森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2000年08月01日〜08月21日

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パラダイム 投稿者:てるてる  投稿日: 8月21日(月)06時50分54秒

「パラダイム」とか、「パラダイムの転換」という考え自体、西洋の科学の伝統から
出てきた考え方であって、考えの土台のすえ方には、他の方法もありそうな気もしますが…

レス 投稿者:てるてる  投稿日: 8月21日(月)06時44分23秒

>さしみ様
こちらこそ、これからもよろしくお願いします。

いろいろ情報を集めては、整理できないうちに、掲示板に連続投稿して、
どないしたらええんや…とアタマをかかえているという次第…
レスがつくと、ほんとにありがたいです m(_ _)m

>ゆうさま
はじめまして。

>でも、世界で標準であったとしても、それは最初から世界標準であったわけではなく、
>はじめは一つの意見に過ぎなかったはずだと思います。

私もそう思います。

「脳死」という概念を認めるのは、一つのパラダイムの転換である、という意見も、
人から聞いたことがあります。
しかし、この「パラダイム」の転換は、「脳死」という概念を必要とする人々がいるからこそ、
承認されるのではないでしょうか。
たとえば、地球が丸いということも、帆船に乗って、香料を求めに行く人々がいたからこそ、
受け入れられていったんではないか、なんてことも思います。
まあ、それだけではないでしょうが。
法王の承認、ということは、ほんとに大きいと思います。


ソーシャルワーク関係における「自己決定」 投稿者:yukiko  投稿日: 8月21日(月)01時03分21秒

「自己決定」についての文章がありましたので、ご紹介。
ソーシャルワークにかぎらず、日常の人間関係の中でも生かせるのではないでしょうか。
最終章では「ささえあいの人間学」から,森岡さんの自己決定論が引用されています。

http://www.asahi-net.or.jp/~LC1T-KYM/swjiko.htm


さしみさん 投稿者:yukiko  投稿日: 8月21日(月)00時14分20秒

「臨床死生学」のぬで島次郎さんのご論文に興味があります。
わたしは、9月になれば、国会図書館に行けるのですが、それまでに、なにか
お力添えがいただけるのでしょうか?

「臨床死生学」雑誌 投稿者:さしみ  投稿日: 8月20日(日)13時18分09秒

「臨床死生学」雑誌に興味がおありの方,もしかしたら何かお力になれるかもしれません。
ただし,ご希望に添えないときはごめんなさい。

てるてる様 投稿者:さしみ  投稿日: 8月19日(土)20時18分08秒

先日は,勝手に勝手な書き込みをしてしまい,「もし相手にしてもらえなかったらどうしよう
...」と,一瞬緊張が走りました。でも,いろいろとご返答いただき,ありがとうございました。
また,いろいろと情報交換していただけたら嬉しく思います。よろしくお願いします。

脳死とキリスト教 投稿者:ゆう  投稿日: 8月19日(土)01時14分52秒

初めて訪れました。学生です。明日朝早いのに、読み始めたら引き込まれてしまって、
書き込みしたくなりました。
>脳死が死であることは科学的な事実
とトリオ・ジャパンでは語られていますが、これを読んで僕は「えっ?」と思いました。
なぜなら「死」とは僕は決して科学や医が決めるべきものではないと思っているからです。
「全脳死はこういう状態、脳幹死はこういう状態の事を言いますよ。」と言う事実を
提示するのが科学や医の役割であり、それをどう解釈するかは、人間全体でなすべき事です。
「世界で常識だから日本でも認めるべきだ・・・」と言う考え方に立っていては、じゃあ
日本でやっている議論は何なの?と言うことになってしまいます。もちろん世界の常識
という点を全く無視するという意味ではないです。でも、世界で標準であったとしても、
それは最初から世界標準であったわけではなく、はじめは一つの意見に過ぎなかったはずだと
思います。何が言いたいかというと、脳死問題に関してはアメリカ、つまりキリスト教を
背景とする国で受け入れられたのが大きいのではないでしょうか、ということです。
もし法王が「脳死は死でない、脳死移植もだめだ」と言っていたならそれは当然アメリカでも
受け入れられず、それが世界標準になっていたのでは、という気がしています。
だから、なし崩し的に脳死移植拡大という方向に突き進んでいる日本は、何かがおかしい
と思います。

ぬで島次郎さんの論文 投稿者:てるてる  投稿日: 8月18日(金)16時55分37秒

「臨床死生学」に載っている論文は、現行の臓器移植法への批判を主な内容としている
ようですが、そのもとになっているのは、もしかして、1991年に、
生命倫理研究会が提出した、「臓器の摘出に関する法律・試案」でしょうか。
この試案には、ぬで島さん、中島みちさん、立花隆さん、石原明さん、中山研一さん他の方々が
参画されています。
生きている人、死者、脳死状態の人からの臓器摘出について、脳死を死としない立場で
試案が作られています。
「不自然死」の項目では、「異状死体」の扱いについてとりあげていますが、
これは、このサイトの「臓器移植法改正案に反対します」コーナーのぬで島論文紹介文の
「異常死」のことなのでしょうか。

臨床死生学 投稿者:森岡正博  投稿日: 8月18日(金)13時57分42秒

大学関係の方は、図書館の他大学コピーサービスで読むことができると思います。
大学にコネのない方は、どうすればいいんだろう。公立図書館でも、どこかに入っているんじゃ
ないのかなあ・・・。もちろん国会図書館にはあるはずですが。

「臨床死生学」 投稿者:てるてる  投稿日: 8月18日(金)10時06分15秒

「臓器移植法改正案に反対します」コーナーで紹介されている、ぬで島次郎さんの論文が
載っている、「臨床死生学」という雑誌ですが、NACSIS Webcatで検索したところ、
この雑誌を所蔵している図書館は、東京医科大学図書館だけのようですが…。

移植を受けた方や待っている方々は… 投稿者:てるてる  投稿日: 8月17日(木)19時23分01秒

連続投稿を繰り返してすみません。

トリオ・ジャパンのことを何度も引用しましたが、他にも、移植患者さんの団体はあって、
たとえば、日本移植者協議会などは、また別の路線をとっています。
私の投稿のせいで、まるでトリオ・ジャパンだけが移植患者団体であるように受け取った
方もあるかもしれません。すみません。

