アメリカでは・・・ 投稿者:森岡正博 投稿日: 5月13日(日)00時20分39秒
臓器の移植数を増やすという情熱を必ずしもともなわない「脳死家族のケア」というものは、
どうしても進展しないのでしょうか? そうだとしたら、やはりそこに、問題を感じます。
臓器提供以外の選択肢 投稿者:てるてる 投稿日: 5月11日(金)04時23分07秒
本人が事前の意思表示をしていないとき、USAでは、ドナーコーディネーターが積極的に関わっていきます。
しかし、臓器不足を解消するということを至上命題にしなければ、ドナーコーディネーター以外の援助職が
関わって、脳死状態を、看取りのための時間として積極的に利用することにより、患者の家族が臓器提供
以外の選択をしても、「慰めとなり」、「不慮または悲惨である死に意義を与える」こともできるかもしれません。5月5日のフォーラムの、柳田邦男氏の講演では、脳死状態を看取りのために利用できた例が
紹介されていたと思います。>脳死状態とは、身を切る思いの親子の別離を、猶予をもって行うために与えられた
>せめてもの配慮なのかもしれない。>少なくとも、私達は、2ヶ月半の時間のおかげで、後々生きられると思っている。
柳田氏は、臓器提供をする場合でも、「グリーフワークにとって重要なのは、時間と猶予である。」
と述べています。
臓器提供しない脳死は、無意味? 投稿者:てるてる 投稿日: 5月11日(金)04時18分43秒
USAの臓器調達機関は60ぐらいありますが、そのホームページでは、脳死の患者の家族は、
臓器を提供することによって、悲劇のなかから、良いものを引き出し、慰められる、
という表現がよく使われます。"HUMAN ORGANS AND TISSUES FOR TRANSPLANT, RESEARCH AND EDUCATION: CURRENT
PRACTICES IN THE UNITED STATES" (訳:中村晃忠)によると、
ワシントンの臓器調達機関Washington Regional Transplant Consortium - WRTCは、
ドナー家族は臓器提供の受益者(beneficiaries)であると定義しています。>ドナーの家族も受益者である。彼らが、および故人が、ドネーションの決定を通じて
>他者を助けることができるということを知って、ドネーションを許したとき、故人の
>家族も恩恵を得る。この利他主義はたびたび慰めとなり、そうでなければ不慮または
>悲惨である死に意義を与える。WRTCのホームページでは、ドナーコーディネーターが、ドナー家族の悲嘆のケアを
sensitiveに援助すると謳っています。
腎臓移植の患者団体の、National Kidney Foundation のドナー家族委員会が作った
Donor Family Bill of Rightsでも、ドナー家族が、専門家のsensitiveな扱いを受けることを
権利として謳っています。
このような臓器調達機関や移植患者団体が、ドナーファミリーのためにsensitiveであるのは、
移植という、本来の目的のためです。だから、切迫脳死の患者をすべて潜在的ドナーとみています。
脳死の患者の家族は、すべて潜在的ドナー家族です。
そして、ドナーコーディネーターがsensitiveに潜在的ドナー家族を受け留めるためには、
患者の家族が死を受け容れるまで、つまり、看取りを終えるまで待つのが理想です。
しかし、充分に待てないときもあります。
そういうとき、ドナーコーディネーターは、潜在的ドナー家族がただの脳死患者の家族として
看取りを終えることよりも、潜在でないほんとうのドナー家族にするという目的を優先して、働きかけます。
ドナーコーディネーターの論文には、次のように書いてあります。> Procurement professionals are often asked how much time should elapse
>before the subject of donation is introduced. Ideally the answer should
