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    ダイダラボッチの足跡
                                                   2020.8.25 「1.ダイダラボッチの足跡(東海市)」を新規作成 
                                                  2020.9.13 「2.タイタンボウの足跡について」を新規作成
                                                  2020.9.22 「3.全国の巨人伝説について」を新規作成
                                                  2020.9.29 「4.代田のダイダラボッチの足跡について」を新規作成
                                                  2020.10.2 「5.各地のダイダラボッチの造った地形」を新規作成
                                                  2020.11.9 追加・修正
(内容の概要)


1.ダイダラボッチの足跡(東海市)について・・・足跡池が埋め立てられた年代は、ウィキペディアで、なぜ、2000年頃と誤って伝えられていたのか?
                              →(実際には、足跡池の埋め立ては、1986~7年頃に行われていることが裏付けられている。)

2.「タイタンボウの足跡」の挿絵の出典について・・・『妖怪の本』(学研)の92頁の挿絵は「たんたん法師の足跡」なのに、なぜ、誤伝されているのか?
 →(直接の出典は藤沢衛彦『図説日本民俗学全集 第1巻』の挿絵であり、そのキャプション「タイタンボウの足跡」が誤まっているためであった。)
 →
(石川県立図書館による広範な資料の調査によっても、能登地方の「たいたん坊」の呼称の存在は裏付けられなかった。
   可能性としては、藤沢の創作と考えるのが妥当と思われる。彼は、
神話の巨人タイタンが日本の能登に伝わったことにしたかったのだ。


3.全国の巨人伝説について・・・全国の「ダイダラボッチ」の異称について、わかりやすくまとめた資料はごく少ない。ここで、異称の分布をまとめてみた。
 なお、柳田国男の羽黒山での巨人名「デンデンボメ」は、高木敏雄『日本伝説集』の羽黒山の巨人「デイデンボメ」から引用時に誤記したもので、本来、実在しない呼称であるので、注意が必要である。新たに、「ダイダラボウ系の呼称の一覧表」を作成し、掲載した(2020年10月17日)。

4.代田のダイダラボッチの足跡の位置について・・・東京の巨人伝説の中心地、代田の足跡の位置は、従来、明確に示されてこなかった。
  → 1万分の1地形図の「世田谷」(明治42年)には、120mほどの足跡の痕跡が記録されている。一般への初公開である。

5.各地のダイダラボッチの造った地形
  → 伝承地の地形は、現代でも、その名残りを残している場所も多い。 そして、その場所を結ぶと・・・なんと、一直線上に並ぶのだ!!!
  → 神奈川県相模原市の「ふんどし窪」の場所を地図に明示してみた。本当に、ふんどしを引きずったような窪地が地図に読み取れる。       


1.ダイダラボッチの足跡(東海市)について


 ウィキペディアで「ダイダラボッチ」の項目を調べると、2020年8月25日当時には、次のような記述が見られた(ダイダラボッチ―Wikippe)。

「愛知県東海市の南側に加木屋町陀々法師(だだうし)という地名があり、ダイダラボッチが歩いて移動する際に出来た足跡が池になったとして伝説が残っている。名古屋鉄道八幡新田駅西側にあったが2000年(平成12年)頃に埋め立てられており、現在その形跡はない。」

 上記の赤字部分は、不正確な記述である(後述)。2020年9月11日に投稿し、内容を修正したので、今はこの内容ではない。

 ウィキペディアで「ダイダラボッチ」の出典14・出典36の文献名が誤記である。
 正しくは、「佐久口碑伝説集南佐久編」全332頁中105~107頁、昭和53年9月20日発行とすべきである。
 また、出典28が『日本の民話』となっている(8は阿波の民話第一集に相当)が誤りで、「榛名の大男」が収録されているのは『日本の民話20』(上州の民話第一集、未来社、p.140-144)である。『日本の民話20』のp.169-170には大男の「デーラン坊」の民話も収録されている。

 これらは、既に、ウィキペディアにおいて、修正を実施済みであるが、旧来のウィキペディア「ダイダラボッチ」を引用・転載した記事は、以下のように多数見つかるので、誤まった記事を再生産しないために、ここで取り上げて、注意を喚起したいと思う。


 ウィキペディア「ダイダラボッチ」の項目の初作成日・・・2003(H15).12.17
 
 ウィキペディア「ダイダラボッチ」の項目の「東海市の陀々法師の池、2000年頃の埋め立て」を信用して、そのまま引用している主なネット記事

  年代不明    ダイダラボッチ アート用語 by Artue
  2008.3.28 妖怪〔ダイダラボッチ〕妖怪
  2008.12.2 miko's blog 「陀々法師」
  2011.5.25 「ダイダラボッチ」(なんか妖怪?日本の妖怪について)
  2011.10.5 Kameno's Digital Photo Log 「永野に現れた巨人」
  2013.5.26 黒曜石は夢見ている「だいだらぼっちがやって来る」
  2014.3.17 かおぴーのブログ「ダイダラボッチ」
  2014.7.25 ダイダラボッチ―Wikippe
  2016.1.10 ダイダラポッチ―縄文人のページ
  2016.7.10 藤枝・牧之原を散歩「3.だいだらぼっち公園で飛行機を撮りました」
  2020.3.13 ちたまるNavi(動画)「地名紹介 東海市加木屋町―陀々法師」


 筆者は、『旗振り山と航空灯台』(ナカニシヤ出版、2020年12月頃出版予定)の記事の取材のために、2020年1月16日に、愛知県東海市加木屋町を訪れたことがあり、名鉄河和線八幡新田駅の西側に、池が見当たらないことを確認している。
 初めて、ここを訪問したのは2006年のことで、およそ、13年ぶりであった。

 

八幡新田駅の北西、加木屋石塚の交差点から東へ線路を越えると、「陀々法師」のバス停がある。

東海市循環バス(らんらんバス)の「陀々法師」バス停


 吉田弘編著『続々知多のむかし話』((株)四季の文化社、平成元(1989)年3月8日発行)の200~201頁には、東海市加木屋町に伝わる「陀々法師(だだぼうし)」の次のような昔話が収録されている。振り仮名に明確に「だだぼうし」とある。ウィキペディアにある「だだほうし」は現地での読み方とは異なった別称であろう。

 「大男が、渥美半島から三河湾をひとまたぎして知多へもやってきました。そして、いくつかの足跡を残して伊勢の海を越えて鈴鹿の山の方へ消えて行きました。そのときの足跡が、今の名鉄河和線の八幡新田駅と半田街道をはさんで向かい合っている池として残っているのだそうです。これは、大男の左足の跡で、右足のは、そこからさらに北方の富木島町の姫島あたりにあったようです。ちょうど今の東海市あたりを通り過ぎていったので、この地方に「陀々法師」の地名がつけられたものだということです。」


 岡戸寛道編集の月刊広報である「横須賀広報」(旧知多郡横須賀町役場)の第83号(昭和34<1959>年1月1日発行)の4頁の「本町今昔譚①故事伝説をたずねて」の「陀々法師池」という記事は次の通りである。この池の名前が「陀々法師池」であることを紹介し、広さは三畝(=約300㎡)ほどという。

 「大字加木屋に陀々法師という変つた地名がある、俗称でなく正しい小字名で、所は名鉄河和線八幡新田駅北一帯、ここに三畝ほどの池があつて、陀々法師池と名ずけられ、陀々法師の足跡が池になつた、といい伝えられている。
 陀々法師は大太法師のことで、仏教から来た大太発智(だいだぼつち)の意味、平家物語巻八に「豊後の国に大太夫というものの娘、大蛇と通じて男子を生む、七才にして元服、大太という」とあり、相模地方の伝説にも「だいだぼつち、とて鬼神の如き大男住み、富士の山を背負はんとして足をふんばりしあと、いまは大沼という古き池なり」とあり、また本朝文枠、日本霊異記にも、だいだぼつち、即ち陀々法師という大男のいた事がいろいろ伝えられている
 いまは近くのたつみが丘についで新しい住宅街になろうとしている。」


 上の解説から思い当たるのは、大槻文彦『大言海』の「だいだぼッち」の項目の次のような解説文である。解説文のあとには、「平家物語八、紫一本、松屋筆記五(本朝文粋、日本霊異記、旧本今昔物語についてふれる)、海録十二・十八」からの引用文を小さい活字で載せており、参照引用元にふさわしい。

 「だいだぼッち (名) 大太郎法師 〔大太発智ノ義〕 又、大太法師。訛シテ、だいたらぼッち。絶大ナル怪物ノ称。(武蔵相模ニ云ヒ伝フ)大勇ノ所為(ワザ)ノ、跡ノ誰トモ知レヌヲ云フ。巨人。(一寸法師ニ対ス)怪巨人」


 岡戸栄吉編『加木屋史話』(東海市加木屋町内会、昭和54<1979>年発行)の109~110頁には、「28.陀々法師 だだぼうし」の小字地名の解説があり、陀々法師の小池が左足跡で、右足跡は姫島にあったことも述べている。

「陀々法師 だだぼうし
 正しくは大太法師(だいだぼっち)と読み、仏語の大太発智の転訛で、次第に「だいだらぼっち」から「だいだぼっち」「だだぼうし」となまったものである。平家物語巻八に「豊後(ぶんご)の国に大太夫という者の娘、大蛇と通じて男子を生む、七才にして元服、大太という」とあり、これが大太法師で、本朝文枠や日本霊異記という本にも、大太法師(だいだぼっち)即ち陀々法師が怪力無双の大男で、さまざまの伝説を生んでいることを伝え、相模地方の民話にも「だいだぼっち、とて五体まれに大きく鬼神のごときもの住み、相模の国に大沼という古き沼あれど、これはだいだぼっちが富士の山を背負わんと足をふんばりし跡なりという」と伝え、今も蛇(ママ)々法師にある小池(八幡新田駅西にある池)も陀々法師の左足の跡で、右足はもう姫島にあった、といういい伝えが昔から残されている。


 『加木屋史話』の109頁には次のような「足跡池」の写真が掲載されている。



 
 東海市の民話執筆委員編集『東海市の民話』(東海市教育委員会、平成4<1992>年10月30日発行)の201~202頁には、『続々知多のむかし話』とほぼ同じ内容の民話「陀々法師」が収録されている。ただし、次の部分が池の埋め立ての事実に即して修正されている。

 「大男が、渥美半島から三河湾をひとまたぎして知多へもやってきました。そして、いくつかの足跡を残して伊勢の海を越えて鈴鹿の山の方へ消えて行きました。今は、うめ立てられてなくなっていますが、そのときの足跡が、名鉄河和線の八幡新田駅と半田街道をはさんで向かい合っていた池だったということです。これは、大男の左足の跡で、右足のは、そこからさらに北方の富木島町の姫島あたりにあったようです。ちょうど今の東海市あたりを通り過ぎていったので、この地に「陀々法師」の地名がつけられたのだということです。」

 『東海の民話』のあとがき(吉田弘)の204頁には次のようにあります。

 「「陀々法師」は、足跡の池こそ近年埋め立てられて消滅してしまいましたが、加木屋町に「陀々法師」の地名が残る限り、地名伝説として語り継がれていくでしょう。ちなみにこの「陀々法師」は、全国に分布する巨人伝説の一種で、この民話を伝えた昔の人たちのたくましくも大らかな心意気を感じさせてくれます。」

 『東海市の民話』の記事と発行年から、「足跡の池」は「1992年(平成4年)以前に埋め立てられて消滅している」ことがわかる。


 ウィキペディアで「ダイダラボッチ」の「2000年(平成12年)頃に埋め立てられており」という記述は、何らかの誤解があることがわかる。


 それでは、大男の左足の「足跡の池」はいつ頃まで残されていたのだろうか?

 東海市立中央図書館に所蔵されている、ゼンリン住宅地図『東海市』の各年度版を図書館で調べてもらったところ、次のようなことが判明した。

 ゼンリン住宅地図『東海市』1984年版(1984年発行)と同1985年版(1985年発行)には、八幡新田駅の中央地点から真南へ100mの地点付近に池のマークがあり、これが、「足跡の池」であるという。
 ゼンリンの住宅地図『東海市』1986年版(ゼンリン名古屋支社、1986年発行)は、東海市立中央図書館に所蔵されていないが、愛知県図書館には所蔵されており、愛知県図書館に照会し、該当の112頁左面の複写を入手して確認したところ、1986年版(1986年発行)には、池が記載されていた

1984~1986年版には、まだ、池の記載が見られた。1986年版の現地調査時点まで、池は残されていたことがわかる。


ゼンリン住宅地図『東海市』1988年版(1987年発行)には、「足跡の池」は既に埋め立てられて、空き地の表示の場所になっている。
この1988年版から初めて、発行年と、版の年度表示が異なるようになっている。この1988年版のための現地調査は、1986年版発行以降、1987年までに行われたことだろう。この時点で、池の埋め立てが、認識されたことになるだろう。
1988年版(1987年発行)には、空き地の表示となった。埋め立ての時期は、1986~7年頃と推測できる。


 ゼンリンの住宅地図は、毎年、現地調査がゼンリンによって行われて、こまめに更新されており、「足跡の池は、1986年(昭和61年)には実在したが、1987年(昭和62年)には既に埋め立てられていた」ことになろう。1986~7年(昭和61~62年)頃に埋め立てられたということになる。


ゼンリン住宅地図『東海市』1999年版(1998年8月発行)、2000年版(1999年8月発行)には、荒地マークのままであった。

2000年版(1999年8月発行)までは、荒地マークの記載であった。

 
 ゼンリン住宅地図『東海市』2001年版(2000年8月発行)には、荒地マークであった場所には建物が立ち、「早重モータース」とある。住所表示は「東海市加木屋町丸根1-1」となっている。
 その場所の南東隣は「レッドバロン東海」である。モータースの東に面した半田街道の広い道路を東へ渡って線路を横断して左手(北側)に進むと、八幡新田駅の南改札口に着く。
 なお、「足跡の池」の跡地の住所が、なぜ、「加木屋町陀々法師」でなく、その南隣の「加木屋町丸根」になっているのかは謎である。

池・荒地だった場所は、2000年以降、2020年現在まで、モータースになっている。

ウィキペディアで「ダイダラボッチ」の項目に見える「2000年(平成12年)頃に埋め立てられており」という記述は、実際には、モータースが出来た時期をあらわしたものであった。

 
 国土地理院のホームページによると、八幡新田駅付近の空中写真は次のように変化していることがわかる。

 1986年まで「足跡の池」があり、1987年には埋め立てられていることについて、空中写真に矛盾は生じない。

   
1974年~1978年撮影     1979年~1983年撮影   1988年~1990年撮影  2010年8月~9月撮影



 2万5000分1地形図「刈谷」(陸地測量部、昭和8年)には、八幡新田駅の南に1mm程度(25m)の小さい池として、該当する池の記入が見られる。厳密には、長さ1.5mm、幅0.8mmぐらい(長さ38m、幅20m)(計測の誤差あり)に読み取れる。





 『明治・昭和 東海都市地図』(柏書房、1996年)の刈谷図幅の新旧対照地図によると、2万分1地形図(明治23年測図)には、該当する場所に、1mm程度の小さい池として掲載されているが、昭和44年改測の2万5000分1地形図「刈谷」には、該当の場所に小さい池の記載は見当たらない。改測された新しい地形図に、「足跡の池」は埋め立てられる前でも記載されなかったようだ。池の大きさは、1mmでの記載ということは、長さ25mほどということになろうか。


『明治・昭和 東海都市地図』(柏書房、1996年)の「刈谷」図幅の2万分1地形図(明治23年測図)より。

北方の大きな池が、加木屋大池である。南北に「半田街道」の記載があり、その斜めの「田」の文字のすぐ北側に、陀々法師の左の「足跡の池」が見える。
明治23年当時、「足跡の池」の西側に半田街道があった。
後に、池のすぐ北の道の屈折地点から池の東側に新道が開通している。その新道を作る際に、「足跡の池」の東側が削られた可能性もありうる。
昭和6年に、池の東側に、知多鉄道の八幡新田駅が開通する。知多鉄道は昭和18年に名古屋鉄道に合併されている。


『東海市史 資料編 別巻』(昭和59年、1984年)には、「加木屋村絵図」(天保12年、1841年)が収録され、「村絵図の村 今のまち」の冊子には「加木屋村絵図解読図」が掲載されている。下図は、その解読図のうち、鹿持池(加木屋大池)と足跡池の収録部分である。上が北方向である。この図で、「足跡池」の存在が、明確に確認できる。「字多ゞぼし」という小字名の記載もあり、「だだぼし」と読むことがわかる。
南に「足跡池」がある。「字多ゞぼし」と記載されている。



 古柳甲子郎編集・発行『愛知県東海市 横須賀地区土地宝典』(帝国市町村地図発行会、昭和51年11月発行)の20頁の加木屋町の地図(下の図)を見ると、八幡新田駅の西側に池が記載されている。2400分の1の縮尺の地図で、長さ16mm、幅6mmである。「足跡の池」の大きさは、長さ約40m、幅約15mということになる。この大きさの池だと、2万5000分の1地形図では、長さ1.6mm、幅0.6mmの大きさということになる。

『愛知県東海市 横須賀地区土地宝典』(昭和51年)の20頁の加木屋町の南部の地図。上が北方向。
北側に小字「陀々法師」、南側に小字「丸根」、中央の点線が小字の境界。中央左寄りに見える「足跡池」は丸根に属している。
「足跡池」(長さ約40m、幅約15m)の西側に、旧半田街道が通っている。明治23年の地形図(上掲)と比べるとわかるように、
「足跡池」の東側に新しい半田街道が開通し、その際に、池の東側が削り取られて小さくなった様子が読み取れる。



 さらに北方の富木島町の姫島あたりにあったという右足の跡の場所は、不明である。

 東海市は1969年(昭和44年)に北部の「上野町」と南部の「横須賀町」が合併してスタートしている。

 富木島町は上野町域に該当する。
 図書館で、森本良三『上野町史』(1949年)と『上野町史資料』(昔の村を聞く、座談会記録第一集)(上野町役場企画課、1969年)の内容を確認してもらったところ、どちらにも、巨人の足跡伝説の記述は見当たらないという。
 現在のところ、巨人の右足の跡がどこにあったのかは全く不明である。

 富木島町にあったという右足の跡も、昭和前期頃には実在していたと思われる。2万5000分1地形図「刈谷」(昭和8年)には「左足の池」が小さく掲載されていることから、2万5000分1地形図「鳴海」(地理調査所、昭和24年)の姫島付近に載せられている小さな池の一つが、「右足の跡」である可能性がある。


