生まれついての運命なんて、信じたくなかった――ましてやそれが、自分の結婚の事となると。
「いい加減にしろ、羅衣」
「嫌よ、何で私が顔も知らない人のお嫁さんなんかにならなきゃならないの?」
 羅衣は歳の離れた兄に向け、力一杯舌を出した。
「羅衣、普段から言葉遣いをきちんとしなければならない、と言っているだろう。皇王様の不興を買うぞ」
兄の繻子は妹の反抗に一向に動じる様子もなく羅衣をたしなめた。
「買ってもいいもん!私、天衣の本家なんか行かない。転校するのは嫌、いや」
「お前が皇王様――天人の裔と結婚するのは、この宝蓮家に与えられた代々の掟なんだ」
「掟掟って、だったらお兄ちゃんが結婚すればいいじゃない」
「俺は男だ。無理な事言うな」
「無理を言ってるのはお兄ちゃんもよ!私、まだ十一歳だよ?なのに、いきなり天衣家のお屋敷に行って結婚しろだなんて」
「羅衣!」
 繻子は突然妹の頬を平手打ちした。
「出発まで頭を冷やせ。支度は使用人達が全てやってくれるだろう」
 彼はそれだけ言うと、羅衣に背を向け磨かれた廊下の上を歩いて行った。
 残された羅衣は、座敷にこもってただ泣くしかなかった。

 機械文明の溢れる日本にも、各地に旧家と呼ばれる家系が残されている。天衣一族もその一つだった。
 家伝によると、その祖は”皇王”という名の麗しい天女だという。天女は地上でとある豪族の妻となり、五人の子を産んだ。以来、長子が代々天女の名と一族の長の座を継いできた。
 二代目の皇王以外の四人の子は、上から順にそれぞれ”宝蓮”・”宝剣”・”宝塔”・”宝弓という分家を興し、天人の家を護ってきた。それが、現在まで続いている。
「羅衣、そろそろ時間ですよ」
「……はい」
 紅い振り袖を着せられた羅衣は、対照的な灰色の着物姿の母親に促され、玄関先に停められた車に半ば諦め顔で乗り込んだ。
「本家に着いたら、くれぐれも粗相の無いように振る舞いなさい。羅衣は昔から姿勢を正すのが苦手だったものね」
「……」
「いずれこうやって母親としてあなたと話せなくなるのね。あなたは次の”羅衣”で、お方様となるべき女なのだから。でも、一族の一人として生まれたのなら、これは身に余る光栄と思うべきなのかしら」
「お母様」
「――繻子、羅衣をお願いね」
「判りました」
 車にエンジンが掛けられた。開いていた窓が、閉じられた。
 車は発進し、母の姿が次第に小さくなってゆく。羅衣は、消える最期の一瞬までそれを目で追った。本当は本家になど行きたくないのだと言いたかった。だが、彼女の運命を喜ぶ母を思うと、言葉を紡ぐ事が出来なかった。
「ねぇ、お兄ちゃ――お兄様、本家までの時間はどれだけかかるのかしら?」
「そうだな、少なくとも四時間はかかるな」
「そう……」
 羅衣は視線を前方に移した。瞼が熱くて、豪奢な布地の袖で目を押さえた。

