森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2000年03月08日〜03月09日

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濱西さんへ 投稿者:てるてる  投稿日:03月09日(木)21時58分10秒

婚姻届にも(1)や(3)の場合があると思います。
ほんとうは結婚したくないのに結婚したとか、結婚した途端に、こいつとはやめときゃよかったと後悔するとか、何年か一緒に暮らすうちに、わかれたくなってくるとか。いずれ離婚する夫婦もありますが、なかにはどちらかが死ぬまで、あしたは離婚届の用紙を役所に取りに行こう、あしたは離婚届に書き込もう、と思いつつ、一緒に暮らす人もあるでしょう。

それでもって、片方が死んだら、遺産は法廷相続で配偶者に分与されるのです。
本心は離婚しよと思テたのに。もっとかわいいコォにあげよと思テたのに。
エエヒトにあげよと思テたのに。

ハア…ひとの本心というもんは、伝わりまへんなあ。


進展がありました 投稿者:森岡正博  投稿日:03月09日(木)16時30分55秒

>みなさん

厚生省の研究班の、さる方からメールをいただきました。
まず、新聞報道に不正確な点があって、あの見解はまだ厚生省の正式見解には
形式的にはなっていないとのことです。厳密にはどうなっているのかをいま
お聞きしていますので、それがわかったら、ご報告します。

われわれの活動が、これで研究班と厚生省にまで届きました。おそらく、
10月までのあいだに、彼らと対話するチャンスが確実に訪れると思われます。
それまでに、われわれの「対案」を形成しておくことが必要ですね。

しかし、ネットって、すごい・・・(^^;)


ららさんて… 投稿者:翠  投稿日:03月09日(木)12時27分39秒

今、掲示板を見にきたら、私の発言はすでに流されてしまってました。
それで前のページを遡ってみたら、ららさんの正体を知ってコケました。(^^;)
今から皆さんの議論、ゆっくり読ませていただきます。すみません、それだけです。
でも、議事録は私もちょっと違和感だったな。

ドナーカード=意思表示(2) 投稿者:濱西栄司  投稿日:03月09日(木)04時38分05秒

私が考えていることは、とってもしょうもないことかもしれません(^^)。
それは、

カードに文書の形で表示された「意思」を、その人の意思として周りがうけとっても
いいのかな?

ということです。というのも、

(1)カードに表示できなかった意思や、
(2)カードに表示したのに無視されちゃった意思や、
(3)カード表示とはあえて逆にしてある本当の意思などが、あるはずだと思うからです。

(1)カードに表示できなかった意思
たとえば、ある日、Aさんは、「1.私は、脳死の判定に従い、脳死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します。・・・」に○をし、その他の事項ももれなく記入したドナーカードをもっている。ある日、いろいろな考えがあって、「3.私は、臓器を提供しません」に
○をしようとしたが、まさにそう思っているときに事故にあって、脳死状態になった。
そして、Aさんの臓器は他人に移植された。

(2)カードに表示したのに無視されちゃった意思
これについては、
http://www1.plala.or.jp/hidek/hide/181.html
にその事例が詳しくかいてあります。そして、このような可能性は、てるてるさんや、
ひでさんがおっしゃれるような方法で低めることができるかもしれません。

(3)カード表示とはあえて逆にしてある本当の意思
これについては、
http://www64.tcup.com/6408/eiji.html?
にその事例が詳しく書いてあります(2)の参照URLへのリンクもあります。

http://www64.tcup.com/6408/eiji.html?



ノンドナーカード 投稿者:森岡正博  投稿日:03月09日(木)00時28分33秒

オフィシャルページの掲示板に、阿部知子さんがHPを開いているという情報が寄せられていたので、行ってみたら、臓器移植法に警鐘を鳴らしていると同時に、ノンドナーカードを配布していました。ノンドナーカードについては、以前にもこの掲示板で話題になったような気もしますが、現物を見てみてください。
ちなみに阿部さんは、脳死移植に一貫して反対されて来た方です。

http://www.dd.iij4u.or.jp/~tomoko/seijimessage.html#zoukiishoku


てるてるさん 投稿者:森岡正博  投稿日:03月09日(木)00時01分02秒

はい。いずれにせよ来週までは動けませんので、ゆっくり送ってください。

レス3件です 投稿者:てるてる  投稿日:03月08日(水)23時32分28秒

> 濱西栄司さん
次のページに御投稿が流れて行ってますが、リンク先に、個人が複数のドナーカードを持つことができるために起こりうる間違いについて、書いてありましたね。濱西さん御自身も、御自分の掲示板で同じ場合を想定されていました。