 『明治・昭和 東海都市地図』(柏書房、1996年)の「鳴海」図幅の新旧対照地図によると、2万分1地形図(明治24年測図)には、冨木嶋村の姫嶋集落の東方の南北二ヶ所に池が記載されており、「富木島町の姫島あたり」に該当している。


 『明治・昭和 東海都市地図』(柏書房、1996年)の「鳴海」図幅の2万分1地形図(明治24年測図)より。
 北東の池が姫嶋村の北方の冨田村に所属する「石か年池」で、南東の池が姫嶋村に所属する「太子池」である(後述)。


 杉山之弘編輯・発行『愛知県東海市 上野地区土地宝典』(帝国市町村地図発行会、昭和45年12月発行)の12頁の富木島町の地図(下図)を見ると、八幡社の東方、北太子に、堤マークがあり、その東側に道路で分断された溜池二つが見える。この北太子の池が上の地形図に記載の池であろう。八幡社の北東の樋ノ口にも、堤マークが見え、水田化された池跡もある。いずれにせよ、二つとも、堤でせき止められた溜池ということになるので、右の足跡の痕跡である可能性は低い。この北太子の池が、後述する「太子池」であろう。現在、富木島町北太子30-1の富木島市営プールの施設が立っている場所に相当する。樋ノ口の池跡の水田は、現在では宅地となっている。 


『東海市史 資料編 別巻』(昭和59年、1984年)には、「姫嶋村絵図」(天保12年、1841年)が収録され、「村絵図の村 今のまち」の冊子には「姫嶋村絵図解読図」が掲載されている。下図は、その解読図のうち、姫嶋の集落と八幡山・山神・冨士森の御除地、八幡山の東方の「太子池」の収録部分である。上が北方向である。この図の中の「太子池」の北方の谷に位置する溜池は、別の「冨田村絵図」に見える「石か年池」であり、姫嶋村に所属しないので、足跡候補からは除外されることになる。
 「村絵図の村 今のまち」の冊子の「姫嶋村」の解説文によると、「姫嶋村絵図」に見える「太子池」を含めた六つの池はすべて「雨池」と呼ばれる、かんがい用に築造された溜池であるという。上で述べた北太子にある池の名称が「太子池」であろう。この池がやはり、溜池だとすると、近世の築造であろうから、ダイダラボッチの伝説の池の可能性はなくなってしまう(ダイダラボッチ伝説地は、すべて古来の自然地形であるため)。


 
 『続々知多のむかし話』『東海市の民話』の編者で、「陀々法師」の民話を紹介して、足跡の池の消滅についてもコメントしている元教諭で郷土史家の吉田弘氏(常滑市小倉町)に、「右足の跡」について問い合わせてみたところ、2020年9月5日に次のような返信(9月3日付)をいただきました。

 「東海市加木屋町の「陀々法師」は、確かに「ダイダラボッチ伝説」によって生まれたものだと考えることは出来ますが、たまたまよく合いそうな地形でも、ぴったりということはなかったのではないかと思います。右足にあたる池や窪地がなくても、よく似ているということでひとまとめにつけてしまったのかも知れませんし、今となっては昔の姫島村の右足の跡は、想像してみることしかできないと思います。また、それが地名のおもしろさではないでしょうか。」


 というわけで、姫島村の右足の跡は、吉田弘氏にも「わからない」という返答であった。過去に現地調査が行われたということもないようである。


 姫島の右足跡は、『加木屋史話』に見えるように、加木屋における「うわさ話」であって、姫島には実在しなかったのであろうか?

 どなたか、姫島の右足跡について、情報をお持ちではありませんか? ご存知の方は、お知らせください。



 なお、調査に当たっては、東海市立中央図書館に、大変お世話になりました。感謝申し上げます。

 筆者の近著となる『旗振り山と航空灯台』(ナカニシヤ出版、2021年1月出版)の「観音寺山南峰」の記事で、「陀々法師の足跡の池」についても触れておいたので、出版された際には、ご参照ください。



(まとめ)

 以上の資料から、 ウィキペディアの「ダイダラボッチ」の項目での記述は、次のように修正することが望ましいと思われる。
 
 「愛知県東海市の南側に加木屋町陀々法師(だだうし)という地名があり、ダイダラボッチが歩いて移動する際に出来た足跡が池になったとして伝説が残っている。この「足跡池」(陀々法師池ともいう)は名古屋鉄道八幡新田駅の南方100m辺りにあったが、1986~7年(昭和61~62年)頃に埋め立てられており、2000年(平成12年)頃モータースができ、現在その形跡はない。

 2020年9月11日、ウィキペディアの「ダイダラボッチ」の項目において、筆者の気が付いた訂正すべき個所については、多数の修正を実施したので、大幅に改善されたと思う。また、根拠となる出典も明記したので、確認もできるだろう。




2.「タイタンボウの足跡」の挿絵の出典について


 『妖怪の本』(学習研究社、1999年)の92頁に載せてある大きな足の横たわる「タイタンボウの足跡」の挿絵は、出典が「北越奇談」になっているが、「北越奇談」(文化9年、1812年刊)の中には「山男」「大男」の話が収められているだけで、「北越奇談」には、そもそも挿絵なるものが一切ない。つまり、出典名が明らかに間違っている。

 「タイタンボウの足跡」の挿絵について調べを進めたところ、次のように、藤澤衛彦(ふじさわもりひこ)の著作に手掛かりが見つかった(藤澤衛彦情報まとめメモ)。

『日本伝説研究』(昭和6年、六文社)(昭和10年、三笠書房、8巻)・・・「光林寺の跡の田中に顕然たる・・・」
『日本民族伝説全集』(昭和30~31年、河出書房、9巻+別巻)・・・「光林寺大人の足跡」(「たいたん坊の足跡」という見出しのはなしの挿絵になっている)
『図説日本民俗学全集』(昭和34~36年、あかね書房、8巻)(昭和46年、高橋書店、4巻)・・・「タイタンボウの足跡」

その挿絵の出典は、「藤澤衛彦情報まとめメモ」によって、『古今角偉談(ここんかくいだん)』であることが判明する。

宮城県図書館が「和漢古今角偉談 5巻」の内容を、古今角偉談で公開している。天明5年(1785年)に大坂・京都で出版されている。撰者は大江文坡、画は下河邊拾水である。なお、国会図書館の皇都版は、天明4年(1784年)の出版である。

『妖怪の本』の92頁、「大太法師」の解説に添えられた挿絵に付けられた「大太法師の別称と思われるタイタンボウの足跡。絵から足の大きさ8mあまりとすると、身長は50m以上の巨人である。(『北越奇談』)」というキャプションの謎が、ここで明らかとなった。


「和漢古今角偉談」の巻之二には、まさにその大足の跡の挿絵が載せられている(宮城県図書館の画像32,33)。


その挿絵に関する記事は、「大足跡と大足跡との角偉」(画像34~36)に収録されている。関連個所(35,36)を抜粋してみよう。筆者が自力で解読した後、藤澤衛彦『日本伝説研究』第三巻(昭和10年)の286~7頁に引用されているのを見つけたので、それも参照してまとめたものを下に掲載してみた。現地での実際の足の長さは「8mあまり」ではなく、「2.7mあまり」なのである。挿絵において、3倍にも誇張されているのであった。大人の身長は「50m以上」ではなく、「17mあまり」というわけである。

「加賀国木越の道場は天正年中一向宗三山の大坊と聞えし一箇寺光徳寺の城跡なり其砌(みきり)は粟ケ崎(あわがさき)の湖水を引て要害を構へ光林寺等の末寺を引並べて信長公の逞兵(ていへい)と闘戦せしに追手は佐久間盛政責寄て奮戦し搦手(からめて)は能登より長九郎左衛門の精兵湖水の堤を切て落せしかば此手一番に破れて長九郎左衛門に降参せしかは光徳寺は能州へ引取(とら)るるなり今の所口光徳寺是なり其跡は今光徳寺の掛所(かけしよ)となりて蓮如上人の旧跡数品の遺宝ありて金澤の一遊覧の地となりぬ又光徳寺の跡には古木の梅(むめ)ありて四季に花開くとかや光林寺の跡は今は田畠の中なるに此に大人(たいしん)の足跡ありて落窪(おちくぼみ)て草一所(ひとところ)も生せず其大足跡は足の脂(ゆひ)五(いつ)とも顕然として誠に大人(たいしん)の足跡疑ふ所なし然るに能美郡(のみこほり)の山邊(やまべ)波佐谷(はさたに)といふ所の山の斜(ななめ)なる所に又大人(たいじん)の足跡ありて右のごとく五脂ともに顕然たり今一足(いつそく)は越中(えつちう)倶利迦羅山(くりからやま)の打越(うちこし)に隻足(かたあし)の跡あり此三隻(さんせき)の大足(たいそく)の跡三所(さんしよ)ともに皆同しく長さ九尺(=270cm)余(よ)幅四尺(=120cm)余あり按(あんす)るに此足跡相去る事七八里(=約30km)にして大人(たいじん)歩行(あゆみ)跡たる隻足(かたあし)の跡と見ゆ其餘にも此足跡あるへきなれと其所を知らす能美郡にては里俗たんたん法師の足跡と称す木越にては田の中に在りて初春若草(わかくさ)芽を生するの時に到りては一見して大足(たいそく)の跡を人知る是足跡には草生せざれはなり此事賀州能美郡の人に聞(きく)又金澤の武士に聴(きけ)り今に顕然と存(ぞん)するよし猶三州奇談にも詳(つまひらか)なり」
(宮城県図書館の画像36より。「たんたん法師」とある)

この内容は、柳田国男が「ダイダラ坊の足跡」で、「三州奇談」によって、加賀の「タンタン法師の足跡」として紹介しているものと一致する(『一目小僧その他』角川文庫、平成25年新版、296頁)。これらの「江戸時代当時は草も生えなかった窪地の足跡」は現代では残されていない模様である(後述)。

つまり、次の加賀国(現・石川県南部)三ヶ所の足跡である。
(1)加賀国能美郡波佐谷(はさだに)の山の斜面に一つ、指の痕まで確かに凹んで、草の生えぬところ(現・小松市波佐谷町)
(2)加賀国河北郡の川北村、木越の道場光林寺の跡という田の中に、これもいたって鮮明なる足跡、一筋の草も生せず(現・金沢市木越町)
(3)越中との国境、有名なる栗殻(くりから)の打越にあった(現・河北郡津幡町倶利伽羅峠、富山県小矢部市との境界)


上記の3つは、千葉幹夫編『全国妖怪事典』(小学館、1995年)(講談社学術文庫、2014年、101、105頁)には、次のように、すべて「ダンダンホウシ」の表記に故意に変更して、掲載されているのは、不審である(柳田国男は、出典の「三州奇談」により、「タンタン法師」と述べている)。

(105頁) 石川県  ダンダンホウシ 道の怪。だんだん法師。光林寺跡。能美郡山入波佐谷。オオヒトの足跡がある。光林寺跡では土がくぼみ、草が一筋も生えないという。能美郡では指々の跡まで窪みがあるという。いずれも一股七、八里を隔てている(堀麦水『三州奇談』巻四)

(101頁) 富山県  ダンダンホウシ 道の怪。だんだん法師。倶利伽羅山打越。オオヒトの足跡があり、長さ九尺余、幅四尺ばかり。一股七、八里をへだてている(堀麦水『三州奇談』巻四)

 谷川磐雄『民俗叢話』(大正15年)の144頁には、「三州奇談」からの引用があり、<能美郡にては里俗「だんだん法師」の足跡といふ>とあるが、原書の「三州奇談」には「たんたん法師」とあるので、、不注意な誤植と考えられる。千葉幹夫氏の参照した「三州奇談」の中には、どう書かれていたのだろうか?あるいは「だんだん法師」と記述する別の刷版が存在するのだろうか?


 藤澤衛彦『日本伝説研究』第三巻(昭和6年、六文社)(昭和10年、三笠書房)(1978年、限定復刻版、すばる書房)には、「巨人伝説考(大太法師考・アマンヂャク考)」(235~288頁)が収められ、284~5頁には、「第五十一図 加賀国木越の一向宗道場光徳寺末光林寺の跡の田中に顕然たる大太法師の足跡見物の図(「和漢古今角偉談」所載)」というキャプションの挿絵(上の大足跡の図と同じもの)が掲載されている。
 283頁に次のようにある。

「其大太法師(だいたはふし)の大太(だいた)は、勿論希臘(ギリシャ)名チタン巨人族のイギリス読みのタイタンスを漢字にあてはめた名で、それが遊行の形式に於て、最も古くは其儘(そのまま)の日本読みに於て呼れてゐた地方があつた。即ち能登国に於てタイタンボウ、加賀国に於てタンタンホツシ、文献では、天明の「和漢古今角偉談」(菊丘臥山人撰)巻之二、「大足跡と大足跡との角偉」の条に、『(以下、引用文省略)』」


先に掲げた通り、加賀国の「たんたん法師」の三つの足跡について紹介している引用文を載せている。
藤澤衛彦の「ギリシャ神話の巨人チタン族がイギリス読みのタイタンスとして日本に移入した」という説は首肯できない(藤澤は、百合若が「ユリシーズ」の移入だとする坪内逍遥の説も信用しているのであった。『図説日本民俗学全集』第1巻、昭和46年、344~6頁)。

なお、『和漢古今角偉談』(1784年、1785年)の「大人の足跡」の記事の種本は、著者自身が「猶三州奇談にも詳(つまひらか)なり」と明かしているように、堀麦水『三州奇談』(宝暦前後、1750~60年頃の成立らしい)であり、「Blog鬼火 三州奇談巻之四 大人の足跡」に引用されている。ここでは、『三州奇談』(復刻版、石川県図書館協会、昭和47年)の101頁から引用しよう。


三州奇談卷之四より

「大人の足跡  木越の道場と云ふは、天正の頃一向宗の動亂に、三山の大坊と聞えし一ヶ寺、光德寺の城跡なり。其砌は粟崎の湖水を引きて要害を構へ、光林寺等の末寺を引並べて、信長の勢に敵戰せしに、追手に佐久間盛政攻よせ、死生を知らず戰ふ間に、搦手は能州より長氏の軍勢馳來り、湖水の堤を切つて落せしかば、此手一番に破れて城保ち難く、則ち九郞左衛門へ降參せしかば、光德寺は能州へ引取らるゝなり。今の所口光德寺是なり。其跡は今光德寺懸所となりて、蓮如上人の舊跡、種々の遺寶ありて、當時金澤の一遊觀の地と成りぬ。光德寺の跡には古木の梅あり。花珍らしく房の如しと云ふ。光林寺の跡は今田中なるに、爰に大人の足跡あり。土落ちくぼみ、草一筋も生ぜず。足の指々迄、慥に足跡とは見ゆるなり。下は石にてやあらん、一奇怪なり。然るに能美郡の山入波佐谷にも、山の斜めなる所にかくのごとき足跡あり。指々の跡迄くぼみありて草出來ず。今一足は越中栗殻山の打越しに足跡あり。皆替らずと云ふ。長さ九尺餘、幅四尺許なり。今先づ顯然たるは此三足跡なり。何れも一股七八里を隔て、いかなる大人の歩きしにや。能美郡にては、里俗たんたん法師の足跡と云ふ。いつの頃より云ひ傳へたるを知らず。木越にては田の中故、草の生ずる頃は遠きよりも明らかに見ゆ。誠に一壯觀なり。此傍らに長氏の兵士討死の塚あり。」

 ※「Blog鬼火」を参照した注記
   ・光林寺・・・河北郡木越(現・金沢市木越町)に草創。佐久間盛政から遁れ来て、移設。輪島市門前町剱地に光琳寺として現存しているという。
   ・所口光徳寺・・・七尾市馬出町に、所口の光徳寺として現存しているという。

 Blog鬼火 三州奇談巻之四 大人の足跡)には、寺や地名の場所などの解説があり、光林寺跡の大人の足跡が現代では残されていないことにもふれている。ただし、小松市波佐谷町に「タンタン生水」という湧き水があって名残りを伝えており、その東隣の布橋町との境付近のタン谷には草木の生えない法師の足跡が現存するらしい。
 倶利伽羅峠の足跡はどこにあったのかさえも不明である(金沢・木越の巨人伝説)。


 江戸怪異綺想文芸大系第5巻(高田衛監修)の堤邦彦・杉本好伸・編『近世民間異聞怪談集成』(国書刊行会、2003年)の246~248頁には、国立国会図書館所蔵本による『三州奇談』の「大人足跡」が収録され、もちろん、247頁には「たんたん法師の足跡」とあるのだが、それに続けて248頁には、「小人足跡」が、(金沢大学附属図書館蔵本により補う)として、次のようにある。

「小人足跡(金沢大学附属図書館蔵本により補う)
 同国河北郡長沢といふ所に、一奇談有(あり)。往古より小人の足跡とて有。長さ一寸五歩、幅七歩有て、此(この)村の草中に有。其(その)所今に草生る事なし。「でらでら法師の足跡」と古よりいふ習(ならは)しなり。いか成(なる)人の足跡にや。不思議の奇談也(なり)。」

 この文は、上記Blog鬼火でも紹介しているが、河北郡内に長沢という地名は確認できない。小人の足跡は一寸が3.03cmだから、「長さ4.5cm、幅2cm」である。その大きさの草の生えない足跡と言っても、人の親指程度の大きさであり、人工的にも、すぐできて消えるようなものである。仮に、それが小人の足跡とすれば、身長は10寸(30cm)程度ということになろうか。昔から小人は福徳をもたらすもの(藤田稔『茨城の民俗文化』245頁)として信仰されてきており、珍しいはなしの種として、うわさ話を採り上げたものなのだろう(だから、架空の地名の可能性もある)。なお、「でらでら」は「てらてら」と同じ意味で、光沢のある様子を言う(日本国語大辞典)が、関係の有無は不明である。


 小林忠雄「巨人伝説と一向一揆 ―伝承という歴史の記憶装置―」(北陸大学紀要第41号、2016年9月)の記事には、片山津にも足跡伝説地があったことにふれているが、具体的な場所は不明である。この記事にも「図2 光林寺の跡で大太法師の足跡を見物する人々」というキャプションの挿絵があるが、その左側には「三州奇談」の説明を添えて、本来の出典の「古今角偉談」には全くふれていないのは不審である。


