浪速大学医学部基礎医学講座の大河内教授は病理学教室の教授です。さて、病理学とは?
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岡山大学医学部「病理学と病理医の仕事」
病理学 (pathology) とは病気の原因 (Etiology of a disease)を明らかにし,それ
によって引き起こされる病気の発症,表現,進展,結末に至る論理的な道筋(病
原論,pathogenesis)を科学的方法により解明しようとするものである.岡山大学医学部「病理医ってどんなお医者さん?」
病理医は病院内でどんな仕事をしているかと言えば、大きく分けて二つあります。
一つは外科材料などの病理診断を行うこと、もう一つは病院でなくなられた患者
さんの病理解剖を行うことです。
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誤診というものは、何時、どんな形で、
思いがけなく襲いかかって来るかもしれないものだ、
臨床医は、常にそうした危険に曝されていることを忘れてはならないよ。
「白い巨塔」第2巻(山崎豊子著、新潮文庫、p.259)
病理解剖とは一つの生命の還らぬ死を、次の人の生に甦らせる尊い手段であって、
心ある臨床医なら、死因にいささかでも疑問があれば、遺族に解剖を勧めるであろう。
「白い巨塔」第3巻(山崎豊子著、新潮文庫、p.209)
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2003年秋から始まったフジテレビのドラマ「白い巨塔」の、品川徹演じる大河内教授のおかげで、初めて、病理学者、病理医に、興味を持った視聴者もいます。かくいう私も、そのひとりです。山崎豊子原作の小説では、大河内教授と登場人物との会話を通して、医学における病理学のたいせつさが、何度も語られます。特に私の心に残ったのは、「医学は、病理から出て病理に帰す」という言葉でした。以下、いくつかの印象に残る言葉を、それぞれの言葉が語られた場面とともに、御紹介しましょう。
(1)まず最初、大河内教授が初めて小説に登場した場面。
臨床における、病理診断のたいせつさを述べる場面です。
今回のドラマでは、江口洋介演じる里見脩二助教授が、大河内教授の研究室を訪ねる場面で、初めて品川徹演じる教授本人が登場し、顕微鏡から顔を上げるところが印象的でした。
小説では、内科の今津教授が、大河内教授の研究室に行って、乳癌の疑いのある患者の組織検査の結果を質問します。結果は、乳癌ではなく、形質細胞乳腺炎でした。大河内教授は、乳癌と形質細胞乳腺炎は症状が酷似しているので、病理組織を検査するとわかりやすいが、臨床的な診断だけでは区別が難しいことを説明し、今津教授は、おかげで誤診を免れられたと感謝を表わします。それに対して大河内教授は、今津教授が臨床医として慎重だったから誤診を防ぐことができたのだと答え、その後に、「医学は、病理から出て病理に帰す」という名言を述べます。
山崎豊子原作の小説「白い巨塔」は、前半は財前助教授の教授選挙、後半は、財前教授の誤診裁判が中心になっています。前半のこの部分、実は今津教授は、東教授の後任に、財前助教授ではなく、菊川教授を推薦するのに力を貸して貰いたいという下心を持って、大河内教授を訪ねたのですが、このときから既に、後半の誤診裁判の伏線ともなる記述が、大河内教授の発言の中にあります。
「いや、それは君の慎重さが誤診を招くことを防いだのだ、臨床医はそれでなくてはいかん、慎重の上にも慎重を重ね、病理検査を丹念に積み重ねておれば、まず誤診は起らないものだ、僕の口ぐせだが、医学というものは、病理から出て病理に帰すものだよ、ところがついベテランともなれば、馴れてしまって自分の経験と勘に頼り、基礎的な病理検査を略してしまうことがある、そんな時、とんでもない誤診が起こるのだな、その点、やはり今津君は噂に違わず、慎重派だな、外科医というと、とかく自分の腕を過信して、すぐ切りたがるものだが、さすがに東君や、君クラスになると、実に慎重で堅実で、見ていて安心出来るよ」「白い巨塔」第1巻(山崎豊子著、新潮文庫、p.311)
(2)次に、里見脩二助教授が、佐々木庸平の診断のことで、大河内教授に質問に行く場面。
