森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2000年12月26日〜12月29日

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萩原さん 投稿者:le pissenlit  投稿日:12月29日(金)15時25分41秒

今ごろ遅れて2本目の貴論文{脳死・臓器移植の論理と倫理ー現代医療と自己決定権の裂け目を読む」を
ゆっくり読ませていただきました。
最後の方の「実践を根ざした倫理学」の項ですが、
>普遍性は参照枠を手がかりとした個々の場面での論理の積み重ねを通じて生成され
絶えず吟味されていく暫定的なものでありその過程で参照枠自体も常に変容していく。
この作業を経ずに唯一の普遍妥当な基準を掲げることは知的怠慢にほかならない。
この主張はまさにそのとおりと同感です。普遍性とは一人一人を巻き込んでいく作業が求められていますよね。
一人一人の実存を変容する時間をかけて100%の参加を真なるものが求めていくものと思います。
そして真に誘われる道でもあり、おしゃるように生成の道。

てるてるさん 投稿者:yukiko  投稿日:12月29日(金)04時43分44秒

外国の事例(翻訳までしていただいて…感涙)そのほかの貴重な情報をご紹介いただき
ありがとうございます。

RE:メンタルケア 投稿者:yukiko  投稿日:12月29日(金)04時38分02秒

>以前、ここで議論されていたのは、むしろ、脳死の人の家族を、外部の雑音から守るための
>ものだったのではと記憶していますが・・・。

おっしゃるとおりです。移植の枠組で行うアフターケアは、次の臓器獲得への「営業活動」になり得るので、
わたしは反対です。臓器移植専門委員会で、アイバンクを例にとり、アフターケアをするかしないかによって、
提供数の地域差があるから、移植ネットでも今後提供数を増やすためにアフターケアをする必要がある、
という話題がでていました。

それから、船橋のある病院で、MSWが医師の代わりにドナーカードを預かっている、というニュースが
前にあったのですが、先日の専門委員会で、移植医が、移植の準備があるから救命の現場で
はやく家族からドナーカードの確認をしてネットに連絡してほしい、との発言がありました。
「それで救命を尽くしたのかと問われるこちらは困る」と救命側が困惑していたのですが、この話を聞くうちに、
MSWが無防備にカードを預かってはまずい、と思いました。

中和剤として利用される、という懸念だけではなく、MSWがクライアントから得た情報の内容については、
守秘義務を尊守しなくてはならないからです。MSWの中には、まだ社会福祉士の資格を取っていない人も
いますが、有資格者であれば、秘密の漏洩は法の処罰の対象になります。

家族と話をする時には、戸籍上の代表者や、喪主を相手にすれば良いわけではく、必ずキーパーソンを
相手にしなくてはなりません。そのような家族関係を知らぬまま、MSWが単純にドナーカードを預かると、
後々、家族の間に混乱を招く可能性があります。また、把握した個人情報を、
家族側の許諾のないまま、外部にもらすことは、秘密の漏洩にあたり、やってはならないことです。
MSWの面接は、あくまでも利用者や援助関係そのものに資することが第一義であり、その視点を失わず、
法を運用していくのが本筋だと思いました。

メンタルケアですが、臓器提供者の家族の援助に限らず、弱った状態にある人を援助する場合には、
常に「洗脳」「侵入」的力学を持ち得る、という危険性について、自戒し、謙虚であらねばならないと思います。
その家族にとって「命のリレー」であったのかどうかは、その家族自身が決める価値であり、普遍的な
価値ではありません。繰り返しますが、移植の枠組で心理的ケアを行うことにはわたしは反対です。

ドナー家族が、セルフヘルプグループを立ち上げられたそうですが、その能動性に敬服します。
家族自身が、主導権を持ち、カウンセラーやソーシャルワーカー、宗教者、それから、それらと対等な
援助者である移植コーディネ―ター、医師らの社会資源を使いこなした方が、いろんな価値から自由であり、
よりよいケアを自ら構築できると思います。グリーフケアについても、患者の会の主催でできると思います。

現場でのアドボケイドですが、家族が高齢であったり、単身者であったり、障害があったり、
手話によるコミュニケーションが必要だったりした場合、医師の説明を充分に受けるために
家族には援助が必要です。それ以外の場合でも、MSWの同席を希望される場合があろうと思います。

それから、危機介入について、ぺっとんさんの書きこみがありましたけれど、他の援助職の実績には
関心があります。よい実績は盗みたい(爆)です。


追加説明 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月29日(金)02時04分46秒

●このページをご覧の皆様
昨日の書き込みに、一部入力ミスがあり、平仮名がアルファべットになっていました。
文章の意味はつかめる程度のミスでしたので、
ここでその部分を改めて書くことはしませんが、失礼致しました。

●森岡先生
>「脳死そのもの」についても、そんなにあっさりと受け入れないで、という気もします。
>脳死の科学って、まだまだ開発途上で、超あやしいですよ。
昨日の書き込みは、やや説明不足でした。
私は昨日、てるてるさんに対して、次のように書きました。
「脳死を死と認めるかどうかという文化戦争ほど、不毛なものはない」、と。
これは、第一に、判定基準としての死と概念としての死の混同に気づかないままに、
「脳死は人の死か」という議論が続いている状況の不毛さに関してです。
第二に、各々が自らの死に関する判定基準として、
脳死を採用するかどうかということに対して、
「脳死を採用して臓器移植を積極的に進めよう」という推進派と、
「脳死などというのは死への冒涜であり、断じて許されるべきでない悪だ」という反対派の、
対立ということについての不毛さです。
まず、ここでは、脳死という判定基準に関する科学的・医学的な吟味、
つまり、判定基準として採用する方法の妥当性などに関する議論が、両者共に欠落しています。
次に、脳死は善か悪かという、議論を行う本人の価値観が特権化されているため、
患者各々の個別性というものが無視されてしまっているという、大きな問題もあります。
そうした特権的な視点から語るような倫理学、換言すれば、
普遍性をあらかじめ想定し、画一的な基準を立てる倫理学を、私は拒絶したいと考えます。
その代案こそが、参照枠としての倫理学にほかなりません。
ですから、森岡先生がご指摘のように、脳死の判定基準自体に関する、
科学的・医学的な側面からの研究、判定基準の厳密化など、それらは改善されるべきであり、
現状のままでよいとは、私も全く考えておりません。

●ヒグラシアカネさん
>同意」の話ですが、私は家族は「同意」してもしなくてもよくて、
>仮に「同意」した場合だけ臓器を提供すればよいと思っているので
>萩原さんとは同意見のような気がするのですが、どうでしょう。
最初の部分の「同意してもしなくてもよくて」という意味がよく分かりません。
この部分では、同意の有無は確認できなくても臓器摘出可能と受け取れるのですが、
その次の部分では、同意した場合だけ臓器を提供すればよいと書かれているため、
一つの文章の中に、見解の矛盾が見られるからです。
つまり、前者はてるてるさんの見解、後者は私の見解ということになります。
繰り返しますが、基本的に臓器提供に関する患者の意思決定を家族は極力優先すること、
ただし、その同意は自発的に行われ、強制されないこと、これが私の論点です。