 小林忠雄「巨人伝説と加賀一向一揆」(「季刊 自然と文化」10秋季号1985、〔特集〕巨人と小人、日本ナショナルトラスト、1985年9月)(52~53頁)には、「片山津の足跡」と「だんだん法師」についての出典を知るための記述があった。

 「片山津の足跡」・・・江戸時代の加賀藩士の記録、大橋美啓『亀の尾の記』に、千田村(光林寺跡の南方)に大男の足跡があることを記し、倶利伽羅坂中大聖寺領片山津にも同じものがあると述べているという。

 「だんだん法師」・・・明治初年の地誌、森田平次(柿園)『加賀志徴』「だんだん法師の足跡と呼ぶもの」という記述がある。


 これによっても、片山津での具体的な場所は不明であるが、出所は明確となった。千葉幹夫編『全国妖怪事典』に「ダンダンホウシ(堀麦水『三州奇談』巻四)」とある理由にはならないが、千葉氏が『加賀志徴』の「だんだん法師」を流用した可能性はあるのかもしれない。それでも、出典(三州奇談)の「たんたん法師」をなおざりにしていることには違いがない。



 「龜の尾の記」(石川県図書館協会、昭和7年)(復刻版、昭和46年)の106~7頁には千田村牛頭天王の説明があり、天平勝宝3年鎮座という。

 千田村は現在の金沢市千田町であり、光徳寺のあった金沢市木越町の西南に隣接している。
 木越町の光徳寺跡は、千田町の八坂神社(付近の神社を合祀)の北北西230m辺りに位置していて、かなり近い。

 千田村牛頭天王は、後世の戦乱によって「遂にせきばくたる荒宮となり、今は知るもの稀なり。」(107頁)とある。それに続けて、

 「此社の北の方田中に、大男の足跡とてはゞ九尺計長さ三・四間の地あり。実に足の形となりて遺れり。其所草生茂り、田地抜ものとなる。」(107頁)
 
 「龜の尾の記」が書かれたのは、著者(加賀藩士の大橋美啓、弘化4年=1847年没)の生前としかわかっていないが、この記事は、「三州奇談」「古今角偉談」の述べている「長さ九尺の、光林寺跡の大人の足跡」と同じものを記録したものだろう。牛頭天王の北のほうの田中の足跡が木越にあるとすれば一致するからである。牛頭天王は、今の千田町の八坂神社にわりと近い場所にあったのだろう。

 「因みに記す、足跡こゝにも限らず、倶利伽羅坂中にもあり。又大聖寺領片山津にも大なる足跡ありと云ふ。これを或野史に大男の歩みし道跡なりといふ。片山津よりくりから迄は、凡十六・七里の道程を三武(ミアシ)に歩ふといふは、大ひに其当を失す。捧腹に絶ゆ。此跡は大跡辺の皇子のあとゝいふを過聴せし歟と、ある博覧家の説あれども、此王子当地へ幸せし事を聞かず。追考すべし。」(107頁)

 「龜の尾の記」の「木越」の項目には、「光琳寺・光徳寺」(110頁)とあり、「三州奇談」「古今角偉談」にあった誤記である「光林寺」を、今日まで伝わる「光琳寺」と正しく表記している。

 「龜の尾の記」の校訂者である日置謙は巻末の「龜の尾の記解説」において次のように述べている(133頁)。

 「千田村牛頭天王の条に、『此社の北の方田中に、大男の足跡とて幅九尺許長さ三・四間の地あり。』とし、江沼郡片山津、河北郡倶利伽羅山中にも同じものゝあることを記載してゐる。大男の足跡といふのは、東北地方では間々竪穴住居の遺蹟のことをいふものであるが、こゝでは果して何だらうか。好個の研究問題である。」



 森田平次(柿園)『加賀志徴』(明治初年)の上編(石川県図書館協会、昭和11年)の320~1頁には、能美郡の「波佐谷の大人足跡」の記事が見える。前半は、「三州奇談」からの引用であるが、後半には次のように述べている(小林忠雄「巨人伝説と加賀一向一揆」の52頁に引用文あり)。

 「近江国人木内重暁が雲根志に、足跡石といふもの諸国にあるよしを記して、北国所々に太多(オホタ)法師が足跡石といふ物あり。太多法師いかなる人か知る人なし。江州甲賀郡鮎川村・黒川村の間の山路にある足跡石、土人の伝言に、むかしダヾ坊といふ大力の僧の足跡なるよし。ダヾ坊といふものまたいかなる人とも知るべからず。おもふに北国の太多坊と同称なるべし。といへり。按ずるに、足跡石は大石に足跡の如くくぼみのあるものにて、此にいふ波佐谷等の足跡は、土にさる形の如く落入りたるをいへるなれば、事は違へれど、だんだん法師の足跡と呼ぶものに、かの足跡石の太多法師といへる類にて、皆里俗の伝説なり。かの百合若大臣などいへるもの是に同じ。」(加賀志徴巻六 能美郡波佐谷村)


 森田平次(柿園)『加賀志徴』(明治初年)の下編(石川県図書館協会、昭和12年)の444頁には「千田の足跡」の項目があり、ここには、上掲の「龜の尾の記」から引用した「牛頭天王社の大男の足跡」の文章が引用されている。特に著者自身のコメントは加えられていない(加賀志徴巻十二 河北郡千田村)。
 また、450頁の「光林寺跡大人之足跡」では、「三州奇談」から引用した、木越村、光徳寺、光林寺跡の大人の足跡についての一文を紹介する。「是北国三足跡の一つにて、委しくは能美郡軽海郷波佐谷の条に記す」と結んで、上編の波佐谷の項目を案内している(加賀志徴巻十二 河北郡木越村)。



 倶利伽羅峠から光林寺跡(金沢市木越町)へは西南西へ約15km、光林寺跡から小松市波佐谷町へは南南西へ約34kmである(波佐谷町から片山津へは、西へ10km)。柳田国男が紹介したように、「三州奇談」の作者は、三足の間隔を「七八里」(約30km)と表現して、大人の大きさに想像を膨らませている。とはいえ、「2.7mの長さの足跡を残して歩く、身長17mの巨人」では、15km、34kmを「一足飛び」というわけにはいかなかったことだろう。(まあ、空想の産物を揶揄してもしょうがないのだが・・・。)


 藤澤衛彦『日本民族伝説全集 第六巻 北陸篇』(河出書房、昭和30年)の223~4頁には、「たいたん坊の足跡」(石川)という藤澤の解釈による伝説が載せられ、「光林寺大人の足跡見物の図」がある。この223頁の挿絵は、『妖怪の本』の92頁の挿絵と同じである。伝説の表題によって、「たいたん坊の足跡」として紹介されているわけである。記事と解説は次の通りで、原典(古今角偉談)に「たんたん法師」とあるのを藤澤流に「たいたん坊」に変更したことが明らかである。
 なお、この本は、藤澤衛彦『日本の伝説 北陸』(河出書房新社、2019年)として、改題されて、内容は同じままで新装版が出版されている。


「 〔石川〕  たいたん坊の足跡
 木越の道場という、天正の頃、一向宗の動乱に聞えた光徳寺は、佐久間盛政の城攻めに、末寺光林寺等の末寺群を率いて、死生を知らず戦う間に、搦手から能州の軍勢に攻め立てられ、粟崎の湖水を引いて構えた要害の堤を切って落された寺城(てらじろ)でした。その跡は、その後、光徳寺の懸所となって、蓮如上人の旧跡として、種々の遺宝を存し、光徳寺の跡には花珍しい房のような古木の梅があって、それが有名となり、花咲く頃は、わけて遊観の客で賑いました。
 ところが、昔の光林寺の跡ですが、それは滅びて、田圃と変っていたところ、ここの土、いつか落ちくぼんで、巨人の足跡が現われ出し、草一筋も生えません。足の指指も、五本あって、たしかに足跡と見え、人呼んで”たいたん坊”の足跡と呼んで呼んでおります。
 ところが、ここの足跡は右足の足跡で、
能美郡の山入波佐谷には、山の斜なところに、同様の足跡があります。やっぱり、指指の跡まで窪みがあって、草が生えません。
 長さ九尺余、幅四尺ばかりの足跡で、
もう一つ、越中栗殻山の打越にも、同じような”たいたん”坊の足跡があります。みな、かわらないもので、何れも、一股七八里を隔てております。
  〔解説〕『和漢古今角偉談』には『たいたん坊』(大太法師)、『三州奇談』には「能美郡にては、里俗たんたん法師の足跡(あしあと)といふ、いつの頃より、いひ傳へたるを知らず」と見えて、諸国に足跡を遺している、大太法師(だいだらぼつち)巨人型の巨人足跡伝説を伝えております。(関東篇「百合若大人射抜穴」 ”巨人伝説考”《大太法師考・アマンジャク考》 参照」


 このように、藤澤は、『和漢古今角偉談』には、『三州奇談』と全く同じ「たんたん法師」とあるにも関わらず、意図的に改変して、「たいたん坊」とあるかの如く偽装して紹介しているのであった。
 もっとも、藤澤自身の『日本伝説研究第三巻』の「巨人伝説考」に載せた「和漢古今角偉談」巻之二からの引用文の287頁の1行目には、「能美郡にては、里俗たんたん法師の足跡と称す」と明確に載せている。この伝説の表題に「たいたん坊の足跡」と付けているのは、やはり、「ギリシャ神話の巨人チタン族がイギリス読みのタイタンスとして日本に移入した」という説に執着があり、「たんたん法師」ではなく、「たいたん坊」を表に強くアピールしたかったのではないかと思われるのである。


 長々と、『妖怪の本』の92頁の挿絵の出典を追求してきたが、やっと、終着地点にやってきた。
 藤沢衛彦『図説日本民俗学全集(全八巻)』の「第一巻神話・伝説編」(あかね書房、1960年)の336~347頁には「巨人伝説」が収録され、そのうち、337頁の挿絵に、「385 タイタンボウの足跡 <北越奇談>」というキャプションが添えられている。これが、、『妖怪の本』の92頁の挿絵の直接の出典であり、堂々と明白に「北越奇談」を引用元としている。本当の出典が「和漢古今角偉談」巻之二であることは、上で述べた通りである。
 なお、2冊ずつの合冊版である、藤沢衛彦『図説日本民俗学全集(全4巻)』の「第1巻 神話・伝説 伝承説話 編」(高橋書店、昭和46年)(著者没後の合冊版)では、340~351頁に「巨人伝説」が収録され、そのうち、341頁に挿絵がある。8巻本、4巻本は、内容は同一である。


 振り返って、藤澤衛彦が、その著作で、「光林寺大人の足跡見物の図」の挿絵(「和漢古今角偉談」巻之二)をどのように紹介したのかをまとめてみよう。『妖怪の本』は、『図説日本民俗学全集』にあるキャプションを信用して載せただけなのであった!


・藤澤衛彦『日本伝説研究』第三巻(昭和6年・昭和10年)の284~5頁
 「第五十一図 加賀国木越の一向宗道場光徳寺末光林寺の跡の田中に顕然たる大太法師の足跡見物の図「和漢古今角偉談」所載)」

・藤澤衛彦『日本民族伝説全集 第六巻 北陸篇』(昭和30年)の223~4頁
 「光林寺大人の足跡見物の図」(
「たいたん坊の足跡」(石川)という伝説の挿絵)  ・・・伝説の表題での偽装
 「〔解説〕『和漢古今角偉談』には『たいたん坊』(大太法師)」               ・・・出典の中の記述の偽装

・藤沢衛彦『図説日本民俗学全集(全八巻)』の「第一巻神話・伝説編」(昭和35年)の337頁
・藤沢衛彦『図説日本民俗学全集(全4巻)』の「第1巻 神話・伝説 伝承説話 編」(昭和46年)の341頁
 「385 タイタンボウの足跡 <北越奇談>」                          ・・・表題と出典の偽装

・『妖怪の本』(学習研究社、1999年)の92頁
 「大太法師の別称と思われるタイタンボウの足跡。絵から足の大きさ8mあまりとすると、身長は50m以上の巨人である。(『北越奇談』)
                                             ・・・藤沢の偽装にだまされた記述。大きさの判断の誤り。

 なにゆえに、明治大学の教授で、各種協会・学会の会長、理事長でもあった藤沢衛彦(1885~1967)が、1935年(50歳)の著作では正しく紹介していた挿絵の出典を、1960年(75歳)の著作では誤って紹介しているのか、理解に苦しむところである。


 なお、藤澤の言うように、能登地方において、里俗が「たいたん坊」と呼んだということを裏付ける原典資料を、今のところ、見つけることができないでいる。『妖怪の本』と、藤澤の「巨人伝説考」の記載以外に、明確に、北陸地方、あるいは、能登地方で、「たいたん坊」という呼称を載せている原典資料をご存知の方があれば、お知らせいただきたいと思う。


<石川県立図書館による「たいたん坊」についての調査結果の報告>

【柴田からの質問内容】
(2020年9月16日)

藤澤衛彦『日本伝説研究第三巻』(昭和10年)所収の「巨人伝説考」に、「能登国に於てタイタンボウ」という記述があり(昭和10年の三笠書房版だと、283頁)、藤澤衛彦『日本民族伝説全集第6巻北陸篇』(昭和30年)に「たいたん坊の足跡」(223~4頁)という伝説が載せてあります。しかし、能登地方において、本当に「たいたん坊」という俗称の巨人の伝説があるのかどうかが、今のところ、確認することができません(加賀に「たんたん法師」の俗称が残ることは確認済です)。今回、お願いしたいのは、口能登地方、あるいは、奥能登地方において、実際に、「たいたん坊」「タイタンボウ」という巨人の伝説の伝わる「具体的な場所があるのかどうか」を調べてほしいのです。多分、能登地方の民話・昔話の本、能登地域の各市町村史誌の民俗編の資料が、調査対象になると思います。多少、時間がかかっても構いません。よろしくお願いします。

【石川県立図書館からの回答】 (2020年9月29日)

口能登から奥能登にかけての市町村史の民俗の項目から、巨人の伝説を探しましたが、「たいたんぼう」と書かれているものはありませんでした。また、この地方の代表的な民話・昔話集からも探してみましたが、能登の方面での巨人の伝説は見つかりませんでした。探していた中で、回答資料5に「巨人伝説」の項目があり、そこに「丸山とおき塚」、「弁慶の足跡」の記載がありました(p920)のでお知らせします。ここでは「たいたんぼう」の記載はありませんでした。調査したのは、以下の資料です。

加能郷土辞彙 改訂増補   日置 謙編       北国新聞社      1979.6
書府太郎 下巻           北国新聞社      2005.4
石川県大百科事典        北国新聞社出版局編      北国出版社      1993.8
のとの昔ばなし  坪井 純子著     七尾市立図書館友の会    2001.10
のとの昔ばなし 第2   坪井/純子著     七尾市立図書館友の会    2010.12
能登の風土記    細谷/義男著     日本文学館      2004.8
日本の民話 12   未来社企画・編集        未来社  1975.4
輪島の民話      石川県輪島市教育委員会編集      石川県輪島市教育委員会  2004.3
石川の伝説      石川県児童文化協会編    日本標準        1980
加賀・能登の民話 第1 清酒/時男編     未來社  2015.10
加賀・能登の民話 第2 清酒/時男編     未來社  2016.11
日本昔話通観 第11    稲田/浩二責任編集 小沢/俊夫責任編集    同朋舎  1981.7
珠洲市史 第4 珠洲市史編さん専門委員会編      珠洲市  1979
内浦町史 第2 内浦町史編纂専門委員会編        内浦町  1982.10
能登島町史 資料編 第2        能登島町史専門委員会編  能登島町        1983.3
柳田村史        柳田村史編纂委員会編    柳田村  1975
能都町史 第1 能都町史編集専門委員会編        石川県能都町    1980.5
新修門前町史 資料編6    門前町史編さん専門委員会編      石川県門前町    2005.11
輪島市史 通史編・民俗文化財編   輪島市史編纂専門委員会編        輪島市  1976
鹿島町史 通史・民俗編   鹿島町史編纂専門委員会編        鹿島町  1985.8
田鶴浜町史      田鶴浜町史編さん委員会編        田鶴浜町        1974
金沢市史 資料編14       金沢市史編さん委員会編集        金沢市  2001.3
新修七尾市史 13 七尾市史編さん専門委員会編      七尾市  2003.3
鹿西町史        鹿西町史編纂委員会編    鹿西町  1991.2
中島町史 資料編 上巻    中島町史編纂専門委員会編        中島町  1995.3
羽咋市史 現代編 羽咋市史編さん委員会編  羽咋市  1972
富来町史 通史編 富来町史編纂委員会編 富来町史編纂専門委員会編  富来町  1977
志賀町史 資料編 第4  志賀町史編纂委員会編 志賀町史編纂専門委員会編  志賀町  1979
押水町史        押水町史編纂委員会編    押水町  1974
石川県志雄町史  石川県志雄町史編纂専門委員会編  志雄町  1974.11
鳥屋町史        若林/喜三郎編   鳥屋町  1955
穴水町の集落誌  長谷 進編著     穴水町教育委員会        1992.12
日本の昔話と伝説        柳田/国男著     河出書房新社    2014.9
現代日本文學大系 20             筑摩書房        1969.3

また、回答資料4では、「足跡の伝承地は 金沢市千田町、小松市波佐谷町、河北郡津幡町倶利伽羅字打越、加賀市片山津町の四カ所」「足跡の巨人名は、たんたん法師(だんだん法師)、大跡辺の皇子、太多法師」「このような巨人伝説は今のところ加賀地方にあって、能登では、確認されないので、加賀地方のある事情による伝承地として考えられる。」(p30)とあります。
「巨人伝説と一向一揆 ―伝承という歴史の記憶装置―『文化人類学』最終講義(2016 1 29 日)」(「北陸大学紀要 第41(2016.9)(p67-73)(https://www.hokuriku-u.ac.jp/about/campus/libraryDATA/kiyo41/sonota1.pdf) 小林忠雄著 ※インターネットにてPDFデータ閲覧可。では、「石川県には巨人の足跡だと伝える伝承地が4か所ある。  一つは金沢市の北方、河北潟に面した木越町に、俗に「たんたん法師」とか「大多(だいた) 法師」と呼ばれた大男が、日本海から上がって来て第一歩を踏んだ足跡という場所である」「この木越から南方約10キロメートル離れた、富山県との県境にある倶利伽羅峠近くの山中と、 同じく西南方向へ約 40 キロメートル行った能美郡の波佐谷、さらにそこから少し海側によった 片山津にも同様の巨人の足跡伝説地があった」とあり、能登地方については、触れられていません。

