森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2000年06月27日〜07月01日

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↓「無痛文明論専用お便りコーナー」より


レシピエントの立場 投稿者:てるてる  投稿日:07月01日(土)03時35分10秒

そして、レシピエントの立場でも、こどもに移植手術を受けさせることが愛だとは限らないし、移植を受けさせないことが愛だとも限らない。愛は決まった形をとらないから。

そうだとすると、こどもの臓器移植に関して、法律はどんな有効な規制や介入ができるのでしょうか。
こどものドナーの側を家庭裁判所が審査するとしたら、なにをほんとうに審査すべきなのか。
レシピエントのほうはまさか家庭裁判所は必要ないとしても、どうなのか。
最低限の基準とか目安のようなものがなにか決められるのかもしれない。
それとも何も決めてはいけないのかもしれない。


脳死を死とする立場 投稿者:てるてる  投稿日:07月01日(土)03時03分56秒
脳死を死とする立場からは、脳死状態のこどもを長期間維持することが虐待である、という考え方もあると思います。親の一方的な自己満足的愛のために、人間らしく死ぬ機会を奪っている、という考え方もある。
一方で、こどもの臓器を提供するのにも、親の一方的な自己満足であるから虐待だ、という考え方もある。
脳死状態を維持しつづけるのが愛だとは限らないし、かといって、脳死状態を早く終えて人工呼吸器を外そうというのが愛とは限らないし、臓器を提供しないのが愛とは限らないし、臓器を提供するのが、愛だ、とも限らない。
私は脳死を生とする立場をとり、脳死状態のお嬢さんを10ヶ月以上介護されたお医者さんの愛情を信じますが(仏教系サイトで紹介されていた)、必ずしも脳死状態を長く維持することが愛ではないという場合も確実にあると思います。

家族の愛 投稿者:らら  投稿日:07月01日(土)01時45分35秒

家族が子どもの意思表示なしに提供することに同意する、とき、
もしも、1)外部(移植コーディネーター、医師)からの圧迫なしに、希望する、のと、
    2)外部(      〃      )からの圧迫ありで、同意する、のと、
違うような気がします。
「圧迫」という言い方は申し訳ありませんが、強調するために使いました。
「打診」に言い換えてもいいかもしれません。
また、たとえ1)の場合でも、てるてるさんのおっしゃるように、審査せねばならぬのかも
しれません。しかしほんとうに家族の愛の絆で結ばれていて、涙を流しながら、
わが子の臓器をささげる親もいるかな、と思います。

皆様 投稿者:てるてる  投稿日:07月01日(土)00時02分56秒

誤解を招いてしまったようで恐縮です。
私は町野案を条件付きで認めるが「てるてる案」を捨てるつもりはない、
という考えで書き込みしました。
町野案のいうような、単に家族の同意だけでは信用できないが、その家族の
同意を家庭裁判所で審査することで歯止めをかけられるだろう、と思いました。

それは、メインボードの
「第三者による認定 投稿者:てるてる  投稿日:06月27日(火)18時13分22秒」
で書いたことともつながっています。
ここで私は、乳幼児の臓器提供のことが頭にあったので、そのつもりで書き込ん
でいました。しかし、後から気がついたのですが、森岡さんは、こどものドナー
カードのことを書かれていたのでした。

どちらにしても、「てるてる案」を放棄するつもりはありませんでした。
これはこれ、あれはあれ、という考えでしたが、そういう考え方は、混乱
を招くものでした。ごめんなさい。m(_ _)m


いろいろ 投稿者:Le Pissenlit  投稿日:06月30日(金)23時21分13秒

てるてるさん
半年以上のてるてるさんの勉強は大いなるものでし・・。
あの習作を重ねて労を経て生まれた案ですし・・。
作品は自分の手元を離れて他者として語るように、てるてる案もてるてるさんを
離れて存在するのでは?。議論を深めるのに必要な考えですし・・。
勿論現在のてるてるさんの考えも大切にしたいです。なかなか回答がある問題
ではありませんから。

朝日新聞のタイムリーな記事を読みながら、それぞれの場でこの問題に
出来る事をしているなと感じ入った次第です。


自己決定 投稿者:無痛文明の住人  投稿日:06月29日(木)23時42分03秒

f( . .さん
これは顔文字だったんですね。

HPの常連のみなさんのディスカッションを全然フォローしてなくて、森岡先生の論文を初めて読んだ私ですが、町野案の「自己決定」ということばは「?」のオンパレードです。
初めて町野案を読んだ多くの方は、ぎょっとすると思います。

