デンマーク、キプロス 投稿者:森岡正博 投稿日:12月 9日(土)22時39分40秒
有益な情報ですね、ありがとうございました。かならずしも多くの国が、町野さんのような「移植へと
自己決定しているのだ」という立場はとっていないということですね。
デンマークでの意思表示についての議論 投稿者:てるてる 投稿日:12月 9日(土)17時41分57秒
デンマークで、1998年に、臓器提供は生前同意か推定同意かどちらを原則とするのがよいかについて、
倫理会議を作って議論しています。
「脳死」状態の患者からの臓器提供は、本人の意思を最優先するべきか、最近親者による承諾を認めるか、
社会による推定同意を認めるか、という3点に焦点を絞って検討しています。
そのさい、臓器不足のないスペインの事例を参照しています。スペインでは、「脳死」患者の家族に対する働きかけについて、医療スタッフが専門的な訓練を受けています。
それはまあいいのですが…
驚いたのは、移植臓器の数が多いと、家族と交渉した人にボーナスが出ることです。これには、デンマークの倫理会議は批判的で、各国が移植件数の多さを競うのはよくない、とし、
結論として、推定同意よりも生前同意を原則とすべきとしています。
http://www.etiskraad.dk/publikationer/orgdon_eng/ren.htm
http://etisk.inforce.dk/graphics/03_udgivelser/engelske_publikationer/orgdon_e/INDEX.HTMちなみに、キプロスでも、1999年に、臓器移植をふやすため、意思表示の方法を研究し、スペインの事例を
参照しています。結論では、presumed consent よりも required responseを原則とすべき、としています。
http://cyprus-freemasons.org/RegMethods.html
臓器移植と医療経済 投稿者:てるてる 投稿日:12月 9日(土)17時25分36秒
>萩原優騎さん
>臓器移植を法制化した場合には、
>臓器移植を積極的に進めるという姿勢が確立され、それに伴う費用の問題が生じます。
>つまり、臓器移植が法制化されて積極的に行われるようになった場合、
>それをどこまで社会が支えていけるのか、という疑問が出てきます。これは、たいせつな視点だと思います。
ただ、私には、移植医療の採算性というものがよくわかりません。角膜移植の専門医の坪田一男は、「移植医療の最新科学―見えてきた可能性と限界」(講談社、2000年)で、
移植医療を経済原則にのせるには、移植数をふやさないといけない、と書いています。角膜移植では、
費用がかかるところは、アイバンクの建物、設備、事務員、コーディネーター、角膜検査器械、眼球摘出の
ための器具、角膜保存容器、運搬費用等で、坪田氏のアイバンクで移植するのは年間100眼以下、1眼当たり
33万円かかり、健康保険で9万円支払われ、24万円の赤字が出る。これを年間1000眼ぐらい手術できるように
すれば、かなり赤字が減り、アイバンクを運営できる。しかし、現状では、角膜に限らず、臓器バンクは、
構造的に赤字体質で、移植医療が進まない理由の一つになっている。つまり、移植件数が少ないから赤字が減らないし、赤字だから移植件数がふえないという、悪循環、
ということのようです。これは臓器バンクの立場から書いていますが、では、臓器バンクが赤字にならないほど移植件数が
ふえたとして、そのぶん、角膜・腎臓には健康保険の適用がふえることになりますが、それは、日本の
医療財政にとってどうなんでしょうか。
腎臓移植の専門医が書いた本では、人工透析に適用される健康保険の費用と比べて安くつくという
ことのようですが…。ぬで島次郎は、健康保険の対象となっている角膜・腎臓以外の臓器移植には、高度先進医療を適用し、
搬送費用は受益者負担として、移植費用援助基金を作ることを提案しています。
それだと、移植件数がふえても、日本の医療財政で支えていけるということのようですが…
てるてるさんへ・その2 投稿者:萩原優騎 投稿日:12月 9日(土)03時04分31秒
次に、安楽死、尊厳死の法制化に関してです。
まず、安楽死や尊厳死というのは、本人もしくはその家族のやむを得ない状況における、
熟慮の上での決断によって、消極的に容認されるべきものと考えます。
ですから、現在の中絶に関する法の適用と同様に、
もしそれを法制化しなければならないのであれば、
定められた条件を十分に満たすことで、例外的にそれを認めるという、
消極的な意味での法であるべきだと考えますが、基本的には法制化に反対です。
安楽死、尊厳死が中絶と異なるのは、特にそれが本人の意思表明に基づいてなされる場合に、
法的に認められていることで安楽死、尊厳死の積極的遂行につながり、
自己決定を優先するあまりに、治療行為がおろそかにされる恐れがあります。
建前ではそうではないとしても、安楽死、尊厳死に関する本人の意思決定は、
法的に正しいとされた状況では、その積極的推進が起きることは明らかでしょう。
自らの身体に関する自己決定は、豊かな人生を終えるために必要でしょうが、
だからといって治療行為がおろそかにされるべきではないのであり、
できる限りの治療を行い、それでも回復の見込みがたたないという時にのみ、
安楽死、尊厳死を行うという決断がなされるべきだと思います。
そのことの重要性が法制化によって薄れることを、私は危惧しております。
また、患者本人の意思によるものであれ、家族による熟慮の上での決断によるものであれ、
安楽死、尊厳死の法制化が行われるならば、臓器移植推進派がこれを利用し、
臓器移植を積極的に推進するために利用するであろうことは明らかです。
また、ご指摘のように、仮に現在の臓器移植法が廃止された場合でも、
安楽死、尊厳死の法制化によって、脳死判定された患者からの臓器摘出を法制化することへと、
議論は必然的に流れていくことでしょう。
いずれにしても、安楽死、尊厳死の法制化は、結局は脳死を法的に認めることなのであり、
それが臓器移植の積極的推進という目的と結びつくことによって、
そこでは無言の圧力の問題も生じるわけですから、この点でも、私はその法制化に反対です。●コメントを下さっている皆様へ
いつも私の拙い議論にお付き合いくださり、感謝致します。
私の場合、大学で自分と同じような関心を持ち、研究している人が少ないので、
特に同世代の方々、そして関心を共有する方々との議論の機会が比較的少なく、
こうして掲示板を通じて議論できることは、本当にありがたいことです。
今後も皆様との議論を通じて学びを深めていければと存じますので、よろしくお願い致します。
なお、身の回りが急に慌しくなってしまいましたので、
明日以降は皆様からのコメントに対して、すぐに回答できないかもしれません。
申し訳ございませんが、ご了承いただければ幸いです。
てるてるさんへ・その1 投稿者:萩原優騎 投稿日:12月 9日(土)03時03分51秒
>それでは、心臓死の人からの角膜と腎臓の移植について定めていた角腎法や、今後、
>心臓死の人からの皮膚などの移植について法制化する可能性や、
>生体肝・腎の移植の法制化については、賛成されるのでしょうか。
>仮に、現行の日本の臓器移植法を一旦廃止したとしても、
>もし、脳死の人の治療打ち切りが安楽死法か尊厳死法の対象として認められ、
>一方に、心臓死の人や生体からの臓器・組織の移植が法律で定められたなら、
>それとこれとを足して、脳死の人からの臓器移植も認める法律を作る、
>ということになるだろう、と思います。実際、臓器移植法を定める前に、
>安楽死・尊厳死を認める法律を作っておく方が
>ことの順序だっただろう、と思います。
脳死が法的に認められた状況のデメリットは、昨日yukikoさんに対して述べました。
それに加えて、脳死が法的に正当化された状況で起こり得る問題として、
私の2番目の論文に書きました、意識がない人々の生存権の問題があります。
すなわち、生存権が意識の不在という状況においても認められるべきものであるならば、
脳死状態にある患者もその権利の対象であり得るということです。
ですから、脳死判定で概念としての死の到来を判定してよいと、
