yukikoさん 投稿者:らら 投稿日:03月31日(金)14時37分50秒
Yukikoさんのお考えの前提は「意思を表明する余地がある」場合と考えてよろしいでしょうか。
誤解があるかと思いましたのはその部分です。1) 「するかしないかの意思を表示する手段がある」+「家族の同意が関係する」
2) 「するかしないかの意思を表示する手段がない」+「家族の同意が関係する」それで結果として、
1)の場合「する意思を表示している」「しかし家族は反対」というのと、
2) の場合の「意思はわからないが摘出される」「しかし家族は反対」とでは、
意味が違ってきませんか。2) の場合は、
個人は共同体に対して責任をもって委託し、共同体は個人に対して義務を課す、
というのが前提となっていると思います。その場合の、個人を取り巻く共同体とは何か?
ということを?人々と?家族、関係者という言葉で現わしたかったんです。
ちょっと言い方が明確ではありませんよね。でも、ここは文化の違いはあるんじゃないかと。しかし、1)の場合はまず「意思を表示する手段がある」わけだから、
個人と個人を取り巻く共同体の間には、義務と責任は自動的には働かない。
一律にはならないわけです。だから、1)を主張し続けたい、というのがまず希望。
そして、そうなると、前提としては2)のような、
「個人と共同体の関係」=「責任と義務」という関係で理解しようとするのではなく、
「意思表示をした人、その個人の意思の尊厳」という問題として理解したいと思うのです。
と同時に、「個人を取り巻く共同体としての家族、関係者の意思の尊厳」も言いたい。わたしが脳死・臓器移植問題で感じる違和感は、脳死から臓器移植へのプロセスが、
自動的に、一律に、マニュアル的に行われていくのではないか、という危機感です。
「いのちと死」は本人とまわりの者が体験する一回きりのことであり、
100人の死には、100通りの物語があっていいはずだと思うのです。
法の規制が「脳死・臓器移植のひとつのシナリオ」として、
自動装置のように働くことへの危機感です。
所有権 投稿者:yukiko 投稿日:03月31日(金)13時15分33秒
ヒト組織・臓器に所有権があるかのような議論には、私にも違和感があります。
「個人の意思のみ」「家族の同意も必要」「家族の同意のみ」いずれを選択しても、
臓器提供には臓器のモノ化がついてまわります。ヒト組織・臓器から創薬が行われた場合、具体的な知的所有権が発生すると言われますが、
私は、臓器提供が個人のボランタリズムにより行われるならば、そこに権利関係や
所有権が発生してはならないと思います。したがって、臓器提供に際しての臓器の所有権は、
第3者機関に所属してよいと思います。
製薬会社は、個人のボランタリズムにより創薬に成功した場合、製品の売買以外に、
第3者機関に対して利益還元が必要だと思います。ところで、私は「身体を含む全体性としての人格」という視点は成立すると思います。
身体の所有権とは少々異なるかもしれませんが、この視点に立てば、「私の身体」は
社会のものでも、家族のものでもなく、私自身に帰属する、と言えるように思いますし、
個の尊重は、精神性と身体性(の尊重)と相互関係にあると思います。
ひとりであること 投稿者:てるてる 投稿日:03月31日(金)08時02分51秒
yukikoさんに同感です。
個人の尊重というものをぴったり表わしてくれる言葉をみつけました。
けさの朝日新聞朝刊に載っていた、石垣りん詩集の広告です。
童話屋「石垣りん詩集 表札など」
「自分の住む所には
自分の手で
表札をかけるに限る
精神の在り場所も
ハタから表札を
かけられてはならない
石垣りん
それでよい」
(表札より)
個人意思といのち 投稿者:古川明広 投稿日:03月31日(金)07時18分41秒
いのちやからだの問題は、本人の意思を前提とすべきだけど、個人意思の尊重の問題としてのみではとりあつかえないというのが、むずかしいところなのではないでしょうか。岩田さんが提起した所有権の問題はここのところにも関わってくると僕は解釈しています。
