森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2000年12月10日〜12月25日

過去ログハウス入り口


猿のES細胞 投稿者:てるてる  投稿日:12月25日(月)08時16分47秒

田辺製薬が猿のES細胞を使って、再生医療の研究を始めるとの記事が朝日新聞に。↓

http://www.asahi.com/1225/news/business25001.html


ソーシャルアクション 投稿者:yukiko  投稿日:12月24日(日)03時35分43秒

>(1)インターネットと現実の立法過程を直接つなぐ仕組みが存在しない、
>(2)私の動きに触発されて、誰かが別の動き方を本格的に模索するというような
>動きがまだ見られない、というあたりかなあ。みんな、どう思ってる?

いま衆院・参院議員、各政党の名簿を作っています。
議員所有のHPのURLとメールアドレスをまとめて、メールを直接送れるように、それから、
はがきを送付できるようにと考えています。
ただ、数が多くて時間がかかっています。なかなか進みません。

そこで、自分もこのようなソーシャルアクションを自律的に行ってみたい、という方が
いらっしゃいましたら、協働しませんか。メールを下さい。


すみませんでした。 投稿者:石田智秀  投稿日:12月24日(日)01時59分48秒

てるてるさん、森岡先生、すみません。
生駒先生にはメールにて連絡申し上げました。
近日中に対処させていただきたいと思っております。

本当にすみません。


↓のサイトの情報について 投稿者:森岡正博  投稿日:12月24日(日)01時25分18秒

↓のサイトにある

京都文教大学教授 生駒孝彰さんの論文(今年12月7日)から引用

>アメリカの宗教界は、社会問題については各宗派とも独自の考え
>を持っている。
> 私はインターネットで三十ほどの宗派を調べてみた。その結果、
>脳死状態での臓器移植に反対している宗派は一つもなかった。

だから、こういうの、こまるんです!!

移植法ページにきっちりとリンクしているように、アメリカのキリスト教原理主義・AALは、脳死に絶対反対
なんです。↓で確認してみてください。彼らが音頭をとった「脳死反対宣言」も、先週発表されました。
移植法ページにリンクしています。

http://www.all.org/issues/eol05.htm


海外の宗教の移植についての意見 投稿者:てるてる  投稿日:12月24日(日)00時05分29秒

浄土真宗本願寺派の石田知秀さんのサイトに、海外の宗教の移植についての公式な意見についての
レポートが22日付けで載っています。「生駒レポート」↓
欧米・アジアの、キリスト教、仏教各宗派とも、移植に賛成で、特に、韓国では、仏教の宗派が積極的に
移植を推進しているそうです。

http://kyoto.cool.ne.jp/chishu/


20世紀最後の赤っ恥でありますように 投稿者:yukiko  投稿日:12月23日(土)23時25分54秒

先のわたしの投稿、

>萩原さん1 投稿者:yukiko  投稿日:12月12日(火)16時39分50秒

>ただ、社会保障費は、2000年度は、一般歳出の2、6%しかないのですよ。
>社会保障費の国民負担律が高いのは、租税と社会保障の構成にも問題があるのではないですか?
>セーフティ・ネットの縮小には、慎重であってよいとおもいます。

この一行目を訂正します。
2000年度の社会保障関係費は167、666億円、
一般歳出は、480,914億円、つまり一般歳出の約3割でした。
2,6%というのは、一般歳出の対前年延び率のことでした。
資料を読み間違えました。

す、す、すみません、誤解を招いて申し訳ありませんでした…
(どう考えても2,6%なわけがねいよな〜)


遺族ケア 投稿者:りんご  投稿日:12月23日(土)13時07分00秒

最近発売された「KEY WORD 精神、第2版、先端医学社」の中に、広島大学神経精神医学教室
佐伯俊成先生が「遺族ケア」という小論文を発表されています。
その中にもあるのですが、「基本的に重要なのは患者存命中からの家族ケアの充実であり、その延長上に
遺族ケアを位置づけしていくことが自然かつ妥当であることを強調しておきたい。」
このフレーズを読むと、涙が出てくるのでした。
医療も、人と人とのかかわりの中で展開されているんですよね。

グリーフワーク 投稿者:てるてる  投稿日:12月23日(土)12時27分20秒

臓器提供をしなくても、病院には、脳死の患者さんの家族にも他の病気の患者さんの家族にも、
グリーフワークを支援することができるソーシャルワーカーが、必要だと思います。
つまり、日本の医療全体のなかで、精神的なサービスの底上げが必要だと思うのですが…

レシピエントコーディネーター 投稿者:てるてる  投稿日:12月23日(土)12時23分05秒

りんごさんも、きのう、来られていたとは! そうと知っていたら、お話ししたかったですね!
(ちょっとはずかしいけど…(^_^;))

レシピエントコーディネーターというものもあって、11月19日の朝日新聞日曜版に、慶応義塾大学病院で
活躍しているひとが紹介されていました。移植手術が終わって退院した後もレシピエントの支援をします。
現状では移植施設の2割にいるそうです。
日本臓器移植ネットワークではレシピエントコーディネーター部会が発足したばかりで、資格も教育体制も
整っていないそうです。

USAで脳死の人からの肝臓移植手術を受けた野村裕之さんの「死の淵からの帰還」には
医療コーディネーター・移植コーディネーター・臓器コーディネーターの3種類の役割が紹介されています。
医療コーディネーターは、看護婦の資格と経験を持っていて、レシピエントとして登録するまで、
患者と病院・医師との橋渡しとなって相談にのります。
移植コーディネーターは、上記のレシピエントコーディネーターのことで、移植手術が終わって退院した後も、
患者と終生連絡を取り合って相談にのります。
臓器コーディネーターは、いままでの脳死の人からの臓器移植で既によく知られている、
日本臓器移植ネットワークのコーディネーターのことで、USAでは、いわばドナー側の立場の人として、
レシピエントと直接会うことはめったにないそうです。
このほか、ソーシャルワーカーも登場しますが、野村さん自身がレシピエントなので、レシピエント側の
医療チームの一員として登場します。

私は、ドナー側にも、「臨床的脳死」と診断されたときから、臓器提供が終わった後のグリーフワークまで、
継続してソーシャルワーカーが係わる必要があるのではないかと思います。このへんも、USAやヨーロッパの
病院ではどうしているのか知りたいところです。


検証会議の感想 投稿者:りんご  投稿日:12月23日(土)02時27分21秒

>てるてるさん
昨日は、お疲れさまでした。

検証会議を傍聴したのは、10人弱で、報道関係者が多かったようです。
15時30分ころ会場に着いたのですが、何もかもが、初めての体験だったので、ドキドキでした。
厚生省の人を生で見たのも初めて。
下記の「注意事項」によれば、厳重な荷物チェックとかされるのかなと思っていましたが、なんてこともなく、
連絡先と名前を記入するだけでした。
会議中に飲みものを飲んでいる人もいたし・・・。

