森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2001年01月21日〜01月30日

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死の到来 投稿者:らら  投稿日: 1月30日(火)23時23分26秒

荻原さんの書かれた、
>私がこのようなことにこだわるのは、脳死や心臓死といった生理学的状態が、
>「死」に還元されることで、それがあたかも患者本人だけの問題であるかのように見なされ、
>患者が死を迎える場面での、周囲の人々との関係性というものが、
>医療の現場で重視されなくなっていくことを恐れるからです。

同感です。
「脳死が人の死か」という問いは成り立たない、というのは上智大学のシンポジウムで、
マシア氏が指摘していることでもあり、また氏の「移植医療への疑問」という論文でも、
死の確認をおろそかにすべきではないと主張されています。

で、話しはそれるかもしれませんが、森岡先生の指摘された、死生観の一律な定義に文句を言わない
海外の宗教界のことについて少し考えたのですが、海外の宗教界の方と話していて思うことは、
彼らの宗教は「生」の宗教であり、「死」には無頓着、あるいは避ける傾向を持っている、ということです。
死者にむかってけっして語りかけることはない、という彼らの発言を聞いて、あまりにも驚いたことがあります。
だって、私は物心ついた頃から、死者にむかって「お元気ですか?」って聞いていたので。

彼らは、死者を想起するが、死者とは対話しない、語りかけても対話は成りたたんでしょ、と言っていました。

私にとって、
死がどのように、いつ到来したか、というのは大きな関心事であり、その人と私の間に新たな関係性が
生まれるときでもあるので、そこをすっとばすことには抵抗があります。
もしも家族がドナーカードを持っていて脳死になった場合、私ならきっと、自分の思い過しになるかも
しれないけど、彼に問いかけると思う。
死が到来するプロセスの中で彼と一緒にいながら、自分のからだに響いて来るものを信じて
対話につとめると思う。そうして自分は泣きうめきながら、最後の決断をするんだ。


月曜日の朝日新聞 投稿者:てるてる  投稿日: 1月30日(火)19時07分36秒

きのう、1月29日(月曜日)の朝日新聞東京本社版朝刊に、
「脳死移植 60代女性の夫語る」という記事がありました。
昨年11月、函館の病院で脳死判定を受けた女性の事例です。

自分たちの腎臓病のこどもに、生体腎を提供した妻が、脳死後の臓器提供の意思表示をしていて、
夫は、脳死状態の彼女の手が温かく、呼吸もあるので気持ちが揺れたけれども、妻との約束なので、
臓器が傷まないうちに早く提供したいと思った。けれども、心臓は提供できなかった、それがとても
残念だった、ということです。

ちょっと、この御夫妻への事前の説明はどうだったのかな、と思いました。
本人が脳死状態になってから、家族に移植コーディネーターが説明するよりも、ドナーカードに署名する前に、
本人と家族が一緒に説明を受けるようにしたほうが、臓器提供の実際にはいろんな理由で臓器によっては
提供できない場合もあるという話も落ち着いてゆっくり聴けるだろうし、家族も気持ちを確かめることが
できるのではないでしょうか。

新聞では、夫が脳死状態の妻の手を握ると温かく、
「数時間後には心停止になると頭では理解していても、本当につらかった」
と書いてありましたが、数時間後とは限らないと思うのですが、この場合は、
そんなふうにはっきりわかっていたのかしら、とちょっと疑問に思いました。


森岡案 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月30日(火)18時36分58秒

賛同者になってくださる方から、メールをいただきはじめております。ひとつの問題点は、住所を書くのを
躊躇するという点のようです。住所は、その賛同者がこの地球上に実在することを保証するものだと
思いますので、自宅である必要はなく、会社、大学、学校などの気付でもよいはずです。
(詳しいからがおられましたらご教示ください)。ネット上の運動が、現実世界に降りていくときに、
こういう不思議な問題点にぶつかるのですね。発見です。お名前・住所は、ネット上には発表しません。
紙に印刷して送付する文書に添付します。

ひきつづき、賛同者を募っています。


萩原さん 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月30日(火)16時46分14秒

>みなさん 細かい話になってすみません。

>萩原さん
おっしゃりたいことは理解しています。ご指摘の最後の7行ほどのことは、脳死議論の専門的な分野では
すでに80年代に論議されてある種のコンセンサスがあったところです。80年代はじめの
アメリカ大統領委員会でも、その議論はありました。たとえば、1988年のデンマークの倫理委員会の議論は、
「医学的な脳死判定が確定したときに、その人に死が到来していると考えていいのか悪いのか」
という問題設定をして、それに対して、NOと結論しました。
緻密な議論のレベルでは、このあたりのことは、認知されていました。ただ、それが、もっと大きな範囲の
議論になったときに、この問題設定が「脳死は人の死か」という言葉へと簡略化され、その結果、
「人の死を医学によって定義できる」という誤解をたくさん生んだことは周知の事実です。
日本医師会の提言もこの過ちを繰り返しています。とくに日本では、この概念レベルの違いの問題
(カテゴリー・ミステイク)の論点は、それほど意識されることなくいまに至っていると思います。
私が『生命学への招待』にてその点を不十分ながら書こうとしたのは例外的でした。


判定基準と概念の混同 投稿者:萩原優騎  投稿日: 1月30日(火)01時14分53秒

>違法性阻却論は、医学的な意味での「脳死判定」を否定していません。
>「脳死判定基準」によって「脳死状態」と判定された人間は、
>しかしながら依然として「生きている」と考えるのです。
>それで、「脳死判定」されたところの、生きている人間から(のみ)、
>臓器摘出が許されると考えます。
違法性阻却論が脳死判定という医療行為そのものを否定していないということは、
私も知っていたのですが、やはりご指摘のような定義上の問題で、
一般的な定義との間で誤解が生じてしまうのでしょう。
>従来の使用法は、「脳死判定」というのは医学的な「脳死状態」の到来の判定です。
>そして、到来した「脳死状態」という生理学的状態が、「人の死」かどうかを決める
>(あるいは決めない)という次元が、「脳死は人の死かどうか」という次元であり、
>その次元で「脳死=人の死」という立場を取ることを
>「脳死判定」とは呼んできませんでした
>(それは強いていえば「人の死の脳死による定義」とかでしょうか)。
>萩原さんは、この「人の死の脳死による定義」のことを、
>「脳死判定」と呼んでおられるようなので、一般的な語法とのあいだに、
>誤解が生まれやすくなっていると思います。
例えば、私は前回、次のように書きました。
>私は自分の見解を、違法性阻却論に含めるべきだとは考えません。
>私の案では、脳死判定の採用を否定していないので、この定義には合致しません。
ここで私が書いた「脳死判定を採用する」という表現は、脳死判定という医療行為によって、
その患者の死の到来を判定することを認めるという意味です。
ですから、「脳死判定」をこのような意味として理解して頂けるならば、
私の主張は、違法性阻却論と合致しないということになります。
しかし、これだけでは十分にご理解頂けないかと思いますので、
私の言う「脳死判定」とは一体何なのかということをより明確に示すために、
私が論文に書きました内容とも重なりますが、それに関してもう一度書きます。
ただし、森岡先生がおっしゃっている内容に多少の修正を加えつつ、です。
何よりも重要なのは、「脳死状態という生理学的状態が人の死か」、
「人の死の脳死による定義」といった表現を退ける、ということです。
なぜなら、脳死状態という生理学的状態は、
身体がそのようになったという状態変化なのであって、
それが「人の死」と等しいものであるはずがないからです。
このことは、心臓死に関しても同じことが言えます。
これらの生理学的状態は、「死」なるものの到来を判定する基準なのです。
そこで、私はこれらを「科学的判定基準」と名づけました。
更には、「意識が回復しない」、「蘇らない」といった、患者の周囲の人々による認識も、
「死」そのものを指しているわけではありません。
私はこれらを、「哲学的判定基準」と名づけました。
では、私のいう「死」とは何か。それは知覚的、言語的経験の範疇に無く、
上記の判定基準によって、周囲の人々によってその到来を判定されるものです。
それを私は、「概念としての死」と書きました。
私がこのようなことにこだわるのは、脳死や心臓死といった生理学的状態が、
「死」に還元されることで、それがあたかも患者本人だけの問題であるかのように見なされ、
患者が死を迎える場面での、周囲の人々との関係性というものが、
医療の現場で重視されなくなっていくことを恐れるからです。
こうした状況を、小松美彦氏は「個人閉塞したし」と名づけ、それに対抗するものとして、
「共鳴する死」を掲げました。そこから小松氏は、自己決定権を否定しようとします。
しかし、他者との関係性における死の問題は重要であるとしても、だからといって、
自己決定権そのものの否定には至りません。立岩真也氏が批判するように、
死そのものはその患者本人に到来するのですから、この代替不可能な死にのぞむ患者の、
自らの死に関する自己決定を他者は否定することができないのです。
このような代替不可能な死は、その死が他者と「共鳴する」ことと矛盾しません。
まとめますと、私がここで扱っているのは、「人の死の脳死による定義」ではなく、
「人の死の到来を、脳死という科学的判定基準によって判定すること」なのです。
ここでは、「到来」という言葉が入るかどうかということ、「定義」と「判定」の違い、
これらの言葉の使い方に注意してみてください。
「脳死は人の死か」という問題設定は成り立たない、これが重要だと私は考えます。
ここでは、脳死という科学的判定基準と概念としての死という、
次元の異なる、比較不可能なものを比較しているからです。