本人が生前に意思表明した場合を除き、脳死判定を採用することは望ましくありません。
この観点を抜きに議論を進めてしまうと、植物状態や無脳症の人々の生命維持が、
おろそかにされる、もしくは安易に奪われる危険性もあります。
ちなみに、生存権というものをわざわざ持ち出さなくても、
こういった人々の生命が守られるべきであることは、パーソン論批判として論じた通りです。
それに対して、心臓死という科学的判定基準の場合はいかがでしょうか。
心臓死は脳死と比べて、人々が患者の死の到来を判定する基準として受け入れやすいので、
実際、植物状態や無脳症の人々における死の到来を判定する場合にも、
判定基準として心臓死が用いられているはずです。
そこでは、脳死が法的に認められた場合のような、無言の圧力という問題も起きません。
したがって、心臓死によって死の当為を判定された患者からの移植については、
摘出の有無に関する患者本人の、生前の意思表明の方が大きな問題となります。
また、昨日yukikoさんに書きましたように、臓器売買を取り締まる必要がありますが、
心臓死については法制化された状況でも上記のような問題が起こらない以上は、
心臓死を法的に認めることと臓器売買の禁止とを、
一つの法の中で扱うことは一応は可能かもしれません。
しかし、最初の論文で論じましたように、臓器移植を法制化した場合には、
臓器移植を積極的に進めるという姿勢が確立され、それに伴う費用の問題が生じます。
つまり、臓器移植が法制化されて積極的に行われるようになった場合、
それをどこまで社会が支えていけるのか、という疑問が出てきます。
更には、社会が臓器移植を支えられないならば、推進派が掲げるような、
機会の平等の理念が形式化し、結局は裕福な人や権力者が優先的に臓器移植を受け、
このような状況からは程遠い人々の生命がおろそかにされる恐れがあります。
その上、法制化の結果として臓器移植が積極的に行われるようになった場合、
これに当てられることになる費用が並大抵の額ではなくなるのであり、
それ以外の医療行為が衰退していく危険性が高いです。
臓器移植を受けて助かりたいという人々の欲望を私は否定しませんが、
医療費を当てることで助かりたい人々は、臓器移植以外に他にも多数存在するのであって、
そういった意味での配分の公正を実現する必要があるという点でも、
臓器移植の法制化は望ましいとは言えないのです。
以上のことは、脳死、心臓死、どちらによって判定された患者からの臓器摘出の場合にも、
同じように言えることは明らかです。
したがって、私は臓器移植全般に関して、法制化に反対です。
つづき 投稿者:yukiko 投稿日:12月 9日(土)01時37分44秒
>死の到来に関する哲学的判定基準であって、概念としての死そのものではありません。
>そのことに気づかずに、哲学的判定基準と概念が混同されているのです。
>その結果、「死」というものが個人閉塞したものとして捉えられてしまうため、
>死の到来に関する哲学的判定が他者との関わりにおいて成立することが見落とされ、
>自己決定権が抱える不当な側面の自明性が、一層強まってしまいます。下記のように、わかる、と言っておきながら、なおかつ、私が、「本人の意思表示原則」にこだわる理由を
書きます。「ドナーの意思表示は本人のみでよい」とする人の場合を例に上げますが、「実態としての死」と「哲学的な死」
をその人たちが混同している、というのは、やや乱暴なご意見だとわたしは思います。「生きたのはこの私で
あって、死ぬのもこのわたしであって、ほかの誰でもない」と考える人はいます。自分が消えさることを、
主観的に自分ひとりで引き受ける人にとっては、本人の自己決定権は、なくてはならないものだと思います。そして、この自己意識は、ヒトクローン時代には必要だとわたしは思います。
ある臓器移植専門委員会の委員は、「臓器は社会に帰属する」「移植ネットは社会を代行する」とご発言に
なりました(↓)。発言の背景には、組織の所有権の問題が見え隠れしています。私は、それは、社会の
自由にはならず、家族の自由にもならず、本人の許諾のない場合、勝手に使用してはならないと思います。
そして、ここにも、適切な枠組が必要だと思います。それがどういうものであったらよいのか、まだ
考えつきませんが、「血族が反対しない」というのは、一つの方向性だろうと思います。臓器は社会に帰属する、とは、現行法下においては法的根拠があるとは思えません。
が、もし現行法を撤廃し、臓器の売買を禁止する法律を作った場合には、登録する機関の立場が
問われるだろうと思います。贈与による臓器バンクなるものも発生しうるかも。移植を推進する立場の方々は、組織については、法制化はせずにガイドラインのみでいきたい、と
ご発言になっています。現行法がベストではない以上、個別性を重視した臓器売買禁止法を考えてみる、
という試みは、わたしは賛成します。ただ、いろいろなリスク管理が求められると思いますが、やってみる
価値は多いにあると思います。
「現代文明学研究」を楽しみにしています。それから、追記ですが、死の到来に関する哲学的判定が他者との関わりにおいて成立する、人もたくさん
いると思います。そういう人にとっては、他者の安心した顔が、自己の喜びなのだろう、と思います。
萩原さん 投稿者:yukiko 投稿日:12月 9日(土)01時34分53秒
ご丁寧なレスを、どうもありがとうございます。m(_ _)m>>法制化しない場合、善意の提供意志による臓器移植、
>>という医療行為が保障されるのでしょうかね。
>私の2番目の論文に書きましたように、「善意」という言葉については、
>それがどのような文脈で使われているかということに注意する必要があります。おっしゃる通りだと思います。
「贈与にも市場性がある」というのは、前提を省略したあまりいい表現ではありませんでしたね。わたしは、
贈与の場合であっても、人間は自己の利益のために、何らかの価値を欲していると思います。臓器と交換に
「役立って愛されること」「尊厳ある死」「この世に存在した証」などを得る。
また、臓器へのニーズは、システム側と、レシピエント側とで意味合いが違うとも思います。>しかし、特に日本のように集団の「和」なるものを重視する伝統が強い社会では、
>一度なされた個人の決定を最後まで貫くということを苦手とする人が多いです。
…
>実際にそのような場面に置かれている人々の葛藤や苦しみを考えるならば、
>患者本人や家族にとってできる限り望ましい死を迎えられる状況を整えることは、
>とても重要な意味を持つことは言うまでもありません。集団の「和」を重視して生きてきた人々が、社会的期待に敏感である、ということはあるだろうとおもいます。
システムの抱える問題で、制度の利用者が傷つく、というのはまったく本末転倒だと思います。ここで、少し、自己決定の前提となる話をしたいとおもいます。
「自己の身体の占有感覚」、そこから発生する「身体のコントロール感覚」、あるいは「この世界は、
わたしの欲望のためにある」という自我の肯定の皮膚感覚、これらが、対象への所有の感覚として拡張され、
「自己決定の前提としての所有権」が生まれたのだと思います。そして、私は、その強い自我の行使は、本来、
否定されるものではなく、本人において克服されるものである、と考えています。この所有の感覚があまりに拡大すると、誰かを犠牲にしても無感覚になってしまいますね。
こうなったとき、世界は自分ひとりのためにある、ことになる。
本来、本人の人生という文脈において、克服されるべきであった「他者の所有感覚」は、
臓器移植、という技術が登場した時点で、本人の成熟にまかせてもいられない状況になってしまった。アメリカのレシピエントのなかに、自分が生き残るために、2度、3度と移植を受け、自分の必要がある限り、
何人ものドナーを求め続ける、ということがあると思います。
また日本人も、海外渡航で移植を待っている間、レシピエントやその家族が、ニュースを見ては交通事故を
探してしまう、という心理を経験されています。
自分だったら、どうなることか、と思いますよ。現行法では、ドナーの側にもこうしたことが起きますね。
本人の希望があって臓器の提供をする場合、家族に提供を「委託」しなくてはならない。