「ドナー家族の心情などの把握について」ですが、結局のところ、ご家族と日本臓器移植ネットワークの
コーディネーターとのかかわりが重要と感じました。
患者さま存命中から、看取ったあとのご家族のケアまで、充実したかかわりを望みます。
そのために、コーディネーターには、悲嘆のプロセスの教育も必要だとデーケン先生から意見が出されました。

コーディネーターの仕事の内容をよく把握してないのですが、これからますます、期待され、大変な
お仕事だと思いました。
よその国では、ご遺族のケアに関しては、どんな職種(ボランティア団体などの含む)の人が
かかわっているのでしょうか?
きっと、レシピエントのほうにも、いろんな職種の人がかかわっているんでしょうね。

今回は、参加できて、ラッキーでした。厚生省のHPは、要チェックですね!


Yomiuri on line のニュース 投稿者:てるてる  投稿日:12月23日(土)00時06分05秒

こちらは、検証会議の非公開の部分について、7例目の脳死の人からの臓器移植が問題なしとの結論を得た、
と書いてあります。↓

http://www.yomiuri.co.jp/04/20001222ic27.htm


Yahoo! のニュース 投稿者:てるてる  投稿日:12月22日(金)23時17分36秒

検証会議のニュース、載っています。↓

http://news.yahoo.co.jp/headlines/mai/001222/dom/21550000_maidomc109.html


RE:検証会議 投稿者:てるてる  投稿日:12月22日(金)20時22分42秒

検証会議は、7例目の脳死の人からの臓器移植について、医療と移植コーディネーターと両方について
行われたのですが、その部分は非公開でした。

公開されたのは、ドナーの遺族の心情把握のために、日本臓器移植ネットワークから手紙を送るのですが、
それについて、文面とか、調査の内容とか、手紙の渡し方とかについての議論の経過報告とまとめ・
委員からの質疑応答でした。

これでも結構重要なことが出てきたのです。
委員からは、調査報告の結果を厚生省のホームページで、公開できる部分は公開してほしいとか、遺族の
代表に手紙を渡すといっても、遺族のなかには、その「代表」とされる人と関係がまずくなっている人も
いるだろうし、場合によっては代表以外の人にも手紙を送るようにする必要があるとか、臓器提供後手紙を
送る時期についてとか、遺族のグリーフワークのケアと臓器提供のときのインフォームトコンセントとは別の
仕事だから、移植コーディネーターには両方の教育が必要だとか、質問が出ました。

質問した委員は柳田邦男、アルフォンス=デーケン、そして聖マリアンナ医学研究所カウンセリング部長の
藤森和美さんで、藤森さんが、積極的に情報公開をするように厚生省の事務局の人に念を押していました。

検証会議の公開された部分は1時間ほどで終わったのですが、最後に、全国心臓病のこどもを守る会幹事の 川口和子さんが、レシピエントのほうも、移植手術を受けて、よかったというだけで終わってはいないので、
こういうドナー側の検証会議のようなことをやってほしいということと、非公開の部分の医療・コーディネーターに
ついての検証会議の資料は、会議が終わると回収されてしまうけど、出席した専門家の先生がたが、後でまた
自分でもっと検証できるように資料を渡しておけないのか、と質問しました。
厚生省の事務局の人は、レシピエント側の検証会議のほうはまた検討するけれども、非公開の部分の資料を
残すことは、また遺族の許可を得ないといけないし、いろいろと何かおっしゃって、要するにできないと
いうことでした。


検証会議 投稿者:yukiko  投稿日:12月22日(金)19時16分37秒

先日のES細胞の件といい、今日の検証会議といい、傍聴に行けなくて生の情報を聞き逃してしまい、
残念です。

特に検証会議は、これまでずっと非公開で行われてきましたし、今後は各施設の院内倫理委員会に検証は
譲るという話しも出ていて、なかなか聞くチャンスがなかろうと思います。今後も是非、公開して欲しい。


萩原さん 投稿者:森岡正博  投稿日:12月22日(金)13時51分19秒

たしかにご指摘の点は、考えるべき論点ですね。まだ、そのままにしてますが・・・。

そういえば、もうすぐ検証会議が東京で始まるのかな?


森岡先生 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月22日(金)03時09分05秒

>ところが、臓器移植で問題になっているのは、子どもが
>自分自身の「死生観」や「身体の処分」についての意見を表明するということですから、
>かならずしも、契約締結ほど法的帰結についての理解が必要とは思われません。
>ですから、私の言う意思表示能力というのは、意志能力とほぼ同じだけれども、
>それとは厳密には異なる新概念として提唱すべきだということになりそうです。
確かに従来の移植法では、ガイドラインに記されているように、
民法における遺産相続などとの類比で、15歳という基準が立てられていました。
そして、自らの身体に関する決定を行い、それについて意思表明を行うことは、
それより低い年齢層にも可能であろう、というのが先生の論点です。
ただし、遺産相続との類比で基準が定められてしまうのは、
自らの身体に関する自己決定については問題であると、私は論文に書きました。
ですから、「新しい概念」として意思表示能力を位置付ける際には、
遺産相続や契約締結などについての判断能力と、
身体に関する自己決定に関する判断能力との比較において、
判断が可能であり得る年齢を、後者の方が低く設定できるという論点だけでなく、
身体に関する決定が、相続や契約と類比で捉えられること自体を、
問題にしなければならないと思います。
それでないと、死後に患者の身体の所有権は家族に移行するから、
家族の同意だけで臓器が摘出可能であるという見解にスライドしていく危険性があります。
この点が議論から抜け落ちると、患者の意思表明が可能な年齢をどのように設定しても、
結局は家族の同意によって摘出可能ということになってしまうでしょう。

最近、立岩真也氏の所有論関係の文献を読み始めました。
いろいろと学ぶ点も多いのですが、批判すべきと思われる部分も少なくありません。
いずれ議論をきちんと整理して、何らかの形でまとめたいと考えております。


非公開の部分と公開の部分 投稿者:てるてる  投稿日:12月22日(金)01時19分26秒

午後2時から始まって、前半2時間ほどは非公開らしいようですが…救命治療・脳死判定・
臓器あっせん(移植コーディネーターのことか…)の検証については非公開。
残り1時間ほどで、ドナー家族の心情の把握について検証するときに、公開にするのですね。
ということは、はじめの2時間ほどは、弘済会館の中で待っていることになるのかな?

