物だったこと、昭和9年のあの大雪のあと八丁を離れてここに移り住んだこと、田圃も今は少ないが昔はもっとあったこと、物置では牛を飼っていたこと、子供達はそれぞれ京都市内に住んでいて自分も夏しかこの家には住まないが冬は時々帰ってきて雪おろしや家の廻りの仕事をしていると70才とはとても思えない元気な姿と張りのある声で話された。そのおばさんにご苦労さんと後から声をかけられて歩きだした。・・・そのうち谷が大きく二つに別れている所についた。先週はその尽谷道をつめたが今日はこゝから尾根に乗ることになった。リーダーを先頭に進み尾根に乗ってからは交替でラッセルしていく。しかしあのおばさんも家の廻りで一週間で70cmも積ったと云う雪は1mをはるかに越え登りは特に大変で前に進むのも仲々であった。
 ダンノ峠についたのは13時前であった。菅原から3時間もかかった事になる。・・・
〔第4052回例会 1月13日(土) 参加者 伊藤(L) 熊田 島川 出口 岡本 鎌田   以上 6名〕

(『北山 第462号』北山クラブ会報、第40巻3月号、1996年2月20日発行、6~8ページ、第40巻50~52ページ)

梶良行「山越え、谷越え、豪雪に消えた最奥の集落へ 廃村八丁」(別冊山と渓谷 『ヤマケイ関西』No.2, 2002:「京都北山・比良山」山と渓谷社、2002.5.16発行、p.45-47所収)の記事によると、「この家は廃村八丁の川を渡ったスモモ谷の入口に建っていた小学校を,昭和17年にこの場所に持ってきた」のだというが、上の記事と照らし合わせると、本田家の母屋のことではないことがわかる。



<1997年(平成9年)>

八丁・品谷山

・・・八丁からの道はスモモ谷を行く。この谷は村の中心部へ北から入ってくる谷で、これに取りつくには
八丁唯一の遺産白壁の土蔵(写真一九七八年撮影)があるあたりから川を対岸に渡る。今回うっかりそこを行き過ぎてしまった。目標としていた蔵がなくなっていたからである。前回とうとうこわれてきたなと案じていたが残骸もなく完全に消滅してしまうとは思いもよらなかった。地面を調べてみるとその名残の壁土や木片を見分けることができた。・・・

(井垣章二『峠の地蔵 京都北山に捧ぐ』ミネルヴァ書房,2006年、132~3ページ)
       (※井垣章二「北山賛歌(24)」)(白川学園月刊新聞「つくも 第364号」 H9.9.10 ; 7ページ掲載のもの)



<1997年(平成9年)>

段ノ峠から廃村八丁

 廃村八丁という言葉の響きには様々なイメージが浮かぶ。・・・廃村八丁も、あこがれはあるが、初めての向きには敬遠される地域でもある。それはアプローチの不便さも含めてのことである。・・・そこに生活があったことにも驚くが、創造的(自由に)に歩くのには好都合なところでもある。・・・
 ・・・杉林を抜けると廃村八丁に着く。刑部谷は、壊れかけた橋が多いので注意して通過しよう。
 木材の宝庫であった八丁に明治の初め五戸五家族が入ったが、文明が届かないこの地は、昭和16年に最後の一家が去って廃村になった。今も冬になれば二~三㍍の積雪になる八丁の生活は、けっしてたやすいところではないだろう。・・・
 
有名であった銀座通りと水着美人が描かれていた土蔵の白壁も崩れ、今は骨組みしか残っていない。
 廃村八丁からババ谷に向かう途中には八丁の家族のものらしき墓地がある。・・・  (中村圭志)

(山岳図書編集部編『京阪神ワンデイ・ハイク』山と渓谷社、アルペンガイド23、1998年6月改訂第6刷、100~2ページ)


<1999年(平成11年)>

廃村八丁の歴史を訪ねて 豪雪と廃村  西村昌能(向陽高)1999/4/1  新・京都自然紀行 素稿


 廃村八丁 
 ・・・八丁川はきれいな水で、その河原は、気持ちの良いところです。所で、この開けた所は、古い建物や杉木立の中の建物の土台が見えます。
お墓も在ります。しかし、現在、人がすんでいる様子は全くありません。盆地中央の広場には、登山家たちの山小屋があるほどです。
しかし、開けた所の中心部分近くに延びる尾根の上には、立派な八幡様が現存していて、かつては人の住んだ村で在ったことを知らせてくれます。
ここは「廃村八丁」といわれています。現在は誰も住んでいませんが、昭和の初めまでは数軒の集落が在り、「弓削八丁」と呼ばれていました。
廃村八丁を通るこの山道は、現在でもれっきとした京都府が管理する府道です。このことからもこの村の歴史が知れます。
 村の歴史 廃村八丁周辺の山々には、古い時代から木材の切り出し地として人々が出入りしていました。
江戸時代になると山番として現在の京北町北部の弓削村からは、鴨瀬谷を経由し八丁川をたどり、また、広河原地区からも人々が移り住んだのです。
合わせて5戸の人々が入植・畑地を開墾し、木材の切り出しや炭焼きをして、生活を始めました。
明治時代の後期には、分教場(小学校の分校)も作られ親村を支え、発展していました。
 ところが、村は周囲を標高八〇〇メートルもの山々に囲まれた標高六〇〇メートルの細い盆地状の谷間にありますから、
夏はともかく、冬はかなりの積雪を見ます。雪は春先まで残っています。ですから、いったん雪が降ると親村との連絡の取れない状態になります。
医者の住む村からもかなり離れており、冬はかなり不安な状態であったと考えられます。
 豪雪による離村  昭和九年、豪雪がおそいました。気象災害年表を見ますと、この年の二月二七日、丹後地方にかなりの積雪があり、
日本海に面した宮津では九一㌢㍍もの記録が残っています。この年はそれまでの積雪が多かったのか、
京北町から北西にある綾部市中上林で一月に一二〇㌢㍍など、各地で豪雪の記録が残っています。
積雪による被害は大きいもので、屋根に一㍍も積もると木造家屋はつぶされます。
杉の大木も冠雪すると、簡単に折れます。何より、徒歩に頼っていた交通が途絶します。
現在でも京都市の花脊・広河原地区では、大雪の年は、バスの運行が中止され、長い間、孤立する事もあります。
この年は村に重病人が出て、大変苦労したようです。この年の豪雪以来、八丁の村人はこぞってこの村を捨てたのでした。
昭和五〇年代までは、当時を忍ぶ土蔵が残り、ハイキングを楽しむ人達を見守ってきました。
しかし、現在はその土蔵も崩れ、何れ何もかもが太古の昔に帰ってしまうようです。
 
写真①昭和三八年頃の土蔵の写真(津田昭二先生撮影)
写真②現在の八丁の写真(ソトバ峠、等)
図 八丁周辺の地図 

 ( 1999年4月 廃村八丁の歴史を訪ねて による)