一人の人が、時が経つと共に考えが変わっていくことは当然あるので、新しいドナーカードに記入したら、古いドナーカードには斜線を引くことにしたらどうでしょうか。

> 岡田研一さん
> ただ、その時チェックする側(ここでは医者)に、
>「この人は何も知らないから、意見を無視してもいい。」
> という論理がでてきてしまう。

チェックカードのことをとりあげてくださって、ありがとうございます。以下、対案のなかの、チェックカードの基本的な考え方を書いてみます。

チェックカードは、ドナーになる当人が、自分で読んでチェックすることとしています。そして、チェックカードの提示を必要とするのは、脳死後に臓器を提供する意思のある人だけとしています。
臓器を提供しない人は何もしなくていいですし、もちろん、チェックしていてもいいです。

チェックカードは、臓器を提供しようとする人にも、提供したくない人にも、どうするか迷っている人にも、移植についての最低限の知識と、より多くの情報を得られるきっかけを提供しようとするものです。臓器を提供しない人は、無理にチェックカードを読まなくてもいいです。ただ、臓器を提供する場合は、チェックカードに全部チェックしていなければ、提供できない、としています。

子供でも、臓器を提供する場合は、ドナーカードとチェックカードを自分で読んで自分で記入することとしています。でも、実際は横からおとなに説明してもらってもいいし、おとなに読んでもらって、何が書いてあるのか教えてもらってもいいです。ただ、書き込むのだけは、自分でなければなりません。書き込むといっても、自分の名前以外は、○をつけるとか、チェックするとか、だけです。
臓器を提供しない場合は、チェックカードを読んでいても、いなくても、どちらでもいいし、チェックカードを読まずにドナーカードの「臓器を提供しません」に○をつけるだけでもいいです。
臓器を提供しない場合は、脳死と心臓死との違いを知らなくても、知っていても、どちらでもいいし、なんの条件もいらないとしています。

小学校の1年生や、幼稚園の年頃の子供に、そんなことをさせるのは無理でしょうか。幼い子供にわかるように説明できるおとなもいれば、話を聞いて理解できる子供もいますけれど、多くの人にとってはむずかしいかもしれません。話を聞くだけでこわいと思う子供もいるし、子供をこわがらせるために話をするおとなもいるでしょうし…
ちなみに、私は、小学校1年生の2学期まで、自分の名前が書けませんでした。絵本は一人で読んでいましたが。

あと、チェックカードに、脳死状態と植物状態との違いについての項目も、設けたほうがいいかもしれないと思っています。

> 森岡正博さん
いろいろ直したいところや補いたいところが出てきましたので、週末にまとめて修正版をメールで送りたいと思いますが、よろしいでしょうか。


ららさん(2) 投稿者:森岡正博  投稿日:03月08日(水)23時17分22秒

受忍限度についてですが、たしかに、あんまりいい表現ではありませんね。
てるてるさんのおっしゃるような、本人が摘出Okだったら家族が反対しても摘出する、という考え方を、私は理解できます。それがいちばんすっきりすると私も思います。
ですが、臓器摘出というのは血の通う身体への侵害を含みますから、関係する全員が納得する場合に限って、摘出を認めるという線がぎりぎりの許容範囲ではないかという立場を私はとっているわけです。そのときに、たしかに本人の意思は否定される結果となりますが、それは、本人の受忍限度として設定するしかないのではないか、ということです。
だたし、下にも書いたように、この受忍は、自分の身体が意に反して侵害されることについての受忍ではなく、なにも積極的にできないことに対する受忍であるというのが、ひとつの確認点だということです。言いたいのはこう言うことです。
が、やっぱ、あんましいい言い方ではないですね。はい。

森岡さん 投稿者:らら  投稿日:03月08日(水)23時16分31秒

読売記事で、「臓器提供者に対する救急医療や脳死判定などが適正に行われたかを検証する第三者機関『脳死下での臓器提供事例に関する検証会議』が発足したとありましたが、結局これは、脳死の家族への移植についての説明義務導入のスペインと方向性は同じですよね。
脳死の家族への説明義務というのは、ひねくれた見方をしたら、脳死の家族への「説得」ってことになりませんか。ひねくれてるかなぁ。
残された家族へのケアーって、ほんとうにいい言葉だと思う。よくできてる。
何かが推し進められているときって、耳に心地よい響きがやってくる。
本質的に、何がいちばん問われるべきことかをよく見極めなければ・・・。
研究班の方々との直接議論・・・実はわたしも考えておりましたです。