翠さん 投稿者:古川明広 投稿日:03月31日(金)07時09分38秒
> 他者(異物)を取り込むことに対する身体レベルでの嫌悪感。
> その痛みを取り除くために麻酔をすれば無痛化してゆく、ということでしょうか。そうですね。だからといって、癌という病にまったく鎮痛なしの対峙を想定するのも、
もはや私たちのいのちとからだの現実を無視するだけなんだと思います。> 「他者に危害の及ばないかぎりにおいて、自己決定を尊重すべし」としたところで、
> はたしてどこまでが他者危害に当るのか
> …とか考え出すと、深みにはまります。そうなんですよねえ。だから、
「他者に危害の及ばないかぎりにおいて、自己決定を尊重すべし」
では基準にならないという気がしてならないのです。
ららさん 投稿者:yukiko 投稿日:03月31日(金)05時36分57秒
たとえばドイツと日本ですが、歴史認識や民族意識、倫理観や家族観などに違いがあるならば、その国にふさわしい法整備をする必要があることは言うまでもありません。たとえば、臓器移植法が「個人の意思を尊重する」だけで、法案から「家族の同意」を削除するとなると、家族によっては衝撃を受けると思います。私も現状を見るにつけ、日本で個人意識が充分に行き渡っているとは思いません。しかし、家族や共同体は都市部・農村部・住宅地の各地域において、すでに加速度をつけて解体しつつあります。各人が自立しているのではなく、孤立していると言われるところです。
今は、個の時代に否応なく突入してしまった状態であり、個としてのコミュニケーションを求めて、個としてのあり方を模索している最中なのだと思います。私は、家族や他のあらゆる人間関係において、デイスコミュニケーションが起きたときに、個としての真のコミュニケーションが誕生すると思います。
臓器移植法において「個人の意志の尊重」を採用し、「家族の同意」が削除されたと仮定します。それは、家族にとっては重大なデイスコミュニケーションの種となりうると思います。そこに理解し合いたい気持ちがあれば、家族間で話し合いをもったらどうかと思います。話し合ったことで、提供意志を取り下げたくなった人は下げてよいと思います。家族の理解が得られればそれもよし。さまざまな事情を打ち明け合えると思います。
問題は、家族の反対の意向は知っていながら、それでも自分は提供協力者になる、と個人が言った場合です。そのような場合、家族がその個人の脳死判定後、その個人の意志を反故にして、それでよいのか、ということです。
私は、このような場合、その個人の提供意志は無条件に承認してほしいと思います。家族はつらいでしょうが、それが個人の尊厳であり、存在の重さだと思います。その部分は、家族に限らず、あらゆる権力・権威の支配を免れなければならない個人のもっとも大切なところ、と言えるのではないでしょうか。いかがでしょう。
ドナーカードから家族のサインを削除した場合、個人によっては、家族に何も伝えないまま脳死になることも考えられます。そのような臓器提供では、その家族の無力感は相当に深いと思います。何も知らされていなかった場合については、確かに何らかの法的対応の必要はあるかもしれません。しかし、そのような場合でも、私は、個人の申し出を反故にしないで欲しいと思います。そのような家族関係であったことを否認することはできません。個人が、そのような生き方を選んだ人であったことを受け入れないわけにはいきません。その家族は、「その個人に何も言ってもらえなかった」という事実の連続性の上にしか、生きることはできないと思います。厳しいことを言っていますが…、こう言っている言葉が私自身に向かっている感じがしますが、そういうことに人間は耐える能力があると思いますし、そのように成長できると思います。
みなさま 投稿者:らら 投稿日:03月31日(金)01時55分50秒
その人、個人の意志を尊重するのは誰か?
