金のないやつぁ… 投稿者:yukiko 投稿日:06月11日(日)23時50分15秒
介護保険もそう、先端医療もそう。
金持ちとそうでない人(わたし)とで、本格的に二極分化されていきそう…。
医療と福祉が現状追認のままうごいていく…。
民間保険 投稿者:森岡正博 投稿日:06月11日(日)23時45分03秒
ということは、要するに、金もってないやつは、積み残しにするってことですね。
アメリカ形になるのでしょうか、こういうところまで。
なるほど… 投稿者:yukiko 投稿日:06月11日(日)23時27分16秒
てるてるさん、ご紹介どうもありがとうございます。↓すごい。この記事おどろいた。
理念とか人間像とか言ってるまえに、もう民間で社会保障やるのね。
そこに医療があって、ニーズがあるひとが現にいるのだから当然のことか。てるてるさんがおっしゃったような「先端医療の明るい面も暗い面も」共有する、
その上で個人が選択する、そういう一場面がないままでいいのかなー。
専門家まかせでいいのかなー。
やはり訴訟とか、医療事故とかが起きないと、あらたな理念とか権利創造には
ならないのかなー。ふくざつ…。
先端医療 投稿者:てるてる 投稿日:06月11日(日)21時50分15秒
日本医師会による、「先端医療は民間保険で」という記事が出ています。↓
臓器移植も先端医療に含まれています。ところで、クローン、遺伝子操作などは、漫画や小説でもテーマに取り上げられています。既に、クローン羊ドリーが報道された頃、東野圭吾が「分身」で、一人の女性から生み出されたクローンの少女二人が、育ての親に愛され、「生みの親」である女性からは疎まれる、という話を書いています。吉田秋生は「夜叉」でクローンと遺伝子操作を描いています。他にも、いっぱいありそう。
先端医療によって「生み出された」人々の人間的な苦しみと、彼らをとりまく人々の、差別的感情や、愛情や、先端医療を利用する企業や国家などのことも描かれています。
ちょっと、「超人ロック」なんかのSF漫画で、超能力者の人間的な苦しみが描かれていたのとも似ているかな。エンターテインメントの世界が、自由な想像力で、先端医療の明るい面も暗い面も描いている、と思います。(^_^)
http://www.chunichi.co.jp/news/20000609/shk2007.shtml
奥が深い…患者の自己決定 投稿者:yukiko 投稿日:06月11日(日)16時23分27秒
医療職などの対人援助職の金科玉条「患者の自己決定の尊重」について、まとまりませんが、書きます。わたしは原則として自分の自己決定は尊重してほしいとおもっています。
おなじように、目の前のひとの自己決定も尊重したいとおもいます。
もし、目に見えない将来の同胞のために、いまの自分がなにかを犠牲にしてください、
と言われたら、できる範囲でならやれる、と答えるだろうとおもいます。ヒト組織・遺伝子解析の各指針案を読んでいて、先端医療における自己決定のあり方について、既存の地域医療や在宅医療における自己決定の概念を適用することに違和感が生じました。
ヒトクローン規制法の内容をまだ読めていませんので、そこで患者の自己決定がどのように取り扱われているのか、関心をもっています。機会があれば読みます。
「患者の権利章典」「医療生協の患者の権利章典」には、患者の自己決定が権利としてのっていました。しかし、ここには足りないものがあります。
先端医療の場合、権利保障をしなければならない対象は、「今の患者やその家族」と、「将来の同胞」です。
つまり、いまの自分の自己決定が将来、社会的にどのような影響をもらたすのかを、医師や患者自身が自覚しておく必要があるとおもいます。臓器移植もそうです。
その上で、医療を受ける権利・受けない権利を保障し、患者は自己決定をするとよいとおもいます。
「ヘルシンキ宣言」は、ヒトクローンを範疇に入れているのか、よくわかりませんでした。この「将来の同胞」へのインフォームドコンセントの説明義務は医師にはないとおもいます。
政治、とくに立法にあるとおもいます。
生存権と、幸福追求権を尊重した上で、あらたな人間観、理念の必要性をおぼえます。
これら一連の手続きのうえで、最終的には個人が決断すればよいとおもいます。いまは、公的年金制度などは信頼を失っていますが、こうした世代間の社会保障システムのような感覚で、将来の同胞への影響を考慮した自己決定ができないだろうか、とおもいます。
先端医療…いや、世の中のいろんな決め事がそうですが。児童虐待防止法では、虐待の目撃者が誤報をしても、あるいは、専門職が秘密保持違反をして親権者の虐待を通報しても、罪には問われないそうです。
そういう、おせっかい精神をみなおそう、目に見えないひとのために自分の何かを犠牲にしよう、という時期にきたのかもしれません。
「自由は、適切な枠の中で育つ」という一面もありますし。
>後退になる? 投稿者:匿名 投稿日:06月10日(土)22時51分58秒
書店で7月号を見つけて喜んだのもつかの間、7月発売分でしたネ、「論座」。子どもにも意思表示の道を開くことには賛成です、しかし、
一庶民として思うに、現時点での日本社会では子どもに意思表明を求めるのは