>be, "However much time the family needs." Unfortunately, the clinical
>status of the potential donor, the number of patients in the treatment
>unit, and economics do not always allow procurement professionals and
>hospital staff to practice in the ideal.(訳:臓器調達の専門家は、よく、臓器提供の話をするまでにどれぐらい時間をかけるのかときかれる。
理想的には、「患者の家族が必要とするだけの時間」である。だが不幸にも、潜在的ドナーの臨床的状態や、
集中治療室の患者の数や、財政事情が、理想の実践を妨げることがある。)(Ronald N. Ehrle, Teresa J. Shafer, and Kristine R. Nelson,
"Determination and Referral of Potential Organ Donors and Consent for
Organ Donation: Best Practice--A Blueprint for Success",
Critical Care Nurse, Vol.19, No.2, 1999,
http://www.critical-care-nurse.org/aacn/jrnlccn.nsf/(Articles)/192Ca1?OpenDocument)「潜在的ドナーの臨床的状態や、集中治療室の患者の数や、財政事情」が、「理想の実践を妨げることが
ある。」というのは、患者の家族が、どのように看取りをすればいいのかわからないでいるときに、
臓器提供の選択肢を提示することのようです。患者の家族は、死を感じてはいるが、それとはっきり
口に出すことができず、心臓停止まで待つのか、人工呼吸器を止めるのか、決めることもできない。
そのようすを見て、ドナーコーディネーターが話しかけます。http://hayato.med.osaka-u.ac.jp/index/societies-j/tissue/report1.html
虐待が疑われる親の場合 投稿者:てるてる 投稿日: 5月11日(金)04時07分39秒
USAの小児科学会の"Pediatrics"(Vol.106,No.5,November 2000, pp 1151-1153)の
"Forgoing Life-Sustaining Medical Treatment in Abused Children"という論文に、
だいたい、こんなことが書いてありました。臓器提供を前提として、摘出の前に検視をしたほうが、ルーティン的に臓器摘出を拒否するよりも、
検視を丁寧にできると、臓器調達機関は検視局を説得することが望まれている。やっかいなこととして、脳死ではないが、植物状態よりも重症なこどもの場合、
何がほんとうに患者の利益になるのか、決めるのがむずかしい。そのうえ、虐待が疑われている場合は、
生命維持装置を切ることが、虐待を疑われている保護者が、殺人罪になるかならないか、
という利害関心の対象になり、余計に、決定がむずかしくなる。
その場合、院内倫理委員会が審議し、裁判所に持ち込むこともある。法律上は、
生命維持装置を切るかどうかの決定権は、虐待を疑われていても、なお、親にある。
しかし、判例や、法律は、州ごとに違い、病院ごとに方針が異なり、決定の標準は、一律に決められない。脳死の判定が下った場合、これは、死であるから、殺人罪になるかならないかという葛藤がなくてすむ。
そして、臓器提供の決定権は、虐待が疑われる親にもある。虐待が疑われる親への接し方については、一般の親への接し方と同様に、共感的に、
プライヴァシーを守ってするべきである。以上、ざっと拾ってみました。
虐待が疑われる親への接し方については、正しいと感じます。虐待されたこども本人のためにも、
加害者であるかもしれない親に対して共感的に接した方が、結果的に、親としての自覚に基づいて、
いい結論を出すのではないでしょうか。生命維持装置を切るかどうかの決定権が、虐待を疑われていても、法律上は、なお、親にある、