それにしても、移植患者さんたちは、森岡サイトを見て、どう思われているのでしょうか。

先日、NHKで、ユーゴスラビア空爆のときに、ベオグラードに住むセルビア人の女性と、
世界の人々とがメールで対話したことが放送されていました。彼女に共感する人もいれば、
コソボ難民のことをとりあげて非難する人もいました。

とにかく、対話ができた、ということがすごいと思います。

臓器移植でも、そんな対話ができないでしょうか…



さらにごめんなさい 投稿者:てるてる  投稿日: 8月15日(火)22時09分24秒

>さしみさん
>統一した死の定義は法律で定めるといった性格のものではないとわたしは考えます。
と書いてらっしゃるのに、
>問題は、死の認定を、国で統一して、すべての人が脳死を死と認定することを
>法律で決めるか、ひとりひとり、好きにしてもいいと法律で決めるか、です。
と書いたのでは、なんにもなりませんでしたね…

でも、やっぱり、法律上、その人が死者となるか、ならないか、という問題です。
死者と認めたくない、という人がいるから、認めてもいいよ、という人だけ、
死者と認めることにしよう、というか、
それじゃだめだ、全員、死者と認めるか、
全員、死者と認めないか、
二つに一つだ、
というか、
の問題です。

3年前は、とにかく、臓器移植をするためには、認めてもいい人だけ、
脳死を死とすることにすれば、いいじゃないか、という意見が通ったけど、
今では、それでは、臓器移植がふえない、やっぱり全員、脳死を死と認めることにしなくちゃ…
と移植患者さんの団体はおっしゃるのですね。
でないと、外国に移植手術を受けに行かなくちゃならない、すごくお金をかけて…


補足 投稿者:てるてる  投稿日: 8月15日(火)21時45分08秒

トリオ・ジャパンでは、臓器提供をふやしたいからとは言わず、
脳死が死であることは科学的な事実であるから、人は、臨床的脳死状態になったら、
脳死判定を拒否できない、としています。
でも、現行法がそうなっていないから、臓器提供がふえない、とは言っています。

脳死の判定と死の認定 投稿者:てるてる  投稿日: 8月15日(火)21時40分54秒

さしみさん、はじめまして。
ずれていません。おっしゃるとおりです。
問題は、死の認定を、国で統一して、すべての人が脳死を死と認定することを法律で決めるか、
ひとりひとり、好きにしてもいいと法律で決めるか、です。

トリオ・ジャパンや、町野さんは、国で統一して、すべての人が、臨床的な脳死状態になったら、
脳死判定を拒否せず、その結果、脳死と判定されたら、死と認定するべき、と主張しています。
トリオ・ジャパンの1997年のニュースレターの「脳死は人の死か?」Q&A では、
脳死判定を患者や家族が拒否してはならない、医師の診断を拒否することはできない、
としています。ことし三月に政府に出した要望書では、脳死を死とすることを要望しています。

町野さんは、脳死という実体があるのに、臓器提供をするかしないかで、脳死判定をするか
しないかを分け、脳死判定の結果、脳死と診断された人だけが脳死者になる、ということは、
問題である、と述べています。

それに対して、現行法は、脳死を選択することを認めている。
しかし、現場の医師は、混乱しているみたいです。
そして、自分で脳死を選択する能力のないこどもからの臓器移植は不可能になっている。

脳死は死であり、臨床的に脳死と診断された人はみな、脳死判定を拒否できないとすれば、
脳死のこどもは、死者となり、親は、臓器提供を承諾するかしないかを、死んだこどもの
こととして、考えることができる。
しかし、脳死判定をしないかぎり、生きている人として扱ってもよいということにしておくと、
親は、こどもに脳死判定を受けさせるに忍びず、結果的に臓器提供をする数がずっと減るであろう。

だから、脳死は死であり、脳死判定はだれも拒否できないようにしてほしい、
というのが、トリオ・ジャパンの主張です。


感想 投稿者:さしみ  投稿日: 8月13日(日)22時41分17秒

はじめまして、さしみと申します。
いきなり飛び入り参加で、トンチンカンな発言かもしれませんが、どうかお許しください。

急いでざ〜っと掲示板を読ませて頂いた(すみませんホントはゆっくりじっくり読んでから投稿しようと思ったのですが)感想から申し上げます。

全体的に、なんとなく、「脳死と判定基準の混同」を感じました。(中途参加だからでしょうか?)わたしは、「脳死とは、脳幹を含む全脳髄の不可逆的機能喪失の状態」をいい、「判定基準とは、定義された脳死を臨床的に診断するための基準である」と認識しております。
しかし、これらは、当たり前のことかもしれませんが、「死の概念の提唱ではない」と思っています。「死」という現象のプロセスと「脳死」判定基準という死の点状判定について少し触れるとすると、脳機能の不可逆的停止を人の死とみなすかどうかということは、医学上の基準に照らして判定はできるものの、その判定がイコール人としての死であるかどうかはまた別問題であり、社会的、文化的価値判断等諸要素を勘案する必要があると思います。統一した死の定義は法律で定めるといった性格のものではないとわたしは考えます。

「死」をどう受け入れる、死の認定、あるいは、受容といったこととは本質的に分けて考える必要があると思いました。

やっぱり少し論題からはずれていたかもしれませんが、お許しください。また遊びにきます。


死の定義は重要か 投稿者:マンソンジュ  投稿日: 8月13日(日)13時40分37秒

高度で専門的の議論について行けてないのですが、2点思うことを記します。
1.死亡カードを義務づけよう
  私の死は、心臓死か脳死か、脳死なら判定基準は何かを自己申告したカードを全員が
  携行してはどうでしょう。
  (7割冗談が入っていますが、3割本気です)
2.死=臓器移植の条件、とする必然性はあるのでしょうか。
  たとえば、1ケ月後に死ぬ予定の人が本人が了解のうえ生前に移植して、どう倫理的
  に問題なのでしょう。
  結局は、社会的文化的なコンセンサスの問題なのでしょうが。