 山奥にある天衣家の屋敷の門前で羅衣を出迎えたのは、紺色の着物を着た数人の若い女性と、いかめしい顔つきをした壮年の男性だった。
「落葉様、羅衣様をお連れしました」
 その繻子の口調に急に不安を感じ、羅衣は兄を見上げた。
 男性は繻子に一礼すると、羅衣に手を差し出した。その手を取れ、と言う事なのだろう。羅衣がおとなしくその通りにすると、繻子は妹をかえり見る事無く黒塗りの車の中に戻って行った。
「君が次の羅衣殿か。宝蓮夫人に良く似たお嬢さんだ。お方様になる頃にはさぞ綺麗になる事だろう」
 男性の話し方は、顔に似合わず優しげであった。二人の横を、降ろされた荷物を持った使用人の女性達が無言で通り過ぎてゆく。
「あの、あなたは……」
「ああ、君は掟で本家に来た事が無かったから、私の顔を知らないか。私は、今の”落葉”だ」
「落葉……じゃあ、宝剣のご当主ですか」
「まぁ、そういう事だが、いわば私は君の同僚で、いずれは上に立つ人間だから、そんなに堅苦しくしなくて良いんだよ。何しろ”羅衣”は、宝四家の当主の中の最高位で、しかも特別な地位だ」
 落葉の言葉の意味を、羅衣は十二分に理解していた。それ故に、何も言えなかった。
 天女の子のうち、長男の皇王以外の子供は”羅衣”・”落葉”・”越智”・”紗綾”。二代目の皇王は、その血を後世に伝えるためにすぐ下の妹の羅衣を娶った。二人の間に数人の子が設けられ、一番上の子が三代目の皇王となり、二番目の子が宝蓮家を創った。そして宝蓮の始祖と宝弓の二代目の子との間に生まれた子の一人が羅衣の名を受け継ぎ、歴代の皇王の中で一番の長寿を誇った三代目と結婚した。
 こうして、本家と宝四家は互いに血族婚を繰り返し、長が先祖の名を継ぎながら続いてきたのだ。ただ宝蓮家だけは他の三家とは事情が異なり、皇王の配偶者となるべき羅衣の座は、皇王と性別を異にする先代の子もしくは宝蓮家本流に最も近い分家筋の子のうち最も年上の者が継ぎ、実際に家を存続させるのはそれ以外の子の中から選ばれるのである。
 昨年先代の皇王が死去し、現在その座にある者は男子。故に繻子はその資格を無くし、次に生まれた女子にそのまま羅衣の名が与えられた。 彼女がこの日を迎えるのは、生まれたときから定められていたのだ。
「とは言え、君はすぐに皇王様の嫁になる訳ではない。いや、法律上の問題ではなくて、君自身の問題なのだがね。だからしばらくの間はゆっくりしていなさい。この屋敷にも慣れる必要があるだろう」
「はい」
「私も仕事がある以上、明日には自宅に戻るが、月に一度は本家に来る。宝弓の紗綾もそうだ。その際に次の紗綾も一緒に来るんだが、彼女は丁度君と同い年だから、仲良くなれるだろう。宝塔家は立場上ここに住み込みだから」
 落葉に導かれて入った屋敷は純和風の大邸宅。離れが幾つもあり、大きな池まで備わっている。
 庭木をちらりと見た羅衣は、漠然としたイメージでしか捉えることの出来なかった歴史というものに取り込まれようとしている自分に気付き、不安に心を捕らわれた。

 数日が、何事もなく過ぎていった。
 羅衣は、屋敷に着いたその次の日から麓の小学校に通い始めた。学校までの送り迎えは、一族の者で呉絽ゴロという老人の役目だった。
 屋敷の中でも、呉絽老人の他に身の回りの世話をするという数人の女性以外とは口をきく機会に恵まれなかった。彼らとて、必要最低限の事しか喋ってはくれなかった。それは自分が”羅衣”という立場にいるからなのだろうが、時代錯誤も甚だしいとしか思えなかった。
 だが、やはり不安もあった。自分の夫になるはずの皇王という人物について彼女は何も知らなかった。知りたいという気持ちよりも、知るのが怖いという気持ちの方が上だった。
 そして、羅衣が屋敷に来てから最初の日曜日が来た。
 朝食が運ばれ、食事が終わると着物を着せられる。それから、華道と茶道の稽古。師匠には、太布という老婆がなった。両方とも物心ついた時からやらされていたためそれほど苦ではなかった。この日の稽古は午前中には終了し、昼食を終えるとかえってすべき事の無い事に対する苦痛が羅衣を襲った。
(ああ、一体何をすれば良いんだろう。わざわざ宝塔家の人達の所を訪れるのも怖いし……この屋敷の探検でもしようかしら)
 着物故に外出するには不便だし、恐らく頼んでも無駄だろうという事を、彼女は直感的に悟っていた。
 いざ、そうと決めて歩いてみると、敷地内はなかなか興味深いもので満ち溢れていた。
 池の中の小島どうしの間に掛けられた反橋の上で鯉を見て、年季の入った土蔵のぐるりを巡った後、羅衣は敷地の最も奥まったところに建てられている品の良い造りの離れの存在に気付いた。母屋とは褪せた朱塗りの高欄のついた渡り廊下で繋がっている。障子は閉まっており、どうやら人気は無さそうだ。
 彼女は休息を取ろうと思い、縁側に腰掛けた。その時、
「誰?太布なのかい?」
 と、障子の内側から少年の声がした。
「ひ、人がいるの?」
「違うんだ……君、聞かない声だね。最近屋敷に来たの?名前は?」
「あの、私、宝蓮羅衣と言います」
 羅衣が名乗ると、少年は「君が?」と呟いたらしかった。
「あなたこそ、誰?障子を開けて良い?」
「ごめん、僕、大人達から滅多に他人に姿を見られちゃいけないし、知らぬ人間に自分の事を話すなって言われてるから」
 少年はさも残念そうに羅衣に謝罪した。彼女には、そうせねばならない一族の者に覚えはなかったが、敢えて訊ねるような事はしなかった。
「でも、僕の知っている羅衣は、もっとずっと年齢が上の男の人だった気がするんだけど」
「それは私の伯父様で先代の皇王様の婿。でも、皇王様がお亡くなりになられたから、先の羅衣様ってお呼びしなきゃならないけれど、私は一度もお会いした事無いの。もっとも、落葉さん以外に一族のお偉方を見た事もないわ」
「女の羅衣の育て方は掌中の珠を慈しむがごとし、だもんなぁ。極端すぎるほど徹底的に何も知らない箱入り娘にされるから。女は何も知らない方が良い、ってえらく古くさい考えだと僕は思うけどね。でも、考えてみれば君自身がそのお偉方の一人じゃないか」
「本当は、本家になんか来たくなかった」
 羅衣はぽつりと呟いた。
「どうして?宝四家の当主の一人ともなれば、一族の誰もが羨ましがる立場だ」
「だって、聞こえは良いけど駕籠の鳥。何も知らされないで、何も知らない相手と結婚しなければならないなんて!先の羅衣様はお父様と十は歳が離れていたから、私が嫁ぐ皇王様は、きっと私よりずーっと年上。初恋も未だなのに、もう行く先は決まっているの」
「僕は、その気持ち解るな」
「――え?」
 それは初めての反応だった。今まで羅衣の本音は、一族という集合体の前で無惨に散らされていたのに。
「僕も、生まれのせいで何の自由もないんだ。今は、この離れから一歩も出してもらえない」
「そうなの……」
「もう諦めもついたけどね。だから、君の事は他人事とは思えない」
 それから二人はしばし沈黙した。羅衣は、奇妙な親近感と哀しさを少年に対し覚えた。彼は自分よりもずっと気の毒な状況下にあるのではないか、と。
「それより、君はそろそろ戻った方がいいよ。僕の所に人が来る。見つかったらたとえ羅衣でも大変だから」
「判った。ねぇ、またここに来ても良いかしら」
「うん。この時間帯だったら、大丈夫」
「では、また近いうちに、ね」
 以来、羅衣はしばしばこの離れを訪れるようになった。話の内容はたわいのないものだったが、他に普段親しく語り合える相手がいないため、心は随分と慰められた。彼になら全ての悩みを聞いて貰っても、とも思っていた。
 落葉が言っていた通り、時々次の紗綾が本家を訪れ、仲良くなったのだが、羅衣はこの少女にも離れの事は離さなかった。それほど少年は羅衣にとって大切な人間になっていた

