奇門遁甲は、一般的に開運のための方位術とか風水に対して「動の方位術」とも言われています。簡単に言ってしまえば移転や旅行に使用して吉運を得ようとする術であると言えます。私自身、他人に奇門遁甲の説明をしたことがないのでどう言っていいのかはわかりませんが、判りやすく言えば先述したとおりでしょう。語弊を招くといけないので付け加えますが、無尽蔵に開運できるわけではありません。個々人によりけりだと思います。個人の命式の範囲での開運しかできないと思います。また、方位以外にも広く雑占として用いられており大陸ではそちらの方が賑やかです。以下いくつか項目に分けて解説していきたいと思います。
       
   

奇門遁甲の歴史

 

奇門遁甲の歴史は古くは黄帝が起源とされております。

大方、どの書物にもそう書いてありますし、奇門遁甲の基本原書とされる『煙波釣叟歌』にもそう書かれてあります。

しかし、確固たる保証はないと思います。黄帝時代の書物でも残っていれば話は別でしょうが、

現在現存する中で最古の書物といわれいるのが『煙波釣叟歌』とされております。

私の手元にはそれ以前の唐の時代に書かれたとされる『太白陰経』の中にある『第九章 遁甲』という資料もありますが、

愚鈍な私にはこれが実際唐の時代に書かれたものか知る術はありません。

が、これが事実なら煙波釣叟歌が書かれる際も編者である趙晋も参照したに違いありません。

話を戻しまして、ほとんどの書物に黄帝の時代を発祥と書かれてあるのでそういう認識でいいんだと思います。

そして、奇門遁甲の使用者として太公望や張良、諸葛孔明の名がありますがこれらについても書籍が残っていないため

使用しただろう、あるいは使用しないはずがないという程度ではないかと思います。

私としてはそうであって欲しいと思ってます。笑

確固たる人物で名前が残っているのが劉伯温という人物です。

明の宰相をつとめ明国建国の功労者であるとされています。

この方の書籍は現存しているので明の時代に奇門遁甲というものが存在したことは確かです。宋から明、清にかけて

奇門遁甲の書籍が多くかかれていることからむしろ奇門遁甲はこの頃に隆昌したのかもしれません。

そして、現代にいたります。古い時代から流派というか異説が多くあったので現代でも多くの流派が存在しています。

 

 
       
   

奇門遁甲の種類


奇門遁甲には大きく分けて二種類あります。一つは活盤法と呼ばれる方法、もう一つは飛盤法とよばれる方法です。

それぞれにおいて流派が存在しています。

活盤法は別に排宮法や転盤法ともいいます。私は排宮法という呼び方の方が好きですけど・・・。

この排宮法は天干、九星、八門、八神といった要素を時計回りにグルグル回す方法で、

奇門遁甲の作盤様式としては最もオーソドックスな方法であり、多くの遁甲家の支持を得ている方法です。

一方、飛盤法は別名、飛宮法とも呼ばれ飛泊という言葉は聞いたことあると思いますが、

九宮の飛泊通りに天干、九星、九門、九神を動かしていくやり方です。

この飛宮法というやり方こそ正統な奇門遁甲と主張する流派やこれこそ秘伝とされる流派がありますが、

手持ちにある資料ではこの飛宮法に関する資料は清の時代に多くみられます。

それゆえ後世の人間が作った可能性も残されております。

とにかくこれらも比較検討して研究進めねばと思っています。

このように大きく分けても二つあり、さらにそれぞれの様式に幾通りもの作盤方法、ならびに暦の作成方法などがあり、

すべてをあわせてやろうとすると大変骨を折る学問です。汗 

 

       
   

奇門と遁甲は別術


奇門遁甲をしていると奇門と遁甲というのは厳密にいうと別物だというとしっくりこないかもしれません。

私も当初しっくりきませんでした。もともとは奇門遁甲は奇門と遁甲という術にわかれています。

では、奇門って何?遁甲って何?ということになりますが、私も今のところはっきりと分かったわけではありません。

しかし、遁甲とよばれる古書を見る限り、弧虚法や亭亭白奸といった戦争などに使用されたとされるやり方を

遁甲と呼んでいいのではないかと思います。

奇門は字のごとく三奇と三吉門の略称で天干を配置する法があみだされてから確立され、

奇門遁甲にいたったのではないかと推測しています。(勉強不足で間違っているかもしれませんが・・・) 

これらは手元にある資料では古くは隋書に遁甲の名が見られています。この頃には遁甲という文字しかありません。

黄帝遁甲とか三元遁甲といった表現が目立ちます。唐書にも遁甲という表現です。

宋書から初めて奇門という名が登場します。それは現存はしていないようですが『奇門万一訣』という書です。

宋の時代といえば煙波釣叟歌の作成時期ですし、同時期に『遁甲符應経三巻』という書もあります。

これらの書には奇門の解説もあるので宋代には奇門遁甲という形が形成されていたといえます。

この宋の時代に初めて奇門と遁甲という言葉が出てきています。

さらには、明の時代には名称も奇門遁甲という表示になり、このころ八門遁甲という表現方法も初めて出てきています。

このころの代表的な原書としては、『奇門遁甲秘窮大全』や『奇門五総亀』といった書があります。

清の時代には『奇門一得』や『奇門金章』といった原書もみられます。

 

       
   

日本の奇門遁甲

日本にも推古天皇の時代に遁甲が伝わったという記録があります。

百済(いまの朝鮮)の僧観勒(かんろく)が伝えたとされています。それ以後はほんの一握りの術者が伝え、

それ以後途絶えたとされています。私の持っている資料に江戸時代の兵法家の書がありますが、

これは八門遁甲(少し特殊な金函玉鏡)についてであって兵法として利用していたようです。

このころは原書である「奇門遁甲全書」と変わりないものを使用していた形跡があります。

ですから、江戸時代には奇門遁甲全書を始めとする輸入書を研究していたのではないかと思います。

江戸時代の代表的な遁甲書としては「方鑒秘訣集成」や「奇門活盤」などがあります。

明治や大正に入ると様々な奇門遁甲に関する書があります。

代表的なのは「八門遁甲陰陽発秘」「八門遁甲秘伝」「方鑒発秘図解」などがあります。

昭和初期には江戸期よりの流れは止まり、昭和中期に張耀文先生率いる透派が台頭します。

今の日本で代表的な流派が透派、武田系、内藤系、非流派、真伝継承系などではないでしょうか。

しかし、日本の場合黒門先生達の非流派(原書研究派)グループを除けば

透派の影響を色濃く受けたものばかりが現状のようで透派特有の理論や言葉を多くが利用しているようです。

そこら辺は黒門先生著「活盤奇門遁甲精義」に詳しく載っていると思います。

内藤系は通常の三奇や八門によらない方法で俗に挨星法と呼ばれています。作盤法が遁甲盤と連結している

ことから遁甲という名を用いているようですが風水の挨星法に近いものです。

このように日本では透派やその亜流が大勢をしめている状況で近年黒門先生や林先生などが台湾や大陸などの

標準的な奇門遁甲、金函玉鏡を紹介され始め奇門遁甲界も新たなステージに入ろうとしています。

 

       
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