森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2002年01月08日〜01月31日

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RE:「脳死は人の死か」という問いは間違っている! 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月31日(木)13時37分15秒

>萩原優騎さん

>まず、「古くから心臓死が医学的な死である」わけではありません。これは、加藤尚武先生が、『脳死・クローン・遺伝子治療 バイオエシックスの練習問題』(PHP新書、1999年)で、
梅原猛氏の主張を批判する際に論じられている点でもあります。聴診器が発明されたのが
1819年のことであり、それによって心臓の鼓動停止を死の到来の判定に用いることができる
ようになりました。しかし、それだけでは判定の厳密性に欠けるため、呼吸停止、心拍停止、
瞳孔散大・対光反射消失という、いわゆる「三徴候」を採用して、「心臓死」という判定基準が生まれたのです。これは単なる揚げ足とりではなく、下記の切実な問題につながります。

わたしが表現したかったのは、医学的な死の判定基準としての「心臓停止説」、所謂死の三兆候をもって判定される「心臓死」ということです。

>次に、「脳死は人の死か」という問いは誤りであり、本当は成り立たないということを述べます。・・・・・

当初から「脳死は人の死か」という問いかけが誤解を生じるということは、広く言われて来ていたことと認識しています。ただここでは、一般的なひとつの表現として採用したものですが、あなたからのご指摘を受けてみて、ここでそういうところまで言及することも必要だったのかも知れないなぁ...と思いました。

「死」は一連のプロセスであり、「心臓死」も「脳死」の概念も、わたしたちが、社会が、受けとめるための科学的なひとつの判定基準であるという認識を持っています。勿論「死」には色々な捉え方があります。「医学的な死」「法的な死」「社会的合意としての死」、その一方で「哲学的な死」「宗教から観た死」「永遠のいのちから観た死」等々...、人間にとって「生と死の問題」は、ある意味「永遠のテーマ」でもある訳ですから、そういう意味では、「死」は極めて個人的なレベルの問題であるとも言えると思っています。


倫理とは 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月31日(木)12時42分03秒

「倫理とは、人と人との関わり合いの問題です。」とは、『脳死の人』の中で森岡先生が繰り返し述べておられる言葉ですが(そういう認識でよろしいでしょうか?)、

>>むしろ、倫理の重要性は、一般市民なり、それから医学生なり、医療関係者、
>>すべてが、話し合いの中で変わってくる。
>>つまり、倫理というのは、人間同士の行動規範、望ましい行動規範ですから、
>>コミュニケーションが基本になる。

この記述は、中川先生の「倫理」についての認識を表現なさった言葉と思います。それぞれ立場が違えば、その受け止め方もそれぞれですけれども、その違いをどのように表現し合い、互いにどう受けとめ、共通の問題として認識し合うかということが大事なのだと思っていますが...、いかがでしょうか。


「脳死は人の死か」という問いは間違っている! 投稿者:萩原優騎  投稿日: 1月31日(木)01時18分23秒

こちらの掲示板には、久々に書き込みます。掲示板を拝見していて、下記の点にどなたも
触れていらっしゃらないので、以前も書いたことですが、とりあえず簡単に書いておきます。

●ゆうみんさん
>人の死に関しては、古来から「心臓死」が「医学的な死」であると共に「社会的合意として
>の死」でもあった訳です。この両者に矛盾が感じられないからこそ、心臓死をもって法的な
>死と見なされてきたのだと思います。
>日本で「臓器移植法」が制定されるまでに、「脳死は人の死か」というひとつの議論が
>ありましたけれども、本来は医療現場において人工呼吸器の普及によって「脳死状態」に
>陥る患者さんが出てきたという段階で、こういう状態を人々がどう受けとめるかの社会的
>合意が必要ではなかったのかなと思うんです。

まず、「古くから心臓死が医学的な死である」わけではありません。これは、加藤尚武先生が、
『脳死・クローン・遺伝子治療 バイオエシックスの練習問題』(PHP新書、1999年)で、
梅原猛氏の主張を批判する際に論じられている点でもあります。聴診器が発明されたのが
1819年のことであり、それによって心臓の鼓動停止を死の到来の判定に用いることができる
ようになりました。しかし、それだけでは判定の厳密性に欠けるため、呼吸停止、心拍停止、
瞳孔散大・対光反射消失という、いわゆる「三徴候」を採用して、「心臓死」という判定基準が
生まれたのです。これは単なる揚げ足とりではなく、下記の切実な問題につながります。

次に、「脳死は人の死か」という問いは誤りであり、本当は成り立たないということを述べます。
「心臓死」や「脳死」は、「死」そのものではありません。これらは、死の到来に関する、
「科学的判定基準」です。同様に、「意識を回復しない」、「蘇らない」というのも、「死」では
なく、それらは死の到来に関する、「哲学的判定基準」です。そして、「死」そのものとは、
知覚的・言語的経験の範疇にはないものであり、上記の判定基準によって、その到来が確認
されるのです。加藤先生の前掲書も、この種の問題提起をしていますが、「哲学的判定基準」を
「死」そのものと混同しています。同様に、「社会的合意としての死」、「法的な死」というのも、
上記の判定基準を死の到来の判定に用いてよいかという合意もしくは合法化を指すのであり、
これらは判定基準や死そのものとは関係ありません。森岡正博先生が『生命学への招待』にて
展開されている、「科学的事実としての死」、「哲学的レベルの死」、「法的レベルの死」という
「三つのレベルの死」の問題点も、ここにあります。この問題に自覚的なのが小松美彦氏で、
『死は共鳴する 脳死・臓器移植の深みへ』(勁草書房、1996年)に関連の記述があります。