 数カ月経ったある日のこと、羅衣は泣きはらした目で離れにやってきた。声の様子から察したらしく、少年は何事かと訊ねてきた。
「私、初潮があったの」
 羅衣はしゃくり上げながら、それでも何とか勇気を振り絞って言った。
「そしたら、屋敷の人達が、もう婚礼を上げても大丈夫だって言うの。式自体はしきたりの関係上ずっと先らしいんだけど、次の満月の夜に皇王様の伽をしろって。どうしよう、私、怖い」
「……」
 障子の向こうからは何の返事も無かった。しようも無かったろう。それは太古から決められており、抗う術は羅衣には無かったのだから。
 羅衣はひとしきり泣くと、離れを去った。そして、翌日からそこに現れなくなった。
 そして、運命の夜がやって来た。 羅衣は太布の監視のもと、使用人達によって伽の夜のための寝間着を着せられた。それは、半ば透ける生地で出来ていた。羅衣にはそれすら堪らなく嫌に思えた。
「では羅衣様、私めのお後をついてきて下され」
 連日泣き通しで疲れ果てた羅衣は、死んだ魚の目で太布の背を追った。幾つもの角を曲がり、幾つもの渡り廊下の上を歩き、それは永遠に長く感じられた。
「ここでございます」
 太布は目的の座敷の前につくと、膝をついて静かに障子を開けた。
「では」
 老婆はそう言うと、軽く一礼して去って行った。
(これで、とうとう私は)
 唇を噛み、羅衣は座敷に足を踏み入れた。いよいよ自分は当皇王のものになってしまう。彼女は相手の姿を何度も思い描こうとしたが、この時までついにそれは明確な像を結ばなかった。
「羅衣、ただ今参上いたしました」
 声は震えていた。いや、声だけではなく全身が。 皇王は、上半身を起こした姿勢で布団の中にいた。
「羅衣」
 その声に、羅衣は確かに聞き覚えがあった。
「あっ――」
 小さく声を上げ、彼女はその場に座り込んでしまった。開け放たれた反対側の障子の向こうに広がっていたのは、見慣れた風景。ここは、彼女が頻繁に訪れていたあの離れだったのだ。
「あなたが、皇王様だったの?」
「ごめん、何も言えなくて。君はあんなに不安がっていたのに」
 館で一番信頼している人物でありずっと怖れていた人物でもあった皇王は、羅衣と同じぐらいの少年の姿をしていた。月明かりの照明のもとでも判る色素の薄い髪と瞳、今にも折れてしまいそうな華奢な身体付き。繊細な美貌とは対照的に、半纏を羽織った背中には大きな瘤がついている。
(ああ、だからこの人は私に名乗れなかったんだ。皇王と羅衣は、初伽の晩に初めて顔を合わせるはずだから)
 それに、彼自身も生まれた時から人生の全てを一族によって決められてきた。肌の青白さを見れば、外に出してもらえなかったという話が本当だと言う事が判る。そう思うと、羅衣の心に皇王に対する負の感情は生まれなかった。
 羅衣は皇王から視線を逸らすと、箱枕の二つ並べられた臥所の中に入ろうとした。
「羅衣、何を」
「何を、って、私、伽をしなきゃ――」
 突然、皇王は羅衣の肩を掴むと、その身体をぐいと押しやった。
「君は今、何歳だっけ?」
「じゅ、十一歳」
 それを聞いた彼は、今度は羅衣の身体を引き寄せ、抱きしめた。
「まだほんの子供じゃないか。掟だからってこんな事我慢できる歳じゃない」
 不意に、羅衣は肩の辺りに熱さを感じた。皇王が、彼女のために泣いているのだ。
「酷いよ、本人がどんな思いをするか考えてないんだ、みんな。子供だからって、そんな」
「皇王様も、子供じゃないですか」
 やけに切なく痛む心を押さえて、羅衣は言った。
「とてもそうは見えないだろうけど、これでも僕、君より七つは年上だよ。天女の血が濃いからなのか、成長が悪いんだ」
「それは、ただの言い伝えでしょう?」
 皇王は、表に出よう、と羅衣に言った。彼女は肯んずると、歩き慣れていない皇王を支え、庭に降りた。
「僕らの一族が天人の裔だというのは、嘘じゃないんだ。皇王とは、その証を持つ者が継ぐ名」
 敷き詰められた白砂の上で、皇王は半纏を脱いだ。寝間着の襟ぐりは、背中側にひどく大きく開いている。 青白い光に照らされたそれを見て、羅衣はちいさく声を上げた――皇王の背には、一対の大きな翼が生えていたのだ。
 羽の一枚一枚が月光を浴びて、青磁を薄めた翠に光る。淡い淡い、白緑の翼。
「僕はせむしだと思っただろう?普段は半纏で隠れているから瘤に見えてしまうんだ」
 羽毛が、天からはらはらと降り注ぐ。 皇王が翼を羽ばたかせるその光景は痛々しくて、それ故に夢幻的に美しかった。羅衣はもう、声を上げることすら出来ない。
「昔はこの翼は雀ぐらいで、その頃は少しは屋敷の外に出してもらえた。けれど、今の君ぐらいの年齢の時、急にこんなに成長してしまって。別に飛べもしないけどね」
「だから、だから皇王様に自由はないの?」
「そう――この翼は天衣の一族全員の自由を奪っているんだ」
 そして皇王は言った。二人で屋敷を出よう、と。
 「君はよく言ってたよね、掟とか伝統とかで自分の生き方が決められてるのが堪らない、って。僕が、解放してあげる」

