改正案全文アップその他 投稿者:森岡正博 投稿日:03月23日(木)15時16分21秒
更新が送れてすみませんでした。で、町野朔氏による改正案全文を、臓器移植法改正ページにアップしましたのでぜひ
お読みください。町野氏はまだ私案だとおっしゃっていますが、彼が移植法について
の研究班の分担代表者である以上、この案が夏前には正式な報告書として提出される
ことになるはずです。あと、ぬで島次郎さんから、ヒト組織についての厚生省の動きへの反対アピールが
届きましたので、アップしました。これもご覧ください。なんか動きが急にあわただしくなっております。
この生命学ページ周辺の外に向かって、みなさんもぜひ情報発信していってください。
RE:表示されたが矛盾する場合 投稿者:てるてる 投稿日:03月23日(木)04時06分51秒
私は、「投稿日:03月13日(月)07時54分41秒」の「子供のドナーカード」で、
> ドナーカードの内容は、家族署名欄に署名してもらった人以外には、原則として
> 秘密です。
> ドナーカードの内容を人に言うことと、臓器移植についての考え方を述べること
> とは、まったく別のことです。臓器移植に賛成と言っている人が、自分のドナー
> カードでは「臓器を提供しません」に○をつけていてもいいのです。と書いています。
つまり、ドナーカードの家族署名欄に署名してもらった人(もし、保証人欄を作れば、保証人)以外の人に対して、ドナーカードに表示してあることと逆の、あからさまな嘘をついてもいいと思っています。そして、ドナーカードを持たない場合や、ドナーカードに何も記入しない場合は、臓器を提供しないこととみなす限り、ドナーカードでの、臓器を提供する・しないという意思表示は、日記や普段の会話と矛盾していても、最優先されるべきだと思います。すなわち、ドナーカードには臓器を提供しない、という意思が表示してあるのに、日記や普段の会話では、臓器を提供すると書いたり言ったりしていたとしたら、ドナーカードの表示に従って、臓器を提供しないことにするべきだと思います。
反対に、ドナーカードには臓器を提供する意思が表示してあるのに、日記や普段の会話の中では臓器を提供したくないと書いていても、ドナーカードの表示に従って、臓器を提供するべきだと思います。
でも、家族が、日記や普段の会話では臓器を提供しないと書いたり言ったりしていたからという理由で、反対したとき、医師は、それでも、臓器を摘出することができるが、家族の反対に従って、臓器の摘出をとりやめたとしても、かまわないということでいいと思います。なお、遺言について、
「投稿日:03月22日(水)16時47分25秒」の「保証人という考え方について(2)」で、> ドナーの意思の表示は、ドナーカードまたは遺言だけで、遺書・日記・手紙などの
> 私的な文書による表示はいっさい認めないことにしておく必要があると思います。と書きましたが、遺言に、臓器を提供するという意思や、提供する臓器の種類が書いてあっても、ドナーカードに臓器を提供する意思や臓器の種類を表示していなかったら、臓器を摘出できないことにしたほうがいいと思います。
濱西さんのおっしゃるような、
> 日記記述と遺言内容の矛盾、ドナーカードと普段の会話の中でいっていたこととの矛盾。
> そういう矛盾がある場合、それらの「意思」表示すべてが、意味なしとされるというのも一つのやりかただと思います。
子供の場合は、そういうやりかたがいいのかもしれません。
ただ、会話のなかでの臓器を提供するという意思の表明は、現行の臓器移植法でも、意思表示とはみなしていないのです。書面で意思を表示しなければならないのです。
表示されたが矛盾する場合 投稿者:濱西栄司 投稿日:03月23日(木)01時16分19秒
↑は、どうするんでしょうね。
日記記述と遺言内容の矛盾、ドナーカードと普段の会話の中でいっていたこととの矛盾。
そういう矛盾がある場合、それらの「意思」表示すべてが、意味なしとされるのでしょうか?もしそうなら、私は個人的には、それらをあえて矛盾させるつもりです。
それにしても 投稿者:てるてる 投稿日:03月22日(水)16時51分09秒
家族って、いったい、何なんでしょう。
厚生省の議事録には一応常識的な家族の範囲があげられています。
しかし、常識的な範囲の家族が実質的に家族でないこともあるし、常識的実質的家族が、実は一番、本人の気持ちをわかっていないこともあるのに。
保証人という考え方について(2) 投稿者:てるてる 投稿日:03月22日(水)16時47分25秒
私は、対案のなかで、
「成人(20歳以上)の場合
私は、対案のなかのこの部分の文章を、単に、
「成人(20歳以上)の場合
本人がドナーカードで臓器を提供する意思を表示していたら、臓器を摘出することができる。」
に変えようと思います。
そのほうが、家族の同意を臓器提供の必要条件とはしないが、家族の同意がないときに、臓器
の摘出をやめてもよい、という意味が明確になり、家族がいる人にとっても、家族がいない人
にとっても、平等になると思います。
本人の意思を最優先することを私は望みますが、実際問題として、
家族の反対を押しきって、臓器を摘出することは、たとえ、
家族とは別の保証人がいても、難しいだろうと思います。
非常に残念ですけれども、むやみに苦しむ人をふやすのもよくないですから、
家族が反対しても本人の意思を通すべきということにはできないと思います。
家族が反対しても臓器を提供できるのだが、やめてもよい、ということにしておいていいと
思います。
そして、ドナーカードには、家族の署名ではなく、保証人の署名をすることにし、
ドナーの意思の表示は、ドナーカードまたは遺言だけで、遺書・日記・手紙などの
私的な文書による表示はいっさい認めないことにしておく必要があると思います。
保証人という考え方について 投稿者:てるてる 投稿日:03月22日(水)16時43分47秒
「死は社会的なものである」という考え方に従えば、まさに、臓器提供には、
保証人が必要ではないか、と思えてきました。その保証人というのは、
本人にかわって、臓器提供の意思があることを、医師に告げ、
ドナーカードやチェックカードを確認し、
臓器提供後、臓器を提供した本人のカルテのコピーや、
(レシピエント情報を除く)脳死判定やそのほか臓器提供に関するあらゆる書類のコピーを
請求し、検証機関や、移植に関わった医師以外の医師のところにもっていって検証を依頼し
てくれる人、
であるべきだと思います。ドナーの家族が保証人になっていればいいのですが、家族がドナーの意思に反対の場合や、
家族が高齢だったり子供だったりして保証人の努めを果たすことがむずかしいときや、
家族がいないときには、家族以外の人を、ドナー本人が選ぶ必要があると思います。現行の「臓器の移植に関する法律」では、第六条で、
「死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により
表示している場合」
に、
「遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき」
または
「遺族がないとき」
は、
「移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した身体を含む)から摘出することができる」
としています。
そして、「脳死した身体」から臓器を摘出するときは、
「家族が当該判定を拒まないとき」
または
「家族がないとき」
に限り、行うことができる、としています。私は、これは、家族がいない人にとって、不平等ではないかと思います。
家族がいる人は、臓器提供後、家族が、臓器提供関係の書類を閲覧できるのです。
家族がいない人は、臓器提供関係の書類を閲覧し、必要とあらば本人に代わって検証を
依頼しようとする人がいないことになります。家族がいる人にとっても家族がいない人にとっても、臓器提供というような重大な
できごとに際しては、本人に代わって事後の検証を依頼する主体が必要だと思います。
検証を依頼することは、保証人の義務としてもいいと思います。保証人には、社会的なバックアップが必要だと思います。
保証人には、レシピエント情報を除くあらゆるデータを無償で提供し、検証を依頼できる
機関を紹介したり、医師の情報を提供する。
検証に要する費用は国が負担し、万一、訴訟を起こすことになったら、それは、
第三者の検証機関が代理で行い、費用も負担する。そのかわり、訴訟に勝ったら、
補償金は検証機関に払われ、他の人の訴訟費用や検証の費用に当てる。
そういうことが必要ではないかと思います。
目の見えない人のノンドナーカード 投稿者:てるてる 投稿日:03月22日(水)16時34分56秒
厚生省の1998年11月19日の第11回では、現行の臓器改正法のもとで、目の見えない人のドナーカードをどうするか、ということが話し合われています。そこには、三通りの方法が提案されています。(1)視覚障害者の場合
点字署名ということと、それに拇印を押す、それから証人の署名を加える(2)視覚障害者をはじめとして、自ら文字を書くことができない場合
現在のドナーカードとは別に、代筆カードというものを作って、代筆者の氏名に、立会人を更にもう一人つける。(公職選挙法の投票のときに採用されている方式)(3)現在の意思表示カードを改良して、代書の欄を設け、
それに本人の拇印を押すことによって意思表示として有効となるこれは、ドナーカードを持たない人は臓器を提供しないとみなす現行の制度のもとでの提案ですが、もし、厚生省の改正案のように、ドナーカードを持たない人も家族が同意すれば臓器を提供してもよい、ということになると、視覚障害者をはじめとして、自ら文字を書くことができない人は、臓器を提供しない、という意志を表示するために、上記の三通りのどれかの手段をとらなければならなくなるのでしょうか。
「臓器を提供する」という場合は、多少、面倒なことになっていてもかまわないでしょうが、「臓器を提供しない」という場合に、障害のある人が障害のない人よりも面倒な手続を必要とする、というのは、問題だと思います。
RE:「意思」表示とはなにか(3) 投稿者:てるてる 投稿日:03月22日(水)16時32分05秒
厚生省の議事録では、遺言、遺書、ドナーカード、日記、どれでもいいとあります。
遺言は民法の遺言法で定められた幾つかの様式にしたがった、法的な文書です。
遺書は自殺する人が書き遺すものです。私的な文書です。
日記は私的な文書です。最も本心を表わしやすいと思われていますが、わざとうそを書くこともあります。基本的に、人に見られないことを前提として、本人が自由に書くものですから、他人にとってはうそを書こうとほんとうを書こうとどちらでもいいのです。
日記を遺言のような法的な文書と同列に扱っていいものかどうか、疑問に思います。ドナーカードには、提供してもいい臓器の種類を書くようになっています。同じ書式でなくても、提供してもよい臓器の種類を日記や遺書のなかに書いていればそれにしたがって摘出しようというのでしょうか。しかし、本来、私的な文書に書かれたことを、臓器移植で採用してもいいものでしょうか。
そもそも、ドナーカードは法的・公的な文書なのでしょうか、それとも、私的な文書なのでしょうか?