危険だと思うのです。自然に知り、興味をもった子どもにはいいかもしれませんが、
あえて意思表明をさせるとなるとどのように伝えるかが問題です。今はまだまだ一部の
学校でのいのちの教育が始まったばかりで、成果はわかりません。現行維持の上で
不具合を整えていく方策を練ったほうがよいのではないでしょうか。将来的にというのであれば賛成なのですが、今はまだ無茶な気がします。
むしろ、これを機会に人のつながりは、どのような感情によってなされるのか、
なぜ、医療の進歩が求められるのか、これまでの善だけではなく、どのような精神の
育成が望まれるのかを、国民が一体となって考えることを推進していくことが求めら
れるのではないかと思います。
今でなくともいいと思います。意思表明の道は必要ですし、時期を考えるという
ことは後退ではないと思うのです。 m(_ _)m
人間と自然 投稿者:ヨシダ 投稿日:06月10日(土)14時58分27秒
要するに、どこまで自然のカタチを保持するのか、ということだと思います。
人間が病気になるのは自然なことだし、
人間が病気を治そうというのも当然のことです。
しかしだからといって、人が生命をコントロールしても良いのか、
自然の摂理を変えても良いのか、云々。
臓器移植問題、遺伝子医療問題、そこから派生する優生学、
さらには環境問題など、この先深刻な問題となるであろう問題群は、
たいてい「人間と自然」というお題で括られるのではないかと思います。
「へんてこりん」 投稿者:なおみ 投稿日:06月10日(土)12時08分53秒
確かにそのへんのことは、揉めそうですね。私自身は、そういう「へんてこりん」な家族も
「家族」として認めてますけど、受け入れられない人々の気持ちも良く理解できます。
どっちの意見も良くわかる、っていうのが一番もめるんですよねー。宗教的な問題まであるし。
人間とは 投稿者:ヨシダ 投稿日:06月10日(土)09時25分42秒
人間とは何か、という問いに定義のフォームで答えること。
アリストテレスの昔では人間とは理性的動物である、と言われていましたが、
人類の歴史を見るとどうにも理性的とは思えない。私が最近考えているのは、
人間とは、動物であることをやめようとしている動物である、という定義です。
およそ非動物的な家族形態、そして、臓器移植。
動物が動物であることをやめようとするから、いろんなところに歪みがでるんでしょうね。
「世界」論文 投稿者:森岡正博 投稿日:06月09日(金)18時24分19秒
岩波書店の雑誌「世界」に、臓器移植法改正について書きます。その原稿をいま書いているところ。森岡案をさらに具体化させてます。日本の臓器移植法は問題はあるにせよ、世界で一番先進的な法律であるという、仰天の歴史観で押し切ろうとしています(^^;)。
でも、これ、正しいと思うんだよね。「本人の意思表示」原則をいまさらはずすなんてのは、後退でしかないと思う。「本人の意思表示」原則は、まじで、世界に誇れると思う。町野さんは、こないだの対談では、「恥ずかしくて英訳できない」とのたまっておられましたが・・・。わたしは、そうは思わない。
家族 投稿者:森岡正博 投稿日:06月09日(金)18時19分19秒
ひとつは、ゲイのカップルによって構成される家族とか、そういう多様性を認めるのかあたりじゃないのかな。子どもを作らない家族とかね。イスラム、キリスト教が支配的な国々にとっては、こういう「へんてこりん」な家族というのは、先進国からの汚染だとのことです、はい。もっと詳しい方、いませんか?
ひょえー 投稿者:なおみ 投稿日:06月09日(金)17時11分31秒
「女性2000年会議」のサイトをのぞいてきたんですが、「家族」についての表記はみつからなかったです。まあ、明らかに私の見過ごしでしょう。何しろ情報量が膨大でちらっとのぞいたくらいでは途方にくれるのみ。家族の定義に関しては、具体的にはどのような対立なんでしょうか?気になりますー。
どなたか偶然にでも、その情報に行き当たった場合はぜひ教えてくださいね。
「女性2000年会議」 投稿者:Felix 投稿日:06月09日(金)15時30分34秒
「女性2000年会議」の状況は
http://www.un.org/womenwatch/daw/followup/beijing+5.htm
あたりをどうぞ。(ただし英語。)
1995年に北京で開催された第4回世界女性会議からの事態の進展をレビューするのが目的なんですが、対して状況が進展しとらん、ということのようです。会期は9日まで。(と言ってももちろんUN本部のある米国東部標準時で。)
ちょっと話はそれるけど 投稿者:なおみ 投稿日:06月09日(金)15時23分52秒
今朝の新聞(ローカル新聞っす)で、国連特別総会「女性2000年会議」に関して、ちょっとだけ触れられておりました。小さな記事だったので詳細は分からなかったのですが最大の争点である家族の概念をめぐる対立は残されたまま、といった内容でした。ここでも「家族」の定義は問題のようですね。どういう決着がつくのか気になるところです。ちょっと目に止まった記事でした。最近、「家族」に敏感?!
