TBSラジオ「アクセス」聞きました 投稿者:金子1号 投稿日:07月11日(火)23時34分35秒
今まで目を付けていなかった分野だったので、とても勉強になりました。
特に、15歳未満の意思表示に関する深い考察には感心しっぱなしです。私としては結論が出ていないので、とりあえず「移植を希望しない」としておきます。
脳死の判定基準に関しては、「竹内基準のおかしさ」立花隆著をちょっと立ち読み
した程度で、もっと考える必要を感じました。
てるてるさん 投稿者:yukiko 投稿日:07月11日(火)03時12分09秒
(1)ご本人がドナーカードをもっていなかった場合「終末期医療」について、脳死の人がドナーカードをもっていなかった場合、ひとつの病院のなかで、救急医療から看護医療(看取りの医療)に方針を転換する、と捉えれば、そこの病院所属のMSWが参加するのに、特に規定は必要ないとおもいます。
在野のソーシャルワーカーであったとしても、それは同じだとおもいます。個々の病院の判断というか。(2)ご本人がドナーカードをもっていて、家族がまだ未決の場合
@ソーシャルワーカーが能動的に臓器移植の現場に介入して、家族と面接する
A相談者(脳死の人の家族)が自発的に相談室(相談機関)をおとづれる
B相談者の依頼により、脳死の人の現場で相談者と面接する@は、「終末期医療の家族の支援」の枠は超えているとおもいます。
Aは、その病院所属のMSWであれば、問題はないとおもいます。在野の相談機関(室)でも、問題ないとおもいます。家族は制度の権利主体でサービスの選択権があるとおもいますので。つまり、移植のことを医療職や移植コーデイネーター以外に相談してはならないとはどこにも書いてないので。
Bは現状のままで行うと議論になるとおもいます。でも、Aが不可能な場合、Bにもっともニーズがあるとおもいます。現行の臓器移植法のままでは、移植コーデイネーターが、まず家族のもとに相談にいくでしょうから、そこにソーシャルワーカーが入っていくと、現場に混乱をまねくとおもいます。とくに、家族がソーシャルワーカーと相談した結果、臓器の提供に反対した場合は、もめるとおもいます。
したがって、このケースには根拠となるあらたな規則が必要かもしれないとおもいます。どこの国だったか、第3者に相談できる、と臓器移植法に明記しているところもありましたね…。どこの国だったっけ(--;)
この点は、もう少し考えたいとおもいます。
(3)ご本人が心臓死したあとの家族への対応
「死後の家族への対応」としてのこころのケアは、現行のソーシャルワーカーの業務(※)の枠内だとおもいますので、あらたな規定は必要ないとおもいます。MSWにしろ、在野のソーシャルワーカーにしろ。
社団法人日本臓器移植ネットワークのサイトに、「移植コーデイネーターの業務(2)」というページがあり、そこに、臓器提供後のドナーのこころのケア、らしきことが書いてあります。移植コーデイネーターの業務独占かどうか、確認する必要があるとはおもいます。そんなはずはない、とおもいますけど。
(※)社会福祉士及び介護福祉士法
第二条(定義) この法律において「社会福祉士」とは、第二十八条の登録を受け、社会福祉士の名称を用いて、専門的知識及び技術をもって、身体上若しくは精神上の障害があること又は環境上の理由により日常生活を営むのに支障がある者の福祉に関する相談に応じ、助言、指導その他の援助を行うこと(第7条において「相談援助」という。)を業とする者をいう。
yukikoさん 投稿者:てるてる 投稿日:07月10日(月)21時44分39秒
丁寧に教えていただき、ありがとうございました。
脳死でも心臓死でも、末期医療にソーシャルワーカーが介入することは、たいせつだと思いました。
移植コーディネーターは、移植法に、あっせん機関として、書かれていますが、移植するしないに関わらず、終末期医療に介入するソーシャルワーカーのことは、移植法に書けるのでしょうか。
移植コーディネーターと対等の地位が必要だと思いますし、移植法以外に法律が必要なのかしら、それとも、ソーシャルワーカーには、そもそも、該当する法律があるのだと思いますが、それと関連付ける、施行規則とかガイドラインとかがあればいいのでしょうか。
それから、移植をしたら、そのあと、ドナー側もレシピエント側もセルフヘルプグループを作る、というのもたいせつだと思います。
これは法律ではなくても、施行規則とかガイドラインとかでもいいような気がしますが。しかし、もともと法律を知らない私がこんなこと考えるのもおかしなことで…(T_T)
無痛文明掲示板で森岡さんが紹介されている、本願寺の講演のお話も、ちょっと関係あるみたいです。
>森岡さん
脳死を脳不全と呼ぶべきだとかいうことを、よく、臓器移植そのものに批判的な、どちらかというと反対する立場の文章でよく読むような気がしていました。
でも、確かに、「脳死」という言葉は、移植のための言葉だと思います。
ちょっと、いろんな本で、「不可逆的(深)昏睡」という言葉を確認してみました。
言葉の使い方を変えると考え方も影響を受けるんですね…。
RE ヒグラシアカネさん 投稿者:le pissenlit 投稿日:07月10日(月)18時39分26秒
>ながれではそうかな、と思ったんですが、よく意味がわからなかったので・・・。
なるほど、さすが議論に訓練されていますね。高度何万フィートに昇る言葉を少し
明確にする作業をしなくてはね。>弟もほしがっています。
まずは、このところ一人子の方に接するのが多い私なので、ちょっとフレシュな印象
が私の脳裏をかすめました。そしてこのような場で弟さんの事も出てくる味わい、
「家族的な人なのね」と。そして日頃私が感じている家族観があってのことですが、
このHPの場も大きな家族に思えたのでね、ちょっと飛躍したというわけです。勿論ヒグラシアカネさん宛の言葉でしたよ。
ドナーカードといえば 投稿者:なおみ 投稿日:07月10日(月)18時05分23秒
下記サイト(トリオ・ジャパンっす)からプリントアウトすることができますよ。
ちゃんとしたものが欲しい場合は送ってくれるみたいです。
でも、意外と、そこらへんのお店のレジの脇にひっそりと置かれていたりもしますよ。
ドナーカード 投稿者:ヒグラシアカネ 投稿日:07月10日(月)17時33分00秒
>ららさん
情報ありがとうございました。
有るところには沢山あるんですねえ。
しかし、電車で二時間かけて免許もないのに更新所に行くのもどうかと思いますので、
おとなしく別の公共施設であさろうと思います。
厚生省にも電話をかけてみたんですが、
今日は既に受付が終わっていました(5時頃)・・・・残念です。>Le Pissenlit
読んで下さってありがとうございます。
楽しんで頂けて本当に嬉しいです。(予想外だし・・・)
ところで、あのー、↓も私にあてて下さった文でしょうか?
>一人っ子でないだ。兄弟思い? ここもみんな兄弟みたいなところでは?