RE:RE:ドナーの思いとは 投稿者:てるてる  投稿日: 8月13日(日)11時07分15秒

命の連続性云々については、過去ログの、
「家族との話し合い 投稿者:てるてる  投稿日:02月09日(水)00時41分02秒」
で、以下のように書いています。

>私は、もし、自分が脳死状態になったとき、家族が自分の代わりに息をしてくれるわけで
>はない、というように考えています。そして、もし私が臓器をだれかに提供したら、ある
>意味で、その人が、私のぶんまで、息をしてくれるのだ、と、一種の物語的な、あるいは
>詩的なとらえかたで、考えます。それを命の連続性として受け入れる気持ちが、ありま
>す。

まあ、私はこう思います、ということで、他の人に理解してもらおうとか説得しよう
とか納得させようとかいう気持ちはないのですが。
要は、人それぞれ、いろんな考え方がある、ということが言いたかったのです。
翠さんの、考え方も、もちろんあるし、いろんな方の考えを知ることはうれしいです。


RE:不安定さ 投稿者:てるてる  投稿日: 8月13日(日)10時58分07秒

私も、心臓停止を一律に死と定めるという方法があると思います。
しかし、脳死を死とする、という方法もまた、もっと、可能性を持っているのかもしれない。

脳死後の臓器提供は、脳死状態の患者本人のための医療でなく、移植待機患者のための医療、
脳死体の利用、として、医療費の名目が立ちます。
脳死後の看護も、脳死状態の患者本人のための医療でなく、看取り手のための医療、
看取る人のための精神的ケアとして、医療費の名目を立てる。
健康保険は、脳死後の移植に適用するとしたら、脳死後の看取りにも適用する。
その健康保険の名義人は、脳死患者本人ではなく、看取り手や、移植待機患者になる。
もっとも、はじめから、脳死患者がこどもでその健康保険の名義人が親であるという場合もある。

という考え方もできるかと思います。

しかし、中山研一さんや中島みちさんは、「脳死」を「死」とした場合に、「脳死体」が
死体解剖保存法の適用対象となり、解剖や人体実験などの利用の対象になるかもしれない、
という点を指摘しています。


RE:ドナーの思いとは 投稿者:翠  投稿日: 8月13日(日)02時31分54秒

ちょっとカメになりましたが…
>「ドナーが死後自分の臓器を提供して、レシピエントの中で
>生き続けたいと願っている」
というのは、わかるようでいて実は私にもよくわかりません。
一方、てるてるさんの「詩的文学的な意味においての命の連続性」というのも、
私にはちょっとわかりづらいのですが…。

愛する者の身体の一部が、たとえ他人の身体の中であっても生き続けて欲しい、
と願う家族の気持ちなどはわかる気がします。
でも、自分の身体の一部が他人の身体の中で(ある意味SF的な状況で)
「生き続ける」ことを願う…というのは、ちょっとわからない。
たとえば、詩人が一編の詩を遺すことによって、自らが死んでも別の生命へと
「いのち」をつないでゆくことを願うように、ドナーも限られた自分の「命」を
「いのち」にかえて別の生命へとつないでゆくことを願うのだと解釈する方が
私にはしっくりくるような気がするし、それが「命の連続性」ということなのかな、と思いました。


法と価値観 投稿者:翠  投稿日: 8月13日(日)02時30分43秒

「論座」での町野さんの発言は、全体としては意味不明(私には)でしたが、
部分的には首肯けるものがありました。
たとえば、死の相対化を認めるのならばもっと選択の幅を広げるべきというのは、
(町野さんはそれがいいと言ってるわけではないですが)
私にはもっとも共感できるところでした。
法が価値観を押し付けるものだというのは確かに一つの考え方だし、
押し付けられる方もある意味、それが一番楽だろうとも思います。
でも今後、医療技術の発達と共に人間の価値観が多様化・変化してゆく事を考えれば、
やはり「脳死か心臓死か」という二者択一の議論だけでは不十分だろうし、
そんな場面で「価値観を押し付ける」だけの法律がはたして通用するのだろうか?と思います。

不安定さ 投稿者:森岡正博  投稿日: 8月13日(日)01時51分21秒

なるほど。でも、個人の意思を越えた客観的な基準がほしいのだったら、ほぼ誰も文句を
言わない「心臓が止まって身体が冷たくなったら死んでいる」という基準を決めればいい
ということになるのではと、思います。

平等と客観性 投稿者:てるてる  投稿日: 8月12日(土)23時53分28秒

脳死を死とするということをすべての人に「平等に」適応すると、
脳死を死と思っている人は満足して死に、脳死を死と思っていない人は
不満足な死を迎えることになる。
だから、条件は「平等」かもしれないけれど、結果は不平等だと思います。

脳死を死と思う人は死と思い、脳死を死と思わない人は死と思わなくてもいい、
という、
「同じ脳死状態なのに人によって死になったりならなかったりする不平等」
を認めると、確かに、条件は不平等かもしれないけれど、
脳死を死と思う人も思わない人も、満足して死ねる、という意味では、結果の平等が
保障されると思います。


追加 投稿者:てるてる  投稿日: 8月12日(土)23時48分10秒

さらに、以下の点を指摘されています。

また、脳死を死とするが、反対の人には拒否権を認めるとした場合に、脳死を認めない人には心臓死を死亡時刻にするというのであれば、同じ脳死状態の人のあいだで、当事者の「受容」によって二つの死を認めることになり、反対に脳死を死亡時刻とするのであれば、死体に対する治療を認めることになる。


法的不安定の中身 投稿者:てるてる  投稿日: 8月12日(土)23時40分44秒

中山研一さんによると、以下の点が指摘されています。

脳死判定や、人工呼吸器のとりはずしに、患者や家族の同意を必要とすると、脳死を個体の死と認めない人に対して配慮するという点ではよいが、こうすることによって、客観的には同じ脳死状態であるのに、患者または家族がこれを認めるか認めないかによって、死の判定基準と死亡時刻が変わるということになりかねない。
臓器移植を認めるかどうかは本人や家族の意思に任せてよく、それについては自己決定権に
任せるべきである。
しかし、脳死を死と認めるかどうかも本人や家族の意思や自己決定権に任せてよいかどうかということは、全く別の事柄である。
もしも、後者を認めると、生と死の区別が客観的に定まらず、当事者の意思によって決まるということになる。
そうすると、たとえば、植物状態ですでに死であると認める大脳死説の立場に立つ患者から
臓器を摘出することも認めてもよいということになりかねない。
それゆえ、生と死については、個人の意思を越えた客観的な基準が前提とされなければならない。