アダム 投稿者:森岡正博 投稿日:06月09日(金)11時00分35秒
アダムの骨を取ってエヴァを作ったという記述から、フェミニズムはまさにキリスト教の男尊女卑思想を読みとるわけですよね。その副会長さんは、臓器移植肯定の思想の読みとりはOKだけれども、男尊女卑思想の読みとりはNOとか言うのでしょうか。
以前にうちの大学であった、キリスト教神学の学会でも議論がありましたが、キリスト教が「身体」をどうとらえてきたのかということ自体、超大問題みたいです。歴史的に変遷があって、過去には、身体を傷つけることへの忌避もあったわけですね。
6月25日頃ですね 投稿者:f(・・ 投稿日:06月09日(金)08時56分13秒
ありがとうございました。それから・・・
気づいたら、記念カウントは8つ突破いたしておりました。カクン。
さらにテーマ・・・ 投稿者:らら 投稿日:06月09日(金)01時45分51秒
上智でのテーマは「いのちと死をみつめる」ですが、
トリオジャパンの1999年10月に行われたテーマが「いのちをみつめる」でしたね。
町野先生のテーマ「生と死ー消えて行く境界線」ってどういう話しなんでしょうか。
「死」の対立概念は「いのち」ではなく「生」だとおっしゃった人がいました。
「いのち」は「生と死」の両方を含んだ言葉だ、と。
しかし不思議なことに、日本語で「いのち」と言ったときよほどの専門の方でないと、
「生と死」の両方を含んだ概念とはなかなか言えないのではないでしょうか。
すると当然、「いのちをみつめる」というのは「生きる志向」にある論議のように思える。
上智大学のシンポジウム 投稿者:らら 投稿日:06月09日(金)01時31分41秒
>トリオジャパン
の副会長さんだったかたがお書きになった、ご自分の体験記を合わせた論文が、キリスト教年鑑2000年の付録に載っていました。
そのなかに、「アイデンティティー、ウイデンティティー、愛デンティティー」と言った言葉がありますが、移植された臓器が何かしら人格的な特徴を持った何かとして、ご自分の身体のなかに生きている、それは、IからWEとなって生まれ変わる…という表現だったと思います。不思議ですね。
で、その中での、臓器移植の正当性を訴えるために用いられた聖書の引用の多くについては、「え?」と言いたいと思いました。
アダムの骨をとって最初の女の創造をしたエヴァの箇所を引用し、臓器移植について語る、そういう語り方でほんとうに良いのだろうか・・・と思うのです。
キリスト教年鑑が、現代の問題として「脳死、臓器移植」を選んだのは良かったと思いますが、この論文をもって解答しているとしたら、キリスト教年鑑に載っている教会自体を疑います。
上智のシンポジウムは、「倫理神学」のマシア先生が話されますね。たのしみです。
マシア著『生命の未来学』(南窓社)というのを読んだことがあります。仏教やキリスト教といった宗教の関係者がこのことを語るとき、教義、聖典の引用、援用には、ほとんど疑ってかかったほうがいいのではないか、と私自身は思っています。
かといって、某先生のように「宗教関係者は黙ってろ」的な考え方にも、立ち向かいたいと思っています。その意味でもマシア先生の発言に期待を寄せます。
森岡先生が、高邁な宗教哲学論となるのか(^^)、とお書きになっていますが、法学、哲学、生命学っていう大風呂敷が逆に風通しをよくしてくれるのではないか、という気もするのです。
脳死判定 投稿者:森岡正博 投稿日:06月09日(金)01時27分23秒
昨日の脳死判定のミス、あれは、かなりやばいんじゃないのかなあ。
筋弛緩剤をいれていて、それの効力が残存していたのをわからずに脳幹反射とか
のテストをしたわけでしょう。やばすぎー。神経・筋肉機能を麻痺させておいて
から、神経機能の反射テストをしたわけだからねえ。はっきし言って、<藤田保健衛生大病院は脳死判定病院として不適格なのではないのか?>
どう思います? とくに、専門の方。
http://www.chunichi.co.jp/news/20000608/shk2001.shtml
f(・・さん 投稿者:森岡正博 投稿日:06月09日(金)01時21分33秒
HPに載せてある表紙写真は、初版の東京書籍版です。
法藏館から再販されるのは、6月25日くらいじゃないのかな。そのあたりから、
書店の新刊コーナーに並び始めるはずです。チェックしてみてください。
お尋ねします 投稿者:f(・・ 投稿日:06月09日(金)01時08分57秒
何故に静かか・・・みなさん、すごい。福武文庫の表紙、HPにのってるのと手元のとは違うなあ。どうして?
「脳死の人」・・・それから、そろそろまた、出版でしたよね。
追加の分を読みたくて・・・発売日を教えて下さいませんか?
トリオ・ジャパン 投稿者:てるてる 投稿日:06月06日(火)13時43分40秒
森岡さんと町野さんの上智大でのシンポジウムは7月2日(日)ですが、そのあと、
7月8日(土)に、トリオ・ジャパンのセミナー「臓器提供−現状と課題」でもまた
町野さんが講演されるのですね。2000年7月8日(土)13:00〜17:00
特別講演「現行臓器移植法の問題点−法律家の立場から」
町野 朔(上智大学法学部)パネルディスカッション「臓器提供−救急医の立場から」
パネルディスカッションでは、前の、臓器移植反対のシンポジウムに来られていた、
濱邊さんも出られます。トリオ・ジャパンは、移植を受けた患者さんや臓器を提供した人の遺族のために電子
メールでのカウンセリングもしているし、そういう実践を踏まえて、家族の同意だけ
でも移植が臓器提供ができるようにしよう、と言っているのだから、それなりに説得
力があるのだろうと思います。そういう実践を背景にして、なお、町野さんは法律家
として法の厳密さや論理性を追及されるのだと思います。移植をしなければ生きてい