流れではそうかな、と思ったんですが、よく意味が分からなかったので・・・
関係なかったらすいません・・・。
現時点では 投稿者:なおみ 投稿日:07月10日(月)11時27分58秒
現時点で、私は「脳死」を死と認められません。いろいろ理由はあるけど、最終的には
脳死の人を目の当たりにした時に死んでいるとは思えないであろう、という想像が決めてかも。
それなのに、ドナーカードは、思いっきり1番に丸がうってあります。
自分でも、なんか矛盾してるぞ〜って思うけど、正直な気持ちを追求するとこうなってしまう。
まっ、いいか。FFWにうつつをぬかしてたら、掲示板の話題がむちゃくちゃ進行しててあせったぞ。
ヒグラシアカネさま 投稿者:らら 投稿日:07月10日(月)00時53分08秒
ドナーカード、免許証の更新所にめちゃめちゃありましたよ。
ヒグラシアカネさん 投稿者:Le Pissenlit 投稿日:07月09日(日)21時34分38秒
あなたのHPを読んで思わず笑ってしまった。一にも二にもその積極性に好感を
感じますね。保健の授業で「脳死」に関するデイベートとはおもしろいです。
教室風景が目に見える感じです。考えて動いて楽しそう、なお考えが変わったらまた
お知らせくださいな。楽しみに。ちなみに私は東京弁ですがよろしくね。
一人っ子でないだ。兄弟思い? ここもみんな兄弟みたいなところでは?
リンク、ありがとうございました。 投稿者:ヒグラシアカネ 投稿日:07月09日(日)18時45分58秒
リンク、ありがとうございました。
てるてるさん、読んで下さったんですね。
折角おもしろいと言って下さったので消さないでおこうと思います。ところで、今日、区役所でドナーカードをもらおうと思ったら
在庫切れでないとのこと。
厚生省に問い合わせて欲しいと言われました・・・。
移植法の改正もいいですが、カードの増販もして欲しいです。ps >ps2 (←あははは、まだこれ買えてない私(^^;))
笑いました。一分くらい考えたあと。
弟もほしがってます。
まぎらわしさ 投稿者:森岡正博 投稿日:07月09日(日)16時13分31秒
この問題のまぎらわしさは、そもそも「脳死」という状態のはらんでいるまぎらわしさだと思うのですよ。医学的に見た場合、不可逆的深昏睡みたいな状態から、脳融解みたいな状況へと「連続的に推移していく」プロセスがあるだけなのです。
これは私の考え方なのですけど、生物学的に見た場合、ポイントとしての「死」は存在しないと思います。「死」という概念が登場するのは、それに、別次元(たとえば法)の要請が重ね合わされたときだと思います。だから、純粋に生理学的に考えれば、「脳死」というネーミングは拒否すべきなのです。
私が、法的判定が済んだもののみを「脳死」と呼ぶべき、ということにこだわっている一つの理由は、ここにあります。
ことばには、「言霊」というものがあって、たとえば法的脳死判定が済んでいない状態にも「脳死」という言葉を適用しはじめると、「この人は、脳死なんだから、死んでいるじゃないか、なんできみはそれがわからないんだ!」みたいな暴言が、通りやすくなるのです。すでに、そういうことを言う医師もおります。
ここはかなり微妙な点ではありますが、大事な論点です。
てるてるさんのおっしゃるとおり、このへんのことばは、まぎらわしいです。でも、まぎらわしさを排除するために、「脳死」とかの言葉を拡大適用すると、それはそれで、別の危険性をはらむと思います。事態それ自体がまぎらわしいのだから、言葉も、それに見合ったまぎらわしさをはらむのは、当然とも言えます。脳死移植を進めるとは、このようなまぎらわしさに耐えつつ、ドナーとレシピエントをつなぐということではないでしょうか?
てるてるさんに異を唱えるということではなくて、この論点の複雑さを考えるために書き込みました。m(_ _)m
てるてるさん 投稿者:yukiko 投稿日:07月09日(日)15時33分11秒
脳死の人の終末期医療と家族の支援ですが、「看取り」の支援と、死の受容の支援だけなら、てるてるさんがおっしゃるように、ご本人が脳死状態になってから、ご家族とソーシャルワーカーが会えばいいのではないか、とおもいます。最近は、大きい病院にはMSW(医療ソーシャルワーカーが配置されていますので、わりに簡単に会えると思います。まだ配置されていない病院もありますけれど…。
で、家族と話し合いながら、MSWが単独で(面接だけで)支援するのか、チームを編成するのかを判断するだろうとおもいます。脳死の人の看取りは、てるてる案や「脳死の人(集中治療室とはどのような場所か)」の、
> 集中治療室(ICU)の中で心臓停止を迎える。(「積極的治療」または「消極的治療」)
> 集中治療室(ICU)の外の病室で心臓停止を迎える。
> 集中治療室(ICU)から手術室へ移動して、移植のための臓器を摘出することによって、
> 脳死状態を終える。の3パターンがありますよね…? で、それぞれに次の
@心臓死に至るまでを支える医療・ケア
A臨死の対応・処置
B死別後の家族への対応という過程があるとおもいます。
@Aでは、脳死の人のいる場を中心に、家族と医療職や看護職が中心となり、MSWは医療費の相談や環境整備(家族だけになれる静かな環境の提供など)、家族との面接などの補完的な仕事をするとおもいます。脳死の人には、在宅の看取りはありえませんので、こうした支援は必要だとおもいます。脳死の人ではない病院内の死にも必要です。こうした看取りにたずさわるマンパワーが、現在の医療職や看護職だけではたりないとおもいます。MSWのネットワーキングという技術が多職種の専門職をまとめることができるので、いいのではないかと思う次第です。Bは、先に述べた通り、退院後のアフターケアのなかで、家族の要望に応じて、患者の会や、家族の会、グリーフワークのご案内をすればいいとおもいます。
森岡さん 投稿者:てるてる 投稿日:07月09日(日)14時42分38秒
森岡さんに整理していただいた、(1)の状態というのは、「続き(かなり混乱気味) 投稿者:てるてる 投稿日:07月08日(土)21時56分18秒」
で、>医師が脳死であると診断したときに、その診断が正しいと信じれば、
>それは、脳の機能が完全に不可逆的に停止した状態である。この
>脳はすぐにまたは非常に早い時間で融解を始めるはずである。
>この脳を持つ人間は蘇生する可能性はゼロである。
>
>これだけは確実にわかります。その先で、
>
>移植のために心臓などの臓器・組織を提供することを希望する人は、
>この段階で法的に死んだとみなされることを受け入れなければならない。に相当するのだと思います。
竹内基準では脳の融解をしているかどうかはわからない、と立花隆も批判して
いることは承知しております。
しかし、竹内基準で脳死と判定された人は、上にも書きました通り、まもなく、
