―山また山の逃避行―

 もう数えきれないほどの山を越えた。あえぎあえぎやっと一つの山をこえたら、その先にもまた山が立ちはだかっていた。しかし、それを越さないと生き抜けない。私たちは気力を振るっていつ果てるとも分からなぬ山道をたどった。そも同じ道を、三々五々、他の兵団の兵も歩いていた。自分で作った松葉杖やツエを頼りに、水筒と飯盒だけを持ちいまにも倒れそうな弱々しい歩みを続ける兵も少なくなかった。途中の山道に「祭り峠」と書いた木札が立っていた。この路は二年前ビルマへ進撃する時祭兵団が作った道路だったので木札が残っていたわけだ。蓬莱境からアンポパイへ通じる山また山の道路は、落ちのびる兵が、まるで神から生き抜くための最後の気力を試されているようなコースのようにも思えた。私たちには、一日十`歩くのがやっとだった。


足を引きずって歩む兵


「祭峠」の木札を見る将校

 同行の、比較的元気な兵から「この道はタイのチェンマイに通じている」と教えられた。そこがどんなところか私はまったく知らなかった。もしかしたら、そこには兵站があり、病院もあるかもしれないと淡い期待を抱いた。一方で、勝ち戦ならともかく、負け戦で負傷をし、病を得た者を病院が手厚く看てくれるだろうかという不安もかすめた。
 何日山の中を歩み続けたか思い出せない。もう長い間、暦のない生活を続けた私たちには「きょうは何日」という概念はとっくに頭の隅から消えていたからだ。何か食うものはないか、だけを思い詰め、歩いては休み、休んでは歩み、日が暮れると眠り、夜が明けると食い物を探しながら歩き続ける暮らしに「きょうは何日」かということは無用だったからだ。短い文章で、記録してきた井上日誌にも、もうこのころは日付けがない。細い山道を下って盆地の中の小さな町であるアンポパイに着いたのは、前後の経過からおそらく七月下旬と思われるが、はっきりした月日は分からない。
 寺のような家に患者中継所があった。私たちは、ほんとに久しぶりに屋根の下で安らかに眠った。更家も私も、少しずつ元気が回復していくのがうれしかった。
 別の家に、護衛の将校に守られたビルマ人の家族がいることがほどなく分かった。青年が一人と中年の女性が四人そして十歳ぐらいの女児の六人である。みんなどことなく気品にあふれていた。同じ傷病兵の中に多田という徳島県出身の通訳官がいて、英語でこの家族と話をしていたので尋ねたら、一行はマンダレー王家の一族ウ・バテン氏一家で、ビルマの独立を願って日本軍に協力したが、日本軍の敗退でシャン高原を南下、タイへ亡命する途中で象に乗ってここまでたどり着いた、ということだった。私がカメラを向けると、快く撮影に応じてくれた。


亡命中のマンダレー王家の一族(ウ・バテン氏一家)

 ビルマで戦った日本軍には一つの大義名分があった。それは、長い間イギリスの植民地として圧政下にあったビルマ人を解放し、その独立を助けるというものだ。しかし、敗戦によって、かえって、ビルマ王族を始めビルマの大衆に迷惑をかけてしまったわけである。ウ・バテン氏一家がその後どうなったか私は知らない。その無事を心から祈るものである。

 この「彷徨ビルマ戦線」(全319ページ)は井上朝義氏が、ご自身の従軍体験を昭和63年に出版されたものです。写真も井上氏のカメラで撮られたものです。当HPでは井上氏の了解を得て、クンユアムの地が書かれている前後、191ページ〜209ページを原文のまま紹介させていただくものです。