パーン・ターヌーさんの話1

 メーホーンソーン県クンユアム郡クンユアム町第2地区70番地に住んでいるパーン・ターヌーさんは、第二次世界大戦のことをよく覚えている。1942年のはじめから、終戦の1945年にかけて、クンユアム郡には多くの日本兵がいた。当時、パーンさんは13歳だった。クンユアム郡のほとんど全ての家には、日本兵が寄宿していた。パーンさんの家は市場と警察に近かったので、常時4〜5人の日本兵が寄宿していた。この意味するところは、別の土地で職務を実行する人がいた場合、別の兵士が代わりにやってきていたことになる。空いている家がないようにするためのようだ。家に寄宿していた日本兵は、ほとんどが技術者で順番に交代で寄宿していた。戦争の4年間、兵士たちは家の階下に住み、家の主は階上に住んだ。朝、兵士たちは朝食を摂った後、それぞれ仕事に出かけ、昼には昼食のために家に戻り、昼食後は仕事に戻った。夕方は家主を手伝って夕食とあくる日の朝食の準備をした。

 兵士たちは米搗きや薪割りをし、水を汲んで沸かし、お風呂に入った。家の様々な仕事を率先して手伝った。夕方、ご飯と魚の夕食を食べた後、どこにも出かける用事のないときは、パーンさんの家族と話をして過ごした。また、交代で言葉を教えてくれた。それで、まだ娘だったパーンさんは日本の歌を、少なくとも5〜6曲歌うことができた。それから60年が過ぎた現在、パーンさんは78歳になっているが、まだたくさんの日本の歌を覚えている。そして「靴が鳴る」の歌をまだ歌うことが出来る。

” おてて つないで 野道をゆけば
みんな かわいい 小鳥になって
歌をうたえば 靴が鳴る
晴れた お空に 靴が鳴る ”

 日本の兵士たちは、クンユアムにいる間にクンユアムに関する歌をつくった。題名はなんというかわからない。しかし、パーンさんは歌うことが出来る。

” わたしは クンユアムの娘 どこにも 行けない
クンユアムの娘 クンユアムの娘  ・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・  残る私は クンユアムの娘 ”

 後の歌は、パーンさんは覚えていなかったり、覚えていても、ほんの一部分であったり、である。読者のなかで、さらに詳しいことや、パーンさんが他にどんな歌を覚えているのか、知りたい方がおられたら、ぜひパーンさんを訪れて直接話しをしてほしい。



パーン・ターヌーさん(クンユアムの自宅にて)

 戦時の前後を含む5年ほどの間は、彼らや自分たちの区別なく、人々は友達や親戚どうしのように助け合った。多くの人が亡くなったが、村人たちの心のなかには、まだ日本の兵士たちのことがはっきりと残っている。

 パーンさんは、当時自分の家に宿泊していた日本兵それぞれの特徴や性格、何が好きで何がきらいだったかを覚えている。名前も、全員ではないが覚えている。
たとえば、
サカモト(SAKAMOTO)
ハヤカワ(HAYAKAWA)
ハタクラ(HATAKURA)
ムラカマ(MURAKAMA)
イナジョウ(INAJO)
などである。兵士たちは、東京と大阪の出身であったという。

 「サカモト」は兵士のリーダーで、30歳くらいであった。丁寧で礼儀正しく、パーンさんと一番の仲良しであったそうだ。ほとんど毎日のように、サカモトはやってきて、いろいろな話をした。サカモトはパーンさんの両親に、パーンさんと結婚したいようなことをほのめかしたことがあった。両親もほとんど了承しかけていたが、おばあさんが反対した。おばあさんは後になって問題が起きるのを怖がっていた。それで、その話は終わりになった。

 パーンさんは、家の近くのムアイトー寺院内にあった日本兵の野戦病院でお菓子と果物を売ったことがあった。病院には病気や怪我の兵士がたくさんおり、それぞれが重症だった。パーンさんが持っていったお菓子は、米とゴマとサトウキビの汁をまぜたものだった。日本の兵士たちは「モチ」と呼んで、とても喜んだ。家に泊まっていた日本兵たちは、小麦粉を練って薄く延ばし、緑豆でつくった餡を包み、蒸したお菓子をつくっていた。もしあればココナッツを削ったものも包んでいた。果物は、ナムワーバナナやその他のバナナに人気があった。日本兵たちはナムワーバナナが特に好きで、「バナナ」と呼んでいた。細かく刻んだタバコの葉もよく売れた。その他、卵やイモ類など、食料はなんでもよく売れたという。