以上のことから、能登地方での「たいたんぼう」の言い伝えは見つけることができませんでした。

以下の回答資料に記載されています。

1. 三州奇談 堀 麦水著 日置 謙校訂 石川県図書館協会・1972.6 K080/10/32 pp.101-102
2.
日本民族伝説全集 第6巻 藤沢/衛彦著 河出書房・1955 388.1/21/6 pp.223-224
3.
日本伝説研究 第3巻 藤沢/衛彦著 六文館・1931 388.1/15/3 pp283-287
4. 都市民俗学 小林 忠雄著 名著出版・1990.5 K381/1 p27- 第2章 都市のコスモロジー 第1節 都市の発生-一向一揆のコスモロジー-
5. 石川県鹿島郡誌 上巻 石川県鹿島郡誌編纂委員会編 国書刊行会・1984.2 K215/19/1  

以上です。
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石川県立図書館
利用サービスグループ調査相談担当 阿部


 ということで、能登地方に「たいたん坊」なる呼称の存在は確認できない、という結論となった。
 石川県立図書館の調査相談担当者には、大変なご苦労をおかけしました。感謝申し上げます。




(まとめ)
『妖怪の本』(学習研究社)の92頁の巨人の足跡の挿絵は、『古今角偉談』(1784年、1785年)に収められた下河邊拾水の画である。これは、『三州奇談』(1750~60年頃。挿絵なし)にある記事などを参考にして、加賀国河北郡光林寺跡の田畠の中の「大人の足跡」を描いたもので、藤澤衛彦の言う「タイタンボウ(たいたん坊)」なる名称は、「古今角偉談」のどこにも出てこない。「古今角偉談」では、先行書の「三州奇談」と同様に、加賀国における俗称として「たんたん法師」が述べられているだけである。

(1)加賀国における、大人(たいじん)の俗称は、「タンタン法師」「たんたん法師」である(『三州奇談』巻之四の「大人の足跡」に初出する)。
(2)藤澤衛彦によれば、大人(たいじん)の俗称は、能登国においては「タイタンボウ」であるという(『日本伝説研究』第三巻、283頁)。
(3)藤澤自身が付けたキャプションのように、挿絵の「光林寺大人の足跡見物の図」は、場所が「加賀国」であり、俗称は「たんたん法師」であろう。
(4)従って、加賀国光林寺跡の挿絵を「タイタンボウ(たいたん坊)の足跡」と呼ぶのは間違いである。
(5)藤澤には、「チタン」のイギリス読みの「タイタンス」に愛着があり、能登の「タイタンボウ(たいたん坊)」を好んだのではないかと推測される。
(6)ただし、能登の「タイタンボウ」の呼称の裏付けは、石川県立図書館による悉皆調査においても確認できない。


3.全国の巨人伝説について
 

 先に述べたように、ダイダラボッチについては、ウィキペディアで紹介されているように、異なった呼称が多数、存在している。しかしながら、その異称について、日本における地域差を、わかりやすくまとめた資料は、ごく少ない。ここでは、全国の巨人伝説についての主要な論考を紹介したあと、藤田稔氏による研究成果を集約したものを示すことにする。
 筆者は、各種事典、参考文献、全国の伝説などの郷土資料の収集により、独自に「全国の巨人伝説一覧表」をまとめることができた(2020年10月)。その一覧表は、兵庫県の郷土誌、「歴史と神戸」への投稿原稿「大道星を探し求めて」という、兵庫県内の小字地名「大道星」の調査結果をまとめた論考に添付する「表1」として公表(たぶん、2021年度中に発行)する見込みなので、未公開としたい。ここでは、とりあえず、藤田氏作成のもので、概要のみ、お伝えしたいと思う。なお、その「表1」の一部は「ダイダラボウ系の呼称一覧表」として、後で紹介する。

「季刊 自然と文化」10秋季号1985、29頁、より)
 出典:濱田増治「山の巨人」 (『傳説』巨人号。大正15年10月号、71頁、通巻411頁) (藤澤衛彦『日本傳説研究 第三巻』259頁)

(巨人伝説の主要な文献資料)

・南方熊楠ダイダラホウシの足跡」(明治41年4月「東洋学芸雑誌」)(『南方熊楠全集3』平凡社、昭和46年、9~12頁)
・高木敏雄大太法師伝説」(『日本伝説集』郷土研究社、大正2年)(『日本伝説集』ちくま学芸文庫、等)
・柳田国男「大人弥五郎」(大正6年1月「郷土研究」) (『新訂 妖怪談義』角川ソフィア文庫、等)
・谷川磐雄(大場磐雄)「武蔵の巨人民譚」(『武蔵野』第二巻第三号、武蔵野会、大正8年12月、34~38頁)
・柳田国男「巨人の足跡を崇敬せし事」(大正14年7月「アサヒグラフ」)(『山の人生』大正15年)(『山の人生』角川ソフィア文庫、等)・・・オオヒト研究
・谷川磐雄(大場磐雄)「巨人民譚考」(『民俗叢話』坂本書店、大正15年6月、119~190頁)
・藤澤衛彦「巨人伝説分布」『傳説』第一巻第五号、特輯 巨人号、大正15年10月号、5~27頁、通巻345~367頁)
・柳田国男ダイダラ坊の足跡」(昭和2年4月『中央公論』) (『一目小僧その他』角川ソフィア文庫、等)
・折口信夫「鬼と山人と」(昭和3年)(『折口信夫 山のことぶれ』平凡社、2019年、等)・・・「おに=大人(オニ)=おほひと=巌穴に住む先住民」説
・藤澤衛彦「巨人傳説考 大太法師考 アマンヂャク考」(『日本傳説研究 第三巻』六文館、昭和6年;三笠書房、昭和10年、235~288頁)
・柳田国男「じんだら沼記事」(昭和14年「讃岐民俗」) (『新訂 妖怪談義』角川ソフィア文庫、等)
・鎌田久子「ダイダラボッチ」「巨人の伝説」(「民話の手帳」より)(『ふるさと百話 第一巻』静岡新聞社、昭和46年5月、318~322頁)
・柏原俊子「巨人伝説 ―ダイダラボウ伝説の成立に関して―」(「日本文學」37、1971年10月、1~16頁)・・・「ダイダラ=タタラ」説の提起論文
・大林太良「房総のデーデッポ伝説」(『神話と民俗』桜楓社、1979年、105~115頁)
・黒沢幸三「巨人と小さ子 ―ふみし跡をめぐって―」(『講座 日本の古代信仰 第4巻 呪禱と文学』学生社、1979年、131~152頁)
・小島瓔礼「おおひとでんせつ 巨人伝説」(『国史大辞典 第2巻』吉川弘文館、1980年、687頁)・・・ダイダラボッチの語義を「中世的な語」とする
「季刊 自然と文化」10秋季号1985 (特集 巨人と小人)(日本ナショナルトラスト、1985年9月)・・・全国の巨人伝説を紹介している
・石上堅「踏まれた石」(『新・石の伝説』集英社、1989年、185~194頁)(178頁:足跡石)・・・足跡石・足形石・馬蹄石について
・猪股ときわ「巨人(ダイダラボッチ)伝説」(『日本「神話・伝説」総覧』歴史読本特別増刊事典シリーズ16、新人物往来社、1992年、250~1頁)
・藤田稔「日本の巨人伝説」(「茨城の民俗」第32号、平成5年(1993年)11月、茨城民俗学会、1~12頁)
・藤田稔「巨人伝説」(『茨城の民俗文化』茨城新聞社、2002年(平成14年)7月、229~250頁)・・・(「日本の巨人伝説」を改稿したもの)
・野村純一・松谷みよ子監修、小堀光夫・花部英雄編集『だいだらぼっちの伝説』(いまに語りつぐ日本民話集 伝説・現代民話5〔巨人・精霊〕)(作品社、2003年)・・・信頼すべき出典に基づいて、「だいだらぼっちの足跡」に関する民話18編を現代風に書き直して収録している(12~63頁)


 巨人伝説、とりわけ、ダイダラボッチに関する文献資料は多数ある。厖大である。
 国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」(小松和彦らによる)や、国会図書館の所蔵資料の検索で、関連するキーワード(ダイダラボッチ、ダイダラボウ、その他類似語)を入力すれば、その一端を知ることができる。
 それでも、巨人伝説について、よくまとめられた論考というものは少なく、上記の文献が興味深い内容で、重要である。ウィキペディアに掲げる文献と併せて利用するとよいだろう。上記の文献の多くは重要であるにもかかわらず、なぜか、ウィキペディアには取り上げられていないのである。

 このほかに、関連する辞典・事典類(民俗、伝説・昔話、妖怪等)の「だいだらぼっち」「ダイダラボッチ」「大太法師」「巨人」「大人(おおひと)の足跡」「大人弥五郎」などの項目に、コンパクトにまとめられた説明があるので便利である。
 
 『日本昔話事典』(弘文堂、1977年)(縮刷版、1994年)の「大人(おおひと)の足跡」(山中耕作)、「ダイダラボッチ」(山本節)の項目が簡明。
 『日本伝奇伝説大事典』(角川書店、1986年)の「足跡石」(徳田和夫)、「巨人伝説」(宮岡薫)の項目。
 『日本架空伝承人名事典』(平凡社、1986年)(新版、2012年)の「だいだらぼっち」(花部英雄)の項目
 『日本奇談逸話伝説大事典』(勉誠社、1994年)の「大人・小さ子(おおひと・ちいさご)」(大島建彦)の項目。
 『日本民俗大辞典』(吉川弘文館、2000年)の「巨人伝説」(斎藤純)、「ダイダラ法師」(斎藤純)の項目の説明もコンパクト。
 『日本説話伝説大事典』(勉誠出版、2000年)の「ダイダラボッチ」(増田秀光)の項目。
 
 全国の巨人伝説に関しては、『日本伝説大系』15巻+別巻2巻(みずうみ書房)が、かなり広くカバーしており、藤田稔氏の研究にも生かされていることが窺える。



(水戸市大串貝塚ふれあい公園の資料館の展示資料) (藤田稔氏の資料)

 大串貝塚ふれあい公園の資料館とは、水戸市埋蔵文化財センターで、「旅といいもの」の中で、展示パネルの「茨城県に残るダイダラボウの伝説」「日本全国に残る巨人伝説」が紹介されていている。

 このパネルの元になった資料は、センターの職員によると、藤田稔氏が平成3年の講演で提示したもので、藤田氏は、この展示の監修者の一人だということである。

 筆者は、2020年9月18日に、展示パネル「茨城県に残るダイダラボウの伝説」の中に見える(「旅といいもの」参照)「大田魔神」というのが、茨城県利根町笠脱沼を指すのであれば、明らかに、「大田羅神(ダイダラのかみ)」のことであり、誤植ではないかと、電話で連絡をしておいた。応対した職員は、「単純な見落としミスです」と言っておられた。「大田魔神」は、聞けば、もっともらしい巨人名なので、何となく紛れ込んだミスなのだろう(それにしても、従来、誰も気付かなかったのだろうか?)。上記の藤田氏の「日本の巨人伝説」の7頁には、「利根町笠脱沼 ダイダラ(大田羅)神が笠を脱いで休んだ」とあり、藤田氏の「巨人伝説」の238頁も同一である。職員は「大田羅神に訂正しておきます」との返答であった。谷川磐雄『民俗叢話』の128頁に「大田羅神」の説明がある。

 また、展示パネル「日本全国に残る巨人伝説」についても、藤田氏の「日本の巨人伝説」(平成5年)と「巨人伝説」(平成14年)の両方とも、新潟県には「デイダラボッチ」「デイランボウ」は全く見当たらず、藤田氏の新しい知見によって、平成3年当時の資料には入っていたものを削除したことが窺える。この点も、センターの職員に伝えたところ、「センターのパネルは、藤田先生の、平成3年当時の知見によって監修を受けて作成したものです。藤田先生の平成5年、平成14年の新しい資料については、改めて検討した上で、パネルの更新の際に参考にして、より良いものにするつもりです」とのことでした。

 新潟県に「デイダラボッチ」「デイランボウ」を掲載しているパネルの内容は、「常陸だいだらぼっち伝説・その3(仮題)水戸ダイダラボウ|雑感から確認できる(今後、検討の上で、新潟県での記載は訂正・削除されることだろう)。


 藤田稔(1922~2013) 茨城県那珂郡大宮町生れ。東京文理科大学国史科で、和歌森太郎(1915~77)から民俗学を学ぶ。高校教員として教壇に立つ傍ら、昭和38年に同志とともに茨城民俗学会を創立して、県内各地の民俗調査を行なった。昭和47年~平成8年、代表理事となり、後には顧問となった。昭和58年3月退職。日本民俗学会評議員、茨城県文化財保護審議会委員・会長、茨城県民話普及推進協議会長。平成2年まで、茨城大学人文学部講師(民俗学概論担当)も務めた。民話・伝説・年中行事など民俗文化に関する論文、著書が多数ある。その写真資料は二万点に及び、茨城県立資料館に保管されている。「茨城の民俗文化を全県的な視野から網羅的に語ることのできた、最初の人物である」(林圭史、研究ノート、『常陸大宮市史研究第1号』2018年、27頁)と評価されている。
 
 
 筆者は、藤田稔氏の、一番新しい成果(民俗研究50年の集大成!)である、上記の「巨人伝説」の分布地図(231頁)と「本文」からまとめなおした「全国の巨人伝説」の一覧表を作成したので、下に掲載しよう。その元論文である「日本の巨人伝説」の分布地図(2頁)の内容も参照できるようにしておいた。さらに、平成3年のデータによる展示パネル「日本全国に残る巨人伝説」での表示との食い違いも区別できるように工夫してみた。


「全国の巨人伝説」  参考資料:藤田稔「巨人伝説」(『茨城の民俗文化』茨城新聞社、平成14年、所収)の231頁の分布地図と本文

 ※藤田稔
「巨人伝説」(『茨城の民俗文化』平成14年)の分布地図にないが、本文にはあるので追加した呼称
 ★藤田稔「日本の巨人伝説」(『茨城の民俗』第32号、平成5年)の分布地図(2頁)にはあった記載。平成14年の本では変更・削除されている。
 ●
「日本全国に残る巨人伝説」(水戸市埋蔵文化財センターの展示パネル。平成3年、藤田稔監修)に記入されているが、平成5年と平成14年の分布地図には見られない呼称。
 ◎パネル(H3)にはなかったが、H5、H14年の資料には追加された呼称。新規採用分。

 (筆者注)藤田氏は出典を「各県の伝説集、報告書、市町村史などによる」と付記している。
      あまり知られていない呼称もあるが、
『日本伝説大系』には掲載されている場合がある。      (禁、無断転載)

 (2020年9月、柴田昭彦作成)
△その他の呼称
地域 ダイダラボウ系統の呼称 オオヒト系 弁慶 百合若大臣 地域に独特の呼称
1 北海道 コタンカラカムイ(国造神)
2 青森県 オオヒト(鬼) ◎八郎太郎(大蛇)
   (←●八の太郎) 
3 岩手県 ◎オオヒト ◎八郎太郎
  (←★●八の太郎)
4 宮城県 オオヒト ◎巨人(手長明神)
5 秋田県 ◎オイダラボッチ ◎オオフト
(←●オオヒト)
八郎太郎
手長足長(鬼)
6 山形県 ◎ドウデンボウ 弁慶 ◎百合若大臣 手長足長
7 福島県 ◎大徳坊(磐城)
◎ダイタンボウ(会津)
◎デデンボウ(会津)
◎デデンボー(会津)(※ディデンボー)
◎オオヒト 手長足長(手長明神)
8 茨城県 ダイダラボウ
◎ダイダラボッチ
9 栃木県 ◎データンボウ (←●デーダンボウ)
◎ダイダラボッチ(←★ダイタラボッチ)
   (←●ダイダラボウシ)
10 群馬県 デーラボッチ
◎デタラボウシ (←●デーランボウ)
◎百合若大臣
11 埼玉県 ダイダボッチ
◎ディダンボウ (←●デイダンボウ)
12 千葉県 デーダクボウ
デーデッポ
◎ダイダラボッチ
13 東京都 ダイダラボッチ
◎デーダラボウ
14 神奈川県 デーラボッチ
15 新潟県 (●デイダラボッチ)(●デイランボウ)
〔センターのパネルには、この二つが記入されているが、H5とH14の資料には完全に削除されている。〕 
★弁慶 ◎百合若大臣
16 富山県 ダイダラボウ ◎弁慶
17 石川県 タンタン法師
太多法師
◎(△呼称の記載なし)
18 福井県 オオヒト ◎弁慶
19 山梨県 デーラボウ
デーラボッチ
20 長野県 デーランボウ
デーラボウ
デーラボッチ
21 岐阜県 ダダボシ 弁慶
22 静岡県 ダイダラボッチ
◎ダイダラボウ (←●ダイラボウ)
23 愛知県 ダイダラボチア ◎(△呼称の記載なし)
24 三重県 ◎ダイダラボウシ
◎ダンダボシ   (←●ダンダボラ)
◎ダンダラボシ
●一本ダタラ
25 滋賀県 ◎ダダボシ    (←●ダボシ) △●伊吹弥三郎
26 京都府 ★弁慶 愛宕法師
27 大阪府 △●茨木童子
28 兵庫県 弁慶 ◎アマンジャコ
(←●あまんじゃく)
29 奈良県 ダダボシ
◎一本ダタラ
30 和歌山県 ◎一本ダタラ(熊野) オオヒト 一本ダタラ
31 鳥取県 オオヒト   ◎(△呼称の記載なし)
32 島根県 オオヒト  
33 岡山県  オオヒト   三穂太郎 ★目崎太郎
34 広島県 オオヒト   ※安芸太郎
35 山口県 オオヒト   ◎百合若大臣  
36 徳島県 オオヒト  
37 香川県 オオヒト   ◎(△呼称の記載なし)
38 愛媛県 オオヒト  
39 高知県 ◎ダイドウボウシ(←●ダイドウホウシ) ◎オオヒト ◎(△呼称の記載なし)
40 福岡県 オオヒト
※ウウヒト
百合若大臣
41 佐賀県 ウーシト
◎ウーヒト
◎味噌五郎
42 長崎県 百合若大臣 味噌五郎
◎ディ
 (←●デイ)
43 熊本県 鬼八
44 大分県 オオヒト ◎鬼弁慶 百合若大臣 ※箭山太郎
45 宮崎県 大人弥五郎 ◎弥五郎
46 鹿児島県 大人弥五郎
◎オオヒト(巨人)
◎弥五郎
※●大オンジョ
47 沖縄県     アマンチュウ(★天人)