拒否 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月28日(日)23時03分49秒

>てるてるさん

そうです。親が事前に承諾をしていたとしても、いざとなったときに親が拒否する自由は確保しておく
ということです。『世界』論文でも、法案のところの記述はそのようになっています。

>ららさん

そうですね。不思議なのは、海外でどうして宗教界が、死生観の一律な定義について文句を言わないのか
ということですね。


森岡案を読んでいて、感想 投稿者:らら  投稿日: 1月28日(日)22時54分46秒

>何を「死」とし何を「生」とするかという「死生観」は、
>人間にとって非常に大切なものである。30%の国民の「死生観」を法律によって
>全否定することは避けなければならない。

「宗教なき時代を生きる」森岡先生のこれを読んで、宗教界は賛同するんじゃないですか(^^)。


下の投稿を読んでいて、感想 投稿者:らら  投稿日: 1月28日(日)22時34分33秒

「臨床的な脳死判定」をされた身体と「法的脳死判定」をされた身体の間に、
死が滲みこんでいく、脳死を通って死にゆく方々は、このプロセスを行かれるのですね。

このプロセスの一番はじまりが死だ、と言う人もいれば、
このプロセスの途中が死だ、と言う人もいれば、
このプロセスの最後が死だ、と言う人もいるのでしょう。

しかしいずれにしろ、臓器を摘出する場合、死んでいる状態からでなければだめだ、
というのが前回の国会での結論だったわけで、苦し紛れではあるけれども、
脳死を一律に死とすることはせず、死に行くプロセスを認めたんだ、とも言えるかもしれない。

もっとも必要だと感じることは、細密な情報が新聞等で取り上げられることです。
下記のネット百科のような書き方や、「脳死って死でしょ。」的な短絡的な知り方でしか
知られていないこのような重要事項について、私たちがお茶の間で会話することだ、と。


確認 投稿者:てるてる  投稿日: 1月28日(日)22時00分25秒

>15歳未満12歳以上の場合は、「本人の意思表示」および「親権者による事前の
>承諾」がドナーカード等によって確認されている場合であって、親権者が拒まない
>ときに限り、

これは、
ドナーカードに親が承諾者として署名していても、実際に「脳死」状態になったときに、
その、事前の承諾をひるがえして、親が、臓器提供を拒否してもよい、
ということでしょうか。
「世界」10月号の森岡論文では、こどものドナーカードへの親の署名は、
その親がそのこどもの意思表示能力を認めている、
という意味とともに、
その親がそのこどもの決定に同意している、
という意味と、両方であったと思います。

実は、前から気になっていたのですが、こういうことを気にするのは私だけかなと思って、
一人、とつおいつ考え続けていたのですが…

ちなみに、てるてる案は、脳死状態になってから親が承諾するかどうか決めます。
そのために、事前に臓器提供意思表示カードに記入する保証人も拒否権者も親以外の人にしてあります。


久保田競という方 投稿者:アルキメデス  投稿日: 1月28日(日)21時35分19秒

Googleで検索すると、たくさんヒットします。
日本福祉大学の先生みたいですね。
一応、脳の先生のようですが・・・

http://www.handy.n-fukushi.ac.jp/v4.1/sis/profile/individual/kubota.html


森岡案 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月28日(日)20時29分09秒

森岡案にすこしだけ手を入れました。ほぼこれで正式案ということにしたいなと思っています。
もちろん、まだ修正可能ですので、ご指摘ください。

そこで、この枠組みの森岡案が提言されたときに、賛同者一覧に自分の本名および連絡先住所を
連ねてもよいと言ってくださる方は、私までメールください。いただいた情報は、実際に、
厚生労働省、国会議員、関係各団体に提出する文書には添付しますが、ネット上には公開しません。
取り扱いも慎重にしたいと思います。連絡先住所は、職場でもかまいません。2月中、
なるべく早い時期に、正式な提言として送付したいと考えています。

この提言を送付してほしいマスコミの方も、私までメールお願いいたします。

http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/morioka-an.htm


ネットで百科 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月28日(日)19時33分01秒

>アルキメデスさん

さっそく見に行きましたが、この記述は、ひどいの一言です! これを書いた、久保田競という方は、
いったい何を考えてこんなこと書いているんでしょうか。「脳死体」という表現もむちゃくちゃだけど、
これ読むと臓器移植法は「脳死=人の死」と一律に定義した法律だと、誰もが思ってしまうでしょう。
これが、日本を代表する「世界大百科事典」のレベルなのか・・・。

さっそく、「ネットで百科」管理者に抗議文を出しておきました。しかし、文章内容については平凡社のほうに
抗議しないといけないんだろうね。これについても、考えます。ここ見てる人で、平凡社の人、いませんか? 
しかし、世界大百科事典ってCDROMとかになっただけじゃなくて、日立のPriusとかにインストール
されてるんだ。世界大百科って、こんな低レベルの誤記を堂々と載せるくらいの低レベル百科事典だったの?
こりゃ、腰を据えて問題提起していかないといけないな。平凡社さん、何か申し開きありますか?

http://floracity.hitachi.co.jp/go/prius/pc/2000nov/soft/soft.html


きっかけ 投稿者:アルキメデス  投稿日: 1月28日(日)18時44分34秒

実はネットで百科@HOMEで「脳死」を引くと、下記の文章を含む説明があったのです。

「 97 年,脳死を死とした法律が成立し, 脳死体とは,脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に
停止するに至ったと判定された死体をいうと決められた(臓器移植法)。」

で、本当かなと思った次第です。

ネットで百科@HOMEのURL↓

http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/index.html


この掲示板 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月28日(日)18時12分11秒

ここ1年くらい、脳死臓器移植掲示板になってます。この状態は、あと当分のあいだ、このままにしたいと
思います。が、そのうちに、移植法改正専用掲示板を作って、そちらに移行したいと思います。
いかがでしょうか? たしかに、脳死移植以外のテーマを書き込めない状態が続いているのは問題だと
感じますので・・・・。

てるてるさん(^^;) 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月28日(日)18時08分47秒

第6条第1項には「脳死体」ということばは出てきません。「脳死した者の身体」で押し通しているはずです。
だから、町野さんは、この言葉を嫌って、町野案で、そこを「脳死体」と置き換えて、
「脳死=一律に人の死」という意味内容に再定義したわけです。

ps ことばってむなしいですが、でも、法律は言葉の世界です。その厳密さが、人の生死を分けちゃうんです。


アルキメデスさん 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月28日(日)18時04分18秒

臓器移植法には、「脳死体」ということばは出てきません。出てくるのは、「死体」と「脳死したものの身体」の
二種類です。なぜ、わざわざこの二種類を使い分けたかをめぐって、専門家のあいだでも法文解釈が
分かれています。町野さんと私の「論座」対談における対立も、ここに由来しています。

なお、現行法では、「臨床的な脳死判定」をされた身体は、まだ「生体」です。ドナーカードをもっていて、
家族が反対せず、無呼吸テストをも含む法的脳死判定をされた身体が、はじめて「死体」となります。

と、ここまでかいたら、てるてるさんの下の投稿がありました。


訂正! 投稿者:てるてる  投稿日: 1月28日(日)17時54分05秒

>アルキメデスさん
>「脳死体とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された死体をい
> う」
という文章は現行の臓器移植法にはないと思います。

現行の臓器移植法では、
「『脳死した者の身体』とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって
脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」
と、第6条第2項で規定されています。

「死体(脳死体を含む)」という表記が第6条第1項にあります。

その「脳死体」の説明を第2項でしているのですが、そこでは「脳死した者の身体とは」と表記しています。

で、第6条第1項で「脳死体」と言ってるものには、生体の概念はありません。

第2項から、
「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体」
という表記だけを取り出してくると、生体という概念になります。

でも、「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者」
という条件もくっついて初めて、「法的脳死判定」が行われて、脳死と判定されたら
死体になって、そこではもう、生体という概念は含まないです。

いまごろ混乱していてどうする…m(_ _)m


分類 投稿者:てるてる  投稿日: 1月28日(日)14時06分53秒

分類は、本来、とりあえず整理するために行うためのもので、レッテル貼りをするためのものではないと
思います。たとえば、ユング心理学の、外向・内向・感覚・直観・思考・感情などの「性格」分類は、
本来は診断のための道具であって、いわゆる「血液型性格分類」式のものではありません。
そういう性格分類もお遊びで私は楽しんでいますが。

森岡素案の改正案分類も、議論をわかりやすく整理するためのものであり、レッテル貼りが目的ではないから、
それでいいと思います。事実、私は、素案、およびその前の日記の記述で初めて、臓器移植法廃止論も、
「改正案」の一つとして認識しました。それまで、脳死の人からの移植に反対する立場があるのは
知っていましたが、それが案として存在しうるという認識はありませんでした。

また、てるてる案が違法性阻却論の一つに分類され、かつての金田案などと区別せず、
批判をされていることにも異論ありません。違法性阻却論にもいろいろあるし、ここでの分類も批判も、
とりあえず、のものとして受け留めております。(ほんとはそんなことではすまされないのかもしれないけど)

とりあえずの交通整理をして、しかし、そのそれぞれの分類された案と案との間には広いグレーゾーンが
あって、限りなく脳死選択論に近い違法性阻却論もあれば、限りなく臓器移植反対論に近い違法性阻却論も
あるということを認識して議論をすれば、レッテル貼りの弊害は少なく、むしろ、話をしやすくすると思います。