てるてるさん 投稿者:森岡正博  投稿日:03月08日(水)23時07分17秒

ずいぶん前に流されてしまいましたが(^^;)、7歳未満のところを6歳未満と直しておけばよろしいでしょうか? 
いまページを更新できないところにいますので、来週までお待ちください。すみません。

bossさん 投稿者:森岡正博  投稿日:03月08日(水)22時44分31秒

はじめまして。議論の経緯は、私のHPの表紙から行ける特設コーナーと、そこからリンクされている文書やページに行って一通り読まれると、だいたいお分かりになるのではと思います。そのうえで、わからないことは、なんでも書きこんでください。

ららさん 投稿者:森岡正博  投稿日:03月08日(水)22時40分58秒

竹内基準を作った竹内さんなどは、「人の死は脳死で統一」論者でしたね、個人的にお聞きしたときには。医師の中には、この考え方がけっこうたくさんあるという感触があります。もし脳死で一本化されたら、まずは脳死の人へのケアは一義的に死体へのケアとなるので、保険がきかなくなると思われます。「脳死の人」でも書きましたが、保険の話はずいぶん以前から出ています。あとはアメリカなどの病院でなされているように、脳死になったら、病院の方針でスイッチを切るということでしょう。厚生省の議事録を読むと、スペインでは、法改正によって脳死の家族への移植についての説明義務が導入されたため、ドナー数が急増したようです。かつスペインでは、本人が意思表示してない場合は、自動的に移植同意とみなされてしまうようですね。こういう方向性を、厚生省の研究班は念頭においているのかもしれません。

家族の精神的負担ということを考えれば、本人が明確に否定していない場合以外は自動的に摘出されるというのが、逆説的に、いちばん楽かもしれませんよね。自分で背負わなくてもよくなるわけですから。でも、家族が反対しても聞き入れられないという国は、たぶん、ないのでは。アメリカでも事実上、家族の反対があったら断念すると言われているようです。

ここでの議論が煮詰まってきたら、「本人の意思表示を前提とする必要はない」という方々に、きちんと議論を挑んでみようと思います。具体的には研究班の方々と、移植推進団体の方々かな。その過程で、いろんな問題が見えてくることでしょう。でもその前に、まだ、われわれ自身がいろいろ考えを深めておく必要があるなあと思ったりしてます。


はじめまして 投稿者:boss  投稿日:03月08日(水)20時30分43秒

はじめて参加させていただきます。
私は医学生です。4月から3年生になります。
臨床にでるまではまだまだなのですが、
医療倫理には関心をよせております。
学部ではこのような熱い議論をすることもないので、
ぜひ参加させて頂いて、勉強したいと思います。
ここ2、3日の内容しかしらないので、
定期的に参加されている方がそれぞれどのような立場なのか、
それから当面どのようなことが問題になっているのかというのが、
いまいちよく理解しておりません。ですので、的外れな発言になるかもしれませんが、
よろしくお願いします。

人の死(追加) 投稿者:らら  投稿日:03月08日(水)18時31分11秒

家族に委ねられていると書きましたが、もっと考えれば、完全に死体からの摘出ということになって、家族よりも医療スタッフに委ねらることになるんですかしら。脳死からの摘出と、人の死からの摘出とは違うのか。
もちろん集中治療室で、委ねられているのは医療スタッフなのでしょうが、そんな状態で家族が、「はいどうぞ」と言えるその識別の根拠は何なんでしょうか。
本人の意思がない状態で(15歳以下も)、家族は突然数時間の間に考えなければならない。
家族の同意があればOKという安易な法案ができてしまって、あまり考えもしなかった突然のことが起こった時、パニック状態になるでしょうね。
そのとき、もうこの人は死んでいるんだから、人助けのために使わせてもらいましょう、という考えを助長するのが、脳死も心臓死も一律、人の死だ、という線かな。

