森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2000年04月13日〜04月27日

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選挙 投稿者:濱西栄司  投稿日:04月27日(木)02時11分41秒

かえるさんのサイトで、シンポジウムの様子をしりました。
議員の方々がいっていた「選挙、選挙」というのは、まあ、そのとおりなんでしょうね。
ざんねんながら、今の国会では、いくら論理的に正しいことであっても、「数の論理」
のほうが優先されてしまうのでしょう。わたしは、「日の丸」や「国歌」にも反対ですが、
その推進もいまの国会でなされています。選挙。わたしは生まれてはじめて選挙にいこうと
おもってます。社会党か共産党に。

町野案への疑問 投稿者:翠  投稿日:04月26日(水)23時19分47秒

てるてるさんの「町野案への疑問」に同感です。
本性を有していることと自己決定することは、別の次元の問題だと私も思います。

復刊めでたし 投稿者:なおみ  投稿日:04月26日(水)18時16分50秒

復刊されるのですかー。よかったー。6月末ですね。買いますよー。

脳死の人 投稿者:森岡正博  投稿日:04月26日(水)12時19分14秒

6月末ころに、法藏館より復刊されます。このHPにある、「循環器病センターでの講演」と「論座論文」を一緒に収めた決定版です。ぜひお買い求めください。


実は・・・ 投稿者:なおみ  投稿日:04月26日(水)10時15分32秒

てるてるさん、実は私も「脳死の人」読んでません。うふふ。だって、売ってないんだもん。
図書館にもなかった。他の著書はけっこうそろっていたのに。

NHKスペシャルの豚の肝臓の話は私も初耳で興味深くみておりました。他の情報は、わりと
以前に聞いた(というか、NHKで見た?)ような話ばっかりだったので、体外とはいえ
豚の臓器が実際に使われていたという話は、この番組で一番の収穫でした。
私は、単純にバイオテクノロジー好きなんで、こういう番組はワクワクしてみるんですけど、
同じ物をみていても、科学の進化に恐怖を感じている人がいるかと思うと複雑な気持ちです。


7例目の 投稿者:てるてる  投稿日:04月25日(火)23時18分50秒

脳死した方からの臓器移植がおこなわれていますね。

ところで、きょう、福武文庫の「脳死の人」を買ってきて、読んでいます。
今まで、森岡さんが書かれた脳死の本を読まずに、森岡さんの掲示板で脳死と臓器移植の
議論に参加していました。すみませんm(_ _)m

>NHKスペシャル
始めのほうで、肝臓の移植手術を受ける前に数時間、豚の肝臓を使って治療を受けていた
男の人の話、おもしろかったです。自分のために犠牲になってくれた豚にSweetie Pie と
いう名前を付けて感謝している、と言って、豚の写真を貼ったアルバムを見せていました。


法律の方 投稿者:森岡正博  投稿日:04月24日(月)20時07分44秒

たしかに、そろそろ対案を具体化する時期になってきました。
ご覧になっておられる方で、法律について「私は素人よりはすこしは知っている」
という方、司法試験の勉強をしている学生さんとか(そんな暇なわけないか・・・)
ぜひ、サポートの声をあげていただけないものでしょうか? もちろん匿名でかまいません。
掲示板にでも、あるいは直接てるてるさんや私にメールでも。
お知り合いにそのような方がおられる場合は、ちょっと聞いてみてくださいませんでしょうか。
管理人よりのお願いでございますm(_ _)m。

法案 投稿者:てるてる  投稿日:04月24日(月)20時02分04秒

> 森岡さん
町野案への批判文と対案の改訂版をアップロードしていただいて、ありがとうございました。
ところで、対案の内容を法律に反映させるにはどうしたらいいのか、わかりません。
どなたか、法律を専門とする方に手伝っていただけませんでしょうか?

面白いサイト発見 投稿者:森岡正博  投稿日:04月24日(月)19時32分18秒

あれ、わしばっかり書いておるぞ??

こんなサイトがありました。脳死について「賛成」と「反対」に分けて投稿するサイトです。けっこう書き込みがあります。まえにも問題になった「一般の人の意見」というのは、このあたりにあるんでしょうか。ざっと見てみて気がついたのは
(1)賛成する人の中に「脳死と植物状態を同じと考えている人が2人以上いる」
(2)反対する人の中に「脳死状態から回復した例があると考えている人が2人以上いる」
ということです。この二つは、いまの脳死の議論では否定されています。
が、このように思った上で、アンケートとかに答えているのでしょう。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hasuda/debate1.html


てるてるさんによる町野案への疑問 投稿者:森岡正博  投稿日:04月24日(月)10時27分10秒
てるてるさんが、町野案批判を書かれましたので、アップしました。
ぜひご覧ください。

てるてる案も改訂版をアップしております。

http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/teruteru02.htm
http://www.lifestudies.org/jp/teruteru02.htm


NHKスペシャル 投稿者:森岡正博  投稿日:04月23日(日)22時02分32秒

6回シリーズの「いのち」をいま見ました。クローン人間、異種移植などかなりの迫力。以前にこの掲示板で話題になっていたシルバーマン博士も出ていて、無痛文明論みたいなことを言っていた。クローン−ES細胞−臓器移植が一直線になって、人体部品医療として完成していくというのが、現実化しつつあるというのがよく分かりました。
話としては80年代からあったけど、ほんとにできるようになったんだね。まえにETV特集で中村桂子さんと対談したときに、彼女はこのようなことは起こらないでしょうと楽観論だったのだが、どうもそれははずれそうな感じです。

カエルさん 投稿者:森岡正博  投稿日:04月22日(土)08時39分49秒

レポートありがとうございました。超おもしろいね。
しかし、インターネットというのはすごいものです。
こうやって一般人によって情報公開されちゃうんだから。

シンポジウムレポート 投稿者:カエル  投稿日:04月22日(土)02時32分43秒

ボクも4月18日に行われた脳死臓器移植のシンポジウムに行って来ました。
それでもって、レポートを書いてみたのです。
「脳死臓器移植ケロケロページ」にあります。
みてみてくださいな。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4728/
http://www.kinokopress.com/inko/jp/hantai.html