お久しぶりです。 投稿者:ヒグラシアカネ  投稿日:12月28日(木)23時17分00秒

萩原さん
なんだか無視したみたいになってしまってすいません。
「同意」の話ですが、私は家族は「同意」してもしなくてもよくて、
仮に「同意」した場合だけ臓器を提供すればよいと思っているので
萩原さんとは同意見のような気がするのですが、どうでしょう。
森岡先生
1月10日は本屋に走ります。楽しみにしてます。

ラザロ徴候・2 投稿者:森岡正博  投稿日:12月28日(木)21時15分11秒

脳死患者の肩や腕が動く現象は、よく見られる脊髄反射だから、大げさに言う必要はない、という反応が
ありました。ですが、ほんまもんの「ラザロ徴候」というのは、そんなもんじゃないですよ。脳外科の医師でも、
典型的なラザロ徴候は、あまり見たことないのではと思います。実際、
「ラザロ徴候=よくある脊髄反射」くらいにしか考えていない医師もいますしね。
ラザロ徴候の実態については、来たる「中央公論」論文を待て。実際、スペインでは除脳硬直まで
起きちゃうんだからね、びっくりだよ。

ラザロ徴候が日本で出現! 投稿者:森岡正博  投稿日:12月28日(木)18時16分41秒

なんと、今年4月の秋田県の由利組合総合病院で脳死と判定された40歳代の女性(6例目)に、
「ラザロ徴候」が確認されたと、厚生省が公式発表しました!! 

「第一回目の無呼吸テスト終了直後にラザロ徴候と思われる右肩の拳上が認められたが、
  この種の動きは脳死を否定するものではない」

とのことです。

厚生省の発表は、これだけです。超かるーく流していますが、「ラザロ徴候」の実態とは、
こんなものじゃありません! その詳しい事実は、1月10日発売の「中央公論」論文にてご報告します。
「脳死を否定するものではない」という厚生省の発表は、2000年のNeurologyに報告されたラザロ徴候の
実例を無視したものです。これについても、拙論でご報告します。

いずれにせよ、「ラザロ徴候」については、もっともっと注意を喚起する必要があります。

厚生省の発表に関わった人には、上記拙論の2000年の例を医学的にどう解釈しているのか、ぜひ
お聞きしてみたいものです。たいへん興味がある。

あと、日本で9例脳死判定(10例だっけ?)やって、ラザロ徴候が1例出たというのは、けっこうな高率では
ありませんか? このことを、もっと一般市民に情報公開するべきです。マスメディアのみなさん、
ぜひ追跡報道をしてみてください(あるいは私にメールをください)。

それと、これ、先日の非公開の検証会議で報告されたものじゃないのかな?>てるてるさん、ご存じですか?
  こんなことがあったから、非公開にして、かつあれだけのものものしい注意書き(声を上げるなとか)を
書いていたのかな。


RE:てるてるさん・2 投稿者:てるてる  投稿日:12月28日(木)15時55分58秒

>その証拠に、私は最初の論文で、臓器移植を法的に禁じるべきq@という、
>宗教関係者などの発言に対して批判しています。
>そして、私自身の身体については、脳死判定を受けることも、自分の臓器を摘出されることも、
>別に構わないと考えている一人なのです。
>ですから、私は脳死や臓器移植を「悪」だなどと考えたことは一度もありませんし、
>脳死を死と認めるかどうかという「文化戦争」ほど、不毛なものはないと思います。
>それが不毛であると考えるからこそ、各々の個別性に配慮した、
>参照枠としての倫理学というものを私は掲げているのです。

確かに、宗教団体などの、移植を禁じるべきという思想の押しつけを批判されているところも、読んでいました。
そこは賛成だったのです。他のところも、患者本人の臓器提供の意思表示のあるときの家族の扱いについては
意見が違っていますが、大筋において、一つの考え方をおしつけない、という点で一致していると思います。
御説明いただいてありがとうございました。


スペインのコーディネーター 投稿者:てるてる  投稿日:12月28日(木)15時15分04秒

スペインのONTのコーディネーターのことは、キプロスの健康大臣に1999年に提出されたレポートにも
紹介されているので、そのなかの一部を、↓のサイトから訳して紹介します。

キプロスの健康大臣に1999年に提出されたレポート(A Report on Organ & Tissue Donation
http://cyprus-freemasons.org/RegMethods.htmlより)

ORGAN DONATION - THE "SPANISH MODEL"

      As introduced by it's Architect, Dr Rafael Matesanz, MD, Coordiador
      Nacional de Trasplantes, Spain:

スペインのONT幹部へのインタビュー

問い:どんなときに潜在的ドナーの家族に接触するのが最もよいのか?

答え:われわれは、すべてのコーディネーターに、脳死が起こったことを家族が理解するより前に、
臓器提供の話をしてはならないと教育している。臓器への要求をする前に、コーディネーターが家族との
信頼関係を築くことが重要である。この信頼関係確保のために、コーディネーターは非常に早く家族との
関係に巻き込まれるようにする。実際、コーディネーターは、重大な脳の傷害を負った患者が出るとすべて
通知される。

適確なタイミングというものは、家族ごとによって異なる。コーディネーターが最初に家族に会ったときに
することは、家族が状況を理解しているかどうかを把握することである。プロセスのワンステップごとに、
現在の状況を吟味し、医師によって与えられる家族の情報をすべて分析しなければならない。最後に、
医師が、死が起こったことを説明し、家族が理解したことを、コーディネーターは確認しなければならない。

また、病院のなかに、何人の家族のメンバーがいて、そのうちの誰が最終決定者なのかも
確定しなければならない。スペインでは家族は非常に緊密で、病院では10人ぐらいが見つかるはずである。
コーディネーターは、その家族の最終決定者と話していることを確認しなければならない。

http://cyprus-freemasons.org/RegMethods.html


外国のドナーコーディネーター(2) 投稿者:てるてる  投稿日:12月28日(木)14時39分26秒

「移植のための臓器提供 スペインモデル」という、ONT発行の本によると、ドネーションインタビューと
よばれるもののさまざまな側面が検討されている。
1)インタビューの準備。病院のなかでその家族のためにプライベートな場所を確保し、
さまざまな家族メンバーの態度についての情報を得る。
2)できるだけ、脳死判定基準について、形式ばらないくだけた説明を家族に対して行う。
3)次に、実際的な、臓器提供についての質問を行う。その際、最初の試みの後、30分か45分して
再び試みるのがよいかどうかという見積もりも含めるべきである。
4)臓器提供に賛成する具体的な議論を特殊な組織的方法によって行う。まず、ドナー本人の利益を
強調するべきである(たとえばドナーの寛大な人柄とか)。つぎに、仲間への配慮の重要性に触れる
(たとえば仲間への連帯を鼓舞するとか)。最後に、最終局面として、社会の利益を強調するべきである
(たとえば待機患者のリストとか臓器への社会的な需要とか)。さらに、家族が臓器提供を拒否できる10の
理由を追加するが、これは、この拒否を臓器提供賛成に変える戦略的陳述と結び付けておく。
(Cf. particularly pages 93-111 of
"Organ Donation for Transplantation. The Spanish Model", Organizaci?n Nacional de Trasplantes, 1996.)

