森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2001年03月18日〜04月02日

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臓器移植体験者の立場から 投稿者:カオル  投稿日: 4月 2日(月)00時25分52秒

澤井繁男さんの「臓器移植体験者の立場から」(中央公論新社1999年)を読んでみましたが、
「新潮45」の内容が、さらにつっ込んで書かれていて参考になりました。
澤井さんの考え方については、共感できる部分とできない部分がありましたが、
現実に、移植を待ち望まざるを得ない人の言葉には、首肯かされるものが多くあります。

>弱者・病者の気持がどれくらい判るというのか。(p.202)

という言い方は、「男に女の気持がわかるか」とかいうのと少し似てますが、
それはある面、正しいのではないかと思います。
実際、わたしも前に、「移植を待ち望まざるを得ない人たちの気持はよくわかるのだが…」
みたいなことを、どこかで書いたような気がしますが、ずいぶん酷いことを書いたものだなと思います。


レネー・フォックス博士 投稿者:てるてる  投稿日: 3月31日(土)16時49分20秒

レネー・フォックス博士は、「臓器交換社会―アメリカの現実・日本の近未来
[原書名:Spare Parts:Organ Replacement in American Society]」の共著者の一人ですね。
この掲示板の上からリンクしている過去ログハウスの「資料紹介」のコーナーにもとりあげています。

「“命の贈り物”と“スペアパーツ”―臓器移植のもつ二つの意味」という演題は、カオルさんの投稿
「移植された臓器が死んだ日」で取り上げている内容とちょうど一致するのではないでしょうか。
「新潮45」4月号の澤井繁男さんの「移植された臓器が死んだ日」では、次のようにも書いています。

> 移植臓器は、ドナーの方の肉塊が〈いのち〉へと止揚された段階で第一の関門は通過であるが、
>ありのままにわが身を見つめると、〈いのち〉の彼方にやはり歴然>と〈モノ〉が「いま・ここ・自分」にある。
>動かしがたい証拠であり、生命の昂揚感も〈モノ〉に促されてはじめて発露される。
> 〈モノ〉と〈いのち〉で争っても不毛であろう。〈モノ〉が〈いのち〉に、〈いのち〉が〈モノ〉に
>変容する妙を会得しかぎわけること。これこそクオリティ・オブ・ライフの一環ではあるまいか。
>クオリティは「(特)質」であるが、僕には「徳性・力(ヴァーチュー)」に思えてならない。


フォックスの講演会 投稿者:森岡正博  投稿日: 3月31日(土)00時35分05秒

行きたいけど、行けない・・・・。

講演会“命の贈り物”と“スペアパーツ” 投稿者:tity  投稿日: 3月30日(金)20時06分08秒

来る4月6日(金)18:00より
順天堂大学医学部8号館3号教室で、
標記の講演会が開催されます。
演題:“命の贈り物”と“スペアパーツ”
―臓器移植のもつ二つの意味
講師:レネー・フォックス博士
対象:研究者、学生、一般
入場無料
主催:財団法人 野間科学医学研究資料館
TEL03-3947-6479
FAX03-3947-4361

つづき 投稿者:てるてる  投稿日: 3月28日(水)12時00分33秒

↓のサイトからリンクしている、赤ちゃんの臓器を提供したおかあさんの主催している、
ドナーファミリーのためのフォーラムには、移植待機中の患者さんの投稿もあります。
他の患者さんが先にドナーがみつかったときのことが書いてあります。その投稿への
レスには、家族の臓器を提供する決心をした瞬間のことを書いているドナーファミリーの
投稿があります。その瞬間は心が引き裂かれるようだったとも書いています。

ドナーとレシピエントのためのサイト 投稿者:てるてる  投稿日: 3月28日(水)11時43分40秒

USAの、ドナーとレシピエントとが交流できる掲示板があります。リンクも多数。
赤ちゃんの臓器を提供したおかあさんの主催する、ドナーファミリーのためのフォーラムや、
生体間移植のドナーのフォーラムや、十代のためのフォーラムなどがあります。
だれかが死んで自分が生きる、というのは、どんな気持ちか、という、
若い人からの質問に対して、肺移植を受けた女性が、自分の気持ちを丁寧に答えています。
自分が死んだら、髪を贈りたい、と言っています。↓

http://www.transplantbuddies.com/


「新潮45」4月号 投稿者:てるてる  投稿日: 3月27日(火)22時59分24秒

カオルさんの投稿「移植された臓器が死んだ日」で取り上げられている、
「新潮45」4月号には、「ゴールデンチャイルドという名の『胎児』」
というルポルタージュも載っています。
これは、USAでの、中絶胎児や凍結受精卵を使ったビジネスの話で、
無脳症児や、代理母の話も出てきます。
マイアミの検屍官事務所の話もあります。
「司法解剖を必要とする殺人事件の被害者でも、ドナーになれるばかりか、
移植コーディネーターが脳死状態を検屍官に電話で報告すれば、解剖前の
臓器摘出が許されている。」