移植推進団体の考え 投稿者:森岡正博  投稿日:04月21日(金)21時43分51秒

ある方から得た情報ですが、移植推進団体(とくにご本人・家族関係)は、
・トリオジャパン

・それ以外
に立場が分かれたようですね(伝聞)。

トリオジャパンは、町野案です。それ以外の団体は、大人の場合はいまのままにして、
子どもの場合だけ、親の承諾でOKとするという考えということでした。

どなたか、正確な情報をお持ちではないですか? 
もし情報をウェブその他で発見した方は、投稿してください。


世界的に見て 投稿者:森岡正博  投稿日:04月21日(金)21時39分25秒

いずれにせよ、子どもにも意思表示を前提とするという主張は、世界的に見ても類例がないと思います。

町野さんやトリオジャパンは、世界の流れに従えと言いますが、それはちがうでしょう。逆に言えば、われわれの主張の「子どもにも意見表明の道を」というものは、世界に向かって「お前らの国はそれでいいのか?」と逆発信していかなければならないということだと思います。いまは、とりあえず日本の目先の重大事に集中していますが、これは本来、世界へと訴えていくべき主張でもあるんだと思います。だって、日本だからはじめて明確に主張できた考え方でしょうから。

>てるてるさん

私の対案は、てるてるさんのものと、相違点があります。しかし、実は、てるてる案とのあいだでも揺れているんです。町野案をまず潰してから、そのあとで、「家族の承諾」というのは前提でいいのか、ということについて、それこそ国民的議論をする必要があると思います。

てるてるさんのチェックカード方式というのは、いい案だと思います。ただ、それを推進する団体が現われないとむずかしいかも。移植推進団体は当然、そのようなものは進めません。臓器の数が減るだけですから。


対案 投稿者:森岡正博  投稿日:04月21日(金)21時30分58秒

私の対案も、そろそろ具体的に詰めないといけないです。いろいろ悩んでいます。
現行法では、本人の意思表示があって、家族がそれを「拒まないとき」とされています。
この「拒まない」というのは、丸山英二さんによれば、字義どおり取るべきで、家族が承諾をしなくても(つまり黙っていても)それは「拒まない」なのだと言っていました。
でも、実際はそういうふうには運営されていないですけどね。

でも、このポイントはけっこう鋭いところをついているのでは、と。

私がいま考えているのは、12歳未満のための項目を現行法に追加するということで、
12歳未満の場合は本人の書面による意思表示と、家族の承諾の双方がある場合に移植できることとする。というものを追加してはどうかと。

12歳以上の場合は「家族が拒まない場合」で、12歳未満の場合は「家族の承諾」というふうにわける。

6歳未満のような場合はどうするかというのは、(1)禁止するか、(2)本人の意思表示と家族の承諾があればできる、とするかのどちらか。(2)の場合、4歳の子どもにドナーカードを書かせてそれを承諾する親がいたとすれば、それはそれで認めるということでしょうか。

小さな子どもに意味のある意思表示ができるのか? という疑問に対しては、

意味のある意思表示ができないような子どもから親の一存で臓器を取り出してもいいのか?

と答えたいのですけど・・・。

と言う線で考えてはいますが、まだ揺れています。


てるてるさん 投稿者:古川明広  投稿日:04月21日(金)20時40分45秒

人体や臓器をモノ的にあつかうことは、臓器移植から始まったことでもない気がして、広義には外科医療の起源にまで遡れる問題だと思うし、麻酔法の確立はことに大きな要因であると思います。「痛み」を除去すればモノ寄りに扱いやすいですから。
これは、神経系におけるモノ化で、臓器移植はさらに免疫系におけるモノ化が加味されて外科医療が進化していってるような印象があります。

たしかにドナー側とレシピエント側がお互いを知ることによる問題はいろいろありそうですね。でも臓器移植にあらたな人間関係の契機をみようとしているようなてるてるさんの考えには共感します。それは、血筋による親族関係とも他者同志の人間関係ともことなる関係性をみいだし加えていくことかもしれません。
いま思いつくかぎりで言うと、ドナー側レシピエント側双方とも相手のことを知りたいと希望した場合のみ、臓器移植後、事後的にお互いを知らせるようにするのが良いのでは。
やはりここでも、当事者の意思をまず前提としたほうがいいのかな、と。


救急医療 投稿者:てるてる  投稿日:04月20日(木)21時08分30秒

18日の集会で、東京都立墨東救急センターの濱邊さんが、患者さんの入院に際し、患者さんの家族に渡す質問状をプリントで配ってくださいました。氏名や連絡先や既往症などの質問の最後に、ドナーカードをお持ちですか、という質問もありました。
濱邊さんは、現行法の臓器移植法は非常にうまく行っている、移植例が少ないのは現場が混乱せずにうまく行っている証拠だ、とおっしゃてました。
更に、移植先進国と言われている国々に比べて、日本の救急医療は遅れている、移植を推進するのは、やるべきことをやってからだ、ということ。
子供の脳死判定は、おとなに比べて時間を長くとるだけになっているが、それでいいのか? 他に判定項目をふやすとかしなくていいのか? こどものことは、おとなと比べて、さらによくわからないことが多い。
そして、親権者が、子供の患者のために最善の決断を下すとは言えない事例をこれまでに経験してきた。
家族の意思で子供の臓器を提供していいとする改正案は問題である、とのことでした。

森岡正博様 投稿者:てるてる  投稿日:04月20日(木)20時55分44秒

きのう、メールで、対案の第4版の細かい修正部分を送りましたが、直していただけますで
しょうか…? (^_^;) だめでしたら、もう一回、全文を直して送り直します。m(_ _)m

> 古川さん
差別の問題も起こってくるかもしれませんね。
私は、いわゆる「後腐れがない」とでも言えるようなやりかたが、外国の移植先進国と言われる国々で、移植希望者が増え続ける理由の一つになるのではないか?
と思っていますが、また、本を読んでみても、臓器提供者の無名性が臓器をモノとして扱うのを可能にしている、という意味のことが書いてありますが、しかし、ドナー(の遺族または保証人)とレシピエントがお互いに相手を知ることによる問題はたくさん起こりそうですね。