一方、経済的な牽引力も臓器提供の件数を押し上げている。すべてのコーディネーターはこの仕事で報酬を
得ている。全国的および地域レベルではフルタイムでコーディネーターに雇われる。病院コーディネーターは、
病院の仕事と臓器移植の仕事とを持っているので、潜在的ドナーの死体が上がったときだけ、パートタイムで
雇われる。病院コーディネーターは、ふだんの給料の一番多い額でボーナスを受け取る。ボーナスの額は、
病院コーディネーターが供給する臓器の数によって左右される。獲得数が15より少なければボーナスも少なく、
15より多ければボーナスも多い。加えて、国の健康システムは、提供臓器一個につき賞与を払う、それは、
臓器提供に係わった医療スタッフの人数に応じて配分される。賞与の額は、獲得された臓器のタイプによって
左右される。


外国のドナーコーディネーター(1) 投稿者:てるてる  投稿日:12月28日(木)14時36分15秒

外国では、本人の意思表示がなくても家族の同意だけで臓器提供できるとか、本人の生前の拒否の
意思表示がなければ家族の同意がなくてさえも臓器提供できるとかの法律になっているので、病院に
ドナーコーディネーターが常駐して、脳死と診断された患者の家族に接触することになっているようです。

USAでは、そのようなドナーコーディネーターと話をして、本人の意思表示がなかったけれども臓器提供をして、
よかったと満足し、以後、積極的に臓器提供推進運動をし、「あなたの臓器を天国に持っていかないで」という
ステッカーを車のバンパーにはっている、という女性もいて、NHK-BS地球法廷で発言していました。けれども
同じUSAで、脳死と診断されると直後にドナーコーディネーターがやってきて、結局、臓器提供してしまって、
後悔している、という女性もいます。

これまでも掲示板で触れてきましたが、スペインのドナーコーディネーターの制度は
提供臓器獲得数増加を目的として、徹底した訓練と賞与のシステムを持っているので、
↓のサイトから、その部分だけを訳して紹介しようと思います。
(日本臓器移植ネットワークには、こういことはやってもらいたくないですが…)

スペインの臓器提供者獲得モデル
(デンマークの倫理委員会発行のレポート、Organ donation. Informed or presumed consent?
http://www.etiskraad.dk/publikationer/orgdon_eng/ren.htm より)

スペインでは1989年以来、年間の臓器移植の件数が増加している。1996年には、腎臓移植の件数が世界中で
一番多かった。100万人あたり43.8件、あったのである。スペインのある研究者によると、公式に述べられている
臓器提供の増加数は、国立の臓器移植の機関、ONTの設立に負っているとのことで、この組織の主な目的は
提供臓器の獲得の改善である。国立の臓器移植機関は、この目的の達成に数々の主導性を発揮している。

第一に、包括的、組織的な方法が取られた。国立の移植機関は、全国的な移植コーディネーションシステムの
首脳部としてマドリッドに置かれ、地域コーディネーターが17の地域のそれぞれに、そして、コーディネーターが
すべての病院に一人ずつ置かれた。病院コーディネーターは特に中心的な役割を果たす。彼らは、
潜在的ドナーの家族に話し掛け、臓器提供の恩恵について説明する。彼らの成功は、臓器提供の承諾を
しぶるのは4分の1以下であるという事実によって評価されるだろう。

http://www.etiskraad.dk/publikationer/orgdon_eng/ren.htm


ソーシャルワーカーとドナーコーディネーター 投稿者:てるてる  投稿日:12月28日(木)14時25分12秒

yukikoさんの論文のソーシャルワーカーは、本来、病院に常駐して、脳死の場合に限らず、患者と
その家族のための支援を行う人々であり、しかも、患者とその家族の側からの要望がなければ、サーヴィスを
行いません。脳死の場合には家族が患者のそばにいられる時間を確保するのもソーシャルワーカーの仕事に
なっています。
ただし、ソーシャルワーカーのサーヴィスが受けられるということは、病状に関係なく、入院直後に患者と
家族に伝えられるべきです。

しかし、日本ではソーシャルワーカーが常駐する病院が少ない。このことは問題だと思います。
脳死の患者で臓器提供の意思を表示している場合、臓器提供と関係のないソーシャルワーカーに
相談する機会もなく、コーディネーターに接触することになるからです。しかし、日本ではコーディネーターに
連絡することを家族が拒否することもできますから、それでなんとかつりあいを保っているのかもしれません。

日本のように、本人の意思表示を必須条件としているからには、ドナーコーディネーターが病院に
常駐することは無駄で、本人の意思表示を確認してから連絡するのがよいと思います。その
ドナーコーディネーターは、呼ばれたからには、家族が、本人の意思を受け容れやすいように支援するのが
よいと思います。そのための説得は行ってはならないけれども、少なくとも移植コーディネーターは本人の
意思を積極的に肯定する人でしょう。そのコーディネーターの説明を聴くときに、ソーシャルワーカーの同席を
家族が求めてもいいし、両方の話を別々に聴いて考えてもいい。

一方、ドナーコーディネーターも、そのサーヴィスは、臓器提供だけに留まらず、患者の遺族の
グリーフケアにもかかわらざるを得ない。ソーシャルワーカーと協力することも必要だし、このまえの
検証会議でも、必要とあれば専門家を紹介すべきだといっていました。検証会議では、実際にこれまでの
脳死の人からの移植の遺族から、コーディネーターに電話がかかってくるのだ、と言っていました。


萩原さん 投稿者:森岡正博  投稿日:12月28日(木)04時01分47秒

「脳死そのもの」についても、そんなにあっさりと受け入れないで、という気もします。こんどの「中央公論」
論文でも書きましたが、脳死の科学って、まだまだ開発途上で、超あやしいですよ。「脳死の医学については
もう十分解明されたから、そのうえで、倫理問題を考えよう」という意見こそが、実は欺瞞なのだと思います。

ちゅう子さん 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月28日(木)03時23分17秒

>萩原さんは、法律化にせよ、なんにせよ、ひとつの枠で判断するのは
>避けたいと思っていらっしゃる。
>哲学、倫理学などは、事柄をさらに考えるときの一方向性であって、
>決定的なものではないと。だから「議論の参照枠」という言葉がわかるような気がしました。
>生命を考えていくときにも多くの価値があるように、
>さまざまな場面などにも太刀打ちできることが求められる時代。
>こういう理解の仕方でよろしいでしょうか?
ほぼご理解くださったようなので大変ありがたいのですが、
一応誤解のないように、少しだけ説明させてください。
私が特に批判しているのは、例えば生命倫理学に関する特定の見解が、
安易に法制化されたり、医療関係者のマニュアルに取り入れられたりすることで、
その見解に反する価値観を持つ人々の個別性が尊重されなくなるということです。
ですから、法制化そのものが悪いということではなくて、
法制化を行うまでに、そこで採用される基準について十分な検討がなされること、
法制化された状況で、患者の選択肢が多様に開かれていること、
法制化以降も、その妥当性を不断に吟味し改善するよう努めること、
そのような配慮がなされることは、当然であろうと思います。
ところが、日本の現状を見れば、生命倫理学についてほとんど知識のない人々が、
十分な議論を行わずに、もしくは反対意見を全く無視して一方的に法制化してしまったり、
特定の人々にとってだけ都合のよい規則が安易に設定されてしまったりといったことが、
特にこのところの国会などを見ていますと、頻繁に行われています。
携帯電話とPHSの区別もつかずに、その違いを女子高生に質問しているような首相が、
「IT革命」などと言っている程度のレベルなのですから、情けないものです。
情けないというよりも、政治としては、極めて劣悪な状況です。
そういった状況を無視し、それどころか時には加担しているというのが、
「イデオロギーを支えるツール」としての、現在の堕落した哲学・倫理学なのです。