「白い巨塔」第2巻(山崎豊子著、新潮文庫、p.259)
里見脩二は、大河内教授に相談した後、診察を受けに来た佐々木庸平を連れて、第一外科の教授になった財前五郎に、相談に行きます。財前教授は、ドイツで開かれる国際外科学会への出席準備でいそがしく、里見に対しても、患者の佐々木庸平に対しても、尊大でぞんざいな態度をとります。里見は、自分が助教授で相手が教授であるからといってひるむことなどなく、ただ、自分の胃カメラのフィルムに対する読影力が足りなくて癌を見逃しているのかもしれないといって、財前に読影を頼みます。フィルムを視た財前は、ちょっと気になるところがあったが、慢性胃炎である、と診断します。里見は、ほっとしながらも、胃の上部の噴門の癌は特に見つけにくいから、外科医の立場から、もう一度、特に胃の上部を念入りに検査しなおしてもらいたい、と頼みます。財前教授は、
結果的には、財前五郎の、終始一貫した、「現段階の診断としてはそれでいい、あとは何かが起こったとしたら診断後に出てきた問題で無関係」という態度が、佐々木庸平の誤診裁判の原因となり、「患者に対して、真摯な厳しさをもってたち向う」里見脩二の態度が、裁判の証人になる、という行動につながります。
(3)最後に、財前教授の誤診裁判で、大河内教授が原告側証人として佐々木庸平の解剖所見を述べる場面。
「白い巨塔」第3巻(山崎豊子著、新潮文庫、p.205)
「白い巨塔」第3巻(山崎豊子著、新潮文庫、p.209)
「白い巨塔」第3巻(山崎豊子著、新潮文庫、p.309)
(1)「認定医制度の手引き / 病理解剖の意義と依頼」(社団法人日本内科学会)
(2)「18.病理解剖の今日的意義と患者,家族への理解の求め方」(中村哲也、国立神戸病院研究検査課)
(1)で説明されている、患者の家族への依頼の仕方や実際例などを読んで、フジテレビのドラマ「白い巨塔」で鵜飼教授が佐々木庸平の家族に依頼したときのようすと比較してみるのも、おもしろいでしょう。
(2)の「2.病理解剖の歴史と現状」を読むと、「白い巨塔」で大河内教授のいう、「欧米ではそれが医者と患者の常識となっており、剖検率の高さによって、その病院の評価が定まるぐらいである」という部分は、少し変わってきているようです。例に挙げられたUSAでは、剖検率は1930年代から増加し、1950年代には病院で死亡する患者の50%に達したが、その後は減少に転じ、1984年には15%を切り、その後も減少傾向が続いている。剖検率の低下はUSAだけでなく先進国共通の現象である。それには五つの理由が挙げられています。
1.剖検数が急激に増加した結果,病理医の負担が増加し,剖検をいやがるようになった.
「臓器提供とは一つの生命の還らぬ死を、次の人の生に甦らせる尊い手段であって、心ある臨床医なら、死後いささかでも移植に使える臓器があれば、遺族に提供を勧めるであろう」
もっとも、臓器提供件数・臓器提供率もまた、USAを含む先進国で、1980年代にピークを迎えた後、減少傾向が続いており、例外はスペインだけです。また、欧米といってもいろいろな国があるので、必ずしもどこの国でもまたどこの地域でも、死後の臓器提供を医師が勧めるのが常識になっているわけではありません。さらにまた、人工呼吸器を着けたままの脳死状態かあるいは心停止直後に摘出しないと移植に使えない臓器と、心臓が停止しからだがつめたくなってから数時間後に採取しても移植に使える角膜や皮膚などの組織とでは、同列に扱ってもいいものかどうか、ここで躊躇するのはけっして非科学的でも感傷的でもありません。
現在、日本臓器移植ネットワークは、臓器移植法に基づき、臓器提供意思表示カードを配布しています。そこには、脳死後の臓器提供・心臓死後の臓器提供・臓器を提供しない、という選択肢があります。
新聞などではよく、心臓停止後の臓器提供には本人の事前の書面による同意がなくても家族の同意で提供できるのに、それを知らない人が多くて、提供件数が減っている、などという記事が載りますが、それは旧角腎法や、外国では法律で家族の同意だけで臓器提供できるとしていることを肯定し、その考え方を推進しようとする立場からの見方です。