けない人々にとっては、町野さんの法律の専門家としての論理を通そうとするのは硬
直した冷たいものではなく、頼もしいものだろうと思います。私が移植患者の家族な
ら、そう思うだろうと思います。家族の同意だけで移植することには、私としては、家族といってもいろいろあるのだ
から、賛成できませんが。こちらのセミナーも聞きに行ってみたいけど、会場がホテルだから入りにくいかも。
移植「関係者」じゃないし。
NHKスペシャル 投稿者:森岡正博 投稿日:06月06日(火)01時21分10秒
大阪では、いま再放送でした。ようやく見れました。うーん、すごい濃い内容。
NHKならではの総力取材でしたね。これで、海外での状況の多面的な紹介がようやくなされたわけです。いままで、一面的な報道しかなかったしね。たとえば、欧米では脳死をみんな受け入れているとか、移植医療は定着したとか。彼らの直面している問題は、日本で議論されているものと、ほぼ同じですね。しかし、イタリアはすごい。国民は、脳死ってどんな状態なのかほんとうに知っているのか? オランダの例も、登録しようとした青年は「ぼくはよく知らないけど」と言いながらOKに印をしていましたね。それを止めようとした母親のエゴイズム(?)もリアリティあり。なんか、「脳死の人」でわたしが書いたことを映像で見たような感じだった。これで、はじめて、一昨年の国際生命倫理学会での日本の脳死論への海外からの評価の意味がわかった気がする。あー、「脳死の人」を英語にして、彼らにも読んでほしいな。脳死を受け入れきれない家族の会の人たちにも、なんとかしてコンタクトを取って読んでもらいたいです。どうすればコンタクトできるのかわからないけど。
あと思ったのは、このテーマは、文学のテーマでもありますね。これを掘り下げた小説とかを本気で書けば、21世紀を代表する文学作品ができると思う。日本語世界にはそれができるだけの蓄積があると思う。
実体的な死 投稿者:てるてる 投稿日:06月05日(月)07時09分00秒
絶対に生き返らない、という意味では、脳死も心臓死も同じです。もしも、病院が火事になったら、脳死の患者さんは一番後回しにして、他の患者さんを全部逃がして、それで間に合わなくなったら脳死の患者さんの人工呼吸器をはずして、医療スタッフが逃げるのが正しいと思います。これは実体的な死としての扱いです。
でも、その脳死の患者が私の子供で、病院に自分もいたら、人工呼吸器をはずしたからだを抱いて逃げようとするし、それがかなわなければ、ぎりぎりまでそばにいます。最後には自分ひとりで逃げるでしょうけれども。ここの部分は二人称としての死の扱いです。
もし、大地震で人工呼吸器が止まったら、脳死の患者さんのはそのままにして、他の患者さんの人工呼吸を続けられるように医療スタッフが努めるのが正しいと思います。これは実体的な死の扱いです。
その脳死の患者が私の子供だったとしても、我慢します。
当然と思うんじゃなくて「我慢」というところが、二人称の死です。
てるてるさん、yukikoさん 投稿者:森岡正博 投稿日:06月04日(日)23時43分20秒
いろいろな情報、ありがとうございました。情報集約機能は大事ですね。
下のサイトの掲示板の投稿、みなさんもぜひ読んでみてください。それと、町野さんと対談してきました。結果は、「論座」(7月発売号)をご覧ください・・・・。1点だけ言えば、町野さんは、「死」は実体的に決まっているはずのもので、「人称」などによって左右されるものではないという立場に一貫して立っていました。
仏教 投稿者:てるてる 投稿日:06月04日(日)22時22分14秒
仏教徒の立場から、脳死・心臓死を含めて、臓器移植の問題に取り組んでいるサイトがあります。
特に、掲示板の、心臓血管外科医の方が書かれている、13歳のお嬢さんが脳死状態になられたときのことが、重く、胸に迫ってきます。
いろいろな意見を書き込みしやすい雰囲気になっているサイトだと思いました。
和田移植 投稿者:yukiko 投稿日:06月04日(日)03時11分06秒
について、心臓移植あるいは摘出関係者はいま、どうおもっているのでしょうか。
和田移植が過去の話になったとおもっているのでしょうか。
医療事故・医療ミスの隠蔽が今日も珍しくありません。
わたしは、その種のニュースを見るたびに、最近、和田移植をおもいだします。町野氏の案の、本人の許可のない心臓(臓器)摘出が許されるという発想は、やはりわからない。
脳死においては、少なくとも、ルールとして決められた脳死判定基準を厳守する、生をはしょることを本人が知っていて、受け入れていることが、最低限、必要だとおもいます。自分の生が、本人の知らないところではしょられる、これを殺人というのではないでしょうか。
まちがいm(_ _)m 投稿者:てるてる 投稿日:06月04日(日)02時40分12秒
British Organ Donar Society が推奨しているのは、家族による推定同意です。議論の俎上に
挙がっているのは、家族に相談しなくても推定同意で臓器を摘出してもよい、という推定同意
方式です。さすがにこの方式には反対のようです。
UK 投稿者:てるてる 投稿日:06月04日(日)02時35分47秒
British Organ Donar Society というところで、イギリスにおける推定同意方式導入について
の議論が紹介されています。↓
やはり、スペインやベルギーの例が引き合いに出されています。この方式を導入すれば、ドナ
ーのファミリーが臓器の提供に踏み切りやすくなる、ということで肯定的に評価しているよう
です。
USA 投稿者:てるてる 投稿日:06月04日(日)00時08分11秒
USAの肝臓移植を受けた子供や待機している子供のためのウェッブページです。↓
