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西宮市山口町船坂の「老ケ石(大石)」の伝説


                                                     2015年5月24日 柴田昭彦 新規作成
                                                2015年5月31日 一部追加
                                                2015年9月5日 『近畿民俗』収録の文献を追加
                                                2020年6月26日 リンク先について整理



 JR・阪急の宝塚駅前、阪急バス2番乗り場から、有馬駅前経由の山口営業所前行きのバスに乗り、西宮市山口町船坂の舟坂橋バス停で降りる。舟坂橋バス停から西に進み、船坂橋を過ぎて、すぐ左の船坂谷に入り、南のほうへ、舗装道を歩いて進む。チェーンで進入禁止になっている地点で、右の崩壊した道に入り、常に浸水している道を越えて、そのあとは、2~2.5m幅の荒れた道を進む。右側に枝道らしいものがあるが入らず、左の幅のある道を進み、流れを飛び石で渡り、進んでゆく。当然、車は通れない(堰堤工事の車両が通過したときは通れたことだろう)。幅広の石のごろごろした道をたどる。道を迷わなければ徒歩20分余りで、道の右半分を占有して、河原側にかけて、デンと居座る巨岩に出会う。

 地元で大石(老ヶ石・おいがいし)と呼ばれ「石に刃物を触れると祟りがある」「石を傷つけると命を落とす」と伝えられてきた巨岩である。

 昭和11年当時の村人の伝説(鷲尾正久「船坂の大岩(おほいし)」、『近畿民俗』第一巻第三号、昭和11年6月1日、近畿民俗学会発行)に見える「石工が鑿を振るって石に割目をつけていると、突然石から血が出た」というエピソードから、この石を
「血の石」とも言ったそうだが、今日、この石を「血の石」と呼ぶことはないようである。

 船坂谷を1300mの行程で、「西宮市船坂谷道(再訪)(2015.1.17)」には、道案内が詳しいので、参考になるだろう(脇道紹介まである)。
 筆者が初めての船坂谷探訪の際に参照した簡略にして要を得たレポートとして、六甲アラカルート(8905船坂谷、2013.6.5)があったが、2020年6月現在では削除されて利用できない。
 また、現地の道の状態をリアルに紹介する映像として、船坂の人喰い大岩―You Tube(2014.10.22)も参照されたい。
 グーグル検索で、「老ヶ石」「老ヶ岩」で探してみれば、多くのレポートが見つかることだろう。

 地元には、もともと、「この大石に触れると老ける」という言い伝えは見られないので、比較的あたらしい年代になって、「老ケ石」という呼び名から連想して、そういう話が新たに生まれた可能性が高い(昭和50年代ごろ)。もっとも、「触れたら老ける」ということを「祟りの一種」であるとみることもできよう。この言い伝えについては、あとで考察することにしよう。



六甲全山縦走市民の会(監修)「六甲全山縦走マップ」(神戸市市民参画推進局文化交流部、平成26年3月発行)より
(この縦走マップは、神戸市総合インフォメーションセンターで入手できる。定価400円)
(神戸市総合インフォメーションセンター:JR 三ノ宮駅東口を出て南側すぐ、ポートライナー三宮駅の階下、9~19時、無休)

※令和2年(2020)6月現在、「六甲全山縦走マップ」(平成29年3月発行)が入手可能。(まもなく、次版も出るのでは。)

(中央に「老ガ石」が見える)
(船坂谷の川上ノ滝より上流のコースは上級者向きで、道に迷いやすく危険である。初心者は川上ノ滝まで)





この巨岩のすぐ手前には、高さ1.4mの「大岩(老ケ岩)」の案内板(縦40cm、横60cm)が、平成25年3月、船坂自治会・船坂里山芸術祭推進委員会によって設置され、従来、現地に案内板がなくて、老ヶ石の場所や伝説がわかりにくかった不便さが解消されている。

ところで、今まで指摘した人は皆無なのだが、この岩の面の「しわしわ」は、「老い」の象徴であり、「老ヶ石」という名称は、この「しわ模様」に由来しているということはないのだろうか?(考えすぎかもしれない。もしそうなら、地元の伝説に必ず出てくるはずだから・・・。) 




 この巨岩は、地元の船坂地区では、昔から「大石」「大石さん」と呼ばれ、「老ケ石(おいがいし)」とも呼ばれてきた名物岩である。
 案内板に、従来、全く使用されることのない「老ヶ岩」という表記が採用されているのは、ふさわしくなく、「老ヶ石」と表示すべきと思う。

 「大岩」とあることに関しては、平成10年頃まで、この巨岩の亀とも象とも見立てられるような背の上に祠があり、「大岩竜王大神」と刻んだ石(地蔵尊の形のような石碑)が祀られていたことによるのだろう。だが、平成27年現在では、巨岩の上の祠や石碑はなくなっている。

 山下道雄『新しい六甲山』(昭和37年)には「行手の川岸近くに丸い大岩が見えてくる。近ずくとその岩の上に”大岩竜王大神”と読める自然石の碑が立っている。この岩の西に面した下には二基の木製灯籠があり、以前はその前を通っていたが、眼前の堰堤ができてからは背面にできた道を登って行くようになっている」とあり、当時の様子がよくわかる。

 平成18年当時には、岩の根元に祠があり、30センチほどの朽ちかけた木の鳥居も飾ってあって、錆びた硬貨がパラパラと乗っかっていたという報告がインターネットには見られる(落葉松亭、2006年8月15日、旧・山歩記、西宮市山口町 船坂谷)。

 平成27年(2015年)5月現在では巨岩の河原側、岩の中央下部の前に、祭祀のための小さな石壇(横幅80cm、縦40~50cm、厚さ20cm)が2つ重ねてあり、石壇の上に小さい石(横幅25~30cm、高さ35cm)が祀られている。 


 
 なお、東充『六甲連山バイブル(登山道編)』(平成25年発行)の「船坂谷道・船坂道」(122頁)で紹介されているように、林道の河原側(進行方向の右手)にある「老ガ岩」に対して、ちょうど、案内板の反対側の山側の方向(進行方向の左側)にあるササの道の踏み跡を入ると、すぐに、「玉姫大神」が目に入る。左側の巨岩(高さ4m、幅5m)と、右側の巨岩(高さ3m、幅2m)との隙間に三角形の空間があり、人工的に作られた石壇(幅130cm、高さ65cm)の上に「玉姫大神」「大姫大神」と記した札と、小さな木の鳥居が置いてあり、素朴な原始信仰(女陰信仰)の姿を示している。この「玉姫大神」はタブーのためなのか、ほとんど紹介されることがないが、祈雨信仰の対象である「大岩竜王大神」(老ケ石のこと)との対比において、立地条件などと合わせて考えてみても、興味深い対象である。案内板を目印に、その山側に分け入ってみるのも一興であろう。


(玉姫大神)



 「老ケ石」の伝説をたどってみると、古くは三神(大己貴命・少彦名命・猿田彦命)の降臨する神霊の宿る霊岩であり、地元で「大石」「大岩」として知られ、岩に刃物を触れて傷つけようとする者には祟りがあるとして語り継がれてきた。
 その祟りは、石切りなどを行おうとしたものに下されるのであり、神霊の宿る巨岩を大事にするようにという地元での掟として語り継がれ、石の保護に役立ってきたのであった。


 ところで、この巨岩(老ヶ石、大石)の大きさは、どのくらいなのだろうか?