さらにまた、臓器提供するしないにかかわりなく、脳死と診断されたら人工呼吸器を切るのか、あるいは人工呼吸器を着けたままで心臓が停止するまで治療を続けるのか、などといったことについても、意思表示カードを配布するなり、病院で入院手続きの一貫として質問するなり、したほうがいいのかもしれません。
同じように、病理解剖も、万一の場合は病理解剖に同意しますか、ということを入院手続きの一貫として質問しておいたほうがいいのかもしれません。
日本の医学教育は,第二次世界大戦敗戦後はアメリカへの傾斜を強めてはいるものの,元来は軍医を中心としたオランダ医学やドイツ医学の流れを受け継いでおり,患者中心の医療という視点が欠けている.これが日本の医療の閉鎖性を生み,医療ミスを生じても患者や家族に真実を知らせることなく内密に処理するなどの弊害につながっているとも考えられる.'医療ビッグバン'では,外資の参入や厳しい競争原理が導入される.医療における競争原理とは単に経済的な側面だけではなく,医療内容に対する公正な評価が要求される.日本の場合,剖検は診療点数に含まれず金銭的にはほとんど各病院の持ち出しであるという問題も残るが,「医療の質の向上に不可欠である」という点が病理解剖の今日的意義の重要な部分を占めるものと考えられる.
「5.剖検に対する患者,家族への理解の求め方」
*参考
これぞ実在の大河内教授!? →癌哲学者、吉田富三(1903-1973)
今回のフジテレビのドラマ「白い巨塔」(2003年秋〜2004年春)では、財前五郎の助教授時代に、大河内教授が自宅にいる場面は出てきませんでしたが、山崎豊子原作の小説では、教授選をめぐって、菊川教授を推す側の人間と、財前助教授を推す側の人間とが、前後して教授の家を訪れます。大河内教授は、奈良の大仏さんみたいな堅物という噂に違わず、清貧という言葉が服を着て歩いているような暮らしぶりです。そして、菊川、財前、どちらの支持者に対しても、厳正中立、公正無私の立場を貫きます。その一方、訪問者側の態度と、大河内教授側の対応とは、菊川派、財前派とで、対照的に違っていました。
二つの訪問を、並べて、見てみましょう。
大河内教授は、清廉、清貧、研究一筋で、りっぱな医学者ですが、世の中がこんな人ばっかりでは、寂しくなることも確かです。一方で、財前五郎の舅の財前又一や、岩田重吉のような、自ら町人医者と称して、開業医として多忙な診療をこなし、茶屋遊びもすれば、地唄などの芸事もたしなむという、江戸以来の上方文化の底力を見せるような、粋でたくましい町医者の魅力も捨てがたいものです。お金で選挙の票を動かすことを当然とわきまえる姿は、下品でいやらしいといえばいやらしいのですが、どこか滑稽で愛嬌があります。小説が発表された1965年は、高度経済成長が始まったばかりで、こんな学者や医者が、大学や町に、実際にいたのでしょう。2003年の「白い巨塔」では、日本全体の状況が変わっています。粋な町医者や、厳格で高潔な学者がいるとしても、また少し違ったようすをしているのでしょう。
2004.01.23. by 「ブラックジャックによろしく・白い巨塔・Dr.コトー」ファン
これもまた、臨床における、病理診断のたいせつさを述べる場面です。
佐々木庸平といえば、後で財前教授の手術を受け、容態が急変し、誤診裁判になる患者です。
佐々木庸平の症状は、内科の診察では胃炎にしか見えませんでしたが、里見は、胃癌の疑いを捨てきれず、内科的な検査の最後に、自分が研究している生物学的反応による診断法を実施してみます。しかしその結果にどこまでウエートを置いていいものか迷い、大河内教授に相談します。
現実には、現在の病院では細胞診がおこなわれていますが、原作が発表された1965年当時はまだ、大河内教授の発言のなかで、学会誌に細胞診というのが出ていた、という言及があるぐらいで、一般化していませんでした。
大河内教授は、里見への思いやりを籠めた返事のなかで、まるで、のちの財前教授の運命を言い当てるような言葉を述べます。
里見脩二も、財前五郎も、かつては、ともに、大河内教授の病理学教室で学んだ仲でした。佐々木庸平の症例よりも前に、里見と財前は、膵臓癌の疑いのある患者の治療をめぐって、お互いに、診断と手術の優れた実力を再評価し、認め合っていました。しかしそのとき既に教授選に関わる考え方、生き方の違いゆえに、二人の間に溝ができ始めていました。そして、里見と、晴れて教授になった財前とは、佐々木庸平の診断をめぐって激しい議論を交わします。結果的に、財前の診断は誤診であり、佐々木庸平は無念の最期を迎えたのでした。その佐々木庸平の病理解剖を、大河内教授が行うめぐりあわせになります。