@人々
A家族あるいは関係者@の場合だと個人を取り巻く共同体は人々なので、個人と人々の関係において一律に個人の
意志が尊重され、家族や関係者の介入は弱く、逆に人々の多数の意見に個人は従って行かね
ばならない、という積極性も生まれてくる。Aの場合は、個人を取り巻く共同体は家族あるいは関係者である。家族、関係者が個人の意
志を尊重するならば、@のような「一律さ」は消える。それぞれの共同体の関係性はさまざ
まで、個人の意志を尊重し、周りの者はぐっと堪えようという共同体もあれば、個人の意志
を尊重するが「脳死」の悲しみには、堪えられず拒否してしまう共同体もあろう。それは一
律にならない。わたしは、脳死・臓器移植に関して、?である必要はない、と思う。
意志表示をしていなくても臓器摘出がOK、と言える国にはそれなりの文化、倫理的な土壌
があってのことであって、そういう土壌の共有なしに、実施事項のみを適用させるのはやは
り無理があると思う。
個人の意志を尊重するのはもちろん「人々」でなければならない。
しかしどうだろうか。
大枠に尊重されているはずの意志が、
実のところ、詳細にはないがしろにされてしまっているのではないか。
つまり、個人のほんとうのところの意志を、家族や関係者のためらいを、無視してしまう結
果に導いて行くのではないか。そういうところに大きな違和感を感じるのです。
RE:いのちと法 投稿者:翠 投稿日:03月31日(金)00時51分04秒
>古川さん
癌について、なるほどです。
他者(異物)を取り込むことに対する身体レベルでの嫌悪感。
その痛みを取り除くために麻酔をすれば無痛化してゆく、ということでしょうか。
脳や遺体の冷凍保存については、科学の力によって「永遠の生命」を獲得しようとする欲望が、なんとも無痛的(という言葉は、当時使ってなかったかも知れませんが)と感じました。自分の中にもそれがあるから、強烈な抵抗感になるのだと思います。法の話はむずかしいですよね。法が多様な価値観をもつ人間同士が共生するためのルールであるとすれば、その価値観を尊重しあいながら各々がよく生きるために、何を基準に線引きしてゆくのがいいのか。「他者に危害の及ばないかぎりにおいて、自己決定を尊重すべし」としたところで、はたしてどこまでが他者危害に当るのか…とか考え出すと、深みにはまります。
RE:意思表示しないこと 投稿者:翠 投稿日:03月31日(金)00時49分48秒
>てるてるさん
ドナーカードはあえていえば、単に臓器提供の意思を示すものであって、所持しない人の中にも色々な理由があるのだから、それを一律に「死後の臓器提供へと自己決定している存在」と決めつけられ、おまけに生きた身体まで傷付けられるのは???…ということですよね。同感です。だとすると、ドナーカードの「私は、臓器を提供しません」という項目は、かえって余計な気もしてきます。
あと、ドイツの「私は決定を下記の人に依頼します」というのは、たしかに臓器提供の意思に幅をもたせる意味では一案かも知れないですね。
ドイツのドナーカード 投稿者:古川明広 投稿日:03月30日(木)07時36分01秒
てるてるさんご教示のドイツのドナーカードの項目、興味深いです。
法や、臓器移植という医療を考えるとき、自分のからだへの意思を、家族のいのちやからだへの思いをどういう範囲や基準で考えたらよいのか、むずかしいっす。
いのちと法 投稿者:古川明広 投稿日:03月30日(木)07時33分36秒
> 翠さん死刑にしてもそうなのですが、人のいのちを左右することに法が介入してくることに、とても抵抗感があります。でも、僕の生はいのちに法が介入してくることをもはや前提としているし、依存もしてると思うし、翠さんの言われるように、法というのと極個人の思いをいたずらにいっしょくたにはできないのでしょうね。そういうのを無視して抵抗感だけを正当化せずに、法や臓器移植について考えたいのですが、なかなかまとまりません。
<癌について。他を取り込み通過、排出させることで自を維持するのが「生命」とすると、その過程に摩擦がなにもないわけじゃなくて、さまざまな引っかかりや抵抗もあって、それが累積したところに生ずるのが癌という病であるというイメージを持っています。
他が自己に内部化することによって生ずる痛みを体現しているというか。だから、翠さんの言う「(自分の)生命に対する過剰な執着」とは、ニュアンスが違ったかもしれません。生命そのものにたいする抵抗感とか嫌悪感のようなものかな。