 「大石」(老ヶ石)について伝える最も古い文献である『有馬郡誌 上巻』(昭和4年)によると、「東西十尺、南北四十三尺」となっている。これを、1尺30.3cmで換算すると、「東西3m、南北13m」ということになる。『山口村誌』(昭和48年)もこれをそのまま引用する一方で、「高サ七㍍、横幅一五㍍、厚サ五㍍もあろうか。これでも三分の二は地下にかくれているというから大きい」と伝説の紹介の中で示している。その後の文献は、この数値を引用するのみで、実際に計測した数値を示した文献は見当たらない。

 「高さ7m、横幅15m、厚さ5m」というのが、現在でも、一般に広く紹介されている大きさである(地学関係の本でも引用されている)。

 しかし、現地で、道のそばに出ている巨岩の長さは、歩測で13歩前後であり、概略9mであることはすぐにわかる。巨岩の手前4m地点から、踏み跡を下りて、河原側から眺めても、上側の9mの長さは、そのまま、下側に見える部分の差し渡しと大きく異ならないことがわかる。巨岩の左側の道を上がって、巨岩を道の上側から振り返って下側に眺めてみれば、厚さは下側(厚さ3m)の倍近く(5~6m)ありそうだが、そう極端に左へ突き出て長く伸びているようにも見えず、むしろ、河原の方向へまっすぐに石のラインは降りている。だから河原側での長さも9m程度なのだ。

 となると、郡誌の南北13mとか、村誌の横幅15mというのは、計測によらない、誇大報告なのではないだろうか?

 その疑問の解消のため、筆者は、平成27年5月17日と23日の2回にわたって、現地で、老ヶ石(大石)の大きさを計測することにした。荷造りひもに1mおきに赤テープを付けて、重りを端に付けて、ひもを投げて、縦横高さを計測してみた(もちろん、石の表面には指一本たりとも触れないようにしたことはもちろんである)。その測定場面が次の写真である。ひもの赤テープの間隔は1mおきにつけてある。


(河原側。断面A。斜面が4m、下部の垂直面が高さ2m。)(石の中央は、石材師のつけたという穴か?)


(河原側。断面B。斜面が3.2m、下部の垂直面の高さが1.8m。基底は2段台座の下部)



 測定の結果をまとめたものが、次のような図である。
 ただし、すべての部分を実測できたわけではなく、踏み込みにくい場所については測定していないので、断面図等も含めて、測定できた長さと、概略の角度によって推定した長さの部分も含まれており、実際の長さと、異なる部分も含まれているので、あくまで、概略の測定結果であることをご承知いただきたい。それでも、長さ9mでなく13mであるというような大きな食い違いはないものと思う。

 もっとも、高さが7mも露出していた時代には、横幅も9mでなく、13~15mであった可能性はゼロではないだろう(埋没した下部の姿を知ることは事実上、不可能だ)。現在の姿が過去とは違うということがポイントということになるだろう。当時の老ヶ石の露出状態や、大きさの計測結果が残っているのなら、確かめてみたいものである。

 とはいっても、現代の紹介記事が、昔の計測結果の丸写しのままで紹介してよいということにはならない。

 やはり、現在の大きさを伝えるべきであろう(厚さ3~5.5m、横幅9m、高さ4.3m)。

(2015年9月5日、追加)
 その後、新たに、
鷲尾正久「船坂の大岩(おほいし)」(『近畿民俗』第一巻第三号、昭和11年6月1日、近畿民俗学会発行)という
昭和11年4月11日執筆のレポートに、「
長さ三十尺、高さ九尺余の黒色をした滑かな大岩」とあることがわかった(9月4日)。

 一尺は約30.3cmであるから、船坂の大岩の大きさは
「長さ9m、高さ2.7m余り」ということになるだろう。この「9m」という長さは
現在の長さの実測値と一致するので、13mや15mという数値が誇大であることを示す裏付けと思われる。
 一方、「高さ2.7m余り」という数値は、現在の実測値「高さ4.3m」より小さい。何らかの錯誤(誤植?)があるのかもしれない。


 


結果をまとめて、過去の文献と比較してみると次のとおりである。

●有馬郡誌(1929年)・・・東西3m、南北13m

●船坂の大岩(執筆者:鷲尾正久)(1936年)・・・南北(長さ)9m、高さ2.7m余り・・・(平成27年9月5日に追加)

●山口村誌(1973年)・・・東西(厚さ)5m、南北(横幅)15m、高さ7m

●概略の実測値(測定者:柴田昭彦)(2015年)・・・東西(厚さ)北側3m、南側5.5m、南北(横幅)9m、高さ4.3m


 したがって、厚さの測定結果は、3~5.5m程度で、ほぼ妥当である.

 横幅の長さは、現状から見れば、誇大であるが、高さが7mであった時代の長さは現在では埋もれていて確認することができない。
(鷲尾正久氏のレポートでは、高さ2.7m余で現在の実際の高さより低い。従って高さ7mの時代があったのかどうかは定かではない。)

 昔から、こういった巨岩の大きさは、実際より大きく伝えられることも多いが、過去にどうだったかは不明である。

 高さについては、昔はもっと見えていた部分が多かったものと推定できる。ただし、40年以上前に、高さ7mだった可能性が
あるのかどうかは、鷲尾氏のレポート(79年前)の高さ九尺(2.7m)余りと考えあわせると疑わしい。


 もちろん、過去に起きた水害によって、河原面が高くなって埋もれ、上流の堰堤の工事の際にも土砂が増えたということは考えられる。

 ●赤松滋『ワンデルングガイドⅡ 六甲山』(昭和59年)には「この一○年で半分は砂に埋もれてしまった」とある。

  つまり、昭和49~58年ごろの10年間で、半分が埋まったというのである。「高さ7m→4m」という変化も首肯できる。


 ●石上隆章「六甲の谷と尾根」(昭和60年)には水害のため今は川床に半分埋まっている」とある。
   石上氏の、この本の写真頁には、下のような木製灯籠2基の写っている写真が収録されている。

   この木製灯籠2基については、山下道雄『新しい六甲山』(昭和37年)に次のような記述がある。
   「岩の上に”大岩竜王大神”と読める自然石の碑が立っている。この岩の西に面した下には二基の木製灯籠があり、
    以前はその前を通っていた
が、眼前の堰堤ができてからは背面にできた道を登って行くようになっている。」