たとえば、レシピエントがドナーのお墓にお参りしたっていいのじゃないか、とも私は思いますが、レシピエント側の人間とドナー側の人間とが直接会うと、いかに臓器売買を禁止しても、隠れて、表立たずに、金品の授受が行なわれることもあるかもしれない、そういうことは罰しても防ぎきれないかもしれない、そうすると更にいろいろとややこしい問題が起こり、なかには、犯罪にまで発展することもあるかもしれない、とか、考えてしまいます。


差別と免疫 2 投稿者:古川明広  投稿日:04月20日(木)14時52分06秒

免疫って(免疫に限らないのだろうけど)、心理的なことも影響があるみたいですよね。
だからてるてるさんのおっしゃるような免疫のあいまいさって、逆の側面もあると思って、差別感情が気になったわけです。移植を受けて、その臓器のドナーの方がわかり、その人に差別感情があったり、はっきりと自覚のなかった差別感情がそのことによって浮上してきたりしたとき、それは臓器の受容にどう影響するか。また、普段から自身の被差別性を意識している人は、臓器提供をしたいと思っていても、自分のことがレシピエントの方に知れるとなると、抵抗を感じることもあるかもしれない。一律にドナーとレシピエントとがお互いに顔が見えるようにするのとも、一律に見えなくするのとも異なる方法が良いのではないでしょうか。

 > それとも、これはいよいよ人間の滅びる前の末期症状、自家中毒のような
 > ものの始まりなのかもしれない。

そうかもしれないし、どこから始まったというのがはっきりしないかたちで、曖昧な意味ではすでに始まっていることのようにも思います。また、この末期は死(逆説的には生)そのものには永久に到達しない末期であるようにも思います。そのような末期性をなるべく引き受けたうえで、諦観とも克服とも言い切れない倫理を考えたいのですけど、なかなか‥‥。


雑誌 投稿者:てるてる  投稿日:04月20日(木)07時43分13秒

コンビニエンスストアで売っていた、ミリオン出版の「GON」という雑誌に、
「臓器特集第一号 臓器ビジネスで一攫千金」という記事が載っています。
「人体部品ビジネス」(講談社選書メチエ)の序章に載っているクライオライフ社の、
ホームページ掲載の臓器の写真も紹介しています。

「投稿日:04月20日(木)01時15分03秒」の書き込みの補足です。
 > いくら移植がさかんな国でも臓器は不足するというのは、レシピエントが
 > ドナーのことを知らないでもすむからだけではなく、ドナーの遺族にレシピ
 > エントのことを知られないでもすむからではないのか?

いくら移植がさかんな国でも臓器は不足するというのは、レシピエントがドナーのことを
知らないでもすむからだけではなく、ドナーの遺族にレシピエントのことを知られないで
もすむから、移植希望者がふえ続けるせいではないのか?


てるてるさん 投稿者:森岡正博  投稿日:04月20日(木)01時27分47秒

おっしゃること、よくわかります。
さらに中絶胎児の利用とか、人体部品ビジネスとかに広がってくるわけで、これが生命倫理の現実なのですね。しんどい話です。

臨床的脳死状態でも、家族が話しかけて触ると血圧が上がるという話は、下で紹介した大野さんの体験にも出てきます。「死んでいる」と医学が言う人でも、血圧は上がるんですね。


136000 投稿者:てるてる  投稿日:04月20日(木)01時15分03秒

でした。面のカウンター。135000だったのが、15日です。今は20日。なんかすごい…。こんなばかなことばっかり書いていては申し訳ないので、今、読んでいる本のことを書きます。

「移植医療の最新科学」(坪田一男著、BLUE BACKS,2000年)について。
いろいろな臓器や組織の移植手術そのもののことにくわしく、特に免疫のことにくわしい。
なぜなら、この免疫というのは、自己とは何か、という、人にとって本質的なことに関わるものだからです。

角膜の移植を受けた患者さんの話で印象強いものがあります。
角膜移植後の拒絶反応で入院し、免疫抑制剤を使ってもよくならない。ところが、夢の中で角膜を提供してくれた人が登場し、優しく慈悲に溢れた言葉をかけてくれた。
それ以来、拒絶反応が改善し、予後がよくなったということです。

坪田一男氏は、そのあと、精神免疫学のことを書いています。
癌でも、移植後の拒絶反応でも、精神的なケアがよいと、予後がよくなる。実際、からだのなかで分泌されるものの量が変化して、ちょうどいい免疫の状態になるらしいです。

坪田氏は、クローンのことも取り上げています。自身で、日本で一番たくさん移植手術を行なっている医者だと言っているだけあって、移植に関してとても積極的です。
さらに、臓器売買について、臓器売買をめぐる犯罪を防ぐために、ビジネスとして確立するほうがよいと述べています。

私は、臓器売買には反対ですが、移植とか、免疫とか、人のからだというものは、不思議なものだとつくづく思います。
移植は不自然だと思いますが、しかし、その不自然なことをして生きていけるとは不思議なものだ、と感心してしまいます。
もし、神様がすべてを創ったのだとしたら、人間が不自然にも見える医療で生きていけるということもまた、神様がそのようにひとのからだをつくったのだろう、と思います。

脳死と判定されそうな人でも蘇生するというのもまた、不思議です。
そして、きのうの集会で、救急医学の濱邊さんがおっしゃっていましたが、意識のない重篤な容態の患者さんが、家族が病室に入ると血圧が上がるとかいうようなことは、救急の現場では、よく経験するのだ、とのことでした。
それもまた、不思議なことですが、人情としてわかりやすいとも思います。

臓器移植法の改正案の対案のことを考えていて、脳死や心臓停止後の移植のことは、人と人との関係の問題として、考えることができる、と思うのです。臓器を提供する人も、提供しない人も、移植を望む人も、移植を望まない人も、自分の人生観で選んで、人と人との関わりの中で納得して行なえばいいのだ、と思います。
いくら移植がさかんな国でも臓器は不足するというのは、レシピエントがドナーのことを
知らないでもすむからだけではなく、ドナーの遺族にレシピエントのことを知られないで
もすむから、移植希望者がふえ続けるせいではないのか?
それは、いかにも「無痛文明」という言葉にふさわしくないか?と思います。