「いまだにこの間の教授選のことで騒いでいる連中が多い中で、君だけは何時もと変りのない平静さで診察と研究を続け、一つの診断を出すのに、そこまで慎重に、研究的にやっている、医学者というものは、それでなければいけない、しかし、それだけ慎重にやっても、誤診というものは、何時、どんな形で、思いがけなく襲いかかって来るかもしれないものだ、臨床医は、常にそうした危険に曝されていることを忘れてはならないよ」
と答えます。
里見はなおも、これ以上の診察を求めるとなると、噴門癌の権威ある専門家である財前をおいて他にないからと頼み込み、財前は承知します。
「白い巨塔」第2巻(山崎豊子著、新潮文庫、p.274)
翌日、妻と共に診察を受けにきた佐々木庸平に対して、財前は終始尊大な態度で臨みますが、さすがにみごとに噴門癌を発見します。それは、「食道・胃吻合術の権威者として食道から噴門にかけての手術を数多く手がけ、その度に噴門異常を肉眼で視、自分の手で触って来た豊富な経験に基づく勘」によるものでした。
財前教授は、医局員たちに噴門癌の診断について講義するのに時間をとり、佐々木庸平への診断結果の報告は後回しにしています。そして里見助教授を呼び、診断の結果、噴門癌であったことを告げます。里見が財前の診断に感心すると、財前も得意になりますが、里見に促されて、やっと、佐々木庸平を呼びいれ、診断結果を告げて、手術のために入院するようにと言います。財前教授の突き放すような冷たい言い方に傷つく佐々木庸平。里見助教授にとりなされて、入院を承知します。
「白い巨塔」第2巻(山崎豊子著、新潮文庫、p.282)
里見は、佐々木庸平が入院手続きを終えるまでつきあいますが、その後、「いいようのない疲労」を覚えます。そこへ、東佐枝子が診察を受けに来ます。東佐枝子は、ぬけるように白いうなじに青磁色の着物の似合う、美しくて聡明な女性です。里見脩二の妻の三知代の友人で、里見家に遊びに来たとき、学校時代は理科がすきで、「最も客観的なかたちで、正確にものを知ることができる」、と言っていました。佐枝子の診察の後、ふたりは一緒に堂島川のほとりを散歩します。里見から、エックス線写真の読影力の乏しさを知った、という、佐々木庸平の診断をめぐっての財前とのやりとりを聞き、東佐枝子は、日頃、父親で前の第一外科の教授だった東貞蔵から聞いていた話を引いて力づけます。
「現段階の診断としては、それでいいじゃないか、あとは何かが起こったとしたら、それは君の診断後に出てきた問題で、君とは無関係だよ、そんなのに神経質に一人の患者にかかりきっていては、君の体が幾つあっても足りないじゃないか、」という財前と、
「白い巨塔」第2巻(山崎豊子著、新潮文庫、p.289-290)
「患者に対して、そこまで真摯な厳しさをもってたち向っておられる里見先生のお心に搏たれました」という、東佐枝子。
臨床における、病理解剖のたいせつさを述べる場面です。
大河内教授は、教授選のときと同じように厳正中立に、病理学的所見を述べます。
まず原告側弁護士からの質問に対して、大河内教授は、病理解剖について、大学の講義と同じ口調で、次のように説明します。
続いて、佐々木庸平の病理解剖の結果わかった死因について、緻密に説明します。しかし手術すること自体が間違っていたのではないかとの原告側弁護士の質問に対しては、現在、いろんな学説があって外科学者の間でも意見が分かれているから、臨床医の意見をきくべきだと答えます。
「そうですが、病理解剖とは、必ずしも死因が不審であることのみを前提としません、病理解剖というのは一言でいえば、不幸にも死の転帰をとった患者の最終的な全身検査とでもいうべきもので、疾病の原因やその経過、結果などを詳細に観察検討して疾病の理論を科学的に確立するために行なわれるものです、外科の領域に例をとると、最近は手術前後の処置並びに薬剤の飛躍的な進歩によって、術後の死亡例は非常に減少しつつあるが、なお術中、術後に死亡した場合、その原因は何によるのものか、たとえば手術侵襲の過大によるものなのか、または偶然、合併症が起って死亡したものか、というようなことを確かめるために行なうのが病理解剖です」