フォーラムの「命の贈り物」のトピックに、移植を受けた子供のおかあさんが
ドナーファミリーに手紙を出したら返事が来ない、どうしたらいいでしょうか、
という相談が載っています。
日本語の合成語 投稿者:らら 投稿日:06月03日(土)14時41分26秒
には気をつけねばならないって友人は言います。
目の前の問題をすりかえることがけっこう簡単にできちゃうんだよ、と。
脳死移植って言葉は、もう一般化されたものなんでしょうか。
こだわってしまいます。
シンポジウム 投稿者:らら 投稿日:06月03日(土)14時39分12秒
で、森岡さんと町野さんの議論を聞くことができると思いますが、
話しを聞きながら、聴衆である私は今、どういうとこに立っているか、
それが明らかになるのではないか、という期待感をわたしは持っています。
はっきり言って、この問題の答え、正答というものはないわけですよね。
しかし何らかの方向性を選ばねばならない。
議論の意義は、選びという成長のための養分のような気がします。
議論 投稿者:らら 投稿日:06月03日(土)14時33分37秒
おひさしぶりです。
議論のことですが、議論のレベルの整理のためにもここでの議論は役にたつと思います。
今は、わたしは、ここの議論に参加していませんが、聞いているだけでも、
なんだか今はどのレベルの話しをしているかが鮮明になってきたような気がするからです。たとえば、先日NHKの「世紀を超えて」ですが、あのテーマは『脳死移植』でしたよね。
『脳死移植』をわたしの友人はいったい英語でどう訳すのか、
とテレビを見ながら考えたそうです。
まず、訳せない。そういう概念はありえないと言うのです。
臓器移植の前提が「脳死」であることが当たり前のように語られている。
ここでの議論を聞いていることによって、
だんだん、そういうことにも気づいてくるようになってきたのです。
そして実にこのレベルの話しはすでに『脳死の人』に取り上げられている問題なわけです。
つづき 投稿者:yukiko 投稿日:06月03日(土)05時14分45秒
ここのサイトは情報が集約されているし、読んでいただくにこしたことはないとおもいます。
総選挙後には、こちらから売り込みにいくのが現実的かな、とおもいます。
「家族の同意のみ」派は、きっとロビー活動や陳情を何度もするでしょう。総選挙後に、当選議員がきまって、生命倫理委員会の議員もきまりますよね。
あと、前回の臓器移植法制定のさいは、党議拘束がはずされて、議員個人の信条で投票したとおもうんですが、わたしはそのひとたちを中心に、メールでも送るかな、と。
そのときに、ここと公式HPのURLが知らせられるといいのですが。そのまえに、当選してもらわないとこまります(−−;)
森岡さん 投稿者:yukiko 投稿日:06月03日(土)04時38分36秒
>どんな議論がどこでどういうふうに必要だ、って感じだったのですか?@専門委員会で、脳死は人の死か、こどもの移植はどうするか、などの本格的議論が
ひつよう
A国民レベルでの議論が必要。そのルールをまもる。
BHPなどで、継続的に、国民に問題点をなげかける、あるいは啓発をする。
ただし、予算化と担当がひつよう。啓発などの広報は、そのうち議題になるのかもしれません。これより具体的は話はでません
でした。あとは、「議論になるだろう」とか他人事みたいなかんじでした。>これがどうやってどこに反映
どこかに反映するものなのか、わかりませんねえ。
じつは、先にあげた@とAのあいだには、微妙な温度差があります。
@「脳死は人の死か」「こどもの移植をどうするか」「専門委員会での議論が必要」
といっている流れと、
A「国民の議論をまもる」「国民レベルでの議論が大事」
「家族のきもちもだいじ」(これは微妙な発言ですが)
「心臓はドナーの問題がおおきい。これから議論を十分やっていきたい」
「心臓は時間の問題で提供不可能となることがある。エマージェンシーの方の対応で
けっして無理をしないように」すくなくとも、一枚岩ではないような…。
yukikoさん 投稿者:森岡正博 投稿日:06月02日(金)09時26分37秒
傍聴記録ありがとうございました。
そのなかで、みなさんは、「議論が必要」とか言ってますが、どんな議論がどこでどういうふうに必要だ、って感じだったのですか?わたしら、ここんとこ「議論」ばっかりしてますよね。これがどうやってどこに反映されていくんでしょう。我々の議論も、かれらはきちんと見ているのかな。
yahoo 投稿者:てるてる 投稿日:06月02日(金)01時21分29秒
私は会員でないので、投稿できないんです。(/_;)
yahoo 掲示板 投稿者:てるてる 投稿日:06月02日(金)01時20分42秒
yahoo 掲示板の、臓器移植のトピックスで、ドナーカードの書式が不備であるとの投稿があり、そのほか、興味深い投稿が続いています。
柳田邦男の「脳治療革命の朝」や「NHKスペシャル 世紀を越えて」の「脳死・臓器移植」を見て、関心を深められたようです。
それにしても、情報が少ないからドナーがふえないことを医療関係者は考えるべき、という指摘はもっともだと思いました。
お医者さんの話 投稿者:てるてる 投稿日:06月02日(金)00時39分51秒
先のサイトのおかあさんは、お医者さんの話で、移植手術を受けるとしても順位が低くてなかなか受けられないだろう、手術に耐えられる体力があるかどうか、移植後の生活に耐えられるかどうか、などの困難さを伝えられ、いろいろ考えて、移植手術を選ばなかったようです。外科的治療は無理で内科的治療に頼るしかなかったようです。
RE:心臓病の子ども 投稿者:てるてる 投稿日:06月02日(金)00時29分18秒
>心配していた血圧はもう38にまで落ちていた。「なんてあっけないんだろう。海里の