上智大学の近く 投稿者:てるてる  投稿日:12月22日(金)01時08分13秒

場所は千代田区麹町5丁の鉄道弘済会館、上智大学の近くなんですね。

「脳死下での臓器提供事例に係る検証会議」 投稿者:森岡正博  投稿日:12月22日(金)00時41分07秒

22日(今日!)の午後2時から、↑が開催されます。東京方面の方、ぜひ傍聴しましょう。
ぎりぎりの情報掲載になってすみません。詳細は、↓です。

しっかし、この「注意事項」のものものしさは、いったい何なのだ? うーん、わからん。

http://www.mhw.go.jp/houdou/1212/h1215-1_11.html


来年1月? 投稿者:森岡正博  投稿日:12月22日(金)00時20分34秒

朝日新聞情報によると、20日の移植学会の会合で、2001年1月からの通常国会に移植法改正を提出する
ように国会議員に働きかけることに決めたそうです。来年早々の通常国会が山場になりそうです。意外に、早い
展開になってきました。「中央公論」1月号を、読んでからにしてくれ〜。

意思表示能力について(再) 投稿者:森岡正博  投稿日:12月21日(木)10時52分17秒

民法での「意志能力」は、ある行為が法的にどのような帰結を導くのかを理解した上で意思を表明する能力の
ことのようです。これは、民法の「契約」締結などを念頭においた概念です。ところが、臓器移植で問題になって
いるのは、子どもが自分自身の「死生観」や「身体の処分」についての意見を表明するということですから、
かならずしも、契約締結ほど法的帰結についての理解が必要とは思われません。ですから、私の言う
意思表示能力というのは、意志能力とほぼ同じだけれども、それとは厳密には異なる新概念として
提唱すべきだということになりそうです。

生殖補助医療のあり方 投稿者:森岡正博  投稿日:12月20日(水)00時43分23秒

先日、発表された、「生殖補助医療のあり方」に対する疑問を、ぬで島さんが投げかけておられます。
検討に値する論点だと思います。ぜひ、ご覧ください。

http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/nude04.htm
http://www.lifestudies.org/jp/nude04.htm


海外の脳死反対宣言 投稿者:森岡正博  投稿日:12月20日(水)00時37分28秒

海外で脳死への疑問が次々と起きていることは、来年1月発売の「中央公論」でも書きますが、そのうちの
ひとつ、キリスト教原理主義による「脳死反対宣言」が発表されました。英語全文をアップしました。120名の
署名があるとのことです。賛同者は、かならずしも原理主義の人だけではない模様。脳死の議論の前提が、
こうやって、崩れ始めているのです!

http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/noshihantai.htm
http://www.lifestudies.org/jp/noshihantai.htm


猿田さん 投稿者:森岡正博  投稿日:12月20日(水)00時34分48秒

私の言う「意思表示能力」というのは、「行為能力」とは別物です。
私は、「意思表示能力」という別概念を立てるべきだということになるのでしょうか。
このあたり、法律に詳しい方、ぜひご助言ください。

意思表示能力について 投稿者:猿田  投稿日:12月16日(土)00時33分05秒

 また森岡さんに質問なんですが、森岡さんの「世界10月号」の論文を拝見させていただきました。
この論文のなかで、森岡さんは「15歳未満の子どもであっても・・・意思表示能力があるケースが
存在するはずだ」とか「民法における意思表示能力の下限は…八歳前後」とおっしゃっていますが、
ここでいう「意思表示能力」についてお聞きしたいのです。
 「意思能力」とか「行為能力」は民法の時間で習いましたが、森岡さんのおっしゃる「意思表示能力」
というのはこのどちらかのことなんでしょうか?

 よろしければ教えてください。


ES細胞の規制 投稿者:森岡正博  投稿日:12月15日(金)16時04分24秒

どうも、ES細胞についての規制が怪しい方向にすすんでいるようです。いまのままでいくと、来年からの
文部科学省の所轄研究機関への告示という形だけで済むように年内にも決着をつける方針らしい。
ということは、「民間の研究所、その他の省の研究所」についてはES細胞研究が野放しになるということ。
なんで、こんなことが、霞ヶ関の裏のほうでどんどん勝手にすすんでいくのだろう? 12月19日に公聴会が
あるので、東京方面のかた、ぜひ行って確かめてみてください。

12/19の委員会は 午後3時から6時 科学技術庁永田町合同庁舎3階(千代田区永田町1-11-39)
で行われます。傍聴希望のかたは、03-3581-5271(内線443)まで、お申し込みください。先着20名とか。

仕切っているのは科学技術庁研究開発局ライフサイエンス課生命倫理対策室(tel;03-3509-1268,
fax;03-3509-1269)です。日本中のすべての研究をカバーするような指針を、あせらずに作成するように、
faxを出しましょう。


追加 投稿者:てるてる  投稿日:12月15日(金)07時46分00秒

臓器移植法について調べ始めてから、登録していない献腎・献眼を遺族の同意だけでできると知ったときにも、
とまどいと驚きと怒りを覚えました。

移植患者さん 投稿者:てるてる  投稿日:12月15日(金)07時43分58秒

Yahoo! 掲示板の、移植を受けた患者さんのトピックを読ませていただいていますが、ほんとに明るく元気に
がんばっているし、透析患者や移植患者にとっての就職や福祉の状況は厳しいものがあるし、とても
応援したくなってしまいます。

ことに腎臓移植は、脳死後でなくても心臓死後でもできるので、もっと日本臓器移植ネットワークは広報に
力を入れてもいいと思います。臓器移植法制定前から、献腎・献眼の登録制度はあったのに、あまり
知られていなかったし、登録しておいても遺族が反対すると提供できなかった。私が、基本的に成人は本人の
意思表示だけでよいと考えたのも、この登録された献腎・献眼を、遺族の拒否によってとりやめることに、
怒りを覚えたのが理由の一つでした。

常識的に考えて脳死する人はごくわずかで、ほとんどすべての人は心臓死するのですから、心臓死後の
臓器提供を、日本臓器移植ネットワークは、おとなにもこどもにも広く呼びかけた方がいいと思います。


yukikoさんへ・その2 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月15日(金)03時08分02秒

