バッグが降ろされると、ボンネットか派手な音を立てて閉められ、タクシーはもと来た道を戻っていく。
 タクシーを見送ってから、泰基はこれから自分たちが滞在することになる旅館「むらさき」の外観を振り返った。
「ふむ、流石山奥に在るだけあって、大変趣深い旅館だねぇ」
「――緑川、ひたるのは後にしろ」
「織田君にはこの風流というものが解らないのかい?見てみたまえ、この……」
「先に行くぞ、俺は早く部屋に荷物を置きたい」
 そう言うと、彬は泰基を置いて先に行ってしまった。無論、胸中には多難であろう前途への不安をいっぱいにして――

 事の始まりは一週間前、彬が一人暮らしを始めたばかりの祐人の部屋に遊びに行ったときであった。
「彬、これあげるよっ☆
「何だ?『●●温泉へゆったり旅行ペアご招待』?」
「商店街に食料買い出しに行ったときくじ引きやってたんだよ#それでさっ、折角だからやってみたら見事に一等獲得ってわけ$」
「で、お前、これ行くのか?」
「んー、そうしたいんだけどさっ*生憎ゴールデンウィークは全部仕事入ってて暇が無いんだ×彬、専門学校ガッコ休みだろっ◎良かったら、僕の代わりに行って来なよ%ペアだから、葵ちゃんも連れて行ってあげれば?」
「……そうだな。別に俺達も家族旅行するわけじゃないからな。じゃ、貰うぞ」
 こうして温泉ペア旅行は彬のものになったのだが、葵は四日に友達と遊園地に行くと言っており、両親に権利を譲ろうとも思ったが、母親も近所のおば様方と外出するとかやらで、結局彬の方でも持て余してしまった。その話を専門学校で話したところ、一人だけゴールデンウィーク中暇な人間がいた――泰基である。学校に入学してから一週間、たったそれだけの期間で泰基の尋常でない個性を、彬を含めた同期生達は嫌と言うほど見せつけられていた。
「温泉?ううむ、日本人の好む風流というものは……(中略)……今頃はきっと山々の新緑が眩しい頃だろうねぇ……(中略)……是非ともその温泉に行ってみたいものだね!」
「じゃあ、俺とお前で行くか?温泉」
 泰基の長々とした独白(そう、会話と言うより寧ろ独白になってしまうのだ、いつも)にうんざりした彬は、思わずそう言ってしまった。
 こうして、天気予報が絶好の行楽日和と伝える黄金の連休ゴールデンウィークに、彬と泰基の二人組は旅行に出かけることになったのである。

 彬達が案内されたのは、(泰基の)期待を裏切ることのない、こざっぱりとした和風の客室「翠緑の間」であった。床の間には一幅の掛け軸が掛かっており、備前焼の花瓶には季節の花枝が生けられている。部屋の広さも、二人だけで泊まるには十分すぎるほどで、今更ながら祐人、と言うよりは福引きの景品旅行にこんな立派な旅館を設定した商店街に感謝したくなった。
「では、お食事は六時からでございますので、それまでごゆっくりとおくつろぎくださいませ」
 二人を部屋まで案内してきた仲居さんは、そう言って部屋から去っていった。
 彬は座椅子に腰掛けると、一服するために茶を淹れようとしたのだが(見かけによらず、彬はそう言うところでまめなのだ)、
「さあっ、織田君!すぐに仕度したまえ」
「は?」
「決まっているじゃないか、温泉に入りに行くのだよ!」
「おいおい、もう風呂か?ちょっと早すぎるんじゃないか?」
「何を言っているんだい織田君。光陰矢の如し、時間が勿体ないじゃあないか」
 泰基は、まだ陽が高いにも関わらず、渋る彬を勇んで引きずっていった。大浴場の内湯は普通にタイル張りで、旅館の建物の外見の割にはソフィスティケートされたデザインだった。流石に時間帯が時間帯だけに、他には誰も入浴している客がいない。
「……むむ――」
 浴場の内装に泰基が何かうなり声をあげていたが、彬はもう彼を放って置いて先に中に入った。