なおみさんへ 投稿者:匿名  投稿日:03月08日(水)18時08分19秒

言葉に責任を持つ森岡さんですか。ことばの数字的な配置に責任を持っていると受け取る私のひがみがあります。例えば一たす一を三と出していて,指摘されると,あ,違った。それが簡単にされてしまう世界・・という意味で,自分でも納得のいかない感情が生まれるのです。単純な場面では日常の生活,メール交換でも簡単にそういうことを自分自身もしていますから,それへの嫌悪を持っています(感情の動物ですね,私,哀しいけど)。
そうですね,ちろるさんはもう来られないでしょう。
森岡さんの運動に,ブレーキをかけたこと,お詫びします。でも,いろんな意味で,「改正案に反対」に対して,私は「安易に近い判断」をしていたと,いま後悔しています。
なおみさんの優しいお言葉に癒されました。ありがとうございました。

森岡さんとちろるさんと匿名さんへ 投稿者:なおみ  投稿日:03月08日(水)16時45分39秒

匿名さんに対して書かれていたことですが(特に「匿名さん(3)」かな)ごもっともなご意見です。その通りです。私は森岡さんの言い方は、きっぱりしてて、言葉に責任を持っていてファンです。きっと、ここの参加者のほとんどがそうですよね? でも、確かに運動向けではないような・・・。匿名さんもね!
私はどうやら森岡さんよりは、ちょっぴり運動向けな性格に生まれついたようなので、ちろるさんのように、移植法改正に少しでも興味を示してくれた人は逃がしたくなかったのででしゃばって、フォローをいれてみただけです。
私だったら、初めて書きこみをして、あの返事で、更にその後の、森岡さんと匿名さんのやりとりを見たら「もう、ここの掲示板には書き込みしないでおこう」って思っちゃいますもん。(ちろるさんが私のような小心者とは限りませんが)
運動って、なんの関心もない人より、ちょっとでも興味を持ってくれていて、取っ掛かりのある人を自分のサイドに引き込んだ方が効率的でしょ? だから、ちろるさん、また来てねー。
って人のサイトで勧誘する私って・・・。

岡田研一さん 投稿者:なおみ  投稿日:03月08日(水)16時31分58秒

>知らないことはいけないことでしょうか?

私の書きこみ、そういう風に聞こえちゃいました? ぜんぜん、そういうつもりじゃな
かったので、言い訳させてください。知らないこといけないことなんかじゃない、って
私は思ってます。
でも、知ろうと思ったなら、正しい知識を身につけよう!って言いたかったんですけど。
知らない、ということと、間違っている、ということは別ですから。


人の死 投稿者:らら  投稿日:03月08日(水)15時58分31秒

森岡さん
>(1)は当面の受忍限度ではないかと考えている。
このことを、もう一歩説明を加えていただければありがたいと思いました。

それと、本人と家族の意向の食い違いが生じた場合、たとえば今、
心臓死と脳死の二つの死の形態があるとされていますが、
これが、脳死を一律に人の死にするとなったら、
この問題に関しての結論は変わってきますでしょうか?
下の(2)の場合、
本人への身体の強制的侵害・・・に関して、この人は生きているのか死んでいるのかが実感できない家族が立ち会った時(想像上の話で)に、この人は死んでいるんだ、と思いこみつつ、身体の強制的侵害をするという状態が起こりうるのかな。
脳死も死だから・・・。もう死んでいるから家族に委ねられている。
でも心臓死とは違う、ってところで、この人の身体への侵害を悪いことと思う。
それが一律「人の死」となったら、身体への強制的侵害の意味合いがぐっと変わってくるような気がします。家族に委ねられている感覚はもっと強くなるのではないでしょうか。
生きている人と死んでいる人とでは、生きている人の意向を優先せよ、というのが強くなる。
しかし、本人の意思表示をすればすべて事はおさまるんだという結論には行きたくないです。
だから論点をどこに置いたらよいのだろう、ってことを考えています。


私の問題 投稿者:匿名  投稿日:03月08日(水)15時33分03秒

さっき投稿したら,できなかったようです。
筋というのは,論理性においてのことであれば,学的意味なので,納得です。

さっきの投稿が行方不明ですが,いま又,ひとつわかったことを読んでいて,
思案中の先生の分析って楽しそうだなと思いました。

どちらにしろ,3つもどうも は撤回させて下さい。私の問題でした。


移植について 投稿者:777  投稿日:03月08日(水)14時40分21秒

知っている方がいれば教えていただきたいのですが。
脳死移植を考える中で、本人以外の家族同意があれば・・・である場合
と本人の意思決定がある場合それぞれで、
今日本で行われている死刑で仮にその死刑囚が臓器提供を行なう場合
これはどのように扱われるのでしょうか。