「満足死」ビデオの依頼 投稿者:さしみ  投稿日: 8月12日(土)20時31分59秒

Whiteさま
「満足死」ビデオの申し込みは、まだ受け付けて頂けますか?
可能であれば、申し込み方法を教えてください。

法的不安定 投稿者:森岡正博  投稿日: 8月12日(土)19時50分47秒

うん、でも、その場合の「法的不安定」とは、具体的にはどのような不安定なのかが知りたい
です。中山さんは、なんておっしゃってますか? 現行法できちんと処理すれば不安定な
ことってのは具体的には起きないのでは? 法理論が不安定になるだけなんじゃないのかな。

脳死判定の意味づけ 投稿者:てるてる  投稿日: 8月12日(土)17時38分11秒

中山研一の著書を読んでいると、脳死選択論や脳死拒否権論は、同じ状態が人によって、
「死」になったりならなかったりすることが、たえがたい法的不安定をもたらす、と
書いてあります。
町野案でも、同じことが批判されていました。

「脳死」(臨床的または法的)の診断を、ここからは「死」とする、というものと
解釈すれば、その批判は正しいかもしれません。

しかし、「脳死」(臨床的または法的)の診断を、ここより以前を「死」と扱っては
ならない、絶対に「生」である、しかし、ここから先は、「生」とするか「死」とするかは、
事情による、というものとしたら、どうでしょうか。
その場合に、本人がいやがっているのに、他人が「死」とすることは許されない。
しかし、本人が、移植のために、「死」としてもらってもかまわない、というのなら、
「死」と認定してもよい。というような、「脳死選択」論が成り立つと思います。


RE:てるてるさんへ & 科学的?? 投稿者:てるてる  投稿日: 8月11日(金)12時42分34秒

私も、ダビング依頼者さんが引用された、kiyokoさんのお考えは大切だと思います。

>「脳死は人の死か?」
中山研一著「脳死論議のまとめ―慎重論の立場から」(1992年)を読んでいたら、
「全脳の不可逆的機能停止の判定は、身体各部を統合する脳の主機能の不可逆的な喪失を
臨床的に判断すること」であるとし、
「脳幹死・大脳死・全脳死という区別についても、医学はその機序の解明はなしえても、
そのいずれを『人の死』とすべきかは医学的実証をこえた社会的な評価の問題である」
と述べていました。


科学的?? 投稿者:森岡正博  投稿日: 8月10日(木)13時20分29秒

てるてるさんが紹介されたトリオ・ジャパンの以下の記述内容

>トリオ・ジャパンの1997年のニュースレターの「脳死は人の死か?」Q&A では、

   >脳死は医学的・科学的見地からは、厳然たる人の死であるというのが、世界の
   >医学界の常識です。

は、完全に誤っています。人の死を「科学」は決めることができません。そのことは、
1980年代以降の生命倫理学での大前提でした。アメリカの大統領委員会の報告書なども、
その立場で書かれていたはずです。この点に関しては、拙著「生命学へ招待」で詳述しています。


le pissenlit 投稿者:濱西栄司  投稿日: 8月10日(木)03時28分23秒

レス遅くなってスイマセン。絵本やCMはネットよりまだ効果あるかもしれませんね。
「学習学試論」についてのご意見もいただきありがとうございます。「低質学習論」を
あえて紹介する方法の是非については、編集委員のあたまを悩ませたようです。HPでは、
学習学における一つのテーマである「子ー親関係」についていま集中的に議論しています。
またいろいろご意見おきかせ願えるとうれしいです。それでは。

http://www1.odn.ne.jp/~cbt25360


てるてるさんへ 投稿者:ダビング依頼者  投稿日: 8月 9日(水)12時42分55秒

てるてるさんの投稿を拝読していて思ったんですが 、以下のkiyokoさんのお考えは大切だと
感じました。

> kiyoko wrote
>1. 臓器移植法は、「臓器移植を受けたい人」と「臓器を提供しても良いと意思表示している
人」との間の
>約束事であるが故に、「臓器の移植を受ける意志がある」「臓器を提供する意志がある」
という意志表示は、
>どちらも絶対必要である。

>2.「臓器移植を受けたい人」と「臓器を提供しても良いと意思表示している人」は、法律上
同等に扱われる
>べきである。(一人の人間がどちらにもなりうるのですから。)

今日わが国において、レシピエント側は医療を受ける患者への様々な医の倫理的対応
(インフォームドコンテスト、ガイドライン等)によって支えられていると考えられますが、
一方、ドナー側にもそれと同等のものが不可欠なのではないかと思えました。


URLの訂正 投稿者:ダビング依頼者  投稿日: 8月 9日(水)12時06分25秒

以下のURL表示が間違っていました。
お詫びと訂正です。m(_ _)m

>ジェンダー論
通産省男女共同参画室のジェンダーインフォメーションサイト。
ご参考までです。

http://www.sorifu.go.jp/danjyo/


さらに、ドナーの思い 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 9日(水)08時17分41秒

>ドナー側から見れば、臓器提供を承認した遺族が、「脳死が人の死ではないのならば、
>故人はまだ生きていたのかも知れない」と考えたら、承諾してしまった事を後悔すること
>になるでしょう。
これについても、脳死が人の死であることを事実として社会的に合意しているとされる
USAにおいても、承諾してしまった事を後悔している人々がいることは、
先日のNHKスペシャルや、
「岩波ブックレット No.497 検証脳死・臓器移植―透明な医療をどう確保するか」
で報告されていることです。

ドナーの思いとは 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 9日(水)08時10分36秒

「ドナーが死後自分の臓器を提供して、レシピエントの中で生き続けたいと願っている」

この件に関しては、私はあてはまりません。
もし、臓器の提供に同意して、ほんとうに脳死状態になって臓器を摘出したとしても、
普通に「心臓死」した場合と同じように、死んでしまった私は、どこにもいなくなって
います。私はそれでいいのです。