   おそらく、この石上氏の掲載しているこの写真も、昭和30年代終わりごろの撮影であろう。石碑は倒れているように見える。
   (石上氏は、この本の「あとがき」で、「四十二年の水害」の影響にふれており、昭和42年以前の姿だろう。)





『巨石めぐり』(東方出版、2011年)より「船坂谷の老ヶ石」(91頁)



『山と高原地図48 六甲・摩耶』(2002~2015年版)(昭文社)の小冊子(21頁)より。



★ところで、略図に示したように、老ヶ石の上端から6m歩くと、下の写真左上のように、高さ2m(厚さ1.1~1.5m、横幅2.6m)の石がある。

いつの時代の落石か特定できないが、登山者の報告で、以前はなかったというから、比較的あたらしいときのものらしい。

左手の斜面には、いくつも巨岩があり、いつ、新たな落石が生じるかもしれないという立地にある。

老ヶ石が左手の斜面から転がり落ちてきたものかもしれないというのも一理あるのかもしれない(相当古い時代だろうが・・・)。

なにしろ、老ヶ石の、下に埋もれて見えない部分の大きさは相当ありそうであるから・・・。


(山側。林道側。断面B。テープ間隔1m。斜面は3.2m)(手前の老ヶ石の左端ラインは、南北方向にほぼ一致。長さ3.5m)


 さて、老ヶ石(大石)については、年代を追うごとに、新たな伝説が追加されるということが繰り返されてきた歴史がある。


老ヶ石の伝説は、どのようにして、新たに付け加えられていったのだろうか?


 その伝説が新たに追加されてきた歴史を、残された文献資料、インターネットで公表されている資料によって、振り返ってみよう。

 (※)鷲尾氏のレポート(昭和11年)は、平成27年9月5日に入手して追加したもの。新しい内容もあり、貴重な文献である。

<老ヶ石の伝説(郷土資料)>
著者 文献名(書名、雑誌名) 発行者 発行年 ページ 呼称 老ヶ石(大石)の解説の内容 注記
有馬郡(編) 『有馬郡誌 上巻』 有馬郡誌編纂管理者 昭和4年 233 巨巌 社殿前に渓流あり。神川といふ。源は六甲山より発し、清冽掬すべし。こゝに一巨巌あり。東西十尺、南北四十三尺、石面平にして恰も削りたるが如し。往古大已貴命、少彦名命、佐田彦命の三神を奉祀せし所なりといふ。(山口村船坂の村社 山王神社の考証伝説より) 一尺は30.3cm。概算すると、東西3m、南北13m、ということになる。
有馬郡(編) 『有馬郡誌 上巻』 有馬郡誌編纂管理者 昭和4年 576~7 大石 大石
 船坂川の上流にして半ば林縁半ば川岸に位置し、一個の御影系の石にて、一つの亀裂もなく、側面より見るときは藁葺平家造の如く、平面亀を伏せたる如く、南北に長く黒錆を帯び一見荘厳を極む。本大石は、聖武天皇の時代より、大已貴命・少名彦命・猿田彦命の三神を奉祀しありて、其の後右三神を今の氏神社の所に移し、山王神社と称することゝなれり。爾後神の祟ありとて此の大石に手を触るゝ者なし。
 
鷲尾正久 「船坂の大岩(おほいし)」(『近畿民俗』第一巻、第三号) l近畿民俗学会 昭和11年6月1日発行 150
(二六) 
大岩(おほいし)


血の石 
船坂の大岩(おほいし)  鷲尾正久
  有馬から宝塚に通ずる街道筋の船坂村を流れる船坂川の川上、約十五町の川岩に、
長さ三十尺、高さ九尺余の黒色をした滑かな大岩がある。石の傍には立札があつて、聖武帝の頃、こヽに大己貴命、少名彦命、猿田彦命を奉祀す。後、山王神社に奉遷す。以来此の石に身をふれは必ずその身害ふと伝ふ。と書いてある。近年この大岩に急に信仰が勃興し、石には大きな注連縄を張繞らし、頂には祠を造つて大岩龍大神と書いてある。所謂みーさんである。石を周る赤い玉垣には寄附者の名が書かれ、大阪神習教教師藤田徳治郎といふ人が先導で、主として大阪の人が多い。村人は只の四人だけだそうであるが、区長や小学校の前校長や現校長等のインテリの人々である。
 この様な信仰のなかつた時分には、子供などは石の上を走り廻つて遊んだと云つて居る。
村人の話では、昔此の石を割らうと石工が鑿を振るつて石に割目をつけて居ると、突然石から血が出たので驚いて居ると、石が真二つに割れて、その石工をその中へ呑込んでしまひ、石は又元の形にかへつたといふ伝説がある。それでこの石を血の石ともいつて居る。今も石に割目があり、上の方には鑿の跡も残つて居るといふ事である。この様な怪異な伝説のあるところから、此の石の主大蛇とみて最近の信仰が芽ばえたのであらうと思はれる。  (十一、四、十一)
 一尺は30.3cm。概算すると、長さ9m、高さ2.7m余り、ということになる。

「血の石」という呼び名は、この文献だけに見える。
山口村誌編纂委員会(編集) 『山口村誌』 西宮市役所 昭和48年 195 巨巌 又社殿の前に神川という清流がある。六甲に源を発して船坂川に注いでいるが、その少し上流に巨巌がある。東西一○尺余、南北四三尺余、石面は平坦で、あたかも削ったような形をしている。往古大己貴命、少彦名命、猿田彦命の三神を奉祀した所なりと伝えられている。(船坂の山王神社の由緒伝説より) 一尺は30.3cm。概算すると、東西3m余、南北13m余、ということになる。
山口村誌編纂委員会(編集) 『山口村誌』 西宮市役所 昭和48年 242~3 老ヶ石
大石
血を出した老ヶ石 船坂橋から二キロほど上流へ谷川ぞいに歩くと、河原にデンと巨大な石がすわっている。いわゆる”老ヶ石”で地元の人は大石と呼んでいる。高サ七㍍、横幅一五㍍、厚サ五㍍もあろうか。これでも三分の二は地下にかくれているというから大きい。

(むかし、このあたりに石を求めにやってきた石切りが、この”老ヶ石”をみつけた。さっそく、石を切る用意にかかった。)
(村人「この石に刃物をふれてはいけない。ご先祖から伝わる村のおきてです。命が惜しかったら、そっとしておく方がいい。」)
(村人「ずっと大むかし、石切りがこの大石にノミを当て、金づちを振り下ろすと、ノミは石の中に入り、石切りまでが大石にのみこまれた。」)
(村人の注意を迷信だと振り切って、石にノミを当て、金づちを繰り返し振り下ろした石切りは、急に手を止めた。ノミを打ち込んだ穴から真っ赤な血が噴き出したのだ。山を下りた石切りは精神異常となり、狂死した。)

聖武天皇のころから、この岩に大己貴命、少彦名命、猿田彦命の三神をまつっていたが、その後地元の神社に移し、山王神社と名づけたといわれる。岩の上には「大岩竜王大神」ときざみこんだ地蔵尊のような形の石がまつられ、ほこらがある。
( )内は、本文の内容のダイジェスト部分。