ひとつわかったこと 投稿者:森岡正博  投稿日:03月08日(水)14時25分18秒

下の書き込みをしていて、ひとつわかったことがあります。
「提供についての本人の自由」と「家族の意向」のあいだの衝突というふうに問題を立て直してみると、私の案の場合、本人が希望しても家族が拒めば提供できないということになっている。これはある意味では、筋がとおらないことですよね。これに対して、てるてる案では、本人が希望して家族が拒んでも提供できることになっている。これは、本人に照らしてみれば筋がとおるが、家族の意向は侵害されているわけですね。

つまり、つまり本人と家族の意向が異なる場合には、いずれにせよどちらかの立場から見て筋がとおらないことがおきるわけです。ですが、その筋のとおらなさは、同じではない。

(1)移植したいのにそれを拒まれる--という筋のとおらなさ
(2)移植したくないかもしれないのに移植されてしまう--という筋のとおらなさ

このふたつを比べてみると、(1)では本人の身体への強制的侵害が結果として生じないが、(2)では本人の身体への強制的侵害が生じる場合がある、という違いが出てきます。

このときに、てるてるさんは、(1)も(2)も筋がとおらないとされている。
私は(2)は筋がとおらないが、(1)は当面の受忍限度ではないかと考えている。
という違いがあるわけです。(だが私はてるてる案を評価しています)

(そして私が(2)の方を重大だと考える理由こそが、以前、この掲示板でどなたかが指摘されていた「自然状態」云々のことだといまわかりました。)

ちろるさんのご意見は、(2)を肯定されているように見えるがゆえに、私の考え方からすれば筋がとおらないことになる、というわけです。



3つもどうも 投稿者:匿名  投稿日:03月08日(水)14時09分33秒

>森岡さん
私に論理性が乏しいのを見越してのご指摘に,ごもっともです。しかしながら,森岡さんは,私たち庶民を知らないと思います。カエルさんは正直だと思いました。臓器移植について即座に答えられる人は一握りでしょう。だいたい,死の定義にしたって,日常生活上で必要な人も,一握りでしょう。意見を求められて即答したから,あのようになったまでのことなのでは?

1)100%理解しているなんての投げかけは,私に対する軽蔑ですか?
2)きついことを言っても許される,という無痛に浸っている森岡さんだと思います。

匿名さん(3) 投稿者:森岡正博  投稿日:03月08日(水)13時37分35秒

いままでの私の書きこみを冷静に見ていただけばお分かりだと思いますが、私は「書くな」とはけっして言っておりません。多様な意見の表明は、この掲示板では保障されると繰り返し書いています。

しかしながら、私は、筋がとおらないと私が思った意見に対しては、はっきりとそういうふうに言います。それに対して、森岡の考えはおかしいという反論があれば、それを投稿されればいいわけです。その過程で、共有されるべき知識は共有されていくだろうし、よりよく何かがわかっていくのではないかと私は思っています。

ということなのですが、いかがですか? もちろん私の言い方が、冷酷に響くというのはあると思います。自分の言いたいことをがまんして・・・というのは、わしの性格にあってないからなあ。こういうわしの性格は、本来、運動向けではないのだが(自覚あり)
でも、それでも、今回はやってみるのです。


匿名さん(2) 投稿者:森岡正博  投稿日:03月08日(水)13時26分58秒

>追加 に対して

下にも書きましたが、私は「知識」に関して筋がとおっていないという反論をしているわけではありません。

2割、は私の感触です。みなさんの世界では、100%の方が理解されていますか?


匿名さん 投稿者:森岡正博  投稿日:03月08日(水)13時22分36秒

いえ、ちろるさんのお立場に立ったとしても、筋がとおっていないということを書いたのです。つまり、仮に脳死=植物状態であると前提したとしても、ちろるさんは一方で

・臓器の提供云々については本人の自由

と言いながら、他方では

・家族や親の同意があればいい

とされているからです。家族や親の同意でいいのなら、「よくない」あるいは「表明したくない」という本人の自由は、侵害されることになるのではないでしょうか。

この点をさして、筋がとおっていないと言っているのです。

脳死=植物状態ということについての「知識」にかんして筋がとおっていないと言ったわけではありません。

私の書き方が舌足らずだったので誤解を招いたのだと思います。すみませんでした。

以上とまったく別問題として、脳死と植物状態の混同という事実がけっこう広く見られそうだということがあるわけです。

以上すべてとはまた別の点で、ちろるさんのご意見に対しては、異論があります。
子どもについてのことです。それについてはあらためて書きこみます。


言い方に追加 投稿者:匿名  投稿日:03月08日(水)13時07分24秒

>森岡さん
脳死についても知らないようなら,意見を書くな,ということでしょうか。
それは,ネットを使おうと考えておられることからくる言い方ではありませんよね。
ここに来て下さった方は,「気に留める,立ち止まる」ということをされている,
私はそういうふうに捉えたいです。
そして,2割・・・きっとそれは,森岡さんの世界のお話しでしょう。