しかし、「移植医療の最新科学」に出てきた、角膜移植のあとの拒絶反応がひどかったのがドナーの夢を見て、よくなった女性の話などを読むと、レシピエントにとっても、ドナーの人となりを知っているほうがいいみたいだと思えてきます。ドナーがどんな状態で亡くなり、どんなふうに遺族とおわかれをしたのか、レシピエントも知った方がいいのではないか、それを知っても、レシピエントが苦しまなくてもすむような移植のしかたがいいのだ、と思います。

もう一冊、「人体部品ビジネス」(講談社選書メチエ)という本も脇に置いているのですが、いろんなことを考えてしまって、もう、収拾がつかないぐらいです。組織などを医薬品開発などの研究目的に利用するとか、血液製剤を作るとか臍帯血を利用するとか骨髄を移植するとかいうことになってくると、「人と人との関係」として考えられなくなってきて、それはまた別の問題だとも思います。

脳死の人のからだが、利用されるということも、それがいいとも悪いとも言い切れない気がします。
そして、胎児。中絶を、先に生まれてきた人間が生きるためにやむをえないこととして、認めてもいいと私は思っていますが、そうすると、中絶した胎児の組織や臓器の利用を禁じるなどとは言えないような気がしてきます。

でも、そうまで人のからだを「利用」してもいいものか。いや、いいのかもしれない。
すべての人が同じように平等に「利用される」立場に置かれうるのなら、人間が他の動物や植物を殺すばかりで、自分達は別のもののようにふるまっているのは傲慢なのかもしれない。
それとも、これはいよいよ人間の滅びる前の末期症状、自家中毒のようなものの始まりなのかもしれない。

ほんとうに…わかりません。


大野さんの投稿(脳死) 投稿者:森岡正博  投稿日:04月19日(水)12時41分18秒

大野綾子さんの投稿をアップしました。お母様を脳死を経て亡くされた大野さんの
体験を元に書かれた感動作です。脳死移植の議論に、大切な視点を与えてくれると
思います。ぜひご覧ください。

http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/keijiban/kanso018.htm
http://www.lifestudies.org/jp/kanso018.htm


厚生省臓器移植対策室の連絡先 投稿者:森岡正博  投稿日:04月19日(水)10時14分36秒

>てるてるさん、みなさん

3個下のてるてるさんのメッセージに関連してですが、厚生省臓器移植対策室の連絡先は、
HP移植法ページにある、ぬで島さんのアピール文章の最後に記載されています。
ご確認のうえご活用ください(^^)。

http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/nude.htm
http://www.lifestudies.org/jp/nude.htm


きょうの集会 投稿者:てるてる  投稿日:04月18日(火)22時57分39秒

終り近くで、司会の方が、ファクシミリを二通紹介しました。後の方で紹介したのが、
森岡さんからのファクシミリでした。「大阪市大の」ですって!
私の前にすわっていた若い女性が、<
「ヤフーで『森岡正博』で検索すれば見つかります。大阪府立大学です」
と補足なさっていました。

てるてるさん 投稿者:yukiko  投稿日:04月18日(火)22時28分14秒

ありがとうございます。私は今日行きたかったのですが参加できず、ちょうど、
ぬで島次郎さんのアピールを教えてください、とカキコしようとしたところでした。
審議会も、都合がつく限り出たいと思います(その都合がねえ…)。

RE:改正案反対シンポジウム 投稿者:てるてる  投稿日:04月18日(火)21時14分22秒

行ってきました。お話はたくさんありましたけど、ぬで島次郎さんのアピールが急を要する
ことなのでそれだけ書きます。
といっても実は聞き取れなかったところがあるんです。(T_T)m(_ _)m

既に、ぬで島次郎さんの
「『ヒト組織の移植等への利用のあり方について(案)』に対する意見」
がこのサイトに載せられていますが、その『ヒト組織の移植等への利用のあり方について
(案)』について、厚生省が、今週の金曜日と来週の金曜日、つまり、4月21日、28日に、
審議会を開きます。
「第23回」と「第24回」の「厚生科学審議会先端医療技術評価部会」です。
厚生科学課というところが開くようです。
厚生省のホームページの行事予定表に載っています。

この審議会は、「案」がインターネットに公開されていた期間が短くて、しかもダウンロー
ドしてプリントアウトすることができないようになっていて、市民に情報が充分に開示され
ていたとは言えない。しかも、その内容は、本来、臓器移植法の一部として国会で審議され
るべき重要なものである。すなわち、人の組織の摘出や研究目的の利用に関するもので、諸
外国の法律では臓器移植法のなかで定められているのに、日本では定められていない。
この審議会で、案がまとめられて臓器移植法とは別個に施行されてしまっては、脳死や心臓
死で臓器の提供に同意した人は、家族が説得されて勝手に組織もとられてしまう恐れがある。

それで、この案が充分に市民に公開されないで決定されてしまうのを防ぐために、厚生省に
電話をかけて資料を要求してください、とのことです。
その電話をする先ですが、「厚生省保健医療組織医療対策室」に電話して、
『ヒト組織の移植等への利用のあり方について(案)』についての資料をください、
と言ってください、とのことだった…と思うんですが、それが
「厚生省保健医療 組織医療対策室」
でよかったのかどうかはっきり聞き取れなくて…m(_ _)m m(_ _)m


森岡正博様 投稿者:てるてる  投稿日:04月17日(月)20時34分07秒

修正案を添付ファイルで送りました。御確認ください。

過去ログハウスをリンクしていただいてありがとうございました。
過去ログハウスのコンテンツに入れている「資料紹介」も更新しています。
「臓器移植はなぜ必要か」(太田和夫、講談社、1989年)は、立花隆の「脳死」に匹敵
するいい資料だと思います。後から紹介文を追加して詳しくしました。

> マンソンジュさん、古川明広さん
「ドナーとレシピエントとがお互いに顔が見えるようにする」という考えについてレスを
いただき、ありがとうございました。上記の太田和夫氏の著書を読んでいて、つくづく、
氏が移植を受ける患者さんや生体腎を提供する患者さんについて述べていることは、脳死
の人からの臓器移植に慎重な人や反対している人が、脳死の人について述べることにそっ
くりだなあ、と思ったことから、思いついたことです。非常にむずかしいことだと思いま
すが、もう少し考えてみたいです。このことに関して、更にいろいろ、考えられる問題点
を指摘していただけたらありがたいです。