※物語の原文は別掲。
西宮市立郷土博物館(編集) 『西宮ふるさと民話』
(西宮市文化財資料第32号)
西宮市教育委員会 平成2年 21~24 老ヶ石 「血を出した老ヶ石(おいがいし)」の民話を集録。
「船坂橋から二キロメートルほどの上流にあるこの大石は、地上に出ているだけでも高さ七メートル、横幅十五メートル、厚さ五メートルもあり、地元の人々から「老ヶ石」と呼ばれていました。」
(物語:省略)
今は、大石の上にほこらがあり、石仏がまつられています。
※物語は別掲。ずっと昔にノミを当てた男は『山口村誌』では酒を飲んでいないが、この本では、「酒によったいきおいで」切ろうとしたことに変形されている。
井阪康二 『西宮市山口町船坂の民俗』
(日本民俗学実習調査報告書4)
神戸女子大学文学部史学科 平成14年 15 老ヶ石  船坂橋から2キロメトール上流の船坂谷に老ヶ石がある。昔、このあたりに石を探していた石切りがこの石を見付けた。船坂の人は「この石に刃物がふれるといけないと伝えられている。これは先祖の掟である」と言って止めた。石切りはそれを迷信だとして聞かずに、ノミを打ち込むと赤い血が石から噴き出したので逃げた。石切りは後で狂い死にしたという(『山口村誌』・『日本伝説大系』第8巻、北近畿編,昭和63年刊)。
 『山口村誌』第一章「自然環境」に「六甲山地の大部分を占める六甲花崗岩はいわゆる『本みかげ』と呼ばれ、船坂の南部一帯にも見られる」とあり、老ヶ石のある付近は採石場であったのであろう。(井阪康二)
本報告書は、神戸女子大学日本民俗学実習(担当者:大江 篤)で実施した西宮市山口町船坂における民俗調査の成果である。

井阪康二氏は、元西宮市立郷土資料館館長・龍谷大学非常勤講師(民俗学研究者)である。
仲間麻子 『西宮市山口町船坂の民俗』
(日本民俗学実習調査報告書4)
神戸女子大学文学部史学科 平成14年 87~88 老ケ石
大石さん
(3)老ケ石(大石さん)<山王神社>
・船坂橋から六甲に行く道の真ん中にある大きな石である。
(むかし、石材師がこの石にノミを打ち込むと真っ赤な血が噴出した話)
 石に残る穴は、その時石材師がつけた穴だそうだ。
・(昔、石切りが金槌を振り下ろすと真っ赤な血が噴出した話)
 
また、この石から流れ出るものは涙であるとする説もある。
・この大石は後の山から転げ落ちたもので、この石の半身はなお山の上に残っているともいわれている。数年前まではこの石の上に「大岩竜王大神」を刻んだ石が祀られていたが、今は見られない。唯石の前に祭祀の為の小さな石壇がのこっているばかりである。
・(この大石は聖武天皇の時代より三神を奉祀し、後に氏神社へ移した話)
神の祟りがあるとして、その後も大石に手を触れる者はいない。
・昔はそこに鳥居もあり、昭和初期頃までは信仰心の厚い外来者が注連縄をして祀ることがあった。土地の人は大石さんの伝説を知ってはいるが、祀ることはしなかった(写真24)。(仲間麻子)
「船坂民話再掘(5) 大石(老ケ石)の話」(船坂新聞、第44号、平成24年)は、この平成13(2001)年度(13年7月~14年2月)実施の民俗調査のこの報告記事を参照していることがわかる。
西宮市立郷土資料館(編集) 『新西宮歴史散歩』
(西宮市文化財資料第47号)
西宮市教育委員会 平成15年 116~7 老ヶ石
大岩
大石
老ヶ石 山口町船坂
 船坂橋から2キロメートル上流の船坂谷に老ヶ石がある。昔、このあたりの石を探していた石切りがこの石を見つけた。船坂の人は「この石に刃物が触れるといけないと伝えられている。また、この石を除けようとした者には災いがある」と言って止めたが、石切りはそれを迷信だとして聞かずにノミを打ち込んだ。するとその穴から赤い血が噴き出した。その後、石切りは原因不明の高熱が出て狂い死にしたという。
 かつてこの石の上には「大岩竜王大神」と刻んだ石が祀られていたが、今は見られない。石の前に祭祀のための小さな石壇が残っているのみである。神の祟りがあるといい、大石に手を触れる者はいないという。
落葉松亭 旧・山歩記
西宮市山口町 船坂谷
2006年8月10日(15日)
インターネットサイト 平成18年 老ケ石 西宮市山口町  船坂谷 2006年8月10日
8月15日
 先日10日船坂谷を歩いた際、老ケ石が見つからなくて気になっていた。今日再度見つけるべく訪れた。(略)岩の手前に夏草に覆われた谷側に降りる小さな踏み跡が見つかった。そこをかき分け降りていくと、その岩の反対側に出た。あたりの草やツタを払いのけると、岩の根元に祠が作られ、30センチほどの朽ちかけた木の鳥居も飾ってあり、錆びた硬貨がパラパラと乗っかっている。伝説ではこの岩に触ると「老ける」らしい。(あっ、やっぱりこの石がそうだったのか)やはり巨石だった。カメラを向けたが近すぎて入りきらない、しかし、後ろはブッシュが蔓延って下がることが出来なかった。ガイドブックの写真は、かなり前の写真らしいことがわかった。諦めて、なんとか斜めからでも全体を写したいと引き返し、アングルを決めていると、川遊びの少年3人が上がってきた。聞いてみると、このあたりは以前はもっと開けていたという。石の大きさを表現するために彼らに対照物になってもらうべく頼むと、巨ゾウの背中のような岩の上に快く上がってくれた。
 エコグループ・武庫川  第41回武庫川エコハイク「六甲山船坂谷を遡る」2010.8.14  インターネットサイト 平成22年   老ヶ石   老ヶ石 船坂橋から上流へおよそ2km遡った船坂谷の雑木林の道端にある山形のどっしりとした大きな岩。土地の人は大石と呼び、手を触れると老いるという伝説。この石にノミを当てるとタタリがあると伝説に残る「老ヶ石」である。  ※この資料が、赤松氏以外で、地元に「触れると老いる」という伝説があるごとくに紹介した初めての資料と思われる(実際にはそのような伝説は存在しないのだが)。
生駒幸子・森田雅也(編著) 『西宮のむかし話 児童文学から文学へ』 関西学院大学出版会 平成23年 16~21 老ヶ石 「その3 血を流した老ヶ石(おいがいし)」の民話を集録。
「船坂橋から二キロメートルほどの上流にあるこの大石は、地上に出ているだけでも高さ七メートル、横幅十五メートル、厚さ五メートルもあり、地元の人々から「老ヶ石」と呼ばれておりました。」
(物語:省略)
今は、大石の上には祠があり、石仏が祀られています。
(解題より抜粋)この昔話では、船坂あたりにある老ヶ石という大きな岩を切り出そうとした者が姿を消したり、原因不明の病に倒れるという展開になっている。「ノミを当てると、岩から真っ赤な血が噴出す」というくだりでは、民衆がこの岩を神格化し、冒してはならない存在だと考えていることが分かる。この地域の平穏をつかさどり、災いを鎮めるシンボルとして、民衆が守り継いできた岩なのだろう。物言わぬ「石」は人間の魂の深いところに、語りかける力をもつものなのかもしれない。
※本文の底本は『西宮ふるさと散歩』(平成2年)である。
自然環境研究オフィス(編著) 『関西地学の旅⑧ 巨石めぐり』 東方出版 平成23年 91~3 老ヶ石
大石
舗装道路が切れて川原に出ます。そこから登山道を600mほど歩いたところの道端に巨体を横たえているという感じでありました。背の部分は象の背中のような感じです。この大石が触れると老けるといわれる老ヶ石です。触れてしまいましたが、どうなるのでしょう・・・・・・。
石は、地上に出ているだけでも高さ7m、横幅15mの大石で、「西宮ふるさと民話」に次のような物語が出ています。(以下、物語をダイジェストで紹介している。)
(91頁の写真の注記)高さ約7m、花こう岩
執筆者は、安部博司。
与志朗 「船坂民話再掘(5) 大石(老ケ石)の話」(船坂新聞、第44号) 船坂新聞倶楽部
(インターネットサイトに掲載)
平成24年
2012.05.12
大石
(老ケ石)
船坂民話再掘(5) 大石(老ケ石)の話   与志朗