あ、それと遺体や脳を冷凍保存については、自分の命への執着とともに、人間の不死や、その逆説としての不生(?)への欲望のようなものを感じます。
意思表示しないこと 投稿者:てるてる 投稿日:03月30日(木)01時51分55秒
「ただいま思案中です」とか、「意思表示などしたくない」とかの人は、ドナーカードに何も書かないとか、ドナーカードを持たなければいいのであって、ただ、脳死の現場では、お医者さんは移植を待っている患者さんのことを考えてどっちかに決めなければならないから、そのときは、ドナーカードに「臓器を提供します」と書いていない人は皆、事実上、「臓器を提供しない」とみなして、臓器を取らないことにしてほしい、と私は思います。
RE:意思 投稿者:てるてる 投稿日:03月30日(木)01時45分49秒
ドイツの臓器提供証明書(ドナーカード)には「私は決定を下記の人に依頼します」
という項目があります。↓こういう項目を作ることはいいかもしれませんね。
意思 投稿者:翠 投稿日:03月30日(木)01時09分40秒
>古川さん>脳死したあとにまで自分のからだに「意思」なんかもちたくない。
一人称の感覚でいえば、私も同じかも知れないです。
脳が生きてりゃどうしたって意識が過剰になるのだから、脳死すりゃそれよりも
大きなものに身体を委ねたい、いつまでも自分という意識に縛られたくないという
思いがあります。そう思いたがるのもこの脳なのですが。
パートナーさえ納得すりゃ、臓器を取られようが肉を食われようが(誰も食いたかない
でしょうが)かまわないし、臓器提供の意思などいちいち示さなきゃならんのかって
思いもある。でも、それと法とはやっぱり違う。
いっそ、ドナーカードに‘その他’って自由記入できる空欄があればどうでしょうか。
「ただいま思案中です」とか、「家族に委ねます」とか、「意思表示などしたくない」
とか……それじゃ、意思表示カードにならないか。>他を内部化することでしか成り立たない「生」への嫌悪感を考えるとき、
>僕は癌という病を想起してしまいます。↑この部分、もうちょっと解説していただければありがたいです。
過去ログ 投稿者:てるてる 投稿日:03月29日(水)07時36分10秒
古川さん、喜んでいただけてよかったです。
森岡さん、先走ってしまいましたが、皆さんのお役に立てれば幸いです。> 翠さん
> 万一、臓器提供は本当はイヤなのだが意思表示をせずに(できずに)脳死になって
> しまった人の臓器が摘出された場合、自己決定権の侵害のみならず、身体への
> 「強制的侵害」が発生するわけで、それがイヤならNOの意思表示をしろ、などと
> いうのは、やはりどう考えても行き過ぎだろうという気がします。
同感です。
臓器移植・食・生 投稿者:古川明広 投稿日:03月29日(水)07時08分51秒
> 翠さん
食ったものをちゃんとアウトプットしてればまだ食への嫌悪感も少ないのかも…。
それに、食を段階を踏んでいてある意味「礼」をもった摂取法とするなら、
臓器移植はよりダイレクトなんで嫌悪感もビビットになるのかもしれません。
他を内部化することでしか成り立たない「生」への嫌悪感を考えるとき、
僕は癌という病を想起してしまいます。実は、極めて個人的には、自分が脳死になったら町野B案であつかわれたい。
というか、脳死したあとにまで自分のからだに「意思」なんかもちたくない。
でも、こんなこと、法になんかで保障されたくないです。
しかし、人間が「死後の臓器提供へと自己決定している存在」とは、
人間のリサイクル性をみごとに言い表してるなあ。
RE:過去ログハウス 投稿者:古川明広 投稿日:03月29日(水)05時38分24秒
てるてるさん、とてもありがたいです。これから読んでいきます。
他者の痛みと麻酔 投稿者:古川明広 投稿日:03月29日(水)05時24分13秒
> 岩田さん僕も所有について批判的なのですが、自己が身体を所有的にあつかう管理性が特殊化することで人は人になっているところがあるので、否定するだけでは済まないと感じています。痛みと所有も、関係があると思います。
臓器移植によって助かる人を見殺しにできないという感情は、他者が自己に内部化して、他者の痛みが自己の痛みと化しているのだと思います。それを解消するために、脳死の人を切開して臓器を取り出し、レシピエントを切開し痛んだ部分を切除して臓器を付け替えるというのは、考えようによってはさらに痛々しいことをしているのですが、この痛々しさをダイレクトに解消するために麻酔が使われます。麻酔とは、患者の痛覚を取るのと同時に、それが自己内部化した術者や第三者の痛みも取るのだと思います。思えば、痛んだ部分を切除するという外科医療それじたいが、麻酔的であるのかもしれません。