以上のような混同は、脳死・臓器移植に関する我々の認識そのものに影響を与えます。人の死が
脳や心臓の機能停止に還元されるならば、小松氏が前掲書で指摘するように、死というものが
患者の身体に閉塞した現象と見なされてしまうことで、周囲の人々との関係性といったものは
考慮の対象外になるかもしれません。また、脳や心臓の機能停止が死に等しいとすると、「死」
という現象の持つ意味が失われ、死後の身体は単なる物体であるから、そこから自由に臓器を
搾取してもよいという発想が出てくる可能性も否定できません。その上、「意識が戻らない」、
「蘇らない」といったことが「死」そのものであるとされるならば、それらはあくまでも他人
から見た患者の死の判定であるということが忘れられ、死はそれが到来する本人にのみ生じる
代替不可能な出来事であるという点が、十分に意識されなくなるかもしれません。その結果、
本人にとってかけがえのない生命だからこそ、その人の自己決定を尊重するということの
重要性が、いつの間にか見失われてしまう恐れがあります。

我々は、「脳死は人の死か」という問いの罠と、その暴力性に気づかなければなりません。
ちなみに私の立場は、要約すると次のようになります。「脳死判定と臓器移植は容認するが、
臓器移植法は廃止すべきである(ただし違法性阻却論ではない)」、「『自己決定権』としては
認めないが、『自己決定』は条件付きで認める」というものです。今回書き込んだ内容の詳細と
臓器移植法及び自己決定についての私見は、昨年『現代文明学研究』第4号に掲載された拙稿
「自己決定権論争の脱構築―脳死・臓器移植問題を中心として―」をご覧下さい。
この掲示板への書き込みは、きちんと時間をかけて考えた上での責任のある発言としたいので、
最近は大学院が忙しくまとまった時間が割けないため、次はいつ書き込めるか分かりませんが、
この拙稿を併せてご覧下されば、私の趣旨はご理解頂けるかと思います。

http://www.kinokopress.com/civil/index.htm


追加 投稿者:りんご  投稿日: 1月30日(水)14時00分08秒

この小児科学会主催の公開フォーラムは、2001年5月5日に東京女子医大を会場に行なわれました。 スギケン先生の掲示板、日記は、日付をさかのぼって見て下さい。

りんごのつぶやき 投稿者:りんご  投稿日: 1月30日(水)13時43分02秒

小児科学会主催の公開フォーラムをふりかえり、カエルさんのレポートは臨場感あふれ、参加できなかった人たちにもその場のようすを、過去ログとなったその当時のこの掲示板でのやりとりは、森岡せんせと時間と空間を共にしたみんなの率直な感想や思いを伝え、また、主催者側として企画を担ったスギケン先生の掲示板や日記は、苦悩みたいなものがにじみ出ていると思いました。

・5月の過去ログより
http://www.interq.or.jp/earth/elephant/life20010501.html
http://www.interq.or.jp/earth/elephant/life20010507.html

<スギケン先生のHPより>
・掲示板:脳死と移植
http://web.kamogawa.ne.jp/~ichi/cre-k/sugibbs2/trees.cgi?log=
・不定期日記
http://web.kamogawa.ne.jp/%7Esugimoto/topi/huteiki.htm


注文していた シンポジウム「医学と戦争 日本とドイツ」(1993年3月23日)をまとめた「医学と戦争 日本とドイツ」(神奈川大学評論叢書 第5巻)お茶の水書房(1994年初版)が手元に届き、中川米造氏の生命倫理に関連した発言を目にしたので、一部抜粋します。(P.70〜71、82〜83)

http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_contents.cgi/3c4ecaa827f300101e08?aid=p-morioka00730&bibid=01064557&volno=0000&cntfg=1

>私は、生命倫理というようなものは、決して、ただ学問的にレファインすればいい
>というものではないと思います。
>つまり、倫理というものは、先ほど申しましたように、内面化された行動規範
>ですから、それが学説を学べば変わることは難しいだろう。
>むしろ、倫理の重要性は、一般市民なり、それから医学生なり、医療関係者、
>すべてが、話し合いの中で変わってくる。
>つまり、倫理というのは、人間同士の行動規範、望ましい行動規範ですから、
>コミュニケーションが基本になる。

>コミュニケーションのトレーニングというものをきちんとやって、どうやって
>相手を受け入れるか、相手との間の、結局医療技術者とユーザーというのは
>別の世界の人ですから、その別な世界の人がお互いに話し合う、
>そういう場が用意されなければならない。

>学会でちょっと批判的なことを言ったら、その翌日から話もしてくれません。
>つまり、学会で、徹底的な議論ができて、その後一緒に飯も食えるという、
>そういう体質ではありませんので。
>批判したらもう、それとは一生、顔も合わせないという、そういう雰囲気があります。
>そのへんから変わっていかなければいけない。
>倫理委員会自身も、なるべく多くの方を入れて、レベルは低いとあれだけど、
>いろんな意見があってもいい。
>それをお互いに話し合う中で違いがわかってくる。
>共通点を見つけるというより、まず、違いを見つけるということのほうが、コミュニケーションの基本です。