ところで、てるてる案では、臨床的脳死判定も法的脳死判定も、脳の機能が完全に停止したという診断である
ととらえています。前者は、臓器提供を前提としない、予後の診断、後者は、臓器提供を行うための、
最後の再確認、という設定です。しかしどちらも「死亡」の診断とはしていない。法的な死とはしていない。

違法性阻却論では、ほんとうは「脳死」という言葉を使わず、「脳不全」とか「不可逆的深昏睡」とかの言葉を
使う方がいいのかもしれません。
(それもてるてる案のなかでも触れていますが。この掲示板での議論のお陰で)

萩原さんがおっしゃるような、すべり坂を防ぐための工夫を、てるてる案はしているつもりですが、
植物状態と脳死状態とのグレーゾーンで麻酔をかけて臓器を摘出してもいいのかどうか、
というようなことを考えていると、それもあやしくなってきます。
特に、6歳未満のこどもの場合、1ヶ月以上、「脳死」状態が持続していることを臓器提供の条件の
一つにしていますし、それはまさに「グレーゾーン」ではないかと、思えてきます。
そんなこんなで、てるてる案はなかなか苦しい案です。

>臓器移植法には
>「脳死体とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された死体をい
>う」
>とあります。
> この定義は「脳死判定された生体」という概念を許容しているのでしょうか。

許容しているのだと思います。
だから、町野案では、そのような許容を許さない法案にしていますし、てるてる案では、
「脳死判定された生体」という概念のみを許容し、「脳死判定した死体」という概念は許容しない案に
しています。てるてる案では、末期医療の選択肢を用意し、本人や看取る人々にとって「いたずらに」
死を長引かせないようにしたり、臓器提供ができるようにすることによって、
実質的には脳死を選択するという人々の希望に応えられると考えています。


ことば 投稿者:ちゅう子  投稿日: 1月28日(日)12時31分29秒

まず、
「違法性阻却論」のことを、わたくしも萩原さんのように解釈していました。
「脳死判定」ということばの意味にも驚きました。「脳が死んだと判定する」と解釈していました。
と、いうように
特に学問の世界は「ことばの定義」を重視するあまり、また、どんどん、〜説という新たなる
ことばを増やしていき
それがあたかも新発見のごとくに紹介される傾向にあるように思います(ひがみもあるのですが)。
また、〜派のごとくに分類されれば、意見交換などは、俗世間では成り立たない現実があります。
「あんたは〜〜さんの派でしょ」でかたずけられるのです。

わかってるつもりです。学問を語るときはその「かたち」があるということ。
それを窮めていくときの過程のおもしろさ、大切さがあって、だからこそ受け継がれていくということ。

だから「ことば」は大切なんでしょうが・・・。だから「素案」なんですよね、ハイ。
失礼いたしましたm(_ _)m.


どなたか教えてください 投稿者:アルキメデス  投稿日: 1月28日(日)12時01分24秒

臓器移植法には
「脳死体とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された死体をいう」
とあります。
この定義は「脳死判定された生体」という概念を許容しているのでしょうか。

違法性阻却論 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月28日(日)02時08分37秒

違法性阻却論は、医学的な意味での「脳死判定」を否定していません。「脳死判定基準」によって
「脳死状態」と判定された人間は、しかしながら依然として「生きている」と考えるのです。それで、
「脳死判定」されたところの、生きている人間から(のみ)、臓器摘出が許されると考えます。

萩原さんの「脳死判定」という言葉の使用法は、この分野での従来の使用法と異なるので、混乱を
招きやすいと思います。従来の使用法は、「脳死判定」というのは医学的な「脳死状態」の到来の判定です。
そして、到来した「脳死状態」という生理学的状態が、「人の死」かどうかを決める(あるいは決めない)という
次元が、「脳死は人の死かどうか」という次元であり、その次元で「脳死=人の死」という立場を取ることを
「脳死判定」とは呼んできませんでした(それは強いていえば「人の死の脳死による定義」とかでしょうか)。

萩原さんは、この「人の死の脳死による定義」のことを、「脳死判定」と呼んでおられるようなので、
一般的な語法とのあいだに、誤解が生まれやすくなっていると思います。独自の語法を用いるのはもちろん
自由ですが、その際には、一般的な語法とのあいだの「変換装置」についての解説を最初にされるのが
望ましいのではと思います。

(ps「〜派」のレッテル貼りは不毛ですが、相互理解のために立場の論理構成をカテゴライズすることは
無意味ではないと思います。)


森岡先生へ 投稿者:萩原優騎  投稿日: 1月28日(日)00時56分43秒

>萩原さんのご意見は、(3)違法性阻却論のひとつだと考えていいのでしょうか。
>違法性阻却論とは、「死の定義」はとくにせず、
>従来通り心臓死=人の死という慣習を守り、そのうえで、脳死状態の患者から、
>事前の意思表明を前提に臓器摘出を可能にするという考え方です。
私は自分の見解を、違法性阻却論に含めるべきだとは考えません。
そこでまず、森岡案からこれに関する記述を引用します。
>違法性阻却論  これは、脳死を人の死とせず、
>人は心臓が止まるまで生きているとしたうえで、
>その生きた人から臓器摘出ができるとする案である。
私の案では、脳死判定の採用を否定していないので、この定義には合致しません。
「人は心臓が止まるまで生きている」というのは心臓死判定を望む人の価値観であり、
それを脳死判定の希望者に押しつけるべきではありません。
脳死と心臓死、いずれを判定基準として採用する場合にも、
判定以前の状態での臓器摘出は、許されるべきではないと考えます。
>生きている人からの臓器摘出を認めるという法構成を取ってしまうと、
>生きている「植物状態」の患者や、「無脳児」からも
>臓器摘出を可能にする道を開いてしまう。
>さらには、「障害者」「痴呆性老人」「死刑囚」へと広がっていきかねない。
「生きている人」からの臓器摘出については、私の二番目の論文に書きましたように、
例外的に生体間移植を、そこで挙げたような条件付きで容認し得るというのが私の考えです。
また、植物状態や無脳症の患者の生命を安易に奪ってしまうことが許されないということも、
上記の論文でも扱いましたが、その中でも書きましたように、
脳死判定を行う際にも、意識の有無という基準からの滑り坂に陥ることなく、
こうした人々の生命が守られるという条件が必要だと考えます。
それ以前に、植物状態の患者などに限らず、本人による事前の意思表明など、
臓器摘出を容認し得る条件が整っていない限り、それを実施することは許されません。
以上のように、判定基準や滑り坂など、違法性阻却論と言われているものに対して、
批判的な立場に立っておりますので、そこに自分の議論が含まれるとは思えません。
それだけでなく、私は自分の主張を、「〜派」といった分類に当てはめることを、
望ましいものとは考えていないのです。
そのような分類は、結局は相互の対立図式に基づいて非難しあうばかりで、
何らかの建設的な議論が生まれてくることは少ないと考えるからです。
しかし、現状においては、私は「改正派」や「脳死・臓器移植反対派」を批判してきました。
それは、こうした主張に、明らかに間違った認識や論理が、時には意図的に含まれていること、
そしてそれらが一定の暴力性を発揮していること、そうした現状を改善するためです。
このような問題が片づいた上で、脳死状態の患者からの臓器摘出に積極的な人々も、
これには消極的で心臓死状態に至ってからの臓器摘出の可能性を探る人々も、
それ以外の立場の人々も、互いに建設的な討議を重ねていくべきなのです。
これこそが、私の言う「参照枠としての倫理学」の構想でもあります。
ただ、現状では、特定の言説や詭弁が幅を利かせることによって、
「賛成」か「反対」かという安易な対立に陥っているのであり、
双方の問題点を一つ一つ検証しながら、臓器移植法の不当な改正を止める必要があります。

在日の方の脳死世論調査 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月27日(土)02時49分34秒

というものを見つけました。めずらしい資料だと思います。傾向は、脳死=人の死が50%、
心臓死=人の死が22%。日本国籍の人とけっこう似てます。

http://www.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj1999/sinboj99-11/sinboj991122/sinboj99112281.htm


素人の思い 投稿者:ちゅう子  投稿日: 1月26日(金)21時57分24秒

突然ですが、
私にとっての生命学サイトとは、森岡さんのアップしておられる記事などの全部と捉えています。
馬鹿なことを言わせていただけば、哲学も倫理学も算数も国語も何もかもが生命学なのだと思っています。
あの準備中がいつまでも準備中であることがうれしくもあるのです。おかしな自分だとは思いますが。
笑われるでしょうが、今日はちょっとやけになっていますので、とうとう書いてしまいました。

臓器移植コミュニティの掲示板 投稿者:てるてる  投稿日: 1月26日(金)21時43分35秒

またまた森岡案の話からそれてすみません。
このサイトの「臓器移植法改正を考える」ページからリンクされている、「臓器移植コミュニティの掲示板」
ですが、いつもエラーが出るので、Googleで検索してブックマークしました。

それでその掲示板の昨年の11月の学生さんの投稿で、ドナーの遺族とレシピエントが、手術後にあったり
連絡をとったりする事を、ほとんどの国で認めていないが、最近は、各国がその問題に対して変化を見せて
いる、ということについてレポートを書くので調べたいが、資料が少ない、という内容のものがありました。

その学生さんのレポートには間に合いませんが、私は、その内容について僅かながら調べたことを、
自分のコンテンツとしてここの過去ログハウスからリンクしているし、「『脳死』臓器移植を考える関西市民の会」
にも投稿しました。