次に、被告側弁護士が、慇懃無礼に、病理解剖はあくまで遺族の自発的な求めが前提となるべきなのに、今度の場合は、患者の死因に興味をもった或る医師が遺族に勧めてから行われており、興味本位な、死者を冒涜するものではないか、と質問します。それに対して大河内教授は、峻烈な言葉で返答しますが、そのなかで、病理解剖のなんたるかということ、すなわち、ひとりひとりの患者の死を無駄にしないことによって発展した、医学の本質が語られます。
さらに裁判が進んで、臨床医として財前教授の手術を鑑定した、洛北大学の唐木名誉教授は、医師が真摯に診療しておれば、たとえ患者が納得のいかない死に方をしても、患者の家族から誤診の裁判に持ち込まれるようなことにはならずに病理解剖の承諾を得ることが出来るものである、と述べます。
「それについては、先程述べた通りで、重ねてお返事する必要はないと思う、ただもう一度云うなら、病理解剖とは一つの生命の還らぬ死を、次の人の生に甦らせる尊い手段であって、心ある臨床医なら、死因にいささかでも疑問があれば、遺族に解剖を勧めるであろうということと、欧米ではそれが医者と患者の常識となっており、剖検率の高さによって、その病院の評価が定まるぐらいであるということを云い添えておきたい、そうして、あなたのように病理解剖を単に医者の学問的興味によるものときめつけるような軽率無知な言葉を口にする人は、医学の何たるかを知らない十九世紀思想の持主であると申し上げたい」
病理解剖の意義や歴史、医師から患者の家族に依頼するときの注意などは、いくつかのウェブページで読むことができます。
「それが事実であるなら、誠に遺憾なことです、平凡な言葉であるが、いかに多忙であろうと、いかに深夜であろうと、診療を求められればまず駆けつけようとするのが、医師の道徳(モラル)だと思う、医師が人命の尊さを強く意識し、ヒューマニティに徹して尽力した場合は、万一、その死が納得のゆかぬ死に方であったとしても、医師の真摯な態度が自ら患者の家族の心を動かし、頭から裁判に持ち込まれるようなことにはならず、患者の家族から解剖の承諾を得ることすら出来るものです、医師たる者は、悲しみのどん底にいる患者の家族から進んで解剖の申し出を得られるほどの信頼がありたいもので、それには学問に対して絶えず真摯であることと、人間としてりっぱであることの二事に尽きます、特に医師はあらゆる経験・知識・技術を兼ね備えながらも、なお至難な診断の一瞬において、限りない孤独と不安に襲われるものであるから、この医者の孤独に耐え、患者の生命の尊厳を犯すものと最後まで闘い得ることが、医者の使命であり、倫理であります、したがって、もし本件において、財前教授と死亡した患者の間に、このような人間関係、倫理が存在していなかったならば、それは、財前教授の人間性にかかわる問題で、厳しく反省されなければならない」
http://www.naika.or.jp/exam/furoku/1_igi.html
http://www.naika.or.jp/bigbang/content/18/18.html
「死の宣告を行った後,最低15〜30分くらいのお別れの時間をとる」「依頼するときは,病棟担当医,指導医,病棟主任が一緒になってお話しした方がよい」「外来主治医の同席が必要なこともある」「必ず遺族のまとめ役(key person)を含めて話す」「病理解剖が終了したら,遺族に結果の概略を説明する」などの注意事項は、「死の宣告」を「脳死判定」に、「病棟担当医,指導医,病棟主任、外来主治医」を、「移植コーディネーター」に、「病理解剖」を「臓器摘出・移植手術」に置き換えると、臓器提供の意思確認とよく似ています。
このほかに、移植のための臓器提供を承諾する患者の家族がふえたことも理由ではないのかな? と、私は、思います。「病理解剖とは一つの生命の還らぬ死を、次の人の生に甦らせる尊い手段であって、心ある臨床医なら、死因にいささかでも疑問があれば、遺族に解剖を勧めるであろう。」という大河内教授の言葉は、病理解剖を臓器提供に置き換えることもできるでしょう。
「2.病理解剖の歴史と現状」
2.臨床検査法の進歩の結果,病理業務に占める臨床検査の重みが,経済的にも医学的にも増し,病理医の時間と関心の多くを占めるようになった.