<1999年(平成11年)>


廃村八丁の歴史を訪ねて~豪雪と廃村~

 
廃村八丁
・・・八丁川はきれいな水で、河原は気持ちの良いところです。この開けた所には、杉木立の中に建物の土台が見えます。お墓もあります。しかし、現在、人が住んでいる様子は全くありません。盆地中央の広場には、登山家たちの山小屋があるだけです。しかし、尾根の上には、立派な八幡様の社が現存していて、かつては人の住んだ村であったことを知らせてくれます。本当にここに村があったのかと驚くほどの秘境です。そう、ここが「廃村八丁」といわれている所なのです。昭和の初めまでは数軒の集落がありました。当時は「弓削(ゆげ)八丁」と呼ばれていたのです。・・・

 村の歴史
 なぜこの「弓削八丁」は廃村となったのでしょうか。この村は、江戸時代に入植した記録が残っています。炭焼きや木材の切り出しで生計をたてていました。明治時代の後期には、分教場(小学校の分校)も作られ、発展していました。ところが、村は周囲を標高八〇〇㍍もの山々に囲まれた、標高六〇〇㍍の盆地状の谷間にありますから、夏は過ごしやすくとも、冬はかなりの積雪を見ます。ですから、いったん雪が降ると近隣の村と連絡の取れない状態になります。医者の住む村からもかなり離れていて、冬は不安な状態であったと考えられます。

 豪雪による離村
 
一九三四(昭和九)年、豪雪が村をおそいました。
気象災害年表を見ると、この年の二月二七日、丹後地方にかなりの積雪がありました。
日本海に面した宮津では、九一㌢もの記録が残っています。この年はその日までの積雪が多かったのか、廃村八丁では三㍍もの積雪があったと村人は伝えています。積雪による被害は大きく、屋根に一㍍も積もると木造家屋はつぶされます。杉の大木も冠雪すると、簡単に折れます。何より、徒歩に頼っていた交通が杜絶します。この年の大雪のため、亡くなった方を三日間も葬式に出せず、放置しなければならなかったといいます。
 
この年の春、雪が解けた三月二六日、弓削八丁の人びとはこぞって村を捨てたのでした。村の畑は少なく、村人は、冬ごもりの食料を秋のうちに人里から運び上げるといった、極限の生活を続けていました。江戸時代は現在よりも寒冷で、降雪量も多い状態が続いていたと考えられます。しかも、都会が近代化し、便利さがすぐ近くまで押し寄せてきたためなのでしょうか、その年の大雪に耐えられなかったのです。
 
昭和五〇年代までは、当時を忍ぶ土蔵が残り、ハイキングを楽しむ人たちを見守っていました。しかし、現在はその土蔵も崩れ、いずれ何もかもが太古の昔に帰ってしまうのでしょう。

(中島暢太郎監修・京都地学教育研究会編『新・京都自然紀行』人文書院、
1999年、152~5ページ)




<1999年(平成11年)>

平成11年8月8日 ソトバ峠より廃村八丁 曇り時々晴れ 平13年5月作成

・・・峠からは見通しの良い落葉高木林のババ谷を緩やかに下って行く。涸れていた沢が段々と水量が増し、右手にお墓が見えてくる。清閑なこの地でどんな思いで、眠っているのだろうか。お墓を過ぎると平坦な広場になり前方に今にも倒れそうな家屋が見えてだし廃村八丁に着く。

ここから刑部谷に入り緩やかに登って行く。スモモ谷出合いの所に三角形のトタン小屋がある。このあたりに土蔵跡があったのだろうか今は地面に痕跡が僅かに残るだけだ。のんびりと清流沿いに歩く。石垣で整地された家屋跡のところには今は杉が植生されている。狭い土地に数件家屋があったと予想していたが、かなり広そうだ。やがて小高い所に鳥居が見えてくるがお参りせずに清流に出て休む。

廃村の出口にお地蔵さんがあり、少し先で左岸に渡る。段々と谷は狭くなり渓谷らしくなってくる。朽ちた橋を渡り進むと左に四郎五郎谷に出合い更に行くと今日の目的地、刑部滝に着く(違っていた)。落差は少ないが食事するにはいい所だ。下流に目をやると自然林と渓谷が美しい。

1999年8月 テクテク廃村八丁 による)

<2002年(平成14年)>

 以来40余年、今や八丁は廃村のおもかげなく、山林労務者の飯場が半永久的に建ち、京大高分子化学山の会のスマートな三角屋根が廃村のイメージをかき消している。今に残るものといえば墳墓と神社跡にある記念碑だけである。村にも道にも荒廃の痕跡は感じられないし、
白壁の土蔵は今は崩れ残骸が残るのみである。それなのに今もなお訪れる人があとを絶たないのはどうしてであろう。・・・廃村のイメージが物語として定着してしまっているのである。これは廃村のロマンとでもいうのであろうか。・・・

 四郎五郎谷出合いから八丁はもう僅かである。手入れの行き届いた杉林の向こうに
廃村の古びた建物が見えてくる。東京銀座のビルや富士山、水着美人の絵が描かれた土蔵の白壁も雨風に打たれてもう崩れ落ちてしまった。土蔵は二階とも合わせて10人位は泊まれるスペースがあり、八丁探訪の拠点としてよく利用されてい
様子である。ススキのなびく草原を抜ければ昔の学校橋。石垣は昔の分教場跡。左に京大高分子化学山の会の相当派手な小屋がある。巾の広いしっかりした道はまさに村のメインストリートの名に恥じない。右手の山に上る道は八幡宮へ。参道の途中には記念碑がある。再び橋を渡ると道が二分し、右へ直角に折れて川沿いに下る道はトラゴシ峠へ。卒塔婆峠へはまっすぐ行く。飯場小屋のように見えるのは「山林巡視員詰所」で八丁一帯の植林作業の基地となっている。・・・

(北山クラブ『京都北山2』昭文社、
2002年第22刷、小冊子14ページ、17~18ページ)




<2002年(平成14年)>


 山越え、谷越え,豪雪に消えた最奥の集落へ 
 
廃村八丁

 ・・・菅原バス停から菅原大橋を渡り、二股を右のホトケ谷に進むと民家がある。この家の本田愛子さんに少しお話を伺った。目指す廃村八丁の元住人である。
「この家は廃村八丁の川を渡ったスモモ谷の入口に建っていた小学校を,昭和17年にこの場所に持ってきた」とのことで、これから向かう八丁でこの建物跡を探すのも楽しみの一つとなった。・・・
このスモモ谷の両岸には、シャクナゲが自生しており、4月末から5月上旬は美しく咲く。この谷を下っていくと八丁川に突き当たる。この手前の石垣が菅原の本田さんが話されていた学校跡だろうか。・・・
 