てるてる案は、確かに自己決定というものを重視していますし、
その議論が臓器移植法という枠組みが機能することを前提になされているわけですが、
自己決定を重視する、更には、そうした意思表明をきちんと確認できるように、
ドナーカードを改善するなどの提案が盛り込まれているという点でも、
各々の個別性を重視するということでは、私の見解と重なる部分もあると思います。
そのことは、これまで、てるてるさんと議論させて頂いて、
共通の認識に至った部分が少なくなかったことからも分かります。
したがって、てるてる案と私の見解は、必ずしも正反対ではありません。
ただ確実に言えるのは、私が言う参照枠としての倫理学という発想が、
元々は鬼頭秀一先生が環境倫理学について提案されたものですので、
環境倫理学における議論の対象と比べて、法制化された状況が非常に多い生命倫理学では、
そういった理想が実現しにくいということでしょう。
それにもかかわらず、私は画一化の暴力としてこれまで論じてきたものを、
このまま放置しておくことは間違っていると思いますので、
現状をしっかりと認識しつつ、その上で、この議論を更に深めていきたいと考えております。
なお、環境倫理学における参照枠としての倫理については、
私が関わっております河川研究NGOに鬼頭先生がご入会くださったので、
来春より、ローカルな環境倫理についての研究会をこの団体の内部に設置予定で、
その中で具体的な議論を詰めていきたいと思います。
現時点での私の見解は、この団体の季刊誌の、来年1月発行分に出した論文で述べましたが、
更に具体的に展開していければ、と考えております。
そうした過程で、生命倫理学の場面での参照枠ということも、
私自身、もっと考えを明確に提示できるようになるかもしれません。
ただし、あまり期待しないでください(笑)。
できるだけのことはやってみるつもりですので、今後ともご意見などを頂戴できれば幸いです。

yukikoさんへ・その1 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月15日(金)03時07分00秒

>これは、全体像や原則は提示するけれども、現場においては利用者の選択肢や曖昧さを
>残し、医療職の裁量権をより重視する方向、という理解でよろしいのでしょうか?
「医療職の裁量権を」と述べてしまうと、「現場における利用者の選択肢」を、
医療関係者の側で患者に押し付けてしまうような印象があります。
そうではなくて、患者の自己決定や家族との関係性いった、各々の個別性を重視し、
こうしたものがなるべく尊重されるようにする、ということです。
そのためにも、画一的な基準としてではなく、議論の参照枠として倫理学が機能することで、
医療関係者も上述のような個別性の重視に対応することが可能になると思います。
ですから、私はあらゆる法制化に反対しているのではなく、
安易な法制化を進めないこと、たとえ法制化するとしても、
それによってもたらされる状況において、
各々のケースの個別性が重視されることが望ましいと考えているのです。
ちなみに、これまでの記述の繰り返しになりますが、臓器移植法の法制化に反対してきたのは、
脳死や臓器移植を法的に正当とした状況で、
このような個別性に配慮した医療行為が困難になると思われるからです。
>てるてる案が、自己決定権を重視し、規定がしっかりしていて、
>また、萩原さんが、それとまったく違って、個別性を重視する、参照枠である、
>というはっきりとした対比が、自己決定権について考察する参考になります。
上に書いたことと関連しますが、規定がしっかりしているということと、
各々の個別性が重視されないということとは必ずしも一致しないと思います。
ですから、yukikoさんが書かれた、「曖昧さ」という表現と、
私が「参照枠」として申し上げたこととは異なるように思えるのです。
患者の自己決定や家族との関係性などについて、
多様な選択肢に開かれていることで個別性が重視されるというのは、
物事を曖昧にしてしまうということとは異なります。
つまり、画一化されずに多様な選択肢に開かれた状況が実現していること、
そして、患者やその家族が望ましい決定を行うための議論の手がかりとなり得ることが、
参照枠としての倫理学が目指すものなのです。

所有権って… 投稿者:yukiko  投稿日:12月15日(金)01時27分17秒

臓器移植の自己決定権は、自分から切り離した臓器はモノなのだから所有権、って表現でいい、ってことに
なっていると思うのですが、ヒトクローンや遺伝子診断まで含めて考えた場合には、
「所有権」「知的所有権」って表現するのはどうも合点がいきません。作ったものではないから。

遺伝子診断で暴露される情報の影響は、本人だけではなく、その血族、あるいは人類全体に及ぶだろうと
おもいます。そうすると、やっぱり人格権の方がいいように思います。
あるいは、何か新しい概念が必要ではないかな、と。


森岡先生の新作論文 投稿者:りんご  投稿日:12月14日(木)10時43分53秒

>内容は、秘密ですが、かなりの衝撃度。いままでの脳死の議論が、ひっくり返るかもし
れません。というか、この論文を読まずして、2001年以降の脳死論議はできなくなるよ。
ますます、わくわく、早く読みたいです。

私も来年は、英語の論文を読むことに挑戦しようと思っていますが・・・。


ラザロ徴候、その他の脳神経科学の2000年の新知見について、プラスアメリカの新事情 投稿者:yukiko  投稿日:12月14日(木)02時27分12秒

待ってました〜。「中央公論」誌2月号(来年1月10日くらい発売)ですね。

萩原さん 投稿者:yukiko  投稿日:12月14日(木)02時20分40秒

>かつては、かかりつけの医者というのをそれぞれの人が持っていて、
>家族の誰かが病気になると、医者が各々の家へと出向いていきました。
>そこでは、医療行為というものが、日常性とのつながりを持っていたのです。
>しかし、現在では、大きな病院に遠くから通う人が少なくないですし、
>特にそのようなところでは、医者は短時間で膨大な人数の診察を行うわけですから、
>医者と患者の関係性というものも、かつてとは変化してきているのかもしれません。

わたしが子どもの頃に熱を出した時、黒くて大きなカバンを下げたお医者の先生が、往診に来てくれました。
医師の専門性や知性に対する信頼感がありましたね。
まあ、それは医療を受ける側が無知だったり、権利意識がなかったことの裏返しなのですが。

ところで、かかりつけ医は、介護保険では制度化されています。
厚生省が「かかりつけ医を持とう!」とキャンペーンしましたが、どうもあまり知られていないようです。
高齢者や小さな子どもがいる家庭を除けば、かかりつけ医を持っている人は、少ないのでしょう。
医療提供体制の改革で、かかりつけ医からの紹介状を持たずに地域の拠点病院に行けば、初診料を
取られているはずだと思いますが…
今後は、介護保険の影響で、高齢者や障害者の自宅での在宅介護が増えるでしょうし、昔見た往診は、
再び、あちこちで見かけるようになるのではないでしょうか。

臓器移植も在宅医療・看護もそうですが、これらを推進するならば、コ・メディカルスタッフの専門性を高め、
権限を強化し、今より裁量権を与えるべきだろうとおもいます。
そうすることにより、臓器移植においての密室化の防止に貢献できるのでは。
ソーシャルワーカーも同じです。ただ、医師から独立するには、その個人の健全な批判精神も必要だと
おもいますが。組織にいると、いろいろ大変だとは思うけど…

>このことは、判定基準として脳死か心臓死か選択可能である場合でも、
>脳死が法的に正当とされた状況では、関係者に無言の圧力がかかるという、
>論文やこの掲示板でこれまで主張してきた問題にも言えることです。
>こういったことを踏まえて、私は生命倫理学を安易に法制化するのではなくて、
>患者やその家族の関係性が重視される医療が必要であると論じてきました。

これは、全体像や原則は提示するけれども、現場においては利用者の選択肢や曖昧さを残し、医療職の
裁量権をより重視する方向、という理解でよろしいのでしょうか?
で、その全体像や原則は、「参照枠」として機能する、と?