前にも、こどもの臓器提供に関して書きましたが、私は、提供した臓器が生体としての
機能を続けているからといって、提供した人の生命が存続している、とは、思いません。
他の人の命を助けている、そのことによって、詩的文学的な意味において、命の連続性に
つながっている、とは、思います。
また、宗教的な意味において、たとえば、人の命をながらえさせる役に立つことが、
死者への供養になるとか、いうこともできると思います。

トリオ・ジャパンの述べていることとは、ニュアンスが違いますし、こういうことは、
人それぞれ、皆、違うでしょう。


追加 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 9日(水)08時00分22秒

さらに、トリオ・ジャパンの1997年のニュースレターの「脳死は人の死か?」Q&A では、
脳死を人の死としないと、
「ドナーにとってもレシピエントにとっても大変不幸な結果を招く」
としています。

>ドナー側から見れば、臓器提供を承認した遺族が、「脳死が人の死ではないのならば、
>故人はまだ生きていたのかも知れない」と考えたら、承諾してしまった事を後悔すること
>になるでしょう。また、レシピエント側から見れば、「ドナーの犠牲によって自分が生き
>ているのかも知れない」と考えるのはとても辛い事です。
>
>「脳死が人の死」であることに疑問が残るなら、臓器提供を受けたいと考えるキャンディ
>デイト(移植を受ける候補者)はいないのではないでしょうか。キャンディデイトは、
>「ドナーが死後自分の臓器を提供して、レシピエントの中で生き続けたいと願っている」
>と信じればこそ、提供された臓器を受け入れる事が出来るのです。

>私たちは、世界的に確立された科学的事実の確認として、「脳死は人の死」として
>法案の中で取り扱うことを、強く要望します。「この問題は、日本の問題であり、
>諸外国の法律や慣習がどうなっていようと関係無い」との反論があるかも知れません
>が、日本の患者さんが海外で移植医療を受けるために渡航するという現実がある以上、
>日本においても移植先進国である諸外国と同じ基準で、移植医療が実現されなければ
>なりません。国際的な横のつながりが必要かつ重要な移植医療において、日本だけが
>何ら論理的妥当性が無いまま「脳死を人の死」としないことは許されません。
>
>「脳死を人の死」とせずに、諸外国で「命の贈り物」として、正々堂々と行われている
>脳死体からの移植医療を、日本において何かやましいところのあるような、コソコソと
>行う医療としてしまうことがないよう願ってやみません。

最後の2行が、患者さんたちの血の出るような叫びのように聞こえてしまいます。


RE:数々の疑問 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 9日(水)07時44分51秒

>死の定義
たとえば、スウェーデンには、臓器移植法とは別に、
「人の死の判定基準に関する法律」という法律があって、
「法律的に人の死とは脳の機能が完全に停止し、蘇生不能な状態に陥ったことをいう」
と規定しています。

ドイツでは、臓器移植法の「死亡した臓器提供者からの臓器摘出」の章で、
「大脳、小脳及び脳幹の総合機能の決定的で疑いのない消失が、医学知識の基準に
沿った手続によって確認されない」
場合は、臓器摘出は許されない、としています。

トリオ・ジャパンの1997年のニュースレターの「脳死は人の死か?」Q&A では、

>脳死は医学的・科学的見地からは、厳然たる人の死であるというのが、世界の
>医学界の常識です。

>心停止後であっても、しばらくは身体各部の細胞が生きています。
>【機能死】をもって脳死とするのが世界の医学界の定説です。

>諸外国の法律は臓器摘出時などにおける混乱を避けるために、
>脳死という科学的事実を単に法律で確認しているに過ぎません。
>ドイツのように、医師の脳死判定に対して、自然死の判定と同じ効力を与えて、
>法律無しに脳死体からの臓器移植をごく普通の医療として行っている国もある
>くらいですから、諸外国において「脳死は人の死」であることは当たり前の
>事実として認識されています。

と述べています。


あのぅ 投稿者:White  投稿日: 8月 8日(火)20時58分06秒

ダビンク依頼者NO2さま。
わたしは、この問題をそんなに深く考えていないので、安楽死、と満足死なんて、
対峙されると、とまどってしまいました。
お役に立てて、よかったです。

「満足死」ビデオ 投稿者:ダビング依頼者  投稿日: 8月 8日(火)14時27分18秒

>Whiteさま
お手数をおかけしまして、どうもありがとうございました。
お言葉に甘えて、実費のみご送付させていただきます。

ビデオを拝見して、「満足死」の実態が伝わってきました。
「一人の死に際して、死に逝く本人のみならず、家族、医療者、福祉関係者など、取り巻く
すべての人が満足できるような状況」をいうようですね。
ちょっと「安楽死宣言」のような感じもしました。もう少し問題を掘りさげてみても良かったのかなと思いました。出演されている方々がご高齢者揃いで、打ち合わせ不足のためでしょうか、森岡先生にも少し戸惑いがおありになったような印象でした。

少し前の毎日新聞(平成12年5月12日朝刊)では、「ライフケアラボ研究室」というところが『私の意志表明書』というのを出版しているという記事が載っていました。
これは、体の機能や判断力が衰えた晩年に、どんな医療や介護を受けたいか、どんな告別式をしてほしいかなどについて、事前に自分の意志を明らかにしておくためのマニュアル本だそうです。
作成の目的や記入方法などについて説明したものが1冊(A)と、実際に意思表明を行うためのテキストが2冊で、計3冊。癌告知を受けたいかどうか、延命治療や生命維持装置の使用を希望するかどうか、移植手術のために自分の臓器を提供するかどうか、臨終を迎えたい場所は、など(B)、(C)は葬送に関する意志の表明に関するものだそうです。

また、書店で『満足死宣言』(根岸利幸他 著、日本評論社、東京、2000年6月10日発行)と
いう本もみつけました。今、斜め読みしただけですが、疋田医師の提唱されている「満足死」の概念に通じる内容、実践です。