過去ログハウス 投稿者:森岡正博  投稿日:04月17日(月)16時12分12秒

てるてるさん作の、この掲示板の過去ログハウスも、移植法ページにリンクしました。

↓の詳しい情報 投稿者:森岡正博  投稿日:04月17日(月)16時11分08秒

を、移植法ページに掲載しました。ご覧ください。彼らも、われわれのネットでの
運動を見ていたそうです。ネットと現実世界は、こうして結びついていくのですね。

http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ishokuho02.htm">
http://www.lifestudies.org/jp/ishokuho02.htm


改正案反対シンポジウム 投稿者:森岡正博  投稿日:04月17日(月)12時59分32秒

>みなさん

つぎのようなシンポジウムが、あした東京で開かれるようです。
とうとう、向井さんたちが動き始めました。私は参加できませんが、
ぜひ行ってみてください。

     ====================================================
     市民と衆参両院議員の共催によるシンポジウム
     臓器移植法成立から3年・いま改めて脳死と臓器移植を問う
     ====================================================

     日時:2000年4月18日(火)15:00−18:00
     会場:衆議院第二議員会館第一会議室
     主催:臓器移植法成立3年・いま改めて脳死と臓器移植を問うシンポジウム
        実行委員会
     市民側連絡先:向井承子 tel 03-3397-3537  fax 03-3397-5190
     議員側連絡先:衆院議員金田誠一事務所 tel 03-3508-7622 fax 03-3508-3252
     プログラム
     1)主催者あいさつ:議員側、市民側
     2)光石忠敬(弁護士、元脳死臨調参与)
       「厚生省研究班による「3年後の見直しに向けての提言」を批判する」
     3)山口 洋(順天堂大学病院副院長・循環器内科教授)
       「脳死と臓器移植」という医療は現代社会にどう位置づけられるか」
        −医療倫理と社会経済の視点から−
     4)古川哲雄(東京医科歯科大学教授・神経内科学)
       「脳死者に本当に意識はないのか−神経内科医の立場から−」
     5)濱邊裕一(都立墨東病院救命救急センター医長)
       「救命医として再度言う。脳死は改めて「人の死」ではない」
     6)ぬで島次郎(三菱科学生命科学研究所主任研究員)
       「移植法三つの欠陥−見直すべき真のポイントは何か−」
     7)主催者からのメッセージ:議員、市民


↓を訂正 投稿者:古川明広  投稿日:04月17日(月)07時10分41秒

どうしても避けられない抑圧を明らかにしたうえで、自身がその抑圧をどう選び取り直すかを、抑圧に巻き込まれるただなかで倫理的に考えていければと思います。

森岡さん 投稿者:古川明広  投稿日:04月17日(月)07時05分50秒

避けられない抑圧を明らかにしたうえで、自身がどういった抑圧を選び取り直すかを、抑圧に巻き込まれるただなかで倫理的に直していければと思います。

Le Pissenlitさん 投稿者:古川明広  投稿日:04月17日(月)06時34分00秒

あ、返事催促みたいになっちゃってスミマセン。そういうつもりでもないんです。
僕が自閉症の方のことを持ち出したのは、臓器移植についての意思表示をしなかった脳死の人というのは、脳死という障害の時点でちょっと自閉症者的に思えたからです。
だから、自閉症的なるものを区別するだけでなくそこから私たちに普遍的なことを、意思表示がない(わからない)ことをどう扱うかにおいて取り出せないかと思いました。

差別と免疫 投稿者:古川明広  投稿日:04月17日(月)05時38分12秒

ドナーとレシピエントとがお互いに顔が見えるようにするというとき、僕がまず気になるのは差別のことです。障害者や部落、アイヌなどや、もっと曖昧で微妙なのも含めて、日本には日本なりの差別構造があると思いますが、ドナーとレシピエントがお互いわかるようになり、移植医療が差別に低触する段階となったとき、どんな展開があるのか。その展開にどう責任を持つのか。ドナーとレシピエントがお互いわからないって、免疫抑制ならぬ差別抑制というところもあるのかなと思ったりしますが…。

古川さん 投稿者:森岡正博  投稿日:04月17日(月)00時19分52秒

抑圧の形成というのは、根本問題ですね。
ネットであっても、会話のやりとりがあれば人間関係が生じ、そうなるとそこに配慮、政治、かけひき等が生じ、すると必然的にそこに抑圧が生じ得るでしょう。
それはある意味で不可避です。この世の中に、抑圧の存在し得ない人間関係というものはないんじゃないのかな。

問題は、だからそこからどうするのか、ということではないのでしょうか。抑圧をたえずあばきだしていくというのはひとつの手法だと思います。移植問題というのはすさまじい抑圧のかけっこみたいなことにあることがあって、私も90年代初頭にはその渦中にいたりしました。それは、ほんとに、胃炎になりそうでした。


古川さん 投稿者:Le pissenlit  投稿日:04月16日(日)22時18分36秒

私は多忙と家の工事も加わりHPを開けませんでした。こんなリズムをご了承下さいませ。
この期間自閉症の方やその方々のために働く友人の重い味を感じつくしておりました。
なぜ古川さんが幼児と自閉症の方を比較にだしたのかを訝る思いもかすみつつ。
古川さんがおしゃるように自閉症の方の病状の程度はいろいろ。
私の身近なところにいる青年は継続しない勤め方ですが社会で働いています。
文字での意志表示はできます。以前訪れた施設の方の症状では文字での意志表示は困難。
なお幼児とは未発達な成長段階をいうのでは?幼児にしても文字で意志表示ができない自閉症の方でも意志はありますのでどうその意志を汲み取るのか、日頃の彼らとの密なる関わりで認知できる経験を持つ方にかかってくるのでしょうか。そんな印象が前提であったのです。具体的扱いとなるとどうなんでしょうね。
<前面肯定は絶対ムリ、死ぬ最後にでもかろうじて否定の量より肯定の量がちょっとばかり上回ればめっけものと感じます。
共感しますね。人間生きる実感って重いものですよね。しかし絶対って使わないが・・。
自己肯定ってある日突然訪れるような否定と肯定のパラドックスのような実感でもあるように思うのです。ですから言葉として絶対というより曖昧な方が良いのでは?