ドナーとレシピエントとの交流は、双方に希望する人々もいますが、また、海外では「臓器調達(獲得)機関」
等が、ドナーをふやすのに役立つのではないかという期待をこめて進める傾向もあります。

しかし、「臓器調達(獲得)機関」等の希望通りにドナーがふえようとふえまいと、脳死または心臓死の人からの
移植医療は、移植を受けた人が元気に回復することが、最大の目的だけど、それだけで終わりではなくて、
レシピエントとドナーの遺族とが出会っても、友情とか信頼といった関係を保つことができて初めて、ほんとうに
成功したといえるのではないか、と思います。

臓器移植法改正は、脳死のこどもからの移植を可能にすることが、最大の目的とみなされていると思います。
森岡案では6歳以上のこどもしか脳死後の臓器提供を認めていないし、てるてる案も3歳以上しか
認めていない、それも6歳以上しか認めていないも同然の厳しい条件(のつもり)です。
しかし、そんな案は、移植患者団体の人々は承知するはずがない。なんとしても、1歳、2歳の赤ちゃんでも
心臓移植や肝臓移植ができるように、社会へのアピールも議員さんへの要望も続けるでしょうし、
議員さんのなかにも、脳死のこどもからの移植のために法改正をめざす方々もいると思います。
そして実現の可能性が高いと思います。
私自身、それが悪いことだとは思いません。
できるだけ、1歳、2歳の赤ちゃんでも、心臓移植でも肝臓移植でも受けることができるように、
なってほしいです。だから無理とわかっていても、3歳以上なら脳死後の臓器提供ができるような案を
作っています。とても無理があるけど…。

でも、1歳、2歳の赤ちゃんでも心臓移植が受けられるように法律が改正されたとして、そして、
脳死の赤ちゃんのドナーからの提供があったとして、それだけで済むものではないと思います。
脳死の赤ちゃんのドナーの親御さんと、レシピエントの親御さんとが、もし仮に、出会ったとしても、
双方、満足して会話をかわすことができるようにならないと、その移植医療は、
完全に成功したとは言えないのではないか、と思います。


萩原さん 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月26日(金)03時21分09秒

とすると、萩原さんのご意見は、(3)違法性阻却論のひとつだと考えていいのでしょうか。
違法性阻却論とは、「死の定義」はとくにせず、従来通り心臓死=人の死という慣習を守り、
そのうえで、脳死状態の患者から、事前の意思表明を前提に臓器摘出を可能にするという考え方です。
「てるてる案」も、違法性阻却論のひとつだと私は認識しています。

掲示板の将来については、おいおい考えたいと思います。ありがとうございました。


追記など 投稿者:萩原優騎  投稿日: 1月26日(金)02時34分40秒

>もし現行法が撤廃されて、何の措置もなされなければ、旧角膜腎臓法が復活しますから、
>以前の状態に戻ります。すなわち、「心臓死=人の死」であり、
>心臓死状態からの腎臓・角膜の摘出は家族の承諾で合法。
>脳死状態からの臓器移植は違法。となります。心臓死状態からの心臓摘出は、
>おそらく「死体損壊罪」をめぐって訴訟となるでしょう。
ここで問題なのは、なぜ腎臓と角膜の摘出だけが、家族の承諾のみで容認されるのか、
ということであり、現行法における本人の意思表明の意義と照らし合わせて考えた場合、
安易に現行法以前の状態に戻すべきでない、ということは確かです。
しかし、一方で、昨日書きましたように、現状においては、
脳死だけが死の到来の判定基準として法的に定義されているわけであって、
定義されていない心臓死という判定基準も有効であり続けていることは事実です。
つまり、死の判定基準が法的に定義されていなければ、
それを採用して死の到来を判定すると殺人罪になる、とは言えないということです。
そうなると、私の言う現行法廃止案は、森岡先生が森岡案で示されたような、
臓器移植や脳死を安易に否定するという臓器移植法廃止案に対しては批判しつつ、
次のような選択をすることになるでしょう。
まず、現行法廃止以降、旧角膜腎臓法を復活させないこと。
その代わりに、脳死を法的に定義せずに、脳死判定に基づく臓器摘出などを、
引き続き行うことが可能な制度を作ること。
その際に、臓器移植法の長所である意思表明の原則などは存続させつつ、
意思表明の妥当性をこれまで以上に正確に判断できるような制度作りも進めること。
以上は、私がこれまでに発表した論文などで示した見解と一致するはずです。
ただし、前にも書きましたように、私は今後の一つの理想として、
このような方向性を述べているのであって、現状において、
臓器移植法が廃止の方向に向かうだろうというような楽観的予測は持っておりません。
まずは、不当な臓器移植法改正(改悪!)を止めるのが先決であり、
これも繰り返しになりますが、妥協して、森岡案はB案の方がよいと思いますし、
今回はB案だけを提示なさった方がよいと考えます。

話は変わりますが、先日書きました、このHPの今後についてです。
先生は、臓器移植法のページはとりあえずこの問題に決着がつくまで、
と書いていらっしゃいましたが、確かにかなり長引きそうです。
ただ、これまでこのページに寄せられた様々な資料は、
今後も脳死・臓器移植の問題を考えていく上で、重要なものだと思います。
現行法の改正問題に関してどのような決着がつくとしても、
それはあくまでもひとつの通過点に過ぎないのであり、そこで全てが片付くのではなく、
今後も引き続き議論を重ねていかなければなりません。
ですから、決着後も、臓器移植法のページは引き続き残してくださることを希望します。
もしそれ以降も掲示板での話題がこの問題に集中してしまいそうであれば、
通常の掲示板以外に、脳死・臓器移植問題専用掲示板を設置すればよいと思います。
この件について何か気がつきましたら、また書きたいと思いますので、
その節は、よろしくお願い致します。


廃止案 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月25日(木)08時30分41秒

>萩原さん

廃止案をあのようにまとめたのは、いまのところ、それを主張する一つの勢力があるからです
(かつ彼らはずいぶん前(1980年代?)から運動を続けてきています)。廃止案には、当然、
ほかのものもあります。一つの代表として言及しているのです。

あと、日本の法律には死の定義はありませんでした。実は現在においてすら、ありません。臓器移植法には、
「死体(脳死した者の身体を含む)」としかかかれていません。「死体」とは何かが定義されていないのです。

ですので、もし現行法が撤廃されて、何の措置もなされなければ、旧角膜腎臓法が復活しますから、
以前の状態に戻ります。すなわち、「心臓死=人の死」であり、心臓死状態からの腎臓・角膜の摘出は
家族の承諾で合法。脳死状態からの臓器移植は違法。となります。心臓死状態からの心臓摘出は、
おそらく「死体損壊罪」をめぐって訴訟となるでしょう。


ところが! 投稿者:萩原優騎  投稿日: 1月25日(木)02時06分21秒

>臓器移植法廃止論  これは、現在の臓器移植法を廃止し、脳死は人の死ではないとし、
>脳死の人からの臓器移植を「殺人」だとして禁止する案である。
まず、廃止論をこのようにまとめてしまうのは、いかがなものでしょうか。
というのも、廃止案を提示する私の見解一つを取り上げても、これに合致しないからです。
>私は(4)を「臓器移植法撤廃かつ脳死からの臓器移植は殺人であるがゆえに禁止」
>というふうに考えていたのですが、そういうふうに書くのを忘れていました。
昨日の私の書き込みについて、ご覧になった方から誤りをご指摘頂きました。
それは、日本の法律には臓器移植法以外に、人間の死について、
何らかの法的定義を行っているものはないということです。
ご存知のように、臓器移植法においては、脳死の判定基準のみが明文化されています。
ということは、心臓死という判定基準については法的定義がなく、
脳死に関してだけが現状において、法的定義として明文化されていることになります。
この点は私も不勉強で、心臓死に関する法的定義があるものと思い込んでいたのですが、
上記の通りだとすれば、臓器移植法を撤廃した状況での臓器移植は殺人行為になりません。
現状において心臓死が明文化されていないということは、
それが法的に定義されていない、つまり医学的知識だけを根拠として、
心臓死の判定をもって、その患者の死の到来が判定されていることになります。
すると、死の判定基準が法的に定義されていない場合に臓器摘出が殺人罪になるなら、
心臓死を迎える以前の脳死状態からの臓器摘出は、
脳死が法的に定義されているがゆえに殺人罪とされることがなく、
心臓死に至った段階での臓器摘出は殺人罪になるという、奇妙な事態になるでしょう。
したがって、心臓死判定された患者からの臓器摘出が現状においても許されている以上、
脳死が法的に定義されていない場合での臓器摘出も、同様に許されるはずです。
それから、森岡先生の前回のコメントに対してです。
>たとえば、「脳死体というのは、死んでいる身体に、
>無理やり人工呼吸器で空気をいれている状態だ。
>こんなことを許しておくのは生命倫理に反する」という感じの意見はありました。
これは、その人の価値観として、脳死を医学的知識において、
人間の死の到来に関する判定基準として認めないことは正しくない、という意見であり、
それを法的に定義するべきかどうか、ということとは別問題です。