3.政府の研究費が増加し,研究費を得ることで名声や昇進,給与の増加を得ることが可能になった.そのために論文の書きやすい実験的研究に病理医の関心が向かった.
以上の要因に加えて,1980年以降の各種画像診断法の著しい進歩と普及に伴って臨床医の病理解剖に対する関心が低下したことや,
医師に対する社会的不信感の増大により剖検承諾が得にくくなったことも剖検率の著しい低下の原因と考えられている.
*参照: (社)日本臓器移植ネットワーク Transplant communication United Network for Organ Sharing スペインの移植コーディネーター
それに何より現在では、患者に充分な情報を提供してから同意を取る、インフォームト・コンセントが重視されるようになってきています。
しかし、それだけでは足りません。
脳死後の臓器提供についても、脳死とはどんな状態かなど、説明が必要ですが、心臓停止後の腎臓提供の場合、心停止前に腎臓機能保存の処置をとること、角膜や皮膚は、心臓が停止してから数時間後に摘出採取しても移植に使えるし、心停止前の機能保存の処置も必要ないこと、などを説明するパンフレットも添付しておいたほうがいいと思います。
しかし、1997年に施行された臓器移植法の趣旨に基づけば、これは本末転倒であって、充分な情報提供に基づく本人の同意がなければ、本人の治療のためでない医療行為はおこなってはならない。またこれこそが、インフォームト・コンセントを重視する、本来の医療のありかただと思います。
(2)の「4.病理解剖の今日的意義」「5.剖検に対する患者,家族への理解の求め方」は、「白い巨塔」の提起している問題とも重なっていると思います。
小説「白い巨塔」で大河内教授が述べた、「一つの生命の還らぬ死を、次の人の生に甦らせる」という言葉は、すべての人がいつかは死ぬという真理の前に、医学だけでなく、科学の基本となる考え方を表わしたものといえるでしょう。
「4.病理解剖の今日的意義」
臨床医による剖検の説明・申し込みに対して患者側が拒否する理由として,診療中に患者や家族と良好な信頼関係が築けなかったこと,臨床医の側の熱意の欠如,患者や家庭の諸事情(医療不信,権利意識高揚,入院期間の長期化,土地柄,宗教などの理由)から剖検を承諾しないことなどがあげられている6).その一方,医師が熱心に治療してくれたとの感謝の気持ちがあり,信頼関係が非常に良い状況であれば,その医師が今後の医療のためにも死因を解明したいからぜひ解剖をさせて欲しいと希望した場合には了承されることも多いという意見もある7).「患者のための医療」であるという臨床医にとっての基本を忘れずに診療にあたり,常に自分自身の臨床力向上を目指して研修に励む態度こそ,剖検に対する理解を求める近道となるのではないだろうか.