 湯船に浸かる段階で、縁に首をもたせかけた彬は、湯気で曇った天井を無意識に仰いだ。自分では自覚していなくても、やはり長距離移動は身体にかなり負担をかけていたらしい。疲れがゆるゆると湯に溶けていく感じがする。
「織田君織田君、君はなんて面白くないところに入るんだい!」
 だが、(薄々予感はしていたが)彬の思索は即座にうち切られてしまった。泰基が彬の腕を掴み、またも無理矢理引きずりあげられてしまったのだ。
「なっ、何する!!」
「温泉と言えば露天風呂、露天風呂と言えば温泉!さぁ織田君、露天風呂に行こう!」
「嫌だ」
「どうしてかね?幸い、ここと違って露天の方は純和風の造りで、景色も良い、実に最高のところなのだよ」
「裸で外に出ると寒い。だから、俺は露天風呂は嫌いなんだ」
「それは全くもって間違った考え方だ。冬ではあるまいし、長い時間かけて湯に浸かれば身体は十分暖まるのだよ」
「〜〜〜〜〜……」
 それでも彬はしばらく抵抗を続けたが、それで簡単に諦めるような泰基ではない。彬が湯船の中に座り込もうとすると、泰基が腕を思い切り引っ張る。
「痛っ……!お前、そんなに強く引っ張るな!」
「いや、ボクは織田君を外に連れて行くまで諦めないよ」
 泰基は見た目からして体育会系とはかけ離れているのだが、これがどうして、かなり力が強い。またも彬は、泰基のまえに敗北を喫することになってしまった。
「ううっ、寒い……」
 表に出た途端、身体を振るわせ背中を丸める彬。泰基はそんな彼にはお構いなしに、広い岩の湯船へと突き進んだ。
「んん〜♪良い湯加減だ」
「……」
(やっぱり緑川こいつと旅行に来たのは失敗だったかも知れない……)

「おや織田君、どうしたんだい?」
「――湯あたりだ。くそっ」
 泰基に無理矢理長時間の入浴に付き合わされた彬は、部屋に戻るなり崩れ落ちるように倒れ込んだ。逆に泰基はピンピンしている。全くタフなものである。
「気持ち悪い……」
「おいおい、そんな様子で晩ご飯は食べれるかね?」
(誰のせいだと思ってるんだ!?)
 だが文句を言うだけの気力すら、彬には残っていなかった。若い男だし、少し休めばすぐに回復するだろうと思うが、より悪いのは体調よりも感情の方である。
「織田君、夜も風呂に行くだろう?」
「断る!!!!」
「……即答だね。いいじゃぁないか、ボクらはこうして温泉宿に来ているのだし」
「嫌だ、今度ばかりは絶対に嫌だ!」
 遂に本気で抵抗の姿勢を見せた彬に、泰基もしぶしぶながら彼を再び風呂まで連れて行く計画を打ち切ったようだ。彬がダウンしていたのが有利だったのかもしれない。

――と言うわけで、泰基は夜更けに再び露天風呂を訪れた。入浴は清掃時間を除いていつでも可能だったし、半端な時間では他の宿泊客が多いと判断したからだ。人が多い浴場は嫌いなのである。泰基曰くの「美学に反する」という奴である。
「うむ、やはり夜の冷気に晒された方が湯気の白さが際だって良いものだなぁ」
 本当は檜の桶に入れた熱燗が欲しいのだが、泰基はまだ未成年であることだし(泰基も変なところで律儀だった)。ちなみに、「温泉と言えばあのポーズ……」の、畳んだタオルを頭に乗せるという行為も、彼はやらない。見た目が悪い、と言うのである。事ある毎に独り言を言うのもどうかとは思うが。
 確かに夜の露天風呂は素晴らしかった。宿が山奥にあるため、都会の濁った空気と過剰な明かりが払拭され、限りなく黒に近い闇の紺色に白銀の粒子をばらまいた夜空が辺りを覆っている。耳に届く音は、泰基自身が動くことによって生じる水音のみ。
(ああ、ボクが高感度のカメラを所持していたらなぁ!)
 心からそう嘆くほどに、美しい一場面だったのである。
 このままであれば、ひょっとして泰基は東の空が白むまで一人で風呂に入っていただろう。だがそうはならなかった。丑三つ時が近づいた頃、内風呂と露天風呂を繋ぐ引き戸がカラカラと開かれたのだ。泰基は至福のひとときを妨害され、眉をひそめた。
 だが、闖入者(としか泰基には思えなかった)の姿が泰基の視界に入ったとき、さしもの彼も仰天した。
 彼女は、そうカノジョは一目でそれと判る美女だったのだ。テレビ番組のギャルレポーターのようにタオルを巻いてはいるが、いやそもそもそんな問題ではなく、男風呂にうら若き乙女が入ってくるとは前代未聞というか言語道断というか――とにかく予想外の事態である。
 泰基も驚きすぎて、少なくとも可聴音域内におさまる声は出せなかった。そんな泰基を全く眼中に入れていないように女性は振るまい、遂に湯船に入ってしまった。
 女性が掌で湯を掬う音が響く。暗い中、離れたところで見てもその膚の滑らかさ、ぽってりと膏ののった白さが解る。
 泰基は天空を見るのをすっかり忘れ、この佳人を食い入るように見続けた。だがそこが泰基の泰基たるゆえんか、視線には劣情とかそんな感情は微塵も無い。あるのは美学に基づいた観察眼だけである。
(あの頭上にまとめきれずに落ちた髪がうなじに掛かるさま、撫で肩の曲線、素晴らしい、素晴らしすぎる!しかも顔立ちが和風なのが良い!これぞ正しい美女の温泉入浴シーンだ!!)
「ああっ、本当に、何でここにはカメラが無いんだ!!」
 遂に彼は、心の中で何度も呟いた嘆きを、大声で叫んでしまったのだった。しかも、ザバザバと音を立てて立ち上がりながら。