というのも、一概に悪いとは言えないと思います。この場合、USAでも、判断がとてもむずかしい、
というのは、よくわかります。しかし、臓器提供を前提として、電話で担当医から脳死患者のようすをきいて、
事件の捜査に支障がないと判断したら摘出を先にして後から検視をするほうが、
ルーティン的に摘出を拒否するよりも、検視を丁寧に行うことができる、
というのは、ほんとうなのだろうかと思います。そういう場合もあるでしょうが、そもそも、臓器提供の決定権を、虐待が疑われる親に与えるのは、
どうなんだろうかと思います。
あくまでも被疑者であって、有罪が確定していないから、認めるのでしょうか。臓器提供は、虐待が疑われるこども本人のためでなく、関係のない他者のために、
そのこどものからだを利用するのだから、そこまで、親が決める権限は、ほんとうはないはずだと思うのです。5月5日の日本小児科学会のフォーラムで、柳田邦男氏が述べられていたような、親子の間で
生死に関する会話があったとわかる場合にだけ、許されるのではないかと。
脳死の脳 投稿者:森岡正博 投稿日: 5月 9日(水)21時55分56秒
>tityさん脳死の人からとは、たしかに書いていません。ただ、文脈的にはcorpse=brain dead bodyだと思いました。
心臓死したあとで、脳細胞が取れるとしたら、それはそれで、別種の問題を生み出しそうです。
脳死の脳から生きた脳細胞? 投稿者:tity 投稿日: 5月 9日(水)14時01分35秒
Natureを取り寄せてみますが、
引用の部分には「脳死体から」とはどこにも書いていないようですが。
biopsy=生検組織と
post-mortem=検死用の死体から採ったとしか書いてないようです。
RE:「脳死の脳から生きた脳細胞」(2) 投稿者:てるてる 投稿日: 5月9日(水)12時58分44秒
脳細胞を移植する、というのは、臓器の移植ではなくて、組織の移植ですね。
それでは、もし、日本の現行の法律のもとでするとなると、本人の同意がなくても
家族の同意だけで摘出できるのではないでしょうか。
そして、臓器移植では、脳死判定後、摘出を急がないと臓器が痛む、といわれる場合がありますが、
脳死判定後、まだ生きている脳の部分の摘出を急がないと、移植できない、
といわれるようになるのでしょうか。もし、脳の細胞の移植を認めるならば、脳死判定後、生きている脳の細胞の移植もすることもあるのだから、
組織の移植にも、本人の同意が必須だ、という考え方も、できると思います。しかし、まるで、人間を細分化していって、生きるのに最小限必要な部分の機能が不可逆的に停止したら、
後は、解体して他人のために使ってもよい、という考え方のようです。
それが、絶対に悪い、とは言わないけれど、でも、やりすぎ、という気もします。
結局、なんだかんだ言っても、大脳死の概念で死をとらえている、意識が戻らないのならば、世話するのが
たいへんだから死んだことにしよう、と言ってるのと変わらないのではないかと言う気がしてきます。
RE:「脳死の脳から生きた脳細胞」 投稿者:てるてる 投稿日: 5月 9日(水)12時20分39秒
脳死というのは、脳が完全に融解していなくてもよい、ある程度以上脳の融解が進んだら、
それは死んだということだから、臓器を摘出してもよい、と思っている人にとっては、それは、
問題にならないのだと思います。
以前、脳死・臓器移植を積極的に推進してほしい、と思っている人から、何も完全に
融解していなくてもよいし、そんなことを臓器を摘出する前に解剖して調べるわけにも
いかないし、とききました。そして、脳死判定というのは、脳が完全に融解したことを
調べるわけではないということなど、ちゃんとわかって、脳死・臓器移植についての
意思表示をするように、運転免許証と同じように、試験が必要だと言われました。
「脳死の脳から生きた脳細胞」について 投稿者:森岡正博 投稿日: 5月 9日(水)08時35分13秒
大事だと思うので、もう一度書きます。
アメリカで、脳死の人の脳から、生きた脳細胞が採取されました。それを、治療のために使うようです。