じつは、分かるような気がするのですが、やっぱり分からないのです…m(_ _)m 
枠組についての考え方が、わたしと萩原さんでは違うのかもしれません。
ここから先の話は、萩原さんのご論文を拝見してから、また感想を述べさせていただくことにしたほうが
よさそうです。
あの…、現代文明学研究でも、ほかの場でも(^^;)、機会に恵まれるのであれば。

てるてる案が、自己決定権を重視し、規定がしっかりしていて、また、萩原さんが、それとまったく違って、
個別性を重視する、参照枠である、というはっきりとした対比が、自己決定権について考察する参考に
なります。
倉持案は、まだよく見ていないのですが…


ラザロ徴候その他についての論文 投稿者:森岡正博  投稿日:12月14日(木)01時26分45秒

お待たせしました。ラザロ徴候、その他の脳神経科学の2000年の新知見について、プラスアメリカの
新事情についての論文を、「中央公論」誌2月号(来年1月10日くらい発売)に発表します! 内容は、
秘密ですが、かなりの衝撃度。いままでの脳死の議論が、ひっくり返るかもしれません。というか、
この論文を読まずして、2001年以降の脳死論議はできなくなるよ。(自画自賛) しかし、これ書くために、
英語の文献をいっぱい読んだよ。死ぬかと思った。みなさん、新年をわくわくしてお迎えください。

「世界」2001年1月号 投稿者:てるてる  投稿日:12月13日(水)21時41分47秒

「世界」2001年1月号に、小児科医の加部一彦氏の「小児医療と脳死・臓器移植」という論文が載っています。
(p.279-288)
脳死のこどもからの移植以前に、小児救急医療の態勢が整っていないし、だいいち、小児科自体が、
閉鎖されたり、小児科医希望者が減ったり、医師の不足で過重労働になっていたりで、問題が多いことを
訴えています。

USAの大学生の論文 投稿者:てるてる  投稿日:12月13日(水)21時32分30秒

USAの大学生が脳死と臓器移植について書いた論文があります。↓
これは、いかにして倫理的に問題なく臓器不足を解消するか、という政策提言です。
脳死の概念に疑義があること、安楽死が受け容れられつつあること、臓器不足は喫緊の問題であること、
移植は高額医療であることなどを検討しています。参考文献にはあのTruogの論文も挙げています。
興味深いのは、すべてのアメリカ人が「全脳死」「大脳死」「身体死」についての講習とテストを受け、
どれかを選択するリヴィングウィルを持つ、というアイディアを出していることです。

http://oak.cats.ohiou.edu/~cb425395/


yukikoさんへのコメント・3 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月13日(水)03時11分27秒

ところが、これまでの生命倫理学者の議論というのは、
こうした具体的場面に目を向けない、研究者共同体内部のみだけで議論し満足するという、
各々の状況の個別性を無視した、「お題目」に過ぎないことが多かったのです。
それは、応用倫理学が、従来の伝統的な倫理学の状況に対して、
批判したはずのものだったのではないでしょうか。
しかし、応用倫理学も制度化が進んで、そういった傾向を強めてきました。
そこでは、個別性が無視されるばかりか、あらかじめ普遍性が想定されてしまっています。
そうではなくて、普遍性は各々が議論する中で徐々に獲得されていくものであり、
その議論を通じて得られた普遍性は、参照枠としての機能を獲得すると共に、
絶えず再定義されていく暫定的なものとして捉えるべきである、というのが私の考えです。
この個別性と普遍性の循環構造こそが、特定の基準を安易に絶対化しない、
知のダイナミズムとでも呼ぶべきものを我々に与えてくれるのです。
もちろん、生命倫理学に関する議論の一部が法制化されることはあるでしょう。
現状においては、倫理学に関してはほとんど無知の人々が、
多数決の論理だけを掲げて、強引に法を通してしまうことも少なくないでしょうが。
その場合にも、法が本当に適切であるかどうかを不断に吟味していくという態度が、
倫理学には求められると、2番目の論文にも書きました。
こうした営みが、知の硬直化を防ぐために欠かすことができないのです。
画一的基準の暴力性に対して批判的な私としては、
研究者共同体の内部だけで議論する、あるいは、安易な法制化を目指すといった活動ではなく、
具体的な場面で参照枠として機能する倫理学を試みることこそが、
現状において必要ではないかと思います。
なお、この問題について考えるヒントになった文献をご紹介しますので、
よろしかったらご覧になってみてください。
・鬼頭秀一「環境倫理における『地域』の問題をめぐって―多元性と普遍性の狭間の中で―」、
『東北哲学会年報』第16号、2000年。
・村上陽一郎『安全学』青土社、1998年。

yukikoさんへのコメント・2 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月13日(水)03時10分36秒

>>生命倫理学は、個々の意思決定の場面において、唯一の絶対的な基準を示さない、
>>議論の参照枠として機能しなければならない。
>ところで、これは具体的には、どういうことなのでしょうか。
>よろしかったら、説明をしていただけますか?
これについては、私の2番目の論文で、終わりの方に多少説明があるのですが、
ご覧いただけたでしょうか。
例えば、臓器移植法の改正案として掲げられている内容に、
「脳死を人の死であると一律に法的に定め、その拒否権を認めない」というものがあります。
「脳死は人の死である」という問題設定が誤っていることは、
これまで度々指摘してきましたが、ここではそれについては置いておきます。
そこで、この案を、少なくとも問題設定だけは正しい内容に改めてみます。
「脳死を一律に死の到来の科学的判定基準として法的に定め、その拒否権を認めない」。
この場合、脳死判定を受け入れがたいという患者、そしてその家族に対して、
画一化された基準の暴力性が生じます。
それは、生命倫理学における特定の見解が特権化されて法的に正当化されることで、
唯一の絶対的な基準として機能してしまうということです。
このことは、判定基準として脳死か心臓死か選択可能である場合でも、
脳死が法的に正当とされた状況では、関係者に無言の圧力がかかるという、
論文やこの掲示板でこれまで主張してきた問題にも言えることです。
こういったことを踏まえて、私は生命倫理学を安易に法制化するのではなくて、
患者やその家族の関係性が重視される医療が必要であると論じてきました。
しかし、だからといって生命倫理学は現実の問題について議論を回避すべきではありません。
ただ、そういった議論が、安易に画一的な基準として機能してしまうのではなく、
それぞれの問題に直面した患者や家族が自らの問題として考え議論する場面で、
議論の参照枠として役に立つことが必要でしょう。
議論の手がかりになるものがないと、益々複雑化する現代医療においては、
患者やその家族が、自らの置かれた状況を判断し、
それについて考察していくことが、一層困難になっています。
このことは、医者の側にも言えることであり、患者の身体の状態変化について、
自分達がどんなに詳しい知識をもち、それを患者に情報提供したとしても、
患者と家族との各々の関係性の問題、患者の自己決定の問題などに対して、
十分に理解し、それにどう関わっていったらよいのか、判断することは難しいはずです。
インフォームド・コンセントが重視される今、パターナリズムでは済まない以上、
医者もこのような問題を無視することはできないでしょう。
そうなると、医療に何らかの形で関わる人々は、医者であろうと患者であろうと、
何らかの議論の枠組みを知識として持っていて、それを手がかりとして、
自分なりの考えを深め、同時に、他者と議論していくことが必要となります。
その意味で、参照枠としての生命倫理学が必要なのです。