不可逆的に、そういう状態になるのだろう、と思います。
現状では、脳死判定は、脳の細胞死とか器質死というものを見るのではなくて
機能停止を見るのだと言うことはわかっておりますが、現状で脳死後の臓器提
供を認めるのであれば、その判定に従います。この状態は、脳の「器質死」または「細胞死」は始まっていないようだけど、
必ずごく近い将来それが始まる、ということで、植物状態とは全然違うはずです。(2)について。前半の植物状態のことは承知しております。
(2)の後半と(3)について。
「不可逆的(深)昏睡」という言葉は、脳死判定基準の中に含まれる「深昏睡」
という言葉と似ています。
脳死判定基準では、「深昏睡」に加えて、脳幹反射消失などの条件を満たすこと
になっています。私は、言葉がまぎらわしいのは困ると思います。
植物状態と、森岡さんのおっしゃる、またはUSAの脳死の語義に含まれる、
「不可逆的深昏睡」とは、違う、と、今ここで説明を聴いている限りはそれは
わかりますけれど、でも、とーっても、まぎらわしいです。お医者さんも困る
ほどまぎらわしい言葉をどうして使わなければならないのでしょうか。森岡さんのおっしゃるのは、お医者さんに、
「不可逆的深昏睡」と診断されたら、この人の法的脳死判定をしてもいいかどう
かをドナーカードで確認する、その結果、「脳死」と診断されたら、そこで初め
て「脳死」したことになる、ということだと思います。それは臓器移植のための
脳死判定です。それは、そういうことにしてもかまいませんけれど、それなら、臨床的脳死とい
う言葉を「不可逆的深昏睡」とう言葉のかわりに使っても、そうかわりないよう
に思えます。もっとも、「臨床的脳死」「法的脳死判定による脳死」「不可逆的深昏睡」、
どれもまぎらわしいといえばまぎらわしいと、思いますが…
てるてるさん 投稿者:森岡正博 投稿日:07月09日(日)11時45分46秒
えーと、いくつか整理。(1)「脳の融解」が始まっているかどうかは、脳死判定ではわかりません。
CTとかの断層撮影をしないとだめです。正確には、解剖しないとわかりません。
かつ、竹内基準ですばやく脳死判定がなされた脳死の人の脳は、おそらくまだ融解
していません。なぜなら竹内基準は「機能停止」を見るのであって、「細胞崩壊」
を見るのではないからです。
かつ、最新の研究によれば、脳死状態が1ヶ月以上続いている例が、海外でかなり
見られています。その場合、脳の中がどうなっているのか、不明です。(2)「植物状態」の患者さんは、自発呼吸と脳幹反射があります。
睡眠と覚醒の周期もあります。もちろん程度によって、様々ではあります。
これにくらべて「不可逆的深昏睡」の場合は、脳幹反射が見られない。
睡眠と覚醒も見られない。人工呼吸器を付けているので、自発呼吸については、
「無呼吸テスト」をするまでは確定できません。(3)だから、概念的には、
「植物状態」「不可逆的深昏睡」「脳死」の3つを、峻別しておくべきだと思います。ps 私が「不可逆的深昏睡」と<深>という字を入れるのは、
たんなる「昏睡」と区別するためです。これは昏睡レベルと関連してきます。
直訳だと<深>は必要ないですが、意味的には、<深>がほしいところです。ps2 (←あははは、まだこれ買えてない私(^^;))
えーと、「脳の融解」をてるてるさんが重視するのであれば、まずは現行の竹内基準を
放棄し、立花さんのおっしゃるような「細胞死」の判定基準に変えることをしなければ
なりません。話はまずそこからです。
すっかりあらし状態…m(_ _)m 投稿者:てるてる 投稿日:07月09日(日)08時37分15秒
脳死状態、または、「不可逆的深昏睡」を、ゆっくりと進んでいく死の過程を、看取る人が
一緒につきそってあげる。死出の旅路を見送ってあげる。
そういうふうにとらえたら、脳の融解が進んだのに「治療」を続けるのは「もてあそび」ではないか、とは、考えなくてもいいようにも、思います。
しかしどうも「治療」という言葉はふさわしくないような気もする。それに対して、植物状態の患者さんの治療はあくまでも治療で、死出の旅路とは関係ない。
こちらは植物状態という「生活」をしていると思います。どうも「不可逆的深昏睡」という言葉は、USAで脳死の語義のうちに入れられてはいます
けれども、私には使ってもいいのかどうか疑問に思えます。
ほとんどあらし状態… 投稿者:てるてる 投稿日:07月09日(日)07時21分30秒
山口研一郎さんたちの「若者と家族の会」の人々は、安楽死や尊厳死にも反対しているのです。
だから、終末期医療としての脳死の扱いが、尊厳死のようなものになることにも反対だろうと思います。
山口さんたちの立場に賛成はできないけれど、植物状態と混同しかねないような「不可逆的深昏睡」という言葉の使用にちょっと躊躇します。その言葉は最近、「ラザロの子」という本にもあったような気がします。
植物状態では何年たっても脳が融解することはありませんが、脳死状態では脳が融解します。もっとも、私もわからないのは、その脳死状態が何箇月も続くとなると、ほんとうはいつ
「脳の融解」が起こり始めてどういうふうに進むの?ということです。
ますます混乱状態 投稿者:てるてる 投稿日:07月09日(日)00時31分09秒
山口研一郎さんたちの「若者と家族の会」の人々が脳死後の臓器提供に反対するのは、遷延性植物状態の人々の生きる権利が奪われるのではないかとの不安からです。脳死と植物状態とは全然違うので、医療の密室性をなくしていけば、そのような心配は払拭していけるものと私は思っていました。
しかし、法的脳死判定を受けたもの以外の「臨床的脳死」を「不可逆的深昏睡」と呼ぶとすると、ちょっと、変わってきます。
「臨床的脳死」の場合に、集中治療室での治療を消極的にして、心臓停止を迎える、という選択肢が、臓器移植ネットワークのウェッブページにも書いてありますし、「脳死の人」にも、立花隆の「脳死」にも書いてあります。しかし、このような選択肢も、それが「脳死」と呼ばれるものであるから許容できるので、もしそれが不可逆的「深昏睡」と呼ばれたら、確かに、「不可逆的」がついているぶん、植物状態とは違うことがわかるといえばわかりますが、それでも、「深昏睡」という言葉に、植物状態の患者の家族が不安を覚えるのは無理もないと思います。
生とするか死とするか 投稿者:てるてる 投稿日:07月09日(日)00時12分05秒
自分で書いていても混乱しています。
臓器移植について考えているときには、「脳死」を生としていないと、看取る権利・看取られる権利が守られない、としておきながら、災害などの極限的な状況では、「脳死」を死として扱ってもいいとしている。森岡さんのおっしゃる「不可逆的深昏睡」という表現を使い、それを死とするかしないかは人それぞれに任せるのが合理的だとも思います。
しかし、それでは、脳が融解していても「昏睡」と呼ぶのが正しいのかどうか?