移植者協議会案 投稿者:森岡正博  投稿日: 3月27日(火)11時50分02秒

移植法ページにさっそくリンクしました。
これで、予想されていた改正案が全部出そろいましたね。

日本移植者協議会案と町野案 投稿者:てるてる  投稿日: 3月27日(火)08時43分11秒

日本移植者協議会案と町野案を比較すると、次の相違点と共通点があります。

(相違点)
日本移植者協議会案では、15歳未満の人だけ、遺族の同意だけでも臓器提供が
できるようになっている。
町野案では、15歳以上の人も、遺族の同意だけでも臓器提供ができる。ただし、
未成年は、同意できる遺族の範囲は、もと、親権者であった者、である。

(共通点)
脳死判定について、拒否権は、本人にも遺族にもない。


日本移植者協議会の改正案 投稿者:てるてる  投稿日: 3月27日(火)08時36分36秒

日本移植者協議会が臓器移植法改正案を発表しています。↓

その特徴は、第6条「臓器の摘出」(具体的にはこどもの臓器提供の承諾条件)と
第7条「臓器の摘出の制限」(具体的には検視)の改正です。

第6条の改正点
(追加)
>死亡した者が15歳未満のときは遺族(親権者)が臓器を移植術に使用されるために提供
>する意思を書面で示した場合も移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者
>の身体を含む。以下同じ。)から摘出することができる

(削除)
>臓器の摘出に係る前項の判定は、当該者が第一項に規定する意思の表示に併せて前項
>による判定に従う意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた
>その者の家族が当該判定を拒まないとき又は家族がないときに限り、行うことができる。

第7条の改正点
>検視その他の犯罪捜査に関する手続きに支障がないと判断された後または
>当該手続きが終了した後でなければ、当該死体から臓器を摘出してはならない。

「検視その他の犯罪捜査に関する手続きに支障がないと判断された後または」という部分を追加している。
これは、以下の趣旨による改正です。

>死に至った損傷の部位によっては、提供意思を表明している臓器については検視の
>対象外になることもあり、その事は専門家が見れば判断できる事である。
> したがって、検視の手続きが終了する以前であっても、臓器を摘出することが
>可能な場合もあることを考慮すると、第七条については、検視その他の犯罪捜査に
>支障がないと判断されたときは、検視終了以前でも臓器の摘出ができるよう、以下
>のごとく改正すべきである。

この、検視の前に臓器を摘出してもよい、ということについては、先にこの掲示板で紹介した、
「刑法雑誌」38巻2号(1999年2月)でも取り上げられていました。

近藤和哉「検死と臓器移植」p.94-103
「第二に、七条に関しては、将来的な見直しの可能性のひとつとして、司法解剖に先だって
臓器摘出を可能にするような変更を加えることが検討されてもよいように思われる。
前述したように、現在の七条の下では、司法解剖が行なわれる場合には、
それが終了した後でなければ臓器の摘出は許されない。しかし、創傷の部位や状況によっては、
司法解剖以前に臓器を摘出しても、司法解剖の目的を達成できる場合が存在する。
……(中略)……もっとも、司法解剖は、本来、全臓器を対象として行われれるものであり、
すでに臓器が摘出された死体について司法解剖を行うことは、
法医学的には相当に異常な事態である。また、臓器の摘出を先行させても差し支えないとする
判断に、法医学の専門家をどのように関与させるかという問題もある。」(p.100-101)

なお、USAのマイアミで、事件で傷ついたような臓器は移植に適さないので、検視を移植の後に
行なうというニュースについて、やはり、この掲示板で、3月9日に、韓国の臓器移植法との関連で、
投稿しています。掲示板の下の「次のページ」をクリックして御確認ください。
「韓国の臓器移植法 投稿者:てるてる  投稿日: 3月 9日(金)21時44分23秒」

http://www.jtr.ne.jp/osirase2.html


脳死の人からの肺移植 投稿者:てるてる  投稿日: 3月27日(火)06時41分56秒

脳死の人から肺移植をした女性についてのルポルタージュが、文藝春秋4月号に載っています。
高橋幸春「脳死肺移植『第1号女性』の日記」p.200-206

移植された臓器が死んだ日 投稿者:カオル  投稿日: 3月26日(月)23時32分31秒

「新潮45」4月号に、澤井繁男さんの「移植された臓器が死んだ日」という記事が載っています。
他者の臓器によって生かされることの苦悩や、拒絶反応のことなどが生々しく綴られています。
中に、以下のような文章がありました。