言い方 投稿者:匿名  投稿日:03月08日(水)12時53分12秒

>森岡さん
筋が通らないというのは,森岡さんのご意見から見るとという意味ではありませんか。

ちろるさんは,きちんと,自分の知識を確認した上で書いておられますよ。
森岡さんは学識者のご意見しか聴きたくないとおっしゃるのですか。私は,矛盾を感じています。森岡さんこそ,自分の教養の見せつけるような書き方をしていませんか。



ちろるさん3 投稿者:森岡正博  投稿日:03月08日(水)12時42分05秒
たしかにきつめの言葉だったかもしれん。ごめんなさい。
意見の多様性は保障されるべきだし、この掲示板では保障されます。
ですが、筋のとおらない意見には、私は筋がとおらないと言いたいです。

それ以前に、私の経験から言っても、脳死状態と植物状態を混同している人が2割以上はいると感じています。


決定の裏側 投稿者:岡田 研一  投稿日:03月08日(水)11時21分47秒

下のちろるさんの書き込みについて、思ったことを書きます。
脳死状態と植物状態の違いを知らなくてもドナーカードが持てるということは、問題だと思います。怖い、と言ってもいいですが。自己決定権について言う際に、その人が何をどれだけ知っているのかを考えなければいけない。どう考えてそのように決定したのか。

本当は家族と話し合っていけば、自然と議論は深まると思うのですが、そういう私もドナーカードの家族署名欄が空白のままです。難しい。まずはてるてるさんの案にあるチェックカードのようなものがいいと思います。

ただ、その時チェックする側(ここでは医者)に、「この人は何も知らないから、意見を無視してもいい。」という論理がでてきてしまう。皆さんはどうお考えですか?

もうひとつ、したのなおみさんの書き込みを見て思ったのですが、知らないことはいけないことでしょうか?やっぱり知っていてほしいとは思うけれど、「知らないでいる権利」とか、「自己決定をする責任」というような言葉が浮かんでくるのですが、、、


ちろるさん 2 投稿者:なおみ  投稿日:03月08日(水)11時05分22秒

森岡さんったら言葉きついですよー。せっかくはじめて参加してくれた、ちろるさんをビビらして、どうするんですかぁ。誤解をしている人には、それを正してあげて、そのうえで新たに脳死に関していろいろと考えてもらわないと。まずは、そこからですからね。
ちろるさんへ>
このサイト内を散策しつつ、リンクをいろいろ辿って行くと脳死関連の情報はかなり得ることができると思いますよ。その上で、改正案について考えてみてください。やっぱり、賛成!って思うなら、それはそれで立派な意見です。この掲示板だって、同意見じゃないと参加してはいけないって排他的なものではないのですから。脳死状態と植物状態の違いが分かると臓器移植に関する考え方も変わるかもしれません。自分で調べても、分からないことがあったら、ココか、もしくはサブボードあたりで質問するといいですよ。


ちろるさん 投稿者:森岡正博  投稿日:03月08日(水)09時49分23秒

脳死状態と植物状態はまったく異なります。
脳死状態の人を介護するのは、基本的には家族ではありません。集中治療室のスタッフです。
安楽死の問題とも関係ありません。
こどもは親を選べないから子どものことについては親が決めてよい、という考え方こそが問われるべきだと私は考えています。
ちろるさんのお考えは、全体としてまったく筋がとおっていないと思います。

自殺のこと再び 投稿者:てるてる  投稿日:03月08日(水)07時50分50秒

> 翠さん
> 自分はこのさき生きてたところで大した意味もなさそうだが、せめて
> 脳死になったら誰かの為に役立ちたいとか、いのちを繋ぎたい…とか
> いうようなクールな発想は(確率の低い自己実現ですが)、私の感覚
> からすれば十分ありうるのではないかと思うし、それはそれで一つの
> 生き方(死に方?)かなという気もします。