 これによって、柳田国男が、昭和2年4月の「中央公論」に発表した「ダイダラ坊の足跡」で、明示していた、全国での分布状況が、いっそう明確に視覚化して確認できることになる。ダイダラボッチ系統の分布範囲(関東・中部・会津など)、オオヒト系統の分布範囲(東北・中国・四国・九州など)が明確となり、近畿地方がちょうど、その境界地域に相当することがわかる。

 先に述べたように、筆者は、多数の参考資料によって、藤田稔氏のような各県二三例ずつを紹介する方法でなく、信頼できる資料の悉皆調査を行なうことによって得られたデータに基づいて、全国の巨人伝説の一覧表を作成した。その一覧表は「歴史と神戸」の「大道星を探し求めて」の報告で、2021年度には公表する予定だが、ここでは、そのうち、ダイダラボウ系の呼称の資料のみを用いて、隣接県どうしのつながりが分析できるような一覧表を作成したので、初めて公表する(2020年10月17日完成)。
 このような、詳しい分析の行なえるデータの集積は、従来、行われていないので、本邦、初公開である。
 昭和2年(1927年)の柳田国男「ダイダラ坊の足跡」によって、すでに、地域差の分析は適切に緻密に行なわれており、その結果に対して付け加えられるような事実は少ないが、93年の年月を経て、今日のデータの分析の結果から導き出せる次のような地域差については指摘しておきたいと思う。

・デーラ・デーラン・デイロ・・・・群馬・埼玉・東京・神奈川・山梨・長野
・デイデン・デデン・・・・福島(会津)・栃木
・デーデー(デエデエ、デイデイ)・・・・山形・茨城・千葉

・ダイダラは、愛知県で途切れ、西方にはなくなる。
・かわりに、愛知県から滋賀県では、ダダボシばかりとなる。
・愛知県以西では、ダイドウ法師が増える。

「全国のダイダラボウ系の呼称の一覧表」  (2020年10月17日、柴田昭彦作成) (禁無断転載)

地域 ダイダラ
ダイタラ
ダイダ
ダイタ
ダイドウ
ダイチ
ダイダイ
ダイダロ
ダイダン
ダイラ
ダイラン
ダダ
ダンダ
ダンダラ
デーダラ
データラ
データン
デーダン
デーラ
デーラン
デイロ
デイデン
デデン
デーデー その他 地域
4 宮城県 ダイダラボウ 宮城県
5 秋田県 オイダラボウ 秋田県
6 山形県 デエデエボウ・デェデェボウ ドウデンボウ 山形県
7 福島県 大タン坊(会津) デデンボウ・デデンボー・ディデンボー
(会津)

大テン坊(会津)
大徳坊(磐城) 福島県
9 栃木県 ダイダラボッチ、ダイダラボウ(大太郎坊)、ダイダラホウシ、ダイダラボウシ ダイダホウシ(大太法師、太々法師) ダイダイボウ、ダイダイホウシ データンボウ デイデンボメ ダイデンボー 栃木県
8 茨城県 ダイダラボウ(ダイダラ坊)、ダイダラ神(大田羅神)、ダイタラボウ(大たら坊)、ダイタラホウシ、ダイダラボッチ ダイタボウ(大太房、大田房、大田坊) ダイダロボウ デーダラボウ(デイダラボウ、デエダラボウ、デェーダラボウ) デーデーボウ(デーデー坊) ダッタイボウ、ダンデェさん、デーナカボウ 茨城県
12 千葉県 ダイダラボッチ ダイダッポ、ダイダボッチ ダダッポ デーデッポ(デイデッポ)、デーデーボ、デイデップシ、デイデイボッチ デージャクボウ(デージャク坊)、ライラッポ 千葉県
10 群馬県 ダイダラホウシ ダイラボッチ データラブチ、デーダラブチ、デエダラボッチ、デタラボウシ、デッタラボッチ デーラボウ、デーラボッチ、デーランボウ デッチラボウ 群馬県
11 埼玉県 ダイダラボウ(ダイダラ坊)、ダイダラボッチ(ダイダラ法師)、ダーダラボッチ、ダイダラボッチャ、ダイダラボッケ ダイダボッチ、ダイダボウ、ダイタボウ ダイダロボッチ、ダイダロボッチャ、ダイダンボウ、ダイダイボッチ ダイラボッチ デイダンボウ デエラボッチ、デイロブチ ダイリボッチ、ダイジャボッチャ 埼玉県
13 東京都 ダイダラボッチ(大太郎法師)、ダイダラボウ(ダイダラ坊)、ダイタラボッチ ダイダボッチ(大太ボッチ、大多ボッチ)(★大道法師)、ダイタボッチ ダイラボッチ デーダラボウ(デエダラボウ)、デエダラボッチ
デエラボッチ ヘイタラボッチ 東京都
14 神奈川県 ダイダラボウ(大太郎坊)、ダイダラボッチ ダイラボッチ デイダラボウ、デイダラボッチ デーラボッチ(デイラボッチ、デエラボッチ)、デイラボウ、デーラサマ デエノボッチ、デーゴー坊、デーボコ坊 神奈川県
19 山梨県 ダイラホッチ(太良発意)、ダイラボッチ デエダラボッチ デーラボウ(デーラ坊、デーラボー、デイラボウ)、デーラボッチ(デイラボッチ、デエラポッチ) ヌータラボー、ライラボウ、レイラボッチ、レェラボウ 山梨県
20 長野県 ダイダラボウ、ダイダラボッチ 大陀法師 ダイラボッチ デイダラボッチ、デイダラボッチャ デーランボウ(デーラン坊、デーランボー、デイランボウ)、デーランボ(デイランボ)、デーランボッチ、デーラボウ(デイラボウ、デエラボウ、デーラボー、デイラボ)、デーラボッチ(デイラボッチ、デイラボチ、デェラボッチ)、デーラボッチャ(デイラボッチャ、デエラボッチャ、デーラボチャ)、デーラボーシ、大楽法師、大羅法師 デイロッパチ、ズーダラボッチ、大座法師 長野県
22 静岡県 ダイダラボッチ、ダイダラホウシ(大ダラ法師)、ダイダラボウ(大多良坊) ダイダボウ(ダイダ坊) ダイラボッチ、ダイランボウ、ダイラボウ 静岡県
17 石川県 ダイタホウシ(太多法師)、ダイダボウ(大田坊) タンタン法師 石川県
23 愛知県 ダイダラボチア(ダイダラボチァ)、ダイダラホウシ ダイダボウ
★大道法師
ダダボシ、ダダ星様、陀々法師(ダダボウシ) 愛知県
21 岐阜県 ダダボシ、ダダ星様、ダダボウシ、大平法師(ダダヒラホウシ) 岐阜県
24 三重県 ダンダボシ、ダンダラボシ、ダンダラボッチ、ダンダラボウシ(ガッタラベ)、ダンダホウシ、ダダボウ、ダダボーシ、ダダ タタラ(海坊主)、ドンドラジイ 三重県
29 奈良県 ダダボシ(陀田星、ダダ星)、ダダボウシ、ダダホシ、ダンダンボシ 奈良県
25 滋賀県 ★ダイドウ法師(大童法師)、ダイドウボシ ダダボシ、ダダボウ、ダダボウシ(大々法師、駄々法師) 滋賀県
26 京都府 ★大道法師(ダイドウホウシ)、大道星(ダイドウボシ) ダイトウボウシ(大とうぼうし) 京都府
27 大阪府 ★大道法師(ダイドウホウシ) 大阪府
28 兵庫県 ★大道星(ダイドウボシ) 兵庫県
37 香川県 大智坊(ダイチボウ)   香川県
39 高知県 ★ダイドウホウシ、★大道法師(ダイドウボウシ) 高知県
44 大分県 大太坊(ダイタボウ) 大分県





(全国の方言分布地図に、ダイダラボッチの分布と似た地図はあるのだろうか?)

 柳田国男が「蝸牛考」(昭和5年)において、方言の全国分布地図を用いて、言語地理的に、ことばの伝播のプロセスを解明し、「方言周圏論」を唱えたことは衝撃的な出来事であった。ただし、方言の分布の姿は多彩であり、「かたつむり」の方言のように、京都を中心に水の波紋のように広がり古いことばが辺境に見えるというような、きれいな周圏を描くような事例は稀である。「かたつむり」にあっても、実際の分布はかなり複雑であり、水の波紋のようなきれいな波ができるものでもない。

 ところで、「ダイダラボッチ」のように、関東・中部を中心に分布し、その外側地域において「おおひと」が分布している状況と類似した分布を見せる方言の地図はないのだろうか?

 佐藤亮一編『方言の地図』(講談社学術文庫、2019年)を開いてみた。

 ぱらぱらとめくって、最初に気付いたのは、何と、「大きい」の分布地図(257頁)だった。
 関東・中部地方に「デ(ッ)カイ」「イカイ」の分布があり、「ダイダラボッチ系統」の分布と重なる。「デ」と、「ダイ」「デイ」の共通性。
 東北・近畿・中国・四国・北九州には「オーキー」が分布し、「オオヒト系」と重なることが多い。そのまま「おおきい」である。
 中国西部・四国西部・九州は「フトイ・フトカ」が分布している。「大きい」と「太い」を区別しない地域であるという。


 次に、目についたのが、何と、「た(田)」の分布地図(283頁)だった。
 関東・中部地方において、「タンボ」が優勢である。
 東北・中国・四国西部・九州において、「タ」がやや優勢に見える。

 何の先入観もなく、偶然、最初に選び出した2語が、大田法師とつながりがありそうな「大きい」「田」であることに興味がそそられた。

 次に目についたものは「いくつ(幾)―個数」(285頁)で、関東・中部に「イクツ」、東北・近畿・四国・九州西側に「ナンボ」が顕著である。
 「イクラ」が奈良時代、「イクツ」が平安時代のことばで、一方、「ナンボ」は鎌倉時代からのことばで新しいという。

 「ダイダラボッチ」は中世からのことばと言われる(小島瓔礼「おおひとでんせつ」『国史大辞典2』)。「おおひと」は古くからのことばであろう。

 ここでは、事実を述べるのみに留める。方言は、多種多様であり、その伝播も複雑であり、単純な解釈を許さないのである。



(「デンデンボメ」なる呼称は実在するのか?) → (結論)柳田国男の誤記であり、実在しない呼称である。

 高木敏雄『日本伝説集』(ちくま学芸文庫、2010年)は、大正2年の著作で、21頁の「ホ 羽黒山」の巨人伝説(宇都宮)には「デイデンボメ」とある(栃木県河内郡羽黒村、小野浩太郎君の報告によるもの)
 一方、柳田国男「ダイダラ坊の足跡」(『一目小僧その他』角川ソフィア文庫、平成25年)は、昭和2年4月の『中央公論』に掲載されたものだが、文庫287頁には、羽黒山の巨人は「デンデンボメ」とあり、食い違うので、不審に思っていた。文庫287頁には、その出典を『日本の伝説』とするが、該当書は昭和4年の著作であり、昭和2年の論考の出典にはなりえない。つまり、角川ソフィア文庫版の出典名が間違っているのである。
 『定本 柳田国男集』の第五巻(筑摩書房、昭和43年)の「ダイダラ坊の足跡」の311頁を見て、疑問は氷解した。そこには、「デンデンボメ」の記述の出典が『日本傳説集』とあったからである。高木敏雄氏の大正2年の著作からの引用であれば辻褄が合う。従って、柳田氏の「デンデンボメ」は、高木氏の「デイデンボメ」の記述をもとにしたものであるから、明白な誤記である。同じ「デンデンボメ」は、『定本 柳田国男集』第二十六巻(筑摩書房、昭和44年)の「辞書解説原稿」の「大太法師(だいだぼふし)」(320~1頁)の中の321頁にも見える。これは『日本文学大辞典』(新潮社、昭和7~10年)の第一巻に収録された項目である。理由は不明だが、あるいは、柳田国男の「蝸牛考」(昭和2年発表)の時期と重なっており、カタツムリの「デンデンムシ」が無意識にあって、「デンデンボメ」と書いてしまった可能性もありえるだろう(柴田の勝手な推察だが、案外、真実を突いているのではないだろうか?)。理由はともあれ、出典にはでていない「デンデンボメ」が誤記であることは確定的である。『柳田国男全集6』(ちくま文庫、1989年)の477頁に、デンデンボメの出典として、明確に「日本伝説集」とある。ちくま文庫の底本が『定本柳田国男集』だから当然ではある。なぜ、角川ソフィア文庫版だけ、出典が『日本の伝説』に変わっているのか、不思議である。3冊の『柳田国男集』(現代日本文学全集12、筑摩書房、昭和30年)(日本現代文学全集36、講談社、昭和43年)(現代日本文学大系20、筑摩書房、昭和44年)はすべて、出典を「日本伝説集」とし、最も新しい、『柳田国男全集7』(筑摩書房、1998年)の「ダイダラ坊の足跡」の572頁に、「デンデンボメ」の出典を「日本伝説集」とする。出典を『日本の伝説』とするのは、ただ1冊、角川ソフィア文庫版のみである。その巻末の「編集付記」に、「三、書名・雑誌等には、すべて『 』を付した」とあり、その作業で生じたミスと思われる。さかのぼって、角川ソフィア文庫(平成25年新版)のもとになった『一目小僧その他』(角川文庫、昭和46年改版)を見ると、269頁には、デンデンボメの出典は、『日本の伝説』となっており、この原文を新字・新かなづかいに改めた柳田没後の著作権継承者の了解の下の改版(昭和46年9月10日改版初版)の際に、「不注意な改悪」が角川文庫の編集部の手によって行われてしまったのが原因と考えられる。この昭和46年角川文庫版から生じたと思われる改悪箇所は、多数、散見するのである。
 いくつか改悪例を挙げてみる。「初版→改版」で記す。影響のないものもあるが、注意を向ける必要のある改変も見られる。
 踵のふりがな「かゝと→きびす」、「足形と見る→足形を見る」、「背負縄→背縄」、「阪路→坂路」、『日本伝説集』→『日本の伝説』半年石のふりがな「はんねじ→はんねいし」、紀州の日高郡の亀山・入山の弁慶の「畚」のふりがな「ふご→もっこ」、『科野佐々礼石』→『信濃佐々礼石』、「大蛇法師→大陀法師」、「足の田・足の窪→足ノ田・足ノ窪」、袋井在の「高部→高尾」、「涌水の地→涌水の池」、大平法師の大平のふりがな「だゞひら→だいだら」、『美濃国古蹟考』→『美濃古蹟考』、北迫のふりがな「きたは→きたさこ」、『観迹聞老志』→『観蹟聞老志』、「巌に足形→岩に足形」、「耶蘇教→ヤソ教」、「大人様→大人さま」、「延長→延長年間」、播磨風土記の引用文の改変、「切支丹伴天連→キリシタンバテレン」、生月のふりがな「いけづき→いきつき」、道場法師の「故迹→故跡」、温羅にふりがななし→「おんら」のふりがな追加(正しくは「うら」
  「ダイタ橋」は発表当時は「ダイダ橋」であろうし、「代田」のふりがなは「だいた」でなく「だいだ」であったはずである。今日において、現代の読み方によって、テキストが校訂されて、「ダイタ」と「だいた」が採用されている現状がある。ずっと昔の人は、「だいだ」と言っていたことが知られている。駅名の影響の下に、変化してしまったのだろう。オリジナル本ともいうべき、柳田国男『一目小僧その他』(小山書店、昭和9年初版)の368~9頁においては、「ダイダ橋」「村の名の代田(だいた)」「ダイダの橋」「村の名のダイダ」となっている。代田のふりがなの「だいた」は、発表誌「中央公論」(昭和2年)では「だいだ」ではないかと思うのだが、未確認である。このような「だいた」「だいだ」の混在は、地名の読み方の揺れと言えようか。地元でも昔から、二つの呼び方が存在したのである。

 ネット情報では、柳田国男の記載を信頼(あるいは盲信)して、「デンデンボメ」を記載しているサイトがたくさん見られるが、高木俊雄の原典『日本伝説集』(郷土研究社、大正2年)に立ち帰り、「デイデンボメ」を残し、「デンデンボメ」は誤記として、ダイダラボッチ伝説の巨人の異称からは消去しなくてはならないだろう。今まで、筆者以外、誤記であることを指摘していないが、民俗学の巨人への配慮なのだとしたら学問への冒涜ではないだろうか。

 
『柳田国男全集35』(筑摩書房、2015年)の179~210頁には、「民俗講座」(昭和九年、JOAK放送の「放送原稿」)が収められ、その中の「三 鬼の足跡」には、「ダイダラ坊の足跡」にはない情報も含まれている。
 192頁上段には「宇都宮付近でならば『デデンボメ』。あの辺はよく語尾に『メ』を附ける」とある。つまり、「デデンボ」が本体の呼称で、語尾に「メ」が付いたというわけである。今まで、「ボメ」という語尾部分に違和感があったが、理由がわかり、氷解した。
 それにしても、「デンデンボメ」も、「デデンボメ」も、高木敏雄の『日本伝説集』での表記「デイデンボメ」とは異なる。雑誌編集上の意見の対立から、高木と対立した柳田は、高木の表記が、そのまま受け入れられなかったのだろうか? それとも、単なる思い違いだろうか? 今となっては不明と言うほかはない。


(ダイダラボッチの呼称と、その分析


 ダイダラボッチ(ダイダラボウ)については、従来から、多数の異称が知られている。また、その呼称が、大(だい)太郎(だら)法師(ぼっち)、あるいは、大(だい)太(だら)坊(ぼう)のように、3つに分けて分析すると、d(t)-d(t)-bou(botti)のような形になっていることが多いことが、感覚的に広く知られている。
 ここでは、大太坊(大太法師)の異称を網羅すると共に、筆者が今まで収集した呼称資料の一覧を使用して、全国のダイダラボッチ系統の呼称を、それぞれ、3つに分けて分析した結果を一覧にしてみた。出現頻度は概略のものであり、出現頻度の多いものを明らかにするために行なった大雑把なものであることを承知いただきたい。それでも、ある程度の出現傾向を見ることができることだろう。なお、「タイタンボウ」と「デンデンボメ」は実在しないので、除去している。


大太坊(大太法師)の異称一覧(上)
ダイダラボッチ系統の呼称の3分割による各語の出現頻度(下)