yukikoさんへのコメント・1 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月13日(水)03時09分19秒

>臓器移植の場面には、強すぎる自由としての自己決定は有効ではない」ということを、
>前にもこの掲示板で言われたことがあります。
>じゃあ、どういう人間像だったら有効なんだろう、
>また、それは、本当に臓器移植などの医療の場面だけに立ち現れる人間像なのだろうか、
>と考えてきました。医療は、日常の延長線上にあるのに、そこだけ乖離している、
>ということはありえないとわたしは思います。
この問題はおそらく、医療が社会に占める位置と関係しているように思います。
かつては、かかりつけの医者というのをそれぞれの人が持っていて、
家族の誰かが病気になると、医者が各々の家へと出向いていきました。
そこでは、医療行為というものが、日常性とのつながりを持っていたのです。
しかし、現在では、大きな病院に遠くから通う人が少なくないですし、
特にそのようなところでは、医者は短時間で膨大な人数の診察を行うわけですから、
医者と患者の関係性というものも、かつてとは変化してきているのかもしれません。
また、かつての人々は、自分の家で静かに息をひきとることが多かったのでしょうが、
現代社会では、病院という、日常生活とは異なる空間で死を迎える人が少なくありません。
特に医療技術の発達により生まれた脳死や臓器移植などは、
かつての人々とはかなり異質な経験を、患者が死に臨む場面で持つと考えられます。
おそらく、死の場面で自己決定権が重視されるというのも、
このような医療の構造的な変化によるのでしょう。
かつてのように自宅で死を迎える場合は、判定基準の問題も生じなければ、
臓器移植についての自己決定といった問題も、現れることはありませんでした。
そうであるならば、自己決定権という概念が成立し、
それが社会において用いられるようになった当時は、
こういった現代的な問題は存在していなかったわけですから、
自己決定権がそれらに十分に対応できるようにはできていないのです。
ご指摘にあった世代間倫理の問題などが自己決定権では片付かないのも、
まさにこのことに由来しているのではないでしょうか。
世代間倫理と自己決定権については、私は既に同様の議論を論文で発表しておりますが、
そこでも書きましたように、自己決定権だけでは社会が維持できなくなっています。
そのような状況では、それを補完するためのものを、
様々な学問領域を越えて考えていかなければなりません。
今後私自身もそれに取り組んでいかなければならないのですが、
森岡先生の「生命学」の意義の一つは、そこにあると私は考えております。

成長 投稿者:yukiko  投稿日:12月12日(火)16時50分13秒

もう一つ、わたしは、自己決定の前提としての所有権をみとめましたが、もっと緻密に言えば、
所有の前提となる自己について言及していないのは我ながらおかしい、と思っています。
人格とは何か。それは意識か。あるいは、「ある」ということなのだろうか。
きっとヒグラシアカネさんが身体的感覚的に疑問を呈している「責任を取るとはどういうことか」
と無縁でもないように思います。

で、自己については、糸賀一夫、という福祉の臨床家の思想、
「私たち自身を含めて、すべての人の心に一度は飼い殺し思想が宿る。そういうものであるから、
この対決は施設をつくる以上に大切なものと考えてよい。そして、この重症児が普通児と同じ発達の
みちを通るということ、どんなにわずかでもその質的転換期の間でゆたかさをつくるのだ」
(「福祉の思想」糸賀一夫 NHKブックス)
という、「発達保障」という考え方で表現できないかなぁ、と思ってます。
「ある」限り、成長をし続けるということを、考えていかねばならない。
でも成長ってなにさ?


萩原さん2 投稿者:yukiko  投稿日:12月12日(火)16時46分26秒

>以上の議論を踏まえて競争原理というものを考えるならば、
>これは臓器移植などの医療の場面には適用されるべきものではありません。
>なぜなら、医療行為は、人間の生命に関わるやり直しの不可能なものなので、
>医療資源や費用の配分が弱肉強食の論理に基づいてなされ、
>権力者や裕福な人々によって独占されてしまった場合、
>そうでない人々が、「失敗しても立ち上がって再チャレンジする」ことはできないからです。

じつは、前前から引っかかっていたことなのですが…
「臓器移植の場面には、強すぎる自由としての自己決定は有効ではない」ということを、前にもこの掲示板で
言われたことがあります。じゃあ、どういう人間像だったら有効なんだろう、また、それは、本当に
臓器移植などの医療の場面だけに立ち現れる人間像なのだろうか、と考えてきました。医療は、日常の
延長線上にあるのに、そこだけ乖離している、ということはありえないとわたしは思います。

先に述べましたように、わたしも自己決定は否定しないのです。そういう、苛烈な自由主義的個人、には、
わたし自身は強いシンパシーを感じます。ただ、自己決定の条件として、他者危害しない、と言われても、
臓器移植においては、脳死の人という意思表示できない人、死への不可逆な過程に入ってからの家族との
かかわり、対面性のないレシピエント・ドナーといった、今の枠組では、一応、いずれも眼前に現れてはこない
他者なのですよね。これは、環境問題や遺伝子診断も同じで、直接利害関係にある人よりも、将来の
子どもたちへの影響が深刻だったりする。
今、こういう、対面性のない他者への関わり方が問われているのだと思います。
土井健司は、隣人愛には対面性がある、といったけれど、では、対面性のない他者との関わりを、
「わたし」は「わたし」において、どう志向するのか。

私の場合は、まず、自由な個人であること、と同時に、相手への想像力や自省が求められている、
と思うのです。自由な個人であり、相手への想像力や自省ができるとき、個別性を尊重することに
つながっていく。それは、例えば、グローバライゼーションにおいても言えるように思うし、もっと身近な、
私たちの日常においてもそうだと思うのですよ。

>生命倫理学は、個々の意思決定の場面において、唯一の絶対的な基準を示さない、議論の参照枠として
機能しなければならない。

ところで、これは具体的には、どういうことなのでしょうか。
よろしかったら、説明をしていただけますか?