(梶良行「山越え、谷越え、豪雪に消えた最奥の集落へ 廃村八丁」45~46ページ)
       (別冊山と渓谷 『ヤマケイ関西』No.2, 2002:「京都北山・比良山」山と渓谷社、2002.5.16発行、p.45-47所収)


※小学校跡は、お地蔵さんの近くの石垣跡であり、スモモ谷の入口から南方へ100mのあたりである。
  ここでの聞き取り内容には、何らかの勘違いがあるように思われる。

※1996年2月発行の北山クラブ会報『北山 462号』の中の会員の記事によれば、1996年1月13日に菅原の最奥の民家で話を聞いた雪おろしのおばさんとは本田愛子さんと考えられ、その話によると、昔八丁にあった小学校の建物は家の横の二階だての物置小屋だという。そこでは牛を飼ったこともあったという。従って、家の母屋ではないことがわかる。



<2003年(平成15年)>

 八丁は、かつて豊富な木材の権利をめぐり、弓削村と知井村との間で約600年にもわたり境界紛争が続いた。明治に入り両村の和解が成立し、以前より山番であった5戸が住み、その後設けられた分教場には多い時で8人の児童が在校したという。しかし時代の流れに取り残され、
昭和9年の豪雪を期に全戸離村し廃村となった。・・・

 出合から程なくで、屋敷跡の石垣が見え廃村八丁に入る。
トタン小屋の右手が土蔵跡である。広場を過ぎ橋を渡ると、お地蔵さんが迎えてくれる。すぐ右手に八幡宮の鳥居がある。社へと続く階段はかつて子供達の遊び場でもあったのであろう。社の裏手からは集落跡が望める。鳥居から杉の植林に入るとまた橋を渡る。山林巡視員詰所の小屋を右に見てソトバ峠へと向う。左手に墓地を過ぎ、左からのババ谷に出合う。

(北山研究会『京都北山』昭文社、2003年第1刷、小冊子22~23ページ)


<2004年(平成16年)>

16 品谷山から廃村八丁

 廃村八丁は、かつて八丁が大雪で閉じ込められ、多数の餓死者を出したことから、部落ぐるみで菅原に移住したことから廃村となりました。でも、豊かな水と青々とした緑の台地は今でも人の心を慰め、訪問者が絶えません。・・・ 

 ダンノ峠から品谷山へ

 出町柳から「広河原」行きの京都バスに乗り、二時間弱の「菅原」で下車。左の橋を渡り、アスファルトの車道を一〇分ほど行くと、村落の終点の右に橋があります。橋を渡り五分ほどすると、かつて八丁に住んでいた本田さんの家があります。・・・

 スモモ谷から廃村八丁へ

 ・・・約一時間で八丁です。住宅跡の石垣を飛び降り、少し広い川幅を石沿いに渡渉すると、かつて土蔵のあった八丁です。
土蔵は無くなっており、「土蔵跡」の表示と、崩れた材木があるのみです。その横にある不自然な三角錐の小屋は、何に使うのでしょうか。蛇行した清流の真ん中の台地には、なんとも不自然です。・・・(富岡真二郎、地球自然クラブ)

(74ページ写真の注記)
八丁の土蔵跡  (※写真は別途、本HPに掲載)

(鈴木元編『新編 ベスト・ハイク 京滋の山』かもがわ出版、2004年、72~75ページ)




<2004年(平成16年)>

漫歩計の山行記録: 京都北山・廃村八丁
-時間が止まったような静かな廃村-
 2004年7月19日


 京都北山の奥に位置する廃村八丁。周囲を800m前後の険しい山に囲まれたこの八丁は、現地にある説明板によれば、1878年(明治11年)6月に上弓削村と佐々里村との境界が決定するまでの600年もの長い間、権益争いを続けた土地なのだそうです。

 1682年 公儀の御留山として立ち入り禁止となる
 1701年 周山吉太夫の請負山となる
       上弓削村から3名・広河原村から2名が炭焼きを職として新畑を開いて居住
 1743年 上弓削村の請負山となり上記5戸も上弓削村の山番として定住
 明治維新になって佐々里村から八丁山払い下げ願いが出される
 これを聞いた上弓削村も直ちに払い下げを嘆願
 その結果、居住していた山番5戸を味方につけた上弓削村の領地と決定

 1900年(明治33年)には分教場も設けられ、児童8人に先生1人が住み込んで教鞭を取ったのだそうですが、1933年(昭和8年)から翌年にかけての冬、3mを越すような大雪に見舞われて陸の孤島となり、食料が欠乏し、病人が出ても医者を呼ぶすべも無く、葬式さえあげられないなど、悲惨きわまる被害が出たのだそうです。住民は仕方なく村をあげて山をあとにすることになり、遂に1936年(昭和11年)、廃村と化したのです。
 なお今も登山口の菅原集落には、八丁に住んでいた方がおられるのだそうです。

 (中略)・・・さらに沢を慎重に下ると、廃村八丁に到着です。

 八丁に残るのは立派な石垣と、低い石垣で区切られた道路、崩れた土蔵跡、そして鳥居と八幡宮のみです。大学の山小屋や森林パトロール員の建物がありますがもちろん当時のものではありません。何も無い、本当に何も無い、風が吹き抜けるだけの静かな廃村です。
 白壁に銀座の風景や水着美人が描かれていたと言われる土蔵も、今は倒壊し一部材木が残るのみ。かつては子供たちの歓声が響き、楽しい暮らしがあった村。厳しい冬に耐えかねての離村は、どんなにつらかったことでしょうか。
 丸木橋を越えると右に小さな手作りの鳥居があり、苔むす石段を登ると八幡宮のお社が今も残っています。思わず手を合わせました。かつての住民やその子供たちでしょうか、今なおこの小さな神社にお参りする人は絶えないようです。
 さらにババ谷方面へ進むと森林パトロール員の建物があります。その前の平地はかつて分教場だった所です。卒塔婆峠への道の途中には村民の墓も残っています。
 なお、森林パトの建物には、半住み込み状態の「村長」と称する男性がいました。風呂も作り、生活用具を持ち込んで、食料調達に外部へ出る以外は(暖かい季節だけでしょうが)ここで暮らしているようです。もう一人、村長の友人なのか、地元の人らしき男性もいて、こちらもちょくちょく逗留している様子。これでいいのでしょうか? おおらかに考えるべきなのかも知れませんね。・・・ 

 ( 2004年7月 漫歩計の山行記録:京都北山・廃村八丁 による)     