これは、93年の発言なので、それから9年の年月を経て、現在では、医学界にもスギケン先生や、このフォーラムには参加されていませんが濱邊祐一先生のように違いがわかり意見が言える医師が現れ、確実に変わってきたと思います。とにかく、学会主催で、一般市民も巻き込んだ公開フォーラムが行なわれたことは非常に有意義なことだったのだ とあらためて感じました。
それを、ふりかえることができたのは、森岡せんせの存在があってこそですけど。ここが一番重要だったりして(^^)。
りんごは、このフォーラムで、森岡せんせのお話をライブで拝聴し、時間と空間を共に過ごすことができたので、ひたすら感動しておりました。


(無題) 投稿者:ひろき  投稿日: 1月29日(火)14時05分54秒

今日はテストで大学から書いております。
少しだけリンクを読ませてもらいました。
>法律によって、脳死を一律に人の死とする。脳死の拒否権は認めない。
「厚生省の厚生科学研究費研究班のメンバーである町野朔氏」は法学部生ならほとんど知っている
有名な刑法学者ですが、彼の論理では
1、脳死者の人工呼吸器を通りすがりの人が外しても犯罪ではない
2、現行刑法上の屍姦は犯罪ではないですから、脳死体には何やってもいいんですかね
3、脳死体をそのままバラバラに切り刻んでもせいぜい死体損壊罪。
4、死体損壊罪は故意犯しか認めないので、理論上脳死体に対する手術ミスはありえません
5、従って脳死体は新人研修にとって好都合です。

人を脳死状態にさせれば人殺しになるわけですが、その証明も難しいです。
脳死状態で心臓が動いている被害者を無関係な第3者が銃で心臓まで壊したとき
実は被害者が脳死状態だったと証明されれば死体損壊罪なのに
証明できなければ殺人罪になっちゃうわけで、大変です。

町野さんは刑法理論との適合性はあまり考えてなかったでしょう。
いまだに刑法学が人の死については心臓停止説が有力なのも 死の定義については社会通念は外せないと多くの学者が考えているわけです。


りんごさん 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月29日(火)13時07分05秒

公開フォーラム「小児の脳死臓器移植はいかにあるべきか」について、カエルさんのレポートをご紹介いただきどうもありがとうございます。わたしがご紹介した方の報告は、主催者側である日本小児科学会がこの公開フォーラムの成果をどのように受けとめたかを、わたしたちが知ることが出来るひとつの資料として、また同時に、両者の考えの違いを対比させる、あるいは浮き彫りにする、という意味合いもあってここにご紹介した次第です。m(_ _)m

カエルさんのケロケロレポート 投稿者:りんご  投稿日: 1月29日(火)09時35分03秒

・ゆうみんさん

公開フォーラム「小児の臓器移植はいかにあるべきか」は、下記にありまする。
カエルさんの力作レポですう。
なつかしいなあ。

http://www3.justnet.ne.jp/%7Eelellis_fan2/jp3/noushi04.html


ゆうみんさん 投稿者:りんご  投稿日: 1月29日(火)04時31分15秒

その公開フォーラムは、森岡先生も参加されていて、カエルさんのサイトに詳しいレポレポが掲載されてさます。森岡先生の臓器移植関連のページからもいけまする(^-^)。

脳死・臓器移植の問題(続き) 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月29日(火)04時04分02秒

>>3年経って見直しの時期が来て、ドナーの生前の意思表示の問題と、子供の意思確認の問題が浮上して来ている
>そうなんですか?どういう方向に向かおうとしているのでしょうか?

この点に関して追加ですが、医療側からの報告としては下記のURLがあります。

公開フォーラム「小児の脳死臓器移植はいかにあるべきか」報告書
http://plaza.umin.ac.jp/~jpeds/saisin-j.html
http://plaza.umin.ac.jp/~jpeds/saisin.html#24


脳死・臓器移植の問題 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月29日(火)03時58分16秒

人の死に関しては、古来から「心臓死」が「医学的な死」であると共に「社会的合意としての死」でもあった訳です。この両者に矛盾が感じられないからこそ、心臓死をもって法的な死と見なされてきたのだと思います。それが、近年になって人工呼吸器のような生命維持装置が医療現場に登場したために、臨床的に脳死状態の患者さんの生命が維持されるようになった。言い換えると、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止した状態(脳死状態)に引き続いて訪れる心臓停止までの期間を、人為的な医療行為によってコントロールすることが可能となってきた。そこで登場したのが、脳死臓器移植という発想だったということですよね。日本で「臓器移植法」が制定されるまでに、「脳死は人の死か」というひとつの議論がありましたけれども、本来は医療現場において人工呼吸器の普及によって「脳死状態」に陥る患者さんが出てきたという段階で、こういう状態を人々がどう受けとめるかの社会的合意が必要ではなかったのかなと思うんです。そういうことを医療側が怠ったままで、というか社会に対して情報開示しないままに、脳死臓器移植という利用法を開発してしまった...という言い方も出来るのではないかと思うのですが、みなさんいかがでしょうか?