この時、家族は、「わたしの手足」として機能してくれなくては提供は実現しません。
萩原さんが、「遺言」(としての委託)を退け、「自己決定権のもつ暴力性」を認めない、と表現されているのは、
この「ある存在でありながら、誰かの手足にされてしまう」ことを告発されているのだろうと思います。自由主義を楽天的だ、と萩原さんが書かれたのも、強者が強者でありつづける競争原理を、何か他の原理に
転化することはできないのか、と、思われているのだろうと思いました。そうしたことであれば、よく分かります。
萩原優騎さんへ 投稿者:てるてる 投稿日:12月 8日(金)07時33分52秒
萩原さんは、脳死の人からの臓器移植の法制化に反対されているのですね。
それでは、心臓死の人からの角膜と腎臓の移植について定めていた角腎法や、今後、心臓死の人からの皮膚 などの移植について法制化する可能性や、生体肝・腎の移植の法制化については、賛成されるのでしょうか。ドイツも日本と同じく1997年に臓器移植法を定めましたが、そのとき、組織や生体からの移植についても
定めています。ドイツは、臓器移植法制定前から、脳死の人からの心臓移植手術の実績が既にあり、法律は
それを追認するものでした。その時それまで実施されてきた、本人の生前の同意か家族の承諾かどちらかが
あればよいという意思表示の方法に対して、本人の生前の同意があった場合のみに限るという提案が
出されましたが、否決され、それまでの方法が維持されました。仮に、現行の日本の臓器移植法を一旦廃止したとしても、もし、脳死の人の治療打ち切りが安楽死法か
尊厳死法の対象として認められ、一方に、心臓死の人や生体からの臓器・組織の移植が法律で
定められたなら、それとこれとを足して、脳死の人からの臓器移植も認める法律を作る、ということに
なるだろう、と思います。
実際、臓器移植法を定める前に、安楽死・尊厳死を認める法律を作っておく方がことの順序だっただろう、
と思います。
yukikoさんへ・その2 投稿者:萩原優騎 投稿日:12月 8日(金)02時57分14秒
>贈与にも市場性がありますが、だいたいほっとけば貧困層が富裕層に
>売ることになるとおもいます。
これについては、実は大学の卒論の、バイオエシックスの項目の一部で扱っています。
いずれ卒論をまとめたものを「現代文明学研究」に出せればと考えておりますので、
またご覧いただければありがたいのですが、一応私の考えを記しておきます。
貧困に苦しむ人々からの臓器「収奪」という現実は、放っておけば悪化する一方でしょう。
それは、2番目の論文でも触れましたように、自己決定権の濫用でもあるのであって、
そのようなことが起きないように対策を立てる必要があることは確かです。
しかし、対策を法的なものに求める場合、その法の中に、
脳死を法的に正当化するといった項目が存在しなければならないという必然性はありません。
つまり、臓器移植という行為が実施される場面での条件として挙げられている、
脳死や臓器移植に関する生前の意思表明や家族の同意といった項目を法制化しないことと、
臓器の売買の禁止に関する法を設けることとは並存し得るのです。
臓器移植法によって脳死が法的に正当化される場合の問題点をこれまで見てきましたが、
現行の臓器移植法が仮に一旦廃止になったとしても、
それと共に臓器売買の禁止などに関する臓器移植法を設けることは可能なのです。
もちろん、これも一つの理想であり、実現は極めて難しいでしょうが、
だからといってそれを語らないというのは、現状を黙認することに等しいと思います。
少なくとも、以上申し上げたような観点は、
脳死や臓器移植に関するこれまでの議論にほとんど見られないものですので、
それらについて一層の検討が必要になってくると共に、
その検討において、臓器移植法を自明のものとしてしまう発想は適切ではないと考えます。
yukikoさんへ・その1 投稿者:萩原優騎 投稿日:12月 8日(金)02時56分02秒
>法制化しない場合、善意の提供意志による臓器移植、
>という医療行為が保障されるのでしょうかね。
私の2番目の論文に書きましたように、「善意」という言葉については、
それがどのような文脈で使われているかということに注意する必要があります。
改正派の議論では、臓器摘出をより積極的に行える状況を整えるために、
それがあまりにも安易に、更には、彼らの詭弁を正当化するための
(結果として正当化できていないのですが)論拠として使われています。
一方、改正派の立場でなくても、臓器移植は善意に基づく行為であるとよく言われますが、
これも上記の論文で検討しましたように、臓器移植を容認する基準としては、
実際には善意の有無よりも、自己決定の有無が重視されているのです。
これは、法制化してもしなくても、どちらの場合にも変わらないことです。
むしろ私が法制化に消極的であるのは、最初の方の論文に書きましたように、
脳死が法的に正当とされている状況では、死の到来に関する科学的判定基準として、
現行法のように心臓死と脳死を選択できるにもかかわらず、
脳死が法的に認められている限りは、たとえ医療関係者が口に出さないとしても、
患者やその家族に対して無言のプレッシャーがかかる危険性があるということです。
これはおそらく、医療関係者が脳死判定を強制するようなことがない限り、
それが問題として取り上げられるということなど皆無でしょう。
しかし、特に日本のように集団の「和」なるものを重視する伝統が強い社会では、
一度なされた個人の決定を最後まで貫くということを苦手とする人が多いです。
「そういうことをできないから日本人はだめなのだ」と批判することは簡単です。
けれども、実際にそのような場面に置かれている人々の葛藤や苦しみを考えるならば、
患者本人や家族にとってできる限り望ましい死を迎えられる状況を整えることは、
とても重要な意味を持つことは言うまでもありません。
私はデリダやベンヤミンの文献を読む機会が多いので、特にこういった法の暴力に対して、
人並み以上に目を向けるという傾向があるのかもしれません。
ただ逆に言えば、民主主義という言葉が建前として機能し、
現実には少数派や弱者が、多数派や権力者の論理の犠牲になっていることを考えるならば、
このような暴力性の直視が必要なのであり、臓器移植法の法制化にも積極的にはなれません。
更には、脳死が法的に正当とされることがもたらす第2の暴力性があります。
それは、私の2番目の論文にある、判定基準と概念との混同によるものです。
脳死が法的に認められるという場合に想定されているのは、
「脳死という科学的判定基準=概念としての死」というものであるか、
この等式化の問題にたとえ気づいていたとしても、科学的判定基準が、
「意識を回復しないこと」、「蘇らないこと」といったものに対応すると考えられます。
後者の場合、その対応関係自体は正しいのですが、意識を回復しない、蘇らないというのは、
死の到来に関する哲学的判定基準であって、概念としての死そのものではありません。
そのことに気づかずに、哲学的判定基準と概念が混同されているのです。
その結果、「死」というものが個人閉塞したものとして捉えられてしまうため、
死の到来に関する哲学的判定が他者との関わりにおいて成立することが見落とされ、
自己決定権が抱える不当な側面の自明性が、一層強まってしまいます。
そうは言うものの、以上の2点は問題だとしても、日本の政治に携わる人々のほとんどに、
そういった思考力が欠如しているばかりか、「臓器移植=人の役に立つよいこと」という、
改正派や推進派による根拠を欠いた安易な主張が既にかなり浸透してしまっている現状では、
臓器移植法がなくなるとは思えないことは、もちろん認識しております。
それを自覚した上での発言なのであり、せめてこれ以上の法「改悪」だけは止めたいので、
妥協として森岡案ならばB案を選ぶというのが現在の私の立場です。
萩原優騎さん 投稿者:le pissemlit 投稿日:12月 7日(木)11時31分37秒
熱気のある展開で,私の一拍はずした話し方にも注意を持ってコメント下さり
恐縮と同時に「こまっちゃったな」って・・・。
>これは,脳死判定によって死の到来を判定し,臓器移植を行ってよいという生前の意思表明について
でしょうか?
