□2003/11/29(Sat) Music
Blankey Jet City 『Metal Moon』
僕の心の片隅には常にブランキーがいて、それははっきり言って誰にも侵せはしない聖域のようなものだ。
その後から僕の心の中にはいろいろなものが棲みついたけれど、構成比においてブランキーの占める割合を超すことはついに無かった。
最初にちゃんと聴いたのがこのアルバムだった。
それまでは単に「変な声のボーカルがいるバンド」だと思っていた。 ペリー・ファレルの声に慣れていたにも関わらず。最初のフレーズは「神様 あなたは純粋な心を持っていますか」だった。これで全てが決まったと言ってもいい。
この問いに即答できる奴が、今の世界の何処にいるってんだ。
いるとしたらそいつはどんなに鈍感で単純で残酷な人間である事か。
僕が初めて聴いた当時も、いや人間の歴史が始まった瞬間から、この問いの答えなんぞ有りはしない。
こんなフレーズを書きやがった浅井健一という人はこの世界の汚いところ、残酷さから決して目を背けようとしなかった人だ。
それでいて、誰よりも世界や人間の美しさを信じたかった人だ。
全ての人間は根源的に悪いひとなんだけど、それでも生まれてくる赤ちゃんは「きっと可愛い女の子さ」と歌った人だ。
夕焼けを見て世界の終わりを思い、
気が狂った友人と一緒にいるのが辛くて恥ずかしいと思ってしまう自分を冷たい人間だと責め、
(どこからか無理矢理連れて来られて)ペットショップにいる猿を見て悲しくなり、
ロンドン動物園にいる、逃げられないように翼を切られた白頭ワシを見て「皆殺しのトランペット」を吹きたくなり、
自分も含めて人間は悪い心を持っている数少ない動物だと告発し、
それでも、「神様はみんなの中にいて 嬉しさをくれる」だとか、
「気づかなくちゃ かけがえの無い日々に」なんて歌ってしまう人だ。ここまでアンビバレントに引き裂かれた人を、僕は他に知らない。
そして、そんな引き裂かれた感情をここまで鋭く、美しい音楽に変えてしまう人も他にはいない。
だからこそ、たまに歌われる恋の記憶や仲間とやんちゃをした記憶、楽しげに過ごす日々、自由な旅への憧れなどなど、
何気ないその全てがとても美しく壊れやすい、とても大切なものに思えてくるのだ。
彼の両隣には照井利幸と中村達也というそれぞれに唯一無二のロケンロール・フリークスがいて、
その3人の個性がぶつかり合って生まれる奇跡のような音楽は、本当に最高だったんだ。
たまに文法おかしい歌詞があったりして、僕はそういうところに突っ込みがちな人なんだけど、
この音楽はそんなものを完全に超えていた。
一度過ぎ去ったら二度と戻りはしない一瞬一瞬の美しさというものを、ここまで完全に閉じ込めたバンドはなかった。2000年にバンドは解散した。正直、「よく10年持ったよな」と思った。
これだけ研ぎ澄まされた音楽をやってたら、それは消耗も激しかったことだろう。その後、浅井健一は少しずつ迷走を始めた。名曲も多く作っているけれど、微妙な曲も少し増えた。
今でもこの人は引き裂かれていて、だけど周りから自分と同じくらいアクの強い人がいなくなって、
正直自分のインナーワールドの落としどころがわからないんだろう。
照井利幸はたまにバンドをやったり、だいたいは服を作ったりしていてなんだか楽隠居のようになっている。
そろそろロケンロールの世界に完全復帰しそうな雰囲気だが、まだわからない。
中村達也はいつのまにか塚本晋也の映画や濱マイクに出たりしながらも、自分の音楽世界を追究している。
この人は昔からジャズとパンクの化身だったし、いまでもそれは変わらない。頼もしい。
3人とも、あの奇跡に匹敵するものはいまだに生み出し得ていない。
いつまでも昔を引きずるのはオールド・ファンの悪癖だけれど、それは正直な感想だ。
人間も自然もどんなに美しい記憶も感情も、この世界に存在する全てのものはいつか消えるように予め定められている。