船坂川の上流に大石(別に老ケ石)と呼ばれている大きな石があります。船坂橋から船坂谷道をおよそ2km程、渓流に沿って歩きますと、川上の滝の手前、堰堤の下の雑木の茂みの中にあります。御影石の一種で、亀裂も少なく横から見ると一軒の平屋のようで亀を伏せたようにも見えます。横が15m、高さ7mほどもある黒茶色で、黒錆を帯びた大石です。しかし、その石の3分の2以上はまだ地下に隠れていると言われています。
 この大石には神の祟りがあると言われ、触れる者はありません。

(石材師が石にノミをあてたので血が吹き出して逃げ帰り、その後、気が狂って死んだという話、ある人がこの石を割ろうとして、悶死した話、石切が大石にノミを当て金槌を振り下ろしたら、ノミも石切も大石の中に飲み込まれ、
石から流れ出る水は石切の涙であるとの話、などは省略・・・別掲)

 
別説に、この大岩に触れると早く老け込むとも言われています。
 その他、石の上に大岩竜王大神と刻んだ石が祭られていたと言われています。水飢饉の際、村人は、この石の前で雨乞いをしたのかもしれません。
 雨乞いの話としては、昔、村人は”石の宝殿”へ雨乞いに行っていました。石の宝殿で祈祷し、火種を貰って村へ帰る。途中一言も発せず山王神社まで帰り、境内で火を燃やして盛大な水乞いのお祭をしたといいます。
 
別に、数年前、信仰心の厚い外来者が、大岩信仰と称して注連縄をして祭礼を行っていたと伝えられますが、詳細はわかりません。今は、大石の前に小さなほこらが残っているだけです。自然崇拝の所以でしょうか。信仰説としては、この大岩に大巳貴命・少名彦命・猿田彦命の三神を招いて建立されたのが船坂山王神社であると伝えます。
平成25年3月設置の現地の案内板の内容は、この記事をもとにしてまとめたものであることがわかる。



「石切の涙」というのは間違いで、「石の涙」であろう。




外来者の祭祀の時期が、『西宮市山口町船坂の民俗』(平成14年)では
「昭和初期頃まで」とあるのに対して、こちらの記事では「数年前」なっていて食い違う。最近の注連縄祭祀は伝えられていないので、昭和初期頃までが正しいのではないだろうか。
船坂自治会、船坂里山芸術祭推進委員会 現地の案内板 平成25年
(3月)
  大岩
(老ケ岩)
大岩(老ケ岩) 
 この大岩には、神の祟りがあると言い伝えられています。
 昔、石材師が石が切ろうとノミを当てると、「石の割れ目から血が噴出し、気が狂って死んだ。ノミを当てたらふるいがきて悶死した。金槌を振り下ろしたら、そのまま飲み込まれてしまった。」などいろいろ言い伝えられています。
 
又、石から流れ出る水は、石の涙であるとも伝えます。
 そして、この大岩に触ると、早く老け込むとも言われています。

 この大岩に大己貴命〔大国主命〕・少彦名命・猿田彦命の三神が降臨され、奉祀されていたと伝えられています。
 自然信仰の大岩でもありました。むかし、大岩竜王大神と刻まれた碑が石の上に祀られ、村人はこの前で雨乞いをしたようです。