太郎
多良
田羅
太郎 法師
法師
法師
法師
法師
発意
法師
法師
発智
法師
法師
法師
法師
法師
法師
法師
ダイ 78 ダラ 42 ボウ 65
デー 32 25 ボッチ 33
デイ 16 16 ホウシ 14
ダン 12 タラ 11 ボシ 13
11 ラン 11 ボウシ 11
デエ 6 デン 9 ボー 8
5 ダン 9 ボッチャ 5
ディ 5 タン 8 4
デェ 5 6 3
ドウ 3 ドウ 5 ブチ 2
タン 3 タイ 3 ボチア 2
タイ 2 ダク 2 ホッシ 2
デェー 2 ダッ 2 ボメ 2
デッ 2 ダロ 2 ボラ 2
ライ 2 デェ 2 1
オイ 1 デー 2 ホウ 1
1 デッ 2 ポウ 1
ダー 1 トク 2 ボーシ 1
ダッ 1 ゴー 1 ホシ 1
レイ 1 1 ボチ 1
ジョウ 1 ボチァ 1
タロウ 1 ボッケ 1
1 ボチャ 1
チラ 1 ポッチ 1
デエ 1 カミ 1
テン 1
トウ 1
ナカ 1
ヘイ 1
ボコ 1
ラク 1
ラッ 1
1


4.代田のダイダラボッチの足跡について


(1)「代田のダイダラボッチ」・・・東京都世田谷区代田6-19


 柳田国男「ダイダラ坊の足跡」には、冒頭、「ダイタの橋から東南へ五、六里」に、「長さ約百閒」(約180m)の「右片足の跡」が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてあるような窪地があり、「内側は竹と杉若木の混植」で、「中央が薬研」堀になっており、踵(かかと)のところまで下ると「わずかな平地」に、「小さな堂」が建ってその傍らに「わき水の池」があったと記す。村の名の「ダイタ」は、確かにこの足跡に基づいたものであった。

 このような柳田の描写と、別の補助資料とによって、現在の東京都世田谷区代田(今は「だいた」と読むが、昔は「だいだ」と言う人が多かったらしい)には、長さ180m(実際には長さ120m)の右足の形の窪地があり、中央がV字に掘れていて、かかとの部分の平地には、弁天社と弁天池があったことが判明している(きむらけん『東京の巨人伝説の中心地 代田のダイダラボッチ』北沢川文化遺産保存の会 紀要 第五号、2017年3月31日発行)(問合せ先:きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net)(申し込めば、送料切手代負担によって、紀要第五号と下記の文化地図を送ってもらえる)

 きむらけん『下北沢文士町文化地図』(改訂八版、北沢川文化遺産保存の会、2019年12月17日発行)には、「守山小35年誌」の地図が掲載され、旧守山小(代田6丁目。2020年現在は、守山保育園になっている)の北東に「弁天池」が記入されている。文化地図には旧守山小の北から北東にかけて、「弁財天跡」とその周辺に「右足跡」が描かれている(灰色で、西から東北東方向に広がる足形)。

 しかし、この足跡の形状と位置は正確に描かれているのだろうか? 疑問に思い、筆者は、『明治・大正・昭和 東京1万分1地形図集成』(柏書房、1983年)に収められた1万分1地形図「世田谷」の明治42年、大正10年、昭和12年の3枚の測図資料を比較することによって、足跡の正確な位置と形状を知ることができた。

 筆者は、明治42年(1909年)測図の1万分1地形図「世田谷」に、柳田国男の見たであろう主要な地点(巨人の踏んだ爪先、中央の薬研堀、踵の池と社)を記入して、「ダイダラ坊の足跡」の記述と合致させることができたので、その地図を紹介しよう。柳田が代田を訪れるのは大正9年であるから、その当時に参照することができた最新の地形図は、この明治42年のものである(柳田が利用したかどうかは不明)。
 (1909年測図)


『下北沢文士町文化地図』(改訂八版)に表示された「長さ約百閒の右足跡」の形状の範囲

高橋正弘「現代ダイダラボッチ考~巨人譚が成立しない現代における教育的役割」(2019.3)の38頁の「図1」の足跡形状の位置
  (ネット記事参照。国土地理院のサイトで閲覧できる空中写真によって足跡を判読するが、場所が見当違いである。)
  (筆者は、高橋氏に、地形図による足跡の位置を連絡したので、検討後には、必要な修正が行われるものと思う。)

地形図から読み取れる柳田国男の見た、代田の巨人の足跡の範囲



 地形図から読み取れるように、Y字型の窪地があり、東側が南北に連なる田であるため、混植地という窪地は西側の枝谷であろう。

 Cで示すように、40mの等高線によって示されたラインは、明白に、右足の爪先の形状をしている。そこから南東に40m進むと、だんだん低くなり、1.25m低い、38.75mの等高線になる。さらに南東に20mほど下がると、等高線に囲まれて、薬研堀の形状の場所となる。さらに南東に40m下がると、37.5m等高線に来る。その東側に小平地部分が20mほどあって、踵(きびす・かかと)の場所になる。さらに東には田が広がる。小平地部分が弁天池と弁天社の場所だろうと推測される。その位置は、多少はずれているかもしれないが、田の表示の西側の平地であることは間違いないだろう。足跡の長さは120mぐらいだろう。この大きさは、柳田の記す「約百間」の3分の2の「67間」である。本当なら、「七十間弱」と書くべきであった。


 柳田国男は、貴族院書記官長の職を大正8年(1919年)12月に辞めて、さっそく、大正9年(1920年)1月12日に代田を訪れている。
 次の1万分1地形図「世田谷」(明治42年測図、大正10年第2回修正測図、大正14年部分修正)によって、柳田の訪問当時の様子をうかがい知ることができる。宅地開発もまだで、明治42年(1909年)当時と、それほど大きく変化してはいない。


「大正九年(一九二〇) 四五歳 一月一二日 ダイダラボッチの足跡を見に、世田谷村駒沢、代田周辺を歩く」
              (『定本柳田国男集 別巻第五』633頁)  (『柳田国男全集 別巻1』128頁)

 (1921年修正測図)

 『柳田国男全集35』(筑摩書房、2015年)の179~210頁には、「民俗講座」(昭和九年、JOAK放送の「放送原稿」)が収められ、その中の「三 鬼の足跡」には、192頁に、「ダイダラ坊の足跡」には見られない、「代田のダイダラボッチ」の記事が見える。

 「代田のまん中にやはり「ダイダ」の足跡といふ凹みがあつた。一度見にいつたことがあるが今では家が建つてよほどわかりにくくなつてゐることゝ思ふ。岡の平地から低い所で約四間、そこが踵の痕で清水がわいてゐる。全体で三四段歩もあるらしくもとは内側は竹藪であつた。足の指先といふのが西南を向いてゐる。

 ここで、柳田は、足の指先の方向を「西南」と記載し、実際の地形図で、「西北」であるのと相違する。

 「ダイダラ坊の足跡」で、「武蔵野は水源が西北にあるゆえに、ダイダラ坊はいつでも海の方または大川の方から、奥地に向いて闊歩したことになるわけである」とあるのとも、辻褄が合わない。大正9年の探訪から、14年が経過し、記憶が薄れたのであろうか?


 昭和7年(1932年)に創立される守山小学校の位置は、次の昭和12年(1937年)第4回修正測図(空中写真測量併用)の1万分1地形図「世田谷」で確認できる。この地形図の作成の際に、「現代ダイダラボッチ考」で紹介された空中写真が用いられている。昭和12年当時でも、「ダイダラボッチの足跡」は明確に残されていたのであるが、高橋氏は、その痕跡を見逃してしまったのであった。
 (1937年修正測図)

 なお、蛇足であるが、「現代ダイダラボッチ考」には、タイトルの他、37頁には、「1912年の12月→1919年12月」「1913年頃→1920.1.12」のように、柳田全集を見れば判明するようなミスが見られる(39頁、1913→1920)。

 代田のダイダラボッチの足跡の位置の同定において、明らかなミスが生じる原因は、やはり、情報不足というほかはない。

 国土地理院のサイトから、高橋氏も転載している代田の昭和12年頃の空中写真を次に示そう。上の昭和12年地形図の作成資料になっている。
 地形図と写真を見比べれば、足跡の窪地の位置が守山小学校の北方の樹木に囲まれたエリアにあり、北西端から南東方向に伸びるはずの窪地の形状は、樹木に隠されて、空中写真からは判別不可能である。これは、柳田が1920年に訪れた時に「杉若木」であったものが、17年後の1937年に大きく成長した姿と見て、相違あるまい。
 空中写真のみで、足跡を読み取ることの困難さが明らかである。地形図など別の資料も併用しなければ、判読を誤ることになるのである。

 (1937年頃の撮影か?)


 本稿が、いささかでも、代田のダイダラボッチの足跡の情報提供の役割を果たせれば幸いである。


(2)「もう一つの代田」の「ダイダボッチ」・・・東京都北区豊島5


 柳田の「ダイダラ坊の足跡」には、もう一つの「代田のダイダボッチ」を紹介している。

 敬順という老僧の『遊歴雑記』という見聞録に、王子の豊島の渡しの少し手前の畑の中にあった「ダイダボッチの塚」のことを記していた。

 土地の字を「代田」といい、巨人のわらじについた砂が落ちこぼれて、塚になったという。

 釈敬順の『十方庵遊歴雑記』の「三篇 巻ノ三 上 十四」、「豊島村大道法師の塚」と題した一文は、谷川磐雄『民俗叢話』の「巨人民譚考」の124~5頁に引用され、塚の挿絵も転載されている。

 ネットの「西郊民俗談話会」の連載「民俗学の散歩道」21(2014年12月号、長沢利明)の「東京のダイダラボッチ」には『十方庵遊歴雑記』の該当頁の写真も掲載されている。

  

 写真に見えるように、原書には、「大道法師(ダイドウホウシ)の塚」「大道法師(ダイダボツチ)」「大道(ダイダ)ぼつち」と表記されており、地元では、「ダイダボッチ」と呼ばれていたようだ。塚は「周囲凡三間余り」とあるので、周囲が5.4m余り、つまり、直径は1.7m余りとなり、思いのほか小さい。小さい円墳だったのだろう。里俗が稲荷塚とも呼んだというから、稲荷祠がまつられていたのだろう。

 ネット記事「古墳なう「大道法師の塚(稲荷塚)」には、「豊島渡」「阿弥陀の渡船場」を示した地図が掲載され、豊島渡の西側の神社マークの地点を大道法師の塚にまつられていた稲荷の祠ではないかと考察している。塚は明治の初め頃までは畑の中に残されていたが、その後、消滅したという。

 1万分1地形図「三河嶋」(明治42年測図)から「豊島(としま)渡」付近の地図を示そう。
 稲荷神社の表示は、この地図にないが、豊島渡の南西すぐの「針葉樹マーク(∧)」の辺りである。
 全く同じ範囲の2万5千分1地形図「草加」(令和元年)を下に示して、その変化を見てもらおう。
 明治42年の地形図
 令和元年の地形図

※上(明治42年)と下(令和元年)の地形図の範囲が一致することは、南西端の北区豊島四丁目のY字道路の一致、足立区江北二丁目の曲折する道路の一致、恵明寺の位置の合致によって、確認することができる。


 現在の「東京都北区豊島5」に相当するこのエリア(西側)は、その後の河川改修によって、大きく変化し、西側に隅田川が蛇行し、東側には南北に荒川が流れるという立地になっています。北区と足立区の境界線が、ほぼ、隅田川の昔の流路を示していると考えるとわかりやすい。

 この地図比較によって、豊島渡の辺りは、現在の荒川の底に完全に水没し、その南西の針葉樹のマークの部分も、完全に荒川の底に消えていることがわかる(「江北JCT」の文字のうち、「江北」の辺り)。下の地図の、西の隅田川、東の荒川に挟まれた中洲にある「宮城ゆうゆう公園」(中央少し南寄りの三角地帯)は、上の地図の「煉瓦製造所」という文字のうち、「所造」の文字の辺りであり、「大道法師の塚」だった地点は、荒川の水底というわけで、土地すら存在しないのである。「古墳なう」の記事では、大道法師の塚のあった場所が、中洲であるようにも受け取れるが、それは勘違いであろう。上の二つの地図を良く見比べてもらえれば、納得していただけることと思う。

 今では、「大道法師の塚」は存在しないが、全国各地に点在する「大道法師」の代表格として、名を残し続けることだろう。

 柳田は、「ダイダラ坊の足跡」において、京都の広沢の遍照寺の辺りの「大道法師の足形池」(『都名所図会』)と乙訓郡大谷の足跡清水(『京羽二重』)(長野新田の字大道星)の二つを挙げている。広沢池の東方の池は、今日の地図には「弁慶足型池」の名称で見える。

 柳田国男「一目小僧その他」ダイダラ坊の足跡 七では、『都名所図会』が「大道法師足形池(広沢の巽、三町ばかりにあり)」とあるので、巽(南東)方向に惑わされ、右京区嵯峨広沢町または嵯峨広沢 池下町の広沢公園附近と考えているが、実際は、広沢池の東方へ三町の、「右京区太秦 三尾町」にある「弁慶足型池(弁慶足形池、弁慶池)」なのであった。この池の呼称は、「右京区(北部)」の住宅地図によると、昭和30年代までは「足形池」であり、大道法師の名残りを示していたが、昭和40年代に入ると今日と同じ「弁慶足型池」に変更されている。わかりにくい「大道法師」ではなく、有名な力もちの「弁慶」の足型というイメージが定着するようになったのだろう。

 『京都府地誌葛野郡村誌二』の山城国葛野郡中野村の村誌を見ると、「池沼」の項で、三尾山上にある養水に供する池として、「古池」「新池」「辨慶足形池」の三つを記載している。つまり、京都府地誌の編纂された明治前期には、既に、弁慶足形池と呼ばれていたのであった。

 『日本名所風俗図会8 京都の巻Ⅱ』(角川書店、昭和56年)は竹村俊則の編集になるが、「都名所図会」も収録され、本文で足形池は106頁にあり、その注記が次のように記載されている(460頁)。

 「足形池 広沢池の東、宇多野療養所に到る一条通の南側にある池をいうか。弁慶足形池という。由緒不詳。」

 末尾の「由緒不詳」という言葉が、風聞によって、一般になじみのない大道法師ではなく、怪力で有名な弁慶に帰せられるように変わったことを物語る。



 柳田国男「一目小僧その他」ダイダラ坊の足跡 七 は、長野新田の場所を突き止めている。それは、京都市西京区大枝東長町である。明治42年当時の地形図には、この場所は長野新田という地名であった。その東方に「長野」の地名があり、その新田集落なのだろう。現在でも、「大道星」という字地名の名残りは、ネットで見られる「墓地管理組合設立から関与した墓地移転」の3頁に「新田地区における下ノ池については、既に大道星水利組合という管理組合が存在していた」という一文に見られる。

 柳田は、長野新田の場所を「乙訓郡大谷の足跡清水」と書き、出典を『京羽二重』に帰する。早稲田大学図書館古典總合データベースに、その画像があり、4(巻4)の56コマのうち、25コマに該当の箇所が見える。「京羽二重 巻四 名泉」の一項目で、廿三裏に次のようにある。

 「大人足跡(あしあと)ノ泉 乙訓郡大谷新田村二有り長さ六尺余 五ノ指(ゆひ)分明也俗に大道法師と呼ふ也」

 六尺(約180cm)の大きさの泉というわけである。


 また、秋里籬島『都花月名所』(寛政5年板行)(新修 京都叢書 第二巻、光彩社、昭和42年、558頁)には、次のようにある。

 「足跡(あしあとの)清水 乙訓郡大谷村 大道(たいだう)法師の足跡より涌出(ゆしゆつ)す六尺計五ッの指分明也」

 こちらのほうが柳田の記述「大谷の足跡清水」「長さ六尺ばかりの指痕分明なり」の表現に近いので、秋里籬島の文が直接の出典であろう。柳田が、<『京羽二重』以下の書にこれを説き>と書いて、籬島の『都花月名所』の書名を故意に省いているのは、巧妙と言えようか。


 『角川日本地名大辞典26 京都府 上巻』(角川書店、昭和57年)の「大谷新田村」の項目から、「岡新田」「今岡新田」「岡村新田」という別名があることがわかる。上に見るように、「大谷村」という呼び方もあり、新たに開かれた土地の地名が、なかなか一つに統一されなかったことを物語る。

 京都府立図書館に所蔵されている『大枝の郷 大枝小学校百周年記念誌』(昭和49年)の杉山俊乗「古き山陰道を訪ねて」には、大谷村(岡新田)の字として、十一字が記載され、大道星東筋、大道星西筋の字名が見つかる。杉山氏は開発で消えつつある小字を記録に残すために「小字地域図」を掲載していて貴重である。下図は、筆者が、その地図を接続して、重複部分を消して整理し直した小字地図に、大谷村(岡新田)の領域を蛍光色で示したものである。大谷村は、現在の、京都市西京区西長町の北部に該当する。西長町の南部は「千丈新田」である。


 ※ 真上は、北北東方向。図の右端に長野新田村(現在の東長町の領域)の北西端が見える。

 大谷村(岡新田)は、明治9年になって、長野新田村(現在の東長町)に合併されており、以前から長野新田村に所属していた飛地である千丈新田村の北に接していたので、実質的に、一帯の地域であった(現在の西長町は、岡新田と千丈新田の地域からなる)。

 大道星の地名の範囲は、京都市立芸術大の南東、新林池公園の西北西に位置する。その東半分は開発されて、大枝西新林町1丁目6・7・9・10となり、西半分がその西側に昔の名残りを残して広がっている。180cmの大きさの足跡の形状の清水が残っているとは思えないが実状は不明である。


 「大道法師」「大道星」の地名は、次のようなものがネットや著書で見つかる。他にもあるかもしれない。

・大阪府高槻市藤の里町29、大道法師の石碑(あし跡)・・・三善善司編著『大阪伝承地誌集成』(清文堂、平成20年)871頁には「ダイダラ法師足跡」の項目があり、西天川(あまがわ)村北東部の字円ケ下に「ダイダラ法師足跡塚」があるという。(下記参照)


・愛知県名古屋市南区呼続(よびつぎ)町の大道法師の塚・・・(『張州府志』以後の地誌に見えると、「ダイダラ坊の足跡」にある)