町野先生はきちんと物事を考えられる方なのでしょうから、敢えてこういう風な無理なことば使いをしてまで、臓器移植を推進しなければならない立場にいらっしゃるのだとしたら、その気持ちはどこから湧いてでてくるのかな、と疑問に思いました。その辺り、てるてるさんが詳しく解説してくださったわけですが(ありがとうございました)。

他方、森岡先生の論文は、私にとってはトコロテンのようにつるつると違和感なく入ってきました。
ちくま新書の『生命観を問いなおす』で、森岡先生が梅原猛さんの「菩薩業」としての臓器移植論を徹底批判しておられたんですが(要するに、菩薩業としての臓器移植というのは、結局のところ、臓器を医療資源とみなして、臓器提供者の善意のあるなしに関係なく、発展していく現代医療のシステムに抵抗できないという論旨だったような気がしますが)、その続編という感じがしましたです。森岡論文と町野案の決定的な差異は、システムに対する警戒感の有無かな、と思ったのですが。

いずれにせよ、今度出る『論座』の対談を拝読したいと思います。


問題意識の 投稿者:yukiko  投稿日:06月29日(木)23時15分13秒

確認作業ですけど、揺れながら、迷いながら、ときどきあらためてみるっていうことが
必要なのかもしれませんね。RAINYさんもおなじようなことを書いてらっしゃいましたが。
慎重に考えてみたくなるときってありますもの。

わたしの、臓器移植における問題意識のありかは、個人、自他の区別にあります。
だから、個人の意思表示というのは、わたしにとってはとてもだいじ。
でも、そうすると、こどもドナーの提供意思をだれがしめすのか、って大問題が解決し
なくて…レシピエントの医療を受ける権利はひつようだし。悩む(T_T)


てるてるさん 投稿者:森岡正博  投稿日:06月29日(木)22時03分23秒

もしそうだとすると、てるてる案の根幹が崩れてしまいますね。

本人の事前意思の確認を、ドナーカードでなく、家庭裁判所でやってしまう、ということになりますね。結局は。とすれば、

(1)てるてるさんが以前から執拗にこだわっていた、「家族」とは誰なのか、どうして家族だからといって本人のことがわかるのか。という点がうやむやにならないでしょうか?
(2)脳死移植は、本人の「死生観」にかかわり「本人の体への侵襲」をともなうものですから、「どちらかといえば肯定的」といったあいまいな判断で断行されるのは、本人への裏切りとなる危険性がともなうのではないか。日本の場合、3割の人は脳死を人の死とみなしていません。これは、97年以前に、忖度論ということで問題になった論点だと思います。
(3)家庭裁判所が肯定すればいいのだったら、ドナーカードを普及させなくても、家庭裁判所へどんどんもちこんで、家庭裁判所に肯定意見を出させる圧力を作ってしまえばいい、ということにならないでしょうか?

いずれにせよ、「本人の意思」原則を軽視する土壌を作ってしまうと思いますが、いかがでしょう。

私は、現行のてるてる案が、もっとも首尾一貫していてわかりやすいと思っています。


ふうむ 投稿者:てるてる  投稿日:06月29日(木)19時27分06秒

「自己決定」という言葉の使い方は誤っていますが、気持ちは私もわかるような気がしています。最近、私は、町野さんのいうことも条件付きで受け入れられるような気がしてきました。以下のように。

現代医学は、脳死から心臓停止までの状態を長く維持できるようにした。その間に、もし、他の重篤な不治の病の人に、生体としての機能を保っている臓器を移植すれば、その人の命を救うことができるようになった。これは、天の恵みである。

脳死になるのはごく一部の人々である。
けれども、もし、多くの人々が、前もって、脳死になった場合のことを考えて、そのときには臓器を提供する決心をするならば、その意思を生かすことによって、人の命を救うことができる。
だから、脳死になったら移植を待つ患者のために臓器を提供することができるかどうか、多くの人に問い掛けてみるのは意義がある。
ただし、脳死とはどんな状態か、移植とはどんなものか、正しく理解できるように、充分な情報を伝えなければならない。
脳死とはなにかがわからない人から、移植患者のために臓器を提供するのは、まちがっている。

それでも、生前に脳死状態になったときのことを何も表明していなかった人がほんとうに脳死状態になったとき、その状態が一ヶ月、二ヶ月と長引いたなら、脳死状態の患者の家族が、移植について考え、臓器を提供することがあってもいいのではないか。もう終りにしてもよい、と思ったとき、どうせ終りにするのなら、人の命を救うために、臓器を提供してもよい。