彼らはけっこう無邪気に肯定しています。でも、みなさんのなかで脳死は人の死だと思っておられる方の中には、「脳死になった人の脳は
どろどろだから、その人は死んでいる」と思っていたかたはおられませんか? 脳死の脳から
採取した脳細胞が、他人の脳への移植に使えるということは、脳死状態の脳のなかには、生きて
活動している脳細胞がけっこうたくさんあるということを証明しているわけです。このことは以前から指摘されてきましたが、実際に生きた脳細胞が採取されてしまったわけで、
大事件だと私は思っています。なぜ、マスメディアは、このことを報道しないのでしょうか?http://news.excite.com/news/r/010502/14/science-science-stemcells-dc
さらに追加 投稿者:てるてる 投稿日: 5月 9日(水)03時12分49秒
レシピエントとドナー家族が会うことについて、書きましたが、それは、USAでは、
そういうことも行われている、ということで、日本移植者協議会案では、現行法の
ガイドラインの規定をそのまま踏襲して、ドナー家族とレシピエントとがお互いに
個人情報が伝わらないように留意すること、となっています。
だから、お互いに会わないようにすると思います。でも、何も知らせなければ、それでいい、というものでもないと、思うのです。
ちょっと訂正 投稿者:てるてる 投稿日: 5月 9日(水)03時01分28秒
摘出が検死を妨げない場合に限って検視の前に臓器を摘出する、というのは、
日本移植者協議会案にも、はっきり書いてあります。わからないというのは、
虐待の場合なんかについて、どうするのか、ということです。
tityさん 投稿者:てるてる 投稿日: 5月 9日(水)02時59分47秒
>これは、もちろん摘出が検死を妨げない場合に限ってということですが、そのとおりです。USAでは、そうしている州がありますね。
それで、日本もそうするのかどうか、みんなよくわかって議論したほうがいいということです。
日本移植者協議会の改正案だけではわからないから。
そうして、USAでも、虐待されたこどもや乳幼児突然死症候群の場合、検視が
臓器の摘出を拒否する例が多かったのが、州によっては、臓器調達機関が検視局と交渉して、
協力関係を築き、臓器摘出を拒否しないようにしているところもあります。
また、UNOSなども、そのような方向へ変わっていくことを進めています。
移植コーディネーターの雑誌には、虐待の犠牲者からの臓器摘出をしやすくするためにはどうしたらいいか、
というような論文が載っています。日本もそういう方向へ行くのかどうか、日本移植者協議会の改正案では、
虐待の場合について何も言っていないけど、どう考えているのか、明らかにしてほしいと思うんです。私としては、こどもが何も意思表示していないときに、こどもを虐待した親に、
そのこどもの臓器提供への承諾権があるということが、許せないのです。
(USAの場合です)
そのこどもの立場をないがしろにしていると思うのです。
でも、USAのコーディネーターは、ちっともそう思ってないみたいで、堂々としているから、
不思議な気がするんです。そのくせ、レシピエントがドナー家族に会いたいと言うと、虐待されたこどもから
臓器をもらったことを知らせたらショックを受けるから知らせないようにしたり、
ドナーの親が性的虐待者だった場合、レシピエントのこどもに会うと危険だから
その性的虐待者ぬきで、他の家族同士で会うように設定するとか、しています。そこまでレシピエントに気を使うのならば、そんな親の同意のもとで臓器を摘出してはいけないと
私は思うのですが。
そうして、日本移植者協議会は、こういうUSAのやりかたを取り入れるつもりなのかどうか、
聴きたいと思うんです。
失礼しました 投稿者:tity 投稿日: 5月 9日(水)02時09分20秒
てるてる様、ご指摘の通りです。
失礼しました。検死前に云々という点については、厚生省時代、
認めても大丈夫ではないかという旨の発言を
移植対策室の人がされていたように記憶しています。
これは、もちろん摘出が検死を妨げない場合に限ってということですが、
脳死をもって人の死と規定してしまえば、