 悲しいこともあった。傷ついた日本兵のなかには、財産が着ている服だけ、という者もいた。ビルマからクンユアム郡に逃げてきた兵士は、ほとんどがそのような状態だった。武器やその他のものは、売ったり、食料と交換してなくなってしまっていた。これらのものを手に入れた村人はさらに転売してお金にしたり、食料と交換して、日本兵に渡した。こうして循環していくうちに、多くの村人がお金を持つようになった。あるものは利口で、品物を村人たちが持っている日本兵のものと交換をして、それをさらに売ってお金にしていた。パーンさんはこの様子をムアイトー寺院で見ていた。
 傷ついた兵士への同情は、担いでいったものを下ろしたら、品物を得ようと手が伸びてくることだった。食料を担いだ荷物と別にしておく人もいた。かわいそうになるほど懇願する人もいた。パーンさんはこのような姿を見て、がっかりした。無常で正確なものはない。ほんの少し前まで力を持っていたのに、日本兵がこんな姿にまで落ちてしまうなんて、誰が想像できただろう。こう考えると、気持ちが萎えてしまう。神に懇願するように頼む者もいた。パーンさんが今でも覚えている言葉は「サービス」という言葉である(筆者注:英語のサービスからきているのではないか)。パーンさんも時々物を売ったり、かわいそうに思って無料で配ったりした。パーンさんは、もし貪欲な人であったなら、この年まで苦しい生活をしなくても済んだだろうと語ってくれた。

 もうひとつ、忘れられないことは、日本兵がクンユアム郡に来て2年目の1943年のこと。11月のオークパンサーの日だった。技術者の日本兵で18歳か19歳くらいの、まだ位のない「オリ」という名前の兵士が、ある家の前にある木の下でピストル自殺をした。ここは現在のクンユアム郡の発電所の前にあたる。自分のピストルで頭を撃っていた。友人の兵士たちは「グム寺院」に死体を運び、タイ式に遺体に水をかける儀式を行った。遺体を白い布で包み、机の上に寝かせ、右手だけを出して、そこに友人の兵士や村人たちが水をかけた。パーンさんはこの兵士をよく知っていたので、この儀式に参加した。儀式のあとは、白い布に包まれたままの遺体を担架に乗せて、「グム寺院」の隣の「カムナイ寺院」の裏の池の近くに埋めた。埋めた場所には墓標を立て、日本語で名前を書いた(その後何十年もたって、日本から遺骨収集の担当者が来たときに儀式を行い、遺骨を日本に持ち帰った)。

 パーンさんは現在80歳近い。夫はサオといい、98歳になる。二人ともタイヤイ族である。娘が二人、息子が三人いる。長男はすでに亡くなった。その他の子供たちは、仕事のためにクンユアムを離れている。それぞれが豊かではないため、両親をたすけられないこともある。現在、パーンさんは夫と一緒にクンユアム郡の神廟の裏に住んでいる。そして、まだマッサージ師として働き、一回につき40〜50バーツを稼いでいる。夫のサオさんは、家で寝たきりの生活である。パーンさんの家族の状況は日に日に悪くなっている。
 
 2006年1月7日、筆者はかつての部下であるプラウィット・ジャンタサームさんより連絡を受け、1月4日の夕方、パーンさんの調子が悪くなり、クンユアム病院の救急車で運ばれたことを知った。パーンさんは経済的に苦しい暮らしをしていて、助ける者が誰もいない。筆者はパーンさんとその家族を助けるため、平和財団より3000バーツを得た。パーンさんが筆者に戦争時の様々な情報を教えてくれるようになって10年ほどがたつ。日本の記者や元日本兵がクンユアム郡に来たときも、彼らはパーンさんを訪れ、話を聞いていった。なかには、パーンさんの話を本に書いた人もいる。


 かつて、パーンさんは日本兵と友情を育み、助けてくれた。筆者は、平和財団の役員であり、副代表の林さんにこの話を伝え、パーンさんの生活を助けるために、2006年2月より、月あたり1000バーツを提供する。この知らせはパーンさんをとても喜ばせた。





POL.LT.COL.Chiedchai Chomtawat (チェンマイの自宅にて)

警察中佐 チューチャイ・チョムタワット
平和財団 代表
2006年2月27日