岡山大学医学部「病理医ってどんなお医者さん?」 岡山大学医学部「病理学と病理医の仕事」
杏林大学医学部病理学教室 横浜市立大学医学部病理学第2講座「病理学者と病理医」
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2003dir/n2517dir/n2517_08.htm
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kokugoky/yoshidat1.htm
http://www.hps.hokudai.ac.jp/hsci/novel/yosida.htm
山陽新聞2003年11月7日
まず、教授選考委員会で立候補者が、財前助教授、菊川教授、葛西教授の三人に絞られた段階で、菊川教授を推薦するために、大阪府高槻市にある教授の家を、今津教授が訪問します。
「白い巨塔」第2巻(山崎豊子著、新潮文庫、p.81)
こういう、本に埋もれた部屋というのは、たとえば京極夏彦の小説に出てくる、京極堂こと古本屋兼宮司兼拝み屋の中善寺秋彦の家でも、お目にかかります。確かに、品川徹演じる大河内教授には、京極堂に通じる雰囲気もあります……
表通りから脇道へ入り込んだところに、板塀が反り、軒先の瓦がずり落ちそうになった大河内の家が見えた。学士院恩賜賞授賞の著名な学者の家とは見えぬ質素なたたずまいであった。門の古びたベルを押すと、
「どなたさんでございます」
六十半ばの老女が顔を出した。独身の大河内の身の廻りを世話している婆やらしかった。
「浪速大学の今津とおっしゃって戴ければ解るのですが」
老女は、すぐ奥へ取次ぎに行った。
今津は土間にたって玄関を見廻した。上り框の板の間は節だらけで反り、続きの畳も褐色に焼け、殺風景な寒々しさであった。さっきの老女は玄関に戻ってくると、
「只今、書見中でございますので、書斎の方へお通り下さいまし」
「では、お言葉に甘えまして、書斎の方へお邪魔させて戴きましょう」
歩く度に床板が軋むような廊下を通って、奥座敷へ行くと、そこが書斎であった。十畳程の日本間に大きな書斎机を置き、壁際には寸分の隙間もないほど書棚をめぐらせ、人目で畳の窪みが眼につくほど、本の重みがかかっていた。
それはともかく、大河内教授は、休日の自宅のほうがまとまった研究ができるといって、『人体腫瘍学』を読んでいました。教授は研究の邪魔をされたくないと思いながらも、大学の同僚である今津教授には、書斎に通ることを許しています。
次に、教授会で財前助教授と菊川教授の決選投票がおこなわれることになり、財前助教授を勝たせるため、医師会会長の岩田重吉と市会議員の鍋島寛治が、大河内教授の家を訪ねる場面です。財前を応援する医局員が、石川大学まで押しかけて菊川教授に辞退を迫るという事件の後で、岩田と鍋島は、大河内を篭絡するために、袖の下を用意していきます。
(同、p.171-173)
今津教授が訪れたときも、岩田重吉らが訪れたときも、大河内教授の家の慎ましさ、というよりも、家が傷んで手入れもしない、寒々としたようすが、描写されています。それでも大河内教授自身は研究に没頭できる環境で、これぞ楽しい我が家なのでしょう。
岩田と鍋島は、郊外の夜道を三十分余り、医学部の名簿を頼りに大河内の家を探し廻り、表通りから十メートル程入ったやっと中型の車が通れる小道の奥に、大河内と記された表札を探し当てた。
「あっ、ストップ、この家や」
岩田は車の窓から首を出し、もう一度、薄暗い門燈に照らされた表札を確かめてから車を降りた。鍋島も続いて降り、夜目にも解る風雨に曝されて反りかえった板塀を眺め、
「聞きしにまさる荒れ方ですな、この調子では、研究室と同じように玄関先に『面会禁止』の札を貼り出しているのやないでしょうな」
小脇に風呂敷包みを抱えながら云った。
「なんぼ何でも、そんなことはないやろ、今頃は、夕食をすませて人並みに寛いでいる絶好の時間やと思うな」
岩田はそう云い、門柱の古びたベルを押した。勝手口の方からことこと、足音がし、
「どなたさんでございましょうか」
(中略)
二人の名刺を出すと、老女は、勝手の違った顔をし、
「何とおっしゃいますか解りませんが、只今、取り次いで参りますから、少々お待ち下さいまし」