 この大岩からさらに船坂川を遡ると、川上の滝を経て石の宝殿(六甲山神社)に至ります。
(この案内板は、阪神淡路大震災復興基金の「まちづくりにぎわい一括助成事業」補助金により作成しました)
加藤碩一 『石の俗称辞典 第2版』 愛智出版 平成26年 59 老ヶ石 老ヶ石(おいがいし) 兵庫県西宮市山口町船坂谷にある地表に出ているだけで高さ約7m、横幅約15mの中生代白亜紀の黒雲母花崗岩。触れると老けるという。言い伝えでは、その昔、酒によった勢いである男が鑿をあてがって金槌で打とうとしたところ石中に吸い込まれるように姿を消したという。その後、石を探していた石職人が、この岩を切りだそうとして村人に祟りがあると止められた。しかし、聞き入れずに鑿を打ち込むと、鑿穴から赤い血がほとばしり、職人は後に高熱が出て気が狂ってしまったという。 内容から、出典は『関西地学の旅⑧ 巨石めぐり』(平成23年)と考えられる。
<老ヶ石の伝説(登山ガイド)>
著者 文献名(書名、雑誌名) 発行者 発行年 ページ 呼称 老ヶ石(大石)の解説の内容 注記
竹中靖一 『六甲』第十四篇 朋文堂 昭和8年 349 老ヶ石 老ヶ石 船坂谷の右岸、大滝の下流数町の所路傍に横はる黒色花崗岩の塊。 昭和2年以前の古市達郎の調査結果に基づくもの。
竹中靖一 『六甲』第十五篇 朋文堂 昭和8年 397~8 老ヶ石 (船坂谷の小滝の)少し下流には大きな花崗岩が道の左に転つてゐる。老ヶ石と言つて、杉生石、木葉石等と共に、船坂谷の名物である。 昭和2年以前の古市達郎の調査結果に基づくもの。
木藤精一郎 『六甲北摂ハイカーの径』 阪急ワンダーホーゲルの会 昭和12年 152 大岩 船坂橋から一、三○○米ばかりに大岩と称する大石岩がある。近年其大石岩には木柵が出来て小祠が祀られ、立札に「聖武帝の頃此処に大巳貴命、少名彦命、猿田彦命を奉祀す、後山王神社に奉遷す、以来此石に身を触るれば必ず其身を害(そこな)ふと伝ふ」と記してある。那須野の殺生石のやうでもある。 昭和18年発行の七版の158頁の内容も同一であり、修正は見られない。
中村勲 『六甲とその周辺』 朋文堂 昭和35年 54 老ガ石
(大岩)
花崗岩の川原を飛石づたいに行けば船坂橋から約一・三㌔ばかりで黒錆びた亀型の巨岩がある。老ガ石(または大岩)といわれ、近年木冊ができて、小祠が祀られ立札に「聖武帝の頃、ここに大已貴命・少名彦命・猿田彦命を奉祀す。後、山王神社に奉遷す。以来この石に身をさわるれば、必ず其身を害ふと伝う」と記してあったが、いまは取りこわされてない。殺生石のようである。
山下道雄 『新しい六甲山』 山と渓谷社 昭和37年 132~3 大岩 行手の川岸近くに丸い大岩が見えてくる。近ずくとその岩の上に”大岩竜王大神”と読める自然石の碑が立っている。この岩の西に面した下には二基の木製灯籠があり、以前はその前を通っていたが、眼前の堰堤ができてからは背面にできた道を登って行くようになっている。
大西雄一 『六甲山ハイキング』 創元社 昭和38年 114 老ガ石
大岩
山が迫ってくると大きなダムがあり、ここに老ガ石(おいがいし)の大岩がみえる。 記述内容は、改訂された第2版(昭和45年)、第3版(昭和50年)、第4版(昭和59年)(1993年第6刷まで発行)まで全て同一である。
やまゆき会
 中村勲
『登山・ハイキング52 六甲・摩耶』 日地出版 (初版)
昭和39年版
小冊子33頁 老ヶ石
(大岩)
花崗石の川原を飛石づたいに行けば船坂橋から約1.3粁ばかりで黒錆びた亀型の巨岩がある。老ヶ石(または大岩)といわれ、近年木柵ができて、小祠が祀られていた。殺生石のようである。 初版は昭和36年発行であるが未見。
やまゆき会
 中村勲
『登山・ハイキング52 六甲・摩耶』 日地出版 昭和42年
(増補新版)
小冊子34~35頁 老ヶ石
(大岩)
花崗石の川原を飛石づたいに行けば船坂橋から約1.3粁ばかりで黒錆びた亀型の巨岩がある。老ヶ石(または大岩)といわれ、近年木柵ができて、小祠が祀られている。殺生石のようである。 初版で、小祠が祀られていた、とあったのが、この増補新版では、祀られているに修正されている。昭和44年版も同じ内容である。
石上隆章 『六甲の谷と尾根』 やまゆき会事務局 昭和60年 93 老ヶ石
大岩
船坂谷の右岸の道をゆけば老ヶ石は知らずに通り過ぎてしまうが注意して谷を見れば黒錆びた大岩を見る。この岩に触るれば其の身を害うと伝う一種の殺生石のようである。水害のため今は川床に半分埋まっている。
中村勲 『登山・ハイキング53 六甲・摩耶』 日地出版 昭和63年版
(通算第35版)
小冊子36~37頁 老ヶ石
(大岩)
花崗石の川原を飛石づたいに行けば船坂橋から約1.3粁ばかりで黒錆びた亀型の巨岩があり、老ヶ石(または大岩)といわれていたが水害のため今は川床に半分埋っている。 1994年版(通算38版)も同じ内容である。
根岸真理 『六甲山シーズンガイド 秋・冬』 神戸新聞総合出版センター 平成26年 81 老ヶ岩
(老ヶ石)
古代から自然信仰の対象であった岩。かつては「大岩竜王大神」と刻まれた碑から祀られ、近隣の村人たちの雨乞いの場であったとか。祟りをなすという伝説もあり、石切りを試みると血が噴き出したとか、石工が亡くなったなどの恐ろしい話も伝わる。触れると老化が早まるとも言われているそうなので私は触れたことがない。
<老ヶ石の伝説(赤松滋氏の公表したもの)>
著者 文献名(書名、雑誌名) 発行者 発行年 ページ 呼称 老ヶ石(大石)の解説の内容 注記
赤松滋 『山と高原シリーズ57 六甲山』 昭文社 (初版)
昭和44年
(第5版)
小冊子12頁 老ガ石 巨岩、老ガ石があり、黒づんだ亀の甲の形をした岩である。触れると生命を絶つと伝えられてきた。 初版は昭和38年というが未見。
赤松滋 『山と高原地図57 六甲・摩耶・有馬』 昭文社 (改訂版)
昭和53年
(第6刷)
小冊子38頁 老ヶ石 やがて老(おい)ヶ石の前にくる。触れた人は老(ふ)けるという由来のようだ。 旧版として最終発行の2001年版(第45刷)も同一内容である。改訂初版は昭和48年頃らしいが未確認。
赤松滋 『ワンデルングガイドⅡ 六甲山』 岳洋社 昭和59年 120 老ヶ石 ダムの手前、林道の右脇に老ヶ石(おいがいし)と呼ばれてきた岩がある。触れると老(ふ)けるとのいい伝えがある。この一○年で半分は砂に埋もれてしまった。 昭和63年の2版、平成元年の3版も同一内容であり、修正は見られない。
赤松滋 『ワンデルングガイドⅡ 六甲山』 岳洋社 昭和59年 186 老ヶ石 谷の中流部に老ヶ石あり、触れると老(ふ)けるとの伝説の岩も砂防工事の林道のために半分姿を隠している。 昭和63年の2版、平成元年の3版も同一内容であり、修正は見られない。
赤松滋 『山と高原地図48 六甲・摩耶』 昭文社 平成14年
(2002)
(全面改訂版)
小冊子21頁 老ヶ石 中流部の老ヶ石は「触れると老ける」といわれる。巨象の背に似て、さらに大きい。
山と渓谷社大阪支局(編集) 『登山・ハイキング案内 六甲山』 山と渓谷社 平成15年 48 老ガ石 林道の終端に老(おい)ガ石がある。触れると「老(ふ)ける」と語り継がれてきた。その大きさは川筋から確認できる。 該当のコースガイドの執筆者は赤松滋である。
赤松滋 『山と高原地図48 六甲・摩耶』 昭文社 平成24年
(2012)
(4版1刷)
小冊子21頁 老ヶ石 中流部の老ヶ石は「触れると老ける」といわれる(昭和50年代聴取した民間伝承による)。巨象の背に似る。