そうです。生前に考えて意思を表明するって何なのか?
>尊厳死が自殺かという議論はあるとしても
この議論もまだ深く自分のものにしていないのです。さらにご指摘のように尊厳死と自殺なんて
議論にもならないような話が脳裏にちらつくのですから困ったものです。
多分,臓器移植を意図している時だけ許される「死」の判断に臓器移植を望む動機に自分が何か
引っかかっているらしとまで言えますが・・。
>ある親子がこのような関係性にあるということを、どのように判定するのでしょうか。
この事は私も書き込みしてすぐに自分も明確にリフレクションの材料となりましたね。
あの問いが親が子の責任をとる件について考えることでしたから、親側に立つ私がとい
観点で述べたのです。確かに第3者の判定の及ばぬ領域を言っています。
そこでそんな見えないことが生きられる法であって,法としては「あいまいさ」として明確化して法で
触らない方が良いのかも。その意味で現法は慎重ですよね。
私の知る施設で受け入れている子供たちは最近幼児虐待のケースが多いようです。
親の弱さもあるし、私たちの時代に起きている人間のこの弱さをどこかで受け入れ
親子共々生きる法がいるのでしょう。またこの痛みも真摯に受け止めると同時に人の欠点も魅力のうち
というような味わいに深める契機として人が大事にされる法であること。墓場まで沈黙で持っていく神聖な
人生、そこで受け止める宗教的次元にも関わるのかなとも。森岡先生が良く表現される「引き裂かれる」
を頂いて表現すると引き裂かれる思いでより真に向う一人一人の主体が守られることを望みます。
またゆっくりこだわって皆様のご意見を貴重なものと耳を傾けております。
萩原さん 投稿者:yukiko 投稿日:12月 7日(木)08時20分32秒
>>枠組を作る場合には、そのおかしいことをやらねばならないのだと私はおもいます。
>>おかしいことをやり通し、自分は自分に対して間違っているのではないか、
>>というリスクを背負い、かつ、適切に生き残ることが必要だと思います。
>この見解では、臓器移植法の存在自体は正しいということが自明のものとなっており、
>臓器移植が、法制化されない状況でもなされうるという視点が欠落しています。
>移植法の改正問題も大事ですが、それだけでなく、現行のものが本当に適切かどうか
>という議論も、同時に行う必要があるのではないでしょうか。コメントありがとうございました。
わたしは、臓器移植が法制化されないままなされることを歓迎しません。
法制化しない場合、善意の提供意志による臓器移植、という医療行為が保障されるのでしょうかね。
贈与にも市場性がありますが、だいたいほっとけば貧困層が富裕層に売ることになるとおもいます。
いかがでしょう。
あと、臓器移植に社会保障費を使わないことは賛成です。
RE:今日のコメントその1 投稿者:てるてる 投稿日:12月 7日(木)07時43分10秒
>少なくとも親が十分な知識を持っており、そのことが適切なチェックによって確認され、
>熟慮した上での決断であるという場合に限られるべきでしょう。
>ただ、このような配慮が、法の内部でなされる可能性はほとんどないような気がします。
>こういう例外的なものを容認するということが、すなわち、
>各々の個別性が重視されることが実現し得るのは、やはり法制化の外部でではないでしょう
>か。一応、「補足 投稿者:てるてる 投稿日:12月 6日(水)12時40分53秒」で、以下の内容も審査の対象としたことを再確認しておきます。
>具体的に、親が医療従事者か、移植待機患者が身近にいるか、支援運動に参加している
>など特定の個人として知っていることが必要です。インターネットで移植患者のホーム
>ページを見てメールのやりとりをしていたりするのもいいと思います。親が医療従事者
>の場合は、そのひとの職業としての使命感と専門知識とをかけて、自分のこどもの臓器
>を提供することについて語ってほしいと思います。生体間移植について日本では法で規制していませんが、現状では、事実上、近親者か夫婦に限られています。
これも法の規制の対象としてドナーの権利を守るべき、と言われています。
脳死の人からの臓器移植の場合もやはり、法の規制の対象とするべき、と思います。
私は、生体間移植も、近親者だけでなく、外国で例があるように、友人や同僚に対象を広げてもいいと
思っています。むしろ、そのほうが、いいのだと思います。そして、幼いこどもからの臓器提供は、生体間移植の場合と似た条件をつけていいと思います。
それが、上に引用した条件です。
つまり、移植を待っている人を知っていること、ただし、直接知っている人に臓器を提供できるとは限らない、
組織適合性を調べて、よく似た病気の違う誰かに提供することになる、あるいは、移植医療そのもの、
医療そのものについて、専門的な知識と経験を持っていること。こうすると、ただ、テレビのニュースで外国に移植手術を受けに行くこどもを見て、同情しているだけの人が、
自分のこどもが「脳死」状態になってしまったときに、臓器提供を申し出る、というような事例は、
ほとんどはずされることになります。とはいうものの、萩原優騎さんのおっしゃるように、
>上に書きました呼吸器をはずすという場合と臓器移植を、同様には扱えないと私は考えま
>す。という点には、まったく異存がないのです。
森岡さん 投稿者:yukiko 投稿日:12月 7日(木)06時54分10秒
森岡さん、賛同者の件、B案でお願いいたします。わたしは、脳死での臓器移植について考え始めてから、ずっと解決できない疑問を持っていました。
それが、私が重視している「本人の意思表示原則」において、レシピエントの子どもに――つまり、万一、
自分の子どもが移植以外に助からないと言われた場合に――私は何と言うのか、ということと、本人の
意思による提供でありながら、家族がそれに反対した場合、どのような理由で、それは許容されるのか/
されないのか、という問題でした。脳死は死ではない、という前提から導き出した、自分なりの答えは、「殺してはいけない/殺させてはいけない」
というものでした。
わたしは、自分の子どもがレシピエントになろうがなるまいが、生きている人を殺してはいけない、と言います。
また、本人にとって、尊厳ある死としての臓器提供が、家族にとって主観的に殺人である場合、それは
臓器提供の委託ではなく、家族の主観としては嘱託殺人になります。本人によって、許容されようが
されまいが、あきらめざるを得ない、いや、やはり本人によって、克服されていてほしいとも思いますが…
(べき、とは言わない)。とても単純なことなのに、お恥かしい…
これについては、今後も引き続き考えてみたいとおもいます。
今日のコメントその2 投稿者:萩原優騎 投稿日:12月 7日(木)02時53分19秒
●アルキメデスさん
>にも拘わらず森岡B案に賛同するのは私にとっては妥協です。
>理由は、現行の移植法が廃止されるはずない、という不全感を私が持っているからです。(泣)
>少なくとも改正(悪)によって、現在の法をもっと悪く(私にとって)したくないからです。
私は、脳死判定や臓器移植は本人の意思表明に基づく場合のみ、
臓器移植は法制化されない状況での例外的な行為として、という見解ですので、
私の立場はアルキメデスさんとは必ずしも重なりませんが、上のご意見は私も共有します。
この掲示板に書かず、森岡先生に直接メールでお伝えしたのですが、
私も森岡案に関しては、B案の方が望ましいと考えております。
>優騎さんの論文は、要点が豆まきのように分散されているのが困りますが、
>多くの点で賛同いたします。
ベンヤミンの研究をやっていると、体系を描かずに、断片的な思考を配列するという、
彼の思考スタイルが身についてしまい、それが私の文体にも・・・
いや、何でもありません、全然言い訳になっていませんね(苦笑)。
冗談はこのくらいにしておいて、本当にすみません、なるべく改善するように気をつけます。●ヒグラシアカネさん
>この場合の責任を自らとる、というのはどういうことをすることなんでしょう?