名刺を受け取って奥へ入って行った。薄暗い玄関の二畳は、床板が隙いているのか、畳の下から黴臭い冷気が這い上り、岩田と鍋島は、脱いだオーバーを膝もとへ寄せ、肩をつぼめた。老女はひっ返して来ると、
「どうもお待たせ致しました、只今、書見中でございますし、それにもう夜分のこととて、ご用ならば明日、大学の方へお越し願いたいと、おっしゃってますが……」
と、大河内の言葉を伝えた。
「いや、ごもっとも、夜分に予めお断わりもせず、突然、お伺いするほうがご無礼で、お言葉どおり、明日、大学のほうへお伺い致したいのは、やまやまですが、実は、どうしても、今夜中に先生にお目にかかりたい用件がありますので、恐れ入りますがもう一度、お取次ぎ願いたいのですが」
岩田が重ねて頼み込むと、
「何とおっしゃいますか解りませんが、お尋ねして参ります」
と奥へ入った。暫くすると、廊下を軋ませるような足音がし、大きな咳払いが聞こえたかと思うと、がらりと襖が開き、和服を着た大河内が姿を現わした。
それにしても、一方は書斎に通ることを許し、一方は玄関先というのは、対照的ですね。これは、前者は同じ研究者であり、大学でも大河内教授の研究室に、乳癌の疑いのある患者の相談に来たことがあったから、自宅に来たのも、何か研究に関わることかもしれないと思ったのかもしれません。もっとも、その大学の研究室に患者の相談に来たときも、ついでと見せかけて教授選についての話もしていったのですから、そこは大河内教授も、ひょっとしたらまた教授選の話もしていくかもしれないな、ぐらいは思っていたかもしれません。
それに対して後者は、そもそも研究者でなく、研究一筋の自分に何の用か、おそらく大学の教授選でどちらか一方に加担しろというのであろう、やっかいな、追い返してくれる、という気持ちが、はじめからあったのではないでしょうか。果たして岩田と鍋島は、財前教授のいる第一外科の医局の者が菊川教授に辞退を迫りに行った事件について、財前の弁護を、縷々、並べ立てます。あまつさえ……
(同、p.177-178)
この場面は、田宮二郎主演のドラマ「白い巨塔」(1978年)では、加藤嘉演じる大河内教授と金子信雄演じる岩田重吉で繰り広げられ、大河内教授の激昂する場面を覚えている視聴者も多く、今回は品川徹がどう演じるか、期待する向きもありました。しかし残念ながら今回のドラマではその場面がなかったので、想像のなかで、あの品川徹の大河内教授と、曾我廼家文童の岩田重吉のやりとりを楽しんでおきましょう。
大河内は二人を一瞥し、
「それを云うために、わざわざやって来られたのか、全くくだらん」
懐手のまま、吐き捨てるように云い、
「私はその噂が事実か、そうでないかなど、わざわざ聞かせて貰っても、どうってことはない、あまりくだらな過ぎるからだ、しかし、財前君というのは、君たちがいくら釈明しても、もともと、そういう噂をたてられても不思議でない人間といえるよ、じゃあ、これで……」
突き放すように起ち上がりかけると、岩田は、小柄な体を屈ませ、
「では、お言葉に従い、ご研究の貴重な時間をお邪魔せずに失礼致します、これは、今日のほんのおしるしです」
風呂敷包みを解き、大河内の前へ細長い包みを置いた。
「しるし? 何のしるしかね」
「始めてお伺い致しましたわれわれの名刺代りです、承りますところによれば、先生は玉露がお好きなようで、それをお持ち致したわけで……」
「そりゃあ有難う」
礼を云い、玉露の包みに手を伸ばした大河内は、いきなり、包装紙を引き破った。
「これは何の真似だ!」
茶筒の上に、寸志と記された水引のかかった金包みが載っていた。
「それは、ほんのこちらの気持だけでして、どうぞお気軽に……」
岩田が、硬ばった笑いをうかべると、
「名刺代りに札束とは何たることだ、君たちの口振りから、選挙運動に来たことは解っていたが、黙っておればいい気になって、教授選を何と心得ている、他の教授には、こういうことが通っても、この私には通用せん、教授会いまだ失せずだ!」
と云うなり、金包みを踏みつけた。
山崎豊子原作の小説では、このあと、教授選の決選投票の直前に、大河内教授は、教授選の無節操、無秩序ぶりを弾劾しようとするのですが、鵜飼教授がなんとかおさえます。この場面も、品川徹と、伊武雅刀演じる鵜飼とのからみで、見てみたかったですね。
山陽新聞2003年11月7日