 皇王と羅衣は、協力して塀を乗り越え、山林の中に出た。もう皇王も、歩き方を思い出したようだった。
「昔は、よく次の越智や繻子とここで遊んだよ。宝四家の当主の誰かの監視付きだったけどね」
 聞くと、次の越智は宝塔の当主の条件である医師になるため、東京の大学に行っているという。
「この斜面を下りきれば、麓の街に辿り着くはずなんだけど」
 それ以降の事は、二人とも考えてはいなかった。ただ、何かから逃げられればそれで良かった。
「皇王様、気をつけて……足下が滑りやすいみたい。それに、暗くて周りが見えないわ」
「うん。でも、羅衣こそ転ばないように、僕につかまって」
 二人は互いに支え合いながら、一歩一歩斜面を下っていった。木々の間からこぼれる月光のみが頼り。
「皇王様」
「何?」
「もしも天衣の家に生まれなかったら、何がしたかった?」
「そうだね、まずは、学校に行きたかったかな。翼が一族以外の人に見つかったら大騒ぎだからって、実は義務教育も受けてない」
「だったら、勉強は?」
「家庭教師は越智の仕事の一つなんだ。医者になれるくらいだから、みんな秀才揃いだし。法律とかそういう問題は、天衣家の力でどうにでもなるらしいんだ」
「そうなの……」
「あとは、普通に友達と街で遊んだり、可愛い子と恋愛したり」
「……」
「でも――」
 そこで、皇王の言葉が途切れた。慌てて羅衣がその身体を支えると、酷く熱い。
「皇王様、すごい、熱が」
「あ、また、かな」
「また、って、屋敷に戻らないと!」
「そしたら、君は自由になれないよ。羅衣、僕をここに置いていけば、君に普通の生活を送ってもらうのが、僕に、出来る、君への――」
 皇王の身体が、急に重くなる。気を失ったのだ。羅衣は、とうとう堪えきれずに泣き出した。
「駄目よ、他人に優しくしておいて、お返しも受け取らずに死ぬなんてずるい」
 自分が皇王に心を許せたのはこの人の魂が痛々しいほど優しすぎるからなのだと羅衣は思った。
 だからずっと、この人の側にいたい。
 羅衣は泣きながら皇王を運びもと来た道を戻った。何度も転びそうになりながら、それでも懸命に歯を食いしばって。
――二人が屋敷の門の前に戻ったのは、東の空が白み初めた時刻。
 羅衣は門前を掃き清めていた女の使用人に越智を呼ぶよう伝えると、そのまま気を失ってしまった。