(原因はどうあれ、もはや「それ」は死体なのですから)
仮に虐待があったとしても、
本人が、親の意思と独立して脳死判定を受け入れる意思を表明していて、
(かつ、持続的な虐待があれば、そういう意思を示す可能性は高い)
虐待の事実については、摘出とは関係なく法的な対応が加えられるのであれば、
虐待の事実をもって、摘出が不適当だったということにはならないと思います。ともあれ、虐待についてはもっと突っ込んだ議論が必要かもしれません。
これまでは、単に虐待の事実を隠すための臓器提供の懸念のみが語られてきましたが、
子どもの意思決定を反故にするという最後の虐待の可能性もあるわけです。自己決定を重視するならば、
虐待(あるいは家族の無理解)が、
自己意思の決定を妨げることがないと担保が必要となるでしょう。
もちろん、私はこうしろといっているのではありませんので。
日本移植者協議会案(2) 投稿者:森岡正博 投稿日: 5月 8日(火)21時18分29秒
そこには、以下の文章があります。 >人の死は一元的に扱われるものである。 脳死一元論ですね。
日本移植者協議会案 投稿者:森岡正博 投稿日: 5月 8日(火)21時15分30秒
てるてるさんがご指摘の点は大事です。
私としては、まず、移植者協議会案が「脳死一元論」つまり「脳死を一律に人の死とする」案
であることに、注意を払いたいと思います。これは、「脳死を人の死と認めない」立場を許さ
ないわけなので、この点で、私はこの案を即却下いたしたいと思います。
(-_-;) Tityさん、てるてるさん 投稿者:le pissenlit 投稿日: 5月 8日(火)20時17分35秒
てるてるさん、ありがとうございました!。
まさにその通りで、Tityさんの文章からですが、画面を上げたり下げたりしている
うちに電報クイズになってしまいました。
そのようなわけで、てるてるさんの得意とするところにより守られました。感謝です。
Tityさん、よろしく大意をおくみくだされば幸いです。
日本移植者協議会の改正案 投稿者:てるてる 投稿日: 5月 8日(火)19時06分56秒
5月5日は、日本移植者協議会は、小児科学会のフォーラムとは別の催し物をしていたし、
フォーラムにも日本移植者協議会や日本移植支援協会の方は来られていなかったようです。
それで、いわゆる「町野案」だけを取り上げていていましたが、日本移植者協議会の改正案についても、
もう少し、取り上げる必要があると思います。おとなについては、本人の意思表示も必要、こどもは、親の承諾だけでよし、という点についての批判は、
町野案への批判とほとんどかぶって、こどもにも意思表示の権利も能力もある、ということでいいでしょうが、
このほかに、検視の前に臓器摘出をしてもよい点について
法的脳死判定によって法的に死であるとし、判定を拒否できない点について注意が必要ではないかと。
これらは、海外と同じような移植医療を受けたいという要望書の趣旨に合っていると思いますが、
USAと同じということは、虐待を受けたこどもの親から臓器提供の承諾を得て、
被虐待児の検視の前に臓器を摘出するという、そういう方法もまたとっていくことになるのかな、
と思うんですが。賛成反対以前に、そういう点を明らかにしておいたほうがいいのではないかと。それから、親が書面でこどもの臓器提供の意思表示をしたらよい、ということになっていますが、
その書面とはどんなものか、親が書面を自分から出す前に、救急医が、臨床的脳死診断のあとで、
臓器提供のことについて何かいうようにするのか、移植コーディネーターへの連絡はいつするのか、
日本移植者協議会案が示しているガイドラインも含めた改正案では、明らかでないのですが。
tityさんとle pissenlitさん 投稿者:てるてる 投稿日: 5月 8日(火)18時48分06秒
あのー、こういうことなんでしょうか。>tityさん
>アンケートについては、
>そもそも、脳死に反対の人は書きにくいものですし、
>もうひとつ気になるのは、
>救急医学会が移植法成立の時の雰囲気に非常に似ていることです。
>すなわち、脳死は認めるが、移植はどうかという雰囲気です。これは、
