気が付いたとき、彼女は「そこ」にいた。
「両親」となる夢魔どうしの意識体の一部が融合し合う事により、その力がある場所に作用して、突然「子」が発生する。言うなれば彼らは化生の存在。
「彼女」は他の夢魔と同様に、既に年頃の少女の姿をしており、自分の名も両親もそして他の夢魔達も知識として知っていた。そして、それが目の前に立っている男夢魔が、「親」では無いことを教えてくれる。
「君は、だれっ?」
「――私は、『リースリング』……」
夢魔の女王と目された誰よりも麗しいシュバルツカッツェが「消滅」してしばらく後。彼女の兄のバニュルスは、湖のような己の力領域をたゆたっていた。
カッツェが、夢を喰らうのを嫌う異端の夢魔・ミュスカデの後を追ったという衝撃的な噂は、すぐに夢界の全領域に広まり、今では皆、王であるアイスヴァインを憚って、それを敢えて口にしようとはしない。 自分の花嫁と決めた女夢魔にあのような形の裏切りを受けたヴァインは、いかような想いでいるのだろう。
しかし、バニュルスはそんなことには興味がなかった。彼はヴァインの最も親しい友でもあるが、ヴァインの激昂を収めようと思う以前に、自分自身の喪失感を持て余していたのだ。
緑色の眼をした綺麗な妹は、彼の最も大切な存在だった。が、彼女は「人間」としての無意識領域と、そしてミュスカデを求めて消え去ったのだ。
だから、バニュルスはしばらく何も考えない事を選んだ。自分の力の発現である水面に浮かんでいれば、簡単に出来る。
そして、それを始めてからどれぐらい経ったかは判らないのだが、突然「彼女」は現れた。
静寂の休息を邪魔するように発生した、何者かのの気配。
(これは、どっかで感じたような気がするけど#)
奇妙な懐かしさを感じたバニュルスは、久方ぶりに身体を起こす。そしてすぐに、自分をじっと見つめていた者の姿を視界に捕らえた。
(――カッツェ!?いやっ、そんなハズは無い☆)
銀の髪、透き通った菫青石の瞳。カッツェであるはずがない。しかし、その少女の面差しは、どことなく彼の妹に似ていた。
「君は、誰っ?」
「――私は、『リースリング』……あなた、『バニュルス』?」
澄んでいるが、殆ど抑揚のない声。バニュルスを見てはいるが、彼の向こうを見ているかのような視線。
「何処から来たのっ?」
「わからない……気付いたら、ここにいた」
「もしかしてっ¥君って、生まれたばかりっ?」
「……」
沈黙は、肯定の証で。それ以上言葉を紡ごうとしないリースリングの頬を、バニュルスは両手で挟み込んだ。
「何を?」
そうは言うものの、彼女の表情には微塵の変化も見られなかった。
リースリングは見るほどにカッツェの面影を感じさせる。整った目鼻立ちも、雪花石膏のような色の滑らかな頬も、細い肩も。しかし、その瞳だけは違った。色ではない、妹の眼は同じように大きくてもこれほど冷徹な光を湛えてはいなかった。
だが、バニュルスはそこであることに気付く。カッツェを手にしたはずの男の眼は、これと同じ色、同じ冷たさを持っていた。そして、彼の髪は正に銀色ではなかったか。
「君はっ、ひょっとしてシュバルツカッツェとアイスヴァインの子じゃないっ?」
バニュルスが頬を解放すると、リースリングは、こくり、と頷く。既にカッツェはこの夢界の者では無いが、発生した力が具現化するまで時間がかかるのは珍しいことではない。
しかし、リースリングがカッツェとヴァインとの間に生まれた子ならば、その夢魔としての能力は絶大に違いない。それを誇示するかのように、彼女は美しかった。
「ねえっ♪折角生まれたんだからさっ$早速無意識領域をいじってみればっ?」
「いじる……?どのように?」
「簡単な事だよっ%今僕がやってるようにっ、力の領域を広げてご覧?やり方は生まれたときから知ってるはずだよっ*」
バニュルスに言われ、リースリングは言われるままに力を発揮しようと構えた。
しかし。
幾ら時間が経っても、彼女の力が顕れる兆しは全く無かった。何度バニュルスがやり直しを提案しても。
(もしかしてこの子っ、夢魔としての能力がゼロっ!?)
それは、永い時を生きてきたバニュルスにとっても初めての事態であった。人間でも、意思によってある程度無意識領域を変化させることが出来る。それすら出来ないとは、即ちリースリングの能力が人間以下という事であった。
バニュルスが複雑・沈痛な表情をしているのに対し、当のリースリングは全くと言っていいほど動揺していなかった。が、何か別の物に気を取られているようだ。
「あ……」
リースリングが指した先には、耳で飛んでいる球体のような生物がいた。可愛らしい外見だが、恐らく低級の夢魔だろう。
「おいで」
リースリングは、その生物に向かって手を差し出す。すると、生物はきゅう、と鳴いて彼女の方に飛んできた。それをリースリングは、優しく抱き留める。
「どうやら、懐かれたようだねっ★」
「カビネット……」
「えっ?」
「この子の、名前」
「名前を付けるなんて、よっぽどそれが気に入ったんだねっ♪」
「いいえ――だって、この子は、私だから」
リースリングの言葉に呼応するかのように、生物、もといカビネットは耳をパタパタと動かした。
途端に、周辺の無意識領域が大きく歪んだ。
「わわっ#」
広げていたバニュルスの力領域も、歪みに触れるとあっけなく霧散する。これほどの事が出来る力を持っていたのは、妹やヴァインぐらいだったはずだ。
「まっ、まさかっ!」
(これを、カビネットがやったと!?)
これは人の姿を取れない下級夢魔の力ではない。ならば。
このカビネットこそが、リースリングの力なのだ。
「リースリング」
「……何?」
バニュルスが珍しく真剣な顔になる。声も浮ついていない。
独りでは力を持たない夢魔。きっと他の夢魔達から、つまはじきにされるだろう。恐らく、アイスヴァインも「娘」が生まれたとは思っていないに違いない。
ならばこの、「最愛の妹」の子を、自分が隠しても良いのではないか。
「君は僕が庇護してあげる。その代償に、僕は君を離さない」
バニュルスに言われるままに頷くリースリング。
彼はこうして、カッツェの代わりを手に入れた。
〜了〜