<2005年(平成17年)ごろ>

 飯田喜彦 廃村八丁のお話し1  より

廃村八丁のお話し、1

 手元に京都周辺の山々という本があります。昭和57年発行京都北山を中心にした山歩きのガイド本です。あちこち僕のの書き込みがあります。廃村八丁へは何度も行きました。一人でも、娘とも、別の時には息子とも、ある時には一緒してくれる女性もいました。大好きないい所です。春はシャクナゲが美しいし、秋は枯れ葉が降り敷いた、淋しいけど美しい所です。下の写真はかなり、かなり前の写真でダンノ峠でとった写真です。美しいシャクナゲの写真や紅葉の写真はどこかにいっちゃいました。撮りに行きたいけど無理と思います。この地域に入るにはとにかくどれかの峠を越えなければ入れません。
 高台にあってかっては村があり人がいた時代がありましたが、昭和9年(私が生まれた年ですね)の寒波についに村人は村を捨てたのです。以来、廃村八丁と称されて昔あった家も蔵も小学校も朽ち果てて行きました。この話は続けて書きます。続く

廃村八丁のお話し、2

 八丁は木が多いのでこのあたりの山村の富の源泉といわれ古くから争いの元になっていたということです。但し明治9年5戸5家族の人たちの所有権が認められからは、およそ50年の間八丁には平和な生活が続いたと。しかし昭和になって次第に文明の波がおしよせてきて、医師もいない、郵便も新聞も電灯もラジオもない生活に耐えられなくなった。ひとり去りまた1家族が去りして行く間に、昭和9年大雪があって町との連絡が全くできず飢餓状態に陥ったといわれています。最後の1家族がこの村を捨てたのが昭和16年(戦争が始まった年ですね)から廃村になったと記されています。以後人は住んでいません。但し植林の人が山に入るために小屋があり私が行ったときには薪なども積み上げてありました。
 右の写真には木に看板があり卒塔婆峠と書いてあります。後ろ側に峠があります。熱のある赤ちゃんを背中に背負い遠い京都の医師を求めてお母さんは峠を下っていました。頭まで覆い被さる草をかき分け鎌で刈り取りながら我が子を救おうと必死でした。でも、ふとみると鎌で我が子の頭を刎ねていました。お母さんはその場で死を選びました。この悲しい物語がこの峠の名前の由来だといわれています。言い伝えです。ワンゲルでテントを張ると先輩がこの話をして眠れなくなるんだよと娘が昔いってました。とにかく村が捨てられたこの高い台地は美しいけどもの悲しい雰囲気を持っています。

廃村八丁のお話し、3

 右上の写真は卒塔婆峠です。左下の建物は何か分からないけど昔の名残かも知れないし、林業の方の建物かもしれません。非常用の薪などが積み上げてあります。右下は林業の人たちの小屋でその時も使われているらしく手入れがしてありました。平地になっていて綺麗な水があります。人が住んでいたわけだから・・・息子と暖かいスープつくって飲んだように思います。
 残念なことにいい写真が見つかりません。最初の頃は民家の土蔵が朽ち果てながらも残っていましたし小学校の校舎跡などには子どもの書いた絵とか試験の答案用紙まで散らばっていたのです。村のお墓もありました。春新緑の時期がいいです。峠の木もきらきら光って見えますし、シャクナゲが美しいですね。娘といったときには帰るときにバスが2時間位待たないとこないのでコッフェルで熱いコーヒー湧かして待ちました。人が少ない地域で交通手段も少なくてマイカーで行くと登った同じ峠に戻ることになります。行き来が難しい所です。右下は息子と行った時の写真で山林の人の小屋です。水は豊富で綺麗です。もう一度行きたいなぁ・・・
参考のために3つほどホームページを
http://www.geocities.jp/yukosanpojp/050423.htm
http://shon.echizen.net/hachou05.html

 八丁林道もいいですね。周山街道から行きます。ツーリングの人が行くようです。私も昔行きました。ずーと奥に舞台がある禅寺がありました。でも観光などではないから人を入れてくれないです(厳しい禅寺)。今もあるかどうか知りません。八丁林道は美しい所です、魅力的です
下にツーリングの人の記録が・・・
http://www.geocities.jp/srx6blkalbum/MD90/TR051108.htm
ここも行きたいなぁ・・・無理だなぁ



<2007年(平成19年)>

やったね、五山送り火山と山城3名瀑布 (cappa)
2007-10-19 18:52:34
チョット残念!無念!!
 滝は「菩提」「滝また滝」の二つのみ
 送り火は、大と舟のコレモ二つのみ
 三滝五山を一年で、中々出来ないヨ。

 廃村ハ丁の土蔵の写真は貴重な写真。
 美人と銀座は、山口から当村で滞在
 の画家?が書かれたト村に詳しい菅原
 在住の方から先輩が聞いて居ます。

      (2007年10月19日、インターネット記事 2007年10月 cappaさん 品谷山 登山2-3 より)。



<2011年(平成23年)>

2011年8月 ツーリング 京都~広河原 (2011年8月30日) より

京都バス「菅原」バス停まで帰ってきたとき写真を撮っていたら
おばあさんが話しかけてきた。
ふーちゃんは急いでいるんだけれどここで30分お話し相手をする羽目に。

今はこちらに住んでいるんだけれど京都と広河原を行ったり来たりとか・・・。
もともとは八丁に住んでいたそうです。

廃村八丁  ・・・。
20年前まで立派な土蔵があった。
廃村八丁の象徴だった。
おばあさんの本家が所有していたと・・・。
土蔵に描かれているデパート、水着の絵のこともしっかりと覚えておられました。

参考までに 4年前の廃村八丁登山の記事 (2007年12月)



<2012年(平成24年)>

2012年10月 もやいブログ 廃村八丁へGo!!! もやいブログ(NPO法人 平和環境もやいネットブログ)

廃村八丁へGo!!!  
  
  京都府左京区にある廃村・八丁へ行ってきました!!秋のはじまりの、最高のお天気◎ 今年の夏に、もやい環境ワークショップ@広河原でお世話になった、京都府庁の菊池〔原文ママ〕さんと、段下さんに案内していただきました。
  80歳のをとっくに超えてる段下さんは、急な斜面でもスタスタ!片道2時間強を元気に進まれます。私達のほうが、ヘロヘロ。段下さんは、八丁でお生まれになりました。以前に八丁を訪れたのは、3年前。「もうこれが最後や」とおっしゃいます。
  八丁についたら、まずお墓参り。段下さんは、腰につけた鉈で近くのサカキを切り、線香に火をつけ、優しい声のお経を唱えながら、集落にあった5軒の墓石11つに線香を置いて回られます。田んぼは杉林に代わり、広葉樹の森も杉林になり、当時の村の景観は今では想像もできません。でもお墓参りをする段下さんの姿や、話してくださる当時の様子で、かつての村の風景が、ちょっとずつ我々にも見えてくるかのようでした。なんだか私も、実家のお墓参りに行きたくなりました。
  八丁までの山道には、こんなステキな栃の木林が。山田先生と飯塚さんも、ニコニコ☆楽しかったですね~
  こんな山奥の集落で、たった5軒のみで暮らすというのは、どんなものなのか、想像もつきません。どんなルールや役割が決められていて、どんな気遣いや絆で互いにつながっていたのか。廃村の記憶にほんの少しですが触れることができて、とても貴重な1日でした。
  事務局 タマでした。        20121028() 16:49 | もやい日誌