>いえ、これは個人的に「責任をとる」ということがどういうことなのかわからない、という
>疑問に常々ぶつかっているからです。
例えば、少年犯罪の場合を考えてみてください。
最近の少年法改正問題の是非は別として、従来の解釈では、未成年者の場合の処罰は、
成人と比べて軽いものになっていました。
これは、自らの行為に対して、社会的に見て十分な責任を負えるかどうかという時に、
未成年者は成人と比べてそのような能力は十分ではない、という考えでしょう。
それは、必ずしも能力の不十分さといった否定的な発想というよりは、
成人になるまでに更に学びを重ねる余地があるから、成人と同様に処罰するのではなく、
より判断能力が養われることを期待しよう、という考えとも言えます。
しかし、近年のように青少年の犯罪が悪質化してくると、
いくら子供の判断能力が形成途上にあるとしても、
常識を逸脱したような極めて凶悪な犯罪を行った場合には、
現状よりも厳しい処罰がなされるべきだ、という見解が出てくるのです。
ここでは逆に、子供は判断能力を持たないわけではない、ということが論拠になっています。
つまり、たとえ判断能力が十分ではないとしても、それが皆無ではないのだから、
自らの責任をある程度は引き受けて当然なのであり、
凶悪な犯罪の場合は、その程度を現状よりも厳しくすべきだ、という判断です。
あまりよい例ではないのですが、もう少し低い年齢層の例を挙げてみますと、
コンビニで万引きをしたことが店員に見つかった場合に、
中学生や高校生ならばその場で通報されて補導されることになるでしょうが、
小学生などが同じことを行った場合には、本人に厳重に注意する、
親や学校にそのことを伝える、それでも同じことをその子供が繰り返すならば、
そこではじめて警察に伝える、というように対処することが多いようです。
この場合、中学生や高校生と比べてみますと、小学生はより判断能力が不十分であり、
自らの行為に対して責任を持つという姿勢が確立されていないから、
中学生や高校生、成人と同じようには処罰しないのです。
>「判断能力の有無は問題ではない」………こういうのはダメですか?
これならば良いのです。前回ヒグラシアカネさんは、
「私は能力の有無はどちらでもよいと思うのです。」と書かれたので、
このように書いてしまうと、脳死や臓器移植の問題をめぐる、
判断能力の有無に関する問題それ自体を見過ごすことにつながってしまう可能性があるので、
そのような意味に受け止められるのは問題であると思い、あのように私は書いたのです。
>私はあくまで、この部分は現行の法を前提にする、という意味だったので………。
現行の法を前提にするかどうかで、論じ方は変わってくると思います。
ただ私の考えでは、現行の法が必ずしも絶対的なのではなく、
そうした法制化がなされない状況の想定も必要なのではないでしょうか。
最初に出した方の論文でも触れましたが、そういった状況でないと、
画一的基準の暴力性が機能してしまって、各々のケースの個別性が配慮されにくいのです。
これは、一種の理想論と受け止められるかもしれませんが、
理想論自体を語ることが問題なのではなく、
それを語ることで全てが片付くと錯覚してしまうことが問題なのです。
現状における生命倫理学者の言説の大半が、この点に対してあまりにも無自覚です。
それは、森岡先生が「生命学への招待」の最終章でも論じていらっしゃる通りです。気がついたら、今日も書き込みがかなり長くなってしまいました。
森岡先生、今度お目にかかった時に、怒らないでくださいね(笑)。
今日のコメントその1 投稿者:萩原優騎 投稿日:12月 7日(木)02時51分58秒
●てるてるさん
確かにドナーカードを存続させるのであれば、「てるてる案」のようになるのかもしれません。
ご指摘のように、提供者の脳死・臓器移植に関する知識のチェックというのは重要です。
また、実際、ドナーカードが廃止される方向へ動くことは少ないようにも思えます。
>しかし、非常に幼いこどもが、長い間脳死状態が続いていたら、あるとき、
>関係者皆が、もう、終わってもよい、と思うときが来る場合があると思います。
>そのとき、人工呼吸器をはずすという終わりかたもあるし、
>臓器提供という終わり方もあると思います。
私の論文や昨日の書き込みに既に書いたことですが、
患者の自己決定を家族がなるべく尊重すべきであるとしても、
各々の事例の個別性を尊重するということを私は重視しますので、
脳死状態が長く続いた場合に、呼吸器をはずすという家族の決断を否定することはできません。
>しかし、幼いこどもの場合、審査に入るまでに、既に「一ヶ月以上」たっているという
>条件をつけていること、審査の内容が下の書き込みのようなものであることで、
>妥当性が得られないでしょうか?
>この地球上に、脳死の人からの移植医療を既に文化として受け容れている人々が
>一定数存在しており、その人々にとっては、
>こどもの脳死状態を臓器提供によって終えることが、
>心の通い合う暖かい死なのだろうと思います。
>そういう人々との妥協を考えてもいいと思います。
てるてるさんが、妥協の意味でこのように論じていらっしゃることは存じておりますが、
上に書きました呼吸器をはずすという場合と臓器移植を、同様には扱えないと私は考えます。
というのも、呼吸器をはずすという決断は、脳死状態が長く続いており、
回復の余地がないのに、そのような状態のままで、これ以上本人が苦しむのはかわいそうだ、
そういった家族の気持ちを汲み取って、容認されるものだと思います。
ところが、臓器移植に関する家族の決断に関しては、このようなものは見られないのです。
私の論文にも書きましたように、自らの身体は所有物なのではなく、
それが所有物であるという想定が認められうるのは、本人だけなのです。
ですから、意思表明を行えない人々の場合は、たとえそれが自分の子供であっても、
親の同意のみによって臓器摘出がなされることには、私個人としては賛成できません。
確かに、てるてるさんもおっしゃるように、子供の臓器を提供することが、
その親にとって望ましいものであると考えられるという場合もあるでしょう。
しかし、そのように考える人々が、なぜそう考えるようになったのかということを、
検討してみる必要があるのではないでしょうか。
例えば、日本でもよく言われることですが、臓器移植推進派のスローガンが浸透した結果、
漠然とではあっても、臓器移植は死後に他人の役に立つからよいことではないか、
といったような思いが、一定の数の人々の間で共有されているようです。
けれども、そう考える人が、脳死や臓器移植について、自分だけでなく子供の場合も含めて、
十分な知識を得て熟慮した結果として、
そのような結論に至っているとは必ずしも言えないと思います。
それは他の国の場合も同じであり、特にキリスト教信仰などの強い国の場合、
美濃口坦さんの論文にも書かれていましたように、
伝統的な宗教観に基づく「寄付」といった発想が国家の政策方針と結びつくことで、
特定の見解が容易に人々に受け入れられるということがあります。
そのような人々が、何かの機会によって十分な知識を得られた段階で、
従来の考えを覆すという可能性もあり得ます。
ですから、子供からの臓器摘出が親の同意によって認められる可能性がもしあるとすれば、
少なくとも親が十分な知識を持っており、そのことが適切なチェックによって確認され、
熟慮した上での決断であるという場合に限られるべきでしょう。
ただ、このような配慮が、法の内部でなされる可能性はほとんどないような気がします。
こういう例外的なものを容認するということが、すなわち、
各々の個別性が重視されることが実現し得るのは、やはり法制化の外部でではないでしょうか。
これは、臓器移植を法制化することに賛成できないという私の論点に重なるものです。
萩原優騎さん 投稿者:ヒグラシアカネ 投稿日:12月 6日(水)23時06分03秒
>子供に判断能力が無いという見解は明らかに誤りですが、大抵この種の議論では、
>判断能力のある成人という条件に基づいて与えられる自己決定権を行使できる、
>すなわち、責任を自ら引き受けられるに十分な人の判断能力と、
>そうしたものを引き受けられない場合がある人の判断能力が比較されているのであり、
>後者を「判断能力が無い」ということと同一視している点に問題があるのです。
もしかしたらこの話の本質からずれてしまうかもしれませんが、
この場合の責任を自らとる、というのはどういうことをすることなんでしょう?
