メーラルアン村に不時着した日本軍機2

 次の日の朝10時くらいだった。チェンマイ方面から日本軍機が飛んできて、二人の為に荷物をパラシュートで降ろし
た。その次の日、クンユアム郡警察官ジャン・チャオプラユーン署長と元弁護士のサヌーン・ガンタータン氏とメーホンソ
ンの県議員がパイロットと共に現場に立ち会った。サヌーン氏はパイロットに英語で話しかけたが、この搭乗機の損傷
は激しく、再び飛び立つ事は不可能だった。メーサリアンの日本軍基地から応援が来て、この機体から重要部品を取り
外して持ち帰った。更に次の日、同じ部隊が来てエンジンを取り外し、機体を分解してメーサリアンの基地まで運んだ。
これにはタイ人が雇われ協力した。メーサリアンまで7〜8日かかった。メーサリアン基地まで運ばれた機体は丁重に
処分された。兵士たちはこの機体に黙祷を捧げた。最後に火炎放射器で機体は火に包まれた。戦後、この残骸の部
品やアルミニウムなどは村人が持ち去った。


KAWASAKI K-45 "屠竜"(DRAGON KILLER)

 筆者は取材中にメーラルアンの警察官から、この機体の部品であるアルミニウムの板一つを譲り受けた。これは叩く
ととても良い音がしたので、クンユアム警察ではチャイム代わりに使用した。錆び一つ無いとても優れた材質だ。これを
専門家に調べてもらったところ「FIRE WALL」だった。エンジンの熱を遮断するための部品だった。プロペラもこの時ま
であったが、今ではどこかに持ち去られてしまった。

 この二人のパイロットはメーラルアン村に2ヶ月くらいいた。この2ヶ月の間に何度か飛んできて、降ろされたパラシュ
ートの物資で生活していた。

 ソンサン・タイロンパティー氏、今は70歳の話。氏は当時小学生だった。この二人のパイロットと仲良くなった。パイロ
ットはジャングルでの必需品や、薬、缶詰、服、食糧、お菓子、など持っていたが、お菓子などは子供たちに分けてくれ
た。そして一番大切なものは釣竿と餌だった。餌は疑似餌だった。これらを見て、日本人はこの戦争の為に大変な準
備をしているなと村人は皆感心した。

 この日本兵と村人の交流に何の問題もなかった。子供たちとは良く遊んだ。水泳を教え、魚の取り方を教えた。料理
を作っては食べさせた。持っている薬は、村人や子供が病気になれば差し出した。日本語を教え、自らはタイ語を学ん
だ。パイロット二人は、村の人気者になった。

 別れの日。パイロットは、自分たちの持っている物すべてを村人と子供に渡した。今でも何人もの村の老人はこのこ
とを記憶している。この飛行機は土の下に沈んでしまい今は蔭も形もない、しかしこの日本軍機の不時着とそのパイロ
ットとのひと時の交流は、村人の懐かしい思い出として残っている。

(原文タイ語日本語訳文責 武田浩一)

 この「メーラルアン村に不時着した日本軍機」は、POL.LT.COL.CHIEDCHAI CHOMTAWAT氏が長年の聞き取り調査等により纏め上げた労作であり実話です。
 「屠竜」搭乗のこの二人をご存知の方は、ぜひ当ホームページ管理人までご一報ください。