信託 投稿者:マンソンジュ  投稿日:04月16日(日)10時31分01秒

てるてる様の一連の発言を全面的に支持するとともに、今後の議論についても信託します。
>ドナーとレシピエントとがお互いに顔が見えた方がいいのではないか、と思います。
>そのほうがお互いに責任を持って、生きられるのではないでしょうか。
賛成です。
それでは、移植に関わるマスメディアの報道に対する規制はどうあるべきなのでしょうか。

135000 投稿者:てるてる  投稿日:04月15日(土)19時23分54秒

でした。表紙のカウンター。
ニュースで、6例目の脳死判定がされたと告げていました。臓器を提供する意思をカードに表示していて、家族も同意しているとのことです。

臓器提供を社会の意思とすること 投稿者:てるてる  投稿日:04月15日(土)15時15分49秒

「臓器移植はなぜ必要か」(太田和夫、講談社、1989年)の著者は、ベルギーやシンガポールなど、生前に拒否の意思表示をしておかないと臓器を摘出される国々について、臓器提供が社会の意思となっているとして、高く評価しています。

この著者が生体腎移植について語るときの、人間関係の問題についての慎重さ、生体腎摘出手術のときの感覚は、脳死の人からの臓器移植に対して慎重な人々の意見とほとんど見まごうようです。臓器売買についても事実をふまえて適確に批判しています。

著者は、脳死を完全に死とみなしているので、脳死からの臓器提供は、移植後の予後も心臓死後の臓器提供よりもよく、腎臓や肝臓の病気で苦しむ人々を助ける、完全に人道的で望ましいことと考えています。そして、脳死からの移植について慎重な意見や反対意見を、ゆえなき偏見によるものとしています。

私には、脳死の人も完全に死んでいるかどうかわからないし、愛する人の死を受け入れるには、医者の死の判定だけではかたづかない、時と場とが必要で、その時と場とが提供されなければ、ほんとうの意味で「死んだ」とは言えないのだろう、と思えます。ほんとに「死」を受け入れるのには何年もかかりますが、とりあえず事実としての「死」を認めるのには一日でも一時間でもいいのです。それだけの時と場とが過ごせないうちは、ほんとうの意味では「死んだ」とは言えない。だから、脳死を死と認めようと認めまいと、生体からの臓器移植と同じぐらいの慎重さを、移植を推進する医師も持って欲しい。

私は、臓器提供を社会の意思とすることには反対です。
本田和夫氏も、もし、生体腎の提供を社会の意思とすると聞いたら、反対するでしょう。
死体からの臓器提供を社会の意思とすることに本田和夫氏は賛成しています。
しかし、それは、死者といえども生きている人々との関係の中で生きている、ということを忘れているのではないか、と思います。そして何よりも、脳死を完全に判定することはむずかしく、脳が融解しないうちにその人が完全に死んだとみなすのは無理だと思います。
脳死後であれ、心臓死後であれ、臓器の提供は、あくまでも個人の自由な意思に基づいたものでなければならないと思います。

そして、本田和夫氏は、死体腎の移植では、人間関係や金銭の問題が起こるのを避けるために、腎臓提供者の氏名がレシピエントにわからないようにしてあることを良い方法であるとしていますが、私は、今、そういうやり方に疑問を持ち始めています。
ドナーとレシピエントとがお互いに顔が見えた方がいいのではないか、と思います。
そのほうがお互いに責任を持って、生きられるのではないでしょうか。
ただし、ドナーにレシピエントを選択する権利はない。
それはあくまでも医者によって医学的な判断に基づいて選択されるべきだと思います。


khさんの意見について 投稿者:古川明広  投稿日:04月15日(土)11時45分56秒

レシピエントが主張する臓器の提供を受ける権利を純粋に人権化してしまうのは、たしかに無理なことをしている感じがします。でも、無理をしているということを言い出すと、私たちはすでにそうとうな無理を基盤として生活していると思う。臓器移植の問題は、無理をしていることに目をつむらず、どのような無理を私たちが選択し、自覚し、覚悟していくかという問題であるように思います。このことの熟考によっては、他の分野ですでにおこなわれている無理の再考にもおよぶ可能性もなくはないと思います。

天皇の人権的曖昧性は、日本人の人権意識の輸入性とあいまって、私たちの曖昧性を支配しているように感じます。間主観的なるものも天皇制と相関があると思う。僕なんか、間主観的な抑圧形成の闇の元締(?)はいまだに昭和天皇だと思っちゃってるし、その意味でも、私たちはいまだに戦後の時空で生きている。昭和が終って新元号「平成」を国民に知らせたのが小渕氏だったというのも、いまの小渕氏の状態を考えるとなんだか不思議な符丁を感じます。

ネットの力というのもある意味そうした抑圧形成力だし、この掲示板にもそれは感じます。森岡さんは以前どんな意見が出されることも封じないと言ったけど、封じなくても抑圧はやはりかかっていると思う。どう発言し、それにどのような反応をし、どのような無反応をするかなどで、それは形成される。その抑圧形成にだれもが関わるわけだけど、森岡さんの掲示板だからやはり森岡さんがいちばんこの抑圧形成に影響をあたえる。だから発言無発言も含めて掲示板に参加するとは、どういった抑圧形成に参加するかという問題でもあると思います。自戒もこめて。

この掲示板との関わりかたについて、臓器移植法改正のことにどう関わるかについて、ちょっとわかんなくなってきた。被淘汰の選択も含めて、考え直してみます。


yukikoさん 投稿者:古川明広  投稿日:04月15日(土)09時38分42秒

僕も、善悪の判断とか倫理というのは立場によって異なる相対的なものだと思います。そしてそのそれぞれに異なる倫理というのがそれぞれに対等ではなく、そのなかのどれかが社会にたいして支配的倫理になっていくように思います。臓器移植法のことを考えていくのは、どういった基準で支配的生命倫理をかたちづくっていけばいいのかが問われていると思うし、そこにおいて、現在の支配的生命倫理観に揺さぶりをかける問題系もあるのではないかと感じています。