>ひろきさん

>そういうわけではなく、専門家を集まらせた臨調に任せた部分が多かったようです。
厚生省が何もしなかったわけではないでしょうが、
役人が必要な海外のデータを集めて、それを参考に専門家が具体的に決めたのかな?
一度、国会審議で修正が入ったようですが、どっちの方向かはわかりません。 1990年に各界の識者を集めて発足した、首相の諮問機関である「臨時脳死及び臓器移植調査会」所謂「脳死臨調」といわれるものだと思います。その脳死臨調で、確か梅原猛氏が委員長をされたのだったと思います。その辺の経緯については、こちらの森岡先生が『生命観を問いなおす ―エコロジーから脳死まで』(森岡正博著、ちくま新書、1994)で述べておられたと思います。

http://www.lifestudies.org/jp/library00.htm


ひろきさん 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月28日(月)09時58分00秒

「見直し」については、↓に詳説しております。

そういえば、さっき、イタリアの判事という方からメールが来て、移植法改正はその後どうなっているのかと聞かれました。イタリアとは正反対の状況なわけだし、気になるんでしょうね。

http://www.lifestudies.org/jp/ishokuho.htm


(無題) 投稿者:ひろき  投稿日: 1月28日(月)01時36分58秒

>ゆうみん
そういうわけではなく、専門家を集まらせた臨調に任せた部分が多かったようです。
厚生省が何もしなかったわけではないでしょうが、
役人が必要な海外のデータを集めて、それを参考に専門家が具体的に決めたのかな?
一度、国会審議で修正が入ったようですが、どっちの方向かはわかりません。

>3年経って見直しの時期が来て、ドナーの生前の意思表示の問題と、子供の意思確認の問題が浮上して来ている
そうなんですか?どういう方向に向かおうとしているのでしょうか?


RE) 「いのちを考える」 投稿者:かぁのろまあひるす  投稿日: 1月27日(日)22時40分51秒

 ゆうみん様

 「いのちを考える」講演録のご紹介ありがとうございます。早速読みました。
 ざっと読んだ直後の素朴な感想・・「日本の法律の下に生きていてよかった!」

 確かに、死んだものに「治療」も「介護」も費用をかけること自体が無駄なわけですから、
臓器移植を希望しないと即座に人工呼吸機のスイッチが切られる、というのは、
かの国の法律上では当然のことなのも頭ではわかりますけど、改めて読むとかなり
ショックです。
 日本の法律では、移植を希望しない脳死の人はまだ法律上死んでいないことになるからこそ、
入院費に健康保険も機能んですよね?


オリオン書房 投稿者:かぁのろまあひるす  投稿日: 1月27日(日)22時30分13秒

りんご様
 オリオン書房、私はルミネ店以外は行ったことがないので、どちらが大きいのかわかりません。ごめんなさい。
 ただ、ルミネ店の売り場は結構広い方ですよ。

『いのちを考える』 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月27日(日)20時03分45秒

『いのちを考える』講師:森岡正博氏(同朋の集い:2001年11月11日 東海教区仏教青年連盟主催)と題する公開講座の講演録が載っていましたのでご紹介します。

 1.無宗教の立場から生命を見つめて
 2.脳死をとりまく家族の葛藤
 3.受け継がれたいのちを生きる
 4.いのちの選択をしてきた人類の歴史 

 <感想> この講演録を読んで、雑誌などに掲載されている森岡先生の論文調のやや硬い文章(?)とは異なり、「臓器移植」や、「いのち」の問題について、平易な話し言葉で丁寧に語りかけておられるなという印象を持ちました。      

http://www2.big.or.jp/~yba/heart/011111morioka_01.html


訂正です 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月27日(日)19時20分33秒

>sashi. com
 ↓
 asahi. com 

申し訳ないです。m(_ _)m


「臓器移植法」問題について(追加)  投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月27日(日)19時18分04秒

↓ ■「狂牛病で移植手術ができなくなる?」 厚労省の作業班で議論

sashi. com の記事の内容が見られます。 

http://www.asahi.com/life/health/iryo/1204a.html


「臓器移植法」問題について(2) 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月27日(日)13時04分37秒

下の書き込みの際に参考にしたURLです。

↓「参考サイト」 です
名前:ゆうみん  日付:2001/12/11(Tue) 15:42
(参考サイト)
厚生労働省、欧州に滞在したことがある人の献血を制限
http://www.bpro.or.jp/contents/japanese/pages/d_news/2001/0101_mhlw_uk_career.html

厚労省、狂牛病問題で献血による血液製剤の安全性を再検討
http://www.bpro.or.jp/contents/japanese/pages/d_news/2001/0110_03_bse_kenketu.html

薬食審・安全技術調査会、狂牛病対策で献血制限を英以外に拡大
http://www.bpro.or.jp/contents/japanese/pages/d_news/2001/0102_angi_enlarge_donor_limit.html

薬・食審安全技術調査会、欧州3か国を献血制限で追加
http://www.bpro.or.jp/contents/japanese/pages/d_news/2001/0110_26_kenketuseigen.html

厚労省、欧州献血受入制限に3か国を追加
http://www.bpro.or.jp/contents/japanese/pages/d_news/2001/0111_20_oushuu_kenketuseigen.html


「臓器移植法」問題について 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月27日(日)12時58分32秒

>ひろきさん

こんにちは、どうもお久しぶりです。

>昨日、臓器移植法制定時代にちょうどその局にいた厚生労働省の役人とお会いする機会が
ありまして、少しお話を伺ったのですが、役人はほとんどノータッチだそうです。

それはすごいですねぇ! 当初の「臓器移植法」制定の時は、いわゆるハードの問題で「箱作り」だった訳ですよね。それから3年経って見直しの時期が来て、ドナーの生前の意思表示の問題と、子供の意思確認の問題が浮上して来ているということですね。こういう認識でよかったでしょうか?( <みなさま ) 

↓は、以前他の掲示板に投稿した内容ですが、日本で「狂牛病」が発生したことで、臓器移植についても慎重な対応が求められる事態になっているというものです。この問題では、その後厚生労働省側は非情に慎重な対応をとっているという趣旨の新聞記事を目にしました(その記事を探したのですが、今ちょっと見つからなくてすいません)。