・滋賀県大津市石山の「ダイドウ法師ガ足ノアト」・・・天文3年(1534年)の「四河入海」(『抄物資料集成2~5』収録。ただし藤田氏の情報の出典は「成城大学民俗学研究所ニュース」11所収、「デイダラボッチ」平成3年1月)にあると、藤田稔『茨城の民俗文化』242頁で紹介(ニュース11で、佐竹昭広氏は「ダイドウ法師」を「大童法師」とみる。「大童」とは、大男を言う)。これが文献上最初の巨人名である。藤田氏は、「大道法師」「大道」も「大童」のこととする(『茨城の民俗文化』242頁)。

・兵庫県神戸市西区岩岡町岩岡大道星
・兵庫県明石市二見町福里(ふくさと)大道星(だいどうぼし)
・高知県安芸郡東洋町野根字大道星丙
・高知県長岡郡大豊町(旧天坪村)久寿軒・・・大道法師の伝説(『天坪村誌』上巻)・・・『日本伝説大系 第十二巻 四国』(昭和57年)32頁
・高知県高知市春野町弘岡中大道法師・・・弘岡中の北部、荒倉神社の東方にある「三谷産業(株)中央荒倉プラント」の住所が「弘岡中大道法師1054」である。

 柳田国男「ダイダラ坊の足跡」にある土佐の韮生郷の柳瀬の「立石・光石・降石(ぶりいし)」の話は、大阪府立中央図書館所蔵の『南路志 第二巻』(高知県立図書館、平成3年)を調べたところ、254頁に「立テ石」「光り石」「降(ブリ)石」の説明が見つかった。これが、柳田の記述の出典だろう。

 その記載によると、降石は宝暦7年に洪水で倒れて横になったという。柳瀬貞重の筆記によると、「昔ダイドウホウシと云者、立石と光石とを荷ひブリ石を袂に入て歩ミ行しに、袖底ぬけて落しよりブリ石と名付し」という。柳田は「ダイドウボウシ」と書いていて微妙に異なる。
 韮生郷の柳瀬(やないせ)村は、現在の高知県香美市物部町柳瀬であり、昭和32年、永瀬ダム建設により、その大部分が水没している。三つの石の現状は不明である。

 兵庫県の二つの大道星については、「大道星を探し求めて」と題した現地での聞き取り調査(2020.10.4実施)の報告をまとめて、「歴史と神戸」に投稿したので、2021年には掲載される予定である。新しい発見もあったが、ここでは秘匿して公表しない。誌上での公表をお待ちいただきたい。


なお、大阪府高槻市の大道法師の石碑は、次の通りで、説明プレートもあった(2020.10.3現地訪問)。
前面  背面(文化八年建碑) 



5.各地のダイダラボッチの造った地形


 柳田の巨人伝説の論考を読んでいて、もどかしいのは、補助的な視覚的資料として、昔の地図、写真などが一切ないために、具体的に、どのような大きさ、形状の地形があったのかを知ることが難しいという点である。

 ここでは、柳田の論考で描写されている、ダイダラボッチの残した地形を、過去の地形図などの補助的資料によって視覚的に把握しやすくすることを目的として、記録に留めることとした。

 柳田の見た光景を紹介するレポートは多いが、具体的な再現資料は、ほとんどない。今後、時間をかけて、少しずつ、ポイントを増やしていくようにしたい。


(1)相模野の「大沼」「小沼」・・・神奈川県相模原市南区東大沼2・3、若松2

 柳田国男「じんだら沼記事」(昭和14年)(『妖怪談義』所収)には、「大沼小沼」の紹介がある。

 その二つの沼の位置を示すキーポイントは「大沼神社」の存在である。神奈川県相模原市南区東大沼にある。

 その記事で、引き合いに出している「昭和五年に出た二万五千分一図」が手元にあるので、掲載しよう。

 その図とは、次の2万5千分1地形図「原町田」(大正10年測図、昭和4年鉄道補入、昭和5年12月25日印刷同12月28日発行)である。

 

 『新訂 妖怪談義』(角川ソフィア文庫)の「じんだら沼記事」の211頁の注2には「大沼はこの神社の社殿の背後、南西部にあった」とあるが、上の地形図で明らかなように、大沼神社の「南東部」に大沼があるので、「南西部」は誤記であろう。

 現在の南区東大沼2・3の地図を見れば、道路が沼の形状を残しているので、大沼跡の範囲はわかりやすい。

 一方、大沼の東方にあった小沼は、大沼とほぼ同じ大きさで、やや三角形に近い。南区若松2にあり、やはり道路に形状を残す。

 どちらも、ダイダラボッチが「じんだら」(地団駄)を踏んで後ろに倒れて、お尻のふくらみを土に印したとすれば、ふさわしい形状と言えようか。

 こういうことも、上のような地形図がなければ、イメージは思い浮かばないことだろう。

 なお、『相模原市史 民俗編』(2010年)の474頁によれば、現在までの聞き取り調査でも、大沼にダイラボッチ伝承があったという報告はないという。『松屋筆記』に見える伝承を伝える「大沼」は、次の「鹿沼・菖蒲沼」を指す可能性が高い。

 従って、柳田国男によって、ジンダラ沼とも報告された「大沼」は「鹿沼・菖蒲沼」であり、大沼・小沼には巨人伝承はないと言わざるをえないだろう。


(2)相模野の「鹿沼」「菖蒲沼」・・・神奈川県相模原市中央区鹿沼台2、淵野辺5-1

 柳田国男「ダイダラ坊の足跡」(『一目小僧その他』所収)には、横浜線の淵野辺駅の近くの「鹿沼」と「菖蒲池」を紹介している。

 鹿沼(かぬま)は一つの窪地で、水があるときには、沼となる。鹿沼の東方、鉄道のすぐ傍らに菖蒲沼(しょうぶぬま)がある。この二つの沼も、大沼小沼と同じ、2万5千分1地形図「原町田」(大正10年測図、昭和4年鉄道補入、昭和5年12月25日印刷同12月28日発行)に載っている。大沼小沼の北西方向に位置している。



西側の窪地が淵野辺駅西方の「鹿沼」で、現在は「鹿沼公園」(相模原市中央区鹿沼台2)である。公園内の左の足型池はもちろん人工物である。

東側の窪地が右の足型の「菖蒲沼」(相模原市中央区淵野辺5-1)で、青山学院大の西方である。現地に、しょうぶ沼跡を示す石碑がある。

現地の様子を案内するレポートに 相模原ぶらり歴史歩き と 巨人の足跡がある!? がある。

大沼・小沼と同じように、東西に二つの沼が並ぶ意味で、象徴的な「デエラボッチ」の伝承地と言えようか。

阿部博泰『相模原史話―史跡と伝説』(相模大野団地自治会刊、1971年)には「宙水と巨人の足跡」(17~21頁)があり、大沼、淵野辺付近には「宙水」という浅い地下水があったために、地下水が深くて開発が遅れた所が多い相模原台地にありながらも、早くから人家が開けていたという。地下の途中に、天水の抜けない青色の粘土層があるために、水が沈まず、地表にたまって沼となったものである。「鹿沼」は昔よく鹿が山からおりて水を飲みにきたことから名がついたという。「菖蒲沼」は美しい菖蒲の花が多く咲いたところであった。その姿が失われてから久しい。

地形図を見るとわかるように、二つの沼の中間地点が舌状に少しせり出して高くなっており、よりいっそう、窪地二つが目立つ地形だと言える。

この二つの沼のほうは、お尻の跡ではなく、じんだら(地団駄)を踏んだ「足跡」だという。そう言われれば、鹿沼の等高線の描くラインは、お尻の跡というよりは、いくらか、足跡っぽい。しかし、菖蒲沼は、卵型である。もっと近くで観察すれば、足跡らしく見えたのだろうか? それにしても、地形図はともかくとして、現地で撮った写真というものは残されていないのだろうか? あるいは、実際に見るようには、写真では窪地地形をとらえることが難しかったという可能性もありえよう。筆者自身、立体視ではない二次元の写真だと、窪地はうまく映し出せなかった経験がある(航空灯台跡の窪地などでの撮影経験例)。

二つの沼どうしの、位置関係を、同じ地形図「原町田」で確認してみよう。双子のように並んでいて面白い。



(3)駒沢村(上馬引沢、野沢)の二つの足跡・・・東京都世田谷区野沢2-7、野沢3(中央部)

 柳田は、「ダイダラ坊の足跡」において、大正9年1月12日、代田のダイダラボッチの足跡を見たあと、さらに巡礼を続けて、隣村の駒沢村の中にある二つの足跡を見学している。

 この二カ所についても、柳田の説明はあるが、地図が添えられていないために、どこを指すのかがわかりにくい。筆者は、次のように、1万分1地形図「碑文谷」(明治42年)の中に、柳田の言う二つの足跡を見つけることができたので、紹介しよう。

 柳田は、足跡の一つが「玉川電車から一町ほど東の、たしか小学校と村社との中ほどにあった」と書いているが、「一町」は誤記(実際には七町ある)のためにわかりにくい。村社というのは、野沢稲荷神社であり、下の地図の西側に見える。小学校は旭小学校で、野沢稲荷神社の北方の台地上に位置する(明治42年当時はなかった)。その左手にあった代田と同じ規模という足型の窪地は、この地図にはっきりと刻まれている。柳田の見た大正9年に既に「草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった」というから、この明治42年の地形図による足型は、証言者として貴重である。
 神社の北東側に見られた足型は、標高35mの等高線の示す爪先が、はっきりと「左足」の尖端を見せており、代田のダイダラボッチの足型と対をなすのである。代田の足跡が先端を北西方向に向け、この駒沢の足跡が先端を南西方向に向けていて、巨人は、西方向を向いて、がに股で歩いたことがわかる。柳田が「代田と駒沢とは足の向いた方が一致せず、おまけにみな東京を後にしている」と書くのは、そういう足形の方向からであるが、柳田自身がわかっていても、読者に対しては、あまりにも、説明不足であろう。

 この駒沢の足跡は地形図ではっきり読み取れるが、踵がどこかは曖昧である。おそらく、点線の道が横切る辺りが末端なのだろう。標高は31mくらいであろうか。
 なお、爪先に当たる場所は、今日、地形は改変されて、「東京都世田谷区野沢2-7」の「鶴が窪(鶴が久保)公園」となっている。

 鈴木堅次郎「駒澤行(武蔵野会遠足記)」(『武蔵野』第二巻第二号、75~77頁)の66頁には「その先にダイダクボという凹地がある、三四段の地域で最も深い所に池があり古来灌漑用の水源となつてゐる」とあり、この駒沢の足跡が「ダイダクボ」である。


 柳田は、さらに、代田、駒沢に次ぐ、「第三のもの」を「これから東南へなお七、八町も隔てた雑木林のあいだであった」と紹介している。「周囲の林地よりわずかに低い沼地であって、自分が見た時にもはや足跡に似た点はちっともなく」と描写している。

 この「第三の足跡」が、上の地形図では、明治42年当時の姿として、野澤の集落の南東に、爪先部分が、標高37.5m等高線によって描かれているのを確認できる。そこは世田谷区野沢3丁目の真ん中辺りだろうが、柳田の見た当時、すでに文化住宅の建設で消えつつあったように、もう、その痕跡は完全に消え去っている。それでも、こうして、その昔の姿を地形図で確認できることは、嬉しいことである。


 『柳田国男全集35』(筑摩書房、2015年)の179~210頁には、「民俗講座」(昭和九年、JOAK放送の「放送原稿」)が収められ、その中の「三 鬼の足跡」には、192頁に、「ダイダラ坊の足跡」には見られない、「駒沢のダイダラボッチ」の記事が見える。

「駒沢の電車から少し東にも二所あつた。これは倍ほども大きくやはり踵の痕から水がわき左の足かとおもふ指先は南向き、今一つはたゞ横平たく小さな沼で、もう足の形のやうにも思へなかつた。」

 ここには、左足は南向きとあるが、実際は、地形図に見えるように「南西向き」であり、食い違う。代田の足跡の記憶と同様に、大正9年の探訪から、14年が経過したために、記憶の薄れたことが原因なのだろう。

 柳田は、緻密な考証を行なうので、その記述には、細心の注意が払われているものと読者は受け取りやすいが、「デンデンボメ」の誤記にせよ、「玉川電車から一町」の間違いなど、いくつもの誤りが見える。「定本」や「全集」は、その原稿に膨大な校訂を施しているが、こういった、出典からの引用の誤りや、地形図による実測によって初めて判明するような誤りまでは、網羅することは無理だろう。だからこそ、きちんと指摘しておくことが必要と思われる。

 北方の「代田の右足跡(北西向き)」、中央の左上の「駒沢の左足跡(南西向き)」、南方の「洗足池(巨人伝説の池)」の三ヶ所の位置関係を見ると、下図のとおりで、間隔が同じであり、立地的にも興味深い。距離が同じなのは偶然であろうが、こういうことも起きるのである。



(4)池の窪(由井村小比企~宇津貫の坂路)・・・東京都八王子市みなみ野3丁目 

 柳田国男「ダイダラ坊の足跡」(『一目小僧その他』所収)には、南多摩郡由井村の小比企という集落から、大字宇津貫へ越える坂路に、「池の窪」と呼ばれる凹地があると書く。長さが27m、幅18mというから、そこそこの広さがある。普段は窪地で、梅雨の時期になると水がたまって池になるという。デエラボッチが富士山を背負うために踏ん張った片足の痕だという。もう一方は駿河の国にあるという。柳田が見た大正時代には、足跡と見える程度の形を見せていたようである。
 この話だけでは、場所もわからないので、古い地形図を見てみよう。下図は2万5千分1地形図「八王子」(大正10年測図、昭和2年部分修正)である。

 

 推測すれば、おそらく、上の地図で、小比企から峠道を経て、宇津貫に出る、蛍光線で示す坂路を指すものと思われる。現在は、八王子市みなみ野3丁目辺りである。大規模な宅地造成によって、昔の地形は失われてしまっている。当然、痕跡は残らないだろう。

2万5千分1地形図「八王子」(平成26年)より


(5)川口村山入の縄切(なぎれ)の小山・・・東京都八王子市美山町縄切


 柳田国男「ダイダラ坊の足跡」(『一目小僧その他』所収)には、南多摩郡川口村の山入という集落の縄切(なぎれ)という字に、付近から独立した小山があり、デエラボッチが背負ってきて、ここで、縄が切れて落ちた所だという。地名の由来である。その小山は、下図の2万5千分1地形図「拝嶋」(大正10年測図、昭和3年発行)で読み取ることができる。縄切の南に小山が見える。



 この小山は、現在でも残っている。現在の地形図を下に掲げる(中央が小山)。元木小学校の北向かいの藤倉学園の西方250m辺りである。圏央道の八王子西ICの料金所から東北東に進んだ突き当りのすぐ左に、縄切バス停がある。

 2万5千分1地形図「拝島」(平成31年)より



(6)碑衾村谷畑・・・東京都目黒区自由が丘2丁目4(北東部)、同1丁目21(南西部)、同22(北部)

 谷川磐雄『民俗叢話』の121頁によると、代田、駒沢村上馬引沢、野沢と同様の伝えをもつ窪地として、碑衾村谷畑を例示している。柳田国男はこの場所には触れておらず、訪問もしていないようだが、類似の足跡の窪地がある場所ということで、きむらけん『東京の巨人伝説の中心地 代田のダイダラボッチ』の12~13頁の記事を参考にして、紹介しておきたい。

 その足跡のあった地点は、東京都目黒区自由が丘2丁目4番辺りだという。実際、現地の住宅は窪地にあるという。きむら氏は、窪地からの流れの痕跡を見つけ出し、沢筋を辿っていったところ、
谷畑(やばた)弁財天の池に着いたということである。そこは、自由が丘の熊野神社の東方140m、自由が丘1-15-19に立地する。この弁財天は、現地の観光名所の一つだということである。次の図は、1万分1地形図「自由が丘」(平成7年編集、平成8年発行)に2mおきの等高線をマーキングし、標高30mのラインを強調したものである。東急線路の西の脇、谷筋の下部に位置していることがわかる。巨人の足跡の推定範囲を点線で示している(後述)。

 『大場磐雄著作集第六巻 記録―考古学史 楽石雑筆(上)』(雄山閣、昭和50年)には、「巨人伝説分布一覧」(8~11頁)があり、鳥居龍蔵からの暗示で考古学と伝説との関わり合いに興味を持ち、巨人伝説等に没頭して、文献を渉猟した大正7~8年頃の様子がうかがえて興味深い。大正9年以降は巨人伝説からは離れて、考古学に集中するのだが、大正15年の『民俗叢話』の「巨人民潭考」に結実するのである。ちなみに、大場は母方の姓であり、昭和3年の相続により、改姓している(著作集第八巻、411頁、略年譜)。

 著作集第六巻の32頁に、「鈴木堅次郎氏のダイダラボッチ説」の項目があり、大正七年の雑筆に、次のようにある。

「◎十一月二十四日、鈴木堅次郎氏を世田ケ谷に訪う。いろいろかたる。そのはなし次にかかぐ。
  ○
谷畑にある巨人伝説地は「池ブチ」というところにて池あるところなりという。
  ○代田のそれは薬師あるところなり」



 次の図は、上図と同じ範囲に対して、1万分1地形図「碑文谷」(明治42年)に、2.5mおきの等高線をわかりやすいようにマーキングし、標高30mを強調して、比較が容易にできるようにしたものである。中谷畑集落の西側に窪地が見える。白抜きで植生の記号のない標高29~34mぐらいの窪地部分が、巨人の足跡伝説の部分ではないかと思われる。
ちょうど植生境界の点線で区切られる部分である。その長さは170mぐらいである。上下の図が同じ範囲であることは、東北部の立源寺と西側の熊野神社の位置の比較によって、確認できる。




(7)衾村字大岡山小字摺鉢山(擂鉢山)・・・東京都目黒区大岡山1丁目9・18・19・20・22
  千束村貉窪(むじなくぼ)・・・東京都大田区北千束2丁目52、同3丁目6、南千束2丁目10


 谷川磐雄『民俗叢話』の122頁によると、衾村字大岡山小字摺鉢山と、千束村貉窪にも、足形をした窪地があり、ダイダラボッチが足を踏ん張った箇所といい、その時についていた杖の跡が洗足池となったという。そして、片手で土を取り、片方に置いたのが、品川湾と富士山である。

 一方、『大田区史 資料編 民俗』(1983年)と『大田区の文化財』(1986年)によると、ダイダラボッチが千束の辺りにやってきて、右足をふんばって盛り上がった所が摺鉢山、左足で窪んだ所が貉窪、杖をついた穴が小池、小便がたまったのが洗足池だという。また、久ヶ原貝塚には巨人が住んでいたともいう。