脳死状態が長く続いたときに、「脳の融解」が進んだ状態になりますが、そういう状態になっても「看取り」を続けているとき、それが患者への愛情なのか、「もてあそび」なのか、非常に評価がむずかしいと思います。
訂正(すみませんややこしくて) 投稿者:てるてる 投稿日:07月09日(日)00時00分43秒
<「RE:臨床的脳死 投稿者:てるてる 投稿日:07月08日(土)23時42分15秒」より
>以前、ここの掲示板で、私は、病院が火事になったら、植物状態の人は
>連れて逃げなければならないが、「臨床的脳死」または「不可逆的深昏
>睡」の人は、人工呼吸器をはずして、置いて逃げてもよい、と書きまし
>た。
>また、もし、阪神大震災のような地震が起こって人工呼吸器がはずれた
>ら、植物状態などの人の人工呼吸は手動でもなんでも続けなければなら
>ないが、「臨床的脳死」または「不可逆的深昏睡」の人のは、はずれた
>ままでよい、と書きました。
↓
以前、ここの掲示板で、私は、病院が火事になったら、植物状態の人は連れて逃げなければ
ならないが、「臨床的脳死」(または森岡さんの言われた「不可逆的深昏睡」)の人は、人
工呼吸器をはずして、置いて逃げてもよい、と書きました。
また、もし、阪神大震災のような地震が起こって人工呼吸器がはずれたら、植物状態などの
人の人工呼吸は手動でもなんでも続けなければならないが、「臨床的脳死」(または森岡さ
んの言われた「不可逆的深昏睡」)の人のは、はずれたままでよい、と書きました。
脳の融解 投稿者:てるてる 投稿日:07月08日(土)23時55分15秒>
脳が融解した状態を脳の器質死と呼ぶのはよくわかります。
しかし、この状態を「不可逆的深昏睡」と呼ぶのはよくないような気がします。
法的脳死判定をしなければ、脳が融解していても、それは「臨床的脳死」または「不可逆的深昏睡」になるのだと思いますが、同じ脳死といっても、脳が融解を始めるか始めないかというぎりぎりの状態と脳が半分以上融解している状態とではかなり違うと思います。
不可逆性昏睡と遷延性植物状態 投稿者:てるてる 投稿日:07月08日(土)23時48分37秒
植物状態と脳死状態とは異なる。
それはこの掲示板での議論のはじめのほうでも出てきたことです。しかし、法的脳死判定を受けた場合以外の「臨床的脳死」を「不可逆的深昏睡」とか、
「不可逆性昏睡」とかと言ったら医者も混乱するし、医者でない人も、混乱します。
実際、USA の病院の医者や看護婦は混乱していると「臓器交換社会」に書いてあります。脳死と植物状態の区別はたいせつな、一線を画すものだったはずです。
混乱するような言葉はよくないような気がします。
森岡さんの指摘された、1968年のハーバード基準の「不可逆的深昏睡」は、「臓器交換社会」という本には、「不可逆性昏睡」という訳で出ています。以前、ここの掲示板で、私は、病院が火事になったら、植物状態の人は連れて逃げなければならないが、「臨床的脳死」または「不可逆的深昏睡」の人は、人工呼吸器をはずして、置いて逃げてもよい、と書きました。
また、もし、阪神大震災のような地震が起こって人工呼吸器がはずれたら、植物状態などの人の人工呼吸は手動でもなんでも続けなければならないが、「臨床的脳死」または「不可逆的深昏睡」の人のは、はずれたままでよい、と書きました。でも、これは、殺人にあたるのでしょうか。
臨床的脳死 投稿者:森岡正博 投稿日:07月08日(土)23時02分23秒
の問題は、かなりやっかいです。私は「臨床的脳死」ということばは使うべきではないと思います。ですが、現行法の枠組みを守ろうとするときに、すでに臨床的脳死という言葉が氾濫しているわけで、人々と意志疎通するためには、その言葉を使わざるを得ません。
ですが、なるべくなら、「臨床的な脳死判断」という言い方にしていますが。私は、やはり脳死という言葉は、「法的脳死判定」がなされた人にのみ、使うべきだと思います。
そしていわゆる臨床的に見て「脳死みたいな状態」のことは、従来からある医学用語の「深昏睡」あるいは「不可逆的深昏睡」と呼べばいいのではと最近は思っています。
1968年のハーバード基準は、このように呼んでいます。「不可逆的深昏睡」状態にあるかどうかということは、その人の死生観とは独立に判断できることです。「不可逆的深昏睡」状態が死であるのか、ないのかは、本人が選択できることとすればいい。それを死としなければならないのは臓器移植のドナーとなるときだけでしょう。そのときには、法的脳死判定をする。臓器移植へと進まないのなら、「不可逆的深昏睡」の患者さんへの、末期医療をどうするかという道筋で考えていけばいいのではと思います。手厚く心臓死までケアする選択肢もあるし、治療をひかえて尊厳死のようにする選択肢もあるということではないでしょうか。もちろんその場合も、本人の意思がとても大事なことは言うまでもありません。
続き(かなり混乱気味) 投稿者:てるてる 投稿日:07月08日(土)21時56分18秒
町野さんは、シンポジウムで、現行の臓器移植法は「脳死」を「死」としないで、移植を可能
とする、殺人の違法性阻却説の立場をとっている、とおっしゃったけど、「論座」の森岡さん
との対談では、現行法を変更しない立場をとっている森岡さんに対して、移植する場合は「脳
死」を「死」としているから、違法性阻却説ではありませんね、とおっしゃっています。
そこのところは矛盾しているような気がします。
現行法は「脳死選択論」といわれる立場だと思います。森岡さんは、このサイトにアップされている記事などを読むと、法的脳死判定で「脳死」と判
定された場合以外に、「臨床的脳死」があるような報道をするのはおかしい、と批判されてい
ます。
でも、「脳死の人」では、「臨床的脳死」も「脳死」と書いています。そこのところで、私は少し混乱しています。
立花隆の本では、移植を前提としない場合の、患者の予後を決めるための「臨床的脳死」と、
移植のための法的脳死判定による「脳死」と両方が区別して出てきます。
それで、私は、「臨床的脳死」と「法的脳死判定による脳死」と両方ある、と思っていました。いったい、どう言葉を使えばいいのでしょうか。
私は、「脳死」した人や看取る人の権利を守るためには「臨床的脳死」も「法的脳死判定によ
る脳死」も法的には「死」としないほうがよい、と思って、違法性阻却論、といわれる立場を
とっています。でも、移植のときに「法的脳死判定による脳死」を「死」とするほうが、いいのかもしれない。
そのほうが、看取る人にとっても、臓器提供を受け入れやすくなるのかもしれない。
と思い始めています。「論座」対談を読んでいても、脳死を死とするかどうか、というところが一番むずかしく、
とてもだいじなところだと思いましたし、前の投稿にも書いた、メールでやりとりしている方
ともそこが一番もめました。医師が脳死であると診断したときに、その診断が正しいと信じれば、それは、脳の機能が完全
に不可逆的に停止した状態である。この脳はすぐにまたは非常に早い時間で融解を始めるはず
である。
この脳を持つ人間は蘇生する可能性はゼロである。これだけは確実にわかります。その先で、
移植のために心臓などの臓器・組織を提供することを希望する人は、この段階で法的に死んだ
とみなされることを受け入れなければならない。これも、同意できます。ただ、法律で脳死を死であると決めてしまうと、看取る権利・看取ら
れる権利がないがしろにされかねない、という不安があります。だから、法律では脳死を
「生」のほうに置いといたほうがいいと思うのです。
じゃあ、「臨床的脳死」とか「法的脳死判定による脳死」とかいうことをどういう言葉で記述