善と悪の二項対立の構図は僕自身しっくりこないものがあって、善と悪の中間形態にも善とか悪とかと対等な名前が与えられてもいいんじゃないかとか思うんですけど、倫理というのは、やはり善と悪を二項対立させるところを前提とするものなんでしょうね。だから、yukikoさんの「悪でよごれたいいかげんな善」という言いかたは、あくまで倫理の枠内で、倫理に揺さぶりをかけていくような表現であると僕は感じました。


対案について・2 投稿者:てるてる  投稿日:04月14日(金)22時51分26秒

子供用のドナーカード(とチェックカード)のことですが、対案のなかでは、配布の方法について書いていません。おとな用のドナーカードについては運転免許証と一緒に配布すること、また、チェックカードや臓器移植に関する法律を説明する冊子も一緒に配布することを提案しました。

子供用のドナーカード(とチェックカード)の場合は、そういうわけにはいきません。
これらのドナーカード(とチェックカード)は、子供が勝手にとっていくことができない
ようにするほうがいいと思います。おとなが手渡して、そのときに、本人にわかるように、臓器移植に関する法律のことを説明する方がいいと思います。
それは、死の準備教育とは別のもので、死の準備教育を受けている子供に対しても、受けていない子供に対しても、同様に、ドナーカード(とチェックカード)の配布にあたって、臓器移植に関する法律について、レクチャーをする。そして、臓器移植に関する法律を説明する冊子に、レクチャーした人のサインをして、子供に渡すようにするのがいいのではないでしょうか。
そういう配布の仕方が可能な場所にだけ、子供用のドナーカードをおくのがいいと思います。
子供用のドナーカードを、死の準備教育の授業で配布してはならないと思います。実物を示して説明するのは構いませんが。

子供用のドナーカードを使わない、13歳以上の人で、15歳未満の人の場合もまた、同様にするのがいいと思います。
15歳未満の人の臓器を提供する場合、
ドナーカードに、本人の署名のほかに、
「臓器提供希望者の親(または代理の保護者)以外の成年の近親者か、本人のかかりつけの医者とか、学校の担任の先生とか、保母さん、そのほかの、本人の教育や保育や医療に携わる人に保証人になってもらって署名をしてもらうこと」、
さらに、
「親(または代理の保護者)自身も成人用のドナーカード(脳死後の臓器提供の場合はドナーカードとチェックカード)を提示すること」
を提案しているのですが、
それらの条件に加えて、レクチャーした人のサインのある、臓器移植に関する法律を説明する冊子も、提示することにしたほうがいいかもしれません。それは、子供の親(または代理の保護者)が提示すればいいと思います。
そしてさらに、レクチャーした人と、ドナーカードに保証人として署名する人とは、別人でなければならない、としたほうがいいかもしれません。

15歳以上で、運転免許を持たない、未成年の人の場合はどうするべきでしょうか。
運転免許をとった人の場合は、実際、交通事故に遭ったり起こしたりして、人に殺されたり人を殺したりする機会が増すのだから、ドナーになるかならないかということを考えたほうがいいと思います。
だから、ドナーカード等を配布する意味があります。
運転免許をとらない人の場合も、やはり、病気や死に関して考える機会のある場所でドナーカード等を配布したほうがいいと思います。
ということで、学校の保健室や保健管理センター・病院・診療所・保健所などにおくのがいいのではないかと思います。

現行の臓器移植法のもとでは、健康保険証の配布と共にドナーカードとシールを発行しています。それはいいですが、コンビニエンスストアや郵便局に置くのはあまりにも気軽にドナーカードを手に取りすぎて、よくわからずに記入してしまう可能性が大きいと思います。

「臓器を摘出するとき」について、
「心臓停止後も、脳死判定後も、臓器の摘出を急いではならない。できるだけ、家族など、死にゆく人を見送る人々が気が済むまで待たなければならない。」
としています。
これについて、もう少し、補足する必要を感じています。
最期を看取る人々にとっては、死に逝く人のからだにさわり、そのからだから伝わる声なき声に耳を傾け、眼の閉じられた面を見つめて、その顔の語る表情を読み、わかれを告げる時間が必要だと思います。そういう時と場とは、臓器を提供する場合も提供しない場合も、同じように確保されなければならないと思います。


対案について 投稿者:てるてる  投稿日:04月14日(金)22時48分38秒

4月7日3版の対案で、
「家族への説明」の項で、
「第三者機関のメンバーが、会話を録音し、筆記記録も残す。」
と書いていますが、これは、
3月12日案の
「臓器を提供する場合」の項で、
「ドナーカードに臓器提供の意思を表示していることがわかったら、臓器移植ネットワークと、臓器移植を検証する権限を持つ第三者機関とに連絡し、両方の組織からメンバーが到着するまで、脳死判定を始めてはならない。」
としたうえで、「家族への説明」の項に入れたものです。
しかし、4月7日案の
「臓器を提供する場合」では、
「ドナーカードに署名している保証人のいないときに臓器移植を行ってはならない。」
とし、臓器移植を検証する権限を持つ第三者機関とに連絡する、という条件を省いています。それというのも、移植コーディネーターに連絡するだけで充分ではないかと考えたからです。
それなのに、
「第三者機関のメンバーが、会話を録音し、筆記記録も残す。」
という条件を残したのはおかしいかもしれません。
記録をとるのは特に第三者機関のメンバーに決めなくてもいいと思います。
したがって、
「会話を録音し、筆記記録も残す。」
だけでいいのではないかと思います。
その記録は、その場で二部コピーをとり、一部はドナーの保証人に、一部は後で第三者の検証機関に提出されるようにするのがいいと思います。
録音も同様に二部ダビングするのがいいと思います。
それらの録音や筆記の道具はコーディネーターが用意すればいいのではないでしょうか。

匿名でない臓器提供 投稿者:てるてる  投稿日:04月14日(金)22時41分41秒

臓器提供が、個人の自由な倫理的判断の元に行われるためには、移植後に、レシピエントは、ドナーの氏名や年齢や病名や職業・家族構成などを知り、ドナーの遺族(対案では保証人)は、レシピエントの氏名・年齢・病名・職業などを知るようにしたほうがいいのかもしれない、という気もします。