けれど、現れては消えていくものたちがその一瞬に放つ刹那の美しさだけは、永遠に失われる事はない。
この3人のセンスのないバイク乗りが教えてくれたのは、そんなことだ。
だから、僕もバイクに乗るようになった。
美しい瞬間を少しでも多く見たいんだ。
---------------------------------------------------------------------------------------The Yellow Monkey 『SICKS』
中1か2の時に描いた読書感想文は安吾の『堕落論』で、当時からやっぱり嫌なガキだったんだろうけど、
ぐちゃぐちゃの暗闇の中で遠くのおぼろげな光に向かって手を伸ばすような、まあありがちと言えばありがちな絵を描いた。
描きながら聴いていたのはクラプトンの『461オーシャン・ブルーバード』という、
ドラッグに狂って一時引退して復帰した直後に作った、これまたその絵のような内容のアルバムだった。
絵は先生には誉められたけれど、どうでもいいから早く帰りたかったような気がする。外には、胡散臭いくらいに明るい夏の光。
たった今熱に浮かされながらこの大切なアルバムを聴いてたら、そんなことを思い出した。
□2003/11/28(Fri) Music
lenine 『falange canibal』
僕はクラシックから最近のポップスまで各種の音楽マニアであって、まあ要は非常に気持ち悪い人なんだけど
ブラジル音楽も非常に大好きなんだ。
橋本徹という、音楽的なカンは素晴らしいんだけど僕の大嫌いな商売の仕方をする人がいて
その人のせいというか、まあその人のおかげでブラジルと言うとボッサだのラウンジだのといった
お洒落なカフェミュージック、クラブミュージックみたいなイメージが定着してしまっているんだけど、
やっぱりそれはブラジルの一面でしかない。
そういう一面的な捉え方をされると、ブラジル音楽のダイナミズムが死んでしまうと思う。
橋本氏もそれは充分承知の上でああいう商売をしてるんだろうけど。商売だし。ブラジル音楽の歴史と言うのは、それこそリズムとグルーヴの年代史だ。
最初に黒人が上陸した(というかさせられた)サルヴァドールという所ではアフロのビートが奏でられ、
意味わかんないくらいの音のカオスが生まれた。
そのうちにそれがサンバとなり、歌の部分がサンバ・カンサォンという、
まあ一種の歌謡曲みたいなものに洗練されていったところで、
カリオカの街・リオデジャネイロではそういう古典サンバへのカウンターとして、
シンコペーションを取り入れたボサノヴァ(新しい波)という奏法が生まれた。その後もフラワームーヴメントとサンディニスタに影響を受けたアヴァンギャルドな連中が出てきたり、
それこそラウンジーな、フロアで流されるような曲が出てきたりと、
ブラジル音楽の歴史は、絶えず生み出される新しいリズムとグルーヴによって常にイノベーションがなされてきたと言っていい。
あらゆる人種も文化も宗教も、全てが渾然一体のカオスであるブラジルの歴史の中で、音楽もそうやって進化してきた。その最先端を行くのがここ10年ばかり活躍してきたアーティストたちで、
その中でも最高級の変態であるレニーニのこのアルバムは、まさにそんなブラジル音楽の極北に位置する。
あらゆるリズム・音楽性を飲み込んだ音に、スピリチュアルかつ現実への告発に満ちた詞。
タイトルの意味は「食人種族」なんだけど、まさにあらゆるものを喰ってしまうブラジルという「場」の音としてこのアルバムは鳴っている。
この飽くなき探究心こそがブラジル音楽の醍醐味なんだよな。
もともとはボサノヴァもその発露だった。リラックスなんか求めてたんじゃない。とはいえ、このアルバムはアヴァンギャルドなだけじゃなく非常にポップだ。