したらいいのでしょうか。それに、やっぱり、「脳死」は、脳は「死んだ」けど、身体の他の部分は生体としての機能を
保っている、ということを生命現象とみなしたら、「死」とは言えない、と思います。だけど
「生」だとも言えない。生命維持の装置によって人工的に保っている状態だから。ただ、臓器移植のために、その状態に終止符を打つことがあってもかまわない、と思います。
脳死になった人本人が前もって脳死状態を理解し、同意を与えていたなら。
その終止符を打つときに、どこで法的な「死」とするべきなのか?ずっと前から、こどもの臓器移植の同意をだれがどういう条件で出したらいいのか、という
ことに判断がなかなかつかなくて困っている上に、「脳死」を「死」としたらいいのかどう
か、についても何度も疑問がわいてきて、はてしなく循環している状態です。医学的に「脳死」といわれる状態がある。
それはわかります。
でもそれが「死」と認定されることに対しては、躊躇します。
その認定は、個人の哲学や人生観に係ってくる。
法的な権利の保障とも係ってくる。
看取る人の心の問題とも係ってくる。どうしたらいいものか…。
日記じゃなくてエッセイ 投稿者:てるてる 投稿日:07月08日(土)21時55分21秒
でした。まちがえてすみませんでした。ヒグラシさん。>yukikoさん
>提供協力者は、ドナーカードを記入した時点で、担当するソーシャルワーカーと顔を合わせ
>ておくことが必要です。
「てるてる案」では、臓器提供意思を登録する前に、移植ネットワークに説明を聴きに行く、と書いています。そして、登録も移植ネットワークですることにしています。移植ネットワークは、臓器移植法では、「あっせん機関」にあたるものですね。
でも、ソーシャルワーカーに会っておくとなると、それとはまた別に、ソーシャルワーカーにも会いに行くことになるのでしょうか。
ソーシャルワーカーは、私は、本人が実際に脳死状態になってから、初めて、家族や、「てるてる案」でいうところの保証人に会うものだと想像していました。ところで、ヒグラシさんのエッセイに、ディベートで「脳死を死とし、医師の判断で移植を行う」という命題が出た、と書いてありました。それに対して、本人と家族の合意の上で、とするべきだとヒグラシさんが主張されたと書いてありました。
「医師の判断で」移植を行う、ていうのは、そういうことをやってる国が実際にあるのでしょうか。ちょっとよくわかりませんでした。
しかし、脳死を死とする、という点については、まさしく「医師の判断で」行うというのが、町野案などの「脳死一元論」といわれる主張だと思います。このことは、脳死や心臓死の人の看取りの医療をどうするか、ということにつながってくると思うのです。
脳死でも心臓死でも、自分にとってたいせつな人が「死んだ」ら、しばらくの間は、その「死」を否定したい、という気持ちが続きます。それでも、心臓死は事実が「死」を受け入れざるを得ないようにしてくれるけど、脳死は逆に「死」を受け入れにくくする事実が存在します。それと、脳死を「死」であると認めるか認めないか、という、人それぞれの立場の違いがあって、よけいややこしくなっているように思います。
セルフヘルプとグリーフワーク 投稿者:yukiko 投稿日:07月08日(土)13時35分22秒
セルフヘルプグループでは、体験を共有することが主な目的になりますので、メンバーが
望めば、いろんな職種が入って話を聞くことが可能になります。わたしの知っているガン
患者の会は、主催がお寺さんやお医者さんで、そこに参加者が集う形をとっていました。
運営するのも体力が要りますし、患者さんやその家族のセルフヘルプグループは、子育て
や不登校のセルフヘルプと違って、ボランテイアの協力も大事だな、とおもいました。グリーフワークの場合は、一定の方法論があり、ときに自覚されていない事柄について
意識化を促す場合もありますので、個別援助か、グループなら会は閉鎖される(メンバー
が固定され)、とおもいます。
援助者は精神科医や臨床心理士、カウンセラー、方法論を熟知しているソーシャルワー
カーなどに限られるのではないかとおもいます。枠組がはっきりしているので。
グループの場合は、人数により援助者の数も決まります。
「決定版・脳死の人」をおいてある書店 投稿者:森岡正博 投稿日:07月08日(土)09時10分45秒
の完全リストが「脳死の人」掲示板にアップされています。みなさんのお近くの書店
を確かめてみてください。
ヒグラシさん 投稿者:森岡正博 投稿日:07月08日(土)09時09分02秒
はじめまして。ヒグラシさんのHPは、移植法ページにリンクしてあります。
東京版の写真は、朝日新聞縮刷版の全地方版が出たら、見られるのではないのかなあ。
大阪の朝日新聞社に電話して聞いてみるのがいちばんいいと思います。faxサービスとか
あるかもしれませんよ。
家族のケア 投稿者:森岡正博 投稿日:07月08日(土)09時06分27秒
これは、「脳死の人」で私が主張した、家族による脳死の人の死の看取りと受容をサポート
するということに、かかわることがらなのでしょうね。こないだのNHKによれば、
アメリカでは移植コーディネーターが業務範囲を広げて、ドナー側の家族のグリーフワーク
までやっているようでしたら、これは、そんなに適切なことだとも思えません。てるてるさん
やyukikoさんがおっしゃるような仕組みが必要でしょう。ソーシャルワーカーだけでも、
限界があるようですね。
脳死の人と、その家族の場合 投稿者:yukiko 投稿日:07月08日(土)00時16分41秒
てるてるさんのご友人のおっしゃった、脳死の人と、その家族の援助のニーズは、考えるに、@家族が提供に同意・不同意するまでのあいだに利害関係のない第3者として相談
できるひとがいない
Aその間の家族の時間の確保、ドナー・家族の利益の代弁をするひとがいない
Bドナーのそれまでの人生を知るひとが家族しかいない(提供後、家族が責められること
がある)
C医者や移植コーデイネ―ターと、ドナーの家族との関係において、ドナーの家族の側
から対等に代弁できる専門職がいない
D現場で異議申し立ての方法が確立されていない
Eドナーの家族のこころのケアの未整備
Fレシピエントのこころのケアの未整備こんなかんじでしょうか。今はこれ以上おもいつきません。
提供協力者は、ドナーカードを記入した時点で、担当するソーシャルワーカーと顔を合わせ
ておくことが必要です。ソーシャルワーカーは、移植の枠組にはいらず、クライアントと
その家族の生活の全体性の視点から支援するため、いろんな話を聞く必要があります。脳死の人の臓器提供をする・しないに関わらず、ご本人の心臓死後、家族のこころのケアが
必要な場合があります。ご家族の方から、ケアのお申し出があった場合です。なければ、
やはり情報提供に止めます。家族のケアの方法ですが、「終末期医療(一般的なもの)」とほぼ同じでいいのではないか、
とおもいます。できれば、ドナーの家族、あるいは、レシピエント同志で、セルフヘルプ
グループを作ることができればいいとおもいます。セルフヘルプグループの支援なら、
ソーシャルワーカーやカウンセラーだけでできます。
とくに、ドナーの家族については、臓器提供後のこころのケアは、移植ネットワークが
担当してはまずいのではないか、とわたしはおもっています。
移植コーデイネ―ターは、常に当事者ですので、ドナーとその家族にとっては、あるいは
レシピエントにとっても、利害が対立する可能性があります。