「狂牛病で移植手術ができなくなる?」 厚労省の作業班で議論 
名前:ゆうみん  日付:2001/12/11(Tue) 15:39
 厚生労働省の臓器移植委員会は、献血でのルールに準じてこの6月より、狂牛病が報告された英国、アイルランド、スイス、スペイン、ドイツ、フランス、ポルトガルに通算半年以上滞在した人からは臓器の提供を受けないとしてきました。その後、ベルギー、オランダ、イタリアが加えられています。
 日本でも現在3頭の感染牛が報告されており、今後更に増える可能性があるため、同腎移植作業班では「汚染国として移植手術ができなくなるのでは」との議論が噴出しているそうです。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/0111/h1128-1.html


(無題) 投稿者:ひろき  投稿日: 1月26日(土)01時27分25秒

昨日、臓器移植法制定時代にちょうどその局にいた厚生労働省の役人とお会いする機会が
ありまして、少しお話を伺ったのですが、役人はほとんどノータッチだそうです。
基本的に省としては推進派でも反対派でもなさそうでしたが。

本人意思 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月23日(水)02時01分23秒

そうですね。議論のときに言うことと、実際に運用されていること(とくに仲間内の世界で)は、異なるかもしれないということでしょうね。このあたり、慎重に見ていきましょう。

訂正 投稿者:てるてる  投稿日: 1月22日(火)23時36分40秒

>しかし、本人意思がはっきりしないから家族が決定を避けるのは、当然のことではないです。
                                     ↓
しかし、本人意思がはっきりしないから家族が決定を避けるのは、当然のことです。

日本移植学会誌「移植」 投稿者:てるてる  投稿日: 1月22日(火)23時34分20秒

「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会のサイトの1/20更新のニュース
「News16に
ドナー情報数・家族の提供申し出が増えても、臓器提供数は変化なし
移植医療の「啓発」成果の一方で、救命放棄への反対意思も明瞭に」
に、12月10日付の日本移植学会誌「移植」の記事が紹介されています。
この記事は、
「東海北陸ブロックにおけるドナー情報の分析--提供者の意思を成就させるために--」
というものです。
日本臓器移植ネットワーク発足から臓器移植法施行前、臓器移植法施行後から、脳死・臓器移植第一例以前まで、第一例から2001年12月までの3期に分けて、家族が同意する率を分析しています。
この論文の執筆者の意見のなかに、次のくだりがあります。

>U期は、治療担当医から患者家族に、ドナーカードが無くても心停止後に臓器提供が可能であることを伝える機会が増えたが、臓器移植法で本人意思が強調されたせいか、「本人意思が不明だから」と家族自身が意思決定を避ける傾向があった。移植コーディネーターによる説明の膨らみが伴わず、結果的に臓器提供の増加が見られなかった。

このコメントは、本人意思がはっきりしない場合、家族が意思決定することが正しいということなんでしょうか。
しかし、本人意思がはっきりしないから家族が決定を避けるのは、当然のことではないです。

なんとなれば、心臓停止後の臓器提供で、家族の同意による提供が認められるというのは、本人が書面で事前に意思表示していないけれども、本人に臓器提供の意思があったと、家族が知っている、あるいは、家族がそう理解している、ということを、家族による忖度として 認めるということである。何もわからないのに、家族が、決めていいということではない、と、家族の忖度による臓器提供を推進しようとする人が、発言していたと記憶しています。

臓器移植法制定時の、家族の忖度で臓器提供してもよいという移植法案(旧中山案)や、現在の臓器移植法改正案の議論で、忖度でよいという案(町野案)を、本人意思が必要とする側が批判したときに、家族の忖度でよしとする側から、忖度の意味を誤解している、という反論が出たことがあったはずです。
もっとも、町野さんは、人は生まれながらに死後の臓器提供を自己決定していると述べられていますが。

結局、家族の忖度による臓器提供を推進しようとする人々の側は、総体として、本人意思を重視する側から、家族が勝手に決めていいのかと批判されると、いや、家族は、本人の意思を推定し、理解し、あるいは、知っていて、提供するのだ、と反論し、実際は、本人の意思が 家族には何もわからなくても、家族が決めればいい、と思っているのではないでしょうか。

http://fps01.plala.or.jp/~brainx/


時間 投稿者:りんご  投稿日: 1月19日(土)22時41分53秒

・maniさん
恐縮です、そして、ありがとうございます。
また、涙が出てきてしまったあ〜。
悲しみの涙ではなくて、りんごのことを気にかけて下さったmaniさんへの感謝の涙。。。
りんごとよく似た経験をされたというmaniさんは、りんごの人生の先輩ということですね。

りんごの場合、時間だけに解決されても納得出来ないというか、時間では解決できないことに気づいたので、行動にうつしてしまっているのでしょう。
それにしても、これから、どうなっちゃうのかあ。
ことしも、りんごメモメモを書かなくては・・・。

とにかく、こんなりんごは、たくさんのみなさまに、あたたく見守られ、ささえてられて生きております。
みなさま、ありがとうございます。


素通りできない 投稿者:mani  投稿日: 1月19日(土)17時57分28秒

Ciao,
ぱっと見て帰るつもりだったのですが。
りんごさんとよく似た経験をしています。
掲示板のテーマはちょっと無視しちゃいます。

悲嘆の心理学、というのが日本でほんの少しだけ取り扱われた時期に
ちょうど私がいろんなevent記憶を乗り越えようとしたこと、
上智のセミナーにも参加しようかな、と思ったこと、
周囲はいろいろ、少ないけれども日本なりのケアができてきそうな気も
してはいるけれど、結局は、ヒトは忘却の動物、時間が解決してくれるみたい。
はやく、時間以外の助けてくれる選択肢が増えてくれることを期待しています。

何を書こうとしたか忘れてしまった。
りんごさんが何年か前の私のようだったので、つい。

では。


行動 投稿者:りんご  投稿日: 1月16日(水)13時10分31秒

というより衝動かも、だって、下記の講演会も、そんな世界的に有名な方だと認識してなかったのに、なぜか、上智大に行ってみなければというと思いにかられ行動したの。

同じ時期、朝日新聞のテーブルトークでの中川米造氏のインタビュー記事「瞬間で区切れぬ生と死」が眼にとまったのと、父の書棚で偶然、中川氏の「医学を見る眼」(NHKブックス)を発見!