善意をないがしろにするつもりはないのだけど、人の命のことがすべて善意というところで回収されてしまう倫理性にはどうも納得いかなくて、脳死の臓器移植についても、基準を考えていくのが僕にはうまくいかない。善意というのをもう少し解剖したいです。
RE:「脳死の人」 投稿者:翠 投稿日:03月28日(火)22時25分51秒
「臓器移植の嫌悪感」と「食の嫌悪感」の問題は、私の中でもずーっと引っ掛かっていたところです。「生の嫌悪感」にも通じる気がします。
『私は臓器を提供しない』の中で、宮崎哲弥さんが“「自分が死ねば、その身を鴨川の魚に与えよ」という親鸞上人の遺言を持ち出して臓器移植を肯定するなら、人肉食解禁を訴えろ”とか書かれていて、もっともな話だと思いましたが、(自分の)生命に対する過剰な執着、そこにある生の肯定感と裏腹の嫌悪感は、無論、脳死移植に限ったことではなく、いろんな場面で出会います。
以前、NHKの未来潮流(だっけか?)で、自分の遺体や脳を冷凍保存して甦る日を夢見る人たちの話をみて強烈な違和感を覚えたけれども、他の生命体を蔑ろにしたり食らってまでも、自分の命に執着せざるをえない人間の本性に対する嫌悪感…それを極端な形で突き付けられてしまうのが、移植を受けなければ助からない人たちなのだと思います。
町野朔さんの案を読んで 投稿者:翠 投稿日:03月28日(火)22時24分41秒
自分の頭の中を整理する意味で、とりあえず思ったことを書いてみますが、まず私が一番
引っ掛かったのは、「死者の自己決定権について」の部分です。町野さんは、人は本来「死後の臓器提供へと自己決定している存在」であるとして、それをB案の根拠のように書かれていますが、日本人であれ欧米人であれ、本人の意思表示のない場合には、何れにしろ(臓器を摘出するにしろしないにしろ)自己決定権の侵害は起こりうるわけで、この場合に問題なのはむしろ、摘出した場合に生じうる身体に対する「強制的侵害」の可能性ではないかと思います。本能の話を持ち出すのならば、人間は一般に、自分や肉親(愛する人)の血の通った肉体を傷付けられたくないと思うのが、ごく自然な感情(本能)なのではないかと思うし(例外もあるのだろうが)、それを覚悟の上でなお本人(+家族)が望んだ場合に限り、むしろ例外的に(少数であるべきということではなく)脳死者の「生体」から臓器を取り出すという行為が認められるのだと思います。(このレベルでの本人による自己決定は、極力尊重された方がよいと私は今のところ考えていますが。)万一、臓器提供は本当はイヤなのだが意思表示をせずに(できずに)脳死になってしまった人の臓器が摘出された場合、自己決定権の侵害のみならず、身体への「強制的侵害」が発生するわけで、それがイヤならNOの意思表示をしろ、などというのは、やはりどう考えても行き過ぎだろうという気がします。
てるてるさん 投稿者:森岡正博 投稿日:03月28日(火)21時21分02秒
過去ログハウス、ありがとうございます。
対応できないままにどたばたしていましたが、ほんとうは私が作るべきことなんですね。m(_ _)mモウシワケナイ
大事な記録になります。
Re:「物」化するからだ 投稿者:岩田憲明 投稿日:03月28日(火)12時37分10秒
私は臓器における所有の関係そのものに否定的ですから、臓器が公共の所有であれ個人の所有であれ、所有権の適用には何らかの制約がつけれれるべきではないのかと考えています。臓器移植における痛みの喪失と「物」的にあつかいについてですが、極端な例を考えると分かりやすいかもしれません。全く臓器移植を認めないならば、人の技術によって助かる人に死の宣告をすることになります。世の中がどうしても臓器移植を認めざるを得ないのはそれによって助かる人を見殺しに出来ないという感情があるからでしょう。これはある意味で他者の「痛み」に対する感情ではないでしょうか。一方、それを無制約に認めれば臓器がお金によってやり取りされる対象になるでしょう。そうすると提供される臓器の数は増えるかもしれませんが、完全に人の命が人間によって操作される対象になってしまいます。前者のことから言えるのは、臓器移植はある意味で「痛み」の感情から強いられたものであるということです。一方、後者のことから分かるのは、命の前提となる臓器のやり取りは人の命に対する善意によってしか贖われるべきではないということです。臓器移植の問題では、この贖いの関係をいかに守って行くかが問われているのではないでしょうか。