2012年10月 歴史をつなぐ廃村八丁ハイク (菊地篤)

    (※)八丁に詳しいおじいちゃん(親の世代まで八丁に住んでいた段下さん)の案内で行われたハイク。
       おじいちゃんから予習のために用意された参考文献(京大の先生からいただいたもの)も、多数のPDFファイルで紹介され、
        後世に伝えたい貴重な資料が見られる。

地域のおじいちゃん(注:段下さん)に案内してもらい、廃村八丁にいってきました。廃村八丁というのは大正時代に僻地であることから廃村になった、広河原のさらに山奥にある集落で、京大農村史の先生によると過疎という言葉の発祥になったところだそうです。なにを隠そう、いまうちの家族が住んでいる古民家も、実はこの廃村八丁に建っていた家で、廃村になったときに広河原の人たちが総出で解体して山道を運び、再度立て直したものなのです。当時そこにはどんな生活があったのか知ってみたかったため、今回は八丁のことをよく知る地域のおじいちゃんに案内してもらいながらハイキングにいきました。この方は親の世代まで八丁に住んでおり、また若いときには炭焼きのために八丁の小屋に寝泊まりして仕事をしていた方です。 現在85歳(注:昭和2年生れ)ですがとても体がつよく、元気な方です。

広河原から八丁までは片道約2時間。峠を二つも越えていくこの厳しい山道を、人が行き来しておりました。 移築された我が家は大人10人ぐらいでかからないと運べないような立派な梁が何本も使われています。また、おじいちゃんは25歳〜30過ぎまで八丁で炭焼きをしており、作った炭を売りにいくため大量に担いでこの道を運んだとのこと。 その量、前に2俵、後2俵を天秤棒で運んだらしく、1俵は40kgとのことなので160kgを担いでいたことになります! (現在確認中)

炭焼きのため、また材木を売るために、狭い谷道も木馬(キンマ)を設置して木材を運んだそうです。材木の長さは4m。何本も束にして運んだそうで、多いときは自分の背丈より高く束にして、キンマの上を滑らせていったとのこと。 こんな話をしながら2時間弱で無事八丁までたどり着きました。そして、この写真が我が家があった場所で、集落の一番上流側つまり広河原に近い側にあり、ハイキング道からは川向かいにあります。ここからあの立派な家を解体して全部人力で運んだんですね。

そしてこの場所におじいちゃんの親が生まれ育った家がありました。 集落の中心地のようなところで、石積がいまもきれいに残っています。現在は四角錐のトタン小屋が建っているところです。その道を挟んで向かいに、おじいちゃんが若い頃寝泊まりしてた蔵がありました。ここを拠点にして山を歩き回り、炭を焼いていたそうです。 一角に石が四角く盛られたところがありますが、これはこたつだったそうです。いろりのようなものと言っていました。

至る所に石積で水路のあとが残っているのですが、おじいちゃんの小屋のとなりでは水路が大きく落ち込んでいます。ここには小さな水車があったそうで、精米したり餅をついたりするのに使われていたそうです。

川を横切ってさらに下流に進むと、今度は京大の小屋が見えてきます。 このちょうど向かいの小さな平地では小学校があったとのこと。 資料によると、面積は教室6坪、体育館6坪の非常に小さな学校だったようで、全校生徒数も一桁でした。 また夫婦の先生がいたようです。こんな大自然の中なので、みんな山で遊んでたんでしょうね。

さらに下流に進むと、鳥居が現れます。 八丁の5戸の家が共同でつくったお宮さんで、階段の上には今も社が残っています。 上からは集落跡が見下ろせます。

その少し下流にいった、現在杉林になっているところにあったのは、なんと火薬庫だそうです。ここらへんの山ではマンガンがとれたそうで、岩盤を破壊して採取するのに火薬が使われていました。 マンガンも収入源の一つだったのでしょう。

さらに下流にすすむと、少し開けたところに家の残骸が出てきます。 住み着いている自称村長さんが八丁温泉と称してドラム缶風呂なんかもつくっています。 

そのすこし下流にきれいにお墓が並んでありました。今回はおじいちゃんのお墓参りもかねていたので、ちかくの榊をとってたむけ、お線香をたいてきました。 お墓の建造年は墓石に刻まれており、明治から大正です。

今回は、書いても書ききれないほど、道中もふくめ昔のことをたくさん教えていただきました。 参加者は京大の名誉教授山田先生はじめ総勢14名で、現役大学生も多く、八丁の生活、山の生活が楽しく学んでいただきました。 おじいちゃんの話が後世にしっかりと伝えられていく、そのきっかけとなるとてもすばらしい1日でした!

<おじいちゃんの資料(京大の先生よりいただいたもの)より>
〇五戸の住戸について(抜粋)
 廃村の時、五戸の家には住居と土蔵と物置があった。他には分教場と教員住宅があった。
・・・山内に明治15年、八幡宮が建立された・・・本田家の分家(本田糸之進)が大正期に山内6戸目の家を建て、大正13年頃、広河原仏谷の地に解体移転した住居は・・・土地・・・に現存している。又、離村後、段下家と弓下家の2軒も上弓削に解体移転し、段下家の子孫がその再建された家を確認したとの事である。6戸の内3戸が、数時間かかる山道を解体した用材を運んだということは、八丁の各戸の住居がそれだけの価値があったという証左である。
 段下家文書によると、明治10年、各戸・・・弓下清右衛門家・・・段下久右衛門家・・・本田伊右衛門家・・・弓下三右衛門家・・・山本吉兵衛家・・・と記録されている。
 樋爪功六著の「秘境八丁」の地図説明でも段下菊三、弓下伍三郎、本田糸之進の三戸は、屋敷跡と記載され、証言と合致する。家の構造は川島宙次著の「       」を参照してほしい。
 
 廃村八丁に博習高等尋常小学校の八丁分教場が設置されたのは、明治33年4月19日で、廃校になったのは、大正13年3月31日付である。北桑田郡誌の大正版によると、教室の建坪は4坪、屋内運動場は5坪の計9坪である。八丁分教場の設置は25年間で、生徒数は最少で3名、最大で8名であったらしい。北桑田郡役所文書によると、生徒数は大正8年は5人、9年から11年迄は4人、12年は記録なしである。大正8年から11年までは、石井久之進で、大正12年は山本治三郎が八丁分教場の担当教員であった。・・・昭和33年発行の「丹波路」(吉田證著)にも「児童1人当り教育費は全国でも稀な高額についたといわれるが、八丁人は弓削村にも苦情を云わせなかった」とある。段下庄三郎は大正5年生まれであるが、就学前に老父が居住していた紫野、下石龍に転居し、大正11年、待鳳小学校へ入学した。・・・