>心臓は必死にまだ動いているのに、海里は生きているのに。そんなに簡単にあきらめ
>ないでよ」、と私は言いたかった。
ここのところ、私も、一番、印象に残りました。
脳死の赤ちゃんを見守っている人も、同じ気持ちになるのだろうとも思いました。あのサイトのおかあさんは、心臓移植が実現しにくいから諦めたようなことを書いていたと思います。心臓移植でも人工臓器でもバチスタ手術でもなんでもいいから、子供の命が助かりさえすれば、という気持ちが強くて、心臓移植の是非について考える暇はないように見えました。
リンクしてある幾つかのサイトには、心臓移植を望んで間に合わなくて死んだ子供さん、心臓移植を望んで募金を集めている子供さんたちがいます。
移植の向こうには脳死の赤ちゃんがいるのですが、リンクしてあるサイトの掲示板でも、脳死の赤ちゃんに言及してはいませんでした。
そこまで考える余裕がないのかもしれない。
そこまで考えたくないのかもしれない。
それとも、みんなで、心臓移植が日本でもできるようになることを目指してがんばらないと、そうやってささえあっていかないと、とても堪えられないのかもしれない。
などと思います。
臓器移植専門委員会 投稿者:yukiko 投稿日:06月01日(木)22時45分35秒
の、傍聴にいきました。専門委員会はルーテインの雰囲気で、これなら厚生省のHPの議事録や、プレスで十分だとおもいました。
せっかくだから(?)記念報告します。以下、わたしのメモです。平成12年5月29日(月) 15:00〜17:00
議題(1)HLA検査施設について
・24時間体制でHLA検査や感染症検査が可能な「移植検査センター」(仮称)、
およびその補完機能としての「移植希望者登録時検査センター」(仮称)を整備
各ブロック1〜2ヶ所、来年予算化を検討
(2)小腸のレシピエント選択基準について(の一部修正)報告事項
(1)脳死下での臓器提供事例について
・第5例目から第7例目の概要(というかメモ程度)
・「第2回脳死下での臓器提供事例における検証会議」について
報告書を作成し、厚生大臣に報告した上で、遺族の承諾を得た上で公表の予定
(第5例目)
(2)肝臓の移植実施施設について 2施設→9施設
(3)臓器提供施設について 施設名の公表についてほかの話題
・移植の数が停滞している
・ドナーカード(脳死にかぎらず)普及が伸び悩んでいる
・心臓は時間の問題で提供不可能となることがある。けして無理をしないように。
大変なことになる。
・3年後見なおしはどうか
議員立法でやるのか? 角腎法は議員立法だった、中身がどうかにかかわる
指示がなければ見直しはないのか?
厚生省は現時点で具体的に(見なおしを)どうする、という公式見解はない
子ども(の移植)をみとめてほしい・それは反対、厚生省に両方の意見が届いて
いる
今後いろんなところで議論がはじまっていくだろう
・HPなどのメディアを利用して継続的に国民に問題提起や啓蒙活動をしてはどうか
・移植医療があることは知られているが、現場でなにがあるのか知らない国民は
おおい
・国民側の心がまえとして、知ろうとしているのかどうか
・脳死が死か、こどもはどうするのか、など、つみのこしがいっぱいある
いずれ議論になる
・心臓はドナーの問題がおおきい。これから議論を十分やっていきたい
心臓病の子ども 投稿者:森岡正博 投稿日:06月01日(木)20時34分23秒
>てるてるさん心臓病の赤ちゃんを育てて、見送った方のHP見てきました。切ないですが、次の文章
が考えさせられました。赤ちゃんが、死ぬときの描写>心配していた血圧はもう38にまで落ちていた。「なんてあっけないんだろう。海里の
>心臓は必死にまだ動いているのに、海里は生きているのに。そんなに簡単にあきらめ
>ないでよ」、と私は言いたかった。この方は、あきらかに、心臓が動いているから、我が子は死んでいないと言っています。
この方は、だから、心臓移植を受けるという選択肢を考えなかったのでしょうか?
RE:RE:RE:臓器の生存 投稿者:ヨシダ 投稿日:06月01日(木)19時23分27秒
自分の赤ちゃんが脳死になったとき、
「臓器が生き続けてほしい」と願って臓器提供を希望する人もいれば、
希望しない人もいる。それはそれでいい。
しかし、子供の臓器提供の決定権を親がもったときにどうなるか。
希望しない人は、きっと、肩身の狭い思いをするにちがいない。
それで、本意ではなく提供せざるを得なくなるのではないだろうか。
こういう大切な問題は、多数決で決めてはいけないのではないか。
善意という言葉はうつくしいが、「善意の強要」となるととても危険だと思う。
RE:RE:臓器の生存 投稿者:てるてる 投稿日:06月01日(木)14時11分08秒
なるほど。
「臓器が生き続けてほしい」と願う方もいるのですね。
> レシピエントが生き延びて、自分の子どもは死んでいることへの怒りとか。
これはよくわかります。
私の妹が死んだ後、私の母親は、同じ年頃の子供を見るのをつらがっていました。なんでうちの子が死んだんや、と思うものです。心臓病の赤ちゃんを育てて見送ったおかあさんのウェッブーページを読みました。
重い心臓の先天的障害があっても、赤ちゃんが成長していく記録が、写真で公開されていました。
「心臓病の子供を守る会」へのリンクもあります。
同じようなおかあさんやおとうさんが作られているサイトへのリンクもあります。
こういうのを読んでいると、赤ちゃんからの心臓移植に反対できません。でも、もし、自分の子供が脳死になったら、と思うと、これは前に書いた通り、移植に同意できません。赤ちゃんが脳死状態になって、1ヶ月、2ヶ月とたっていったら、それもまた、親には、成長しているように見えるのでしょうか。