その辺はラテン人の茶目っ気なのか。ちなみにこのアルバムには、一定以上の歳の人には懐かしいであろうリヴィングカラーも参加している。
まだやってたんだな。
□2003/11/27(Thu) Music
LOVE PSYCEDELICO 「My Last Fight」
ラブサイケデリコという名前を最初に聞いたときはラブサイという人とケデリコという人のコンビなのかと思ったが、
そのうちラブ・サイケデリック・オーケストラを略した名前なんだということがわかって
「オーケストラ」の扱いが悪すぎだろうと思ったのは僕だけかもしれない。
しかしこんなマニアックなバンド、よく売れたな。この曲はもうタイトルと、「その目でしかと見届けてMy Last Fight」という最初のワン・フレーズで勝ちだ。
で、しゃにむに頑張ってみても無理は無理で、ちょっと立ち止まって軽くうなだれるようなサビ後半のフレーズがとどめだ。
もう、ごめんなさいと言うしかないんだな。
音の作りはマニアックなんだけど、その中にはちゃんと顔が見えるんだ。
だからみんなに響いたんだろな。
□2003/11/26(Wed) Music
Jane's Addiction 『Ritual de lo habitual』
まだウブな中学生だった僕をディストーションギター好きにした犯人。
マイルス・デイヴィスという人は正真正銘の音楽バカで、きっとあの人の頭の中には一つの「完璧な音楽」があったんだろう。
それをこの世のものに翻訳しようと四苦八苦しながらビバップ、モード、クール、エレクトリック、ファンクを経て最後はヒップホップにまで
辿り着いてもなお、自分の頭の中で鳴っていた「音楽」の正体はわからないままだったんだと思う。
個人的にフェイヴァリットな『Bitches Brew』を聴くと特にそう思う。
全てを飲み込み吐き出しすり潰しながらもテーブルの足に小指をぶつけて悶え苦しむようなあの超人的グルーヴは、
人生の全てを音楽に捧げたようなバカにしか出せやしない。そんな愛すべきバカの系譜にモーツァルトやラヴェル、ビートルズやツェッペリン、クイーンやマイブラッディヴァレンタインという変態たちがいて
その中でもひときわ訳わからんのがこのジェーンズアディクションだ。
天使のように無邪気な笑顔とビースティーズみたいなキンキン声を持つ前衛アーティストであるペリー・ファレルと、
死神みたいな面して極彩色グルーヴを叩き出すナルシストであるデイヴ・ナヴァロが
(個人的にリアルタイムのギター・ヒーローといえばこいつだったりする。ジョン・フルシアンテではなく)いて、
とりあえずみんなで「かつて無かったようなサウンドを作ろう」とばかりにガチャガチャ楽器をいじって、
完成したのがこのトリッピン・アルバムだ。
果てしなく体を持ってかれるということ以外はさっぱり訳わからんグルーヴと変調の嵐が繰り出される。
こぎれいにまとまった曲を作ろうなんて発想は、たぶんこいつらの頭の中に無かったんだろう。
音のカオスの中でキンキン声が歌う。「Ain't no wrong now, ain't no right.」
この変態たちが、意識してかしないでか表現していたのはカオスである「世界」であり「アメリカ」だ。
それが「オルタナ革命」の火付け役となった。
アメリカ西海岸という土地は降り注ぐ光と同時に多くの影も作り出す土地で、
そんな暗黒の中からやって来た根暗なバンドたちは「オルタナティヴ」「グランジ」などなどと呼ばれシーンをガシガシ揺さぶった。
けれどその全員が例外なくそういう光と影に立ち向かう事に疲れ、ボロボロになっていった。アメリカに負けた、と言ってもいい。
カート・コバーンは自ら死を選び、ビリー・コーガンは根暗なのにネアカになろうとして自爆し、ザックとモレロは分裂し、
レッチリはボロボロになった後で全てを総括する大傑作を出してすっかり大人になり、アクセル・ローズは太った。