〇川島宙次(絵と文)の「丹波の癈家」(民家をちこち・14 京都府北桑田郡弓削村八丁 本田敬太郎旧宅)
                        (出典
『新住宅 3巻16号 6月号』新住宅社、1948年6月、170~2頁)
 ・・・今は極少数の人を除いてはこの村を訪れることがない全く捨て去られた村なのだ。何故村人達は此の村を捨て去ったか?それは嘗つて自給自足的な極端な忍苦の生活ならばいざ知らず少くとも現代の社会機構の下では此の様な豆腐屋へ三里、酒屋へ何里と云った摺鉢の底の様な僻遠の地には人が住めなくなったからなのである。
 僅かに拓かれた山田には丈なす夏草が茂り中には早や径四寸にもなす杉の樹さえそば立って居る。永い年月人に踏み馴されて丸くなった石畳みの村径を、嘗つこゝに住った人達の匂を嗅ぎ求める犬の様に隈なく村を歩いた。夏草に半ば掩れたその草屋根は丹波風の千木を戴いて居る。
 白壁の土蔵は流石に堅牢で聊かの衰えも見せては居ない。中ば開かれた儘の戸を押開いて中を訪れると、炉には燃え残りの榾が灰となり炉辺には一升徳利が転り今にも此の家の人が立ち帰って来そうな風情である。尤も時折は近在の炭焼が此の廃屋を利用するらしく炭俵が積んであり分教場から持って来た腰掛等も見える。そう云えばその分教場も黒板には算式が描かれた儘であり壁には種々の懸物や生徒達の習字や画が貼り出された儘今にも生徒達が帰って来はしないかと思われる景色であった。扨(さて)その間取りは雪深い山地の然も山林に極めて恵まれた地であり乍(なが)ら座敷は何れも四帖半と云う小規模さでこゝにも大自然の圧力に縮こまった山人の卑屈さをうかゞえる様な気がする。

     (※)この資料の全文は、上掲「4.八丁の癈家(民家の外観・平面図)」の切り抜き記事を参照されたい。

     (※)昭和33年発行の「丹波路」(吉田證著): 吉田證編著「丹波路―史跡と伝説―」(日本科学社、昭和33年)

     (※)2012年10月 廃村八丁 (小てつ)には、10月27日(土)、上記の廃村八丁ハイク一行に出会ったことにふれている。

(インターネットサイトから)


1996年11月 雨の廃村八丁★


1999年8月 テクテク廃村八丁★


2001年6月 廃村八丁新緑ハイキング報告  

 2001年11月 廃村八丁


2002年4月 近畿地方の山 廃村八丁★

 2002年12月 京都北山・廃村八丁


2003年5月10日 廃村八丁(の本番)★

 2003年10月 おーちゃんとゆかいな仲間 廃村八丁・タキノタニ

  2003年12月 草枕日記 廃村八丁


2004年8月 福井の小さな日記

 2004年9月 廃村八丁~北山最奥の癒しの森へ     

  2004年11月 廃村八丁


2005年1月 古典的廃村への雪中トレッキング   

2005年1月 関西の廃村 HEYANEKOの棲み家(へき地ブログ)

 2005年3月 廃村八丁

  2005年4月 廃村八丁・品谷山★ 

   2005年5月 下鴨たより(洛北高校同窓会)

    2005年6月 北山 廃村八丁 PartⅡ

     2005年7月 品谷山 廃村八丁

      2005年9月 京都北山・廃村八丁に行く(寅の会・交遊録)

       2005年11月 廃村八丁


2006年3月 京都北山 ソトバ山~廃村八丁


2006年3月 京都北山・廃村八丁と品谷山

 2006年9月 Tramping on M't Rokko


2007年1月 廃村八丁へスノーハイク

 2007年3月 廃村八丁(京都北山) 自然ていいな

  2007年6月 廃村八丁ルート

   2007年8月 ねろたんのポヨポヨ日記

   2007年10月 山好き的日々 京都北山

    2007年11月 京都北山廃村ツーリング④ 廃村八丁満喫編 (You Tube)

     2007年12月 ふーちゃんの京都デジカメウォーキング


2008年5月 廃村八丁雑話 北山・京の鄙の里  

 2008年7月 六甲山の頂よりblog 廃村八丁

  2008年8月 京都北山 廃村八丁 小西敏男

   2008年11月 てでぃさん。の山歩き~京都北山・品谷山・廃村八丁

   2008年11月 ちょこっと山歩き・廃村八丁 山大好きの山ちゃん

   2008年11月 品谷山~廃村八丁 山のぼらーの山日記


2009年4月 薫風日記  

 2009年5月 薫風日記 

 2009年5月 京都北山廃村八丁へ(kottamanの自転車)


2010年4月 廃村八丁~品谷山―京都北山  

 2010年10月 りつめい探検 廃村八丁

  2010年11月 京都北山廃村八丁~品谷山


2011年8月 廃村八丁~森林会

2011年8月 廃村八丁めん屋親父のお遊び紀行

 2011年9月 久々の廃村八丁(ふーちゃんの京都デジカメウォーキング)

  2011年11月 冬枯れの廃村八丁


2012年4月 日々の行動記録(廃村八丁)


2012年4月 京都北山・廃村八丁は早春でした(山姥の山日記)

 2012年10月 廃村八丁へ行ってきました

 2012年10月 廃村八丁 (小てつ)  

  2012年11月 廃村八丁 松つんの来週どこ行こかな

   2012年12月6日 廃村八丁と品谷山(洛北高校11回卒同窓会)

2013年4月 日々の行動記録(1年ぶりの廃村八丁) You Tubeあり

2013年4月 村長は在宅でした  ・・・京大小屋が崩壊寸前になっている。

2013年4月 廃村八丁(佐々里峠~品谷山~トラゴシ峠)

2013年4月 品谷山から廃村八丁 京都伏見山の会

 2013年5月 GWの仕上げは佐々里峠~廃村八丁 

  2013年11月 関西登山 廃村八丁「品谷山」:京都北山の最奥

  2013年11月 品谷山(廃村八丁)-ハイク

  2013年11月 みんなで楽しく山歩き 紅葉の北山・廃村八丁 

   2013年12月 菅原・ダンノ峠・廃村八丁  ・・・「京大小屋」は崩壊した。

     「京都大学高分子化学山の会の小屋」の存在は、北山クラブ編『京都周辺の山々』(昭和41年4月初版)に記載がある。
     したがって、
1966年からでも、48年間の歴史があったことがわかる。建てられたのは、1966年以前であろう。

     土蔵の前の「二チレ小屋」(三角屋根のトタン小屋・八丁小屋)の存在は、金久昌業『京都北部の山々 丹波・丹後・若狭・近江』
     (昭和48年)に記載されているので、1973年にはあったことがわかる。
2014年現在で、42年間の歴史を刻む。


   2013年12月 鬼飛ブログ 廃村八丁写真集


2014年2月8日 広河原から廃村八丁

 2014年4月19日 品谷山・廃村八丁 MTB  ・・・「八丁小屋(木造)」は崩壊した。

 2014年4月20日 京都北山再発見 廃村八丁

 2014年4月24日 廃村八丁(山たまごの東海岳行) 

   ・・・筆者のこのサイトを労作・大作として紹介している。また、サイトからの引用も見られる。
      昭和60年の文献の地図に記載された「コンクリート製物置」の正体が明かされている。なんと「トイレ」であった!