臓器移植においては、ドナーの家族が、同意した場合に、文書に署名または記名捺印することになっています。
もしかして、現行法でも、ドナーの家族が同意した文書しか公的・法的な文書として扱われていなかったのでしょうか?
外国の移植 投稿者:てるてる 投稿日:03月22日(水)16時22分09秒
「投稿日:03月12日(日)00時55分24秒」の「ヨーロッパの臓器移植」および、
「投稿日:03月12日(日)00時55分24秒」の「訂正」で、
> 厚生省の議事録でも触れられていますが、USAの移植数は格段に多く、2000例以上
> にのぼっていますが、このような4ケタにのぼる国は、USAだけです。他の国々は、
> 多くて3ケタで、スカンディナビア諸国やスイスでは2ケタです。この2ケタという
> 数字は、アジアで比較的移植例の多い国々、すなわち、韓国・タイなどと近い数字です。と書きましたが、これは、心臓と肺の移植の数でした。ただ、全体の比較的な数の傾向は同じようなものです。
洋泉社の「私は臓器を提供しない」(新書y)によると、スカンディナビア諸国の一つ、
スウェーデンでは、ノン・ドナーカードをもっていないとあらゆる身体部分を提供させられるということです。しかし、移植の数は、ドイツやフランスなどと比べて少ない。
スイスや他の北欧諸国や、東洋の、韓国・台湾・タイなどと比べると、心臓や肺の移植は同じぐらいの数で、他の腎臓や肝臓は多くなっていますが、それでもドイツなどに比べてずっと少ないです。これは、ノン・ドナーカードを持っている人が多いということでしょうか?
あるいは、脳死判定のやりかたの違いと関係があるのでしょうか?
スウェーデンの脳死判定は、立花隆の「脳死」「脳死臨調」によると、血流が止まって脳が死ぬ脳梗塞が脳全体に起きた全脳梗塞を脳死と定義しており、1972年の段階では、脳血流停止が推定されてから25分で脳死と判定しています。日本でも、交通事故で脳死判定できない場合は、脳血流検査を導入することを、厚生省研究班が決定したと、3月21日付朝日新聞朝刊に載っています。
脳死判定のやりかたや、ドナーカード、ノン・ドナーカードの運用について、いろいろな国のことをもっと知りたいものです。
また、臓器移植は、キリスト教的思想が背景にあるものだと言われますが、東洋で移植事例が比較的多い国のうちで、韓国は儒教がさかんですし、タイは仏教がさかんです。
儒教や仏教にも、臓器移植を肯定しやすい考え方があるのでしょうか。
(無題) 投稿者:yukiko 投稿日:03月22日(水)00時46分09秒
これでとべるかな。↓http://www.mhw.go.jp/shingi/s9807/s0703-2.html#7
http://www1.mhlw.go.jp/shingi/s9807/s0703-2.html
ヒト組織を研究開発に 投稿者:yukiko 投稿日:03月22日(水)00時42分11秒
「ヒト組織を用いた研究開発の在り方に関する専門委員会報告書について」
という厚生省のページがありました。脳死状態の身体から摘出され使用されなかった部分の臓器(現行法9条)を、研究開発に使用したいという内容が含まれており、現行法改正の際には検討すべきという記述がありました。http://www.mhw.go.jp/shingi/s9807/s0703-2.html#7
http://www1.mhlw.go.jp/shingi/s9807/s0703-2.html紹介済みでしたら失礼。
「意思」表示とはなにか(3) 投稿者:濱西栄司 投稿日:03月21日(火)01時28分33秒
↑という問題がまたまた顔を覗かせたの、かも、しれませんね。
てるてるさんのおっしゃる通り、「遺言」と「ドナーカード」、「日記」、そしてさらには
「(文章化されずに終わった)会話のなかでの言明」など、複数の「意思」表示が、存在する
場合の、それらの間での法律的な優劣が明らかになっていなくてはいけません。
厚生省の議事録を読んで(2) 投稿者:てるてる 投稿日:03月20日(月)23時53分11秒
自殺について
厚生省の議事録によりますと、ドナーカードをもって亡くなった方のなかに、自殺者が何人いる、という話が出てきます。
1998年5月19日の第9回に、
「去年の10月16日以後、今年の5月3日まで実際に情報があったときに意思表示カードがある人がどのぐらいあったかというと12件あった。……自殺がこの中に4つもありますね。」
1998年11月19日の第11回に、
「去年の法律を施行されてから現在まで、意思カードがいろいろな恰好で情報があったのは36件です。36あったのですが、その内の3分の1の12件が自殺というのがあります。」
1999年12月13日の第23回では、
「〇黒川委員長
これは自殺も入ってますね。実際はここに書いてあるのは、何らかの格好で亡くなった方に、臓器提供意思表示カードがあって連絡を受けた場合には、全部ここに登録してありますから、例えば警察・家族等からだと、多分25〜30%くらいが実は自殺の人なんですね。そういう方のうちの遺族あるいは警察から、こういうものがありましたという報告を受けたときにも全部登録してますから、中には極端なものは、遺品を探していたらあったというのがありますので、そういうわけで、実際には提供になるような状況であったというわけではないということも、かなり入っているということもご理解いただきたいと思います。報告を受けたら全部レジスターしてますから、1/3 くらいが自殺ですね。
〇菊地委員
意思表示カードを発行した当初は、自殺の方からの連絡が非常に多かったのですが、最近では少し減少している傾向にあると思います。」
とあります。
3分の1の割合で自殺が含まれるというのは、比率が高いのではないかと思います。こういう事実は、臨床心理学とか心理療法とかの学会なり専門家なりに報告されるほうがいいのではないでしょうか。もう既に報告されているのでしょうか。臨床心理の専門家の調査分析の対象にしたほうがいいのではないかと思いました。また、議事録では、ドナーカードをたくさん配布してほしい、ということが繰り返し出てきます。
1998年3月16日の第8回では、臓器提供意思表示カードの配付について、郵便局や国立病院においておく、
1998年5月19日の第9回では、
黒川委員長「私のまったく個人的な意見ですけれども、ぜひ全国紙に一月1回でいいから10cm四方の枠ぐらいはとってくれてもいいんじゃないかと思っています。それを切り抜いて入れればいいわけですから、簡単に説明してほしい。」
1998年11月19日の第11回では、臓器提供に関する意思表示の方式について
市町村が保険者になっている国民健康保険の保険証の切替えのときに、一緒にドナーカードを配付したり、国立大学・短期大学の例えば学生課の窓口に置き、自治体によっては、独自に、
「臓器提供意思表示完了ステッカーというものを作って、カードに記載をしたという方は、それを車に、私は臓器提供をしましたというステッカーを張るということで、発見しやすい一つの手段として作っている」
という報告もあり、また、運転免許証や保険証にはりつける、という考えも委員会から出されています。
1999年6月3日の第4回眼球・アイバンク作業班では、佐野委員が、
「日本人は奉仕の精神とかを、小学校から教育しなければいけない、臓器移植がカリキュラムにあるかどうか知りませんけれども、ぜひ、厚生省から文部省のほうに、子供のときから、そういった、臓器移植が尊いものであり、奉仕の精神が大事であるということを教育していただけるよう働きかけていただきたい」
と述べています。しかし、ドナーカードを配るなら、脳死と植物状態の違いについて、区別できるように、臓器移植について、もっと知識を普及するように、力を入れるべきだと思います。自治体によっては、ステッカーをはる、というのは、よくないと思います。こういうことは他人には秘密にしたほうがいいと思います。さらに、ドナーカードを普及させるために、子供に奉仕の精神を説くというのは、おかしい。臓器の提供を、単純にボランティア活動と一緒にするのは危険です。それより、まず、子供に臓器移植についての知識や、賛成・反対の両方の考え方について知らせ、子供自身に臓器を提供する・しないの意思を表示する自由を保証するべきだと思います。
厚生省の議事録を読んで 投稿者:てるてる 投稿日:03月20日(月)23時43分06秒
家族の同意について。
ドナー本人の臓器の提供に家族が同意したときには、脳死判定を受けいれるということを書面に記名押印しなければならないのですね。
そうすると、私は、「投稿日:03月15日(水)13時44分53秒」の投稿で、
乳幼児の臓器提供について、
「では、いざ、脳死の状態になったときになって、口頭で同意の意思を示す、ということでいいのでしょうか。ドナーカードでなくても、何か書面を作ったほうがいいとも思います。」
と書いていますが、これは、おかしいですね。
「対案のなかで『子供の意思に反して臓器提供に同意するカード』を用意しているけれども実用的でない、しかし、『子供の意思に反して親が臓器の提供に同意する』という設定をはずせない」というのが私の迷っているところです。対案のなかでは、子供用のカードに、「臓器を提供しない」という意思を家族が記入することにしていますから、それだけで充分なのかもしれません。ドナーカードについて。
私は、ドナーカードを、臓器を提供する場合の、唯一の正式な、公的な、法的効力のある意思表示カードだと思っていました。
しかし、現行の臓器移植法の第六条によると、
「死亡した者が生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合」
と書かれており、この書面とは、ドナーカードとは限らないのですね。
そのことは、厚生省の議事録でも黒川委員長の言葉として繰り返し語られています。
1997年8月25日の第5回の
「臨床的に脳死の可能性が非常に高いような場合には、脳死についての理解の状況等を踏まえて、臓器提供に関して本人が何らかの意思表示を行っていたかというような話を聞くというのはいいと思いますし、家族から多分そんなことをしていたようですよと。それがドナーカードなのか遺書なのか、いろんな格好があると思うんですが、そのような可能性があるときには臓器提供の機会等があるという話を、家族は非常に心も動揺していますし、大変だとは思いますが、そのへんを、非常につらいけれどもそういう話を切り出していくという話があるんじゃないかなと思いますが。」