てるてるさん・2 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月28日(木)03時22分33秒

>つまり、本人の意思を尊重するけれども、いつ、それを実行するかということでは、
>家族の状況をみて、いいときを選ぶことになると思います。
>萩原さんがおっしゃる、画一化の暴力というのは、そういう、
>その場の裁量がなくなるという意味でなら、わかるのですが、
もちろん、暴力性の一部として、これも含まれると考えます。
そして、この点については、森岡先生の議論とも重なるはずです。
>脳死か心臓死がどちらかを選ばざるを得ない状況になったときに、どちらを選ぶかを
>本人に前もって決めることを、自己決定と言っているのに、どうして、
>そのどちらかしか選べないといって問題にされるのか、わかりません。
ここで小松氏が言いたいのは、私の言葉を使えば、概念としての死が、
判定基準としての死に還元されている、ということについての見解だと思います。
脳死か心臓死かというのは、判定基準に関する自己決定の問題であって、
そうした死亡に関する判定基準とは別に、死亡の判定において患者に到来する、
概念としての死というものがあるということを言いたいのでしょう。
つまり、小松氏は「死の自己決定権において」と書いてしまうから、
まるで判定基準に関する自己決定を無視しているかのように見えてしまうのであって、
判定基準とは次元が異なる死の様相がある、と述べるべきだったのです。
>でも上記の3人も他の人も含めて、脳死を死と認めることや臓器移植を行うことを
>悪と断じている、という印象を受けます。
>私には、文化戦争のように思えます。脳死を死と認める人々と認めない人々との。
この点こそ、私の論文に対する、てるてるさんの最大の誤読です。
私が「脳死は死である」ということに対して批判しているのは、
脳死という判定基準と概念としての死の混同についてであり、
脳死そのものについては何一つ批判していません。
また、臓器移植についても、それが行われるに相応しい条件を提示しているのであって、
その行為自体については否定していjpy。
その証拠に、私は最初の論文で、臓器移植を法的に禁じるべきq@という、
宗教関係者などの発言に対して批判しています。
そして、私自身の身体については、脳死判定を受けることも、自分の臓器を摘出されることも、
別に構わないと考えている一人なのです。
ですから、私は脳死や臓器移植を「悪」だなどと考えたことは一度もありませんし、
脳死を死と認めるかどうかという「文化戦争」ほど、不毛なものはないと思います。
それが不毛であると考えるからこそ、各々の個別性に配慮した、
参照枠としての倫理学というものを私は掲げているのです。

てるてるさん・1 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月28日(木)03時21分54秒

>池田清彦の「臓器移植、我、せずされず」です。
>これは、集中治療室での延命治療を拒否するかどうかとか、
>癌の末期に緩和治療>だけを受けて延命につながる治療は拒否するかどうか、
>というような選択をする権利としての「自己決定権」についての議論としては
>無意味であると思いました。
私は池田氏の文献を読んでいないのですが、確かにこのような見解は、
自己決定権についての議論として有効とは言えないでしょう。
>本人の意思を尊重することが、どうして、遺族に対する「無言の圧力」なのか。
>本人の意思をまげないようにするのが当然ではないか、それを無言の圧力とは、
>おかしいではないか、と思うのです。
この点が、私とてるてるさんの考え方の異なる部分なのです。
私の場合、安楽死や尊厳死、脳死判定や心臓死判定など、
自らの「死に方」に関わる部分については、自己決定を重視しています。
しかし、臓器移植は、死後になされる行為であり、これは、通常の遺体処理方法ではありません。
ですから、生前の自己決定が確認されている場合にのみ、臓器摘出を行うべきだと書きました。
更に、臓器摘出が通常の遺体処理と異なる以上は、
患者本人とその家族との関係性というものを、ここで考えておく必要があるということです。
つまり、患者が生前に臓器提供を希望していた場合には、
家族はできる限り患者の生前の自己決定を尊重して、それに同意すべきであっても、
絶対に同意するように強制することは適切であろうか、というのが私の疑問なのです。
そこで、自発的な同意という条件を、論文の中で挙げました。
なぜなら、身体の所有という想定に基づく自己決定は、安楽死や尊厳死、死の判定基準など、
患者の死そのものに関わることにおいて、特に不可欠なものと考えるからです。
自らの死に関する決断という、やり直しの不可能でかけがえのないことについて、
本人の決定を尊重することは非常に大切なのですが、
臓器提供に関しては、その延長上で、生前の本人の善意によってなされるものです。
その善意は極力尊重すべきなのですが、やはり周囲の人々の気持ちというものも、
おろそかにされてはなりません。
このように言える根拠とは、患者が死亡して以降は、
論文で触れたように、その遺体の所有権が家族に移行するわけではないと共に、
一方では死亡した患者本人にとっても、もはや所有の対象ではないということです。
ただし、死亡するまでは患者本人の身体の一部として生命を維持してきた臓器なのですから、
死亡した途端にそれに関する自己決定が無効になるというのは適切ではないのであって、
だからこそ患者の自己決定を極力尊重する必要があるけれども、同時に、
その患者とともに人生を歩んできた周囲の人々の気持ちも配慮されるべきだと考えます。
これまで、この問題に関する議論では、提供者や受容者の権利というものばかりが主張され、
特に受容者の場合、他人から臓器を受け取って生きるのが当然だというように考えられ、
臓器移植が提供者の善意に支えられて成立しているという点が、
「何が何でも生きたい」という生命への欲望を前にして、
十分に認識されないという傾向もありました。
それと同様に、提供者とその周囲の人々との関係性、例えば、
患者が臓器提供を生前に表明し、それを実施するという場面で、
家族がそれをどう受け止め、何を思っているかといったことが、
あまり考察の対象となってきませんでした。
患者の臓器提供に関する自己決定を尊重しつつ、その意義を踏まえた上で、
私はこのような面にも目を向けていきたいのです。

re:メンタルケア 投稿者:らら  投稿日:12月28日(木)01時26分48秒

まず第一に、脳死と臓器移植がセットになったような法律ができてしまった後に、ドナーの家族への
メンタルケアにあたる人が完全に臓器移植に中立、というかニュートラルな態度でのぞんでいただけるのか
どうか、というところには疑問を持ちます。
それから次に、現行法においてドナーの意思が尊重されるために介入してくる第三者としてのメンタルケアを
する人についてですが、私はその人の存在に関しても懐疑的です。脳死の人をとりまく関係者(昔けっこう
この話しましたよね^_^;)と脳死の人の間にもっとも必要なのは直接触れ合っている時間を長くすること
(ICUの問題)であって、心臓死へとむかう時間の中で行われるその(関係者の)決断に第三者の積極的な
介入は別の要素が働いてしまうように思うからです。
メンタルケアは、ドナーの家族(関係者)が受けたいと望んではじめて受けるものであって、
はじめっから自動的にそのような状況に出動させるようなものではないと思います。だから、
べっとんさんの書きこみ(言及)には大きな違和感を感じます。もちろん常勤する誰かが必要だと
書いていらっしゃるのでしょうけれども・・・。救命救急センターの存在意義にも関わってきます。