(きっと、リアル本屋さんには、ないと思うので、こちらを)
http://www.easyseek.net/search/index.php3?c_no=10&search=%92%86%90%EC%95%C4%91%A2

それは、医療のあり方や脳死を考えるきっかけになった瞬間でした。
そして、りんごの医療者不振は、和らいでいったのでした。
なので、中川氏のお礼を言いたかったのに、なんと、中川氏も亡くなられてしまい、期を逸してしまった出来事があり、りんごは決意したの、生きてる(この世にいる)うちに行動しなければって。

だから、この森岡せんせのHPで「脳死の人」を見たとき、発売したら探しに行こうって思い、本屋さんめぐりを始めたのでするう。

中川氏について、立岩氏のHPよりですう。
http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/0w/nkgwynzu.htm

りんごの父は、闘病4ヶ月で亡くなったけど、それでも、りんごは、さまざまな想いがめぐり情緒不安的になったりも・・・。
まして、救急の患者さんは、ある日突然、それも、親や配偶者だけではなく、兄弟や、子供が生命の危機に・・・。
考えただけでも、家族にとって受け入れ堅い出来事だと思うのでした。。。


ひと 投稿者:りんご  投稿日: 1月16日(水)02時06分45秒

よく考えると、医療不信というよりか、父とかかわった医療者への不信にちかいでしょうか。
半年くらいは人間不信にも似た感情がわき出ていました。
そんな時、近代ホスピスの創設したCicely Saunders先生の講演会を聞く機会に恵まれ救われました。
A・デーケン先生のお話もあり、外国では、家族や遺族へ悲嘆ケアがあるということを知り、遺族としてうれしく思いました。
その会場が、上智大だったんです。ゆうみんさんの書き込みをみて思い出しちゃった。

ひろきさんは、ご自分の思ったことや感情を的確な言葉で表現できて、うらやましいです。

りんごは、まとまりつかなくて、言葉よりも行動にうつしてしまうのでした。


(無題) 投稿者:ひろき  投稿日: 1月16日(水)01時21分59秒

>りんごのこころの中では、父の死が、人生最大の衝撃であり危機で、医療不信への気づきの連続でした。
私の場合は、兄の死自体は極めて理不尽と思いますが、
倒れてから死の過程までどの段階をとっても充分な措置は取られていたので
そういう意味での理不尽な悲しみはないです。
時間を戻せたら、と今でも思いますが、確実にこの段階で処置していたら助かっただろう
というのがないんです。熱の出た日に本人が遊びに行かなければ、とかは無茶な話だったでしょうし
熱が出た段階で意識のハッキリしている患者を救急救命センターに運ぶのも無理でしょう。
意識不明から発見されるまでの3時間ほどのブランクも
ベッドで寝ている以上は、もっと長い間気付かない可能性も高かったわけで、これもしかたない。
最終的には運命なのかなあ、と感じています。

断言を避け「〜の可能性もあります」「ないとは言い切れません」「かもしれません」的な
医者の発言はどうかと思いましたが、救急救命の現場で働いている以上は仕方ないかな、と思っています。


ひろきさん 投稿者:りんご  投稿日: 1月16日(水)00時43分55秒

ひろきさん、書き込みありがとうございます。
決して、不真面目ではありませんよ。
真面目に、そして真剣に生きておられると思います。

「生活における衝撃の度数」は、「社会的再適応評価尺度(Holmes and Rahe(1967))」のようです。死別や悲嘆を考えるときに、「配偶者の死を100」とするとということはよく聞くのですが、りんご的には、これは、外国の、しかも40年以上も前のものらしいので、なおさらしっくりきません。

また、日常的にいわれる「喪失体験」は、専門的には「対象喪失」と呼ばれ、次の3つの意味を持っているそうです。(保坂隆著「がんとこころ」テンタクル、1400円)
1、現実的な人や物
2、自分が一体化していた環境・地位・役割
3、自分自身の機能や体の一部
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3b1466966685c01062fe?aid=p-morioka00730&bibid=02008427&volno=0000

かけがえのない大切な人が亡くなるということは、遺されたものにとって、ほかの事と比較できないことだと思います。

りんごのこころの中では、父の死が、人生最大の衝撃であり危機で、医療不信への気づきの連続でした。
ことしで、もう6年になりますが、そのときの悲しみが、ときどきフラッシュバックしたりします。

ひろきさんも、これから、つらいと思うことにぶつかるかもしれません。
でも、そういうときは、どうか無理をせずに、なごみ掲示板にも遊びに来てくださーい(^^;。

あと、法律のことは、よくわからないので、是非是非、論文を書いてこの世に発表して下さい。


(無題) 投稿者:ひろき  投稿日: 1月15日(火)22時19分25秒

私は不真面目な学生なので試験中の今でも毎日ここをチェックしてます。
敢えて書き込む内容がなかったので、最近は書きませんでした。
勉強しないと兄に怒られるかもしれませんが、兄が僕のことを自慢していたのは
ろくに勉強もせずぐうたらしているのに、成績は何故か良いということで
ガリ勉はむしろ兄の嫌う所だっとので、これでいいと開き直っています。