1997年9月5日の第6回の「遺書でもいいわけだし、日記でもいい」
1998年3月16日の第8回の「意思表示さえして持っていればいいわけだから。遺言でもいいし、そういう書いたものを置いていてもいいし。」
等とあります。そうすると、以前、濱西栄司さんが「カード表示とはあえて逆にしてある本当の意思」というテーマで紹介されたような、日記とドナーカードの記述が矛盾することがおこった場合は、どうするのでしょうか。わざわざ演技しようと思わなくても、日記には、日々の心の揺れも正直に書くかもしれないから、ドナーカードと矛盾する記述が出てくる可能性はあるのですが。日記と遺言とを同列においてよいものかどうかについても疑問に思います。遺言は、公的・法的な文書で、私文書である日記よりも法的効力が強いのだと私は思っていました。
だから、「投稿日:02月07日(月)19時20分33秒 」の
「葬送の自由と臓器提供の自由」という投稿で、
「もし、ドナーカードではなく、遺言で、自分が脳死状態になったら臓器を提供するように、と指定したら、どうでしょうか。遺言にはドナーカードよりも強い法的効力があると思います。」
と書きました。
しかし、厚生省の議事録では、遺言もドナーカードも効力は同じようです。ということは、遺言の場合も、家族の同意がなければだめ、ということだったのでしょうか。厚生省の議事録に載っている委員会の方々は、ドナーカードの法的効力というものをどのようにとらえていたのでしょうか。法律の専門家の方は、遺言、日記、ドナーカードのそれぞれに記載された場合の意思の効力について、どのように考えていらっしゃるのでしょうか。ちなみに、複数のドナーカードを持っている場合は、古いほうのカードを破り捨てるように、日本臓器移植ネットワークのQ&Aに書いてありました。
もやもや 投稿者:古川明広 投稿日:03月19日(日)08時12分26秒
現行法で定める脳死による臓器移植の前提条件を崩すべきではないという森岡さんの主張は、僕のなかでも大きい。ただ、本人が臓器提供の意思を表明していたばあいに、前提がそろう段階として家族の同意が最終に位置し、その最終判断がなされるにあたって本人からの直接のフィードバックは介在しないことをどう考えたらいいのか、なんかもやもやしています。てるてるさんのおっしゃるように、ドナーと家族が話し合いをもつとき、そこに差別的なことや抑圧や壁のようなものとかがまったく介在しないとは思えない。
そこで、話し合いはもったほうがいいけれど、やはり法的には本人の意思のみに還元してそこをこそ保障しようというのが、ひとつにはあるのだと思います。
死のかたちとして考えるとき、脳死による臓器移植が延命治療の拒否や尊厳死とちがうのは、脳死判定によってつけられる生死の白黒が、概念による白黒にとどまらず、移植医療の積極的な介入が現実にドナーのからだに白黒つけてしまう、その積極性にあると思います。その積極をその手で行い、それを見届けるのが、医療スタッフであり家族であります。この積極のなかには、加害性という問題があると僕は思う。
この加害性を犯罪性や必要悪としてではなく、倫理として肯定することを引き受ける倫理構築を私たちはちゃんとしてきているのかという問題意識を持っています。
子どもの脳死判定 投稿者:らら 投稿日:03月17日(金)00時14分38秒
テレビでも報道されていましたが、着実にまわりがかたまっています。http://www.yomiuri.co.jp/etc/tokusyu1.htm
ってことは・・・ 投稿者:らら 投稿日:03月17日(金)00時02分32秒
法律が国民を養成する、ということもあるんでしょうか。
「意志表示しなかったら、ハイと言ったも同然なんだから、
嫌なことは嫌、良いことは良いってはっきり言わなきゃだめよ」
という精神が投入され、だんだんそのようになっていくとか(>_<)。
ノンドナーカード 投稿者:らら 投稿日:03月16日(木)23時57分49秒
本人の意志表示がなくても、家族の同意でOK、の件で、そんなに嫌なら、
ノンドナーカードを持てばイイでしょ、と言われてしまうかもしれません。そういう話しで済むのならまったく問題はないんですよね。
実際そういうことが行われている国では、
「○○ちゃん、あなたの意志を表明しなければハイと言ったと同然なんだから、ちゃんと自分で自分の意志をはっきりと言うのよ」
って小さい頃から教え込まれてきた土壌のある文化、共通理解があるわけですよね。臓器移植が国に認知されたものであれば、構成要員である国民は当然、同意している、ってことが前提になってあたりまえ。国家が認めた良い医療だから。それでももし、それを望まないというのであれば、ノンドナーカードを書けばよい。このあたりのセンスが私には半分理解できて、半分まったく理解できない面なのです。
私は「個」として当然、ノンドナーカードを書く権利を持っている。しかしわざわざそこまでして臓器を提供しないなんて、「善い」ことをしてないみたいで・・・ショボショボ(こんな感じ)。とどのつまりは、こうなっちゃうんだな。
こんな優柔不断なわたしという国民がいる国で、意志表示がなくってもとにかくOKなんて法律つくんないでくださいよー、って気持ちですねぇ。逆に今の法律の方が、臓器移植のことをよく知って、考えて、持つ人は持つと思う。知らなくって、考えてなくって、家族もそんなん聞いてなかったよー、っていうのがありうるんじゃないでしょうかね、もし改正案が通っちゃったら(会話モード)。
脳死とは? 投稿者:てるてる 投稿日:03月16日(木)20時37分40秒
対案のなかのチェックカードのことなんですが、
「脳死状態での生存期間」
「脳死からの回復の例;実例・回復する機能・件数・確率」
という項目を作っています。私としては心臓が動いているのは生存だ、と思うのですが、これは、やっぱり議論が分かれるところだから、
「脳死状態の持続期間」
のほうがいいかもしれません。生存だったら臓器を摘出するのは殺人だ、という考え方もありますし、脳死は生存状態だからこそ、本人の提供の意思がなければ臓器を摘出してはならない、という考え方もあります。私は後者のほうです。延命治療の拒否や尊厳死とつなげて考えています。「脳死からの回復の例;実例・回復する機能・件数・確率」
のほうは、これも私としては矛盾はないと思うのですが、なんといっても私はしろうとで、医療の専門家には、回復すればそれは脳死ではない、脳死判定のミスだ、という人とか、いろいろな方がいますし、この項目もなにか記述方法を変えるほうがいいのかもしれません。
家族の同意 投稿者:てるてる 投稿日:03月16日(木)18時35分30秒
> 森岡さん
直すところはありません。ありがとうございました。でも、改訂版を見て、また、修正するべきところがあると思うようになりました。
13歳未満の人が臓器を提供するときには、本人の意思表示の他に、親(または代理の保護者)の他に、本人の医療・保育・教育などに携わる第三者の同意も必要としています。子供を虐待する親もいるからです。この第三者の同意を必要とする条件を、15歳未満まで引き上げるべきかな、と思っています。
15歳以上は、家族の同意といっても、その家族というのは、べつに親(または代理の保護者)でなくてもいいとしています。16歳で運転免許がとれますし、18歳で結婚もできます。運転免許をとったら、交通事故で人を殺すかもしれない。結婚したら、子供を産むかもしれない。
それだけ人の命に責任を負う能力があると認められる年齢になったとみなしてもいいと思います。家族の同意ですが、いざ脳死の現場になってから、同意を求めるのは、過酷ではないだろうか、と思います。もし、そのときになるまでに本人と家族との間でなんの話し合いもなかったら、たとえ家族がその場で同意しても、本心からの同意と認めてもいいのかどうかあやしい。
ドナーと家族とは、前もって話し合って、同意を得ておく方がいい。ただ、その家族とはだれでしょうか。親子でも夫婦でも価値観・死生観が異なることがあります。ドナーになろうと思っている人がだれに最期を看取ってもらいたいか、ということも、人それぞれの事情があって、いわゆる世間一般の、血縁や戸籍上の家族の枠組みに入らないこともあります。
最期を看取る人と価値観・死生観が一致していればいいですが、異なることもあります。そういうときに、価値観・死生観は異なるけれども、それでも、死に臨む際のあなたの意思は尊重する、と、最期を看取ることになるだろう人が請け合ってくれれば、問題はない。
しかし、たとえば、夫婦で話し合うとして、一方が他方の死生観・価値観に合わせて、無理に自分の意思を曲げることは、性差別にならないでしょうか。親子で、一方が他方の死生観・価値観に合わせて、無理に自分の意思をまげることは、家族による抑圧にならないでしょうか。家族が、ドナーとか臓器移植とかの話をすること自体がいやだ、ということもあります。夫婦の一方がそういう人で、他方がドナーになろうと思っていたら、そもそも話し合いさえもできないかもしれません。他のことではうまく行っている夫婦でも。
(無題) 投稿者:古川明広 投稿日:03月16日(木)10時38分03秒
> 森岡さん
僕は、脳死の場においてドナーと向き合っているのはドナー本人ではなく医療スタッフであり家族であることを、重くとらえています。だから「本人が表明している場合は自動的に摘出、してない場合は自動的に非摘出」という案しか残らなくなるということはないです。ただ、本人がドナーカードで臓器提供の意思を示している場合の、その意思の左右を全面的に委ねられる家族の定義や条件などについて、もうすこし考えたいということです。このことを含め、僕の発言は今までですでに検討済みの議論を未熟に中途半端に反復しているところはあるのかもしれません。そうだとしたら、申し訳ありません。
でも、僕としてはそうしていくしかなかったりもします。> てるてるさん
家族署名欄、そうした意味合いですか。ご教示ありがとうございます。
ドナーカードに臓器提供の意思表示をするばあい、本人の意思表示だけで良いかどうか。
他の人の本人意思の保証や同意なども必要とするなら、その人の定義や記入の方法は?