RE:メンタルケア 投稿者:てるてる  投稿日:12月28日(木)00時19分49秒

>海外では、ドナー側のメンタルケアは、はっきりと家族の臓器提供拒否数を減らす
>目的で模索されているようです。下手をすると、「家族を落とすための専門職」に
>なりかねません。

それはスペインなんかの事例を読むと、はっきり、そうなっています。なにしろ、提供臓器の数が多ければ
ボーナスが出るんですから。

それから、「家族を落とす」ということについて、またもや、トリオ・ジャパンの第8回セミナー、
それもまた濱邊さんの引用になりますが、以下のように述べています。

>濱邊 主治医が話をするのはそれまでの信頼関係をベースにして、それが一番いいでは
>ないか、それはもっともな話です。もっともな話だからあまりやりたくないのです。つ
>まり、「主治医の先生が言うのだったらいいですよ」というのが一番嫌なのです。はっ
>きり言って、僕は落とすのが上手ですが、だけど落とすのが上手だとは言われたくない
>のです。だからこそ、かえって主治医は身を引くべきであろうと思います。「先生がそ
>んなにおっしゃるのだったら先生にあげます」とよく言われるのですけれども、僕らが
>欲しいわけではなくて、あるいは良くしてもらったからあげるのではなくて、ドネーシ
>ョンというのはそういうものではないのだろうと僕は思うのです。

でも、このまえの検証会議では、臓器提供後のグリーフワークのために、臓器提供前から、
同じ人があたったほうがいいという話でした。
デーケン氏などの考えは、必ずしも、脳死の人からの臓器移植の場合に限らず、遺族が病気になったり
死んでしまったり離婚したりする事例が多いということをふまえて
「突然の死とグリーフケア」という著書に著されていて、これは重要なことだと思います。

この掲示板やyukikoさんの論文で議論されていることは、臓器移植に中立な立場で、
脳死になったひとの精神的支援をするためのソーシャルワーカーの役割についてです。
脳死を受け容れると、ドナー本人の臓器提供の意思を家族も受け容れやすくなるかもしれません。
私はそれでいいと思います。


メンタルケア 投稿者:森岡正博  投稿日:12月27日(水)23時42分09秒

あまり議論されてないかもしれないけれど、ドナー側のメンタルケアというのは、両刃の剣のような気がします。
ドナー側についた心理療法士とか社会福祉士が、ドナー家族を移植の方へと「非指示的」に誘導することも
できるからです。(もちろんその逆もできるでしょうが、逆をする人って、現実にいるのかなあ)。海外では、
ドナー側のメンタルケアは、はっきりと家族の臓器提供拒否数を減らす目的で模索されているようです。
下手をすると、「家族を落とすための専門職」になりかねません。

以前、ここで議論されていたのは、むしろ、脳死の人の家族を、外部の雑音から守るためのものだったのでは
と記憶していますが・・・。


RE:ドナー側のメンタルケア 投稿者:てるてる  投稿日:12月27日(水)22時26分46秒

>べっとんさん
とても関心があります。
もし、このホームページでもっと詳しいことが読めれば、うれしいです。

ちゅう子さんへ 投稿者:てるてる  投稿日:12月27日(水)22時22分07秒

ありがとうございます。

>「自己決定」に対する批判を詳しくは理解してないのでここでは意見を
>言える立場ではありませんが、批判の事は置いておいて、まずは批判の
>ご意見を肯定的に読みとってみてはいかがでしょうか。

うーむ、たしかに。
どうも、「自己決定」批判を読んでいると、脳死の人からの臓器移植に反対するために、脳死状態からの
移植にプラスになりそうなものはなんでも批判していくとでもような雰囲気を感じ取ってしまうもので…

いろんなひとの、脳死の人からの移植批判を読むと、必ずといっていいほど自己決定批判が出てきます。
「自己決定という言葉がきらいです」という人もいます。
(これは、萩原さん、池田氏・小松氏とは別の人です)
どうも、それでは、たいせつなものまで失ってしまうように思える。
脳死の人からの移植も慎重に行ってほしいが、自己決定批判も慎重に行ってほしい、と思ってしまいます。
萩原優騎さんも、池田清彦も小松美彦も、脳死の人からの移植について、体系的な思考をつくりあげています。
それはすごいと思います。
でも上記の3人も他の人も含めて、脳死を死と認めることや臓器移植を行うことを悪と断じている、
という印象を受けます。
私には、文化戦争のように思えます。脳死を死と認める人々と認めない人々との。

自分自身が脳死の人からの移植手術を受ける前は、他人の臓器をもらってまで生きるなんてとんでもないと
強く思っていた人が、移植後は、反対に、移植を積極的に推進することがあります。日本の野村裕之さんも
そうですし、NHK-BSの地球法廷に出てくるイタリアの移植団体の人もそうです。
それで、脳死の人からの移植を倫理的に強く否定するひとというのは、自分自身が、移植が必要な立場に
ならない限り、決定的な情報が不足しているのだということを自覚する必要がある、と思うのです。
自己決定批判を含む、脳死の人からの臓器移植批判を読んでいると、そういう自覚に乏しいような印象も
受けますが…

印象ばっかりですみません。
こんな「『自己決定』批判への批判」では、混乱してしまいますね。ごめんなさい。
私の理解不足があったかと思います。すみませんでした。


遅レスですが 投稿者:ちゅう子  投稿日:12月27日(水)21時24分52秒

ご意見に思う

>う〜たんさん
  「どうせ人間は死んでしまったら巨大なゴミになるだけなのだから、
その臓器をリサイクルして、困ってる人にあげられたらそんなにいいことはないではないか」
 この気持ち、素直に現教育を受けてきているひとであれば、おそらくだれもがそう思うに違いないと思います。
私の身近な若い人々も、死後、臓器を提供することはかまわない、と言います。
 そして一方では、自分は臓器を移植してまで生きようとは思わない人も多い。しかし、家族や親しい人には
良くなる可能性があるのなら、生ききていてほしいから移植できるように支援したい。と相反する考えを
するもののようです。
 私はこれが人間であるからこその気持ちなのではないかと感ずるのです。そして、いつもがっかりするのは、
学問は感ずることは低い価値でしかないのです。これは個人的は私の問題ですけれどf(_ _;;
 う〜たんさんのご意見を拝見して、頷きました。

>てるてるさん
   たぶん、お疲れなんではないでしょうか。
 ごめんなさい。こんな言い方はよくありませんね。でも、、、。

「自己決定」に対する批判を詳しくは理解してないのでここでは意見を言える立場ではありませんが、
批判の事は置いておいて、まずは批判のご意見を肯定的に読みとってみてはいかがでしょうか。
(言ってる自分が恥ずかしいばかりですが)

>萩原さん
  世論時報11月号と、それに対する「質問への私見」を拝見いたしました(HP上のものです)。
難しいことはよくわかならないのですが、私が感ずることを述べさせてくださいませ。
  萩原さんは、法律化にせよ、なんにせよ、ひとつの枠で判断するのは避けたいと思っていらっしゃる。
これまでの社会では、ほとんどが枠にはまることが求められ、医学は延命、教育は皆教育が身近で
理解できる現象であると思います。これは延命や皆教育の捉え方が、ともすれば強制であったことが
はっきりしてきていると言っていいですよね
 考え方、捉え方に柔軟性をもたせたい。哲学、倫理学などは、事柄をさらに考えるときの一方向性であって、
決定的なものではないと。だから「議論の参照枠」という言葉がわかるような気がしました。生命を
考えていくときにも多くの価値があるように、さまざまな場面などにも太刀打ちできることが求められる時代。
 こういう理解の仕方でよろしいでしょうか?