 皇王の熱は、越智の尽力のお陰で三日もすれば引いた。羅衣は本来ならば重い罰を架せられるはずだったが、皇王の命により、駆けつけた落葉や紗綾達から叱責を受けるだけで済んだ。しかし、彼女に一番こたえたのは、”皇王”は代々短命であり、当代の皇王も非常に体が弱くこのような熱ですら命取りになりかねないという事実であっただろう。
「落葉さん」
「何だね」
「私――わたくしは正直言って今まで”羅衣”という地位を嫌っていました。でも、決心したんです。わたくし、皇王様にお仕えするに恥じない女になります」
 羅衣は、本家を辞そうといている落葉の双眸をじっと見た。その瞼は赤く腫れ上がっていたが、意志に満ちあふれた瞳は確かに以前とは違っていた。
 落葉は表情をくしゃくしゃに崩すと、羅衣の頭に手を置いた。
「今言った言葉を忘れないように頑張りなさい、羅衣」
 羅衣は去ってゆく車を見送りながら、手にした一枚の羽を弄んでいた。

「そうですか、今日、新しい落葉が本家に」
 敷地内に建てられた茶室の中で茶をたてながら、羅衣は言った。
「ええ、あたし達と同い年だから、ここで暮らす事になったの」
 茶碗を手に取り、紗綾は「これで宝四家の当主全員が本家に集まっちゃったわ」と肩を竦めた。
 あの夜からはや五年あまり、当時の”越智”や”紗綾”は既に鬼籍の人となった――そして、一月前に、羅衣によくしてくれたあの”落葉”も世を去った。
「でも、本当にお葬式の時は驚いたわ。まさか先の落葉さんに隠し子がいたなんてね。人は見かけによらないわぁ」
「……」
「そう言えば、皇王様の風邪、良くなったんでしょう?」
「ええ。越智のお陰です。先の越智殿に劣らぬ腕利きの医者になられて……」
「その越智だけど、確か新しい落葉を迎えに行ったんでしょう?」
 紗綾がそう行ったと同時に、茶室の狭い入り口をくぐって当の越智本人がやってきた。
「お役目、ご苦労様です」
「いや、車の運転ぐらい、皇王様を診るより簡単だよ。そうだ、顔合わせは早く終わらせないと……落葉、中に入って」
 越智に促されて入ってきたのは、制服姿の少年。瞳の苛烈さがひどく印象的だった。
「ようこそ、この屋敷に。あたし、宝弓紗綾。一応、宝弓家の当主よ。よろしくね、落葉」
「わたくしは宝蓮羅衣です」
「宝剣落葉だ。世話になる」
 少年はそれだけ言うと羅衣達に軽く頭を下げ、さっさと茶室を出ていってしまった。
「これはまた、先代とは随分性格が違うわね」
「皇王様の御前に出たとき、失礼にならねば良いのですが」
 苦笑しながら羅衣は、予感のような者を感じていた。
 これから先、自分達の何かが変わってゆく。
(それでも――皇王様、わたくしはあの時の誓いを違えませぬ。羅衣は、ずっとあなたの側に)
 瞳を閉じれば、今も鮮明に思い出す事が出来る――白緑の翼が輝くさまを。

作:姉崎架音様

―了―

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