など、僕も考えてみます。
てるてるさん 投稿者:森岡正博 投稿日:03月15日(水)15時22分33秒
改訂版アップしました。直すべきところがあったら教えてください。
臓器移植に対する感覚 投稿者:てるてる 投稿日:03月15日(水)14時23分00秒
私には、臓器の提供を躊躇する理由が幾つかあります。1)人のからだに、別の人の臓器を移植するのは不自然という感覚
SF映画や怪奇映画でよく荒唐無稽な話が出てきます。そういうのはばかばかしいと思いますけれど、以前は、免疫反応を抑えることができなくて移植による治療が成功しないことが多かったし、今でもそこがむずかしいところだときくと、やはり、不自然なことをしているから、という気持ちが湧いてきます。
でも、家族間で、生体で腎臓を移植することは、それほど不自然と思わないのです。血縁のある家族間なら、からだのつくりも似ているだろう、と思うことと、既に歴史があって、慣れもあります。
他人同士の移植も、成功例を幾つも知るうちに、慣れると思います。人間のからだのつくりは、基本的には同じなんだから、というように考えることもできると思います。2)死体から臓器を取り出すことに対する嫌悪感
それは、死者のからだを傷つける行為だと言われます。
しかし、人は、死ねば、そのからだは腐って壊れていきます。それがそのまま土に還されて他の生物の養分になるのならいいですが、火葬にされたり、土葬でも棺桶に入れられていて、なるべく、他の生物の養分にならないようにされています。
それぐらいなら、私のからだのなかではもう働かせることができなくなった臓器を、お医者さんが他の人のからだに移して、その人のからだのなかで働くようにしてもらってもいいと思います。以上は、心臓停止後の臓器の提供でも脳死後の臓器の提供でも同じです。
脳死後の臓器の提供には、もう一つ、問題があります。3)脳死判定のミスです。
これはもう社会的に監視し検証する機関をつくって、告発したり補償させたりするしかないと思います。
脳死判定にミスがなければ、私は、脳死状態そのものも不自然ではないかと思っていますので、臓器を提供するしないという判断以前に、自分にとって不必要な延命治療の中止を求めたい、という気持ちがあります。
移植も不自然なら、脳死状態も不自然。でも、前者のほうは、生きているうちにその不自然が自然になってくるぐらいに回復します。脳死状態も、回復して「自然に」生きる状態に戻ることもありうるかもしれませんけれど、そうならないで死ぬことがほとんどです。
だから、私は、もう、脳死になったら、延命治療を中止してもらっていいし、そうしたら、臓器を提供してもいい。以上のような考えをともにできる人に、自分の最期を託して、看取ってもらえればいいと思います。でも、そううまくいくとは限りません。
4)家族が反対している
だから、今のところ、臓器の提供に同意していません。
バナーがいっぱい! 投稿者:てるてる 投稿日:03月15日(水)13時44分53秒
カラフルになりましたね。青野透さんのサイトへのリンクもふえていますし。
修正版をアップしていただいてありがとうございました。> 古川さん
現行のドナーカードでの家族の署名は、ドナーカードを持っていることを家族が承知しているというだけの意味で、臓器提供への同意という意味はありません。もし、家族が同意している、ということを表わすとしたら、家族の定義が問題になっていただろうと思います。保証人という考え方については、私も迷っているのです。以前から頭に浮かんでいましたが、自信がなくて、今まで、書いたことがありませんでした。対案のなかで述べている乳幼児のドナーカードについて、こんなカードが実用にたえるだろうか、と疑問に思っています。子供の意思に反して親が臓器提供をする、という趣旨のカードなのです。そんなカードをどこに置いたらいいでしょう。親自身が、ドナーカードを持っている、というような人なら、興味を持つかもしれませんが、持って帰る人はめったにいないような気もします。では、いざ、脳死の状態になったときになって、口頭で同意の意思を示す、ということでいいのでしょうか。ドナーカードでなくても、何か書面を作ったほうがいいとも思います。しかし、その場になってから書面に記入する、というのは、やはり、酷です。子供のためを思う親だからこそ、かえって、まわりから説得されてしまって、不本意に同意してしまう、ということもあるかもしれません。だからといって、前もって、まだ幼い子供、赤ちゃんなどを前にして、親が子供の意思に反して臓器提供に同意するカードなて、用意する人がいるでしょうか。乳幼児の生命力、脳の障害に対する強さ、臓器を提供するという意思を表示していない人はすべて提供に反対とみなす、という原則を考えれば、私としては、「子供の意思に反して親が臓器の提供に同意する」という設定をはずせないのですが。
いろいろ 投稿者:森岡正博 投稿日:03月15日(水)11時55分47秒
書き込みするペースが遅くなってしまいました。>濱西さん
「もたせる」という表現はたしかにまずいと思います。ドナーカードを持って
意見表明する権利とか自由ですね、ポイントは。>古川さん
古川さんのお考えだと、町野改正案でも同様に、家族にドナーの意思を自由に
処理する権利が発生することになります。すると、本人が表明している場合は
自動的に摘出、してない場合は自動的に非摘出という案しか残らなくなります。
はっきりしたこと。 投稿者:古川明広 投稿日:03月15日(水)07時15分53秒
> てるてるさんドナーカードの家族署名欄の意味合いの範囲がどう設定されているのか、僕はまだちゃんと把握していない。調べます。検討をようすると思いますが、「保証人」という考えでよいかどうかまだ考えたいです。
ひとつはっきりしました。森岡案、そして現行法だと、ドナーに意思表示がない および臓器提供の拒否の意思表示をしていれば、家族はドナーの臓器提供についてなんの権利もないが、ドナーがドナーカードで臓器提供の意思を示したとたん、家族にドナーの意思を自由に処理する権利が発生する。結果としてそうなってしまう。これは、ちょっと‥‥。これが親権? この点を、僕は充分に自覚できてませんでした。
でも、「脳死状態になった人の意思を守る必要」は全面的ではないけどあると思いますが、ドナーの意思のみで臓器提供がなされてしまうことにも、今まで書いてきた理由その他でやはり賛同しかねるのです。というわけで、てるてる案にまだ僕は納得できませんが、当初の意見表明の森岡案に基本的に賛同というのも、早くもゆらいでしまいました。もうすこし考えます。
きのう、森岡さんの「脳死の人」を図書館で借りてきたのですが、なぜか著者の写真の目のところに黒い線をテープで後ではりつけてあってかくしてある。なんなのだろう。
森岡さん 投稿者:濱西栄司 投稿日:03月15日(水)03時08分39秒
例の論文の、「どうやって子どもにドナーカードをもたせるのか。」
という文章の言いまわしが少しきになりました。もつもたないは子どもの自由だと
私なんかは思うわけですが、同じようにおかんがえでしょうか?また、「死」について語り合うことを拒否するのもまたここの子どもの自由だと
また私なんかは思うんですが、いかがでしょう。というのも、そういうことを拒否した子どもにも、ドナーカードを与えれば良いのか
どうかを私が悩んでるからなんです。もしよかったら、お聞かせ下さい。
てるてるさん 投稿者:濱西栄司 投稿日:03月15日(水)02時46分44秒
まったくてるてるさんのご意見に賛成します。ですが不思議なものです。教育関係者が運営している掲示板に、
「授業などに出ない自由」の保障なんて書いたら、10中8,9は、かなり怒られるんです(^^)。
いや、ほんとに。この掲示板でも、そういうレスがくるのではないかな?