過去ログハウス 投稿者:てるてる 投稿日:03月28日(火)12時18分08秒
作りました。↓よろしく御利用くださいませ。http://www.interq.or.jp/earth/elephant/life0000.html
「森岡正博さんの『脳死・臓器移植』専用掲示板」過去ログハウス
「物」化するからだ 投稿者:古川明広 投稿日:03月28日(火)03時42分55秒
> 岩田さん人のからだは近親の家族の所有物ではないし、本人の所有物でもない、と受け止めていいですか。でも、公共物でもないですよね。「第三者による何らかのチェック」というのは、ちょっと公共物的なあつかいのような気もしなくないです。
現代医療において、すでにあるていど私たちのからだは「物」的にあつかわれていると思います。それを可能にしている要因のひとつが「麻酔」による痛みの解消でしょう。また、おなじ身体でも動物なんかはさらに物としてあつかわれているし、そうした意味で、身体を物としてあつかうのは、実社会の中でも、他生物ですでにそうとう実験済なんだと思います。
所有権の問題 投稿者:岩田憲明 投稿日:03月27日(月)07時21分40秒
ご無沙汰していました。最近、個人的に地域通貨の問題に首を突っ込んでいるのですが、臓器移植においてもこの地域通貨においても、近代(無痛)文明に共通する所有権の問題があるのではないかと考え始めています。もし、親の承諾だけで子供の臓器移植が可能となるとしたら、表面的には子供の身体が親の所有物と同じことになってまいます。法の趣旨からすれば、親が子供の意図を汲んで子供の代わりにその決断をするというわけでしょうが、そのことを形式的に明らかにするためにも森岡さんたちが提示している案の方がより妥当かと思います。特に、このことを徹底させるためにはどうしても第三者による何らかのチェックが必要でしょう。いずれにしても、人間が生きることと不可分にある身体は単なるその人の所有物ではありません。それがあたかも所有物として物のように扱われかねないところに臓器移植の問題を感じます。このことについては、地位通貨の絡みですが、 [KOKRIKO ROOM] の掲示板に「タコ焼き vs 金塊」というテーマでコメントを書きましたので、関心のある方はご覧ください。
「脳死の人」 投稿者:古川明広 投稿日:03月26日(日)23時13分29秒
なにを今さらですが、「脳死の人」を読了していろいろ考えたことがあるので、書き留めてみます。臓器移植は一種の食人――この考えは僕の問題意識にもひっかかったんですが、でもなんかちがう。では動物の臓器ならいいのか。むしろ動物の臓器のほうがイヤでしょう。食と臓器移植ではこのように嫌悪の順位が逆転している。臓器移植は潜在化した食への嫌悪を逆照射しているのかも。臓器移植の問題をタブーの問題として取り扱うのでないなら、臓器移植の嫌悪感とは「食人の嫌悪感」というより、逆転した「食の嫌悪感」として問題を立てていく必要があるのでは。
インフォームド・コンセント――がもともとは人体実験の際の手続きとして考案されたというのは初めて知りました。動物実験や臨床試験を経ても長期的な影響などはわからないし、医療行為が人体実験性と完全に無縁となることはないと思います。僕は、医療とは医師や看護婦の行為であると同時に患者の自己行為となっていくべきと思っているし、それは自己人体実験性への覚悟をともなうと思います。病院側への要求も重要だけれども、患者自身の自己改革も、同じように重要だとおもう。
インフォームド・コンセントを、そうしたことへの足掛かりとして考えたいです。侵襲――臓器移植の侵襲性は、外科医療全般の侵襲性を問い直すことにつながっていくように思います。これは、その侵襲性を取りあえず解消してきた麻酔について問い直すことでもあります。
脳死身体の各種利用――このへんになると、もうほとんど動物実験的です。実験動物倫理性とも関連させて考えたいです。
現代医療の部分主義――もちろん部分主義なのは現代医療だけではなくて、生命倫理や権利の主張なんかも、部分的なんだと思います。この部分性を批判的に検討していくうえでも、僕はとりあえず実験動物倫理性との相互検討を通して考えてこうと思います。
おまかせ患者――医療が性質として「おまかせ」を基本にしているのはその通りだと思います。全身麻酔による外科手術は、意識のない状態でからだをあずけているのだから、「おまかせ」がさらに進行している。脳死による臓器移植なんか、究極の「おまかせ」だ。脳死とは、永久に覚めない麻酔?