終末期医療(一般的なもの) 投稿者:yukiko 投稿日:07月07日(金)23時41分58秒
終末期医療について、臨床経験がある方、ご覧になっていらしたら、どうぞ補足してくだ
さいませ。 m(_ _)m終末期医療の大きなポイントは、
@死に至るまでの生を支える医療・ケア
A臨死の対応・処置
B死別後の家族への対応だとおもいます。
終末期医療は、一般的にホスピスのイメージがありますが、Cホスピス、ビハーラ(仏教系の呼称)
D一般病棟でのホスピスケア
E在宅での看取りがあるとおもいます。クライアントは、本音では施設や病棟にいるよりも、在宅で介護
や看護を受けることを望まれる場合が多いといいます。家族に迷惑をかけたくない、
ひきうけてくれる家族がいない、ひとり暮らしである、などの消極的理由で、入院の
運びとなっている可能性が高いとおもいます。また、在宅での看取りをすることは、実際に大変で、元気なうちは家族を中心に
ケアチームを組めると思いますが、死が近くなれば寝たきりになり、痛みも増しますので、
往診や24時間体制での看護や介護、家族のケアも負担が増えます。
今は介護保険がありますので、65才以上なら介護保険を利用できます。病院やホスピスでは、同じ状況下にあるひとが、セルフヘルプグループで、気持ちを
共有することで、クライアントも家族も支え合うことができます。クライアント自身の
死の受容過程を支える必要がありますが、在宅では、家族にも孤立しないよう配慮が必要
です。在宅のケースの看取りは、医師が死亡を確認する必要があると思いますが、よくわから
ないので、ここは省きます。クライアントの死後の、家族の死の受容ですが、家族が求めた場合は、必要だとおも
います。求められない場合、情報を提供するに止めます。無理してお誘いすることが、
傷になることもあります。だいたい、患者の会などのグループに入会されることが多いと思います。
わたしの知っているガン患者の会では、家族をなくして数ヶ月とか、数年とか、
または、生還されてまだ5年たっていないご本人とか、いろんな方がいらっしゃいました。
深く傷つかれたことに、自覚された方は、個別の援助を受ける必要があると思います。援助は、個々の事例性に基づくもので、ひとつとして同じケースはなく、それぞれで展開が
ちがうとおもいます。ので、以上は、教科書的な一般論です。
ソーシャルワーカー 投稿者:yukiko 投稿日:07月07日(金)22時57分07秒
ソーシャルワーカーは、日本では社会福祉士といいます。主に相談業務をおこないます。
ケースワークとカウンセリングの分野です。クライアント(社会資源の利用者のこと)
の深い無意識の領域に立ち入ることはしません。カウンセラーとの大きな違いは、社会
資源(施設や制度)を利用して、クライアントの自立のために側面的援助を行うところです。援助内容は、おもに、老人福祉・児童福祉(家族福祉)・医療福祉・司法福祉などの
現場での直接援助(個人援助・集団援助が多い)と、社会福祉協議会などでの間接援助
(地域援助)があります。
現場では、クライアント(本人)の自立支援と同時に、家族の支援もおこなうことが多いと
おもいます。それから、福祉は生活全般に根付く問題が多いため、隣接分野の専門職と、ネット
ワークやチームを組んで支援することがあります。たとえば、終末期医療では、ソーシャルワーカーが単独で援助するより、医師、看護婦、
ケアワーカー、ボランテイア、カウンセラー、宗教者、そして家族と協働することになる
とおもいます。これらの社会資源の調整もソーシャルワーカーの分野だと思います。
脳死の人とその家族のためのケア 投稿者:てるてる 投稿日:07月07日(金)18時43分02秒
ずっと、移植のことについて、メールでやりとりしていた方から、移植コーディネーターとは別に、ドナーの家族のためのケアワーカーが必要だと教えていただきました。できれば、無宗教、宗教、各種取り揃えて。脳死状態が長く維持できるということは、家族が「脳死」という死を受け入れるために使えるのではないか。そのかわりレシピエントの待機時間がふえるけど、それはしかたない。この方は、本人意思の尊重のしかたにも一つの意見を持っていて、それとの関連で、移植コーディネーターの仕事は、ドナー本人の意思の確認と、家族の意見とのすりあわせを主な任務にするべき、としています。
移植とは限らず、脳死の人の最期を看取る家族のためのケアは必要ではないかと思います。
それから、家族のいない人の最期も本人の意思を尊重して、そして、礼意を持って扱われなければならないと思います。そういう仕事は、ソーシャルワーカーができるかもしれないとyukikoさんから教えていただいたんですけど、移植のために臓器を提供する場合も、臓器を提供しない場合も、終末期医療の保障という仕事に、係る人として、ソーシャルワーカーが期待されるのではないかと思います。
あ、でもそうすると、宗教はどうしましょうかね。
ソーシャルワーカー関連について、もっといろいろ知りたいです。
ヒグラシアカネさん 投稿者:てるてる 投稿日:07月07日(金)18時26分32秒
はじめまして。
あの、高校生ヒグラシさんの日記のヒグラシさんですね?!
高校生が脳死と臓器移植について学校でディベートするなんて、
知らなかった。学校のことを何も知らないもので、新鮮でした。
日記、すごくおもしろいので、消滅させないで置いといてくださいね。
初めまして 投稿者:ヒグラシアカネ 投稿日:07月07日(金)18時16分40秒
ROMに徹しようと思っていたのですが、最近初めましての方が多いので
この際だ、とつられて勢いで飛び込んでしまいました。
よろしくお願いします。
ところで、東京版朝日新聞、是非みたいです。
私は関西圏の人間なので手に入らないのです。
噂になっている写真がどんななのか、見られないと思うと余計に見たくなるものであります。
私の中で想像だけが膨らんでいます・・・。あー、見たい。
東京版朝日新聞 投稿者:森岡正博 投稿日:07月06日(木)20時38分05秒
を入手しました。これは、大阪版「くらし」コーナーにあったものとは全然別物ですね。
すごくくわしいじゃん。ほとんど記事だよね。これは、きっと、いろんな立場の人たちが
「論座」見るでしょうね。論座編集部の作戦は、成功したのではないかな。でも、この
写真、かっこよすぎるんと違う? 虚構ですな、虚構、あははは。
論座の写真も、新聞の写真も、 投稿者:らら 投稿日:07月06日(木)13時15分16秒
いい写真だな〜と思いましたヨ。
やっぱり対談の場合は写真って重要だと思うんです。
そのときの空気とか、喋っている人たちの表情とか、雰囲気を知りながらテキストが読める。
上智シンポの写真もあるのでしょうか・・・。
今朝の朝日新聞 投稿者:森岡正博 投稿日:07月06日(木)09時25分38秒
の「くらし」面に、上智のシンポジウムについての簡単なレポートが載っていました。
これは、大阪版です。ひょっとして、これが、東京版に載ったものの一部なのかな?
それとも、違うのかな? ちなみに、文章だけで、写真はありませんでした。
朝日新聞の記事 投稿者:ぺっとん 投稿日:07月05日(水)23時38分36秒
はじめて投稿します。
朝日の記事って、あれ論座の宣伝なんですねぇ。
言われてみて改めて気づきました。あれは普通の記事(上智シンポの報告)だと思って読んでいたので、こういう話題が
「文化面」に載っているうちはだめだなぁ、社会面とかにのらな・・・とか思って読
んでました。
ちなみに、私も写真がいいなぁと思ってみていました。
みなさまお待たせしておりますが、全文公開、もう少し待っていただけますか?