「……お前、妄想が過ぎて遂に幻覚見るようになったのか?」
「いや、ボクはいつだって正気さ!」
「でもどう考えたって変だぞ、男湯に女が入ってきて、しかもお前がいきなり叫んだのを見てもいっこうに動じなかったんだろう?普通なら、女の方が騒ぐかお前をひっぱたくかするんじゃないか?」
「だから、さっきから不思議なことだと説明しているじゃあないか!――ああでも、彼女が入浴するさまは本当に絵になっていたのに、写真に収められないとは何たる不覚……」
「緑川は何があっても『写真第一』なんだな。まぁ、もうそれはどうでもいい、お前の話が本当なら、どうせ他の泊まり客が間違えて男湯に入っただけだろう。こっちは真夜中にいきなりたたき起こされて眠いんだ。さっさと部屋の電気を消せ」
「むむむむむ……」
 それでも納得しきれない泰基だったが、彬が再び布団を被って背を向けると、大仰に顔をしかめ、渋々ながらに照明を落として漸く寝ることになった。

 翌朝。朝のすがすがしい空気を吸うのが日課なのだよ、と言う泰基はきっかり六時に起きた。ちなみに彬が漸く布団から出てきたのは、朝食の時間ぎりぎりだった。
 席に着いてから、見るからに泰基の様子が落ち着かない。茶碗に飯をよそいながら、不審に思った彬は訊いてみた。
「緑川、お前何をやっている?」
「おかしいんだよ織田君、昨夜遭った彼女がいない」
「は?」
「織田君、君が言っただろう?男湯に入ってきた美女は恐らく宿泊客だろうと」
「ああ、そう言えば」
 例の佳人がここの客なら、朝食に食堂まで来ないのは確かにおかしい。遅れてくるのかとも思ったが、膳の乗った食卓は全て埋まっていた。
「なら、あの人は仲居さんとかかな?」
「そうかもな。ところで泰基、お前今日はどうするんだ?」
「入浴、入浴に決まっているじゃあないか!」
「――やはりお前には付いていけない、俺は」
 彬は、今までで一番大きい溜息を吐いて、肩をすくめた。彼は、旅館の送迎バスに乗って麓まで降り、ここから離れたところにある街まで一人で観光に行くと言った。泰基も、今は彬を拘束するつもりは無く、「織田君の好きにしたまえ」と、手をひらひらと振った。