と予想していたんですが、見事に裏切られました(^^)。
権利 投稿者:てるてる 投稿日:03月14日(火)08時21分35秒
> 濱西さん
死の準備教育に限らず、すべての科目、すべての授業について、出席しない自由が認められてもいいと思います。学校に行かない自由も認められてもいいと思います。> 古川さん
ドナーカードに、家族署名欄ではなくて、ドナーの意思の保証人欄があればいいと思います。
ドナーになる人は、自分を看取ってくれることになるかもしれない人とともに、脳死そのものについてよく知り、共通の認識を得るのがいいと思います。そして、ドナーになる決心をしたら、同意してもらえたらいいと思います。同意してもらえたら、保証人になってもらったらいいと思います。家族には、ドナーになるその人のことを、理解している人も理解していない人もいます。
脳死状態になった人を、家族が自由に処理する権利を保証する必要はないと思います。
しかし、脳死状態になった人の意思を守る必要はあります。
翠さん 投稿者:古川明広 投稿日:03月14日(火)07時10分53秒
一方向性の強いメディアだと、権力性はどうしたって介在してくるから、
いろいろな価値観にたいして慎重にならざるをえないけど、掲示板のような
あるていど双方向なメディアだと、発言者それぞれの「べき」を出し合って、
多様な「べき」が対話していくってのもアリかなとも思うのです。それが、
ひとつの「べき」がなにかを支配することを批判していくような、
だけどやっぱり「べき」であるという。でもなかなかねえ。
死ぬ権利 投稿者:古川明広 投稿日:03月14日(火)06時28分48秒
てるてるさん。> 家族にとって、臓器の提供に同意するということは、
>> 脳死判定基準をすべてクリアしても厳密には脳死判定しきれていない
> 可能性を考えれば、殺人に荷担することに等しいし、本人の意思を尊重する
> ことは、自殺幇助にも等しい。そうなんです。これを本人の側からみれば、自殺というか自死の依託になる。
それそのものとは言わないけれど、そうした性格をまったく排除できるわけではないと思うのです。だからてるてるさんのおっしゃる「死ぬ権利」というのも、その意味では自死の依託権という性質をおびる。この自死の依託ということが、権利化されたり、法で保証されたりするのは、なんか違うのではないかと僕は考えるのです。> まだ生きているかのように見える間に、臓器を提供したい、というのが、
>ドナーの気持ちではないでしょうか。うーんなるほど。そうですね。
この生きているかのように見えるドナーを見ているのが、ドナー自身ではなく、
家族であり医療スタッフであるというのは、ひとつのネックかなと思います。無痛化との関連で考えてみます。まずドナーの側から。脳死による臓器移植にともなう性格のひとつかもしれない自死の依託性は、権利化されたり法で保証されたりすることで、無痛化してしまうと思います。無痛化への抵抗とは、無痛化の抵抗を権利や法で全面的に保証してもらうことの獲得とは限らず、ことこのことにかんしては、全面的には保証されないところで意思の実現を試みていくことこそ無痛化への抵抗と思うのです。そこで、家族によってドナーの意思が左右されるのは、意思の限界であると同時に意思の可能性であり、そうしたところで試されていく種類のものではないか、と。
次に家族の側から。ドナーの臓器提供意思のみで臓器提供がなされるよう保証されると、
ドナーのからだが切開され取り出されていく事実の「痛み」を、家族がその事実のただなかで無痛化し、麻酔化することに、その保証は荷担すると思います。てるてるさんがおっしゃる意味での無痛化もあるとは思うのですが、この保証による無痛化のほうが、タチが悪いように思えてならないのです。まだまだ考える要素はいろいろありますが、とりあえず。
てるてるさん 投稿者:濱西栄司 投稿日:03月14日(火)01時21分52秒
いま、わたしが「子ども」だったとしたら、こうおもうでしょう。「死」についてまで教育してほしくないし、だれかと意見交換することもしたくない、
でも「死の準備教育」という授業をつくるなら、拘束されるわけです。
議論というのは、一見中立のようにみえますが、
教師の思想を生徒に注入するのにもっとも有効な方法なのです。
ですから、わたしはそういう「場」そのものにさえ、出席しなくてもよい、
そういう自由を認められていいとおもいますよ。
べき 投稿者:翠 投稿日:03月14日(火)00時15分05秒
>古川さん
でも、「べき」って言っちゃいたいかなあ…って感じ、わかりますね。
自分の中では「べき」だと、私も考えているのですが。
人にはそれぞれの価値観があるし、家族(関係者)との関わり方がある。
「加害性」の受け止め方だって違う。
臓器提供の意思にも、「誰かの命が助かるならば是非とも提供したい」という熱い意思もあれば、「脳死じゃ痛くも痒くもないだろうから、提供したってべつにかまわない」程度の意思もあるだろうし、極端な話、「死んだら身体を切り刻まれたい」という意思(欲望)だってある(かも知れない)。でも、それらはやはり最終的には、本人の責任に委ねざるを得ないのだと思います。今、柳田邦男さんの「脳治療革命の朝」(文藝春秋)を読んでいますが、様々な事例を見ると、脳死問題の複雑さを感じさせられます。
古川明広さん 投稿者:てるてる 投稿日:03月13日(月)20時00分48秒
なるほど、おっしゃることが、わかってきました。
早計な返事をして失礼致しました。古川さんのおっしゃる、微細でミクロで間接的なレベルでの加害性、
すなわち、レシピエントの立場としての、
> 「他の人を殺害したから自分の命が助かる」という加害性
の自覚は、私の
> 象徴的な意味で、家族の中で一番弱い人が犠牲になったから、生き残った
という意識に近いように思います。古川さんの「投稿日:03月11日(土)09時39分15秒」の書き込み
> つまり脳死移植医療とは、森岡さんが言うような「本人の尊い意志」という
> 前提と同時に、脳死判定基準をすべてクリアしても厳密には脳死判定しきれていない
> かもしれないことを充分に「覚悟」してこそ行うべき医療だと考えます。
> これは臓器提供側も臓器摘出/利用側も両方です。だからこそ、本人の意志も
> 家族の意向もクリアしていることを絶対条件とするべきです。および、ららさんの「投稿日:03月11日(土)23時43分30秒」の書き込み
> 摘出するのは医療スタッフです。
> けれども彼らは脳死の人の前では、家族、関係者の「手」の拡張にしかすぎない、
> のではないでしょうか。わたしはそう思います。とを合わせて考えて、やっとよくわかってきました。
家族にとって、臓器の提供に同意するということは、
> 脳死判定基準をすべてクリアしても厳密には脳死判定しきれていない
可能性を考えれば、殺人に荷担することに等しいし、本人の意思を尊重する
ことは、自殺幇助にも等しい。だから、苦しみや迷いが生じる。
そして、そのような苦しみをになう「覚悟」が必要だと、私も思います。
「無痛文明論」でいわれる「痛い」思いでしょうか?脳死状態というものは、臓器を摘出しないで、心臓が停止するまで、人工呼吸器その他の
医療器械につないで維持し続ければ、それで家族がこころおきなく、死にゆく人を看取る
ことができる、というものでもないと思います。
はじめのうちこそ、非常に優れた医療の技術と奇跡のような回復力があれば蘇生の可能性があるかもしれなくても、時間がたつうちに、もはや死んでいるとしか思えなくなってくる。本人が臓器を提供するとドナーカードに記入しているのに、その、見るからに死者としか思えなくなってくるときまで、待っていれば、それで、死にゆく人を大切に見送ったと言えるのか。
まだ生きているかのように見える間に、臓器を提供したい、というのが、ドナーの気持ちではないでしょうか。「痛い」思いをすることを避けて、ドナーの意思をまげて家族が臓器の提供を断われば、
それはそれで「無痛文明」に沈み込むことではないでしょうか?
訂正 投稿者:古川明広 投稿日:03月13日(月)16時06分11秒
下のコメントの「べき」うんぬんは、僕の最初の意見表明のところでも使ってました。
ちっとも限定しとりゃせん。すみません、訂正します。でも、「べき」って言っちゃい
たいかなあ。もちろん僕の発する「べき」なんかになんの強制力もないです。
>加害性について(2) 投稿者:古川明広 投稿日:03月13日(月)08時19分53秒
> てるてるさん。
僕が想定している加害性は、微細でミクロで間接的なレベルのものです。
もしかしたら、いまの生命倫理の一般観念とははずれているレベルのものなのかもしれず、
「臓器移植に反対する人々が、ドナーやレシピエントを批判するとき」に持ち出す意味での加害性とは異なるレベルと考えています。だから脳死による臓器移植を全面批判するために問題にしているのではないです。だから「覚悟」と申しました。
でもミクロな加害性は現代医療全般に行き渡っていると思うし、いわゆる生命倫理は、このミクロ加害性を「痲酔」する操作によって成り立っているように感じます。
この痲酔性も僕は全面批判するものではないですが、脳死による臓器移植という、現代医療における生と死の境を全面的に取り扱う問題においては、この麻酔性の基礎を問い直し、ミクロ加害性を問題化していく必要が生じているように思うのです。> 翠さん。
僕は「その関わりをとことん考慮した上でなお自らの意思を貫く自己決定」をドナーカードに記入した人の場合に限定して前のコメントを書きました。この場合だと記入するまでに本人がとことん考えるのみならずできる限り家族と対話する「べき」だと思うし、家族は本人の意思が乗り移っているかの思いで本人の自己決定を代行する「べき」だと感じました。でもそれはあくまで代行だし、そこにおいて「べき、だけどできない」ということもあるのだと思います。そこにおいて、齟齬感や痛みやコントロール不能などうしょうもなさや生の因果との対峙があるのだと思います。
子供のドナーカード 投稿者:てるてる 投稿日:03月13日(月)07時54分41秒
子供のドナーカードを作ったとして、どこに置いたらいいでしょうか?
小学校の保健室に置いて、養護の先生が、一人一人、手渡して、説明することにしましょうか?
養護の先生は、ドナーカードを取りにきた生徒に、えらいねえ、とかいってほめてはいけないでしょう。しかし、優しい目をして見ることを止めるわけにはいかない。反対に、厳しい目をして見ることは、止めなければならない。
そんなことは、先生方がそれぞれの考え方や教育方針でなさることで、いつも厳しいまなざしの先生もいれば、いつも優しいまなざしの先生もいるでしょうし、そのどっちがいいとか悪いとか、言えることではないから、余計な心配かもしれませんが。小学校でも死の準備教育をすることに賛成です。
しかし、授業の内容に取り入れると、それは成績評価の対象になります。
本来、性教育や死の準備教育は成績評価の対象にするべきではないと思います。
それらが独立の科目であったり、あるいは、他の科目の中で、特定の授業の時間が割り当てられているのなら、その科目だけ、あるいは、その授業時間だけ、成績評価の対象にしない、ということもできます。
そうするのが現実的でしょう。
しかし、性や死は、もともと、国語や理科や社会などの授業のなかでも教えられるものだし、そうするべきでもあります。そうすると、成績評価の対象にしないわけにはいかなくなります。それはしかたがない。成績評価というものの本質からして、しかたがないなどという消極的なとらえかたではなくて、積極的に、評価して、生徒の成長に生かすようにしなければならないのでしょうが。先生方にもそれぞれ、臓器移植についての考え方があります。それは自由に発言していいはずです。臓器移植に賛成・反対の双方の先生が同じ学校の中にいて、自分の意見を述べ合って、それを生徒が聞いて、どっちの言い分が納得できるか、考えてもいいと思います。
生徒が、好きな先生の言うことだから賛成、とか、嫌いな先生の言うことだから反対、とか、いうことで、ドナーカードに記入したとしても、いいと思います。
それもその生徒の選択です。しかし、それは、生徒の選択が、評価の対象にならないことが絶対条件です。
そうすると、対案のなかで、13歳未満の子供の臓器提供には、親の同意の他に、第三者の同意も必要としたのですが、その第三者は、子供のかかりつけの医師とか担任の先生とか、その子供の医療・保育・教育に携わる人、としましたけれども、担任の先生ははずすべきでしょうか?そもそも、ドナーカードを人に見せないようにし、また、ドナーカードを持っているかどうか、どんな記入をしたか、を人に聞かないようにするべきでしょう。
ドナーカードの内容は、家族署名欄に署名してもらった人以外には、原則として秘密です。
ドナーカードの内容を人に言うことと、臓器移植についての考え方を述べることとは、まったく別のことです。臓器移植に賛成と言っている人が、自分のドナーカードでは「臓器を提供しません」に○をつけていてもいいのです。
秘密を明かしてもいいのは、家族以外に、自分の最期を看取ってもらいたい、と思っている相手に対してだけではないでしょうか。そうすると、子供同士で、親友だから、秘密を共有しましょう、ということが必ず起こります。ことに、それぞれの親と意見が違ったりしたら、親友同士で同じ記入をし、未成年者の臓器提供には親の同意が必要などというのは悪法だ、などと言い合うかもしれません。それもそれでいいでしょう。
そして、子供同士の勢力関係。臓器を提供するという記入をした子供のほうが勢力が強かったり、反対に、臓器を提供しないという記入をした子供のほうが勢力が強かったり、ということが必ずあるし、そうすると、勢力が弱くて反対の意思を持っている子供がいじめられることもあります。いじめられるだけでなく、自分の意思と違う記入をドナーカードに記入することになるかもしれません。
子供に、臓器を提供するかどうかというようなことは個人の秘密に属することで、他人の秘密を侵してはならない、ということを教えることができるでしょうか?