(注)「おおなむちのみこと」の表記には、引用文献に「大己貴命」「大已貴命」「大巳貴命」の3種類が見られる。
   「大己貴命」(Wikipedia「大国主」より)の表記が最も一般的だが、「大已貴命」「大巳貴命」の表記も厳密な区別なく用いられている。
   「己」「已」「巳」の混用は、現代における人名での使用にも見られ、俗には、区別なく使用されることが多い。


<老ヶ石(大石)の伝説を伝える文献資料(郷土資料)>


『有馬郡誌 上巻』(昭和4年)が最も古い文献である。
それ以前の文献(江戸時代の地誌など)には、この石は登場しない。







上の『有馬郡誌』に続く文献は、私の知る範囲では、平成27年9月4日に入手して内容を確認できた『近畿民俗』第一巻第三号
(昭和11年6月1日、近畿民俗学会発行)
に収録されている、鷲尾正久「船坂の大岩(おほいし)」である(9月5日、追記)。
この文献が、昭和11年当時の地元の伝説の原型を伝えるものとして重要であることがうかがえる。

 この大岩に注連縄をめぐらして、「大岩龍大神」の祠を祀り、周囲に赤い玉垣をめぐらしたのが、大阪神習教の教師、藤田徳治郎を先導とする
人々であることがわかる貴重な資料である。




次の文献は『山口村誌』(昭和48年)に掲載の伝説である。これが、「船坂の大岩」に続く、当時の地元の伝承の基本形を示している。

ここにない内容は、その後の伝承過程で、想像力を膨らませることによって、新たに追加されたものである。




西宮市郷土資料館編『西宮ふるさと民話』(平成2年)での内容は、『山口村誌』の物語とは若干異なるように編集された。






 



『西宮市山口町船坂の民俗』(日本民俗学実習調査報告書4)(神戸女子大学文学部史学科、2002年(平成14年)3月)には、平成13年度実施の船坂での民俗調査によって、次のようなレポートが当時4回生の仲間麻子氏によって船坂での聞き取りに基づいてまとめられ、従来にはなかった次の様な新たな報告が加えられていて、興味深い。触れると老け込むという伝説が見当たらないことに注目しておきたい。

・石に残る穴は石材師がつけたもの。
・石から流れ出るものは涙であるという説もある。 
(※)石切りの涙とするものもあるが、文脈から「石の涙」と解釈するのが妥当だろう。
・この大石は後ろの山から転げ落ちたもの。石の半身が山の上に残るという。
・数年前(平成10年ごろか)まで石の上に「大岩竜王大神」を刻んだ石が祀られていた。
・昔は鳥居があり、昭和初期頃まで外来者が注連縄を祀ることもあった。
・土地の人は、大石さんの伝説は知っているが、祀ることはしなかった。


そして、平成13~14年当時、船坂において、「老ケ石」には、「触れると老け込む」という伝承は残っていないことがわかる。



(平成14年3月発行の『西宮市山口町船坂の民俗』より。)

岩の上にのぞいている三角形は、「大岩竜王大神」と刻んだ石碑ではなく、背後の落石の写り込みと思われる

撮影は、調査の行われた平成13年度(平成13年7月~14年2月)だろう。





次は、「船坂新聞 第44号」(2012.05.12)に掲載されたもので、現地の「大岩(老ケ岩)」の案内板の記述のもとになったものである。

『西宮市山口町船坂の民俗』その他の資料を参照して、新たな伝説が書き加えられていることがわかるだろう。

とりわけ、「大岩に触れると早く老け込む」という伝説は、このレポート(2012年)が地元で初見である。

それまで一切見られなかったものであり、地元の古来の伝承ではない(2002年の上記報告書にも一切、見られない)。


船坂民話再掘(5)大石(老ケ石)の話          与志朗

船坂川の上流に大石(別に老ケ石)と呼ばれている大きな石があります。船坂橋から船坂谷道をおよそ2km程、渓流に沿って歩きますと、川上の滝の手前、堰堤の下の雑木の茂みの中にあります。御影石の一種で、亀裂も少なく横から見ると一軒の平屋のようで亀を伏せたようにも見えます。横が15m、高さ7mほどもある黒茶色で、黒錆を帯びた大石です。しかし、その石の3分の2以上はまだ地下に隠れていると言われています。
 この大石には神の祟りがあると言われ、触れる者はありません。
 昔、石を探し求めて歩く石材師がいました。この立派な石を見つけて喜んで切ろうとしました。村人が、「刃物をあててはいけません。先祖から伝わるおきてです。命が惜しかったらそっとしておくのがよい。」と固く止めましたが、石材師は忠告を無視して石にノミをあて金槌を振り下ろしました。すると、石の割れ目から真っ赤な血がドクドクと噴き出してきました。石切りは真っ青になって逃げ帰りました。その後、気が狂って死んでしまいました。
 又、ある人がこの石を割ろうとして、ノミを使いかけたところ急にふるえがきて悶死した。
 又、ある石切が大石にノミを当て金槌を振り下ろしたら何の手ごたえもなく、ノミはスポッと石の中に入ってしまい、金槌を振り下ろした勢いで、石切まで大石の中に飲み込まれてしまったなどと色々と伝えられています。そして、石から流れ出る水は、石切の涙であると伝えます。
 別説に、この大岩に触れると早く老け込むとも言われています。
 その他、石の上に大岩竜王大神と刻んだ石が祭られていたと言われています。水飢饉の際、村人は、この石の前で雨乞いをしたのかもしれません。
 雨乞いの話としては、昔、村人は“石の宝殿”へ雨乞いに行っていました。石の宝殿で祈祷し、火種を貰って村へ帰る。途中一言も発せず山王神社まで帰り、境内で火を燃やして盛大な水乞いのお祭をしたといいます。
 別に、数年前、信仰心の厚い外来者が、大岩信仰と称して注連縄をして祭礼を行っていたと伝えられますが、詳細はわかりません。今は、大石の前に小さなほこらが残っているだけです。自然崇拝の所以でしょうか。信仰説としては、この大岩に大巳貴命・少名彦命・猿田彦命の三神を招いて建立されたのが船坂山王神社であると伝えます。

(※)「石切の涙」とあるが、内容から考えて、「石の涙」であるべきだろう。

 (※) 「注連縄の祭礼」は、出典と思われる
『西宮市山口町船坂の民俗』には「昭和初期」の事として伝えているので、時期の間違いでは?

 (※)昭和11年からあまり遡らない年代に、この大岩に注連縄をめぐらして、頂きに「大岩龍大神」の祠を祀り、岩の周囲に赤い玉垣をめぐらして寄進したのが、大阪神習教の教師、藤田徳治郎を先導とする人々(村人の寄進者4人には、区長、小学校の校長・元校長等を含むという)であることが、
『近畿民俗』第一巻第三号(昭和11年6月1日、近畿民俗学会発行)に収録されている、鷲尾正久「船坂の大岩(おほいし)」の記事から判明した(平成27年9月5日、追記)。神習教の関係者がなぜ、この大岩を祀るに至ったのかは定かではないが、興味深い事実である。




老ヶ石に触れると「老ける」という伝説はいつ生まれたのだろうか?