 さて、彬を送り出した後泰基は家から持参したカメラを片手に手入れの行き届いた日本庭園をうろついていた。風呂の前に、写真をいくらか撮ろうというのである。旅館の建物や、丁寧に刈り込まれた植木、石灯籠など被写体には困らない。と言うか、ちょうど大浴場の清掃の時間で、入浴を拒否されただけなのだが。
 そのうち、風景には飽きたらず、人物入りの写真を撮影したくなった。宿泊客の殆どは彬と同じように観光に行ってしまっている。仲居さんや、あわよくば女将にモデルを頼みたいところだが、現在は皆忙しく働いている時間である。
 旅館の本館と大浴場のある建物は渡り廊下で結ばれていて、庭から人の行き来を観察できる。泰基は何の気無しに渡り廊下にカメラを向けた。
 そのタイミングを見計らったかのように、ファインダー越しに誰かの姿が見えた。
(おやっ、あれは昨夜の!)
 間違いない、浴衣を着て大浴場に向かう女性は、昨夜泰基が露天風呂にて遭遇したあの佳人であった。思わず連続してシャッターを切る泰基。彼女が風呂にいったと言うことは、清掃は終わったのであろうか。そう思うといても立ってもいられない、泰基である。
 佳人が建物の中に消えたのを見届けると、彼は即座に客室に戻った。
――そして、今度は自分が浴衣姿で渡り廊下に現れたのだ。しかもカメラを持って。無論浴場の中に持ち込むことは出来ないが、入浴中に脱衣所に置いておいて大丈夫なのか、ということは微塵も考えていない。
 確かに、風呂の清掃はちゃんと終わっていた。桶や腰掛けが整然と並べられた、昼まえの明るい大浴場は、同じように人がいなくても、夜とはまた趣が違う。午後になればまた、例えば新しい宿泊客が入浴しに来るだろうが。
「……流石に、今日はあの女性も男湯と女湯を取り違えてはいないみたいだなぁ」
 だが、佳人に対する謎は更に深まった。今の時間に風呂に向かったと言うことは、彼女はここの従業員でもないようだ。
(まぁ、いずれにせよ、彼女をモデルに撮影が出来れば素晴らしいんだが)
 泰基はひたすら、そればかりである。今日は脱衣所にカメラを置いてあることだし、水に気を付ければ撮影は出来ないこともない。
 ただの被写体なら、彬という絶好の対象(入学当初から泰基は彬にその素質らしきものを見ていた)がいるのだが、いかんせん温泉というシチュエーションで男を撮影しても、それはつまらないのである。彬は出かけてしまったこともであるし。
 とにかく今は温泉に集中。なお、タオルを頭に乗せるのは嫌でも、鼻歌は謡う泰基だった。

 昼食時間が近づき、泰基が男湯から出てくると、ちょうど女湯の方からも出てくる人物があった――例の女性である。
「おおっ、これは奇遇な!!」
 思わず大げさなジェスチャー付きで叫ぶ泰基。佳人の方は、彼の声に驚いたのか切れ長の目を見開いて泰基を見つめていた。だが、しばらくすると正気に返り、相手が誰なのかを認識したようだ。
「あら、貴方きのうの……あの時はごめんなさい」
 女性の声は細く、確かにその唇から紡がれているのに何処か遠くから聞こえてくるような印象だった。
「あれには流石のボクも驚きを禁じ得ませんでしたよ、お嬢さん」
「――あなた、温泉好きなんですね。今日も、こんなに早くから来てるだなんて」
「それはお嬢さんも同じじゃぁないですか」
「そうだったわね」
 そう言うと佳人は、笑った。わずかに顔を伏せ、空いた左手を口元に当てる仕草がいかにも浮世絵の美女のようで、美しい。
「こんなところで立ち話もなんだし、ロビーにでも?」
「それよりも、貴方のお部屋の方が良いんだけれど、構わないかしら?ええと……」
「ボクは緑川泰基という名ですよ。さて、ボクはお嬢さんを何と呼べば?」
苑子そのこよ」
「苑子さん、上品なお名前だ。良いとも、今は連れも出かけていることだし、歓迎しよう――と、その前に、一枚、失礼」
 カメラを構えて、シャッターをパシャリ。泰基は昼食のことなど、すっかり忘れていた。