家族 投稿者:翠 投稿日:03月12日(日)22時18分20秒
前回のカキコミの補足です。
「臓器移植は不自然なもの」というのは、正確には「臓器移植は不自然なものであり、不自然なものはよくない」という価値観です。>古川さん
「本人がOKで家族がNO」と書いたのは、勿論その本人の生前(たとえばドナーカードを書く際など)のことです。(そりゃそうですよね。(^^;)
本人の意思が乗り移ったかのように代行できないからこそ食い違いが生じるのだし、それは、ある意味当然のことではないでしょうか。
もっとも土壇場になれば、人間なにを考えるかわかったものではなく、たとえば「脳死の人」の中で息子を脳死を経て亡くした女性は、いったんは臓器提供を申し出ながらも、こう語ってらっしゃいます。
「極限状態での患者家族とは、通常では考えられない言動をするものです。あの時の家族の言うことなど『絶対、本心ではない』…」さらには、「こちらも死んだのです。…そちらもどうぞ死んで下さい。人の命をもらって自分だけ生きようなんて、あまりに虫が良過ぎます。」(「脳死の人」p.86)
その時のためのドナーカードであるからこそ、古川さんも書かれていたように、ドナーになる意思があるなら(なくても)、自分が脳死になった場合を想定して、家族(関係者)との関わりも含めた上で、本気で考えてみればよいと思うわけです。(考えるべきだ、という事ではありません。)
森岡正博様 投稿者:てるてる 投稿日:03月12日(日)19時31分06秒
添付ファイルつきのメールを送りました。
加害性 投稿者:てるてる 投稿日:03月12日(日)12時47分34秒
臓器の提供を受ける人には、臓器を提供する人に対する、いかなる加害性も存在しません。
そのような加害性をレシピエントが意識させられるとしたら、それは臓器移植に反対する人々が、ドナーやレシピエントを批判するときです。臓器移植において不正なことが行われないように、医療従事者を監視する必要や検証する必要はあります。実際にドナーに対する加害行為が行われるとしたら、医療従事者が手を下すからです。また、本人の意思に反して臓器を提供することに同意する家族も、ドナーに対する加害行為に荷担することになります。
しかし、臓器の提供を受ける人々は、いかなる経過を通してであれ、自分達がなんの責任も負わないできごとの結果、死んだ人の臓器を受け取るのです。
レシピエントとして生きることには、一切、なんの加害性もありません。
自然/不自然の感覚 投稿者:てるてる 投稿日:03月12日(日)12時35分09秒
自然/不自然の感覚はたいせつだと思います。それをなくしてしまうと、ほんとうにとんでもないことになると思います。しかし、自然/不自然の感覚は人によっても異なりますし、自然/不自然の感覚だけで物事を決めるわけにも行きません。そして、人は、あえて、自分にとって不自然だと思うことを選択して生きることもあります。私自身、臓器移植は不自然だと思います。もし、自分が臓器の提供を受ける側に立ったら
断わります。しかし、あえて、臓器を提供する側に立つことはあるかもしれません。
(流れてしまった過去ログに書いていましたが、私はドナーカードを持っているけれどもまだ何も記入していないし、最終的な決定を下していません)私には、人工妊娠中絶も不妊治療も性転換手術も不自然に思えます。しかし、それらを法律で禁止したり、本人が望んでも家族の同意がなければだめ、ということにしたら、人の生きる権利を奪うことになります。
臓器の提供は、死ぬ権利のうちに入ると思います。
加害性について 投稿者:古川明広 投稿日:03月12日(日)11時41分12秒
> てるてるさん。
僕の問題意識は、「臓器の提供を受ける人は、他の人が死んだから自分の命が助かる」ところになく、「他の人を殺害したから自分の命が助かる」という加害性を、脳死による移植医療は完全には払拭できないのではないか、を問題とします。
「殺害」という言い方は大袈裟すぎますが、問題を見やすくするために、あえて。
前の発言で「覚悟」と言ったのも、この加害性にたいする覚悟です。> 翠さん。
>> たとえば臓器移植に関して、「本人がOKで家族がNO」である場合、
>> 家族との関わりを考慮して提供を断念する自己決定もあれば、
>> その関わりをとことん考慮した上でなお自らの意思を貫く自己決定もある。
>> 法はそれらを尊重すべきであり、又そうせざるを得ないのではないでしょうか。この場合の「その関わりをとことん考慮」できうるのは、まさに脳死判定の現場においてだと思います。でもそのとき本人には自分の意思の明確な表明は不可能です。
「その関わりをとことん考慮した上でなお自らの意思を貫く自己決定」
これを本人の意思が乗り移っているかの思いで代行するべきなのが、そこにいる家族なのだと僕は考えるのですが。
価値観 投稿者:翠 投稿日:03月12日(日)01時44分02秒
‘臓器移植は本人がOKで家族もOKという「幸運な」ケースに限るべき’
という主張は、思うに「臓器移植は不自然(作為的)なもの」という価値観の
上に成り立っているのではないでしょうか。
その価値観を私自身は共有しますが、それはやはり一つの価値観だと思うし、
法は一つの価値観によって成り立たせるべきものではないと思います。
たとえば臓器移植に関して、「本人がOKで家族がNO」である場合、
家族との関わりを考慮して提供を断念する自己決定もあれば、
その関わりをとことん考慮した上でなお自らの意思を貫く自己決定もある。
法はそれらを尊重すべきであり、又そうせざるを得ないのではないでしょうか。
Tetsuro-hさん 投稿者:濱西栄司 投稿日:03月12日(日)01時14分30秒
たしかに、わたしは、本心とは逆の、演技的な意思表示が行なわれる可能性も、法的な議論において考慮されてもいいんじゃない?と思ってます。
そこから、以下のような提案をしたいと思っています。
「演技や無意識を含め、さまざまな形の意思表示に、法律は対応しません」
「法律などのレベルでは、個人の内面はとりあえず無視ししますよ」
「演技はみぬけませんので、考慮にいれません」というような条項を、意思表示・意見表明・自己決定がらみのあらゆる法案に付け加える、という提案です。
そういうことは今までは暗黙の前提になってました。でも、それは、法律のレベルを策定するための作業仮説の一つにすぎないということをちゃんと法律に書くべきだと思います。
ドナーカードにも、「注意:ここに記載された内容が、あなたの思いがどうあれあなたの意思とされます」という文章をくわえるべきだと考えます。
ヨーロッパの臓器移植 投稿者:てるてる 投稿日:03月12日(日)00時53分57秒
厚生省の議事録でも触れられていますが、USAの移植数は格段に多く、2000例以上にのぼっていますが、このような4ケタにのぼる国は、USAだけです。他の国々は、多くて3ケタで、
スカンディナビア諸国やスイスでは2ケタです。この2ケタという数字は、アジアで比較的移植例の多い国々、すなわち、韓国・タイなどと近い数字です。
一方、ヨーロッパにも日本と同じぐらいの1ケタという国もあります。同じく厚生省の議事録のなかでも言っていることですが、何も日本がUSAのまねをすることはない、ということです。それでも、厚生省の議事録では、3ケタの国ぐらいをめざしたいような印象を受けます。
移植例の多い国では、本人が拒否の意思を示していなければ移植する、という方向へ進む国が多い、と、これは、先に挙げた、『論座』(1999年5月号)掲載の対談「脳死論議の大きな欠落」でも述べています。USAやUKでは脳死判定もいいかげんだとも述べています。
私としては、スカンディナビア諸国やスイスのような数字でもいいではないか、と思います。これらの2ケタ台の国々では、どのようにドナー制度を運用しているのでしょう。
脳死後の臓器移植で、私が心配するのは、家族がいない人の臓器が勝手に摘出されることです。もし、私が望む通りに、家族の同意がなくても本人の意思だけでOK、ということになれば、家族に連絡をとる努力を怠る場合もあるのではないか、という心配もあります。
臓器移植には、必ず、家族か、友人など身近な人か、そうでなければ、第三者機関の人が
立ち会う必要があると思います。
臓器を提供する意思 投稿者:てるてる 投稿日:03月12日(日)00時34分13秒
臓器を提供する意思を持つ人のなかには、自分も誰かが犠牲になってくれたから生き延びた、自分もその恩返しをしたい、という動機を持つ人もいると思います。
よく、災害や戦争などで生き延びた人が、他の人が死んだから自分が生き延びたというような気持ちを持つことがありますね。自分でなくても、自分の肉親がそのような経験を持っている、という人もいると思います。過去ログは流れてしまいましたが、私は、自分が小学生のときに両親が離婚して父親がいなくなり、その後、喘息の発作が起こらなくなったということと、妹が死んだこととを書きました。この二つは同時に起こったのです。妹が病気で死に、それをきっかけに、それまで離婚しようかどうしようか迷っていた母親がついに決心して、実行したわけです。後で聞いたことですが、このまま結婚生活を続けていたら、姉の私の方もまた、死ぬようなことになるかもしれない、と思ったとのことです。
ある意味で、一種の象徴的な意味で、自分の最も身近な、他の子供が死んでくれたから、私は生き延びたとも言えます。もちろん、そのような物理的な事実は何もありません。私は妹に対して何も負い目を感じませんし、罪悪感もなければ感謝もしません。妹が死んだことを自然なこととして受け留めています。でも、ある意味で、確かに、象徴的な意味で、家族の中で一番弱い人が犠牲になったから、生き残ったとも言えます。
臓器の提供を受ける人は、文字どおり、他の人が死んだから自分の命が助かることができるのだ、ということを知っているわけですから、もっと厳しい経験をするのだと思います。
だからこそ、臓器の提供は、提供しようという意思のある人だけがするべきだと思います。その意思は、どのような動機で生じたのか、人によって理由はいろいろですが、それは内面的なものですから、誰も外側から暴こうとしてはならないし、臓器を提供する人のプライヴァシーを守らなければならない。その意思をまわりの人は最大限尊重しなければならない。