 2014年4月26日 品谷山・廃村八丁  ・・・ルート図(okaokaclub)あり。 

 2014年4月27日 品谷山と廃村八丁+鞍馬温泉 

   
・・・筆者のサイトを「廃村八丁の歴史にまつわる、とても興味深い、とても読みにくいサイト」として紹介している(笑)。
      「読みにくい」のなら、読まなくて結構です(笑)。

 2014年4月下旬 廃村八丁(1)~(5・完)(9.29~10.1)

  2014年5月3日、筆者は21年ぶりに廃村八丁を訪れた(2回目の訪問)。
目的の一つとして、紀念石碑の碑文を確認することができた。
    コースタイムは次の通りであった。21年前(1993年)に通った刑部谷は歩きにくいと思えたので、今回は四郎五郎峠を往復した。
    
道中、シャクナゲが見事であった。自然のままのシャクナゲは、しゃくなげ渓(滋賀県)で見て以来、久方ぶりだった。
     「京大小屋」と「八丁小屋(木造)」が崩壊している様子を確認することもできた。今後も、いろいろな変化が進行することだろう。

      出町柳バス停(バス1時間49分)菅原バス停(47分)ダンノ峠(28分)四郎五郎峠(40分)廃村八丁の土蔵跡
      廃村八丁(1時間44分)菅原バス停(バス2時間8分)出町柳バス停


  2014年5月10日 品谷山・廃村八丁コースを歩く

   2014年6月1日 廃村八丁・品谷山―ぶらり山旅

   2014年6月22日 廃村八丁(火事報告)(小てつ)・・・安全のため人力で倒壊させられた巡視小屋(木造の八丁小屋)が火事に遭う。

(2014年9月24日、追加)
 2014年9月5日、Wikipediaに「廃村八丁」の項目が作成された。本サイトの出現が、Wikipediaでの立項に影響したと思われる。
 項目名「廃村八丁」についての議論「ノート廃村八丁」(同年9月10日)もあり、「廃村八丁」という項目名が妥当と結論されている。 


     2014年9月24日、テレビ朝日|ナニコレ珍百景No.2005
 「ナニコレ珍百景No.2005」(テレビ朝日)において、「廃村の跡の山奥でたったひとりの生活」と題して、廃村八丁の三角の建物「八丁小屋」で1年のうち8ヶ月を仙人のように暮らす自称「村長」の佐野康比古さん(74歳)のことが紹介された。
 2014年4月24日 廃村八丁(山たまごの東海岳行)の最後のほうにも、追記(2014年9月)で紹介されている。

      2014年10月13日 廃村八丁(孝佑整体学院)

      2014年10月18日 廃村八丁(アスヒ岳友会)

      2014年10月26日 めん屋親父のお遊び紀行(廃村八丁)

       2014年11月16日 備忘録(京都北山 ダンノ峠~廃村八丁)

       2014年11月17日 りゅうちゃんの犬日記


8.「八丁山」の歴史(北桑田郡誌 近代篇)


 羽田巌編『北桑田郡誌 近代篇』(北桑田郡社会教育協会、非売品、昭和31年発行、昭和34年再版)の268~281ページには、

「八丁山」の項目があり、古文書の紹介をしながら、その最も詳細な歴史が綴られている貴重な資料である。

 
その序文は昭和31年1月20日付で、編集作業は主として昭和30年6月~12月に行われており、実質上、昭和30年の著作となっている。

  一般的に、参照することが難しい資料だと思うので、「八丁山の歴史」を知るために紹介しておきたい。

   廃村八丁について簡略に綴られた歴史の記述は、この文献を参考にしたものが多いようである。 



269~270頁



271~2頁



273~4頁



275~6頁



277~8頁



279~280頁



281~2頁     (最後のほうの石碑の解読文には間違いが散見する。『京北町誌』はこの資料を参照しているので、結果として間違いが生じている。)


(参考地図) 2万分の1地形図 「黒田村」
 (明治26年測図、同28年製版、同年4月24日印刷・同4月29日発行、陸地測量部)(筆者蔵)より




5万分1地形図「知井村」(明治26年測図、同35年発行)より。図名の「知井村」は、大正11年修正図以降は「四ッ谷(よつや)」に変更されている。



5万分1地形図「四ッ谷」(明治26年測図、大正11年修正測図、同14年印刷・発行)より。




9.土蔵の壁画に描かれた場所はどこ?
(2015年3月8日、新規作成)


 雲谷斎~逢魔が時物語~1話目に次のようなコメントが見える(抜粋)。


628 :626:2014/03/04(火) 10:01
>>627
壁画が風化する前の写真には左のビルに「TAKASHIMAYA」と描いてあるので、
銀座四丁目のワコーと三越だと思っていたけど日本橋かもしれません。

629 :本当にあった怖い名無し:2014/03/05(水) 00:47
>>621
最初にこの話を聴いた時はスゲー怖かったんだけど、あとでタヌキかなんか小動物かもって考え出した途端に興醒めしたのは、いい思い出w

630 :本当にあった怖い名無し:2014/03/08(土) 20:39
>>629
階段の降り方は二本足の人間と四本足の動物とでは全然違うと思うよ

631 :本当にあった怖い名無し:2014/03/08(土) 21:49
土蔵の気配は狸(夜行性)だと考えるのが普通。



 本サイトの「1.」で紹介した土蔵で起きた怪談の生き物の気配が「タヌキ」のことだろうと推定していて、興味深い。

 それはさておき、土蔵の壁画の描かれた場所が「銀座」ではなく「日本橋」ではないかという指摘はきちんと検証しておく必要があるだろう。

 筆者自身も、廃村八丁の土蔵の白壁の「東京銀座のビル、富士山、ヨットに乗ってポーズしている水着姿の女性」紹介してきたので、責任を負う立場であることは自覚しているので、ここではっきりさせておきたいと思う。

 