ただしそれは、臓器を提供して亡くなる人のことを、その人が生きていた証を残すためである。移植をしたら、臓器を提供した人の名を留め、その人の名を記憶して貰わねばならない。
そうでなければ、ただ、中古品をリサイクルするように臓器提供をするのであれば、それは脳死状態で亡くなった人の生を軽んじることになる。
だから、移植のために提供する臓器には、臓器を提供する人の人格権がある。
その人格権は保証されなければならない。

そのようにして、臓器提供が匿名ではなく、名のある人の行為として覚えられ、その人が移植を受けた人からも弔いの言葉を手向けられるならば、そこで、移植という医療は実を結んだと言える。移植はひとりの死の始まりを迎えた人と、死の淵に近づきながら生きるために苦しみを耐えている人との間に、目に見えないコミュニケーションが発生し、それが臓器を提供した人の遺族と、移植を受けた人とが新たに関係を結ぶことによって、実体化する医療である。

そこで、脳死の患者の家族が臓器を提供することが許されるには、次の要件が必要であると考える。

脳死後の臓器提供について何も意思表示していなかった人が、臓器移植に反対だったり批判的だったわけではなく、どちらかというと肯定的だったことが証明されて、脳死状態が既に長期間継続していて、看取り手は、まだこれからも長期間看取りを続ける経済的精神的余力をじゅうぶん残しているけれども、移植医療の意義をよく理解していて、それに協力しようと考えたのである。

以上のことを、家庭裁判所が審査する。

これ、メイン掲示板のほうの話題ですね。すみません。m(_ _)m


顔文字は反省f( . . ;ase 投稿者:f( . .  投稿日:06月29日(木)16時15分37秒

顔文字はキーボードによっても違いますね。自宅と職場との違いで、顔文字が同じには書けないとわかりました。ここのf(. .は同じものです。あ〜困った。投稿者欄とまた違うかな??
てるてるさんにもご迷惑おかけしたし・・・ホントは反省してるんですが。
>無痛文明の住人さん
そうなんですよね、そのような存在であるとはどういう思いでおっしゃるのか・・・。
でも、多分、6番のような感覚に陥るのが最近よくわかるんです。文明の流れに沿うには、そうするのが一番だぁみたいな気持ちって生まれてくる。申し訳ないけど(ホントはこの例えで書きたくはないけれど)、移植する方々への資金の援助の気持ちも、きっとこのことに通じて行かざるをえないのではないかという気がするのです。だからこそ、心が痛むのです。

みなさん 投稿者:無痛文明の住人  投稿日:06月28日(水)23時45分11秒

書き込みありがとうございました。拝読しまして、いろいろ感じ、考えることはあるのですが、またその内に書き込みます。

シンポジウムの予習のため、森岡先生の「論座」の論文(2月)を初めて読みました。
こちらのHPの方々と比べると、遅ればせながら、という感じですが……。
忘れないうちに、雑感をノート代わりに書き込ませていただきます。

@まず、論旨が明快なので、読みやすかったです。
A臓器移植をすべきかいなかを、子供たち自身が自由に決定できる権利を尊重しようという姿勢に共感した。
B森岡先生の文章からは「自分の命のことに関して、きちんと真剣に考えたいから、そのチャンスを奪わないで……」と言う〈子供〉の声が聞こえるような気がした。
C焦点になってるのは、単純な法律論ではなくて、自分の命をどうするのかという問題にじかにつながっているんだな、と思った(当たり前か)。
D法律を改正しようとしている人々には、資源としての臓器を効率よく収集するシステムを作り上げたい、という欲望、あるいは「コントロール理性」に突き動かされているんでしょうか?
E町野案の「我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである」は
「えっ?、本気ですか」と思いましたです。


↑「無痛文明論専用お便りコーナー」より

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↓「Life Studies Homepage お便り一覧」より


f(..さん 投稿者:てるてる  投稿日:07月01日(土)00時41分07秒

無痛文明論ボードのほうを見てね。(^_^;)m(_ _)m

「脳死の人」を売っている書店一覧 投稿者:森岡正博  投稿日:06月30日(金)23時37分47秒

「脳死の人」を7月3日くらいから売っている書店の全国一覧が、「脳死の人」掲示板
↓にアップされました。すごいリストなので、ぜひ、見てみてください。

http://www69.tcup.com/6912/noshinohito.html


たむゆう様 投稿者:シンポ関係者  投稿日:06月30日(金)23時25分46秒

ありがとうございます。やってみます。

朝日新聞 投稿者:たむゆう  投稿日:06月30日(金)22時00分25秒

朝日新聞の昨日と今日(29と30日)の第3社会面の「検証」が脳死移植について報道していました。
脳死判定手続きの複雑さと現場で起きている混乱(→判定ミス)。
患者のプライバシーを楯にした情報公開の遅れと厚相の私的諮問機関である脳死下での臓器提供の妥当性について「検証」する会議の機能の不充分さを指摘していました。
あさってのシンポジウムを目前にまことにタイムリーな記事で担当者に情報がわたれば関心を持ってもらえるのではないかと思いました。記事はちなみに記者名入りでした。
「シンポジウム関係者」さんは、報道各社への通知はされたということですが、今いちどアプローチしてみられてはいかがでしょうか...。