>森岡先生 投稿者:アルキメデス  投稿日: 1月24日(水)20時37分57秒

> (4)臓器移植法廃止論
>
>   前略〜という疑義がありえる。

「・・・ありえる」という表現ならば、違和感はありません。
ただし、三省堂『大辞林』によると「・・・あり得る」は「・・・ありうる」です。


A案の表現 投稿者:ゆう  投稿日: 1月24日(水)18時22分21秒

>森岡さま

言葉のあやみたいなことで申し訳ありませんでした。
これなら違和感ありません。


書き直してみました 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月24日(水)18時20分34秒

で、すこしだけ書き直してみました。

http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/morioka-an.htm


(4)について 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月24日(水)18時10分13秒

いま気づいたんだけど、私は(4)を
「臓器移植法撤廃かつ脳死からの臓器移植は殺人であるがゆえに禁止」
というふうに考えていたのですが、そういうふうに書くのを忘れていました。

このように正確に書き直します。


萩原さん 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月24日(水)10時23分22秒

ご指摘の

>「自分は脳死をもって死の到来を判定されたいのに、脳死が法的
>に定義されていないから、
>思い通りの死を迎えられない。心臓死では満足できない自分にとって、
>これは権利侵害だ」

と訴えた人は、いたように記憶しています。たとえば、「脳死体というのは、死んでいる身体に、無理やり
人工呼吸器で空気をいれている状態だ。こんなことを許しておくのは生命倫理に反する」という感じの
意見はありました。

・脳死は死である
・臓器移植は死体からのみ許される(生体の生命は保護されるべきである)
・死体に空気を強制的に送り込むことは生命倫理に反する

というセットを信じている人はいたと記憶しています。

いまは、どうなんでしょうか。


医学的知識と法的定義 投稿者:萩原優騎  投稿日: 1月24日(水)02時19分00秒

先生がおっしゃいたいことは、理解しております。
臓器移植法において、脳死判定を死の到来の判定基準として用いてよいと定めたからこそ、
この判定基準に基づいて自らの死の到来を判定されることを望む人々が、
その望み通りに死の到来を判定されることが可能となる、というご意見だと思います。
しかし、ここでまず先生に伺いたいのは、臓器移植法成立以前に、
「自分は脳死をもって死の到来を判定されたいのに、脳死が法的に定義されていないから、
思い通りの死を迎えられない。心臓死では満足できない自分にとって、これは権利侵害だ」、
そのように訴えた人々というのは、実際に存在したのでしょうか。
臓器移植という行為との関連が無ければ、心臓死を待って死の到来を判定されても、
それほど不都合と感じる人はいないような気がします。
臓器移植法が成立したのは、脳死を判定基準にしたい人の権利を守るためではなく、
臓器移植を脳死状態から行うことを可能にするには、
脳死を法的に定義しなければならなかったからではないでしょうか。
昨日書きましたように、脳死が法的に定義された動機が臓器移植と不可分であるならば、
先生が書かれたような「脳死判定される権利」として主張してしまうと、
臓器移植を安易に推進しようとする立場に利用されることになると思います。
次に、法的に定義されていない状況で脳死判定を行うことについてです。
臓器移植法成立以前と以後、どちらにも言えることですが、
心臓死によって死の到来を判定された人は、それが法的に定義されているから、
自分は心臓死による判定を受ける権利を享受できるのだ、と考えてきたでしょうか。
そうではなく、心臓が停止すればその時点で死を迎えるという、
医学的知識を大抵の人が共有しているからこそ、心臓死を受け入れているわけです。
確かに心臓死の場合は、これが法的に定義されていないと、
警察が殺人罪などについて法的に扱う時などにも不都合であり、必要です。
しかし、脳死に関しては、脳死を迎えてから心臓死に至るのであり、
この順番は逆にはならないので、心臓死の判定をもって死の到来と判定できるため、
たとえ脳死が法的に定義されていない社会においても、
こういった殺人罪などに関する法的取り扱い上、不都合は生じません。
脳死は、医学的知識としては死の到来の判定基準であると考えられているのであり、
それを受け入れる人と受け入れない人、両者の自由が認められるべきです。
ただし、受け入れる人が、そこに積極性を見出すのは、脳死判定という行為が、
臓器移植と結びついているからなのであり、それによって自分も臓器提供に協力できる、
と考えるからでしょう。したがって、脳死を受け入れると意思表明した人に限っては、
法的に定義されていない状況でも、脳死判定に基づいて死の到来を判定してよいと考えます。
そこでは、医学的知識として、脳死が死の到来の判定基準として認められているのですし、
それを患者自身も受け入れて行われるのですから、権利侵害にもなりません。
すなわち、医学的知識として正しいということと、それが法的にも定義されるということとは、
別なのであり、両方の条件を満たしていなければ、
脳死が死の到来の判定基準として有効にならない、ということにはなりません。
医学的に脳死判定が正しい以上、本人の意思表明に基づいて脳死判定された状態の患者が、
その時点であくまでも法的には死者でないからといって、
本人にとっては、脳死判定以降は死なのだから、臓器摘出は認められてよいでしょう。

生命学HP 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月24日(水)01時33分53秒

>萩原さん

おっしゃること、私も常々考えていたことです。
臓器移植法改正についての意見交換掲示板が、いきさつ上、この生命学HP掲示板になってしまったので、
まるでこのHP全体が、脳死移植HPみたいに見えているというのは、その通りだと思います。生命学の射程
そのものは、萩原さんがおっしゃったとおりのものですので、たしかに、ずれが顕著になってきてはいます。

どうしましょうか?

私としては、移植法改正にめどがつくまで・・・とか思ってたんですが、なんか、長引きそうな予感もしますしね。
たしかに、1年前までは、もっといろんな話題で意見交換がされていたように記憶しています。

しかし、いまのところ、移植法改正について、この掲示板がいちばん活発で先端の議論をしてるわけでし・・・。
リンクもここにかなり張られているのではないのかなあ。


「生命学」HPであること 投稿者:萩原優騎  投稿日: 1月24日(水)01時04分34秒

いつもお世話になっております。今日は、通常と少し違う話題です。
それは、このHPそのものに関してなのですが、最近気になっていることですので、
皆さんのご意見も伺いたく、書くことにしました。
私がここを訪れるようになったのはそれほど昔ではありませんので、
以前の状況はよく分からないのですが、現在の状況を見る限り、
「生命学」のHPとして妥当であるかどうか、ということです。
もちろん、森岡先生が現在、臓器移植法の問題に特に力を入れて研究され、
それに伴って専用のページも設けられたわけであり、その意義は大きいと思います。
また、ご多忙にもかかわらず、ご自身も書き込みをなさったりと、
先生の熱意には、ただ敬意を表するばかりです。
しかし、その反面、近頃の状況は、「生命倫理学」の、しかも、「脳死・臓器移植問題」の、
専門HPのようになっているように思えるのです。
特に、このBBSの書き込みを見る限り(私も含めてなのですが)、
内容はこの問題ばかりになっていることは誰の目にも明らかです。
このHPを私が紹介して、実際に訪れてくれた友人・知人達の多くも、
「生命学」や森岡先生の研究活動について私が話すまでは、
これは臓器移植法の専門ページだと勘違いしていたようです。
私は、このBBSでの議論を否定するつもりは全く無く(自分も書いているわけですから)、
今後も議論を積み重ねていくことは絶対に必要であると考えていますが、
その一方で、「生命学」HPとしてこのままでよいのか、とも最近考えるようになりました。
森岡先生がおっしゃるように、「生命学」が、生命倫理、環境倫理やSTS(科学技術論)などを、
同じ土俵の上で議論し、更に哲学・倫理学以外への越境も試みるのであれば、
このHPの在り方についても、いろいろと考えてみる必要があるのではないでしょうか。
実際、現在ここを利用する方の大半の関心が生命倫理、しかも脳死・臓器移植問題でしょうし、
BBSに利用者から提供される情報(ページのリンクやセミナーの告知など)も、
その領域のものばかりになってしまっています。
このような状況ですと、他の領域に関心のある方が参加しにくい、もしくは、
関心を持ってここを訪れる機会が減る、そうなってしまわないか、やや心配です。
私自身、最近は脳死・臓器移植の問題を中心に関わっておりますが、
元々は環境問題に10年位前から関わってきて、大学では国際関係論を専攻し、
村上陽一郎先生の影響もあって、途中で哲学・倫理学に専攻を変えました。
そうしたことが可能だったのは、私が通う大学が教養学部のみで、
全学生が人文・社会・自然それぞれの教科をいろいろと学ぶ機会があり、
これまでに自分が気づかなかった視点を発見したりすることができたからだと思います。
同様に、「生命学」も、縦割りされた現在の学問、
特に研究者共同体内部での閉鎖的な「パズル解き」と化した哲学・倫理学の現状に対して、
あえてそういった従来の境界を取り払うことで、森岡先生の言葉をお借りすれば、
「一人学際研究」を行い、幅広い視点と関心を獲得する可能性を、
様々な形で追究していく一つの実践だと考えます。
そうであるならば、このHPも、こうした姿勢を実践するように、
ここを利用する皆さんも含めて、取り組んでいくべきではないでしょうか。
以上が私の見解ですが、森岡先生や皆さんのご意見を、ぜひお聞かせください。

萩原さん 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月23日(火)02時47分40秒

もう一度だけ確認ですが、臓器移植法を撤廃して、脳死判定を行なうことは可能です。が、その場合の
判定は、あくまで「生きている<脳死の人>の<脳死>の判定」になるはずです。だとすると、やはり、
脳死を「人の死」だと考えている人の死生観は、法によって「画一化の暴力(=脳死は人の死ではない)」
にさらされるということになるのでは?