そんな中、自分でオルタナに火をつけておきながらこのアルバムを最後にさっさと解散('91)していたジェーンズは、
何事もなかったような顔で昨年復活した。
今年12年ぶりに出したアルバム『Strays』を聴いて、呆れると同時に安心した。
こいつらはバカのままだった。
未だに新しいサウンドとグルーヴを作ろうとガチャガチャやって、収拾つかなくなってカオスを作り出しては笑ってる。
10年という時間の間にオルタナは「Strays(迷子)」になってしまい、
今となっちゃそんなに斬新な音でもないんだけど、本人たちはお構いなしだ。
始めからそんなことを狙っちゃいないだろう。バカなんだから。
だから、ノリとしてはあれだよ。
一晩中ドラクエばっかやってたり、姫路城とか戦艦大和とか百式なんかのプラモを部屋にこもって作ってる感じ。
男の子のバカな所全開。
このバカなグルーヴが大好きなんだ。ちなみにデイヴのソロアルバムを聴くと、ひたすらゴチックでちょっと気が滅入る。
それはペリーのソロにも言えることで、こちらはジェーンズのスティーヴン、レッチリのフリーやジョンにも助けられていい出来なんだけど
やっぱりあの「飛距離」は出ていないように思える。お互いを使いこなせるのはお互いしかいなかったんだな。
レッチリとジョンの関係を見てもわかるように、バンドってそういうもんなんだろう。
□2003/11/25(Tue) Movie
Bob Giraldi 『dinner rush』
僕はありがたいことに「お洒落だ」と言われる事が割とあるんだけど、実はそんなに嬉しくない。
外見だけしか見られてない気もするし、なんだか「中身は空っぽ」といわれてるような気もするからだ。
こんなひねくれ者なので、巷で流行ってるオサレ音楽やオサレ映画と言う奴が大嫌いだ。
それらの多くは表層の雰囲気だけを作りこんで、その中には何もない。
そういうのを好む輩に限って、素晴らしい作品でもオサレじゃなければ見向きもしなかったりする。そういう人には殺意すら覚える。
中にはオサレかつ素晴らしい物もあるので、チェックは欠かさないが。
で、オサレかつ素晴らしい映画。それがこれ。
ついに逮捕されてしまったマイコーさんの名曲「Beat It」やウィル・スミスの「Just The Two Of Us」のPV、
他にも様々なCMやミュージカルの監督を務めてきたボブ・ジラルディの久々の監督映画。
そんな人だけあって、映像と音楽のリンクの仕方がとてもうまい。 しかも全ての素材が小粋だ。
映像と同じように、ストーリーのほうもウィットに富んだ展開を見せる。
舞台はNYの人気レストラン。
ウディ・アレンの名作「カイロの紫のバラ」にも出ていたダニー・アイエロがとてもいい。
人生の酸いも甘いも噛み分けたおっさんがその引退前に自らの人生の負の部分を清算し、
同時に、移民から叩き上げで頑張ってきた証であり人生そのものであるとも言えるレストランを守ろうとする姿。
そして、彼を取り巻く人々の様々な人生模様が同時進行で描かれていく。
昨日の日記に書いたピアソラやもう1人僕の大好きなトム・ウェイツと同じ性質の温かさ、
いろんな人生を抱えた弱くて優しい人々への愛情が、この映画にもある。
それでいて浪花節臭くなっておらず、あくまで小粋なんだ。
作り手の体温を感じる。こんなオサレ映画なら、僕も大歓迎です。 デートにもおすすめ。
もう劇場公開はしてないんで、2人でDVD鑑賞でもした後にとびきりおいしい御飯を食べに行ってください。
季節的には冬の映画だし、これからちょうどいいじゃないか。お前ら、クリスマスなんかにどうだい2人で。俺はきっと明石家サンタを見てるけどな。
□2003/11/24(Mon) Music
Astor Piazzolla 『The Rough Dancer And The Cyclical Night』
僕はタンゴ界の巨人でありパンクな異端児でもあるこのピアソラというおっさんが本当に大好きだ。