「脳死の人」販売 投稿者:森岡正博  投稿日:06月30日(金)20時05分45秒

法藏館から連絡があって、シンポジウム会場で、増補決定版「脳死の人」を販売する
ようです(よね?関係者さん)。まだお持ちでないみなさん、ぜひ、会場で一足早く
手に入れましょう(^^)。

いよいよ、明後日です・・・ 投稿者:7/2シンポジウム関係者  投稿日:06月30日(金)18時47分18秒

上智大学10号館講堂の準備できました。
張り紙とかすると、いよいよって雰囲気が出てきますね。
いかにもシンポらしく、講演者の名前を貼り出したりですね、看板を立てたり・・・。
明日の土曜日はゆっくり祈って(カトリックセンターモード)ですね、日曜日を待ちましょう。
しかし相変わらず、報道関係の方からのご連絡がまったくありません。
今日と明日じっくり考えてやっぱり行きましょうという気持ちになってください。
それから来られる方へ、四谷駅を降りたら上智大学の方向に来ていただくのですが、
駅からも見える新宿通りに面した北門は日曜日閉まっていますので、
聖イグナチオ教会と土手の間の道をくだって、東門というところから入ってください。
10号館講堂は、東門を入って最初の十字路を右に曲がってまっすぐのところにあります。
わからなかったら守衛さんに聞いてみてください。
1:00開場です。開演は1:30です。
四谷駅から10号館までは10分くらいはかかります。お時間、お間違えのないよう。

http://www.info.sophia.ac.jp/cathocen/inochi.html


撤回します、下記(朝の分) 投稿者:f(..  投稿日:06月30日(金)17時50分18秒

どうも、なんかおかしいです、私の展開って。f(^^; ね、てるてるさん。
てるてるさんは他の国の法律もちゃんと見た上で考えらておられる。
おそらく、昨日は私の素人考えに押されて、ああいう風に書きたくなってしまわれた、と
それが今読み返すとわかってきました。
てるてるさん、初心大切。もう一度はじめからてるてるさんのを読み返してみます。

昨夜のてるてる・森岡さん 投稿者:f(..  投稿日:06月30日(金)09時18分24秒

わ〜い。あのね、今日の顔文字って目がすこし大きくなったでしょ、いま偶然にわかったの。
うれしいな・・・っておめでたい人間ですな。(*^^*)
も・と・い!
>無痛文明論のコーナーにありましたが、こちらで意見(感想かしら)をカキコさせて下さい。
昨夜のてるてる案はいまの社会をよく見ていて、そのほうがわかりやすいと思いました。

そして森岡さんのご指摘にあるように、確かに家族の定義等が薄れてきますが、まずはそこからの出発のほうがわかりやすいのではないでしょうか。マイナス面はすでに討論されており、警鐘は森岡ファンが盛り上げるのかも?・・ううmmm。

ドナーカードのことはてるてるさんは前提にしていると感じました(出た!)
あそこには書いてないけどドナーカードも必要なんですよ、きっと。
あの場合は、「意思表示をしようとできる人が、意思表示しないまま脳死状態を引き起こした時」「大人も、子供も、脳死という認識が難しい日本社会にあってのいまの時点での方策」に用いることはできないでしょうか。だから、ここまでは意思表示できない人への対応と考えました。

だから(この接続詞でいいのかな?)脳死を考えることができる人はドナーカードで意思表示をしていく。

で、意思表示をした人が死んでいくときの権利、意思表示はしたくないし脳死のことも考えたくない人の権利というのがあればいいな、って、ふっとあの時思ったのでした。

法律って国民の義務を決めるんでしたっけ?(<・・・どう書いたらいいかわらなくて)


シンポジウム関係者さま 投稿者:yukiko  投稿日:06月29日(木)01時05分37秒

もういちど、いそいで、厚生省の記者クラブの幹事社に連絡して、資料配布を申し出て
みられてはいかがでしょう。(それとも、別の記者クラブにされました?)
記者のかたのなかには、直前に時間があれば、行ってみようか、とおもわれる方も、
いらっしゃるとおもいますよ。