犠牲――「かけがいのない」命を救うために、他の命が持っている「かけがえのないもの」を犠牲にする(247p)。僕は、この多少美しい響きをもつ「犠牲」という表現を避けて、自覚をキチンとするために「加害性」と言いたいと思います。加害する対象をどんどん内部に取り込んでく現代文明にあって、それは自己加害性となり、「痛み」を発生させ、どうしようもなく「麻酔」を要求します。これらのことを、ひとつの倫理基準で解決するのを避け複数の倫理を格闘させたまま、暫定的な覚悟と自省をもって行為していくのをなるべく引き受け、「加害性」「痛み」「麻酔」を自覚できればなあと思います。
移植を受けて生きている人 投稿者:てるてる 投稿日:03月26日(日)00時30分25秒
移植を受けた方が、厚生省に、外国のように、家族の承諾で臓器提供をできる法律を作ってほしいと、要望書を出しています。若林正さんのホームページ「わかば」↓を読むと、海外と同じ条件で移植を受けたい、家族の承諾だけで臓器提供ができるようにしてほしい、というその思いに対して、とても申し訳ない、という気がしてきます。町野朔さんの案に反対することは、若林さんのような方に対して、とてもひどいことをしているような気がしてきます。若林さんはドイツの移植法を日本の移植法と比べて、高く評価しています。私も、よくできていると思います。しかし、私には、たとえ外国にはどこにも例がないとしても、本人の承諾なしで家族の同意だけで臓器提供ができるということを認めることができません。家族の同意なしで、本人の意思だけで臓器が提供できればいいと私は思います。しかし、それは、幼い子供の場合は無理です。海外の法律で本人の同意がなくても家族の同意だけでも臓器を提供できるようにしているのは、子供とおとなとを分けないようにすることで、こどもの権利条約に違反しなくてすむ、うまい方法だと思います。私は、子供の臓器提供をどのようにとらえたらいいのか、いくら考えてもいい考えが浮かびません。こんな私の、あくまでも本人の意思を尊重せよ、という意見などは、移植を受けた方、移植を待っている方にとっては、非現実的で、しかも、人殺しにも等しい、愚論、暴論にしか見えないでしょう。
幼い子供には特に、脳の障害に対する抵抗力、強い生命力があります。
阿部知子さんのように、小児科医の方が臓器提供に反対するのもわかります。しかし、移植を受ける子供にも、強い生命力があるはずです。「私は臓器を提供しない」(洋泉社)で阿部知子さんの文章を読んでいると、親が子供の移植を望むことはかえって子供を苦しめているかのように書かれていますが、子供の生命力の強さは、脳死になるかもしれない子供も、移植を受けるかもしれない子供も同じだと思いますから、子供に移植を受けさせるのは、親のエゴだとだけは言えないと思うのです。脳死寸前で、救急医療に携わる人が臓器提供のことを考えたほどの患者さんが、生還する話を本で読むと、医療の進歩のすばらしさや、患者さんを支える家族のすばらしさ、人の生きる力に感動します。
しかし、そのすばらしさは、移植を受ける人にもあるはずです。移植医療をする医師の努力、患者さんの生きたいという意思、移植しか治療法のない患者さんにとっての、死ぬこともかなわないという苦しみ、移植を受けられて元気になった時の喜び、家族のささえ。
脳死寸前から生き返った人と同じように、移植を受ける人の生も尊いです。
一方で、脳死判定や救急医療には、ミスもあります。また、ほんとうに移植しか治療法がないのか。ということも厳密に調べられていないようでもあります。
厚生省の改正案には反対です。
また、ただ、奉仕の精神での臓器提供を子供に教育し、社会に対して臓器移植の知識を広めるよりも宣伝して手軽にドナーカードが手に入るようにすればいいと考えているような、安易なやりかたにも反対です。けれども、ただ脳死判定のいいかげんさを糾弾し、移植医療を批判し、移植医を医者としてのステータスを求めていると非難するのでは、あまりにも狭量な、偏見にとらわれた、冷酷な態度だと思います。
移植医療は、臓器不足をまぬがれない医療です。
人工臓器の開発がもっともっと望まれるのでしょう。そのことは、移植を受けた方もわかってらっしゃるのですが、それでも、あまりにも自分達のことを社会が理解していない、ただ臓器移植に対して理不尽な反対をされて傷つけられる、と感じていらっしゃるようにも見えます。
厚生省の改正案には反対ですけれども、移植を受けた人、移植を望む人に対して、そのことをどう伝えればいいのでしょうか。
意思(或いは思い)を知る難しさ 投稿者:匿名 投稿日:03月25日(土)19時08分57秒
やっぱり、書いてみますm(_ _)m。子どもに意思を確かめること、意思を求めること、ここまでは普通に頷ける。ですが、