 以上の資料を比べると、内容に食い違いが見られ、摺鉢山の位置も判然としないが、きむらけん『東京の巨人伝説の中心地 代田のダイダラボッチ』
で述べられている、現地での聞き取り調査結果(13頁)によって、以下の地図の左上に示す場所に同定されるだろう。そこは、現在の東京工業大学の北方に該当する。

 下の地図は、上が1万分1地形図「碑文谷」(明治42年測図)、下が1万分1地形図「田園調布」(昭和4年測図、昭和12年修正測図)であり、作成年にずれがあるが、「碑文谷」(昭和12年)では、開発が進み、足形部分が白抜きで残されているとはいえ、立地が不明瞭になっているので、明治42年の地図を用いた(明治・大正年代には、1万分1「田園調布」は作成されていない)。

 『大場磐雄著作集第六巻 記録―考古学史 楽石雑筆(上)』(雄山閣、昭和50年)の15頁には、大正7年10月26日に、清水窪(下図中央上)で百姓から聞きとった巨人伝説を記録している。その農夫の証言が衾大岡山の「スリバチ山」の足跡と、石原貉窪の足跡、その両足を置いて、杖をついたのが洗足池だというのであった。この内容は、大場氏自身の聞き取りの結果であり、後に、上記の『民俗叢話』で紹介した巨人伝説なのである。聞き取りを行なった当時、鳥居龍蔵の門下とはいえ、大正7年9月に国学院大学に入学したばかりの学問への情熱あふれる19歳の青年なのであった。


 きむら氏の同定した「擂鉢山」は、かつて「蛇山」とも呼ばれた呑川の左岸(東側)に位置する、気味の悪い森の谷で、その谷が昔は擂鉢山と呼ばれていたことを聞き取りで明らかにしている(前掲書、13頁参照)。
 筆者は、きむら氏の記述から、上の地図において、大岡山の北西に見える、北東方向に刻む谷であると判断し、きむら氏からも同意を得ている。
 一方、貉窪(むじなくぼ)は、地図に集落名が見える。洗足池の北方の窪地である。その谷の上のほうは田となっている。
 南東部に見える小池は、今日、魚釣場となっている。

 次の地図は、東京工業大学の北方に位置する「擂鉢山」の推定地の現状の地形を、左の1万分1地形図「自由が丘」(平成7年修正)と右の1万分1地形図「品川」(平成6年修正)を張り合わせた地図に等高線を一部書き込んで、読み取りやすくしたものである。標高30mの等高線は読み取れるが、他の等高線(2m毎)は、複雑で読み取りにくい。一応、標高28~30mぐらいの位置の窪地がわかる。昔の地図と比べれば、北東に刻む窪地地形が変わりなく残されている様子がわかる。



 次の地図は、1万分1地形図「品川」(平成6年修正)の、洗足池の北方に位置する、昔の貉窪の足形の推定地点を示したものである。標高30mの等高線は読み取れるが、やはり、それ以下の2m毎の等高線はわかりにくい。およそ、標高24~26m辺りが、貉窪の足形の場所のようだ。




以上で、世田谷区、目黒区、大田区にある巨人伝説の地点を紹介することができた。まとめとして、その相互の位置関係を見てみよう。




この地図の南方、洗足池の南3kmにある久ヶ原貝塚の地点を加えれば、そのほとんど全部が、北から南へ、一直線上に並ぶことに気付く。

そういえば、次の場所の並び方も、北西から南東へ、一直線上にあることに驚かされる。

川口村山入縄切―由井村池の窪―相模原市橋本駅周辺の「でいら窪」(地図に記載の「褌窪」は誤り)―鹿沼・菖蒲沼―大沼・小沼



この事実は、何の意味もない偶然と片づけることもできるが、本当にそうなのであろうか?

『武蔵村山市史 民俗編』(平成12年)の688頁には、武蔵村山市内のダイダラボッチ伝承地を述べたあと、次のように書いている。

「これらの伝承のある場所を地図上に示してみると、ほぼ一直線上に結ぶことができる。現実に地下水脈などと関係があるのかもしれないが、それはまさしく巨人ダイダラボッチの歩いた足跡のようである。」

同じような発想の人がいるのである(武蔵村山市史の「第2部第6章芸能と語り伝え」の執筆は、秋山和美・田中斉)。

昔のダイダラボッチ伝承を生み出した人々は、あるいは、空飛ぶ鳥の目を持って、高い場所から俯瞰することができたのではないだろうか?

(武蔵村山市のダイダラボッチ伝承地について)

市史の「ほぼ一直線上」が気になり、本当かどうかを確認してみることにした。

伝承地は、以下のとおりである(ネットの「西郊民俗談話会」の記事、ネットの「デエダラボッチの井戸伝説」(青木哲)、『武蔵村山市史 民俗編』による)。3カ所に現存する。

(1)神明ケ谷戸(武蔵村山市神明2-113-9)の「丸山の井戸」(ダイダラボッチのアシッコ(足跡))(底のほうを水が流れている井戸)(現存)
(2)丸山の山頂の井戸(削られて宅地化されて、今はない)
(3)丸山(向山、東山ともいう)(削られて宅地化されて、今はない)
(4)「入り(いり)」の集落の最奥の「番太池」の南東側の民家の裏手の「ダイダラボッチの井戸」(今はない)
(5)「赤堀」の集落の鎮守、日吉神社の境内東側道路沿いの古井戸(中央四丁目1番地)(デエダラボッチの井戸)(防火用水として現存)
(6)「赤堀」集落の最北端、谷戸の最奥部の山林中、小谷の源頭部のあたる崖下の窪地(中央五丁目25番地)(戦前までの生活用水)(涸れ井戸として現存、「大多羅法師(だいだらぼっち)の井戸」として、史跡に指定)(別名「でびいしゃら井戸」)
(7)岸地区の須賀神社の南側の「デェダラボウのアシッコ(足跡)の池」(現在は宅地化されて存在しない)
(8)「番太池」の西方、甲橋近くの、水の絶えない池(市史に「あった」と記載されており、おそらく今は存在しないと思われるが、詳細不明)

以上の8カ所を、2万5千分1地形図「所澤」(大正10年測図)に記入すると、下図のとおり。
東西に連なる尾根筋のラインに沿って、井戸が並ぶ様子がうかがえるので、市史は、それを東西に「ほぼ一直線上」と指摘したものだろう。
日吉神社の井戸や、岸の池は、このライン外にあり、全てが該当するわけではない。


(8)南多摩郡由木村別所長池・・・東京都八王子市別所長池(長池公園内)

 谷川磐雄『民俗叢話』の123頁には、南多摩郡由木村の足跡について述べているが、これは郷土研究第4巻第7号に報告された、中村成文「大太法師伝説四種」(角川ソフィア文庫『新訂 妖怪談義』に付録掲載)に掲載されたうちの一つからの引用で、具体的な場所の言及がない。

 清水庫之祐『多摩の伝説』(1985年)によれば、八王子市別所の長池溜池における巨人伝説が伝わるという。長池自然公園内の一番奥まった所にあり、足跡型をしている。この場所は、下図の2万5千分1地形図「武蔵府中」(大正10年測図、昭和4年鉄道補入)を見ればわかるように、南多摩郡由木村に有るので、同じ場所を指していることがわかるのである。別所南方の大きい方の池が「築池(つくいけ)」で、南の小さい方の池が「長池」である。





(9)相模原市(でいら窪、水沼、ふんどし窪、鎌とぎ窪)・・・神奈川県相模原市緑区・中央区・南区

 柳田国男「ダイダラボウの足跡」(昭和2年)では、相模野の原の中ほどに幅一町(約109m)ばかり、南北に長く通った窪地があり、デエラボッチがふんどしを引きずって歩いた跡と称し、その地名が「ふんどし窪」であると書く。これは、中村成文の「大太法師伝説四種」からの引用だが、柳田国男「じんだら沼記事」(昭和14年12月)では、昭和14年11月に大沼と小沼を訪れて、大沼の北に連なって街道と併行した細長い窪地が沼らしい青々とした水を湛えている様子を描写している。柳田は、この大沼の北の窪地について、地元で農夫に尋ねて、「水窪」と呼んでいることを知る。柳田は、この窪地を「これが多分じんだら沼に対する、ふんどし窪なるもののことであろう」と推測している。

 上の柳田の二つの記事から「ふんどし窪」の場所を知ることは難しい。「水窪」が「ふんどし窪」と一致するのかどうかすら不明である。

 
『神奈川県史 各論編 5民俗』(昭和52年)の809頁には、次のような記事が見える。

 「同市
矢部新田の村富神社附近・南橋本駅の東側・旭中学校の西側・向陽小学校の北側などの大きな窪地は、デイラボッチがフンドシを引きずった跡といわれ、「ふんどし窪」と呼ばれ(4)」(執筆:大谷忠雄)     (注(4) 『デイラボッチとじんだら沼』神奈川の民俗所収)

 相模野の各地に、4カ所の「ふんどし窪」があったことがわかる。大沼の北に連なる「水窪」という沼地が「ふんどし窪」と呼ばれていたかどうかを知るすべはもうなさそうである。(注記・・・後述するが、橋本駅付近には、「ふんどし窪」なるものは存在しない。付近の窪地を、「デイラボッチの窪地」という意味で「でいら窪」と呼ぶ。)

 神奈川県史の記事から読み取れる、中央区矢部1丁目、中央区南橋本1丁目、緑区西橋本1丁目、中央区すすきの町の辺りの、大正10年測図(鉄道補入)の2万5千分1地形図「八王子」「上溝」「武蔵府中」「原町田」の該当する地域を調べてみても、下図のように窪地はいくつかあるけれど、場所は異なっていて、褌窪の形状の場所を見つけることはできなかった。幅1町といえば、地形図上では、幅4ミリということになる。

 なお、座間美都治『相模原の民話伝説』(昭和43年)の44~45頁では、「矢部新田の村富神社の西側、清新小学校の北側(南北に長い千二百坪ほどのくぼ地であったが、最近埋めたてられた)、相模線南橋本駅の東側、旭中学校の西側などにある大きなくぼ地」とあって、若干、異なる。南橋本駅の東方の清新小学校の北方に向陽小学校があるのだが、位置関係から言って、窪地の場所が異なることになる(どちらが正しいのか不明)。いずれにしても、地形図で、この辺りに窪地の表示は見当たらない。また、ネット情報では、なぜか、「清水小学校」という実在しない校名になっているのは誤植だが困ったものである。ちょっと確認すればわかるような引用ミスをしないでもらいたい(原典著者の座間氏に対しても失礼である)。

右下に鹿沼と菖蒲沼が見える。

 この地域には、『多摩地形図 1942(昭和17)―44(同19)年』(2004年)があるので、調べてみたところ、残念ながら、肝心の橋本駅付近の図幅はなく、かろうじて、村富神社を含む「矢部新田」、鹿沼を含む「淵野辺駅」、菖蒲沼を含む「淵野辺」、大沼・小沼を含む「大沼」があるのみであった。これらは、3000分1地形図(大日本帝国陸地測量部・都市計画東京地方委員会作成の一般非公開の極秘地図)で、『多摩地形図』では、約5000分1に縮小して収録されている。この縮小サイズならば、「ふんどし窪」は「幅2cm(100m)」で形状が表現されているはずである。
 ここでは、村富神社付近と大沼・小沼を紹介する。鹿沼・菖蒲沼については、2万5千分1地形図で読み取れる以外の情報は含まれていないので、ここでは省く。

 まず、3000分1地形図「矢部新田」(昭和19年5月測図)から、村富神社付近を示す。村富神社の北側に「大太久保」の地名が見える。「大太」の地名が、ダイダラボッチ伝承を示すことは言うまでもない。その「久保」であるから、窪地である。左に隣接する図福があれば、もっと判るのだろうが、残念なことに、西に隣接する図幅は作成されていない。等高線は、2万5千分1地形図と同じ5m間隔(2.5m間隔で補助等高線)であり、地形の詳細は見分けられないのが残念であるが、村富神社付近に、巨人伝説の窪地があったことが推測できる。



 一方、3000分1地形図「大沼」(昭和18年12月測図)では、西の大沼、東の小沼が明瞭に窪地として記載されているほかに、2万5千分1地形図「原町田」では記載されていなかった、柳田国男が報告していた「大沼の北に連なる水窪」と思われる窪地が見える。東西方向の幅は80~100m、南北方向は150mぐらいであり、ふんどしを引きずったにしては短いが、幅が1町(約109m)という報告には該当しているので、おそらく「水窪」であろうと思われる。これが「ふんどし窪」というのは、長さのことも考えると、柳田の思い違いではないだろうか。ここは、「水窪」としておくのが無難であろう。

 


 思い返すと、「ふんどし窪」の場所がよくわからない理由は、柳田国男自身が「ふんどし窪」の場所をご存知ではなかったことに原因がある。そもそも、中村成文の報告には、「相模原の中ほどに幅一町ばかり南北に長く長く凹んでいる褌窪という凹地がある。デエラボッチが褌をひきずった跡だそうな」とある。してみると、そもそも、橋本駅付近は、相模原の中ほどではないし、大沼の北には「長い長い凹地」は存在しない。つまり、今まで見てきた、神奈川県史や柳田国男による情報が、根本的に間違っているのである。それは、相模原の中央部にあるはずである。

 ネット情報から、座間美都治『相模原民話伝説集 改訂増補』(1978年)と神奈川県教育庁文化財保護課編著『かながわのむかしばなし五〇選』(神奈川合同出版、1983年)からの引用文に行きあたり、後者によると、ふんどし窪と鎌とぎ窪は、相模原市南区にあり、下溝の県立相模原公園の付近にあることが判明した。鎌とぎ窪と呼ばれるのは、藤つるを切るために鎌を研いだところだからという。ふんどし窪の別名が鎌とぎ窪だという(実際は異なるのだが)。

 さんざん、惑わされたが、2万5千分1地形図「原町田」(大正10年)に真剣に向かい合い、等高線をたどり、窪地の分布を調べなおしたところ、下溝付近に、あっさりと、ふんどしを長く長く長く長く、延々と引きずったような、幅一町(約109m)ほどの窪地が見つかったのであった。なぜ、柳田国男が見つけられなかったのか不思議なくらいであるが、筆者自身も、下溝付近というヒントがなければ、さっぱりわからなかったのだから、人のことは言えない。

 ともあれ、その「ふんどし窪」の状況を地図で示すことにしよう。今まで、わざわざ地図上で、おせっかいにも、「ふんどし窪」を紹介したものはないので、初公開ということになろうか。手品の種明かしをしてしまえば、あっけない結末ではあるが、それなりの意義はあろう。調査の過程で、「水窪」の発見というような副産物もあり、成果もあがったと言えるのではないだろうか。

 地図では、初めに、広域を示し、次の地図で詳しく示そう。ピンクで窪地を示しておいた。ネット情報から、鹿沼公園の「相模原市登録史跡 でぃらぼっち伝承地」(相模原市教育委員会、平成13年4月1日登録)の看板によると、伝承地には、大野台、東林間もあり、下図のピンクの窪地に含まれている。80m以下に蛍光イエロー、90mと100mの等高線によって長い長い窪地を示し、ピンクの点線によって、2本の長いふんどしのような窪地を示した。東側の長い長い長い窪地こそが、本命の「ふんどし窪」であろう。西側のほうはやや短いので、「鎌とぎ窪」にふさわしいだろうと推測する。

 どちらが「一の窪」「二の窪」であるのかについては、『相模原市史 民俗編』(2010年)の474~5頁に記載が見られる。次のとおり。

「現在の相模原ゴルフクラブの東側から北里病院のあたりには、大きなオウチ(柴田注、凹地、窪地をいう)がいくつかあったが、その中にイチノクボ、ニノクボというのがあった。イチノクボはフンドシクボとも呼ばれていた。先に挙げた『郷土研究』の報告(柴田注、中村成文の報告)にある「褌窪」は、ここであると考えられる。また、ニノクボはカマトギクボとも呼ばれたという。」

 従って、「ふんどし窪」と「鎌とぎ窪」の位置は、下図のとおりであることが裏付けられた。それぞれ全く別の場所であることは言うまでもない。

 『相模原市史 民俗編』の475頁の解説に従えば、東林間駅のすぐ横に、大男の丸い足跡の「デイラクボ」、その南西方向、東林小の近くの、荻の生えた小さな窪地の「オギクボ」、大和村との境の、サイカチの木があった「サイカチクボ」が東西に長く広がっていた様子などが読み取れる。

 なお、『相模原市史 民俗編』の474頁には、大沼にデイラボッチ伝承があったという報告はなく、『松屋筆記』の「大沼」が大沼神社のあった大沼を指すかどうかはもはや確認できないと述べる。実際、今日では、『松屋筆記』の「大沼」は、明らかに「鹿沼・菖蒲沼」を指すと考えられている。

 相模民俗学会編『神奈川の伝説』(株式会社 日本標準、昭和55年)の88~92頁には「でいらぼっち」という伝説3種類(相模原市・横浜市・横須賀市)が収められ、90頁には次の一文が見られ、「ふんどしくぼ」の場所が東側の「一の窪」の場所に相当することを裏付けています。

 「相模原カントリークラブ内には、でいらぼっちがふんどしをひきずったあとといわれる帯状のくぼ地があり、「ふんどしくぼ」とよばれています。」

 座間美都治『相模原の民話伝説』(昭和43年)とその増補版、座間美都治『相模原民話伝説集、改訂増補』(昭和53年)では、下溝地区の紹介で、ふんどし窪と鎌とぎ窪について書いているが、その具体的な場所については示されず、それぞれの位置関係も、呼称も曖昧であり、後に混乱が生じた原因とも言えようか。現地のことを、もう少し、わかりやすく示す記述にできなかったものか、残念に思われる。

座間美都治『相模原民話伝説集、改訂増補』(著者発行、1978年)158頁

 

(それぞれの現在の位置)

・(東側)ふんどし窪(一の窪)・・・相模原ゴルフクラブ西部~北里2西部~麻溝台1中央~総合体育館~公園東交差点東側~若草中~相武台団地1

・(西側)鎌とぎ窪(二の窪)・・・相模原公園東部~麻溝公園~麻溝台~市営峰山霊園西部




従って、「鎌とぎ窪」と「ふんどし窪」は、場所が隣り合わせというだけで、それぞれ全く別の場所にあることを念押ししておきたい。