>救急医学会の移植法成立の時の雰囲気に非常に似ていることです。
>すなわち、脳死は認めるが、移植はどうかという雰囲気です。
ということですね。
つまり、「救急医学会が」じゃなくて、「救急医学会の」。これは、はじめは、
「救急医学会が移植法成立の時に示した雰囲気」
とでも書くつもりが、書き終わった時には、
「移植法成立の時の雰囲気に非常に似ていることです。」
となってしまったのではないかと。次に、
>le pissenlitさん
>>Tityさん
>>脳死は認めるが移植はどうかという雰囲気です。
>脳死は死と認めても移植がどうかという心の動きが残る以上聴く時間が必要だと
>私は思います。これは、
>>脳死は認めるが、移植はどうかという雰囲気です。
>脳死は死と認めても移植はどうかという心の動きが残る以上聴く時間が必要だと
>私は思います。
ですね。つまり、le pissenlitさんは、Tityさんの引用で、
「脳死は認めるが、移植はどうか」の「、」をはずして、
「脳死は認めるが移植はどうか」と書いていらっしゃる。
それから、
「脳死は死と認めても移植がどうか」じゃなくて、
「脳死は死と認めても移植はどうか」ですよね。さらに、
>le pissenlitさん
>「脳死を死と認めても移植かどうかという雰囲気」と書かれていましたのでと書いていらっしゃいますが、上記のように、これは、tityさんの
>脳死は認めるが、移植はどうかという雰囲気です。を引用したのですよね……。
学生さん 投稿者:森岡正博 投稿日: 5月 8日(火)14時04分07秒
現行法では、臨床的脳死状態を、法的な「脳死」とするためには、ドナーカード等で脳死判定と移植の
意思表示していないといけません。だから、現場で医師から「脳死みたいです」と言われても、
それが即法的「脳死」になるわけではありません。
tityさん 投稿者:森岡正博 投稿日: 5月 8日(火)13時59分44秒
Shewmonの話題は、とりあえずこれで終了。でも、大事なテーマなので、適宜復活しましょう。
おっしゃるとおり、原著では、文献に現われたものがほぼ175例、そのなかで厳密に検証できたのは56例と
書かれています。ただ、56例の内訳を見てみると、175例の内訳とほとんど同じ傾向が現われています。
だから、Shewmonの結論はゆるがないと思われます。
危惧・気がかり・ 投稿者:le pissenlit 投稿日: 5月 8日(火)11時27分51秒
yukikoさん
>危惧を申し上げます。
確かに個別です。そうでないと危惧ありです。
「ママに内緒で犬飼っているの。」なんて可愛い望みを聞くことあり。
ママが気がつく時、ママの聴き方次第でいのちある関わりに?。
Tityさん
Tityさんの非常に気になっている誠実な危惧、心に留め拝受いたします。
時の幅の中で淘汰されていない事を認識し、従来の素晴らしい研究土台の
もとに前衛のような新しいいのちを感知する喜びもありましたので。
未完であっても充実したようなそのような違った視座での対話を感じローカル
話題に軽く入って失礼しました。
おしゃるように、ヨチヨチ歩きは周りの方に恵まれないと確かにどこにいくやらです。
シューモンさんも町野先生も森岡先生もTityさんも私を含めてみなさま独り,独り
見える方にも見えない方にも恵まれないと・・ですね。
先日のシンボジウムの先生方が自身であったこと気持ち良かったでした。恵まれた環境。
>少し解説して
「脳死を死と認めても移植かどうかという雰囲気」と書かれていましたので
そこに立ち会っているお医者サマが次の決断に確信を持って動けない時の雰囲気
なのかと思った反応です。Tityさんの意図に即した理解でしたかしら?。
識別のためには関わる人の心情の動きって大切なことであると思ったからです。
言いかえればお医者サマの心に聴く内的作業のことです。間違っていたとしても確信が
あれば救われでしょうが確信が無いのは迷い、そのまま留まる方がより自身で
いられるのではと思った次第です。
教えてください 投稿者:学生 投稿日: 5月 8日(火)10時03分38秒
脳死は死として扱うとは決定していませんよね?
また、移植を前提にしなければ必要のない判断ですよね?