来年のゼミは法理学を取ろうと思っています。
テーマは「生命倫理と法」です。何か発言できることが多いかもしれません。

>「生活における衝撃の度数」
これはいろんなケースを平均化したもので、個々の差があるのは当然でしょうね。
配偶者でもある程度自活していけるか完全に片方の収入に頼りっぱなしかで変わるでしょうし
近親者だとずっと一緒に暮らしてきたのと、何年も音信不通とでは全然違うでしょう。

僕の場合は、お互い大学に行ってからも下宿せず、家に帰ると夜は親友のように談笑していたし
お互い認め合っていましたから、衝撃度は限りなく配偶者のそれに近いでしょう。
僕が独立した後なら10ぐらいは緩和されたかもしれませんが。

配偶者は自己形成が完了した後で知り合った人でしょう。
出会ってから亡くなるまでのプロセスは完全に整理可能です。
ところが、僕が物心がつく前から深く係わり合いになっていた人物というのは
ちょっと複雑になると思います。
その人の思い出が始まるところの記憶はドロドロしている。
人格形成はその人との歩みによって作られている場合が多い。
「私」との繋がりは配偶者よりも複雑で深いと思います。
ただ、そういう人は多くの場合家族で、親が先立つのは世の道理で
これに文句を言っても始まらない。けれども、兄の場合は話が違う。
いつかは離れていく存在としても、離れる前にこういうことが起こったというのは
衝撃は相当きついです。今でもずっとひきずっています。

しかし配偶者の死はどんなものか味わったことがないので何とも言えませんね。
今回の件から言えることは、もうそんな目に会いたくないということですが。
これ以上は耐えられませんから。今でも限界ギリギリです。独りものですからその心配はないですが。


成果というより整備 投稿者:てるてる  投稿日: 1月15日(火)20時15分49秒

整備が着々と進んでいるという記事でした。
「脳バンク、心の病を解明」(神戸新聞、1月14日)

移植医療を財政が圧迫 投稿者:てるてる  投稿日: 1月15日(火)19時59分47秒

「県の臓器移植コーディネーター 予算減で活動縮小」(信濃毎日新聞、1月15日)という記事があります。
長野県唯一のコーディネーターが専従を離れて、医療社会事業部の係長を兼務するようになったそうです。コーディネーターの費用は、国と県とが折半しているが、長野県では、財政難を理由に国、県は本年度、活動費を削減したとのことです。 http://www.shinmai.co.jp/news/2002/01/15/003.htm

コーディネーターの活動が縮小すると、脳死や移植について啓発する活動が縮小することが懸念されています。
この調子だと、救急医がコーディネーター的なこともすることが求められるようにならないかと、私などは懸念します。
移植医も救急病院に回っていくようになったりして。

一方、青森県で、移植医療を推進しようという大会が開かれたという、東奥日報の1月13日の記事もあります。この大会では、心臓死後の臓器提供の体験者が、報告をしています。
「わが国では、今後も脳死移植が飛躍的に増えていくとは考えにくい。心臓死による移植は、関係者の努力次第でもっと増える可能性がある」
http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2002/0113/nto0113_3.html

なお、神戸新聞では、1月12日に、厚生労働省が、手術で摘出したヒト組織を研究機関に供給するあっせん事業を始める機関を認可したという記事が、また、1月14日には、福島県立医大神経精神科の脳バンクの事業が成果をあげつつあるという記事が載っています。
本人の生前の意思表示が原則で、意思表示カードを作っているそうです。本人意思を原則としたというのは、脳死後の臓器提供についての法律に学んだものと思われます。心臓死後の脳提供はそれで成果を挙げているのだから、心臓死後の腎臓提供も、本人意思を原則としてもっと宣伝に力を入れてカードを配布すれば、成果が挙がるはず。
ぐだぐだ、本人意思をはずせの、脳死後の提供の規則がややこしすぎるだのと文句言わずに、本人の意思表示が普及するように、もっと努力するべし。国は臓器移植コーディネーターの活動に力を入れるべし。


てるてるさん 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月15日(火)01時27分30秒

ありがとうございます。ひろきさんも、今はいろいろな想いが交錯しておられるのではないかと思うのです。試験中とのことでもありましたし...。身近な者の死を受け止めるという作業は、想像以上のことと思われます。「生活における衝撃の度数」を表したある資料によると、「生活の変化」に対する「衝撃度」は、配偶者の死が100に対して、近親者の死は63となっています。ちなみに、親しい友人の死は37、解雇は47、家族の健康面での変化は44となっています。これに対して、仕事における責任の変化は29,生活状態の変化は25、個人的な習慣の修正は24、などです。(出典がわかりません、すいません)。身近な人の喪失体験が、いかに重いものであるかが実感されます。

阪大病院 投稿者:りんご  投稿日: 1月14日(月)20時22分00秒

Yahoo!ニュースより

<肝臓、小腸の移植患者らが昼食会=約100人が交流深める−阪大病院>
 国内外で肝臓や小腸の移植手術を受けた患者らが13日、大阪府吹田市の大阪大学病院のレストランに集まり、昼食会が開かれた。患者同士の親ぼくを深め、交流を活発にするため、同病院が開催した。20数人の患者のほか、今後移植を考えている人や、医師ら病院側スタッフも含め、約100人が参加した。 (時事通信)
[1月13日19時1分更新]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020113-00000559-jij-soci