>ジェンダー論
通産省男女共同参画室のジェンダーインフォメーションサイト、ご参考までです。

http//www.sorifu.go.jp/danjyo/


いろいろ 投稿者:le pissenlit  投稿日: 8月 7日(月)22時21分41秒

kiyokoさんの数々の疑問の前の絵本のお話について
濱西さん
「他とちがったところをどこまでもお互いに保証していく」という森岡先生の姿勢にある
ように多様な見解で考える材料をありがとうございました。
濱西さんの情報も参考になりました。

現代文明の論文も読ませていただきました。今本業に専念することありで学習学試論に
ついて反応がとりあえずしか言えませんが、質の低い意見、提案、議論の役割は理解を
深めるのにダイナミズムと方向性を際立たせるために大切だということおもしろいでした。
学習者が自分の経験を教材にして事実や価値を認めそれに対する心の動きに気づき、
他の関連で内省したり、自分に出きる選択肢を選んでいくようなプロセスの中で
教師と共に歩むのでしょうが、いつのまにやら教育の視点に変換するリスクを
語っているのもおもしろいでした。


臓器提供の問題点指摘CMor絵本 投稿者:濱西栄司  投稿日: 8月 7日(月)03時17分32秒

ほんきでつくってみるきありません?森岡さん。みなさん。

http://www1.odn.ne.jp/~cbt25360


臓器提供絵本 投稿者:濱西栄司  投稿日: 8月 7日(月)03時14分03秒

塾の生徒さん(高3:医学部志望)が、持ってきていましたので私も絵本を見ました。
ですが、あの内容はひどいものだと思います。臓器提供と臓器被提供の良さだけが強調されています。「どのような考え方も尊重されます」と小さく小さく申し訳程度にかいてありますが。
 おなじようなものとして、例のモノクロテレビCMがありますよね。「あなたの意志を携帯してください」と最後に言われてはいますが、「臓器提供しなくちゃおかしい」という感覚を視聴者の無意識に植え付ける強烈な働きをもっているように思います。
 わたしは、「中和」すべく、逆の内容のCMがでてくることを期待しています。
良く考えたら、自分達でつくればいいんですよね、CM。お金がかかりますね。

こどもに臓器移植を説明する絵本 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 6日(日)19時37分09秒

日本臓器移植ネットワークが、小中学生に臓器移植を説明するための絵本リーフレットを
作成・配布しています。
これはいい考えだと思います。
脳死について、移植について、こどもに伝える絵本は、さらにもっといろんなものを作る
ことができると思います。
こどもが臓器提供について自分で考えるために、絵本や児童文学は、助けになると思います。
もともと、生や死について、こどもに伝える作品はたくさんあると思います。
こどものためのドナーカードを作ることも、不可能ではないと、希望が持てます。

http://www.jotnw.or.jp/news/news_ehon.html


家族の忖度 投稿者:てるてる  投稿日: 8月6日(日)15時16分42秒

町野案でも、トリオ・ジャパンのセミナーやニュースレターでも、家族の忖度を認めること、
家族の同意で臓器の提供ができることが必要であると述べられています。

現行の移植法のもとでは、本人が臓器を提供する意思があることを、臓器提供意思表示カード
に記入している場合だけ、移植コーディネーターに連絡しているはずです。

しかし、本人が臓器提供意思を表示していなくても、家族の忖度を認めるとなると、「臓器を
提供していません」と記入した臓器提供意思表示カードを持っていない限り、移植コーディ
ネーターに連絡する、ということにもなりうるのでしょうか。そして、移植コーディネーター
に、家族への説明をさせるのでしょうか。

これは、臓器提供への説得・誘導になるのではないでしょうか。

もし、家族の忖度を認めるとしても、移植コーディネーターの出番は、後回しにして、まず、
yukikoさんのソーシャルワーカー論に書かれているように、医療ソーシャルワーカーが、
家族に、脳死の人の看取りについての説明をし、選択肢の一つとして、臓器提供もある、
ということを示すのでなければ、そもそも、看取りの医療が成立しないだろうし、家族への
人権侵害になる可能性があると思います。

しかし、家族が、ソーシャルワーカーの説明を拒む場合もありましょうし、家族が自発的に
臓器提供を申し出た場合、その家族が、脳死の人とどんな関係を結んでいるのか、家庭裁判所等
で審査でもしない限り、今度は、家族による、脳死の人本人への人権侵害の可能性も防げない。

私としては、看取りの医療の確保においても、脳死の人への家族による人権侵害を防ぐ
ためにも、本人が臓器提供意思を表示していない限り、移植の話を進めてはならないし、
家族の忖度を認めてはならないと思います。

外国では認めているから、というのは、理由にならない。外国では、本当にちゃんと
人権侵害にならない方法で、家族の忖度による臓器提供ができているのでしょうか?


脳死判定以後のレシピエントとの関係 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 6日(日)14時26分58秒

森岡さん、お答えいただき、ありがとうございました。m(_ _)m

同じくp.52では、脳死判定以後の看護について、

「『患者の身体を清潔に拭く』という看護は、脳死の人の尊厳を守るという目的に加えて、
家族が脳死の人のきたない身体を見て心理的動揺を起こさず、無事に患者の死を受容できる
ことを願ってなされるのです。そしてそれは看護者自身が患者と別れるための行為ともなる
でしょう。」

と書かれています。

これは、移植のための臓器摘出をする患者さんの看護では、もしかしたら、ちょっと無理かも
しれないのではないでしょうか。感染の危険を最大限に防ぎたいだろうと思うのですが…

ところで、臓器提供の意思表示をした患者さんが法的脳死判定を受けたら、その時から、
臓器の移植を受ける患者さんとの新しい関係が始まると考えることができるのですね。

「脳死の人」では、p.66-68の「匿名性のベール」の章で、脳死の人は、不特定多数の未知の
人々と、コンピュータ・ネットワークのなかで緊密な関係を結ぶことになる、と書かれています。
これは、臓器移植を円滑に行なうための目的志向的なものです。