上の写真は、北山クラブ編『京都周辺の山々』(創元社、昭和41年、第1版)の181ページに掲載されたもの。「TAKASHIMA」と「高島屋」の文字が見えるので、高島屋であることが明らかである。その本文には「八丁の新名所となった落書の壁画」とあるだけである。その第2版(昭和45年)でも同じである。

 ところが、その第3版(金久昌業編、昭和52年)になると「銀座通と水着美人の絵」「銀座の風景」という表現が登場する。「銀座通り」「銀座のビル街」という誤解が広まるのは、この本の第3版の影響が大きいようである。

 また、金久昌業調査執筆『京都北山2』(昭文社、昭和44年初刷)の小冊子(13ページ)には、白壁に「東京銀座のビル」が描かれていることにふれている。すでに誤解が生じていたことがわかる。

 さらに、遡ってみると、森本次男『京都北山と丹波高原』(山と渓谷社、昭和39年初版、昭和40年2版)には
「銀座らしい都会の風景」とあった。この壁画の風景が銀座だろうという推測のルーツはここにありそうである。

 また、もっと、遡ってみると、北山クラブの会報『北山 第34号』(第4巻7月号、昭和35年6月20日発行、5ページ)の「八丁川遡行(木村英二)」の記事に「壁には 銀座の市街図 とある海岸の風景の壁画?が畫いてあった」という、1960年6月5日の例会の報告レポートが最も古い記事であり、これが、その後の人々に、この場所が「銀座」であるという誤解を与えるルーツになり、森本次男氏、北山クラブのメンバーに、固定観念として「銀座のビル街」「銀座通り」であるという意識をもたらした可能性が高い。

木村英二(北山クラブ)(会報「北山」第34号)・・・「銀座の市街図」(昭和35年)
森本次男(「京都北山と丹波高原」)・・・「銀座らしい都会の風景」(昭和39年)
金久昌業(北山クラブ)(「京都北山2」)・・・「東京銀座のビル」(昭和44年)
金久昌業(北山クラブ)(「京都周辺の山々」第3版)・・・「銀座通」「銀座の風景」(昭和52年)
北川裕久(「ワンデルングガイドⅢ 京都北山」岳洋社)・・・「銀座通り」(昭和60年)


壁画に描かれた「高島屋」が、東京日本橋の高島屋日本橋店であることについては、疑問の余地はないだろう。

壁画が描かれたのは、昭和32年である。

昭和8年建設以降、現在に至るまで、日本橋高島屋は、現在地(東京都中央区日本橋二丁目4番1号)にある。

    (日本橋高島屋の本館は、2009年(平成21年)に国の重要文化財に指定された。)

中央通り(東京都)は、北は上野駅交差点から、南は新橋交差点に至る、南北に縦断する道路の通称である。

そのうち、銀座通り口交差点から銀座八丁目にかけては、「銀座通り」や「銀座中央通り」の愛称で呼ばれることもある。

壁画に描かれた場所は、高島屋(日本橋2丁目)を道路の左(東)側にして、南方向へ、日本橋2丁目から3丁目を見渡し、中央通りを車が連なる様子を描写したものである。そのさらに奥(南)のほうに京橋1~3丁目、もっと奥(南)に銀座1~8丁目の銀座通りが続くことになるが、そのエリアは、画面には含まれていないものと思われる。

高島屋日本橋店に面した広い通りは、「銀座通り」ではなく、その北方にあたる「日本橋通り」(中央通りの日本橋地区)ということになる。

壁画の描かれた昭和32年当時、現在の日本橋1~3丁目は「日本橋通1~3丁目」という住居表示であって「日本橋通り」と親しまれていたが、表示が「日本橋1~3丁目」に変わった現在では、あまり「日本橋通り」という愛称は使われなくなっているようである。

筆者は、2015年3月7日、古書即売会において、次にような「東京案内」のリーフレットを入手できた。高島屋の写真があり、略地図もある。

 (←高島屋) (※ 本館は、2009年に国の重要文化財に指定された。)


「東京案内」(J.P.M.S.製作)(昭和26~27年ごろ)(筆者蔵)


この略地図に、「白木屋」(デパート)(日本橋1丁目)が見えるので、「東急百貨店日本橋店」に名称変更になる昭和42年以前であることがわかる。

さらに、「P.X.松屋」(銀座3丁目)が見えるので、GHQにPX(米軍売店)として接収されていたのが、昭和21~27年の7年間であることから、接収時代のリーフレットであることが判明する。松屋は昭和28年には全館新装オープンしている。

銀座松坂屋の近くに「東京温泉」(銀座6丁目)の記載が見える。昭和26年に開業された日本初のサウナ施設であり、平成5年まで運営されていた。

以上の資料から、この「東京案内」は、「東京温泉」と「P.X.松屋」が同時に存在していた昭和26~27年当時の状況を反映したものと言える。

ちなみに、「銀座三越」は銀座4丁目である。白木屋のあった場所は、今では「COREDO(コレド)」(日本橋1丁目)になっている。

このリーフレットの製作は、J.P.M.S.とある。略地図の東京駅の隣に「JPMS」の表示があり、「日本交通公社 日本観光写真映画社」とある。

「日本交通公社」(現在のJTB)の本社機構改正により、昭和26年8月1日に事業局の業務が「株式会社日本交通事業社」(現在のJIC)に移管され、写真映画事業は独立して日本観光写真映画社(昭和32年3月31日に解散し、公社と事業社が継承)となった。この点からも、リーフレットの製作は昭和26年8月以降とわかる。



(2015年3月12日、追加)「東京案内」(昭和33年ごろ)について(当時の日本橋と銀座)

3月11日に、次のような『東京案内』(東京都、昭和33年ごろ)を古書店から入手した。土蔵の壁画の描かれた頃の銀座通りや日本橋通りの様子がわかる写真と解説がある。発行年の記載がないが、「昭和32年度登録第1,950号」とあり、初めの「東京のあらまし」の中に「人口は8,595,106人(33.1.1調査)」とあるので、昭和33年ごろの発行と考えられる

 (イラスト:S.Shimano)



現在の日本橋1,2,3丁目は、昭和33年当時、日本橋通1,2,3丁目であったことがわかる。



手前の左は、お香の「鳩居堂」(銀座5丁目)で、交差点は銀座4丁目。左が銀座和光、右が銀座三越。

※一見、土蔵の壁画の景色に似ているようにも見える。誤解の生じた一因の可能性もある。





『東京案内』に掲載の写真「機上よりみた都心」の一部分  
※中央は「日本橋3交差点」で縦(東西)に八重洲通り、左右(南北)に日本橋通り(中央通り)。右端手前のビルが高島屋(日本橋)。左端が京橋1丁目。八丁にかつてあった土蔵の壁画のビル街は、右端(北)側から左(南)方向を見渡した景色を描いたものであることがわかる。