そして、臓器の提供を受けた人は、臓器を提供した人の死を自然なこととして受け留めるのがいいと思います。
てるてるさん(2) 投稿者:らら 投稿日:03月11日(土)23時43分30秒
摘出するのは医療スタッフです。
けれども彼らは脳死の人の前では、家族、関係者の「手」の拡張にしかすぎない、
のではないでしょうか。わたしはそう思います。
たしかに医療スタッフは「社会正義」「生きたい人のため」に力を尽くす、そういう役目を担われていると思います。その点で、臓器移植を推進したいと思われる気持ちもわかります。けれども、終わって行く目の前の「いのち」もまた、その人を取り巻く人々の間のいのちであります。医療スタッフの方々は、そういう意味では、死とは思えない家族の方々の「生」に入り込んでいる。
やはり関係者の「手」の拡張という感じがしてなりません。
死の社会的意味というのは、脳死の人、死者をとりまく周りの人、つまり、
「死者の他者」が死者の周りで何を考え、どう行動するか、
そこの意味のことを主張している言葉だと思うのです。
てるてるさん 投稿者:らら 投稿日:03月11日(土)23時33分12秒
本人の臓器提供の意思は、死んだ後には臓器提供の遺志になるんですね。
遺言には法的な拘束力がありますよね。
臓器提供の遺志にもそれほどの拘束力を持たせる必要があると思われますか。
「わたしは誰かに与える臓器を持っている」というのと、
「わたしは誰かに与える財産を持っている」というのが同じこととは思えません。
つまり、誰かに与えられることができる臓器は、摘出されねばならず、その際、
本人以外の周りの者の「手」を用いなければそれはできない。
本人以外の周りの者がもしもそれを拒否するならば最終的にそれは行われないと思うのです。
URL 投稿者:てるてる 投稿日:03月11日(土)22時27分00秒
ごめんなさい。下の書き込みのURLには直接に行けません。
いったん、紀伊国屋WEBに行ってください。↓
同じ本 投稿者:てるてる 投稿日:03月11日(土)22時23分56秒
今朝の朝日新聞の朝刊に広告が載っていて、買わなきゃ、と思いました。
ISBN:489691452X
紀伊国屋書店のブックウェッブにものっています。↓
本屋で注文する時にはISBNを言うと便利です。なお、宮崎哲弥は、昨年の『論座』(1999年5月号)で、山崎哲雄と
「脳死論議の大きな欠落」という題で対談をしています。http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi
話題 投稿者:らら 投稿日:03月11日(土)21時57分11秒
これ、読んでみなきゃ、と思いました。
森岡さん 投稿者:らら 投稿日:03月11日(土)16時48分29秒
だんだんすっきりしてきました。たしかにそれが森岡さんの主張です。
で、Aに関しては法の範囲かと思いますが、Bに関しては法の範疇ではないように
わたしのような素人は思うのですがどうでしょう。
てるてるさんが下のようにおっしゃるのは、Bに関する論点が生命論の範疇であり、
必ずしもそれが「普遍的」とは言い得ないという主張なのではないでしょうか。
あくまでもわたしはBに関して主張しつづけたい側ですが、ここの部分を、誰が、
どのようにアプローチしてくれるのでしょう。
死の社会的意味 投稿者:てるてる 投稿日:03月11日(土)16時02分48秒
自分の臓器を見知らぬ他人に提供することは、社会的な意味のある行為だと思います。
千葉敦子は、癌の手術を受けた後、再発の可能性があることを知って、ニューヨークに
移り住むことを決心し、アイバンクに登録し、遺産を基金にすることにしています。
それらの決定を、彼女は家族に相談せずに、一人でしています。
彼女は充分に死の社会的な意味を理解し、社会的な死を迎えたと思います。もし、私が考えに考え、悩みに悩んだ末に下した決断を、家族が曲げたら、なろうことなら、起き上がって、「あなたは家族ではない!」と叫びたくなります。死人に口なしだから、家族が自分達の希望を故人の遺志よりも優先してもいいということにはなりません。
関係者皆が納得すればいい、ということですが、その関係者の範囲は複雑微妙です。
結婚している人の場合、配偶者だけでいいのか、配偶者の両親や自分の両親はどうなのか、子供はどうなのか。どこまで関係者または家族に含めるのか。死は個人的なものです。社会的な意味がある、というのは、
個人が社会とどのような関係を結ぶか、
ということではないでしょうか。それを最終的に決定するのは自分自身であり、その人が
成人であれば、もはや家族といえども介入してはならないのではないのでしょうか。
濱西さんへ 投稿者:Tetsuro-h 投稿日:03月11日(土)15時38分35秒
さらなる疑問がでてきます。
「意識してない意志」はどうするのでしょうか。
例えば、濱西さんの言う「逆の意志表明」は、
「あえて」自分の本心とは逆に表明したものと考えられますが、
この逆の意思表明を考慮しなければならないと考えた場合、
「無意識的な意志」も考慮しなければならなくなるような気がします。
そこまで法律は対応可能なのでしょうか。
また、その医療現場に携わる人間は、逆の意思表明を見抜くことができるのでしょうか。
そもそも、その演技を見抜く力を身につけようと努力するのか疑問です。ドナーカードは本来公的な力をもったツールです。
つまり、どんなに演じていようとも、それは常に公的な力を備えている限り、
そこでの発言は絶対になってしまうのです。
それは、法廷での証言や、選挙の投票、住民登録など国家政策には
「演じている」は通用しません。問題なのは、その公的な力をもったツールを気軽に記入できる場においておくこと、
誰もが気軽に記入することが当然なようにCM放映してしまうことではないでしょうか。
意見表明 投稿者:古川明広 投稿日:03月11日(土)09時39分15秒
臓器移植法改定案についての意見表明に参加します。
じつはこの件について接触を怠っていて、今までの経緯を追ったのもつい先ほど。
だからこの掲示板での議論は現在残っている範囲でしか捕捉してません。
基本的に、改定案に反対で森岡案に賛同します。
理由: 脳死は、概念としてはありうると思います。でも脳死の瞬間をテクノロジーと医師の能力で真に厳密に判定しきることは原理として不可能と考えます。
つまり脳死移植医療とは、森岡さんが言うような「本人の尊い意志」という前提と同時に、脳死判定基準をすべてクリアしても厳密には脳死判定しきれていないかもしれないことを充分に「覚悟」してこそ行うべき医療だと考えます。
これは臓器提供側も臓器摘出/利用側も両方です。だからこそ、本人の意志も家族の意向もクリアしていることを絶対条件とするべきです。てるてる案とは意見を異にしますが、チェックカードの提案で提起している脳死の概念と脳死判定、脳死による臓器移植について各自が考えることの普及は重要だと思います。でもてるてるさんも認めているように、チェックカードにすべてチェックが入れてあったとしても、どの程度脳死にまつわることを把握しているかどうかはあいまいです。むしろ、ドナーカードによる簡潔な意志の表明に暫定であってもすべての責任を負ってもらうことにしたほうが良いと思います。脳死にまつわる熟考の普及は、別口の手段にしたほうが良いと思います。
今回の改定案は、子供の臓器提供に焦点があるようですが、そこを契機に子供の意志表明の機会とそのための大人のインフォームドコンセント(?)を森岡さんが提案したのは重要だと思います。子供は主体的な意志でこの世に生まれたのではなく、大人の都合で生まれた存在です。だからこそ子供は大人からインフォームドコンセントを受ける権利があると思います。そのことと、ららさんが提起した、森岡案における本人がOKまたは意志不明であるときの家族の判断の重荷という問題は、密接に関わると思います。ドナーカードの意思表示は、最終的には本人個人で記入するものでしょうが、家族とも充分に脳死にまつわることについて共有し熟考し対話したうえで記入すべきことだと思います。脳死による移植医療とは、本質において私たちにそうした生と死の熟考と覚悟をせまる医療だと思います。
以上がいまの暫定的な僕の意見です。
ららさん 投稿者:森岡正博 投稿日:03月11日(土)02時14分49秒
こういう説明の仕方ならどうですか?移植を巡っては、
A「本人の意思表示を活かす行為である」、
B「死には社会的意味がある」という、
ふたつの重要な主張がある。このとき
(1)本人がOKで家族がNOのケース
および
(2)本人の意志が不明で家族がOKのケース
は、上記AおよびBのいずれかが侵害されることになる。であるから、脳死移植は、このA、Bともに侵害されることのない
(3)本人がOKで家族もOK
という「幸運な」ケースに限るべきである。いかがでしょう。これが私の立場です。
tetsuro-hさん 投稿者:濱西栄司 投稿日:03月11日(土)00時50分51秒
1逆の意思表示が、その人の本心かもしれません。
本心を採用することにはメリットがあります。
2厚生省の改正案とは関係がありません。
ドナーカード使用範囲を広める改正案とは関係があります。
「本人の意思表示」がないってことはOKってことだ、と言ってもいいのかな 投稿者:らら 投稿日:03月10日(金)23時31分12秒
〉意思表示がない場合は自然葬にとかね(^^)。
これだとつい笑ってしまうけれど、言い方としては同じですよね(ーー;)。
だから意志表示がなければ○○と言ったも同然、って言い方の根拠が何なのか。
法律、人権関係にホントうといので困ったものなのですが、誰か教えてください。
あと、埋葬と臓器摘出の問題はもちろん違いますよね。へんな言い方ですが、遺産相続にたとえると、摘出され利用価値のある何物かを脳死の人は持っている、ってことになりますよね。それを家族、関係者が自由にできるんだナ。それって単純に、「いいんですか」ね。
最後に、越権行為について。
もしも越権行為の考え方で一貫させるなら本人がOKで家族がNOだったらダメ、というのは家族の越権行為だからまずくないですか?