le pissenlitさん 投稿者:yukiko 投稿日: 5月 8日(火)02時54分35秒
>>エゴの問題かもしれん、と
>エゴも発せない子供に、ある親のエゴが加速度かける罠とか。わたしもまた、エゴの強い親ですのでね。罠はあると思います。
ところで、「エゴも発せない子供に、ある親のエゴが加速度かける」との比喩を伺って、
先にわたしが失敗した事例の経験から、感想をひとこと申し上げます。世の親子は、案外と、気持ちがすれ違っているものだとわたしはおもいます。
加速度をかけている、という個別的なことがらになってくると、
具体的事例について、直接的な検討なしに先に進むことは、誤解に誤解を重ねて、
援助方針が大きく偏ってしまうのではないか、と援助者の方に対しては、
危惧を申し上げます。親の気持ちをきいてみれば、案外、そういうことがなくて、驚いているかもしれません。
しかし、子どもには子どもの言い分がある、ということは、これはきっと、間違いありません。
その言葉に、世の親は真摯に耳を傾けるべきだとわたしは思います。
ひとりの親として、わたし自身についてもまた、そう思います。
この話題は最後にします 投稿者:tity 投稿日: 5月 8日(火)00時45分15秒
シューモンの話についてはこれで終わりにします。この間非常に気になっていることは、
検証した数175例という数字が一人歩きしていることです。
実際は56例ですので、原論文を読まずに孫引きで利用されているのだと思われます。
これは非常に危険だということです。
反対する人全員が専門の論文を読む必要はありませんが、
引き合いに出すならば、原著にあたるべきでしょう。
そうしなければ、場合によってはシューモンの研究そのものの評価を
貶めることになりかねません。le pissenlit様。
申し訳ありません、
> 脳死は死と認めても移植がどうかという心の動きが残る以上聴く時間が必要だと
> 私は思います。
ここの部分でおっしゃりたいことがつかめませんでした。
少し解説していただけると助かりますが。
雑感・シンボジウム 投稿者:le pissenlit 投稿日: 5月 7日(月)23時56分25秒
>このページで見てきた人?
上智のシンボジウムの時ご挨拶いたしましたので今回は省略させていただきましたが
「脳死の人」の読書会のメンバー数人と聞きに貴シンボジウムに参りました。今後の促しとスピリチアルな力も頂いたシンボジウムで皆良かったと言っております。
最後の場面でした。ドナーの家族の吉川さんに森岡先生が数回質問し、吉川さんも
率直に心の内を表明していらして、自由な雰囲気が保たれていたこと4時間の実りと思います。
小児科学会主催らしく小児科医の方々の誠実なお顔も見えるシンボジウムでした。
集中治療科の坂井先生の「どこまでの治療」というお話も興味深かったです。
読書会のメンバーの中には杉本先生のリフレクションに感動したと言う者もあり。
会場からの小児科医のレしビエントに接していらしゃる先生のお話参考になりました。
改めて「死の受容の場」は「生の受容の場」と確認しました。
町野先生の二元論的発想での話し方,トータルな身体を前提にする場合、違和感たっぷり、
土着化しないのでは・・とも?。逃げずにいらして・・。
皆様それぞれの中に大事な言葉があり私の中に残りました。
親権について言葉になりませんが何だか思うことあり。
Tityさん
>脳死は認めるが移植はどうかという雰囲気です。
脳死は死と認めても移植がどうかという心の動きが残る以上聴く時間が必要だと
私は思います。
>エゴの問題かもしれん、と
エゴも発せない子供に、ある親のエゴが加速度かける罠とか。
>シューモンの論文は・・・「淘汰」を受けていません。今後・・・検証が必要な文献。
>・・と同様な評価をしてはならない・・。おしゃるような批判をShewmonnは受けています。
・・統合性が維持される確実なケースが1例でもあった場合、従来の定説はそれだけで崩壊・・。
専門外でも納得です。と同時にShewmonの真摯な思考と心意気に打たれつつ・・。
日本移植者協議会のパレード 投稿者:てるてる 投稿日: 5月 7日(月)17時56分56秒
日本小児科学会のフォーラムと同じ5月5日に行なわれた、街頭行動の報告があります。
↓
なんと脳死の人から生きた脳細胞を採取 投稿者:森岡正博 投稿日: 5月 7日(月)10時28分19秒
脳死の人の脳から、生きていて分裂する脳細胞を採取することに成功したとのことです。
いろんな実験や治療に使えるだろうと前面肯定されています。
脳死説がなぜ脳死をなぜ人の死とみなすかというと、脳が死んでいるからでしたよね。