>臓器は<いのち>であって<モノ>ではない、よもや<部分(パーツ)>では
>ない、と主張してきた当人が、交換すれば我が身がたすかるその糧として、
>窮地に陥ると、ころっと立場を逆転させて<モノ>を欲するこの現金さ――
>これも自分であり、ありのままに見定めると自己嫌悪に襲われる。

>生命倫理学とか生命学とかいう鹿爪らしい学問分野がはやっているようだが、
>ほとんどの研究者がみずからの肉体の苦痛をなめたことのない頭でっかちで
>あるのは、書かれたものを読めばすぐに判った。けれども彼らよりは身の苦
>を知っていた僕なのに、土壇場で馬脚をあらわしてしまった。


角膜移植について 投稿者:てるてる  投稿日: 3月26日(月)19時47分22秒

青野透さんの「角膜移植と臓器移植法の基本理念−法はどう機能したか」は、
重要な論文だと思います。
もっと前からウェッブページに載っていて、紹介しようと思っていたのに、
おそくなってしまいました…m(_ _)m

http://www.law.kanazawa-u.ac.jp/aono/kakumakuisyoku.htm


「関西市民の会」の情報 投稿者:てるてる  投稿日: 3月26日(月)19時41分54秒

英文の「脳死反対宣言」(「臓器移植法改正を考える」ページからリンクしている)の
日本語訳「脳死・臓器移植に反対する国際共同声明」が、「『脳死』・臓器移植に反対する
関西市民の会のサイト」(同じく「臓器移植法改正を考える」からリンク)に載っています。

「『脳死』・臓器移植に反対する関西市民の会のサイト」には、講演会・医学会の開催予定の
ページもあり、最近、お役立ちの情報がふえています。


小児救急 投稿者:yukiko  投稿日: 3月23日(金)02時06分08秒

3月22日の朝日新聞(朝刊)「論壇」に、群馬県立小児医療センター院長 土田嘉昭氏の
「小児科医不足に診療報酬改定を」という投稿が掲載されています。

現在、小児救急の輪番制が検討されているが、小児科勤務医の数の少なさが障害である、
また、小児科は看護時間が長いが、現行の診療報酬体系では看護婦さんの長時間労働に
応じた給与を支出できない、
2000年4月には診療報酬体系上「小児入院医療管理料」が新設されたが、これを使うと
かえって収支がマイナスになる、と書かれています。

診療報酬体系が現状に合っていない、という話は広井良典「医療保険改革の構想」でも
読みました。

それから、tinyさんの紹介ページに「小児脳死判定以前に、小児救急の充実が必要では」
という項目があります。地元の小児科の開業医は夜は診てくれませんので、わたしも
子どもが病気の時には小児救急のお世話になります。夜間診療をしている近くの総合病院
には小児科医がいませんから、そこへは行けません。車で30分くらいのところにある
第3次医療施設に直接連れて行きます。

現在、救急医療体制は、初期救急医療施設→第2次救急医療施設→第3次医療施設、
と、3段階になっています。で、下手に救急車を呼ぶと、律儀にこの順序で患者が回されて
しまうのです。心配な時には、自分で直接病院に連れて行かないと怖い。
回っているうちに子どもが手遅れになった、という話を実際に千葉の新聞で読みました
(日付など覚えていません)。

この事件は、初期救急医療施設の医師が誤診をしたか、各医療施設の治療能力について
勉強不足だったために紹介病院を間違えた、と記事には書かれていましたが、わたしは
もし第2次医療施設に小児科医がいたら、3つも回らずに済んだかもしれないのに、と
思いました。

子どもの移植を推進するなら、前提条件として、小児救急を整備することが必要です。


「刑法雑誌」38巻2号 投稿者:てるてる  投稿日: 3月21日(水)13時08分52秒

1999年2月の「刑法雑誌」38巻2号で、「臓器移植と刑事法」という特集をしています。
これは、1998年5月に大阪市立大学で開かれた研究会の報告で、町野朔さんが司会です。