てるてるさん 投稿者:萩原優騎  投稿日: 1月23日(火)02時35分01秒

>萩原優騎さんの書いていらっしゃることにはほぼ賛成ですが、
>安楽死と臓器提供の組み合わせには抵抗があるのです。
>そこには結局、「植物状態」は人に迷惑をかける状態、「臓器提供」は人の役に立つ行為、
>という価値観があまりにも見えすぎるからかもしれません。
>だから、本人のための「安楽死」までは許されるが、本人も含めて、
>「人に迷惑をかける状態 対 人の役に立つ行為」という図式にはまってしまうのは、
>社会の共有する良識としては許されまい、と思うのです。
私も、このような図式は正しくないと思います。
ですから、あのように書いたわけであって、その点では意見は一致しています。
ただ、植物状態になったときに、それ以上生きる価値を見出せず、
それ以上は生きたくないという人が、自らの死を迎えるに当たって、
臓器提供を行いたいという意思自体を否定できるかどうか、ということです。
というのは、安楽死の処置がなされてから臓器摘出が行われるわけですから、
もしこれが許されないならば、脳死判定によって死の到来を判定されることを容認すると、
事前に意思表明した人から、判定以降に実際に臓器摘出することも、
同じように許されなくなるはずだからです。
また、私の場合、法制化されない状況での臓器移植を掲げています。
すなわち、ここでは臓器移植は安易に積極的に行うものというよりは、
あくまでも善意に基づく例外的な行為として位置付けられているわけです。
これは、ご指摘のような図式が社会に安易に共有され、制度化されることで、
それが一種の暴力性を発揮しにくいようにするための、歯止めにもなるのです。

訂正と説明 投稿者:萩原優騎  投稿日: 1月23日(火)02時34分16秒

まずは、先程の書き込みの修正からです。
>>臓器移植法廃止論  自分の場合は「脳死」が「人の死」でよいし、
>>「臓器摘出」してもよいと考えている人の権利を侵害することになるのではないか。
>まず、自分の場合は脳死を死の到来の判定基準としてよいというのは、
>あくまでも先生の私見であり、森岡案そのものにとってはどうでもよいことです。
>ですから、このようなことを、ここに書くべきではありません。
森岡先生もご指摘くださいましたが、これは明らかに私の誤読です。申し訳ございません。
森岡先生が脳死判定を受け入れた上でこのように考える、という意味と取り違えていました。
脳死判定によって死の到来を判定されること、そして臓器摘出をされること、
これらを認める人の権利侵害になるのではないか、ということですね。
この誤読は明らかに私自身の問題なのですが、それを認めた上で申しますと、
「自分の場合は」という言葉がなければ、このような誤解は減るかと思います。
次に、てるてるさんに対してです。
>>このことは、臓器移植を法的に禁止すべきだという見解にも当てはまる。
>>特定の価値観や宗教観に従い、臓器の提供や受容を拒否するという
>>自己決定の自由はあるが、それを他人に強制してはならない。
>>自らの価値観を絶対化することで、
>>他人が臓器移植を受けて生きようとする権利を奪うことは許されないはずである。
>にも一致すると思います。
>それゆえ、なにゆえ萩原さんが上記の(4)に反対されるのか合点がゆきませぬ。
私が上の論文で述べたのは、臓器提供を「受ける」権利です。
それに対し、ここで私が批判しているのは、臓器を摘出「される」権利です。
このような権利が成り立たない理由については、先程の書き込みに書いた通りです。
>臓器移植法廃止論の立場の人々は、実際には、脳死の人からの臓器移植の廃止を
>考えているのであって、既に日本で20年以上の歴史がある、
>心臓死後の角膜や腎臓の移植の廃止までも考えているわけではないと思います。
>しかしながら、臓器移植法廃止論を唱える方々から、
>心臓死後の移植はどうするのか、生体間移植はどうするのか、について、
>提言がなされていないと思います。
以前も書きましたが、念のため書いておきますと、私は臓器移植法を批判しても、
脳死や臓器移植そのものには反対していませんし、
自分自身も脳死判定や臓器摘出をされてもよいと考えているわけです。
続いて、森岡先生に対して。
>あと、脳死だけにかぎって、「私の場合は脳死が死だと思う」という人がいたときに、
>そういう死生観を認めないという「画一的な案」に(4)はなってしまいますが、
>そこはどうなんでしょうか?
臓器移植法を廃止しても、脳死判定を行うこと自体は可能だと思います。
私が書いた、法的に定義された場合の圧力という「画一的暴力」を回避するためにも、
法制化されない状況で判定基準などをより厳密化する作業や制度作りを積み重ね、
引き続き脳死判定を容認していくというのが望ましいでしょう。
法制化しなければ、脳死判定を行うことが絶対に不可能とは言えないはずです。
ただし、現行法でも脳死が中心ではなく、先生が森岡案の中で書いていらっしゃるように、
基本は心臓死で、脳死はそれを受け入れる人のみ、となっているわけです。

萩原さん 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月23日(火)02時12分42秒

大事な点なので、慎重に考えてみたいのですが、まず「自分の場合は脳死が人の死である」と
しているのは森岡の私見ではありません。そうじゃなくて、「自分の場合は脳死が人の死である」
と考えている人は、日本にとてもたくさん現存するわけです。その人たちに、「画一的暴力」を
ふるうことになるのではという論点なのですね。(いまは「権利」という言葉は、ひっこめておきます)。

まず、町野案を考えてみましょう。町野案は一律に「脳死=人の死」と考えます。このときに、
「自分の場合、脳死は人の死ではない」と考えている人に対しても「脳死=人の死」を法によって
強制するわけで、画一化の暴力を行使しますね。この点において、問題があると思いませんか?

次に、臓器移植法撤廃案を考えてみましょう。この案は臓器移植法を撤廃してしまうので、一律に
「脳死=人の死ではない」ということを法の名のもとに(無言及という形で)宣言することになります。
だとすると、このときにもまた、「脳死=人の死」と考えている人に対して、
「脳死=人の死でない」ということを法によって強制するわけで、画一化の暴力を行使することに
なるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

私は別に(4)の記述にこだわっていません。もうすこし論点の本質を見ておきたいのです。

>ゆうさん

ご指摘の点、書き直してしまいました。いかがでしょう。


森岡案について再び 投稿者:萩原優騎  投稿日: 1月23日(火)01時13分03秒

>臓器移植法廃止論  自分の場合は「脳死」が「人の死」でよいし、
>「臓器摘出」してもよいと考えている人の権利を侵害することになるのではないか。
森岡案の上記の点がどうしても納得できないので、もう一度書きます。
まず、自分の場合は脳死を死の到来の判定基準としてよいというのは、
あくまでも先生の私見であり、森岡案そのものにとってはどうでもよいことです。
ですから、このようなことを、ここに書くべきではありません。
次に、臓器の摘出とは、何らかの「権利」に基づいてなされるものではありません。
確かに、自己決定権に基づく、豊かな死を迎えたいという権利はあるでしょう。
しかし、臓器提供は死の到来以降になされるものなのであり、
提供の有無についての自己決定を患者に認めるというのは、
死後の身体を他人に勝手に搾取されてしまわないためです。
つまり、もし臓器摘出が何らかの権利の行使によってなされるならば、
それは本人の自己決定なのだから、家族の同意などは不要ということになるでしょう。
しかし、死後の身体はもはや本人が所有しているわけではなく、
同時に、私が論文に書きましたように、家族に身体の所有権が移るわけでもありません。
ただし、死の判定を受ける直前までは実際に本人の身体の一部として機能し、
その身体の生命を支えてきたわけですから、
死の判定と共に突然本人の意思表明が無効になるというのもおかしいので、
極力本人の意思を尊重し、家族が同意した上で摘出を行うという方式が望ましいのです。
死後に自分の身体が他者の救命に役立つならば、という善意が臓器提供を支えているのであり、
提供者は、「自分には臓器提供の権利があるのだから提供させろ」と言うのではありません。
むしろ、臓器摘出の権利を主張する人がいるとすれば、それは、
自分の臓器をブラック・マーケットに売って金銭を得たい人にほかならないのであり、
そのような人が口実として用いる「自己決定権」とされるものが、
ここで森岡先生が挙げられている「権利」に極めて近いとさえ言えるでしょう。
また、臓器をまるで交換部品であるかのように考え、
少しでも多くの臓器を効率的に得ようとする改正派こそが、
このような「権利」を詭弁として用いることを好むのではないでしょうか。
ここでは、森岡先生のおっしゃる臓器摘出の「権利」なるものが、
患者の身体から臓器を安易に搾取する道具として機能してしまいます。
もしそうなるとすれば、この発言は先生の意図に反して、一種の「権力」として機能し、
イデオロギーを支えるツールとしての倫理学へと堕落することでしょう。
上記の森岡先生の発言は、臓器移植法に納得できない人々がご覧になったら、
心底お怒りになっていることでしょう。私も、大きな違和感を覚えました。
そのような人々の問題提起を無視して上記のような一言で片付けてしまうのではなく、
何が問題で、それをどのようにしていったらよいかということを、
共に考えていくような姿勢こそが求められているのだと思います。
率直な意見を書きまして、失礼な表現もあったかもしれませんが、ご容赦ください。
正式な案を発表なさる前に、この部分の再検討をぜひお願い致します。