ドナー側のメンタルケア 投稿者:ぺっとん  投稿日:12月27日(水)21時15分52秒

ちょっと日にちが経ってしまった話題についてですが、気になったので。
てるてるさんが、23日に、ドナー側へのグリーフワークの必要性について言及されました。
私もこれについてはとても重要だと思います。
重要というか、日本では、レシピエント側のケアについては精神科医が関わってメンタルケアが
行われるという道が開かれたのに、ドナーの側について精神科医が関わることは今のところ
されていないんですが(と私は認識しているんですが)、それってかなり問題じゃん?って思っています
(まあ、それと別問題として、日本の精神科医にはそのような危機介入の能力はないと思っていますが、
それはおいておいて)。
ドナー側のケア、厳密に脳死状態の人や心臓死の人からの臓器提供の場合にはドナーの家族の
ケアということになりますが、これについては、日本では北里大学の救命救急センター勤務の精神科医の
堤邦彦さんという人が若干取組んでいるはずです。
ヨーロッパでは、EDEP?とかいうドナー側へのメンタルケアに関して医療スタッフらを指導する
指導医認定制度があります。この認定医の資格をもっているのは、全世界に百何十人だそうです
(救命救急の現場に精通した精神科医が試験を受けるとこの資格をとれるそうです)。この堤さんは
この認定医の資格をもっているはずです。
ドナーのケアのシステムをどこにつくるかという問題はありますが、第一次的には、救命救急センターでしょう
(そこにいる患者がドナーになる可能性が高いですから)。で、この救命救急センターでのメンタルケアの
システムを考えると、日本では常勤スタッフとして精神科医や心理士がいるのが北里大だけ、また、
リエゾンといって精神科医が救命救急センターを定期的に回診するシステムをもっているところは、
日本でも少しずつ出てきました。
また、アメリカでは、救命救急センターなどの医療場面を専門とするの危機介入心理士がいます
(何割くらいの施設に何人いるのかはわかりませんが)。オーストラリアで家族が脳死状態から
臓器提供をした人は、救命センターで何度となく心理スタッフが接触してきたと言っていました。
 ドナーの家族のケアについては、昨年9月、ドナー家族の会(セルフヘルプに近いグループ)ができました。
東京都千代田区九段に事務局があります。
 ということで。何か中途半端な情報提供になってしまってすみません。
ですが、上記に出てきた人物、団体、また諸外国でのこういった場面でのメンタルケアに詳しそうな人物に
ご関心がありましたら、より詳細な情報を提供できます。なかなか私のほうで情報を取りまとめる時間が
ないので、ご関心があれば。

先の検証会議への批判 投稿者:てるてる  投稿日:12月27日(水)12時56分38秒

先の検証会議では、7例目の脳死の人からの臓器移植について、救命治療・脳死判定・臓器あっせん業務の
検証は、非公開でした。
しかし、本来は、これから臓器提供の意思表示をしようかどうか考える人のために、公開すべきでした。
臓器提供者の氏名や住所が一般の人に特定されないようにして、公開することができたはずと思います。
更に、いままでの脳死の人からの臓器移植の、費用の面も公開するべきです。
臓器提供側と移植手術をする側との、両方の費用についての検証会議も行って公開してほしい。

死に臨んで、脳死か心臓死か、臓器提供するのかしないのかを選択する権利は、患者本人にある、
その権利を保障するには、前例についての情報をいつでもだれでも入手できる必要があります。
そして、日常の医療における、カルテやレセプトの開示や、他の医者に相談するなどの、
患者の権利を法律で保障することを急がなければならないと思います。


池田清彦 投稿者:てるてる  投稿日:12月27日(水)12時52分08秒

>萩原優騎さん
>身体の所有という想定に基づく自己決定による尊厳死の意義を認めるというのが、
>この論文での私の議論の出発点でした。

なるほど、池田清彦は、「死の自己決定権」を否定するときに、
「自分の身体や自分の命は自分の所有物ではない」と言っているので、そこは、萩原さんとは異なります。
私はもっと厳密に書くべきでした。ごめんなさい。

池田は、人は身体の管理権があり、延命治療を拒否する権利も、管理権に含まれるが、
脳死状態での心臓提供は管理権に含まれない、としています。
ここでいう管理権は、実態としては「自己決定権」に限りなく近いと思いますが、脳死状態での
心臓提供だけは排除するために、自己決定権を否定し、管理権という概念を持ち出したようです。

管理権の範囲について、池田はいろいろと考えています。献血はいいだろう、肝臓の一部を
生体から提供するのはいいだろう、心臓死後の角膜や腎臓の提供もいいだろう…

たぶん、自分の命を救うために腕や足を切断したり癌にかかった胃を切除したり、または、
自分の命を失ってでも腕も足も切断せず、胃も切除しないなどの決定や、そして、骨の移植においては、
骨の切除の手術を受けた人の、切除された、本人にとって不要な骨の移植が行われることがあるのですが、
こういうことも、池田のいう管理権として認めてもいいのだろう、と思います。


小松美彦の「死は共鳴する」より 投稿者:てるてる  投稿日:12月27日(水)09時50分03秒

「まず、『死の自己決定権』において、各人が脳死と心臓死の二つから一つを選択できるという自由は
なるほど保障はされているが、逆にいうとその自由は、二つの"死"のうちのいずれかを選べるものでしか
ない。あるいは、どちらかを選ばなければならないものにほかならない。これまで見てきたように、死には
さまざまな様相があるにもかかわらず、ここでは前もってそれが二種に限定されているのである。」

ここですが、同じような意見は他の場所でも読んだことがありますが、順序が逆だと思うのです。
脳死か心臓死がどちらかを選ばざるを得ない状況になったときに、どちらを選ぶかを本人が前もって
決めることを、自己決定と言っているのに、どうして、そのどちらかしか選べないといって問題にされるのか、
わかりません。

脳死か心臓死かどちらかを選ばざるを得ない状況にはならないようにしたいとしたら、自分には
そもそものはじめからレスピレーターをつけないでほしいとか、集中治療室へ入れないでほしい、
ということをリヴィングウィルとして家の壁の人目につきやすいところに貼っておくとか、身分証明になるものと
一緒に持ち歩くとか、することになると思います。それは尊厳死の一つのありかただと思います。


本人の意思の尊重と家族の気持ち 投稿者:てるてる  投稿日:12月27日(水)09時29分10秒

自己決定権の尊重と家族の気持ちの重視との折り合いということについて、実際の末期医療の現場では、
いろいろなニュアンスで実施されているようです。
トリオ・ジャパンの第8回セミナーでは、医師たちがそれぞれの経験を語っていますが、たとえば、
濱邊医師は次のように述べています。

