包丁の気持ちよいリズムが、薄い壁を通して耳に入ってくる。
この音が彼の目覚し時計だった。
「……おはよ……かーさん……」
「おはよう、落葉」
少年の母親、京子は手を止め振り返り、寝ぼけ眼の愛息子へ笑顔を向ける。
「ほら、そうやって目を擦ってばかりだと、視力が悪くなるわよ。顔洗ってらっしゃい」
「……はぁい……」
落葉は素直に返事すると、大きく欠伸して洗面所へ消えていった。
いつもどおりの風景。だが、京子はその変わらない毎日がたまらなく好きだった。
「いってきまーす」
元気に家を出た少年は、ここから少し大人になる。
それまでの少年とは比べられないぐらい、無口になり人と接触しようとしない。
登校途中の道は、普通の住宅街で必然的に主婦達が多い。
その主婦達は落葉を見ると、好奇と嫌悪と同情がそれぞれ入り混じった顔をしてくる。
それがたまらなく嫌だった。
少年には父親がいない。
同級生のいじめっ子―もちろん倒してやったが―が言うには、母親は愛人だったらしい。
言葉の意味は詳しくはわからないが、どうやらあまり言い言葉ではないようだ。
なぜ、人の過去を気にするのだろう?
過去なんか所詮過ぎ去ったどうでもいいことだと思う。
今の母親はやさしく、美人だ。それだけで良いと思う。
だから、今の母親を見ようとせず、ただ過去ばかりを気にして優越感に浸っている主婦連中と、それに洗脳されて落葉にちょっかいを出してくる子供達とはまともな接触を持ちたくなかった。
それが家と外での彼の違いとして現れている。
「……だよね……」
「うん、かわいそう……」
「どうしよっか?」
「うーん……」
通学路の途中にある空き地に、小学生が集まっている。
自分の同級生も何人か混じっていたが、落葉にはどうでもいいことだった。
ただ、か細い命の鳴き声に引かれて、彼は足を止めた。
「あ、長岡君?」
同級生の一人、佐藤梢が落葉に気づいて声をかけてきた。
返事の代わりに梢を見て、すぐに視線を移す。
「捨て猫か?」
「そうなのよ!かわいそうだと思わない?」
――お前のかーちゃんなんか、捨てられただけだろ!――
いじめっ子の捨て台詞が落葉の脳裏に蘇る。
「……どうしたの?」
「……なんでもない。それより、遅刻するぞ」
捨て猫と自分が重なりそうで、それから逃げるように彼は空き地から立ち去った。
今日も落葉は同じ道を通って学校へ向かっている。
いつもの空き地には、かなり汚れたダンボールと、それに負けないぐらい汚れた子猫が眠っている。
初めて子猫をみつけてから一週間が経っていた。
最初は数え切れないほどいた子供達も、今ではひとりしかいない。
結局、かわいそうとか言っているのは口だけで、他に興味の対象ができるまでの繋ぎでしかなかったのだろう。
「長岡くーん」
最後の一人、梢が落葉を見つけて、声をかけてくる。
「……なんだ?」
不機嫌そうな顔で梢を見る。
「今日も持ってきてるんでしょ?」
「……ああ」
恥かしさも混じり、いつも以上にぶっきらぼうにランドセルから袋を取り出す。
「あ、卵焼きだ」
「……お前に食べさすために持ってきたんじゃないんだぞ」
「わかってるわよ」
と言いながらも、「本当に美味しそうね」とか言っている。
「でもね……」
梢の表情が翳る。
「最近、猫ちゃんの元気がないんだ」
「……そうか」
落葉が持ってきた卵焼きを目の前に置いても、子猫は匂いを嗅ぐだけで、口をつけようとはしない。
「病気なのかな?」
「……目やにが多いな……」
「やっぱり、病気なんだね」
「春とはいえ、夜は冷えるからな」
子猫を抱き上げる。
驚くほどに軽いそれは、今にも崩れそうなほど弱っていた。
「……今日、家につれて帰ってみる」
「大丈夫なの?」
「たぶん、だめだと言われるが、一日ぐらいなら平気だと思う」
「じゃあ、明日は私がお母さんに頼んでみるね」
弱った子猫をダンボールに戻し、家に転がっていた使い捨てカイロをハンカチに包んで、一緒にいれてやる。
「そろそろ学校に行くか」
「うん。遅刻したら怒られるもんね」
どんより曇った空模様に気づかず、二人は学校へと向かった。
昼休みが終わった頃、どしゃぶりの雨が降った。
授業は急遽自習となり、先生達があつまり、なにか話し合いをしている。
早めに学校が終わるかもしれないことで、生徒達ははしゃいでいる。
そんな中、落葉と梢だけの表情が暗い。
落葉は普段からあまり変わらない表情なので気づかれなかったが、いつもは明るい梢が暗くなっているので、梢の友達が彼女を囲むように集まっている。
会話の内容は聞き取れなかったが、たぶんあの子猫のことを話しているのだろう。
雨はその勢いを止めることなく、暫く降り続けた。
雨足が弱まったタイミングを見計らい、先生が授業を中止して帰宅するようにと言い、急いでホームルームを終わらせた。
先生が解散と言うと同時に、落葉は教室から飛び出す。
少し遅れて梢が出てくるのが見えたが、待っている余裕は無かった。
傘も差さずに走りつづけ、空き地へと向かう。
空き地にも木はある。そこに行ってれば多少は雨をしのげる。
どうかそこに行っていてくれと願いながら、彼は走りつづけた。
空き地に入った瞬間、彼は凍りついた。
動けなかった。目の前の現実を受け入れたくなかった。
遅れてやってきた梢も、ダンボールに目をやって口に手を当てる。
「…………」
その場にしゃがみ、泣いている梢を見て、ゆっくりとダンボールへと向かう。
ダンボールの中に、子猫はいる。
もはや息をすることも無く、食事をとる必要も無い。
家につれて帰る必要も無くなった。
水の中から子猫を拾い上げ、落葉は強く抱きしめた。
冷たい雨が容赦なく落葉から体温を奪っていくが、瞳の中だけは暖かかった。
「……天国に行けたかなぁ?」
「……さあな」
雨が止むのを待って、空き地の隅に子猫の墓を二人でつくった。
「……きっと行けたよね」
落葉の言葉は聞いていなかったのか、一人で納得している。
「……なぁ」
「ん?なぁに」
「捨てられた者って……やっぱりこういう結果になるのかな?」
「よくわからないけど……」
少し考えるように首を傾げ、笑顔を浮かべる。
「でも、子猫も捨てられたから私たちに会えたんだし、きっとあれが子猫ちゃんの寿命だったんだよ」
「ちょっと違う気もするが……」
論点がずれていることは落葉にもわかったが、それを突っ込む以上にいまの梢の言葉が胸を打った。
――捨てられたから会えた……か――
少しだけ、落葉は家の外の世界が好きになれる気がした。
―了―
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