森岡案(4)について  投稿者:アルキメデス  投稿日: 1月22日(月)22時19分56秒

>森岡先生

> あと、脳死だけにかぎって、「私の場合は脳死が死だと思う」という人がいたときに、そういう
> 死生観を認めないという「画一的な案」に(4)はなってしまいますが、そこはどうなんでしょ
> うか? (これは違法性阻却論もおなじですね)。

「廃止論」はこういう議論に限定されるのですか?
私のように、「ドナーの死」の解釈に関係ないところで反対する「反対派」もいるはずです。
この立場では、いかなる個人の死生観にも抵触しないはずですが。


こどもの虐待と脳死 投稿者:てるてる  投稿日: 1月22日(月)21時59分29秒

「ドナーとレシピエントの交流について」で書きましたが、心臓移植のドナーが、
義父に性的虐待・暴力的虐待を受けていた12歳の少年だったので、交流に携わっているカウンセラーは、
レシピエントに、ドナーの遺族に会わないように警告した、という話が出てきます。
ドナーの事情を明かすわけにいかないので、一般的な注意を繰り返すことしかできず、
レシピエントは、結局、その義父ぬきでドナー家族に会った、ということです。

ドナーとレシピエントの交流について 投稿者:てるてる  投稿日: 1月22日(月)21時50分05秒

直接森岡案に関係のないテーマで申し訳ありませんが、過去ログハウスから、
「ドナーとレシピエントの交流について」というページにリンクしています。
ここ数年、Journal of Transplantation に、このテーマで発表された幾つもの
論文があること、交流のしかたについてガイドラインが発表されていること、
ドナーをふやすために、役立つと思われていること、などを書きました。
ついでがあれば御覧ください。

杉本健郎さんからの御意見 投稿者:てるてる  投稿日: 1月22日(月)21時46分11秒

>>子どもが虐待によって脳死になったものではないこと
>
>についてなんですが、子供が虐待によって脳死になったということを判定することは比較的
>簡単であると思うのですが、子供が虐待によって脳死になったのではない、ということ
>を証明することは、非常に難しいのではないか、と思うのです。

>あと、脳死だけにかぎって、「私の場合は脳死が死だと思う」という人がいたときに、そうい
>う死生観を認めないという「画一的な案」に(4)はなってしまいますが、そこはどうなんで
>しょうか? (これは違法性阻却論もおなじですね)。

上記の2点について、杉本健郎さんから「てるてる案」にいただいた御意見が、参考になるのではないか、
と思います。

杉本さんの御意見では、末期医療の選択肢として、人工呼吸器をはずす時期をどうするのか、という点を
明確にすべきこと、こどもの脳死が虐待によるものかどうかは、判断がむずかしいこと、が述べられています。

人工呼吸器をはずす時期をどうするのかという点を明確にすることは、脳死を法的な死としない
違法性阻却論でも、実質的に、脳死を死とする人の死生観を尊重することにつながると思います。

杉本さんの御意見は、過去ログハウスからリンクしてあります。


Re:森岡案の(4)について 投稿者:アルキメデス  投稿日: 1月22日(月)21時25分34秒

>てるてるさん

> しかし、「献血してもよい」という人の権利侵害にはならない、と言われれば、
> それはそうかもしれません。

私が書いているのは、まさにこの点なんです。「〜てもよい」と「〜たい」の違い。
「臓器提供したい」という人にとっては、廃止は権利侵害になるでしょう。
しかし、てるてるさんはこの表現では、必要とする人がいないのに提供したがる趣味の人(!)まで
含んでしまいそうだと懸念しているわけですよね。一種のマゾヒズムでしょうかね。
でも、必要とする人が多すぎるから法改正しようというわけですから取り越し苦労。


森岡案(4)について 投稿者:森岡正博  投稿日: 1月22日(月)20時00分26秒

いやー、(4)で、こんなに賛否両論になるとは思ってませんでした。森岡案ではいちばん周辺的な論点
なんですけどね。下に、てるてるさんが書かれた点について、みなさん、萩原さんは、どうお考えでしょうか? 

あと、脳死だけにかぎって、「私の場合は脳死が死だと思う」という人がいたときに、そういう死生観を
認めないという「画一的な案」に(4)はなってしまいますが、そこはどうなんでしょうか? 
(これは違法性阻却論もおなじですね)。

もう少しみなさんのご意見をお聞きしてみたいです。

ゆうさんのご指摘の点は、表現を考えなおします。

いまのところ、B案のほうが賛同者が多いのでしょうか。


森岡案の(4)について 投稿者:てるてる  投稿日: 1月22日(月)19時10分49秒

法案の提示というものは、自分の案の特徴を強調するために、他の案を批判するのだ
と思っていました。(^_^;)

まあ、それは冗談でして、

>(4)臓器移植法廃止論
> 自分の場合は「脳死」が「人の死」でよいし、「臓器摘出」してもよいと考えて
  いる人の権利を侵害することになるのではないか。

という見解は、萩原優騎さんの、「自己決定権と画一的医療」の

>このことは、臓器移植を法的に禁止すべきだという見解にも当てはまる。特定の
>価値観や宗教観に従い、臓器の提供や受容を拒否するという自己決定の自由はある
>が、それを他人に強制してはならない。自らの価値観を絶対化することで、他人が
>臓器移植を受けて生きようとする権利を奪うことは許されないはずである。

にも一致すると思います。
それゆえ、なにゆえ萩原さんが上記の(4)に反対されるのか合点がゆきませぬ。

森岡さんの御本心が、那辺にあるかは別として、私には(4)はしっくりきます。
また、私は、ひるますさんの掲示板に、以下のように書いたことがあります。

>ここに、輸血も献血も禁止している宗教の信者が過半数を占める国家があると想像
>してみましょう。法律は、いまの日本とほぼ同じとして。
>ある場合には輸血をしなければ死んでしまうが、大半の人々は、それを受け容れて
>きた。しかし、ある人々が、輸血を受けて生きたい、といい、別のある人々が、献
>血しましょう、と名乗り出た。そこで、その国では、輸血を受けてまで生きたいの
>か、とか、家族が反対しているのに献血をする場合は、
>>この世の「生命のあり方・なりたち」そのもの(個々の命ということを超えたもの)
>>に対する重大な侵害
>である、という意見が出された。
>しかし、その国の法律が自己決定権を尊重するならば、輸血も献血も行われるだろう、
>と思います。

このでんでいけば、献血禁止論は、献血したい・輸血を受けたいという人の権利を侵害することになります。
しかし、「献血してもよい」という人の権利侵害にはならない、と言われれば、それはそうかもしれません。
しかし、「献血したい」場合に限ってしまうと、輸血を必要とする人がいないのに血液を提供したがる
趣味の人まで含んでしまいそうです。

輸血の禁止などというと、現代の日本では多くの人が、少数派の宗教か哲学の信者か信奉者か何かが
言うこととでも思うでしょうし、そんな少数派の信念に基づいて法律を作るのは民主的でないと思うのでは
ないでしょうか。

それと同じように、臓器移植の禁止も、少数派の宗教か哲学かの信者か信奉者か、または個人的な経験の
絶対的正当化によるものだ、と思う人がいるかもしれないし、その少数派の宗教か哲学か何かに基づいて
法律を作るのは民主的でない、と考える人がいても、それを責めることはできないと思います。

臓器移植法廃止論の立場の人々は、実際には、脳死の人からの臓器移植の廃止を考えているのであって、
既に日本で20年以上の歴史がある、心臓死後の角膜や腎臓の移植の廃止までも考えているわけではないと
思います。
しかしながら、臓器移植法廃止論を唱える方々から、心臓死後の移植はどうするのか、生体間移植は
どうするのか、について、提言がなされていないと思います。
もし、これらの移植まで全面的に禁止するとすれば、現実的に、多くの腎臓移植待機患者の命を
奪うことになる、といっても過言ではないと思います。

しかし、臓器移植法廃止論を唱える人々が、心臓死後・生体からの移植について、
積極的な提言をされているのならば、それは重要な提言になると思います。


森岡案へのコメント 投稿者:アルキメデス  投稿日: 1月22日(月)17時44分32秒

>(4)臓器移植法廃止論
> 自分の場合は「脳死」が「人の死」でよいし、「臓器摘出」してもよいと考えている人の
権利を侵害することになるのではないか。

『「臓器摘出」してもよいと考えている人の権利』はおかしいですね。
「してもよい」という言明には臓器摘出しないことの許容が含まれますから、
権利侵害に結び付けるのは飛躍し過ぎです。
推進者のヒステリックな叫び、と取られることもあるでしょう。


森岡案について思うこと 投稿者:ゆう  投稿日: 1月22日(月)15時38分55秒

森岡案、読ませていただきました。それで、A案かB案かということですが、
A案について、少し疑問を感じました。

>子どもが虐待によって脳死になったものではないこと

についてなんですが、子供が虐待によって脳死になったということを判定することは比較的簡単である
と思うのですが、子供が虐待によって脳死になったのではない、ということを証明することは、
非常に難しいのではないか、と思うのです。また、自由意思の問題についても、倫理委員会や、
裁判所の判断を仰いでいては時間がかかりすぎてしまい、
現実的には、意味を成さない法律となってしまう恐れがあるのではないでしょうか。
改正するのであればB案のほうが、理解できますし、現実的なのではないでしょうか。