この段階では、「脳死の人」はもう「死者」なんですけれど、目的志向的なものは一時的な
ものとして、そのあと、レシピエントとの関係をできるだけ人間的な、個別的なものとして
結び直すことができるのではないでしょうか。
移植手術後に匿名性を取り払うことで、移植に関わった人々の間で記録と共に記憶に留める
ことができるのではないでしょうか。
また、臓器の状態などの理由で移植が中止になったとしても、研究用に使うことで、
社会との関係を記録とともに記憶に留めることはできないだろうか。

などと、私は思うのです。


お答え 投稿者:森岡正博  投稿日: 8月 6日(日)13時37分55秒

「脳死の人」は1989年に書かれたものです。つまり、現行移植法成立よりはるか以前の
こと。
このころには、臨床的脳死判定と法的脳死判定の区別など、まったく論点になっていません
でした。だから、その点は、「あいまい」に書かれています。いまからふりかえれば、臨床的な脳死判定なんでしょうかねえ・・・。このあたり、現実とのずれが生じてきていますね
たしかに。

「脳死の人」についての質問 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 6日(日)08時54分25秒

「増補決定版 脳死の人」のp.50の図4、および本文での「脳死判定」を私は臨床的な脳死の
診断と思っていたのですが、これは、法的脳死判定のことだったのでしょうか。

私は、臓器提供意思のある人の家族が、法的脳死判定を受け入れるまで看取りの時間を確保
するべき、そのためにソーシャルワーカーもケアするべき、と思っていました。そして、その間、集中治療室での積極的な医療を続けるべきであると。臓器移植ネットワークもそのような考えでいると思っていました。

しかし、少なくとも、「脳死の人」については、これは私の読み間違いで、森岡さんは、法的脳死判定のあと、家族の看取りの時間を確保するべき、と書いてらっしゃったのでしょうか。

今頃こんなことをお聞きしてすみません。

yahoo掲示板で「脳死の人」のことを書いたのですが、臨床的に脳死と診断した後に看取りの
医療をすることと解釈して紹介しました。もし、まちがっていたらすみません。
m(_ _)m m(_ _)m

p.51の5-10行を読むと、法的脳死判定のことだったと解釈するのが正しいようですね。移植のための臓器の管理と書いてある。

ごめんなさい! m(_ _)m


満足死ビデオ 投稿者:White  投稿日: 8月 4日(金)18時00分59秒

のダビング依頼を頂いた、二人の方へ。
今日、定形外郵便にて発送いたしました。多分月曜着でしょう。

ダビングしながら見てたらこれは、やはり見る価値ありだな、と再認識した。

あと1週間くらい受付します。でも、もし殺到したら疲れるので、残り先着8名さま限りとします。
経費は郵便料金270+テープ代130=400円でした。切手を送ってください。


脳死判定 投稿者:森岡正博  投稿日: 8月4日(金)09時58分15秒 将来の技術のことを言うのなら、私がすでに1994年に下記の論文で指摘したように、
人工臓器技術の発達によって脳死ですら判定できなくなります。なんで、私のこの論点が
メディアの議論でずっと無視されたままなんでしょう(T_T)。

http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/library01/no.htm
http://lifestudies.org/jp/no.htm


心臓死 投稿者:森岡正博  投稿日: 8月 4日(金)09時54分08秒

たぶん、脳死の対概念は、「身体死」すなわち全身の循環動態停止(=血液が流れなくなる
こと)だと思います。「心臓死」という言い方をすると、脳死論者(脳死は普遍的に人の死
である)から足をすくわれると思います。

脳死判定基準 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 4日(金)08時22分52秒

臓器移植法制定前には、日本弁護士連合会が意見書を提出して、竹内基準とは別のものを
提案しています。日弁連は「脳死」を人の死としないことにしています。
死亡時刻については、
「脳死状態からの臓器移植がなされた場合でも、その死亡時刻は心臓停止、呼吸停止、
瞳孔散大の三徴候により判定されたときとすること」
としています。
心臓を摘出したらどうなるの…ということは書いていないのね…(/_;)

ちなみに、将来、完全な人工心臓が開発されたら、その人工心臓を使っている人の死は、
脳死で判定するしかないと、いう人もいます。


なぜなら 投稿者:White  投稿日: 8月 4日(金)08時20分43秒

恋をしているときは、頭は痛くない、ただ胸がいたい。

わけわからなくなってきた 投稿者:White  投稿日: 8月 4日(金)08時07分13秒

kiyokoさんこんにちは。
>心臓死そのものは存在しないのですね。
この論理は、心臓そのものにその人の存在を位置づけておられるのですね。
ドナーの心臓が生きているので、ドナーの心臓死は存在しないというのなら。
受け取った方の古い心臓は摘出廃棄されるので、レシピエント本人は心臓死している、という事になるかもしれませんね。

わたしは、ドナーから心臓が摘出された瞬間が、ドナーの心臓死だと思っていました。

でも心臓の方に人格があってもおかしくないと思う。


人の死って何? 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 4日(金)07時26分10秒

私も今、非常に惑い、悩んでおります。

一つには、今まで、「脳死」を死としない立場で案を作ってきましたが、法的脳死判定を
受けた後は、法的にも「死」としたほうがいいのかもしれない、と思い始めたこと。

「脳死」を、臓器提供する場合でも、法的な「死」としないという、今までの「てるてる案」の立場はどうもおかしいのじゃないか?
むしろ「死」として、「心臓死」後の臓器提供も「脳死」後の臓器提供と同じように死者の
人格権を扱う、ということを徹底したほうがいいのじゃないか、臓器を提供しない場合の
「(臨床的)脳死」状態の人のための終末期医療は、法的脳死判定を受けない限りは「生」
として扱う、ということで保障できるのじゃないか、と思います。
ここはほんとうに重大だと思うのですが、どちらとも決め兼ねています。

もう一つは、「臨床的脳死」という言葉をこのまま使ってもいいのだろうか、ということです。
「脳不全」「不可逆的深昏睡」などの言葉を、小児科医の阿部知子さんや脳外科医の山口
研一郎さんも使われます。おふたりとも、臓器移植反対論者です。
私も、「脳死」という言葉を使わないと、なぜか臓器移植に反対したくなってきます。
まさに言霊ですね…

