巷は満開の桜の季節。
 今更言うまでもないことかも知れないが、やはり日本人ならこの時期になると桜が見たくて堪らなくなるようだ。無論、祐人も世間一般の日本人なので、何となくだが、しかしどうしても公園に桜を見に行きたくなってしまった。
 今日は快晴、絶好の花見日和。もう時刻は夕方に近いが、夜になれば公園のあちこちで宴会が始まるだろう。それまでに、ちょっと散歩してくるのも良いかも知れない。祐人は薄手のコートを羽織ると、自宅を出た。

 公園までの距離は、最寄りの駅から電車で十分程度。一人暮らしを始める前はもっと近かった。毎年のように、彬と葵の兄妹とそこに花見に行ったものだが、今年は祐人たった一人。彬は今日は仕事だろうし、葵は――彼女とは今、どんな顔をして合えばいいのか判らない。
 思った通り、公園の桜並木には花見客が大勢いた。屋台も並んでいる。ここでも桜は綺麗だが、人混みの声がうるさくて、足は桜の樹の前に立ち止まってはくれなかった。人の少ない方へ、少ない方へ。やがて並木は途切れ、更に緑の木々が周囲を取り囲む広い芝生を抜け、公園の最も奥の方までやって来た。
 そしてそこに、一本の桜の樹が立っていた。中学生の時、三人で見つけた穴場だ。つぼみの殆ど開いた桜から、既にひらひらと花びらが舞い散っている。
 毎年のこの時期ですら、ここには殆ど人が来ない。今年もそうだと祐人は思っていたが、それは違った。誰かが樹を写真に撮っている。
「泰基っ?泰基じゃないかいっ☆」
「やあ、祐人君ではないか!」
 彬の専門学校時代の親友で、「前途有望な新人カメラマン」の肩書きを持つ緑川泰基。
「君っ%何してんのっ?」
「見ての通りさ、今日は仕事がオフだから、個人的な作品を撮ろうと思ってね。やはり季節柄桜はかかせないが、あまりに人が多いから撮影を躊躇して公園内を放浪していたのだよ。そうしたら、こんなところに素晴らしい桜があるではないかね!」
 泰基は「素晴らしい桜」のところで実に彼らしく、両腕を広げてまるで舞台の上の俳優のように祐人を見た。
「ところで祐人君こそ、何故ここに来たのだね?」
「僕も仕事がオフなのは同じだけどっ#純粋な花見客さっ♪」
「ふむ、花見……やはり花見には緋毛氈と漆塗りの重箱が欲しいところだね!」
「それに和服がよく似合う女性っ?やっぱ芸者さんっ?」
「ふむ、君はこのボクの感性を少しは理解してくれるようだね」
「まぁねっ◆学習の成果、ってやつかなっ$」
 あっちの方で見てるから好きに撮影しててっ、と祐人は別の木陰にあるベンチに腰掛けた。すると泰基は祐人がそこに来なかったかのごとく、撮影を再開しだした。

 陽はやがて西に傾き、紫色の影が桜の花弁に落ちる頃となると泰基は撮影を中断した。
「終わりかいっ?泰基◎」
 何となくそんな時間まで泰基に付き合って残る形となった祐人が言う。桜も泰基も長期間見ていて飽きなかったのだが。
「いや、残りのフィルムは夜桜を撮影するためにとっておくのだよ」
「へぇ※夜桜かぁ@」
「桜の花というものは、どの時間帯に見ても非常に美しいものだがね、夜の桜の美というのは他とは異質であるからねぇ」
 対象の美の全てを捕らえんとする事がボクの究極目標だからね、と言った。
「それにしても、これに限らず桜は絶好の被写体だよ。実に素晴らしい」
「そういえばっ、こんな言葉があったね§」
 そこで顔を見合わせた二人が同時に言う。
「『桜の樹の下には屍体が埋まってゐる』!」
「梶井基次郎だね、祐人君、君は見かけに因らず教養があるようだね」
「ひどいっ、泰基ってば人のことをそんな風に思ってたワケっ?」
 ちょっと拗ねたポーズを取る、祐人。
「よしてくれ、大の男がそんなポーズをすると言うことはボクの美学に反するのだよ、見苦しい!やはりこういうのが許されるのは十代までの女性に限る」
 やはり、彼曰くの「美学」に反することにはとことんまで冷たい、泰基である。
「それはさておき、梶井の『桜の樹の下には』はボクの好むとするところだね。確かに、桜の美しさというものは、他の存在の美というか生命というか、存在を吸収しているとしか思えない節もある」
 言葉を紡ぐ泰基の瞳が、どんどん恍惚の色を帯びていく。自分の言葉に簡単に酔える、それが泰基の泰基たるゆえんだ。
「他を犠牲にすればするほど美しくなる……ああ、今ここにシャベルがあったなら!」
「まさかっ、この桜の下の地面を掘り返すつもりっ?何だかスプラッタ★」
「うーむ、桜の根が水晶の滴を吸い上げる様を見てみたいものだが、それよりも実験したいことがあるのだよ」
 泰基にいきなり見つめられて、祐人は背筋が寒くなった。
「……肥料を増やせば、この桜の美しさは増すものだろうか?」
「ぼ、僕を殺して桜の肥料にっ!?あ、あはははははは○■△×♪☆――」
 やりかねない。泰基なら本当にやりかねない。
「いや、そんなことをすればこのボクの両手が汚れてしまうではないか!そんなことはしないよ、絶対にね」
「よかったっ〒命拾いしたねっ+」
 祐人はほっと胸をなで下ろした。リアクションがオーバーになってしまったのは、泰基の側にいるからに違いない。

 夜になり、泰基は撮影を再開した。また祐人は一人でぼんやりと泰基と桜を眺めていた。こうなったら、最後まで泰基に付き合ってやるつもりである。
「ごめんっ、泰基☆」
「何だね!撮影の邪魔をしないでくれたまえ!」
「だからっ*先に誤ったじゃんっ∞泰基、晩飯どうするっ?撮影終わったらどっか飲みにいくかいっ♭それとも屋台で何か買ってきてあげよっか§」
「うーむ、その両方というのはどうだね」
「その選択肢もあったね¥じゃ、何か買いに行ってくる◇」
 祐人はベンチから立ち上がり、桜並木の方に向かって歩き出した。
 振り替えって見る夜桜は証明を浴び、幽遠な美しさを醸し出している。
(桜は誰かを犠牲に美しくなる、か☆)
 しかし泰基には言わなかったが、祐人にとって、桜というものは、淡い色彩の花なのに、その美しさは清楚や可憐では無く神秘な妖艶。見るものに畏怖を与え、心を何処か狂わせる。
 それは、犠牲の上に成り立つ美しさだから。
 ふと祐人はある少女を思った。彼女を初めて見たとき、彼は明らかな恐怖を感じたのだ。
 彼女は、男達を犠牲にして美しく咲く桜だった。淡い花が散るとき、また一人の男が彼女を喪い、その根元に埋もれてゆく。
 人は桜の命が短いが故に永遠を求める。
 祐人はそして、彼の最愛の友が桜の樹の下に埋もれぬよう願うのだった。

〜了〜

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