今日、「論座」が発売になったんですよね。ぜひ合わせてお読みになりたいですよね。きっと。
やはりお待ちかねだというのはヤマヤマなのですが、すみません、
しばらくお待ち下さい(…と昔のテレビでたまに出てましたよね(^^)。
はじめまして 投稿者:ひろ 投稿日:07月05日(水)22時28分13秒
朝日新聞を見て驚いてやってきました。
「論座」早速買いに行ってきます。
論座 投稿者:森岡正博 投稿日:07月05日(水)21時15分16秒
「論座」対談、やっと読みました。うーん。みなさん、どうでしたか? 私の印象としては
かなりすれちがってますねえ、やっぱ。まったく噛み合っていないんじゃないのか。それ
に、言いたいことが、言い切れてない。上智のシンポのときのほうが、きちんと言えた
って感じです。でも、私が対談当事者だから、そういう感想になるのかなあ。
「論座」対談へのご意見をお聞かせください。
カエルさん 投稿者:森岡正博 投稿日:07月05日(水)21時08分38秒
補足ありがとうございました。でも・・・・。現物がないから、さっぱり意味が
わかりません(T_T)。明日、入手できる予定なので、解明されることでしょう。
(でも、他地区の方はやっぱりわからないよねえ・・・)。
補足です 投稿者:カエル 投稿日:07月05日(水)20時40分56秒
東京版の朝日新聞を見てない方へ、補足です。
今日(7月5日)の朝刊に載っていたのは、いちお「論座」の広告なんだけれども「文化面」に掲載されていたのです。だから注意して読まないと「論座」の広告だっていうのはわからない。ララさんも言ってますとおり、記事自体かなり大きくて、発言の大まかなポイントが押さえられてるから、広告に見えない。内容がちゃんとまとまってるから普通の記事に見えるのです。で、載ってる写真なんですが、これもかなり大きめ。対談の様子で、おふたりの上半身が出てます。この写真は論座には載ってないものです。
写真 投稿者:森岡正博 投稿日:07月05日(水)18時28分32秒
朝日新聞東京版にあったというのは、記事のなかの写真なのですね。勘違いしていました。
あはは。
「論座」の写真 投稿者:らら 投稿日:07月05日(水)14時04分03秒
がとてもいいです!まだ中身を読んでいないのですが。
しかし、今日の朝日新聞の朝刊の記事はもっといいです!
朝日新聞の記事の写真はもちろん「論座」の宣伝なのですが、そこにとどまっていなくて、
記者さんのこの問題に対する深い読みを感じさせられます。
上智シンポジウムのことにも言及されていますね。森岡さんが大阪でこれを読むためには
どうしたら良いのでしょう・・・。送りましょうか。
読書三昧 投稿者:なおみ 投稿日:07月05日(水)13時49分18秒
「脳死の人」と「論座」をついさっき書店で購入してきました。今から読書タイムです。
知恵熱だすかも。
たむゆうさん 投稿者:森岡正博 投稿日:07月05日(水)12時59分18秒
たしかに、フロアからの発言自体がシュールだったのではなくて、壇上からの講演
(とくに町野さんの、専門家しか充分には理解できなかったであろう講演)と、その後の
やりとりとの、落差が、とてもシュールに感じたのでした。かつ、私と町野さんの壇上の
やりとりも、ほぼ、かみ合っていなかったわけで、それもシュールです。「論座」の対談
も、かなりシュールでしたよ。発売されたものは、どういうふうになっているのかな?
続・シンポ 投稿者:たむゆう 投稿日:07月05日(水)12時46分54秒
シンポでの町野氏の講演は、けっこう挑発的であると感じました。それを森岡さんは返すべきところは返し、かわすべきところはかわして(?)おられたように思いました。お二人の論争がききたかったという声もありますが、シンポ組織者やコーディネータの意図は別のところにあるのでは、というように感じます。ヒートバトルは「論座」上で?
(これから買いに行くぞ)それから、シンポの質問に関して「シュール」という形容があるのですが、すこし気になっています。
カトリックセンターの主催であることからしても、当日の参加者は日ごろから脳死問題を考えている人ばかりではなかったと思います(とはいえ考えているであろう「反対派」の人も、表にはでなかったけれど「推進派」の人もいたとは思いますが)。
シンポで出された質問は、それぞれの立場からの素朴な問いかけであったはずで、脳死問題に対するごく普通の人の反応を反映しているように思えました。
「シュール」なのはその人たちの問いかけなのではなくて、脳死問題なのではないかと思います。
「論座」発売 投稿者:森岡正博 投稿日:07月05日(水)12時30分44秒
のようですね。まだ見ていません(T_T)。カエルさん掲示板によると、東京の朝日新聞には
写真入りで「論座」の広告が出たとのことですが、関西では、写真も内容もなしで、ただ
対談タイトルのみが記載されていました。広告って、関東と関西で異なるんですね。
知りませんでした。
シンポ 投稿者:森岡正博 投稿日:07月05日(水)08時16分10秒
このHPを見て、シンポに行った人って、何人くらいいるのかなあ? いまの時点での
インターネットの実力を知りたいんですが・・・。私が把握しているかぎりでは、10人
はいると思われますが。>なおさん ようこそ。
はじめまして!! 投稿者:なお 投稿日:07月05日(水)00時40分59秒
はじめまして。
上智大学のシンポジウム行ってきました。
楽しかったのですが、時間が短すぎてあまり、3人の先生方の
話がじっくり聞けなかったのが残念です。
森岡先生の話を直に聞けて感動しました。
たいした事は言えないのですが、それぞれの人によって
脳死問題の受け取り方というのはほんとに様々だと思いました。
私ももっと町野先生とのバトルが見たかった・・・・
赤信号、みんなで渡れば怖くない。っていうのには驚きました(笑)
私は個人的には生と死の境界線はもともと、
あいまいなものだと思うんですけどね。
町野先生の議論はすごく、政治的なレベルの話じゃないかと思いました。
森岡先生が言っていたように、その議論はその議論で必要だとは
思うのですが。
たいした事言えないのにだらだら書いてすみません。
これからも直に話を聞けるチャンスがあれば行きたいです。
それでは。
レポートですう 投稿者:カエル 投稿日:07月05日(水)00時00分40秒
上智大シンポのレポートアップしてみました。
いつものことながら粗末で雑なレポートですが、興味のある方はぜひどうぞ。・ららさん
一足はやい宣伝、ありがとーございます。http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4728/
http://www.kinokopress.com/inko/jp/jochi.html
カエルさん7/2レポート 投稿者:らら 投稿日:07月04日(火)23時12分10秒
カエルさんが上智シンポのレポートしてくださってますね。
わたしと一緒に行った人は、もっと町野さんと森岡さんの論争が聞きたかった!って
言ってました。で、もう一人の人は、森岡さんとマシアさんの対話が聞きたかった!って。
わたしは、というと、シュールな質問にもうなずきながら真剣なまなざしで答えてくださる
四人の先生方に感銘を受けておりました。http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4728/jochi.html
http://www.kinokopress.com/inko/jp/jochi.html
臓器移植法の英文バージョン 投稿者:森岡正博 投稿日:07月04日(火)22時16分05秒