Re:臓器の生存 投稿者:yukiko 投稿日:06月01日(木)01時03分52秒
わたし、子どもの移植をやるかどうかは別にして、「臓器が生き続けてほしいという親の願い」分かります。人さまのおやくにたてばいい、ということより、身近なきもちです。
もちろん、個人差のある感情ですが。ほんとうは、もう1回うんであげたいとか、自分にこどもの一部を移植してほしい、とかいいたいんだと思う。腐っていくくらいなら、自分に移植してくれないんなら、
悪い表現ですが、無意識に、レシピエントに寄生させよう、というか。寄生させたんなら、臓器提供後、ちゃんと育ったか、会って確認したくなるとおもいます。
そして別人格なのだと痛感することで、ほんとうの死の受容のプロセスが始まるでしょう。
きっと、非日常的な激しい感情が沸いてくるとおもう。
レシピエントが生き延びて、自分の子どもは死んでいることへの怒りとか。死の受容がすすめば、自分の子どもは死んだけれど、レシピエントのお役に立ててよかったと言える日がくるでしょう。また、言えないひともいるでしょう。
赤ちゃんの移植手術 投稿者:てるてる 投稿日:05月31日(水)23時43分56秒
もしも、1歳、2歳の脳死の赤ちゃんからの心臓移植を禁止するということで通すなら、ほんとうは、海外に、移植手術を受けにいくことも法律で禁止しなければ、筋が通らないのではないかとも思うのですが…。
海外でも臓器は不足しているのだし。
まあ、でも、さすがに、赤ちゃんを海外に手術を受けさせに行く人の話は聞いたことがないように思います。
飛行機に乗ること自体がからだに悪いのだろうと思いますが…
死んだ子供への供養 投稿者:てるてる 投稿日:05月31日(水)22時53分22秒
子供がドナーになったら、他の人の中で自分の子供の一部が生きている。
確かに、それはそうです。
しかし、それが積極的に子供をドナーにしたい、というほどのものになるのでしょうか。
子供が死ぬことより悪いことはない。
同じ死ぬなら、他の子供が生きるのに役に立てば、それが、子供への供養になるとか、子供の心が生かされている、というのなら、わかります。
死んだ子供 投稿者:てるてる 投稿日:05月31日(水)22時45分25秒
>「臓器が生き続けていてほしいという親の思い」
これがわかりません。ほんとうにわかりません。
そんなことを思う人がいるのでしょうか。
死んだ子供は死んだ。
その子供はもういない。
からだの一部が他人のからだの中でに生きていようが、本人はいない。
いないものはいない。
臓器の生存 投稿者:てるてる 投稿日:05月31日(水)22時39分03秒
実は、親が、自分の子供の臓器が、他の子供のからだの中で生き続けていていてほしい、という気持ちが、私にはわからないのですが。
ドナーになった子供本人は死んでいるのに。
子供が死ぬことは悲しい。
でも、死んだ子供が他の子供の生きるのに役に立つのなら、それでよい、という考えならばわかりますが、どうして、ドナーになったら、他の子供の中で自分の子供の一部が生きている、と思えるのか、わかりません。
小松美彦さん 投稿者:森岡正博 投稿日:05月31日(水)22時03分52秒
が、アエラ・ムック「死生学がわかる」で、町野案を批判しながら、同時に私をも批判しています。子供からの臓器移植を結果的に認めるという点において町野案と五十歩百歩だとのこと。HPにアップした鶴田さんと、同じようなご意見ですね。でもね、まずは、町野案をつぶすことからはじめませんか?
と私は言いたいのですが。
自己レスです 変死(自殺)のとりあつかい 投稿者:yukiko 投稿日:05月31日(水)21時41分20秒
現行法では、ドナーカード所持者が変死であった場合には、
@事件性があれば、司法解剖(行政解剖)がおこなわれ臓器提供できない、
A事件性がなければ検視(場合によっては解剖されるのでしょうが)が行われ、
基本的には臓器提供できる
とのことでした。どちらも、個々の事例性に応じて判断されるため、断定はできない
そうです。しかるべきところに確認したところ。
脳死後の選択肢 投稿者:てるてる 投稿日:05月31日(水)20時00分55秒
対案では、脳死後の終末期医療の選択肢として、ICUの中で心臓停止を迎える。
ICUの外の病室で心臓停止を迎える。
ICUから手術室へ移動して臓器移植をすることによって脳死状態を終える。の三つを、本人が選択できるようにしよう、としています。
ところで、日本臓器移植ネットワークでは、脳死状態になった人の家族の選択肢として、四つの選択肢を挙げています。
一つは、
心臓停止まで人工呼吸器でのケアや薬剤の追加などを繰り返し継続する「積極的治療」、
二つめは新たな治療を追加せずに心臓停止まで同じケアを続ける「消極的治療」、
三つめは昇圧剤や人工呼吸器などを中止する「治療の中断」
(脳死の場合、まもなく心臓が停止します)、
四つめは、心停止後あるいは脳死後に臓器を提供することです。そして、四つめの心停止後あるいは脳死後の臓器提供は、本人の生前の意思表示があった場合に、移植コーディネーターの話を聞くかどうかが家族の判断に委ねられ、家族が承知したら、日本臓器移植ネットワークのコーディネーターの話を聞いて、臓器を提供するかどうか判断することになっています。
てるてるの対案との考え方の違いは、対案では、脳死後の終末期医療の選択も、心臓死後の埋葬の選択(肢としての臓器提供)も、本人に決定権があるとしています。
日本臓器移植センターの考え方では、どちらも、家族の決定にゆだねています。
これは、基本的な考え方の違いです。一方、脳死後の選択肢の数ですが、日本臓器移植センターでは、四つの選択肢、てるてるの対案では三つの選択肢を挙げています。
日本臓器移植センターの挙げている一つめと二つめの選択肢は、両方ともICUの中で行われるもの、日本臓器移植センターのは、ICUの外で行われるもの、と思います。