>臓器移植法廃止論 :自分の場合は「脳死」が「人の死」でよいし、
>「臓器摘出」してもよいと考えている人の権利を侵害することになるのではないか。

現行法では、みずからの意思というものをその生死の狭間において、反映させようとしたもの
であると理解しているので、この指摘は、簡潔で的を得ていると思います。


優騎さんへ 投稿者:てるてる  投稿日: 1月22日(月)08時12分29秒

植物状態の人や無脳症の赤ちゃんの「安楽死」そのものを否定するわけではないのです。
そしてまた、「安楽死」を認める、と簡単に言ってしまえないことも確かです。

無脳症の赤ちゃんの場合、特に延命治療をしなければ数日で亡くなります。
それを「安楽死」とか「殺人」とか呼ぶことはないと思います。
あえていえば「自然死」になるのかもしれません。

植物状態のほうは、「安楽死」を認めてもよい場合がほんとうにあるのかどうか、
判断がたいへんむずかしい。ましてや「安楽死」させて臓器を摘出するなんて、
というのが私の立場です。

「安楽死」を完全に否定はしません。同時に、完全な肯定もしません。
↓の投稿で萩原優騎さんの書いていらっしゃることにはほぼ賛成ですが、安楽死と
臓器提供の組み合わせには抵抗があるのです。そこには結局、
「植物状態」は人に迷惑をかける状態、
「臓器提供」は人の役に立つ行為、
という価値観があまりにも見えすぎるからかもしれません。
だから、本人のための「安楽死」までは許されるが、本人も含めて、
「人に迷惑をかける状態 対 人の役に立つ行為」
という図式にはまってしまうのは、社会の共有する良識としては許されまい、
と思うのです。


てるてるさんへの補足説明 投稿者:萩原優騎  投稿日: 1月22日(月)01時42分42秒

>植物状態は、救命にはとりあえず成功した状態です。
>それを「安楽死」させて臓器を摘出するということは、移植医療のために、
>救命に成功した人を殺すことになり、許されないと考えます。
確かに、理想としてはその通りです。そのことは、私も最初から承知しています。
しかし、私も論文で書きましたように、実際には安楽死が行われているわけで、
それがなされる理由というのも、実に様々です。
例えば、これまで元気で通常の生活を送っていた人々が、
突然植物状態になり、そのまま生き続けるのは本人も苦痛だろうと家族が判断する場合、
あるいは、生まれたばかりの幼い子供が無脳症で、その子の将来を考えて、
やむを得ず生かすことを断念するという判断に至る場合などが挙げられます。
そういった個別的な事情に介入して、それでも安楽死させてはいけないと、
生かすことが常に善だという絶対的基準を提示することが、誰に許されるのでしょうか。
ただし、上に挙げたような場合には、臓器摘出を容認する本人の意思表明は、
どこにも存在しないので、臓器摘出が許されないという点は確認しておきます。
次に、先日書きました例についての補足説明です。
「万が一私が植物状態になったら、そこで生かすことをやめて、臓器も摘出してほしい。」
このような意思表明を、どのように考えるかということに関してです。
その人が、植物状態になってでも生きることは嫌だと判断するからこそ、
こういった意思表明がなされたのですから、それを無視して生かしつづけることは、
その人のQOLにむしろ反するとも言えます。
そうであるならば、家族が本人の意思を最大限に尊重したいとの判断から、
安楽死を容認するということがあってもよいのではないか、という考えもあるでしょう。
安楽死についてそのような判断がなされるのであれば、
臓器摘出についても、先日書いたように意思表明の有効性が確認でき、家族も同意すれば、
それを行うことも間違いであるとは言えなくなります。
ただし、ここで注意すべき重要な点が二つあります。
一つは、この掲示板での一連の議論をご覧になった知人からのご意見なのですが、
例えば鬱病の患者の意思表明が有効かどうか、ということです。
この場合、その周囲の家族の精神状態も、極めて不安定であることがあります。
ですから、ここでは安易に本人の意思表明や家族の同意を尊重しがたいのであり、
それが本心からなされたものであるかをチェックする制度が必要になります。
もう一つは、立岩真也氏の論文などから学んだことなのですが、
植物状態になる=自立した生活ができなくなる=生きている価値が見出せなくなる、
このような図式が、あまりにも自明のものとなっています。
つまり、自立した生活は、生きるための手段であるにもかかわらず、
現実にはそれが逆転して、自立が生きるための条件であるかのように錯覚されがちです。
そして、周囲の家族も介護の負担から解放されることを全く望んでいないとは言えません。
しかし、本人や家族のそういった願いを完全に否定できないとしても、
だからといって必ずしも安楽死に至らなくてもよいではないか、と言えるはずです。
そこでは、そのような人々や家族の生活を社会が支えていくシステムが必要になりますが、
自立性が成り立たなくなるところで安易に安楽死が選択されてしまう状況に対して、
その自明性を解体していく作業も、倫理学の今後の重要課題であると考えます。

m(_ _)m感想 投稿者:ちゅう子  投稿日: 1月21日(日)21時45分25秒

>臓器移植法廃止論 :自分の場合は「脳死」が「人の死」でよいし、
>「臓器摘出」してもよいと考えている人の権利を侵害することになるのではないか。

森岡先生の素案を拝読いたしました。こんな風にまとめるんだ、とか、そのような事しか
感想が言えないのですが、>・・・のところはびっくりしました。
 たぶん、子ども、おとなの権利で語っておられるので、その意味での批判のことばなのでしょう。
ただ、ここだけ急に軽くなったようで、時間不足だったのだろうかと思っています。

 案は二つを読んでいたら自分の気持ちがわからなくなってきました。
 あとしばらく、じっくり考えてみたいです。
 自分の意見に責任を持つには、てるてるさん方のように勉強が必要ですね。

 無責任なことばですが、
 現行法をいじらないで裁判の時の良心を信じ、おそらく医療は移植を越えていきそうな勢いを
感じたりもするのです。初心を忘れたのはちゅう子なんでしょうか。


医学文献の検索 投稿者:てるてる  投稿日: 1月21日(日)09時47分32秒

>医学文献の検索に使えるウェッブページです。↓

progess in transplantation 10(2),2000に、若林正さん他の皆さんの、日本の
臓器移植法についての論文が載っています。検索ページでAbstractが読めます。

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/PubMed/


11例目の脳死の人からの移植 投稿者:てるてる  投稿日: 1月21日(日)09時41分44秒

>11例目の脳死の人からの移植が行われています。↓

けさの朝日新聞東京本社版にも小さく記事が載っています。
雪の影響が心配されていました。

http://news.yahoo.co.jp/Full_Coverage/Organ_Transplant/


森岡案について 投稿者:萩原優騎  投稿日: 1月21日(日)01時28分01秒

森岡案を拝読しましたので、私見を述べさせていただきます。
まず、先生の書かれたものに関していつも思うことなのですが、
議論の軸が「脳死は人の死であるかそうではないか」というものであるため、
人間の死というものを、脳とか心臓といった身体の一部の停止という、
物質的な状態変化に還元してしまっているという印象を受けます。
もちろん、私が論文に書きました内容について、
先生がご理解くださっていることは存じておりますし、
また、上記のような表現の方が、一般には馴染みがあるということも承知しております。
しかし、患者の個別性、患者とその家族との関係性といった文脈で死の問題を考えるには、
このような問題設定では不十分であると言えます。
それでないと、年末にお目にかかった時に先生がお話しくださったように、
私の言う「概念としての死」が全脳死、脳幹死、器質死といったものと誤解され得るという、
医療関係者の自明性が崩れることもありません。
>A案・B案の2案をもって素案とした。
>今後の議論によって、いずれがより妥当であるかを詰める必要がある。
A案とB案を併記するのは、本当に妥当でしょうか。
これまでの臓器移植法関連の動きを見る限り、その決定がなされる場面で、
強い発言力と決定権を持っているのは、明らかに臓器移植の積極的推進派の人々です。
ということは、もし森岡案を採用するとしても、
より幅広い適用範囲のA案が採用されることは予想できますから、
この二つのどちらが本当に望ましいのか、十分に議論されることなど無いと思います。
慎重な議論を願うのであれば、今回はB案を提示し、
A案については、更に検討を重ね、その結果として妥当性に確信を持てたら
その時に提示するという方がよいのではないでしょうか。
>臓器移植法廃止論  自分の場合は「脳死」が「人の死」でよいし、
>「臓器摘出」してもよいと考えている人の権利を侵害することになるのではないか。
どうしてこのような見解が出てくるのか分かりません。
あまりにも安易に、廃止論を否定しているように思えます。
実際、臓器移植法が制定される以前には、現在のドナーカードとは異なる、
臓器提供の意思表明に関する別の方式が存在したのであり、
むしろ現状の方式において、脳死や臓器移植の決定が気軽になされているのは問題だ、
という批判に対して、上記の見解は十分に目を向けていないように見えます。
少なくとも、例えば、てるてる案のようなドナーカードの改善、もしくは、
私が以前ここに書いたようなチェック・システムの徹底を、改正案に盛り込むべきです。
また、私が村上陽一郎先生の著作から引用して論じた、
脳死が法的に正当とされた状況で起きる無言の圧力という問題を、
現行法や森岡案ではどのように対処できるのか、という疑問があります。
本当は臓器摘出をされたくない人々やその家族が、自分達の意思を貫き通せる環境が、
与えられていないという権利侵害があってもよいのでしょうか。
それ以前に、臓器移植法改正の審議に当たる人々が前述のようである以上、
廃案という選択がなされる可能性は皆無に等しいので、
改正案としての森岡案が、廃止論をここであえて批判する必要自体ないと思います。