 地元に伝わる伝説は、『有馬郡誌 上巻』(昭和4年)にあるように、大石に祀っていた三神を氏神社に移して山王神社と称することになってから後には、神の祟りがあるということで、この大石に手を触れる者はいなくなった、というものである。

 木藤精一郎氏の『六甲北摂ハイカーの径』(昭和12年)にも、現地の立札に「聖武帝の頃此処に大巳貴命、少名彦命、猿田彦命を奉祀す、後山王神社に奉遷す、以来此石に身を触るれば必ず其身を害(そこな)ふと伝ふ」と記してある。那須野の殺生石のやうでもある」と紹介しており、地元で、広く、この石に触ると、その身を損なう(命を落とす)として近寄らないようにしていたことがわかる。

※殺生石(せっしょうせき):栃木県那須温泉にあり、玉藻前・金毛九尾の狐の伝説として有名な石。有毒ガスが鳥や小動物を殺すという。

 中村勲氏の『登山・ハイキング52 六甲・摩耶』(日地出版、昭和42年)には「老ヶ石(または大岩)といわれ、近年木柵ができて、小祠が祀られている。殺生石のようである」とあり、当時、
大石の上に「大岩竜王大神」という石を祀っていたことがわかる。

 「大岩竜王大神」と祀っていたことから、竜神信仰により、雨乞いが行われていたことが推定できる。ただし、地元の者は祟りがあるとして近寄らないことから考えると、この大岩の前で雨乞いを行ったのは村の者ではない可能性が生じる。

 地元の伝説は、『山口村誌』(昭和48年)に見えるように、この大石に刃物をふれてはいけないという掟があるのにもかかわらず、大昔にノミを当てた石切りは大石にのみこまれて命を落とし、その話を迷信としてノミを当てた石切りもまた石の穴から噴き出した血を見て逃げ出し、後に狂い死にしたという話になっている。

 つまり、地元に残る伝承は、「この大石に刃物を触れると祟りがあり、命を落とす」ということである

 『西宮のむかし話』(関西学院大学出版会、2011年)の「血を流した老ヶ石」の解題(19~20ページ)にあるように「民衆がこの岩を神格化し、冒してはならない存在だと考えていることが分かる。この地域の平穏をつかさどり、災いを鎮めるシンボルとして、民衆が守り継いできた岩なのだろう」と述べていることが、その岩の伝承の持つ意味(刃物で触れると命を落とすから触れるな、の本当の意味)を正確に伝えている。

 ということは、
「老ヶ石に触れると老ける」という伝承は、おそらく、「老い」という言葉から連想して生まれた伝承なのだ。

 この「老ける説」のルーツを辿ると、
赤松滋『山と高原地図57 六甲・摩耶・有馬』(昭文社、昭和53年発行、第6刷)(初版年不明)の小冊子「触れた人は老(ふ)けるという由来のようだ」と書かれた(下記)のが、すべての始まりのようである。それ以前のありとあらゆる文献・伝承には、一切、そのような内容は出てこないからである。




 実際、そのシリーズの前身にあたる、
赤松滋『山と高原シリーズ57 六甲山』(昭文社、昭和44年発行、第5版)(初版年不明)の小冊子には「触れると生命を絶つと伝えられてきた」とあり、木藤精一郎氏(「六甲北摂ハイカーの径」昭和12年)や中村勲氏(「六甲とその周辺」昭和35年)が地元の立札の内容として紹介した「此石に身を触るれば必ず其身を害(そこな)ふと伝ふ」を踏まえた記述になっていたことがわかる(下記)。





 それにもかかわらず、内容を
「触れた人は老(ふ)けるという由来のようだ」に変更した理由は、赤松滋・浅野晴良『六甲・摩耶 2012年版』(昭文社)の小冊子に「中流部の老ヶ石は「触れると老ける」といわれる(昭和50年代聴取した民間伝承による)」とあることから明らかになる。

 つまり、昭和40年代まで全く知られていなかった伝承である
「触れると老ける」が、昭和50年代の民間伝承の聞き取りによって判明し、以後、昭文社の登山用地図の普及によって、連綿と伝承されて、2001~2年の大学の民俗調査でも採録できなかった伝承が、2012年の船坂新聞第44号によって、ようやく、地元でも「別説として」採り上げられるようになったというわけである。
 また、第41回武庫川エコハイク「六甲山船坂谷を遡る」(2010.8.14)という、エコグループ・武庫川の記事にも「土地の人は大石と呼び、手を触れると老いるという伝説」とあり、赤松氏の採用した民間伝承を信用して紹介したものだろうと思われる。

 赤松氏が、昭和50年代に、誰から「触れると老ける」説を聞いたのか不明である(民間伝承といっても広汎である)。

 「老ヶ石」と呼ばれる事例は、この船坂以外には、筆者の知る限りでは見当たらない。従って、類例比較ができないのである。

 「老いが〇」「老いの〇」という用語で「老い」の意味を「日本国語大辞典 第二版」第二巻(2001年)で調べてみると、「老いが(の)」は「老年になってしまった」「年をとった」「老人の」「人間に年を取らせようとして来ると伝えられている」「人に老いをもたらすといわれる」「年老いて衰えた」「老人が付ける」「老いた年の」「老後の」といった意味である。

 従って、「老ヶ石」は、「年をとった石」あるいは「人に老いをもたらす石」という意味としてとらえられる。

 
現地の岩は、表面にしわがより、「年とった石」のように見える。それが、俗称「老ヶ石」の由来の可能性はないのだろうか。

 しわ説の裏付けはとれない。従って、「人に老いをもたらす石」という解釈も無理ではないだろう。

 
一方、現地に明確に残る伝承は、「触れると老ける」のではなく、「刃物で触れると命を落とす」なのである。

 もう、現在となっては、疑問の多い「触れると老ける」説も広まっている。(「触れると命が短くなる」との意味で受け取る人もあるのだろう。)

 
「触れると老ける」ならば、まあ、玉手箱を開けてしまった浦島太郎みたいで、縁起担ぎのユーモアとも言えるだろうか。

 地元の伝承の有無はともかくとして、あまり、深く追求しないで、曖昧にぼやかしておくほうが無難なのかもしれない。


(まとめ)

 実際、道のど真ん中に巨岩が居座っていて、それを取り除こうとすると、工事関係者に事故が起きたというようなケースもあり、そのために、取り除かれることなく、車道の中央に現在でも残されたままの巨岩があったりする(『巨石めぐり』東方出版、2011年、98ページ、西宮市、鷲林寺の夫婦岩)。

 迷信と言われても、この世の中には、合理性だけでは片付かないようなこともあるのだということは、肝に銘じておこうと思う。

 霊石「老ヶ石」を計測したことでは何も起こらないとは思う。

 神霊の宿る「老ヶ石」をいつまでも大切にしておきたいという気持ちを込めて、この文章を終えたい。