ジャズ的な展開を導入したりしてタンゴの既成概念をぶち壊した若い頃の演奏もいいけれど、
晩年の「孤高の巨人」と言った趣の作品もまた素晴らしい。
そして、いつの時代の作品にも一貫しているのは、些細な事で一喜一憂しながら生きる人間という存在への愛情だ。人生においてもっとも大切なアルバムを3枚選べと言われたら、そのうちの1枚に必ずこれを挙げると思う。
ピアソラの人生の最晩年に作られたこの作品は、それくらい素晴らしいのだ。
どうでもいいけれど初代は引越しのどさくさにどこかに行ってしまって、今持っているUS盤は二代目である。
10枚くらい選んでいいといわれたらもう一枚、オラシオ・フェレールの朗読と一緒に録音されたアルバムを選ぶかもしれない。夜の街には、人間の様々な感情が溢れている。
酔っ払いもしらふの人もボケーとした顔して立ってるポン引きも皆その背中にそれぞれの人生を背負っていて、
泣いたり笑ったり、ときには喧嘩したりあなたが好きなんだと言ってみたりやっぱ言えねえよとうなだれたりどうしてあの時と後悔したりする。
昼間は強い光に照らされてどこかに隠れているそんな感情が、夜の訪れと共に頭をもたげてくる。
夜はその人の本当の姿を炙り出す。 人は街で、飲み屋で、独りの部屋で、いろんな事を考える。
考えたりそれを振り払おうと空騒ぎしてるうちに朝が来て、昼間なんやかやと忙しくしているうちにまた巡ってくる夜に還っていく。
昨日までに過ぎ去った幾千の夜には幾千の人々が生きていて、それは大昔から続いてきた営みなんだけど、
人間という奴は進歩しないもので、いつの世も似たような悲喜こもごもを繰り返し、似たようなことで悩んでいる。
まるで、ちっとも上達せずに何度も同じ個所の振り付けを間違えている下手なダンサーのようだ。このアルバムは、巡る夜と、下手くそなダンサーたちへの賛歌だと思う。
しょぼくれた人生を生きる僕や、あなたや、全ての人たちの息遣いが聞こえる。
□2003/11/23(Sun) Music
Mr.Children 「掌」
ジョン・レノンがもしも本当にただの「ばかな平和主義者」だったら、真心ブラザーズはあんな歌を作りはしなかったろう。
よく知らない人には「愛と平和の人」くらいなイメージしかないんだろうけど、
そのソロキャリアの最初に魂レベルの完全なる孤独を歌った「Isolation」や、
魔法も宗教も音楽もビートルズさえも信じない、信じるのは自分とヨーコだけだと歌った後に
「親愛なる友よ頑張ろう、夢は終わってしまったのだから」なんてのたまう最大の名曲「God」を彼は作ってしまった。
嫁と喧嘩して別居している最中には「帰ってきてくれよ〜」と情けなく歌い、
契約だからと無理矢理作らされた名曲カバー集と一緒に寄せ集めで「Rock'n Roll」なんてアルバムを出したりもしている。
情けなさも人間不信も全てをさらけ出したからこそ、彼はこんなに愛されるんだろう。全ての人間は多面性を持っている。
僕なんかだと時々人に優しかったりする一方で、渋谷を歩くとこのアホ面どもをマシンガンで根こそぎにしてやりたい、なんて思いもする。
それを自覚しない事には何も始まらない。
自分の中の悪い面を見ないふりして「いい子のアタシを見て〜」なんて言ってる女はごめんだ。男もごめんだ。
ましてや、そんな奴の薄っぺらな歌なんて誰も聴きたくないしな。ミスターチルドレンは本当にいいバンドになった。
歌詞や音の鋭さや張り詰めた美しさではブランキージェットシティの足元にも及ばないけれど、
音だけで全てを語り、全てを見せる力ではミッシェルガンエレファントに比べたら子供レベルだけど、
しょぼくれた日常を音楽に昇華する強引な突破力ではエレファントカシマシがアンパンならミスチルはケシ粒みたいなもんだけど、
自分のやましさや汚らわしさと正面から向き合う事のできる、いいバンドになった。