> 尊厳死を望む場合で言いますと、実際にこういう例がありました。
>「うちの母親は尊厳死を望んでいますので、先生、レスピレーターを止めてください」
>と言った時に、非常に真っ当な申し出だと思ったのですが、さっき言いましたように
>医者はうそつきですから、「わかりました、はずしましょう」とは絶対言いません。
>どう言うかといったら、「そんなに慌てなくても今晩辺り山ですから、少し見守り
>ませんか」。
>つまり、そこが臨床経験、たかだか20年しかないので申し訳ない、20年で裏打ちされた
>演出だと思ってください。

つまり、本人の意思を尊重するけれども、いつ、それを実行するかということでは、家族の状況をみて、
いいときを選ぶことになると思います。その、いいときを選ぶために、結果的に、レスピレーターを
はずさないうちに心臓が止まってしまったとか、提供できる臓器が傷んで、移植できる臓器の数が
減ってしまったとかいうことがあってもしかたがないと思います。

萩原さんがおっしゃる、画一化の暴力というのは、そういう、その場の裁量がなくなるという意味でなら、
わかるのですが、その画一化の暴力をさけるために、本人の意思を家族が拒否する権利を
担保するべきだとは思えないのです。

家族といってもいろんな人がいます。
また、家族以外の親しい人、恋人や親友に対してでさえも、本人は自分の本心を隠しているかもしれません。
自分の親しい人に対して、秘密の部分を持っておくことも、人としてのたいせつな自由の一つです。
その秘密の部分が、たまたま、臓器提供という場面で表われたときに、家族や親友や恋人は、裏切られたと
思うかもしれないけれども、それでも、本人の意思のほうがたいせつだと思います。


萩原優騎さんへ(3) 投稿者:てるてる  投稿日:12月27日(水)09時13分36秒

>したがって、患者が生前に臓器提供を表明していた場合、家族はなるべくそれを
>尊重するべきであるといっても、否応なしに患者の自己決定を受け入れるという
>ことではなく、あくまでも同意の自発性というものが求められる。同意が強制的
>になされるならば、そこでは各々の事例の個別性が無視され、拙稿で論じた画一化
>の暴力が生じる。

ここも、本人の意思の尊重、自己決定権の尊重が、画一化の暴力の原因とされているように読めるのです。

しかし、確かに、、「自己決定の暴力性」という言葉は出てきませんでした。
ごめんなさい。


萩原優騎さんへ(2) 投稿者:てるてる  投稿日:12月27日(水)09時06分08秒

>そこで、測定方法については、患者の自己決定と家族の同意に委ねるべきだと
>考えられるだろう。しかし、脳死が法的に正当とされた状況では、患者が生前
>に臓器摘出を認めていた場合、家族に対してそれに同意するよう、無言の圧力
>がかかり得る(中略)。家族は、患者の自己決定を極力重視すべきだが、同意は
>自発的なものでなければならない。これは、脳死が【62】法的に定められた時
>点で発生する問題であり、臓器移植法そのものに対する批判へとつながる。
>
>画一的な基準を強制しない、各々の個別性に配慮した医療を
>
> 第二、第三の問題に見られる画一化された基準は、患者とその家族との関係
>や、各々の事例の個別性を無視し、医療行為を進めてしまうという暴力性を伴う。

ここが、ひっかかるのです。
本人の意思を尊重することが、どうして、遺族に対する「無言の圧力」なのか。
本人の意思をまげないようにするのが当然ではないか、それを無言の圧力とは、おかしいではないか、
と思うのです。
たとえ、脳死を死であると法律で決めたとしても、本人の意思を尊重しなければならないと思うのです。
私には、脳死を法律で死と決めるか、生とするかどうかよりも、本人の意思が尊重されるかどうかのほうが
たいせつです。
しかし、萩原さんの論文を読んでいると、脳死を死であるとしてしまった場合、本人の自己決定の尊重が、
家族への画一的な決定を強制する暴力性へとつながると述べているように思えました。


萩原優騎さんへ 投稿者:てるてる  投稿日:12月27日(水)08時43分41秒

>>なぜ、安楽死や尊厳死が、「死なない選択ができるわけじゃないのに
>>どうして自己決定などというのだ」などという批判を受けるのがわけがわからない。
>これはどなたの見解ですか?小松氏は、このようには言っていない気がしますけれども。
>また、これは私の最初の論文に書いた見解とちょうど正反対です。

池田清彦の「臓器移植、我、せずされず」です。

「『死の自己決定権』を擁護する人は、もはや助からないとわかった人に『生の自己決定権』があり得るか
どうかを考えてみるがよい。人は自分勝手に生きる権利があるが、生死そのものは権利の問題ではなく
自然現象にすぎない。いやだいやだと駄々をこねても死ぬ時がくれば死ぬほかはない。」
これは、集中治療室での延命治療を拒否するかどうかとか、癌の末期に緩和治療だけを受けて延命に
つながる治療は拒否するかどうか、というような選択をする権利としての「自己決定権」についての
議論としては無意味であると思いました。


てるてるさん、よく読んでから発言してください! 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月27日(水)02時42分08秒

>萩原優騎さんの論文の「自己決定の暴力性」という表現を読んでも、
>まず第一に、なにいってるんだ、家族が個人の決定を覆して家族決定の暴力性を
>振り回しているじゃないか、ということが心に思い浮かぶのです。
私の論文には、「自己決定の暴力性」などという言葉はどこにも出てきません。
私が「暴力性」として批判したのは、法による判断基準の画一化に関してです。
また、以前この掲示板でyukikoさんへのコメントの中で論じた暴力性というのは、
判定基準と概念としての死との混同によって生じる暴力性、
つまり、概念としての死を、単なる物質の状態変化に還元してしまうことで、
患者や家族の関係性を、医療関係者が重視しなくなる恐れがある状況に関してです。
>それなのに、安楽死や尊厳死が、他者と共鳴しない死だとか言われると、
>私には、なぜなのかわからない。
安楽死や尊厳死が、小松美彦氏の言う「共鳴する死」に反するとしたら、
それは自己決定によってこれらを選択した場合というよりは、
前述の、判定基準としての死と概念としての死を混同した場合でしょう。
こうした混同が発生せず、患者や家族の関係性が重視された上で行われるならば、
必ずしも安楽死や尊厳死が「共鳴する死」に対立するわけではないように思えます。
ただ、小松氏自身が「死は共鳴する」の最後の部分で述べられているように、
氏の「死の自己決定権」に関する議論は、安楽死や尊厳死については、
十分な議論がなされているわけではないということは確かでしょう。
更に、高橋久一郎氏が「応用倫理学の転換」(ナカニシヤ出版、2000年)で指摘しているように、
「死は共鳴する」は、最終的には死の自己決定権そのものに関しては否定できていない、
あるいはそれを完全に否定することはあまりにも代価が大きいので、行っていないのです。
また、「共鳴する死」についての立岩真也氏の見解が、
「所有のエチカ」(ナカニシヤ出版、2000年)にあります。
私の見解については、これも既にyukikoさんとの議論の中で述べたことですが、
判定基準としての死と概念としての死の混同という現状を、
これまで指摘してきたに過ぎないのであって、
自分が掲げる死生観が唯一のものだという考えにはむしろ批判的です。
そうでなければ、各々の事例の個別性を重視するという、
私の見解と相容れないことは明らかです。
「共鳴する死」という発想を受け入れるかどうかは、各々に委ねられるべきなのであり、
それぞれの死生観を重視した医療が行われること、
そして、人間の生命を安易に物質の状態変化に還元しないこと、
これらが医療行為の「暴力性」を改善する上で重要であると言えるでしょう。
>なぜ、安楽死や尊厳死が、「死なない選択ができるわけじゃないのに
>どうして自己決定などというのだ」などという批判を受けるのがわけがわからない。
これはどなたの見解ですか?小松氏は、このようには言っていない気がしますけれども。
また、これは私の最初の論文に書いた見解とちょうど正反対です。
身体の所有という想定に基づく自己決定による尊厳死の意義を認めるというのが、
この論文での私の議論の出発点でした。