 翠緑の間で泰基と苑子は、互いの素性には立ち入らず、専ら互いの趣味について話していた。苑子はどうやら根っからの温泉好きで、泰基以上に暇さえあれば風呂に入っていたい性質たちらしい。
「きのうも、夜遅くなら男湯に人がいないと思って入ったのよ。同じお湯の露天風呂でも、位置が違えば景色や雰囲気が違うでしょう?」
 つまり、苑子は意図的に男湯に入ってきたのだ。好きとは言え、凄い行動力である。
「ううむ、実に、苑子君の言うとおりだ。ところで、他の温泉で、どこか素晴らしい景色を堪能できるところを知らないかね?」
「申し訳ないけれど、そう言うのは簡単にはお教えできないわ。誰にだって、自分の胸に秘めておきたい景色ってあるでしょう?」
 苑子は悪戯っぽく微笑んで、言った。そう言う表情もまた、魅力的だ。
「むむむ、これは手強い……」
「と言うのは半分冗談。実は、残念ながらここ以外の温泉にはあまり行けなかったの。だから、あまり自信を持ってお勧めできなくって」
「何だかその年齢で、既に諦めきったような事を言うじゃあないか。まだボクらにはたくさん時間がある。ゆっくり趣味を極めればいい」
 上半身を乗り出して力説する泰基を、苑子はじっと凝視した。きょとんとしているようでもあるし、無反応とも取れる。
「泰基さんはそうするの?」
「無論。ボクの夢は、素晴らしい情景を写真に撮ることだとは先程語ったろう。そのためなら、世界の何処であろうと喜んで向かうよ」
「――やっぱり貴方は、私が感じたとおりの人ね。好きなものには惜しみなく情熱を傾けることが出来る」
「実は、その事なんだがね……」
 不意に、泰基が珍しく躊躇いがちに苑子に話を切りだした。
「君が露天風呂に入っている場面を写真に撮りたいと、昨夜からずっと考えていたのだが――」
 今度こそ苑子は、絶句してしまったようだ。

「緑川、何寝ているんだ」
 泰基の意識が戻ったとき、一番に彼の視界に入ってきたのは彬の持っている土産の紙袋だった。
「んむむむむむむ……おやぁ、織田君、おはよう。おや?苑子君は?」
「は?苑子?俺はこの部屋で、お前以外の人間は誰も見ていないぞ。緑川は俺が出かけている間、何」
「いや、実は例の佳人と再会してだね、ここで話をしていたんだが――ぬぬう?」
「どうした」
 泰基の中で、苑子との会話の最後の方の記憶が曖昧なのである。苑子の入浴姿の写真を撮りたいと言ったところまでは憶えていたのだが、それについて彼女がどういう反応したか、いつ翠緑の間を去ったかがよく判らない。
「それは、ここで寝ている間に見た夢じゃないのか?」
「そんなことは無いと思うんだが……むぅ?」
 テーブルの上には二つの茶碗が置かれていて、片方の茶は少しも減っていなかった。

 翌朝。泰基達が旅館を出るときが来た。
 あれから、泰基が苑子の姿を再び見ることは無かった。思い返せば、彼女の名字も住んでいる場所も聞いていない。結局最後まで謎を残した女性だった。
 それはそれとして、泰基は昨晩二度、そして今朝早くも一度温泉に入った。旅行の思い出にと、早朝の露天風呂の光景をカメラに収めておいた。
「緑川、俺がチェックアウトしてくる。ロビーで待っていてくれないか?」
「ああ、解ったよ織田君」
 言われたとおり泰基は二日間殆ど関心を寄せなかったロビーのソファに腰掛けた。彼の座った位置から、旅館の所有している掛け軸が幾つかかけてあるところが見える。そのうちの一服に、泰基は異様に惹き付けられた。
 近づいてみてみると、それは紺地に朝顔の模様を白抜きした柄の浴衣を着ている若い女性の絵だった。綺麗な造形だが、洗練の度合いがまだ素人の域を出ていない。
「それは主人が描いたんですよ」
 振り返ると、そこには女将がいた。いかにも温泉宿の女主人らしく、和服姿が上品である。だが、何処かで見たような……そんな感じがした。
「主人は趣味で日本画をやっておりましてね、これは五年ぐらい前に娘を描いたものなんです」
「娘さん、ということは次の女将ですか?」
「いえ、娘はこの絵が完成して間もなく亡くなりまして」
「それは、申し訳ない」
 泰基は素直に女将に向かって頭を下げた。
「娘は、苑子は本当に温泉が大好きな子で、時々一人で他の温泉まで旅行に行っていたんですが、旅先の大浴場で突然――将来は絶対に『むらさき』を継ぐんだと、よく言っておりましたんですけどね」
 女将の切れ長の目は、掛け軸の女性――そう、確かに苑子と同じものだった。

 後日、泰基と彬は学校で旅行中に撮影した写真を現像した。
「おおっ!?」
「何だ緑川、驚かせるな」
 泰基の後ろで彬が文句を言う。だが、泰基の意識はその一枚に集中していて、彬の声は届かなかった。
 無人のはずの男湯の露天風呂には、白いうなじの美しい女性が「見返り美人」のように写り込んでいた。

〜了〜

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