それはてるてるさんが主張されている点ですよね。だから「受忍」って言われたのでしょうか。でも「脳死の人」での主張をすすめていくなら、以下の二つの主張への一貫性を打ち出していかねばならないのでは、と思いました。
・本人がOKで家族がNOだったらダメ。なぜなら死には社会的意味があるから。
・本人の意思表示がなくて家族がOKだとしてもダメ。それは家族の越権行為だ。
この二つの主張の共通点は両者とも「発言弱者」の側に立っているということだと思いましたが、いかがでしょう?
家族の署名 投稿者:てるてる 投稿日:03月10日(金)18時58分56秒
ドナーカードには、家族が署名する欄がありますね。
臓器を提供する場合、ドナーカードとチェックカードを本人が持ち歩くことを提案しているのですが、署名欄に署名した家族が、提示する場合もあるだろうし、それも認めてもいいのかな、と思います。家族と一緒に住んでいて、自宅で倒れた場合とか、ちょっと買い物に出た時に倒れたとか、あるいは、家族と別に住んでいて、本人が自宅にカードを置いていて、自宅内で倒れたとか、近所に出掛けた時に倒れたとかで、駆けつけた家族が、本人の自宅からカードを持ってくるとか。
ららさん 投稿者:森岡正博 投稿日:03月10日(金)17時22分26秒
そのあたりのこと、じっくり考えてみましょう。大事な論点ですから。
埋葬については、移植のように、身体からなにかを取り出すわけではないので
状況が違うのではと思います。自然葬のようなやり方が広まってきたら、似たような問題がこれから生じて
くるのだろうと思いますよ。意思表示がない場合は自然葬にとかね(^^)。
差異 投稿者:tetsuro-h 投稿日:03月10日(金)14時14分42秒
<濱西さん
ある可能性について考慮することは、重要なことだと思います。
それは、濱西さんのSiteでものべましたが、
しかし、逆の意思表示を考慮することによって
本人にもたらされるメリットはなんなのでしょうか。
また、それを法案の中に組み込むことによって
現状の臓器移植法との差異はどこにあらわれるのでしょうか。
もう少し詳しくお願いします。
濱西さん(2) 投稿者:てるてる 投稿日:03月10日(金)07時48分04秒
下で、
> 婚姻届やドナーカードを廃止するというのも一つの考え方だと思います。
と書きましたが、この文章の意味するところも、一分一秒、私の思いとずれていきます。
言葉は発されたそのときからすぐ心の中の思いとずれていきます。
どこかで、「仮の」「暫定的な」意思表示を固定し、それをその人の意思表示とみなす、ということが、日常行われていることではないでしょうか。その表示があまりにも内心の思いとずれたときには意思表示を変更するわけですが、変更が間に合わない、ということも、ずいぶん多いと思います。カードや届け以外でも、ありとあらゆる公私の文書や発言(録音録画もできる)が、「仮の」「暫定的な」意思を固定したものにすぎないのではないでしょうか。
言葉だけではありません。
いっけん、誰かをいとおしむようになでていても、心の中では、こいつ、死んでしまえ、と思っているかもしれません。ありとあらゆる表現を嘘とみなす、という考え方もありうる、と思います。もっとも、婚姻届や戸籍制度にはおおいに疑問をもっていまして、私は婚姻届を出さなくてもいいと思いますし、戸籍制度は個人籍制度に変えるべきだと思っています。個人籍も必要ない、という考え方の人もいるようです。
でも臓器移植の話とずれてしまいますね。まあ別の機会があればそのときに。
濱西さん 投稿者:てるてる 投稿日:03月10日(金)07時16分02秒
婚姻届やドナーカードを廃止するというのも一つの考え方だと思います。
てるてるさん 投稿者:濱西栄司 投稿日:03月10日(金)04時09分10秒
ドナーカードでも結婚届でも
(1)カードや届けに表示できなかった意思や、
(2)カードに届け表示したのに無視されちゃった意思や、
(3)カードや届けの表示とはあえて逆にしてある本当の意思などが、
存在し得るとおもいます。
そして、どちらも取り返しのつかない事態を招きます。
だったら、カードや届けによる「意思」表示をやめにしたらどうでしょうか。
森岡さん(2) 投稿者:らら 投稿日:03月10日(金)03時34分08秒
「身体の処分を決定する」ということが、もしも「埋葬」であればそれほど問題にはならない世ではありませんか?わたしは埋葬の決定は非常に重要だと思っていますよ。その人が意志表示していなかったら、必死になって考えるでしょう。しかし、法を動かそうとまでするこの医療技術によって新たなる可能性を私たちの目の前に置かれてしまった。それが、他の人が助かって行くという可能性です。ここまで考えてみて、「意思表示をしていない人は同意したとみなす」というところの根拠を探ってみなければ…と思いましたのでやってみます。
森岡さん 投稿者:らら 投稿日:03月10日(金)03時12分02秒
本人の意思を第一に優先すべきですが、その意志がわからなかった場合はやはり委ねられているのは生きている関係者ですよね。わたしも越権行為として反対なのです。しかし一律、人の死となった場合、「身体の処分を決定する」から一転、「死体の処分を決定する」にはなりませんか?
考えてみるとそこが、前半と後半の問題点のずれなのかもしれません。
関係者にとって「死ではない死」でありながら、第三者にとっては「まったくの死」であり、「単なる死」であるということなのです。
どうしても、「本人がOKで、家族がNOだったらNO」という問題と、
「本人の意志表示がなく、家族がOKでもNO」という問題の論点の置かれているところが違うような気がしてなりませんでした。
ららさん 投稿者:森岡正博 投稿日:03月10日(金)02時07分43秒
前半には賛同しますが、後半には反対します。
意思表示せずに脳死になってしまった場合、その本人の思いをいろいろ考えて受け止めようとするのは家族への宿題かもしれませんが、その本人の身体の処分の仕方までをも決定するのはあきらかに越権行為だと私は思います。「宿題として受け止める」ことと、「身体の処分を決定する」ことの差異を認識する必要があるのではないでしょうか。
死の社会的意味 投稿者:らら 投稿日:03月10日(金)00時56分25秒
3/9朝日新聞夕刊の養老孟司さんの「死者とは何か」を読んでいて認識を新たにしました。
本人が摘出OKだったら、家族が反対でもOKというのは、やはりまずいと思います。
ここのくだりです。
「つまり死にはまず社会的意味がある。ふつうはそれを忘れてしまう。
なぜなら家族にとって、構成員の死は自分たちに関わる大問題だからである。
当人にとってはいうまでもない。しかし第三者にとっては、それはある意味で日常にすぎない。人は絶えず死んで行くからである」。
やはり「死」を関係性のなかで問うて行きつづけることだと思います。と同時に、養老さんのおっしゃるように「べつになんのことはない」ことという、固執しない自由さ、というか、それが法のなかでうまく表現されたらよいのではないか、と思います。
実は、1997年の森岡さんのお書きになった「脳死との出会い」を今日、読みました。
死んでしまった人が死んだような気がしない、ということを書いたわたし自身も森岡さんと、似たような体験をしたんだなと、その体験を思い出しました。
ここが譲れないのは、いのちは自分ひとりじゃ決められない、自分だけのものじゃない、というどうしようもなさを担いつづけていくためです。
これだけはやっぱり譲れないという気がします。
脳死の人をとりまく人々の絆の問題として、本人がOKでも、家族が反対だったらNO、というのを最後の砦にしたらどうでしょうか。受忍というよりも、ここが軸となると思います。
本人がOKでも、家族が反対だったらNO。なぜならば死は関係性のうちに起こる出来事だから。そして、ここが軸となれば、本人の意志表示がない場合、家族がOKというのか、それともNOというのかは、委ねられた家族、関係者がひとえに問われることになるのです。
これはまさに、生きている人に残された宿題だと思うのです。死んでしまった人には、もう語る力もないのです。だから持ってる頭をふりしぼって、残された家族、関係者は考えねばならないことなんです。しかし、死に行くこの人の目の前で、それをわたしは決断せねばならないということは辛いです。もしかすると、これが、発達したテクノロジーの荒海の中で、担わねばならないリスクなのかもしれません。そしてそこはきっぱりとNOと言うことです、というのが私のリスクの背負い方なのですが、もしかすると、OKというリスクの背負い方をする方がいるかもしれません。
・・・とここで下の森岡さんの書きこみを見て、同意して死んだものとみなす、とするならますます家族と関係者の反対があればNOというのを打ち出す必要があるのではないですか。
文書入手 投稿者:森岡正博 投稿日:03月10日(金)00時05分30秒
2月18日に発表された町野朔氏の改正案の提言の文書を入手しました。
もし許可が取れたら、これをHPで公開したいと思います。
われわれの立場とは、まったく逆の提言となっています。
基本的には、スペインのように、本人の意思表示がない場合は、提供に同意して死んだものとみなすというもののようです(大人も子どもも)。
正式には、いずれ公開されるであろう文書に当たってみてください。われわれが想定していたなかの、いちばん強硬な意見が出てきたようです。
詳しくは、続報を待て!