臓器移植 投稿者:うーたん  投稿日:12月27日(水)02時31分06秒

はじめまして。「おとなのせいきょういく」から来ました。うーたんと申します。この掲示板に書いてあることは
ちょっと私には難しいです。私は医療関係者ではありませんので、難しいことはわかりませんが、自分が
「臓器移植」について思っていることを書きます。
 最初にこれができるということになって、ファミリーマートにドナーの意思を表示するカードが置かれるように
なった時には、すばらしいことだと思いました。そして自分もその黄色いカードをもらいました。どうせ人間は
死んでしまったら巨大な生ゴミになるだけなのだから、その臓器をリサイクルして、困っている人に
あげられたらそんなにいいことはないではないか、と思ったものでした。しかし、その考えはある映画を見て
180度変わりました。それはフランス映画で「ニコラ」(原題[la classe de la neige]雪の教室)です。映画の
中でのエピソードで、主人公の小学生の父親(医療機器を販売している)は、子どもが迷子になるのを
極端に嫌います。その理由は、こうです。ある子どもが突然車で連れ去られ行方不明になり、2−3日して
公園に置き去りにされているのを発見された。背中には大きな手術の跡があった。
腎臓を売るために摘出されたのだった。
 これは映画の中の話ですから、実際あったことではないかもしれませんが、私はぞっとしました。
臓器移植が盛んになれば十分起こり得ることではないかと思いました。それに臓器を売るという話は
どこかで聞いたことがありますし、、、。
 それ以来臓器移植は真っ平と思うようになりました。自分は提供したくないし、病気になって
移植すれば助かる場合でも、死ぬほうを選びたいと思います。
 ただこのように考えられるのは自分と家族が健康に暮らしているからかもしれません。もし
家族が移植が必要になったら、どうにかして生きられるように移植を望むかもしれません。

「自己決定」批判への疑問または困惑 投稿者:てるてる  投稿日:12月26日(火)09時28分35秒

前から考えていたのですが、池田清彦の「臓器移植、我、せずされず」を読んでも、小松美彦の
「死は共鳴する」を読んでも、何か違うな、と思いつつ、うまく言い表すことができません。萩原優騎さんの
論文の「自己決定の暴力性」という表現を読んでも、まず第一に、なにいってるんだ、家族が個人の決定を
覆して家族決定の暴力性を振り回しているじゃないか、ということが心に思い浮かぶのです。

私にとって「自己決定」は、本来ひとが持っているはずの自由を回復するための運動とでもいえるものです。

学校を例にとって考えます。
明治時代は、中勘助の「銀の匙」などを読んでいますと、こどもが、学校へ行きたくない、と主張して、
なかなかいうことをききません。結局は小学校へ入学するのですが、それまで、御隣の友達と一緒に、
親のいうことに負けないようにがんばろう、と同盟を組んでがんばっています。また、こどもに家業を
手伝わせて学校へやらない親も多かった。こどものほうが学校へ行きたいと言っても行けなかった。
貧しい人は、なかなか進学できなかった。

それが、日本で最初に登校拒否症が表われたのは、1950年代後半だったと思いますが、だんだん、
みんなが学校へ行けるような時代になるにつれて、登校拒否ではなく、登校拒否症がふえてきた。
本人自ら学校へ行きたいと言っているのに、誰をそれを止めやしないのに、からだがいうことを利かない。
おなかが痛くなったり頭が痛くなったりして行けない。そういう症例がふえてきたとき、誰でも学校へ
行くことができる社会を作りあげた、はずだったのに、それは、誰でも学校へ行かなければならない、
という社会であるとわかってきた。学校へ行かないと、すごいつらい思いをするようになった。
学校へ行きたくないから行かない、とはっきり言う人もいるけれど、それもつらい思いをさせられることは
あっても、まだ、自分自身がどうしたいのかはわかっているだけ、健康的と言えるけど、問題は、自分は
学校へ行こうと思っているのに行けなくて「拒否症」になる人がふえてことだった。それに、学校へ
行かなければならない社会は、本当に誰でも学校へ行ける社会かというとそうでもなく、台風で、
りんご園が甚大な被害を受けるとりんご農家の子女は進学を諦めるというようなことが、やっぱりある。

フリースクールなどの運動は、学校へ行っても行かなくてもよい、それは自分が決めること、
という自己決定をとり戻すための運動だと思います。

さて、今の医療は、高度な延命治療が発達して、誰でも「生きさせられる」ほどの社会になった。
この状況に至って、そこまでしないで死なせてもらうための自己決定をとりもどしたい、という気持ちが、
安楽死や尊厳死の主張をささえています。
古代から、安楽死も尊厳死もあったけど、いまの時代は、発達した医療の享受を、
自分にとって自然な人生の終わり方を全うするために拒否する、というかたちで出てきます。

それなのに、安楽死や尊厳死が、他者と共鳴しない死だとか言われると、私には、なぜなのかわからない。
死にたくないのに安楽死だとか尊厳死だとかまわりの都合で勝手に死なせられるのにはもちろん反対だけど、
なぜ、安楽死や尊厳死が、「死なない選択ができるわけじゃないのにどうして自己決定などというのだ」
などという批判を受けるのがわけがわからない。非常に発達した、ある意味で不自然なまでの、延命治療を
受けることに対して、まえもって、私には必要ありません、ということは、人間にとって自然な感覚、たとえば
学校に行きたくないとかいったようなことと同じような、自然な感覚を取り戻すための運動だと思うのです。

更に、本人の望みが、家族の都合で覆されることがあるから、そういうことのないように、自己決定権を
守ろうとすると、自己決定の暴力性といわれる。それは、違うと思うのです。ひとりのひとのいのちの
おわりをまっとうすることが、どうして、共鳴しないとか、暴力性だとか、言われるのでしょうか。

と、思うのですが、脳死の状態からの臓器提供ということが法律で認められるかどうかという問題が
俎上に登ってこなければ、これほど、自己決定が批判されることもなかっただろう、と思います。
臓器提供は、安楽死や尊厳死と深い関係があるけれども、それとともに、生体からの臓器提供も含めて、
また別の、社会奉仕の問題でもある。臓器提供自体の倫理性について考えるときには、生体からの
臓器提供も心臓死での角膜提供も、脳死の状態での臓器提供も考えなければならないのではないか、
とも思います。どんな臓器・組織移植でも、レシピエントにとっては、多かれ少なかれ拒絶反応が起こったり
免疫抑制剤を飲んだりして、自己と他者の区別という問題が、共通して起こってくるのだから。


萩原勇騎 「脳死・臓器移植の論理と倫理 -- 現代医療と自己決定権の裂け目を読む」