私自身、そういう生き方・死に方に魅力を感じますし、そうしたいという誘惑に駆られます。だから、自殺による脳死後の臓器移植を認めてはならないと思いました。

自殺したいと思っている人のなかには、自殺しようと思いつつ、何年も実行しないで生きている人もいます。何年も、「自分は生きている値打ちがない、死ななければ、なぜ死なないんだ、この恥知らず、自分よりも、もっといい人が死んでいるじゃないか、自分よりももっといい人が自殺したじゃないか、自分のほうがもっと役に立たないのに、なぜ生き続けるんだ、この臆病者」と思いながら、生きている人もいます。自分で自分に向って言わなくても、他人から言われる人もいます。他人(家族や友人を含めて)から「早く死ねばいいのに」と思われる人もいます。おとなにもいじめられて自殺する人がいます。

自分よりもっとねうちのある人が自分より早く死んでしまったのに、なぜ自分は死なないんだ、と悩んでいる人にとっては、自殺して臓器を提供する、という考えは、甘い果実です。

宮台真司さんの
> 「脳死<安楽死<自殺」説のように、自己決定を突き詰めれば、自らの
> 命を断つ自由も(それを幇助する自由も)法として守られるべき
という考えは正しいと思います。
ただ、自分から自殺を実行しようと決心する理由や、他人が自殺をすすめる理由をふやさなくてもよい、と思います。

> ららさんへ
けいさんだったのですか。
けいさんのお姿が見えないなあ、どうしているのかな、と思っていました。
またお会いできてうれしいです。
> てるてるさん、いろいろごめんね。
そう言われてみれば、過去ログ(のコピー)を読み返してみれば…あー、私、きついことを書いていたのですね。すみません。忘れていました。m(_ _)m


はじめまして 投稿者:ちろる  投稿日:03月08日(水)07時15分15秒

友達から紹介されこちらのHPへと足を運びました。
こちらでとりあげられてる脳死とは植物状態の人の事ですよね?
どのような状態になると脳死と判断されるのかもよくわかっていないわたしですが、臓器移植として使われるのは、脳死と判定されてから日数のあたらしい方が対象なんでしょうか?
わたしは脳死=植物状態としての意見で書かせていただきますが、
いま病床に臥している方に関しては、ドナーカードで臓器移植を望んでいなかったか、
カードを持っていなかった方たちで、
自然に息を引き取るまで身内の人が面倒を見るってことですよね?
当然と言えば当然の話なんですが、長く患うと身内の方の苦労もたくさんあるかと思います。
日本ではまだ安楽死は認められてないんですよね?
そういう意味では
(1)脳死になった本人がドナーカードをもっていなくても、家族の同意があれば移植できるようにする
(2)親の同意があれば、十五歳未満の脳死の子どもからも移植ができるようにする
わたしはこちらの意見に賛成です。
生きる権利もありましょうが、脳死の状態のまま生きていたいのかまでは本人に聞かねばわからないことでしょう。
面倒をみるのは身内の方なんですから、家族の意見を尊重してもいいと思うのです。
子供は親を選べないって言葉もあるのだから、親の同意があれば、十五歳未満の脳死の子どもからも移植ができるようにしてもいいと思います。

(1)十五歳以上の場合は「本人の意思」確認を前提条件とするとするべきである
(2)十五歳未満の場合は、なんらかの形の「本人の意思」の表明が存在することを前提条件とするべきである
本当はこちらの方が、本人の意思が含まれるので正しい事を言ってるとも思います。
しかし、ドナーカードの浸透性を考えると素直に頷けません。
わたしの家では家族の全員がドナーカードを持っています。
臓器の提供云々については本人の自由で、家族の中でも提供する・しない人といるかもしれません。(本人の自由なのでわたしは確認までしてませんけど)
このカードもたまたま運転免許試験場へ行った際に置いてあるのを見つけたからで、興味のない人には見向きもされない状態で置いてあったのです。