甘ったるいラブソングばかり歌っていた頃は、正直言って嫌いだった。
『Atomic Heart』あたりでおやこれはと思ったけれど、まだまだ微妙だった。
愛も人間も信じちゃいないし、はっきりいってろくでもないもんだ。でもやっぱり信じたいんだよ。
こう歌った『深海』で好きになった。
それから長い事ぐるぐるぐるぐる、やっと答えを見つけただのやっぱり違っただの勘違いと思い直しを繰り返しながら、ここまで来た。
すごく人間臭い道程だった。
そして、すごいんだけど全くすごく見えない曲を作る、すごいバンドになった。
この世界は人種も民族も文化も宗教も時代性すら溶け合うことなく、ひとつの組み木細工のようにして存在している。
ある社会では美徳とされる事が、別の社会では最悪の愚行だったりする。
こっちは援助をしてるつもりでも、向こうにとっちゃはた迷惑だったりまったく感謝されなかったりする。
コタツでのんびりミカンが食える幸せと、憎しみの大地で流され続ける血が同時に共存している。
残酷なようだけど、現在殺しあっている人々が心の底から分かり合えることなんて、たぶん永遠にない。
世界を1人の人間にたとえても同じ事だ。
陳腐な言い方だけど1人の人間の中には天使と悪魔が共存していて、どちらかが消えてなくなる事は絶対にない。
条件さえ揃えば僕も包丁を振り回して子供らを刺しまくっていたかもしれないし、
同じように条件さえ揃えば、それを実際にやっちゃった例の彼が恵まれない人々のために一生を捧げていたかもしれない。
こういうのを禅では「乾坤只一人」という。1人の人間に起こることは、条件さえ揃えば誰にでも起こりうるのだ。
それは全ての人間には良心も悪心も生まれつき備わっているからで、完全なる善人や完全なる悪人などこにもいやしない。
我々はただ、悪を抑えて善を為すように教育されているだけの事だ。
(先人たちはそれがわかっていたからこそ、あえて法という不完全で杓子定規な基準を作ったんだろう。
人を人が裁くのではなく罪を法が裁くのだという事にしておかないと、自らが独善的になってしまう。健全な知性ならそれに耐えられないはずだ。)
我々は皆グレーゾーンに生きている。この世に割り切れるものなんて何一つないのだ。「ひとつにならなくていいよ」というのは、つまりそういうことだ。
全ての多様なあり方を認めてしまえ。「価値観も理念も宗教も」、善悪が共存する人間と言うわけわからん存在も。
それを認めると言う事は、一旦はその全てをとりあえず疑ってみるということでもある。
わけわからん存在である人間が流す情報も、そしてそのわけわからん存在である自分も、全てを疑わないといけない。
ただ全てを疑って否定するだけでは単なるニヒリズムになってしまうので、
自分の中での価値の順列はきちんと持ちつつ、それが本当に正しいのかを考え直してみるくらいでいい。
その過程で人は他者にも自分と同じようにその人なりの価値の順列があることを認識し、
そこで初めて、自分のキャパの外に存在する「他者」と互いに認め合う事ができる。
正誤だの善悪だの綺麗汚いだのガンコに平和だのと手前勝手な錦の御旗を振りかざし、
自らのやましさを見ないふりして他人ばかりを責め立てるような人は絶対に信用できない。
そんな人は自分の見たいものだけを見て、臭い物にはふたをしているに過ぎない。
自分の信じる価値が最も正しいなどと錯覚する事は、結局好みの色眼鏡をかけて世界を強引に解釈し、
違う色の者を無理矢理自分と同じ色に塗りつぶそうとする事に他ならない。
で、それを拒否されたら逆ギレして殴ったりする。多くの戦争だのテロだの差別だの痴話喧嘩だのは、そうやって起こるんじゃないのか。
そして、我々も条件さえ揃えばそれをやってしまうじゃないか。
まずそれを認めろと言ってるんだ。そこからしか何も始まりはしない。
□2003/11/22(Sat) Book
小林秀雄 「モオツァルト」