このなかに、町野案の共同研究者の一人である、長井…(「円」の旧字体です)さんの論文が載っています。
脳死を一律に死とすること、脳死判定の拒否権を認めないことを主張しています。
「脳死について本人等の選択権・拒否権を肯定することは、『同意』の存否により『人間の尊厳』の
基礎となる生命権保障に差異を設けるゆえに、憲法13条・14条に違反する疑いが強い。」

長井氏の死生観は、以下のようなものです。
「生命とは『自律的に統合された組織体』であり、その自律的統合の崩壊が『死』である」

心臓死説については、以下のように述べています。
「その『自発性』『統合性』を欠く人工的で部分的な機能の存在ゆえに『生命』を肯定しようとする
『脳死批判論』は、生命を『血液ポンプ』のように解する『機械的生命観』に依拠しない限り、これを
支持しえない。」

現行の臓器移植法の第6条については、以下のように述べています。
「法6条1項によれば、『死体』には『脳死した者の身体を含む。』これによって、『脳死』は
『人の死』として法的にも確認された。…(中略)…『脳死した者』という文言は、死者への
礼意の表現にすぎず、またドイツ法のように、『死者の人格権』を肯定する立場からすれば
至極当然の表記なのである。さらに、『含む』という文言も、脳死反対論を排除する趣旨を
示すと同時に、『脳死体』とは別に『心臓死体』の存在を法が予定していることを示している。
このことは、附則4条からも明らかであるが、『二つの死』を肯定するものではないことに
留意すべきであろう。…(中略)…『二つの判定方法』が予定されていても、
『心臓の不可逆的停止』が『脳死』に依存する限り、結局は『脳死基準』に統一されよう。」
「『心臓死』は『脳死』の古き名でしかなく、その『判定方法の精密化』の歴史があったにすぎない。」

臓器提供について
「『脳死』が人の死であろうとなかろうと、人々は最終的には『自己の死生観』に依拠して
『臓器提供』の意思を決定するのである。この本人の意思が法で最大限に尊重される
保障がある限り、様々な理由から脳死を受容しえない人々の自由も十分に保障されうる。」

社会的合意について
「社会的合意が今移植を要望する少数者を軽視する多数者の力に迎合する論理と
なりえなくするための出発点は、何よりも『死』の基準の法的明確化であろう。」

以上、ざっと、引用してみました。
最後の、社会的合意について、
「今移植を要望する少数者を軽視する多数者の力に迎合する論理」
という指摘は、言われてみればそのとおりかもしれないと思います。

脳死についての解釈は、船橋市立医療センター脳神経外科の唐澤秀治さんの
「脳死判定・最新の研究から」に書いてあることとかなり違うと思います。


高校の授業 投稿者:森岡正博  投稿日: 3月21日(水)00時18分20秒

最近、よく、高校の授業で臓器移植(法改正)についてやりたいとか、ディベートするという
メールをいただきます。総合的学習の時間とかの導入で、このテーマが多く取り上げられているのでしょうか?
 考えるきっかけを彼らに提供するという意味で、よいことではと思います。
中高の先生の方・生徒さん、みなさんのところでは、どうなんでしょうか?

テキストファイルの件 投稿者:tity  投稿日: 3月18日(日)01時54分33秒

森岡様、ありがとうございます。
4月に次の交渉を行う予定で、
その時に提出する議事録の原稿をそのまま貼り付けたもので、
その作業が終わり次第、HTMLにしていきます。
また、例えば、二ボーとか専門用語にも解説をつけなくてはいけませんし。
申し訳ありませんが、ダウンロードしてワープロソフトで見てくださいませ。

tityさん 投稿者:森岡正博  投稿日: 3月18日(日)01時36分21秒

リンク先、とても重要な情報だと思いますので、ぜひHTMLにしてください。
テキストだと、みるのがしんどいです・・・。

臨床的脳死の必要性 投稿者:tity  投稿日: 3月18日(日)00時47分27秒

私は「薬害・医療被害をなくすための厚生省交渉」という
市民運動に参加しているのですが、
そちらで脳死・臓器移植の問題も討論しています。

昨年12月1日に交渉を持ったのですが、
11月17日の臓器移植専門委員会で議論になっている
「臨床的脳死」の問題と「いつコーディネーターに連絡するか」について
厚生省としてのはっきりとした見解を頂いております。
まだ編集中で、テキスト直貼りで申し訳ないのですが、
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/4651/49/noushi.txt
の後半、福岡徳洲会病院の事例についての議論をご覧下さい。

http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/4651/


TransplantBuddies.com

日本移植者協議会「『臓器の移植に関する法律』の改正にむけて」

青野透「角膜移植と臓器移植法の基本理念−法はどう機能したか−」