わたしの気持ちとしてご報告します。


家族のケア、支援 投稿者:らら  投稿日:03月08日(水)02時41分50秒

前にてるてるさんがおっしゃっていた家族のケア、
ちゃくちゃくと準備されているようですね。

http://www.yomiuri.co.jp/etc/tokusyu1.htm


>翠さん 投稿者:すみません、「らら」は「けい」でした  投稿日:03月08日(水)02時32分22秒

なんだか白状したくなってしまいました。深夜ですし(^^ゞ。
翠さんごぶさたしています。てるてるさん、いろいろごめんね。
「なんだぁ〜」って笑っていただければ、ありがたいのですが…。
ちょっとばかし、そういう心境になったのです。
…それで、
さきほどから、あちこちのサイトを巡ってきて、ちょっと数のこととか見ていて、あまりにも日本での数と外国での数の差がありすぎて戸惑っております。
さっきの議事録とか読んでいても、ドイツではスペインではこうして増加に至ってる、だから参考にしようじゃないか、という感じですよね。
それに、厚生省のあの研究班の去年の4月での感触は、今回の二つの提言よりも、もっと推し進めるかたち、意思表示がなければ家族の同意でOK、を打ち出したかったのですね・・・。「臓器が足りない」からキャンペーンをすることがどこが悪い?という
この「臓器が足りない」という部分について、なんだか腑に落ちない感触がします。

http://www.medi-net.or.jp/tcnet/data.htm


臓器移植を必要とする人 投稿者:らら  投稿日:03月08日(水)02時11分08秒

ちょっと前の話題ですが、
てるてるさんがおっしゃっていた臓器移植を必要とする人とのひらき…
10倍以上のようです。

http://www.jotnw.or.jp/news/news_toroku.html


自殺 投稿者:翠  投稿日:03月08日(水)02時08分25秒

>てるてるさん
自殺者の件を最後に加えられた趣旨、わかりました。
さすがに生死にかかわる問題だから、震災時のボランティアみたいな訳にもいかないのだろうけど、でも例えば、自分はこのさき生きてたところで大した意味もなさそうだが、せめて脳死になったら誰かの為に役立ちたいとか、いのちを繋ぎたい…とかいうようなクールな発想は(確率の低い自己実現ですが)、私の感覚からすれば十分ありうるのではないかと思うし、それはそれで一つの生き方(死に方?)かなという気もします。
ただ、おっしゃるとおり、現実にはやっぱり「本当は生きていたいのに自殺に追い込まれてしまう」というケースが圧倒的に多いのでしょうね。

以前‘SIGHT’に宮台真司さんが臓器移植法に関して(森岡さんの前の頁で)書かれていたのを読みましたが、「脳死<安楽死<自殺」説のように、自己決定を突き詰めれば、自らの命を断つ自由も(それを幇助する自由も)法として守られるべき、という考えに、必然的に行き着くのだと思います。

>ららさん
たしかに、脳死の議論で「自殺者の権利」などと持ち出したところで走りすぎかな…
とは、私も思いました(^^;)。とりあえず、問題提起ってとこで。
しかし、「自己決定」と「人との関わり」って考えさせられます。

…と、投稿しようとしたところで、下にららさんのカキコミがありました。
議事録、今ざっと目を通してきましたが、臓器提供を希望していて自殺した人ってけっこう多いのですね。事情はわかりませんが。


自殺のことで 投稿者:らら  投稿日:03月08日(水)01時29分48秒

厚生省関係審議会議事録というのがあって、
そこを見ていたら、臓器移植専門委員会の議事録があり、
ちょっと古い議事録ですが、自殺の件で話されていました。
資料1−5について話されているところです。
たしかに、そういうことありますよね。
実際こういう問題で、臓器移植に関わっている人たちは悩んでおられるのですね。

http://www.mhw.go.jp/shingi/s9811/txt/s1119-1_11.txt
http://www1.mhlw.go.jp/shingi/s9811/txt/s1119-1_11.txt


98/11/19 第11回成人病難病対策部会臓器移植専門委員会議事録

資料1−5、先生方のコメントはいろいろあるのではないかと思います。意思カード です。去年の法律を施行されてから現在まで、意思カードがいろいろな恰好で情報があ ったのは36件です。36あったのですが、その内の3分の1の12件が自殺というのがあり ます。自殺をさらに右側を見ていくと死亡確認後の連絡とか、心停止後家族から連絡が あったとか、遺品の整理中に発見されたとか、死後二日目の連絡とか、いろいろなこと がありまして、状況が少しずつ推察されるかと思います。
こういう残念な状況が幾つかあるというのは、自殺しないとならない方は非常に気の 毒な状況ではあると思います。多分も話をしたのですが、死亡後の遺品の整理中という のですね。これは5月の中旬に亡くなったのですが、遺品を整理していたらあったとい うので、7月に連絡があったのですが2ヵ月後です。ですから情報といっても、そうい うのがありましたという情報をいただいたということで、丁重にお礼をするということ だと思います。こういう状況であります。

 

(社)日本臓器移植ネットワーク

http://www.jotnw.or.jp/