萩原さん1 投稿者:yukiko  投稿日:12月12日(火)16時39分50秒

>この「公正さ」という概念を、福祉国家の理想を掲げるリベラリズムの立場は、
>弱者と強者、誰もが平等の福祉を受けられることとして考えています。
>しかし、資源や国家予算が有限である以上、その実現はほぼ不可能です
>それどころか、そのような平等こそが、かえって別の意味での不平等をもたらしています。

たしかに、福祉国家が、莫大な財政赤字をかかえる、というのはパターンのようですね。
その後、民営化路線、新保守主義・新自由主義、小さい国家論へとつながる。
そういう流れのなかで、今の社会保障基礎構造改革も行われていると思います。

>例えば、保険の適用範囲が広く、その範囲内なら国民の誰もがその恩恵を享受できる場合、
>本当は濃厚な治療を必要としなくても、保険の適用によって安く済むという現状に甘え、
>それがあたかも当然の権利であるかのように錯覚されてしまいます。

老人医療費無料化の影響とか、億を超える金額を社会保険に頼っている人とかの話のことかなあ。
これらを含めて、薬価制度や医療提供体制の見直しなどは、私も必要だとおもいます。
ただ、社会保障費は、2000年度は、一般歳出の2、6%しかないのですよ。
社会保障費の国民負担律が高いのは、租税と社会保障の構成にも問題があるのではないですか?
セーフティ・ネットの縮小には、慎重であってよいとおもいます。

>だからといって、私はリバタリアニズムを全面的に支持することもしません。

なるほど。
先日、国際ソーシャルワーカー連盟会長(ISFW)のイメルダ・ドッズが来日して、「世界銀行は、
ここ10年くらいの新規の投資(つまりマレーシアとか韓国とか)に対し、その国の産業が世銀の投資に
依存的にならないよう個別的な配慮をした」と言いました。この新自由主義に対して、ISFWは、いま、
政策声明を準備中なのだそうです。たぶん、批判するんだろう、と思ってます。
グローバライゼーションや新自由主義に対しては、わたしはまだどう評価したらよいのか、自分では
よく分かってません。ただ、萩原さんが「公正さ」がない、とおっしゃるのは、分かります。


脳死の人への麻酔 投稿者:森岡正博  投稿日:12月12日(火)02時54分26秒

についての、イギリスでの論争についてのまとまった記事がここにあります。↓ 英語。

http://organtx.org/tx/braindeath.htm


ヒグラシアカネさん 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月12日(火)01時07分57秒

>私は責任をとるということがやはり分かりません。いえ、犯罪ではわかるんですよ。
>でも、生と死のときの判断には正解も間違いもないと思っているので
>いつ責任をとる必要が出てくるのかな、と。話ずれてます?全然自信ありません
HPの方はまだ拝見していないのですが、昨日書き込みしてから気づきましたが、
上に書かれていることは、やはり話がずれています(笑)。
そもそも、判断能力が十分でないために意思表明ができなくても、
患者の生命が守られるべき、というのが論点だったはずです。
この点は、私とヒグラシアカネさん両方に共通の認識であることが、
これまでの議論で明らかになっています。
ですから、死に直面する場面で、責任をとる能力の有無は問題ではないのです。
責任をとる能力に基づく決定がなされた時にだけ患者の生命が守られるというのでは、
意思表明を行えない人々が犠牲になってしまうことは言うまでもありません。
ただ、未成年者(臓器移植法の場合は15歳未満)の場合は自己決定権ではなく、
本人の意思表明に基づく親の同意という形にすべきという案に関して、
判断能力と責任との関係について前回ご質問なさったので、
それに対して、犯罪の例を挙げて回答させていただいたということです。

ヒグラシさん 投稿者:森岡正博  投稿日:12月12日(火)00時56分14秒

拝見しました。とても面白いです。が、後半をもっと書いてください。判断能力についての批判的考察は
超重要です。子どもは親に流されるというのが、12歳以下に引き下げることへの主な反対根拠なのですが、
でも、「大人なら流されない」というのは、嘘だと私も思っているからです。だって、大人だって、
移植によってしか助からない子どもの患者さんのビデオを見せられると、ころっと流されてしまうからです。
その逆もあることでしょう。

萩原さん 投稿者:ヒグラシアカネ  投稿日:12月10日(日)19時55分30秒

レスが遅くなってごめんなさい。
もう一回自分の意見をまとめてみようと、挑戦してみたのですが、
案の定何言ってんだかわかんなくなって挫折しかけです。
HPにアップいたしましたのでお暇でしたら覗いてみて下さい。
後半はやけくそなのがバレバレ(笑)。

私は責任をとるということがやはり分かりません。
いえ、犯罪ではわかるんですよ。
でも、生と死のときの判断には正解も間違いもないと思っているので
いつ責任をとる必要が出てくるのかな、と。
話ずれてます?全然自信ありません。