さらにもう一つ。
6歳以下のこどもの臓器提供をしてもいいのだろうか。
先天的な心臓障害の赤ちゃんにも移植ができるようにしてあげたい。
でも、幼いこどもからの臓器提供はどんな場合なら許せるだろうか、と疑問に思います。

もしも自分のこどもがふたりいて、一方が脳死で、一方が心臓疾患だったらどうか、と想像
すると、二人とも死ぬのならせめて一人でも助かるようにしよう、と脳死のこどもからの移植を望むのではないかと思います。

私としては、3歳以上の、言葉を話せる幼児なら、親と生や死について話をしたことのある
こどもなら、親の判断と、第三者の認定や家庭裁判所の審査などがあれば、許可してもいい
ような気がします。

でも、こどもの臓器提供の場合に、親の心の中にふみこむようなことまでして、許可するか
しないかを決めるのはいかがなものか、とも思います。

さらにさらに、もう一つ。
脳死判定は、今の竹内基準でいいのだろうか?
でも、だれも他の判定基準を提案していないみたいで、これについては、
私には何も言えないように思うのですが。

他にも、いろいろ思うことはあります。

今朝、トリオ・ジャパンのセミナーのページを、臓器移植法施行前のものからずっと読んで
いました。法律ができる前、移植待機患者の人々は、マスコミが片寄っていて、自分達の立場を公平に伝えていないと、おっしゃっていています。移植を望む人々からすればそれはほんとうだったのだと思います。

今は移植に肯定的な空気のほうが強いのかもしれません。

でも、この問題では、どちらの立場が正しいとかいうものではないと思います。
移植を待つ人々の、生きたい、という言葉の前では、さらに、移植を受けた人々が、ホーム
ページを公開したり、こどもを産んだりしているのを見ると、共感や尊敬を覚えます。

とはいえ、私には、本人の意思確認なしでの家族の同意による臓器提供は、どうしても肯定
できません。


訂正です 投稿者:キャットラkiyoko  投稿日: 8月 4日(金)07時05分14秒

先のはパソコン操作を間違えました。無題にするつもりではなかったのですが。内容も確認す
る前にenterを押しちゃった。題名は「臓器移植法は誰のためのもの?」とでもしておきます。
インターネット未熟者で失礼しました。

(無題) 投稿者:kiyoko  投稿日: 8月 4日(金)06時52分28秒

このHPは読む所が多くて,掲示板もいくつもあって「あれはどこで読んだんだっけ?」なん
て、右往左往してます。

臓器移植の是非はひとまず置いておいて(私はイヤですが、臓器移植という医療技術?が現に
あり、他人の臓器をもらっても生きたいという人が現にいるのをないことにはできないから、
と言うだけの理由で)、私の考え方はこうです。

1.臓器移植法は、「臓器移植を受けたい人」と「臓器を提供しても良いと意思表示している
人」との間の約束事であるが故に、「臓器の移植を受ける意志がある」「臓器を提供する意志
がある」という意志表示は、どちらも絶対必要である。

2.「臓器移植を受けたい人」と「臓器を提供しても良いと意思表示している人」は、法律上同
等に扱われるべきである。(一人の人間がどちらにもなりうるのですから。)

3.「臓器の移植を受ける」のも「臓器を提供する」のも拒否する、すなわち「臓器の提供も移
植もどちらもしない」という選択肢を奪う権利は、誰にもないはず。(法律でそれを奪うのは
間違いじゃないのかなぁ)

1.に対しては、ドナーカードは廃止して、ドナーセンター?での自主登録方式とする。(てる
てるさんの改正案にほぼ近いと思いますが。)本人が自主的に提供の意思があることを告げて
登録する。その時、専門家による面接をして意志の確認をする。簡単な健康診断をして提供可
能な臓器の有無を知る。
臓器移植についての学習を義務づけるのはいうまでもありません。

2.に対しては、「臓器移植を受ける」のに年齢制限がないのであれば、「臓器を提供」するの
にも年齢制限はつけるべきではない、ということになりますよね。
15才未満の場合でも、大人と同様に自主登録方式にすれば本人の意志確認は可能と思います。
(乳幼児の場合については難しくて、なんとも言えません。)

3.に対しては、臓器移植法という法律において、甲「臓器移植を受けたい人」でも、乙「臓器
を提供しても良いと意思表示している人」でもない人は、「人間とは,死後の臓器提供へと自
己決定している存在である」からすべて乙とみなします、なんて、『めちゃくちゃだぁ』!!

「脳死」は臓器移植をするときの約束事における「基準」にすぎないと私はとらえています。
(人は二度死ぬことはできない。「心臓死」を経てあとは朽ちるしかない状態になったときを
「人の死」と捉える。)
こんな風に思っていたのですが、てるてるさんの改正案を読んでいて、ハタッと気がつきまし
た。脳死と判定されて心臓を提供するため摘出しちゃったら,心臓死そのものは存在しないの
ですね。人の死って何なのでしょう?
事故や災害や戦争で遺体が見つからなくても、その人は死んだと言われ、誰もがそれを受け入
れるってこともありますし…人の死って何なのでしょう?
そんな難しい問題を安易に法律で規定するなんて、むちゃとしか思えないのですけれど、どう
なのでしょうね?


RE:はじめまして 投稿者:てるてる  投稿日: 8月 2日(水)12時43分03秒

はじめまして。
キャットラkiyokoさま。
こちらこそよろしくお願いします。m(_ _)m

はじめまして 投稿者:キャットラkiyoko  投稿日: 8月 2日(水)07時45分52秒

(アンケートの所に書いたのですが、送れませんでしたのでここに書きました。)
はじめまして。
朝日新聞の記事から論座8月号へ。そこに書かれていたHPのアドレスを見て、ここへ。
当事者でもなくドナーでもなく一般の者が臓器移植法について考えを言ったりできる場を
さがしていました。臓器移植法が改正されれば、すべての人が部外者ではいられなくなります。
私もあえて現行のドナーカードで、提供しないという意志表示をしたくありません。
そんなこんなのいろいろな想いや考えなど、少しずつ書きこんでみたいと思っています。
どうぞよろしく。

ドイツ「臓器の提供、摘出及び移植に関する法律(移植法)」
1997年11月5日

スウェーデン臓器移植法
1996年7月1日から施行