そうすると、日本臓器移植センターの一つめと二つめの選択肢は、対案のほうの
一つめの選択肢に、日本臓器移植センターの三つめの選択肢は、対案のほうの
二つめの選択肢に該当します。
この選択肢の数の違いについては、これは、どちらでもいいように思います。
もしかしたら、日本臓器移植センターの挙げているように四つの選択肢にしたほうがいいのかもしれません。
あるいは、本人が、対案のほうの一つめの、
ICUの中で心臓停止を迎える。
を選んだ場合、
日本臓器移植センターの一つめの
心臓停止まで人工呼吸器でのケアや薬剤の追加などを繰り返し継続する「積極的治療」、
か、二つめの、
新たな治療を追加せずに心臓停止まで同じケアを続ける「消極的治療」、
かを、家族など本人を看取る人が選ぶことにしてもよいかもしれません。
子供の臓器提供 投稿者:てるてる 投稿日:05月31日(水)19時56分07秒
6, 7, 8歳ぐらいの子供の脳死後の臓器提供が、事実上、ほとんどなくなったとしても、それでもいい、という立場を私はとろうと思います。
しかし、心臓死後は、保護者の同意だけで子供の臓器を提供してもいいようにも思い始めています。これは、先ほどの、
脳死後の臓器提供は、終末期医療の選択肢の一つ、
心臓死後の臓器提供は、埋葬の方法の選択肢の一つ、
という考えに基づくものです。子供の場合は、埋葬のしかたの一つの選択肢としての心臓死後の臓器提供の、
決定の権利を保護者にも認めてもいいのではないか、とも思うのです。要するに、
脳死後の臓器提供は、終末期医療の選択肢として、本人の意思を尊重する。
しかし、
心臓死後の臓器提供は、埋葬の選択肢として、本人または保護者の意思を尊重する。
というように、分けたらどうか。脳死後の臓器提供は、脳死状態という「生」を積極的に終わらせる決定であるから、親といえども、そのような決定を自由に下す権利はない。
しかし、(心臓)死した子供の遺体は、おとなと同じように、なお人格権を有するものとして尊厳を持って扱われなければならないけれども、扱いを保護者の判断に委ねることによって、本人の生命が損なわれるわけではない。だから、生前に明確な意思表示があればそれを尊重するけれども、そうでなければ、遺体を埋葬する保護者に臓器提供の決定を委ねてもいい。というように思います。
成人は、埋葬の選択肢としての心臓死後の臓器提供も、本人の意思表示だけに基づくこととし、「保護者」による決定というものは、認めない。
ということにしようと思います。それにしても、このように考えていると、15歳以上、15歳未満、6歳以上、6歳未満、という年齢の区分が、合理的でないような気がします。
森岡さんや、丸山さんの対案では、12歳という年齢と区切りとされています。
そのほうがいいような気がしてきました。
そして、森岡さんは、6歳未満の子供の臓器提供は、認められない、とされています。
私も、そうできたらどんなにいいだろうか、と思います。
でも、6歳未満の人でも臓器移植によって助かる人がいるのなら、助かってほしいし、対案のなかでは非常に無理な、矛盾したことをしている気がしますが、なんとか、6歳未満の人も臓器提供ができるようにしておきたい、と思います。
脳死と心臓死の区別 投稿者:てるてる 投稿日:05月31日(水)19時54分16秒
ところで、脳死を生とする考えの根拠に、脳死後の身体には、まだ、免疫の反応がある、ということもあげておきたいと思います。
多田富雄の「免疫の意味論」には、脳が死んだらその人がその人でなくなるというのではなくて、からだは、まだ、その人がその人であって別の人ではないということをしめす、自己と非自己との区別、すなわち、免疫の能力をまだ持っている、ということが書いてあります。そういうこともあって、脳死と心臓死とを区別します。
しかし、臓器の人格権は、どちらの場合も同じように主張しています。すなわち、心臓死後の提供でも脳死後の提供でも、提供した人の氏名をレシピエントが知り、レシピエントの氏名をドナーの保証人・遺族が知ることにしようとしています。ただ、臓器は、一人のドナーから複数提供するとしても、レシピエントが10人以内におさまりますが、今後、もしも、組織も提供できるように法律が改正されるなり新たに作られるなりすると、レシピエントが数十人にもなります。
組織の提供についても、本人の提供意思に基づくのが基本だと思います。
組織であれ、臓器であれ、本人の意思の尊重と人格権の主張とは、車の両輪のように切り離せないものと思います。ただしかし、組織の提供の場合も、レシピエントの氏名を全部ドナーの保証人・遺族が知るのはいいとして、対面もするとなると、無理があるかもしれません。まあ対案では、氏名の通知は義務としていますが、対面は当事者の自由に任せてあるので、当事者が決めればいいと思います。心臓死後に提供する臓器といえば、おもに腎臓と角膜です。
腎臓と角膜とは、もとは、角腎法によって、本人が生前に、提供に反対の意思を表明していなければ、家族の同意だけでも提供できるようになっていました。
現行の臓器移植法では、経過措置として、角腎法のこの規定をそのまま運用しています。
対案のなかでは、心臓死後の腎臓や角膜の提供も、成人は、本人の提供の意思表示のみによって提供できることにしよう、としています。
そして、未成年の場合は、本人と家族と両方の同意が必要とすることにしています。
ただし、6歳未満で、子供用のドナーカードに自分で書き込めない場合は、特別に例外として、同じ年頃の子供に移植するために、保護者と保証人の同意だけでも臓器を提供してもいいとしています。
そうすると、事実上、6, 7, 8歳ぐらいの子供の臓器提供は、脳死後も心臓死後もほとんどないだろう、と思います。