でもそれは機能死の判定しかしません。なので、脳死判定された脳死の脳から生きている脳細胞は
当然取り出せるわけです。
そのことを私はかつてどこかで指摘した記憶があるのですが(いま思い出せない)、それが現実になりました。脳死を人の死だと思っている一般の人々は、脳死になった(死体)の脳から、生きた脳細胞が取り出されて、
他人の脳に移植されていくということを分かっているのかな?http://news.excite.com/news/r/010502/14/science-science-stemcells-dc
メタアナリシスについて 投稿者:森岡正博 投稿日: 5月 7日(月)08時17分22秒
>tityさんご教示ありがとうございます、なるほど。
ただ、Shewmonの行なっている脳死循環動態調査は、一般的な疫学メタアナリシスと同様の評価を
してはならないと私は思います。すなわち、人間の生死にかかわっているからです。たとえば、
すこしずれますが、脳死からの回復例というものが仮にあったとして、それは1例でも見つかれば
それで脳死概念崩壊を意味します。ここが「精子が疫学的に減ったかどうか」というメタアナリシスと
まったく異なる点です。脳死循環動態は、後者にきわめて近いと私は思っています。
実際、おっしゃるような批判をShewmonは受けています(という話を聞きました)が、
このような反論をしたようです。すなわち、統合性が維持される確実なケースが1例でもあった場合、
従来の定説はそれだけで崩壊するのだと。論文を読めば分かるように、Shewmonの論述の力点は、
何%あったかという統計学的なところにはなく、何例あったかという反例の枚挙にあります。
このことは、彼の研究が疫学的な研究ではないことを示しています。
(>おたく的ローカル議論ですいません>みなさま)
いろいろ 投稿者:tity 投稿日: 5月 7日(月)03時20分50秒
まとめてレスで失礼します。メタアナリシスについては、どれほど基データが正確なものであっても、
情報の不足から残るであろう撹乱とバイアスが大きな問題として残り、
結果、とんでもない結論を導いてしまうことがあります。
有名な例としては、
Elisabeth Carlsen, Aleksander Giwercman, Niels Keiding, and Niels E. Skakkebaek
(1992) Evidence for decreasing quality of semen during past 50 years. British Medical
Journal, 305: 609-613.
に端を発する論争があります。
これは、世界的にヒトの精子が減少しているということをメタアナリシスを使って検証したもので
日本でもよく引用された文献ですが、
多くの反証と追試が行われ、ほとんど信頼性のないものだということが明らかになりました。
この場合、使った文献はMEDILINEの15,000件であり、いいかげんなものではありません。
シューモンの論文は、残念ながらこうした「淘汰」を受けていません。
今後利用していくならば、こうした検証が必要な文献だと思われます。> 「脳機能不全状態」において、循環動態長期安定例が多数存在するという事実であり、
> これが、従来の「定説」を覆すことであり
という点については、二つの問題があり、
一つは、現場では、成人で30日ぐらいはいけると言われていること、
かつ、それがおおっぴらには言われないことだと思います。
とくに、最近の呼吸器管理の進歩は目を見張るものがあり、
今後注目しておかなければいけない分野だと思っています。アンケートについては、
そもそも、脳死に反対の人は書きにくいものですし、
もうひとつ気になるのは、
救急医学会が移植法成立の時の雰囲気に非常に似ていることです。
すなわち、脳死は認めるが、移植はどうかという雰囲気です。
現場では、おそらく、もうだめだという意味の脳死はあるのだと思います。
しかし、じゃあ死んだことにしてというのではやはり大きな隔たりがあるのでしょう。
これは憶測に過ぎませんが、
脳死判定した人が摘出・移植までやるとなると
どっちに転ぶかは分かりませんが、かなり違った意見になると思います。また、これはいい悪いという話ではないのですが、
患者もちゃんと医者を選んでいるということです。
強い医者の下には強い患者たちが集まりますし、
そこには入っていけない弱い患者もやはりいるのです。
それは力がないというとかそういうことではなく、
そういう人として、じゃあ、その人たちをどうやってフォローできるのかが
医療者に真に求められることでしょう。