臓器が無名のものとして扱われるから、移植治療が定着すればするほど、移植を望む人がふえて、臓器が不足し、本人が拒否の意思表示をしなければ臓器を提供させることにしたり、ドナーとなる範囲を脳死から無脳児や植物状態患者へと広げたりするようになるのではないでしょうか。


「臓器移植はなぜ必要か」 投稿者:てるてる  投稿日:04月14日(金)14時35分22秒

「臓器移植はなぜ必要か」(太田和夫、講談社、1989年)に、息子にオーストラリアで移植を受けさせた女性の言葉が載っています。息子さんは1986年に生まれましたが、先天性の胆道閉鎖症で、1987年暮れにオーストラリアに渡って移植手術を受け、その後は順調だそうです。
「移植を受ける側だって、みんながみんな、移植したいっていってるわけじゃないのね。子どもに移植させたいって望む親もいれば、そこまでしたくない、これがこの子の寿命なんだとあきらめる親もいる。これは誰も、なにもいえないことですよね。個人のポリシーなんだから。わたしは移植させたいと思った。
だから、裕也をオーストラリアへ連れていったんです。
移植を押しとどめている人たちに、ときどき、いったいなにを考えてるのっていいたくなる。反対する人がいれば、賛成する人もいるわけで、賛成する人が一人でもいて、すべて納得して臓器を提供しますっていうんだったら、反対論者はなにもいえないと思うの。赤の他人が--どんなに偉い人であろうと赤の他人が、家族の悲しみまで代わってあげられるわけじゃないんだから。家族は、大変な思いをしているんだから。
英語の辞書を片手にもって、オーストラリアへ出かけていくのはやっぱり不安でしたよね。本当は日本で、この国なかで移植が受けられれば、それにこしたことはなかったんです」 (p.72)

Re:善と悪 投稿者:yukiko  投稿日:04月14日(金)09時14分35秒

古川さん 

善悪の判断って、立場や見方が変われば万華鏡のようにその姿を変える、その人自身の鏡のようなもんかいな、と思います。私は、人間の生命活動は善だと思っていますが、善だといって現状肯定するのではなく、常に修正を求めていく必要があるように思います。

私が善悪について考える時に強烈に思い出すのが、映画監督ジョン・ウーの一連の作品です。
「男たちの挽歌1、2、最終章」や「フェイス・オフ」など。彼は今のところ「善と悪」を二項対立させていますが、今後、変化するのか、このままなのか、とても楽しみです。

ここんとこPCの調子が悪いと思ったら、ついにこわれてしまった。いったい送信できるんじゃろか? 


RE:khさんの意見 投稿者:てるてる  投稿日:04月14日(金)06時50分22秒

読みました。
首相の入院に関する意見、鋭いです。
なんとなく胸の中にもやもやと溜まっていたものを明確にしていただいて
ありがとうございました。

khさんの意見 投稿者:森岡正博  投稿日:04月13日(木)13時31分00秒

khさんが、オフィシャルページで、ご自身の意見を述べておられます。
小渕元首相のことにも触れながら、鋭い問題提起です。必見。

http://ishokuho.tripod.co.jp/private/zentei.html
http://ishokuho.at.infoseek.co.jp/private/zentei.html


てるてるさん 投稿者:森岡正博  投稿日:04月13日(木)13時21分57秒

過去ログハウス、いつもありがとうございます。
HPのほうにリンクしようと思いながら、まだできていません。
いましばらくお待ちくださいm(_ _)m。

資料編も、すごいですね! 私の知らない本もいくつかあります。うーん、議論においついていない。梅原さんが本を出したんですか・・・。梅原さん、お元気なのでしょうか。


過去ログハウスと資料紹介 投稿者:てるてる  投稿日:04月13日(木)07時17分33秒

更新しています。どうぞ御利用くださいませ。

山口研一郎さんが、「頭部外傷や病気による後遺症を持つ若者と家族の会(若者と家族の会)」の桑山雄次さんと共に著した本や、
移植を推進する立場から書かれた、「脳死―ドナーカードを書く前に読む本」、
また、非公開だった脳死臨調の後、脳死・臓器移植についての開かれた討論を目的として番組を制作したNHK脳死プロジェクトの「脳死移植」、
臓器移植法施行後の四例の脳死・臓器移植の報道を検証した、浅野健一氏の本などを追加
しています。そのほか、立花隆の本の紹介も少し書き加えています。

NHKの本や、「脳死―ドナーカードを書く前に読む本」では海外の臓器移植のことが紹介されています。

移植を推進する立場からは、国内で移植手術を受けられない日本人が、海外へ移植手術を受けに行くことの問題を指摘しています。私もこれは問題だと思います。一方、移植の盛んな国では、移植手術が成功し、移植医療が定着すればするほど、移植を望む患者さんがふえて、臓器不足になることも率直に書かれています。私には、移植医療は始めから終いまで臓器不足が宿命づけられた医療なんじゃないか、と思えてきます。

山口さんと桑山さんの著書では、移植医療を肯定してきたバチカンも、今では行き過ぎた移植医療に警告を発するようになった、とも書いています。山口・桑山両氏の共著でも、また、柳田邦男の「脳治療革命の朝」でも、交通事故などで生死の際から生還した人のための、リハビリテーションや社会復帰のための社会の態勢が整っていないことを重要な問題として指摘しています。

http://www.interq.or.jp/earth/elephant/life0000.html
http://www5f.biglobe.ne.jp/~terutell/kakologhouse/kakologhouse.htm


「ヒト組織の移植等への利用のあり方について(案)」に対する意見
ぬで島次郎 *「ぬで」は「木へん+勝」 NUDESHIMA Jiro, March 2000

脳死移植について−母の脳死体験を通して
99年度明治学院大学応募論文 大野綾子

カエルのケロケロレポート2000年4月18日 脳死臓器移植シンポジウム

NHKスペシャル 世紀を越えて〜いのち 生老病死の未来〜第1集 人体改造時代の衝撃
2000年4月23日(日曜日)放送