いえ、これは個人的に「責任をとる」ということがどういうことなのかわからない、という
疑問に常々ぶつかっているからです。
現行の法律では私の年齢は責任を引き受けられるとみなされています。
でも、私には判断にどう責任をとればいいのか、さっぱり………です。
>判断能力の有無についてはどちらでもよいのではなく、
>たとえそれが全く無くても、そうした人々の生命が守られなければなりません。
はい。私もそう思います。
だから私は「判断力があってもなくても生命は守られなくてはならない。」
→「判断能力の有無は問題ではない」………こういうのはダメですか?
>個人の自己決定は、なるべく尊重されるべきですが、この場合の同意というのは、
>何らかの画一的な基準によって自己決定を強制的に受け入れさせられるのではなく、
>そこには自発性というものが不可欠だと思います。
>つまり、家族は熟慮の上で患者の自己決定を認めないという判断もありうるのであり、
>それは患者と家族の関係性に基づく、各々のケースの個別的状況を配慮すべきです。
この部分はよくわからないのです。
私はあくまで、この部分は現行の法を前提にする、という意味だったので………。
私も勿論同意しない、という結論に達することがあったっていいと思います。自分でもちゃんと返信できているか分からないのですが……。
ただ萩原さんと私は意思の疎通ができてなさげ、ってことはぼんやりとわかります(笑)。
>萩原優騎さん 投稿者:アルキメデス 投稿日:12月 6日(水)21時20分31秒
丁寧なレスありがとうございました。
で、このようにキャッチボールが長期に及んでくると、私の立場が脳死・移植受容派と勘違いされる可能性が
ありますので、再度書かせていただきます。
〔アルキメデスの立場〕
1.脳死判定は絶対反対
2.脳死判定によって摘出した臓器の移植も絶対反対
以上、理由はカルチャー・レビュー↓にかいたとおりです。にも拘わらず森岡B案に賛同するのは私にとっては妥協です。
理由は、現行の移植法が廃止されるはずない、という不全感を私が持っているからです。(泣)
少なくとも改正(悪)によって、現在の法をもっと悪く(私にとって)したくないからです。
ついでに書けば「てるてる案」は現行法を受容する立場にある(と私には感じられる)ので、
申し訳ありませんが乗れません。
優騎さんの論文は、要点が豆まきのように分散されているのが困りますが、多くの点で賛同いたします。
ありがとうございました。
補足 投稿者:てるてる 投稿日:12月 6日(水)12時40分53秒
「6歳未満 投稿者:てるてる 投稿日:12月 4日(月)08時11分32秒」
で、
>親が移植についてよく知っていること、
>移植を待っているこどものことを知っていることが条件です。
と書きましたが、これも審査の対象です。
具体的に、親が医療従事者か、移植待機患者が身近にいるか、支援運動に参加しているなど特定の
個人として知っていることが必要です。インターネットで移植患者のホームページを見てメールのやりとりを
していたりするのもいいと思います。親が医療従事者の場合は、そのひとの職業としての使命感と
専門知識とをかけて、自分のこどもの臓器を提供することについて語ってほしいと思います。しかし、同じ投稿で書いたように、これは、無理して作った妥協案です。
誰と妥協しているのかというと、脳死は死であると認め、移植医療に賛成している人々との妥協です。
脳死の人からの移植が日本より盛んな国々に出かけていく人々もいます。そういう人々のなかには、
かの国に行くと、日本での死を待つ日々の暗さとうってかわって、生きる望みが湧き、首尾よく移植手術が
受けられるとほんとうに感謝し喜び、移植医療を積極的にすすめるようになる人がいます。
この地球上に、脳死の人からの移植医療を既に文化として受け容れている人々が一定数存在しており、
その人々にとっては、こどもの脳死状態を臓器提供によって終えることが、心の通い合う暖かい死なのだろう
と思います。
そういう人々との妥協を考えてもいいと思います。
矛盾 投稿者:てるてる 投稿日:12月 6日(水)08時30分07秒
>そのとき、人工呼吸器をはずすという終わりかたもあるし、臓器提供という終わり方
>もあると思います。
人工呼吸器をはずすかどうかは家族が医者と相談して決めてもいいが、臓器提供をするかどうかは
決めてはだめ、と自分でも「てるてる案」で書いているくせに、という指摘が当然ありえますね。
6歳以上の場合には家庭裁判所の審査という手段さえも認めていませんから。
しかし、幼いこどもの場合、審査に入るまでに、既に「一ヶ月以上」たっているという条件をつけていること、
審査の内容が下の書き込みのようなものであることで、妥当性が得られないでしょうか?
優騎さんへ (2) 投稿者:てるてる 投稿日:12月 6日(水)08時20分34秒
>この見解は、臓器移植法が制定される前から、その案の中で触れられて問題になった、
>「本人の意思を忖度して判断し承諾可能な具体例」に挙げられていた、
>「本人は臓器提供について何も言っていなかったが、もし聞いてみたら、
>本人の平素の言動からみて臓器提供の意思を表明したと思う」という項目に、
>あまりにも酷似しているのではないでしょうか。
>これは、臓器移植を積極的に推進する論拠として用いられてきたものなのであり、
>てるてるさんが本人の意思表明の確認に基づく臓器移植を重視するのであれば、
>なぜこのようなことを書いてしまうのでしょうか。臓器移植を推進する人々がいう「忖度」は、本人の家族の同意があれば、第三者がその信憑性を吟味せず、
そのまま受け容れるというものです。
しかし、家庭裁判所が審査する、という方法は、「脳死は死ではない」という脳死臨調の少数意見でも、
ドナーカードが普及するまでの代替手段として提案しています。
審査する内容は、本人が、臓器移植について理解したうえで臓器提供の意思があることを表明していたか
どうか、で、多数意見の「忖度」よりも、より具体的なものを求めています。「てるてる案」では、家庭裁判所の審査という方法を、ドナーカードに記入することのない幼いこどもの場合に
適用しました。
本来は、脳死臨調の多数意見が示したように、脳死や移植について理解したうえで臓器提供の意思を
表明していたか、ということを審査すべきですが、本人が幼いですから、そのこどもなりの死生観や
人間観などをみることになります。
審査では、書面・絵画・映像・録音などの具体的な証拠を提出しなければなりません。
口頭で言うのを親が聴いていた、というのも含まれますが、そのこどもが持っていたおもちゃや絵本や、
親子の日頃の生活を知っている人などから傍証が得られなければなりません。
そして、親が、そのこどもの死を受け容れていること、他のこどもの命を救うことによって、そのこどもの
命を終えることを望ましいとしていることが必要です。
本人が脳死を死であると表明していないのに親が本人の脳死を死としていればよい、というのは、
普通では受け容れられません。
しかし、非常に幼いこどもが、長い間脳死状態が続いていたら、あるとき、関係者皆が、もう、終わってもよい、
と思うときが来る場合があると思います。
そのとき、人工呼吸器をはずすという終わりかたもあるし、臓器提供という終わり方もあると思います。