世の中には音楽評論家だとかライターを名乗る人がごまんといるけれど、本来音楽を完全に言葉で表現するなんて不可能に近い。
我々にできるのは音と音の隙間に垣間見える本質の欠片のようなものを見たの見ないのと大騒ぎして、
その想いをこの言葉なる不完全な媒体に託す事くらいだろう。
筋金入りの批評精神を持った明治男であるこの人には、モーツァルトの音楽は疾走する悲しみに聴こえたのだろう。
人間存在というその不確かなものにまで迫ったこの評論こそが、現在まで続く音楽評論の系譜の頂点に位置すると僕は確信する。
しかし、この素晴らしい評論すらもその豊穣なる音楽の本質の全てを書き表すには至っていない。
ただ、現時点でこの世に存在する評論の中で最高のものであるというだけだ。
音楽を奏でる才能よりも駄文を書き散らす才能に恵まれてしまった不運な音楽好きである僕は、この点において音楽家たちに嫉妬する。
優れた音楽家が何も考えないで鳴らした数小節のフレーズが、どんな名演説より雄弁に何かを語るということがあるのだ。
こっちも負けじと言葉を紡いでみたりするんだけど、やっぱり何か違うんだ。そういえば小学校の時に始めて買ったモーツァルトのCDは、かの「レクイエム」だった。
そのCDは今でも愛聴盤となっているが、当時からつくづく嫌味なガキだったんだなと思う。
□2003/11/21(Fri) Music
Red Hot Chili Peppers 『One Hot Minute』
本当にどうでもいいことなんだけど、このアルバムの歌詞の訳者はきっとディジリドゥを知らなかったんだな。どうやら人名だとおもってたらしい。
レッチリと言うバンドは皆様ご存知のようにいろいろな山あり谷ありを越えてきたバンドだ。
越えてきた、というか、谷に叩き落され続けたんだけど這い上がってきた、というか。
このアルバムは最も深い谷底で作られたアルバムで、ファンの中では「なかったこと」にすらされている。
けれどこの時期がなかったら後の感動的な復活はなかっただろうし、当然あの名曲群も生まれはしなかった。
確かにバンドの歴史の中では異色なアルバムではあるんだけど、このアルバムが大好きなんだ。
この時だけ在籍していた、バンドの旧友で元/現ジェーンズアディクション(当時は解散しており、最近復活した「オルタナの伝説」)の
デイヴ・ナヴァロという超絶技巧ギタリストの自意識過剰っぷりが好きだから、というだけではない。いろんな苦難を何とか潜り抜けてなお、その後遺症のような悪夢にさいなまれる日々がある。
経験者は語るって奴ではあるが、そうなると現実の生活にすら支障をきたすものだ。
周囲の人間を誰一人、ていうか自分自身すら信じられないような煉獄。自らが作り出した孤独。
皆が自分を見捨てて次々に去っていくという妄想と恐怖の中で、それでも束の間の安息を覚える瞬間は確かにある。
それは永遠に失われた美しい時への追憶であったり、大切なひとへの愛情を改めて自覚した時だったりする。
で、もう最後の拠りどころのようにそれを求めたりする。
打算も何もない、純度100%の切実さ。
それは迷子になった子供が母親を捜し求める時の気持ちと似ているだろうか。
彼らもそれを求める事でなんとかバランスをとっていたのだろう。
メンバーや友人の死だの脱退だの自分たちのヤク中だの精神病だのに度々襲われ、
あまりに混乱しているがゆえに作り出してしまった極彩色の悪夢のようなこのアルバムにも、 そんな結晶のような曲がいくつか入っている。その中でも「Deep Kick」「My Friends」を聴くと、僕はいつも涙が出そうになるのだ。
□2003/11/20(Thu)
本当はこれ以前にもいろんなレビューを書いてたんだけれど、ぼさっとしてて全部消してしまった。
この薄らぼけを殺してやりたいと思ったのはひさしぶりだ。って、自分なんだけどな。
時間をかけて復旧していく予定。