「論座」の対談のときに、町野さんは、「日本の臓器移植法は恥ずかしくて英訳できない
から、まだ政府はしていない」とおっしゃっていましたが、民間ではすでに英訳がなされ
ていました。↓のHPをご覧ください。http://www.kuleuven.ac.be/facdep/medicine/itcs/latest/japan.html
http://www.med.kuleuven.ac.be/itcs/
訂正と、補足 投稿者:yukiko 投稿日:07月04日(火)05時49分24秒
>ところで、わたしは、死を美化したくありませんし、だれにでも平和な死がおとづれる
>ともおもいません。だって、死のプロセスが長く苦しいほど、再生の朝はとても美しい
>から。だから、個人の、死のプロセスに介入するには、やはり、本人が納得していなけ
>れば、私はこわいとおもうんですよ。わたしには、助けてくれるものはいませんし…。
>ひとりで、そこを渡らねばならないのです。↓
ところで、わたしは、死を美化したくありませんし、だれにでも平和な死がおとづれる
ともおもいません。苦しんで死んだひとが、解放されたようなきれいな顔でなくなった
のを何人かみたことがあります。せまい身内の話ですけど…。
だから死(の過程)は、それぞれ違いながらも、平等な自然なものとしてあるとおもって
きました。
脳死の人からの臓器提供では、その死(の過程)に介入され、中断させられてしまう。
本人が、その点を納得している必要があるとおもいます。
わたしは、無断でやられるのはこわいです。
町野さん 投稿者:yukiko 投稿日:07月04日(火)02時14分22秒
「家族の同意」とおっしゃる根拠を、わたしなりに(勝手に)考えています。
提供に際して、家族の同意だけってことは、つまり、主体が、擬人化をゆるさない存在である、とおもわれました。成熟のその先をみておいでなのかな、とおもいました。もしそうであるならば、お気持ちは、理解しますけれど、それはもう「人間」像とはいえないのではないでしょうか?医療って、いつだって人間の業を背負っているとおもうんですよ。
自分の業を主体が背負わない、背負うことが許されないとき、同時代の個人は「透明な存在」になってしまいませんか? いかがでしょうか。人間は、誕生したのちも、生きているあいだになんども再生し、ふたたび死ぬ。その繰り返し。
死の過程は、最後の、再生へのプロセスと考えることが、できるのかもしれませんね。ところで、わたしは、死を美化したくありませんし、だれにでも平和な死がおとづれる
ともおもいません。だって、死のプロセスが長く苦しいほど、再生の朝はとても美しい
から。
だから、個人の、死のプロセスに介入するには、やはり、本人が納得していなければ、
私はこわいとおもうんですよ。
わたしには、助けてくれるものはいませんし…。
ひとりで、そこを渡らねばならないのです。
行ってきました 投稿者:たむゆう 投稿日:07月03日(月)12時53分05秒
レポートなんてとてもとても...ですが、ひとこと感想を。立場の異なるパネリストの方々から、たっぷり考える材料をいただいたという思いです。
町野氏の意見はこの問題に対する考え方の多様性を思えば強引に過ぎるという感じを
否めませんが、法学者としての良心と人類に対するある種の楽観主義に基づくのであれば
部分的に理解できないわけでもない、と思いました。脳死と臓器移植を切り離して考える必要性、脳死に関する情報公開と知識の普及、
そしてこどもへの法適用の問題。混乱しつつ余韻をかみしめています。
それにしても脳死問題って何なのだろう...。
たのみましたぞ 投稿者:なおみ 投稿日:07月03日(月)10時42分50秒
シンポジウムは盛況のうちに終わったようで、ごくろうさまでした。行けなくて残念でしたが
暑かったようなので、行かなくてよかったような気も・・・(笑)
全文公開を心待ちにしております。シンポに行かれた方のレポートもあるかしら?
楽しみにしてます。臨場感あふれるやつを期待してますよ〜。
Yahoo 投稿者:森岡正博 投稿日:07月03日(月)10時29分51秒
われわれの移植法改正案ページが、Yahoo!に登録されています。http://www.yahoo.co.jp/Health/Procedures_and_Therapies/Organ_Transplants/
お疲れさまでした(^^) 投稿者:シンポジウム関係者 投稿日:07月03日(月)08時03分55秒
みなさま、ほんとうに暑いなか(暑すぎでしたね^^;)、ありがとうございました。
約300名の方々がいらっしゃいました。南は九州から、北は北海道まで、
ほんとうに各地から来ていただいて感謝しています。
先生方、森岡先生、ほんとうにありがとうございました。
会場全体が「耳」になっている雰囲気を想像していただけたら、と思いますが、
いわゆるおきまりの(お祭り騒ぎの)シンポではない濃さに満たされていたと思います。
中学校や高校、大学の先生方や、医療現場の方もおられ、また、学生さん(大阪からも)や、主婦の方、いろいろな宗教関係の方も、そして、移植支援の方も、反対の方も、
子どもさん(一人いらっしゃいましたね)からご高齢の方まで、とにかくさまざまの方が、集ってくださいました。そして確認しているところでは2社の新聞社の方が来て下さいました。
やはりシンポの醍醐味は、文字の上からだけではつかみきれないものをからだで知るところにあると確信しました。それぞれのご発表には血の通った訴えがあったわけです。
そのように語り、そのように聞きながら、行く道を選んでいくことになるのではないでしょうか。
先生方のご了承をえて、HP上で全文を公開いたしますので、またそのときは見てください。
ほんとうにありがとうございました。
今日のシンポ 投稿者:森岡正博 投稿日:07月02日(日)23時39分03秒
みなさん、お疲れさまでした。けっこういろんな方が来ていましたね。脳死反対の方々も、移植支援の方々も、来られていたようです。論点が、けっこうたくさん出て、割と濃かったんじゃないかとか思っています。しかし、今日は午前中から暑くて、私は開始以前に、すでにばてていました・・・。
朝日新聞の記事 投稿者:シンポジウム関係者 投稿日:07月01日(土)01時32分17秒
『検証:揺れる脳死の現場』を読んでみて、
よりこのシンポの特徴があきらかになったのですが、
おそらく、こういう記事のレベルの話しはほとんど出てこないのではないでしょうか、
ということです>先生方(^^)。
かと言って、以前、向井さん達が企画された「脳死が人の死か?そうじゃない」というレベルの話しというわけでもない。
しいて言えば、哲学的なアプローチをしながら、生きるための選択のための「知」のレベル、を話していく・・・という感じでしょうか。http://www.info.sophia.ac.jp/cathocen/
http://www.sophia.ac.jp/J/first.nsf/Content/cathocen_2000
いよいよ・・・です。 投稿者:7/2シンポジウム関係者 投稿日:07月01日(土)01時18分48秒
わたしたちのHPアップいたしました。
いよいよ前日ですので、ですね。意気込みあらたに、という感じです。読んでみてください。
ネット中継っていうのができれば面白そうなんですが、無理でしょうね。
眠れませんねー(^^)。http://www.info.sophia.ac.jp/cathocen/
http://www.sophia.ac.jp/J/first.nsf/Content/cathocen_2000
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