優騎さんへ (1) 投稿者:てるてる 投稿日:12月 6日(水)08時18分05秒
論文は、二つとも、以前より、読ませていただいております。
人の死が画一的に、いわば自動的に、決まったコースにのって扱われてしまうことによって、
関わる人々の心がないがしろにされることが危惧されている、と思いました。>ですから、「脳死は死である」ということが一般に受け入れられてはならないのです。
>脳死という科学的判定基準が、概念としての死の到来に対応すると見なしてもよいという、
>そういった生前の意思表明が確認された場合のみ、脳死を判定基準として採用すべきです。おっしゃるとおりだと思います。
私が、
「脳死は死であるということが社会に受け入れられていると、移植を推進する人々が
おっしゃるのも一理あると思います。」
と書いたのは、移植団体とは関係のない人々の掲示板での会話を読んでいて、脳死を心臓死となにも
区別していない、脳死後の臓器提供をいやがるのは遺体を傷つけるのがいやだからとしか考えていない、
その状況をさして、移植を推進する人々が、脳死を社会が受け容れている、というのは、一理ある、という
ことです。
つまり、「脳死は死であると思っている人々が多い」という判断は正しいということです。これは、
「脳死は死である」という意味でもなければ、「すべてまたは大半のひとが脳死は死であると思っている」
という意味でもありません。
そういうつもりで「一理ある」と書きました。>脳死や臓器移植について十分理解できず、意思表明を行えない場合には、
>それらを行わないという条件が整えられなければなりません。
>この条件が無いと、判断能力のある人がそれの無い人や不十分な人を搾取するという、
>あってはならない事態が日常化してしまう危険性があります。完全に同意します。
きのう、あやまったばかりで、またまた「てるてる案」の話をしてしまいますが…
(もはや開き直り)
臓器提供の意思表示をするためには、登録するか、カードで意思表示するか、どちらかにしています。
登録のほうは、優騎さんも下の書き込みで書いていらっしゃる通りです。
カードのほうも、チェックカードを作り、必ず移植と脳死に関する最低限の知識に触れ、さらにもっと知る
必要があると伝えるようにしています。さらに、カードでは、本人が実際に脳死状態になったときに、
コーディネーターの話を聞いたり、脳死の人を看て、本人の意思表示にもかかわらず臓器提供を
拒否できる人を、本人が生前に指定するようにしています。
コメントその3 投稿者:萩原優騎 投稿日:12月 6日(水)00時59分56秒
●アルキメデスさん
>12歳〜18歳くらいまでは思春期の多感な年代で、
>彼らの意思はかなり揺れ動いているというのが実態でしょう。
>だから(日本では)選挙権も与えないのではありませんか?
しかし臓器移植法においては、民法における遺産相続に関する規定との類比で、
臓器移植に関して15歳という年齢が定められているのが現状です。
選挙権が成人にのみ与えられているというのは、判断能力のある成人を対象とする、
自由主義の自己決定権に基づくものではないでしょうか。
すなわち、自らの行動に対する責任を担いうるという条件です。
ですから、未成年者に判断能力は無いなどということではないのですが、
更に学びを重ねることで判断能力を養うべきであること、
そして自らの行動に対する責任を十分にとれない場合があること、
これらを理由に、自己決定権を成人にのみ認めているのでしょう。
しかし、脳死や臓器移植の問題は、自らの死に関わるやり直し不可能なことであり、
子供の意思表明が認められなければなりません。
意思表明が可能な年齢の基準については、森岡先生へのコメントに書きました。
意思表明が不可能な場合の対応については、てるてるさんへのコメントに書いた通りです。
>心配なのは、今の初等教育に携わる教師の意識・態度・能力の問題と、
>親のそれらの問題です。
森岡先生へのコメントに書いたように、全く同感です。●ヒグラシアカネさん
>子供には判断能力がない、というのがなんとなく大筋になりつつあるのですが、
>私は能力の有無はどちらでもよいと思うのです。
子供に判断能力が無いという見解は明らかに誤りですが、大抵この種の議論では、
判断能力のある成人という条件に基づいて与えられる自己決定権を行使できる、
すなわち、責任を自ら引き受けられるに十分な人の判断能力と、
そうしたものを引き受けられない場合がある人の判断能力が比較されているのであり、
後者を「判断能力が無い」ということと同一視している点に問題があるのです。
判断能力の有無についてはどちらでもよいのではなく、
たとえそれが全く無くても、そうした人々の生命が守られなければなりません。
>脳死判定、臓器提供には家族の同意が必要だ、という前提で私は考えているので、
>どちらにしても親は関与することになると思います。
個人の自己決定は、なるべく尊重されるべきですが、この場合の同意というのは、
何らかの画一的な基準によって自己決定を強制的に受け入れさせられるのではなく、
そこには自発性というものが不可欠だと思います。
つまり、家族は熟慮の上で患者の自己決定を認めないという判断もありうるのであり、
それは患者と家族の関係性に基づく、各々のケースの個別的状況を配慮すべきです。●yukikoさん
>枠組を作る場合には、そのおかしいことをやらねばならないのだと私はおもいます。
>おかしいことをやり通し、自分は自分に対して間違っているのではないか、
>というリスクを背負い、かつ、適切に生き残ることが必要だと思います。
この見解では、臓器移植法の存在自体は正しいということが自明のものとなっており、
臓器移植が、法制化されない状況でもなされうるという視点が欠落しています。
移植法の改正問題も大事ですが、それだけでなく、
現行のものが本当に適切かどうかという議論も、同時に行う必要があるのではないでしょうか。●ゆうさん
>子供の場合は本人の意思なしで臓器を取り出してよい、ということに関しては、
>理論的な根拠はないと思います。それを認めようとするならば、「人間の命には、軽重がある」
>ということを認めるしかないと思います。
>しかしそれは、身体障害者差別へと直結するもので、決してあってはならないことです。
>たとえそれが、障害を負った子を思う親の愛情からくるものであってもです。
基本的には賛成ですが、身体障害といっても様々ですので、「身体障害者」と表現してしまうと、
あまりにも一般化されて、かえって身体障害者への偏見につながると思います。
ここでは、判断能力を持たない人、もしくは不十分な人の場合、と言うべきです。
私の論文では、植物状態や無脳症の人の場合を例に挙げてみました。以上、大変長い書き込み、失礼しました。
なお、私は一日に何回もこのページを訪れるわけではありませんので、
皆さんからのご意見に対する回答が、やや遅くなる可能性がありますことはご了承ください。
コメントその2 投稿者:萩原優騎 投稿日:12月 6日(水)00時58分56秒
●てるてるさん
>脳死は死であるということが社会に受け入れられていると、移植を推進する人々が
>おっしゃるのも一理あると思います。
>そういう、一般の人々に受け入れられるような、要望書が出せるでしょうか…?