報道関係のみなさま 投稿者:7月2日シンポジウム関係者  投稿日:06月28日(水)23時03分01秒

この掲示板をお借りして、報道関係のみなさまにシンポジウムの取材についてお願いします。
もしもこの掲示板を見ている方でお知り合いに報道関係の方がいらっしゃったら宣伝して下さい。
すでにお送りしているはずなのですが、取材申しこみがまったくない、という状況です。
10月に「脳死、臓器移植法」の見直しをむかえるという事実さえ、あまり報道されていない現実にあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
このような対話の場を設けて、基礎的な議論を積み重ねたいという願いを届けていただきたいのです。大学内の一センターとしては、このような願いを報道関係の方々に頼る他、方法がなく、こうしてこの掲示板を頼りにお願いする以外ありません。
どうぞよろしくお願いいたします。

http://www.info.sophia.ac.jp/cathocen/inochi.html


「脳死の人」 投稿者:森岡正博  投稿日:06月28日(水)08時20分34秒

が、すでに上智大学購買部で販売されているようです。詳しくは、特設「脳死の人」掲示板をご覧ください。

http://www69.tcup.com/6912/noshinohito.html


補足 投稿者:森岡正博  投稿日:06月27日(火)18時50分13秒

第3者による認定というのは、子どものあらかじめの意思表示と、親のあらかじめの承諾があったとしても、それが虐待親によってねつ造されている可能性があるので、子どもと親がともに自発的にOKしたのだということを、さらに第3者が確認することが必要だ、という意見です。だから、ドナーカードには、本人、家族、第3者の、3つの署名が必要ということになります。

臓器移植禁止法という批判 投稿者:てるてる  投稿日:06月27日(火)18時30分26秒

もともとひとりのひとのからだのなかにある臓器を他人のからだに移すというのだから、そんなことがあたりまえであるはずがありません。移植を受ける人も、免疫抑制剤を飲んで、つまり、自分のからだの免疫能力を下げるという、自然が与えた自己治癒力や自己保存の本能に逆らうようなことをしないといけないのですし。

移植を受けるほうは、本来もうすぐ失うはずの命を拾って、二人分の人生を生きることができるが、臓器を提供するほうは、そこで死んで一回こっきりの人生が終わってそのまんま。というような算数をすると、移植を受けるほうと臓器を提供するほうとは、不平等だということになります。この算数は嘘ですけど。

確かに、移植手術があまりにも希少であっては、医療としての意味がなくなるかもしれません。だから、移植禁止法という批判をする気持ちもわかりますし、私も、もっと多くてもいいはずだと思いますけれども。だからって、次々と脳死状態の人からの臓器移植が行なわれたりするとこわいとも思います。例によって、終りのない矛盾。


本人意思の確認 投稿者:てるてる  投稿日:06月27日(火)18時17分56秒

子供の場合は、本人意思の確認も審査の対象にしたほうがいいのかもしれません。

第三者による認定 投稿者:てるてる  投稿日:06月27日(火)18時13分22秒

家庭裁判所の審査を受ける、という方法もあるのではないでしょうか。
これは、石原明著「医療と法と生命倫理」の283ページに、ドナーカードがなかったときの、本人意思の確認の方法として載っています。
この方法は、町野朔さんの案に追加するといいかもしれない。

脳死状態の子供から臓器を提供する場合は、本人意思の確認ではなくて、親などの保護者が子供の臓器を提供できる条件を審査することになるのではないかと思います。
脳死状態が既に長期間継続していて、親は、まだこれからも長期間介護する経済的精神的余力をじゅうぶん残しているけれども、移植医療の意義をよく理解していて、それに協力しようと考えた、とか。


さてと 投稿者:森岡正博  投稿日:06月27日(火)10時27分56秒

あはは、管理人がエヴァみたいに暴走しちゃったんで、ここらで話題を元に戻そうかな。

脳死の子どもからの臓器摘出について、私は、子ども本人のあらかじめの意思表示と、親のあらかじめの承諾が必要というふうに考えていますが、授業で議論したときに、それに加えて第3者の認定(?)も必要ではないかという意見が複数の方から出されました。というのも、虐待で脳死になる子どもの例を紹介したからです。第3者による認定というのは、たしかに考慮すべき論点だと思いました。てるてる案は、すでにそのあたりを繰り入れていますね。しかし、そこまでやると、「子どもからの臓器摘出禁止法じゃないか」という批判がすぐにでも出てきそうです。


シンポジウム 「いのちと死をみつめる・・脳死、臓器移植・・・脳死、臓器移植に関する法をめぐって・・・」
2000年7月2日 上智大学カトリックセンター