http://www.geocities.co.jp/Bookend/7578/nenreiseigenhenogimon.html


yukikoさん・2 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月10日(日)01時40分08秒

>「ドナーの意思表示は本人のみでよい」とする人の場合を例に挙げますが、
>「実体としての死」と「哲学的な死」をその人たちが混同している、というのは、
>やや乱暴なご意見だとわたしは思います。
>「生きたのはこの私であって、死ぬのもこのわたしであって、ほかの誰でもない」と
>考える人はいます。自分が消えさることを、主観的に自分ひとりで引き受ける人にとっては、
>本人の自己決定権は、なくてはならないものだと思います。
私の論文や、これまで掲示板に書き込んできたことをご覧いただければお分かりのように、
私は自己決定権の意義を認めつつ、その問題点を改善し、
より有意義なものとするために、自己決定権にこだわって議論しています。
ですから、概念としての死と哲学的判定基準としての死の混同という問題については、
それがなされているという事実、そして、それによって生じる問題点を指摘したのであり、
「自分が消え去ることを、主観的に一人で引き受ける人」を否定したのではありません。
もしそれを否定するならば、患者本人の意思や家族との関係性についての、
個別的な状況を重視するべきであるという、私の見解との矛盾が生じるはずです。
つまり、各々の死生観を尊重することは当然なのであって、
そのことを認めた上で、判定基準と概念の混同から生じ得る問題について議論しているのです。
ちなみに、「自分が消え去ることを、主観的に一人で引き受ける人」の場合も、
自らの意識が消滅することという哲学的判定基準において死の到来を判定しているのであり、
その人が概念としての「死」そのものを認識しているわけではありません。
そこでは、判定基準と概念の対応関係が、両者の同一視によって見えなくなっています。
しかし、これは個人的な問題にとどまっているのであって、
厳密な哲学的議論の場面以外では、患者本人にとっても特に問題ではないでしょうが、
科学的判定基準としての死と、概念としての死との混同においては、事情が異なります。
つまり、脳死や心臓死といった身体の物質的状態変化を、
概念としての死そのものと同一視することで、
「死」というものが身体機能の停止に等しいと考えられるため、
死亡した患者が一人の人間ではなく、単なる物質として見なされる危険性が出てくるのです。
それは、死亡した患者はもはや人間ではなく物質なのだから、
そこから自由に臓器を収奪してもよいではないか、という議論につながります。
もちろん、患者の家族は、そのように単純に考えることはないでしょう。
しかし、移植用臓器の不足という状況で、少しでも多くの臓器を摘出したい医療関係者や、
臓器移植をより積極的に実施しようと考える推進派の人々が、
患者とその家族との関係性において考えられるべき「死」というものを無視して、
自分達の言説を正当化するために、このような見解を用いる可能性はあります。
ですから、判定基準としての死と概念としての死の混同についての議論を行わないならば、
実際にそれによって生じる暴力性を黙認することになり、
その暴力性に直面して苦しむことになる人々は、いつになっても救われません。
それは明らかに問題なのであり、だからこそ、あえて議論しなければならないのです。
>現行法がベストではない以上、個別性を重視した臓器売買禁止法を考えてみる、
>という試みは、わたしは賛成します。
>ただ、いろいろなリスク管理が求められると思いますが、
>やってみる価値は多いにあると思います。
臓器売買禁止に関する法律の具体的な検討に関しましては、
卒論の全体的な枠組みが既にできあがっている以上、提出期限などの都合上、
それを大幅に変更することが不可能なため、残念ながらこの中では扱えません。
しかし、改めてこの問題に取り組んでみる必要があると感じております。

yukikoさん・1 投稿者:萩原優騎  投稿日:12月10日(日)01時39分04秒

>わたしは、贈与の場合であっても、人間は自己の利益のために、
>何らかの価値を欲していると思います。
>臓器と交換に「役立って愛されること」「尊厳ある死」「この世に存在した証」などを得る。
>また、臓器へのニーズは、システム側と、レシピエント側とで意味合いが違うとも思います。
非常に重要な論点を提起してくださったと思います。
これらをしっかり議論することによって、
「善意」という言葉に込められている様々な側面が明らかになるはずであり、
そういった点に自覚的な議論を進めていくことが、今後重要になるのではないでしょうか。
>自由主義を楽天的だ、と萩原さんが書かれたのも、
>強者が強者でありつづける競争原理を、何か他の原理に転化することはできないのか、と、
>思われているのだろうと思いました。
確かに自由主義には、楽観的な側面が強いのであり、その自明性が崩れつつある現状では、
これを絶対的な基準として掲げることはできません。
しかし、一方で我々が生きる社会は、啓蒙主義以来の近代的な枠組みの内部にあるのであり、
それに依拠することで、自己決定権などが成立していることも事実です。
ですから、自由主義の否定というわけにもいかず、
それをいかに使いこなしていくか、ということが課題です。
競争原理については、それを完全に否定するという立場には私は立っておりません。
社会主義諸国の崩壊に見られるように、競争原理を完全に追放してしまうと、
それによって生じる非能率性によって、社会の維持が困難になります。
そうなってしまっては、臓器移植どころか、他の医療行為に関しても不可能になり、
福祉は一層低迷するという状況に陥ってしまいます。
ですから、村上陽一郎先生が主張なさるように、競争原理そのものを否定するのではなく、
競争社会における敗者が、その失敗によって絶望的状況に陥らず、
何度でも立ち上がって再チャレンジできるという意味での「公正さ」が必要でしょう。
この「公正さ」という概念を、福祉国家の理想を掲げるリベラリズムの立場は、
弱者と強者、誰もが平等の福祉を受けられることとして考えています。
しかし、資源や国家予算が有限である以上、その実現はほぼ不可能です。
それどころか、そのような平等こそが、かえって別の意味での不平等をもたらしています。
例えば、保険の適用範囲が広く、その範囲内なら国民の誰もがその恩恵を享受できる場合、
本当は濃厚な治療を必要としなくても、保険の適用によって安く済むという現状に甘え、
それがあたかも当然の権利であるかのように錯覚されてしまいます。
また、医療機関側としては、濃厚な治療をするほど経済的利得が大きく、製薬企業側にとって
も、医療機関がそうした治療を行うことで利益が上がるため、
どこにも限界を定める契機が存在しません。
そしてその一方で、本当に福祉が必要な人が、その恩恵を受けられずに苦しんでいるのです。
臓器移植を費用の問題で受けられずに死亡する人々は、まさにその例でしょう。
予算が無限でない限り、こうした「平等」によって生じる「不平等」を、
福祉の増大によって解決することは不可能なのであり、
こういった視点が、概してリベラリズムの理想論には抜け落ちているように思えます。
だからといって、私はリバタリアニズムを全面的に支持することもしません。
彼らが唱える自由競争には、前述の「公正さ」の視点が抜け落ち、
弱肉強食の暴力性が、無批判なままに肯定されているからです。
ちなみに、上に書きましたような内容は、
やはり私の卒論の環境倫理学におけるエコ・ファシズムの問題について、
加藤尚武先生の地球全体主義に関する検討を行う中で、より詳細に扱っております。
この項目も、できれば「現代文明学研究」で発表する際に含めたいものです。
以上の議論を踏まえて競争原理というものを考えるならば、
これは臓器移植などの医療の場面には適用されるべきものではありません。
なぜなら、医療行為は、人間の生命に関わるやり直しの不可能なものなので、
医療資源や費用の配分が弱肉強食の論理に基づいてなされ、
権力者や裕福な人々によって独占されてしまった場合、
そうでない人々が、「失敗しても立ち上がって再チャレンジする」ことはできないからです。
昨日てるてるさんへのコメントの中でも触れましたように、
臓器移植を法制化することで、それを受ける人々の機会の平等が失われるのであれば、
やはりそこには大きな問題があるということになります。

萩原勇騎 「脳死・臓器移植の論理と倫理 -- 現代医療と自己決定権の裂け目を読む」