一理ありません(笑)。てるてるさんの議論に限ったことではありませんが、
「脳死は人の死か」という類の議論は、私の言葉を使えば、
「科学的判定基準としての死」、「哲学的判定基準としての死」、「概念としての死」、
以上を混同して、それらを比較しているという誤りがあります。
脳死という科学的判定基準における身体の物質的状態変化をどんなに観察しても、
「死」なる概念はどこにも見出せないのです。それは心臓死も同様です。
しかも、この混同は、本来は他者との関係性において判定されるはずの死の到来を、
個人の内部の現象へと還元してしまうという問題があります。
ここに個人閉塞した「死の自己決定」の自明性が生じるのであり、
小松美彦氏の言葉を借りれば、「共鳴する死」が見失われることになるのです。
この問題は、改正派の議論においても全く無自覚なままなのですが、反対派も同様であり、
その点に気づかないままに議論を進めてしまうと、てるてるさんの主張も結果としては、
改正派の詭弁を支えることになってしまうのではないでしょうか。
ですから、「脳死は死である」ということが一般に受け入れられてはならないのです。
脳死という科学的判定基準が、概念としての死の到来に対応すると見なしてもよいという、
そういった生前の意思表明が確認された場合のみ、脳死を判定基準として採用すべきです。
>こどもがほんとうに幼ければ、ほとんど(そのこどもの気持ちを聞いて考えた)
>親の決定に任せていいですし、こどもの年齢が上がるほど、
>こども自身の判断を尊重する必要があります。
>しかし、親子の関係のなかで、親が、
>強い気持ちでこどもの決定をおしきってしまうことがあっても、いいと思います。
子供に十分な情報提供を、というのは賛成ですが、上の見解は一歩間違うと、
危険な優生思想へと突き進んでいくものだと思います。
これは、てるてるさんの議論が、自己決定権へのかなりの楽観論に依拠しているためであり、
脳死や臓器移植について十分理解できず、意思表明を行えない場合には、
それらを行わないという条件が整えられなければなりません。
この条件が無いと、判断能力のある人がそれの無い人や不十分な人を搾取するという、
あってはならない事態が日常化してしまう危険性があります。
>そういうこどもが、移植については、理解していなくても、
>そのこどもなりに「いきる・しぬ」というようなことについて言っていたことを
>親が聴いていて、それを、もし、こどもが「脳死」状態になったときに思い出して、
>移植のための臓器提供がこどもの気持ちにそうような終わり方だと思ったら、
>そういう場合があって親からの申し出があったら、ということです。
この見解は、臓器移植法が制定される前から、その案の中で触れられて問題になった、
「本人の意思を忖度して判断し承諾可能な具体例」に挙げられていた、
「本人は臓器提供について何も言っていなかったが、もし聞いてみたら、
本人の平素の言動からみて臓器提供の意思を表明したと思う」という項目に、
あまりにも酷似しているのではないでしょうか。
これは、臓器移植を積極的に推進する論拠として用いられてきたものなのであり、
てるてるさんが本人の意思表明の確認に基づく臓器移植を重視するのであれば、
なぜこのようなことを書いてしまうのでしょうか。●le pissenlitさん
>まだ腑に落ちないのは臓器を人に与えたいという人の自由意思が尊厳死なのか
>自殺なのかまだ回答がでないのです。
これは、脳死判定によって死の到来を判定し、臓器摘出を行ってよいという、
生前の意思表明についてでしょうか。
尊厳死が自殺かという議論はあり得るとしても、
尊厳死についての自己決定は、自らの死に方についての決定であり、
死亡確認後の臓器提供を行うかどうかについての自己決定とは別問題です。
>それも親としてそれだけの権利を行使できると思える関係を
>日頃とれている人は子供の意思を自分の自己決定としてリスクを持ちながら
>応えられるのでしょう。そうゆう環境が分かち合いを促し,
>一つ心を持つ共同体の意思としてその子供の尊い命を受け止め
>他の生きようとする未来ある子供の命を配慮できるのでしょうか???。
ある親子がこのような関係性にあるということを、どのように判定するのでしょうか。
その基準が無いのであれば、親が子供を所有物扱いしている場合と区別できず、
親の自己決定が濫用される危険性があります。
それ以前に、親にこうした権利が無いことは、てるてるさんに対して書いた通りです。
コメントその1 投稿者:萩原優騎 投稿日:12月 6日(水)00時57分43秒
3日、4日の皆さんの書き込みについて、簡単にですがコメント致します。
スペースの都合上、お手数ですが下記の拙稿を上から順にご覧になった上で、
それぞれのコメントを読んで頂けるとありがたいです。
http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/hagiwara01.htm
http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/hagiwara02.htm●森岡先生
>私がいまいち分からないのは、子どもの場合、「本人が意味ある意思表示をできないのなら、
>他人の意思で臓器を取れる」という考え方です。
>その考え方で子どもからの摘出をokするのなら、
>知的障害の成人の場合もまた同じ論理で臓器を取れることになります。
>それは、結局、ドナーカードをもたずに昏睡状態になり、
>脳死になった成人からも同じ論理「意思表示できない」で臓器を取り出すことを
>許すようになってしまうのではないでしょうか?
その通りです。これはパーソン論が、意識が無い、または意思表明を行えない人を人格と認めず、
生存権を与えないという問題と関わるものです。
しかし、生存権を定義変更すれば、彼らにもその権利が認められることになるのであり、更には、
たとえパーソン論がこの変更を受け入れないとしても、森岡先生ご自身がおっしゃるように、
生存権の否定が彼らの生命を奪うことの正当性を保障することにはなりません。
>6歳から14歳までの場合は、親の承諾のほかに、
>「本人の意思表示が、本人のものと推定できる」ことを、第3者、たとえば裁判所、病院の
>倫理委員会が即刻確認するという手続きを入れたらどうでしょうか?
>虐待の場合とか、親が偽造した場合などのチェックに(ある程度)なると思われます。
子供の成熟度は個人差があるので、それを画一的に定めることが望ましくないというのも、
私が臓器移植法そのものに肯定的でない理由です。その他の理由は論文に書きました。
法制化されない例外的行為として臓器移植を位置付けるならば、
画一的な年齢基準を定めずに、各々の事例の個別性を重視する可能性が出てくると思います。
では、どのように子供による意思表明の有効性を決定するのかということになりますが、
実はこの種の議論を、私の論文に質問を寄せてくださった方と最近メールで行いました。
その方のご意見は、思い切ってドナーカードを廃止し、
それ以前のような、臓器提供希望者の登録制にしてみては、ということでした。
この見解に対する私の考えは、次の通りです。
森岡先生のおっしゃる「死の教育」や、子供の成熟度の判断を行うのは、一体誰なのでしょうか。
学校で「死の教育」を行い、ドナーカードを配布するという案もありますが、
学校教育が特定の見解に基づいてなされたり、ドナーカードの配布自体が、
臓器提供者の増加という想定に基づいてなされたりする危険性が極めて高いです。
家庭での教育の場合、十分な説明が親からなされないままに、特定の宗教信仰上の理由だけ
から、子供の見解が引き出され得るという問題があります。
それ以上に、大多数の人々が脳死や臓器移植の問題の現状を理解していなく、
脳死などの判定基準についての知識も十分でない状況では、
親が十分な「死の教育」を行えるかは疑わしいです。
そうなると、自己決定権のある成人の意思表明さえ、
ドナーカードのような簡易なものでは不十分であるように思えます。
その点を考慮するならば、臓器提供者の登録制の方が望ましいのでしょうか。
この場合、登録段階で、脳死や臓器移植の問題についての現状認識、
脳死や心臓死といった判定基準についての知識などのチェック項目を用意し、
登録希望者がそれらを十分に理解しているか、担当者が判断した上で、
登録の有無を決めることができます。
そうすることで、脳死判定や臓器提供の希望者は、かなり減るでしょう。
しかし、脳死判定や臓器移植が、本人の十分な理解の上でなされるべきものである以上、
他に望ましい手段が無ければやむを得ないのかもしれません。
現状においては、人々があまりにも気軽にドナーカードに記入しているように思えます。
十分な知識が無いままに、あのように簡易な方法で意思表明を行うことが、
本当に正しいのでしょうか。少なくとも私には、そうは思えません。
そんなのは本人の勝手だ、というのは自己決定権という言葉の濫用に過ぎません。
自己決定は、決定の対象について十分に理解した上で認められるものであり、
日本社会の現状は、この条件から程遠いような気がします。