森岡さんもおっしゃるように、その意思が、子ども自身の判断力、見極める力というか、
どこまで子ども自身によって考えを進めていけているかが問題のような気がします。
また、どのように子どもの考える過程をフォローしたらいいのかが私には難しいです。この部分は、特に小学校の教育に大きく担ってもらわなければならないという現実だと思う。
やっと精神面に注目できるようになってきた時期にある大衆だと私は考えます(_._);;。小学校の教育書として、すでに命をテーマにしたアンチョコを書店でもみかけます。
しかし、膨大な数になる小学校で、果たして、その教育に誠意をもってたちむかう教師は
そう多くはないような気がする(データは無し^^;;)。ただ、だから子どもへの働きかけができないというだけでは、どうしようもない。
それならば、教師と子どもを信頼する・・せめて、親だけで判断するというのは避けなけ
ればならないのだなあ・・・と、せつないのです・・(..;)・・。
単純な疑問と質問 投稿者:Tetsuro-h 投稿日:03月25日(土)16時07分01秒
こんにちは。
ちょくちょくここのSiteには立ち寄らせていただいているTetsuro-hです。以下で記すことは、この掲示版ではもう既に語り尽くされたことかもしれませんが、どうしても皆さんのご意見をお聞きしたく、今回書き込んでみることとしました。
臓器移植の意思表示は最初は僕も全面的に賛成でした。やはり、子どもでも、意思表示できるのだから、ちゃんと法的にその措置を行うべきではないかと...。
でも、それって考えてみれば、すごく難しいことですよね。
だって、大人自身でも考えあぐねていることを子どもにも「意思表示して!」って言うんだから。例えば、臓器移植が現状のように法制化されて、献血や輸血みたいに「人のためだから」とか言うようになってますよね?(この間、CMみちゃったんですけどね)
そうすると、大人・子どもに関わらず、世間は「臓器移植=是」と考え始めるような風潮ができるんじゃないでしょうか。(まぁ、これも既に語られていますよね。)
つまり、僕が言いたいのは、そんな風潮のなかで子どもが意思表示をしようとしたとき、やはり自分の意志とはまるっきり反対の意思を表明しかねないということです。
(濱西さんなんかが言ってることに近いかな?)
親とか社会的な期待によって、子どもは「Yes(臓器を提供します。)」と言わざるを得ない状況が、今日的な流れとして現れているような・・・。(考え過ぎかな??)
どうでしょうか?
ドイツの臓器移植法について 投稿者:てるてる 投稿日:03月25日(土)01時08分07秒
ドイツの「臓器の提供、摘出及び移植に関する法律」が、以下のサイトに翻訳されています。
訳者の解説と、ドナーカードの翻訳のページもあります。
ドイツでは、
> 「移植法」という題名の64頁の小冊子を作成し、無料で配布している
とのことです。
ドイツの移植法の「§4 他の人の同意による臓器摘出」という項目は、町野朔案と比較する
のにいいかもしれません。
森岡正博様 投稿者:てるてる 投稿日:03月25日(土)00時16分54秒
対案の修正版を添付ファイルで送りました。よろしく御確認ください。
丸山私案 投稿者:森岡正博 投稿日:03月24日(金)19時47分12秒
>みなさん24日、奈良県にて日本脳死・脳蘇生学会が開かれました。さっそく行ってきました。
新聞等でも明日報道されるかと思いますが、パネルディスカッションで、臓器移植法改正に
ついての議論がありました。厚生省臓器移植対策室の朝浦氏と神戸大学法学部の丸山英二氏
が関連発表をしました。その詳細は来週にでもHPにアップしますが、大注目は、丸山氏が、
町野案を批判して、ご自分の丸山私案を提示されたことです。丸山氏は、町野案が脳死臨調を踏み越えているとして批判し、「いま考え中」の私案を提示
しました。それは、(1)12歳以上については本人の意思表示を前提とする
(2)12歳未満については親の承諾があればOKとする。ただし子どもが「いや」と
言っていたときは摘出しない。というものです。法律家が具体的に「12歳」という線引きを示したことは、大きな
インパクトがあると思います。ただ、彼も言っていたように、まだ考え中らしいので、
これから細部は変わるかもしれません。私の考え方と、丸山氏の考え方は、12歳未満についてのところで異なります。が、
町野批判という点では軌を一にしていますね。以上、緊急ニュースでした。われわれのネット上での意見の盛り上がりは、
現実社会にフィードバックされるのかもしれませんよ。しかし、ほんとうに新聞等で報道されるのかな? 丸山私案。
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