阪大病院のレストランって、病院の最上階にあって、なかなか眺めがよかったですう。
昨年行ったのですけど。


ゆうみんさん 投稿者:てるてる  投稿日: 1月14日(月)18時25分42秒

全然、中断していないと思います。
ひろきさんの、法と脳死と臓器移植についてのレポート、私も読みたいと思います。 2ちゃんねるのスレッドも、この話をもっと続けたい人がいるようです。
移植を受ける人の気持ち、移植以外の脳死身体の利用の場合なども、とりあげるとよいのかな、と思います。

みなさまへ 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月14日(月)01時53分24秒

ここの掲示板の流れを中断させてしまったようで、森岡先生、みなさまどうも申し訳ありませんでした。これからも投稿させていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

お詫びと言ってはなんですが、「生命倫理」関連のご案内を転記させていただきます。

『いのちを語り合う会』

日程:(毎月第三金曜日)2002年1月18日、2月15日、4月19日、5月17日、6月21日、7月19日、10月18日、11月15日、12月20日

時間:18:30 〜 20:00

場所:上智大学カトリック・センター(JR四谷駅より徒歩3分。大学北門の側に、新宿通りに面しているところ)

連絡先:J.マシア先生(上智大学教授、カトリック・イエズス会員)
    上智大学(研究室)
    〒102-8554 東京都千代田区紀尾井超7−1 
    Tel.: (03)3238-3843  Fax.: (03)5991-6928
    e-mail: j-masia@hoffman.cc.sophia.ac.jp

J.マシア先生(上智大学教授、カトリック・イエズス会員)が、「一般市民と専門家のあいだ」、「科学技術文明と宗教のあいだ」を結ぶ架け橋になるようにとお世話を始められ、今年は、「生命の始まり」、「生殖医療」、「幹細胞」などのテーマを予定されています。感心のある方々にお声をかけてくださいとのことですので、どうぞよろしくお願いします。


「医事法学」 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月10日(木)11時21分16秒

>ひろきさん

お忙しい最中にも拘わらず、ご丁寧なご投稿をありがとうございました。あなたは、法学がご専門だったのですね。わたしは、「医事法学」を少し囓ったことがあるんですが(門前の小僧ですが...、ハイ。)(^^;; 、この分野の草分け的な存在のお一人である唄孝一先生が、まだ東京都立大学におられた頃に、ある大学の特別講義を何度かお聴きした事があります。「医事法学」は、当時は法学の中でもまだまだ存在感の薄い一分野であると言われていた(と思う)のですが、今や「先端医療や生命科学と法」に関する問題は、人の死生観や生き方をも大きく揺るがしかねない程の問題となっているように思います。あなたが、自らの問題として取り組まれようとなさっている「法と脳死と臓器移植」の問題は、また私たちひとりひとりの問題でもありますね。是非、読ませてください。ご健筆をお祈りしています。


ありがとうございます 投稿者:ひろき  投稿日: 1月 9日(水)22時52分51秒

>また落ち着かれたら、あなたやご両親そして身近な方々の、お兄さんへの想いや、
>医療に対するご感想、脳死に対する医療側の対応などへのご感想など...
>お話を聞かせてください。

いまいくつか文章を書くつもりでいます。
今回の出来事を日記形式にまとめたもの、私と兄との関係について、
そして法学部生と言う観点から今回の事件を契機に法と脳死と臓器移植について述べたもの。
全部、自分の心の整理をつけるためのもので、公表するために作るわけではなく
特に最初の二つは全く私的なもので他の人が読んでも意味があるとは思えません。
ただ、法と脳死と臓器移植は完成させたいと思います。
これからテストが始まりその合間を縫って書くので、他の資料はほとんど読みませんし
臓器移植法さえ読まずに書くつもりです。
最終的にはこれを踏み台にして、来年に脳死を扱えるようなゼミに行きそこで発表する予定なので
今はむしろ何も調べず白紙の段階の意見をまとめるのが大事だと思ったからです。

ただ、こればかりは掲示板で収まるような内容ではないので、メールで送らせていただく
ことにします。よければ読んでください。完成に時間がかかりそうですが。


ひろきさん(3) 投稿者:ゆうみん  投稿日: 1月 9日(水)10時55分15秒

ひろきさん、おひさしぶりです。

もう大学に通われていますか?
また落ち着かれたら、あなたやご両親そして身近な方々の、お兄さんへの想いや、
医療に対するご感想、脳死に対する医療側の対応などへのご感想など...
お話を聞かせてください。

寒さが続きます、お疲れを出されませんように。


非公開だけど 投稿者:りんご  投稿日: 1月 8日(火)18時41分24秒

厚生労働省のHPより

「第11回医学的検証作業グループ」の開催について<非公開>

1. 開催日時
平成14月1月9日(水)13:00〜15:00

2. 開催場所
厚生労働省専用第20会議室(17階)
東京都千代田区霞ヶ関1−2−2
TEL:03-3595-2256

3. 議題(予定)
1 脳死下での臓器提供事例について
2 その他

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/01/h0104-2.html


現代文明学研究

カエルのケロケロレポート2001年5月5日 小児科学会主催 公開フォーラム「小児の臓器移植はいかにあるべきか」
日本小児科学会
日本小児科学会第1回公開フォーラム「小児の脳死臓器移植はいかにあるべきか」

「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会