家族の同意 投稿者:てるてる 投稿日:02月29日(火)20時21分39秒
子供の臓器提供には家族の同意が必要ですが、大人の臓器提供には家族の同意は不必要だと
思います。20歳以上は、ドナーカードに、家族が同意しているか同意していないかを記載するだけで、移植の条件にしてはいけないと思います。
一番親しい人でも、死を替わってあげることも、一緒に死んであげることもできない、だれでも自分一人だけで死んで行くのですから、おとなが自分の死に関して下した決断は、最も親しい人といえども変えてはならないと思います。
こどもの移植 投稿者:てるてる 投稿日:02月29日(火)17時43分33秒
「15歳未満の子どもの場合には、親の承諾だけでOK」という改正案には、反対です。
12歳にもなれば、脳や心臓のことを知っていて、脳死と心臓死の違いを学べば理解できます。
小学生でさえ、ちゃんとおとなが教えれば理解できます。何よりも、死のことを考えたり悩んだりするこどもがいます。祖父母が亡くなったり、兄弟が死んだりして、死を知るこどももいます。
7歳以上は脳死と心臓死との違いを学び、臓器の提供に賛成するかどうか選択する機会を提供されるべきです。つまり、子供向けのドナーカードを作るべきです。移植を受けるほうの子供には脳死と心臓死との違いを説明しているはずです。説明していないのかもしれないけれど、本来、するべきです。
ほんとうは三つ四つの子供でさえ、死のことを考えることがあります。でも、そんなこどもにドナーカードを持たせるのはいくらなんでも不可能。
7歳未満の子供はドナーカードを持たないけれど、親が臓器の提供に同意する場合は、子供と脳死や臓器提供について話をしたことを証明する(?)ためのドナーカードを親が持っておくべきではないかと。3歳よりももっとちっちゃいこどもは?
親がこどものぶんのドナーカードを持つとして、どういう理由で提供に同意するのか、書いておく必要があるかもしれません。
移植の適応 投稿者:TOSHIKI 投稿日:02月29日(火)16時38分38秒
臓器移植は、それ以外に治療法がない人に行うというのは当初の建前でしたが、
実際には、移植対象者になっている患者のなかにも、
手術によって効果があるはずの人も含まれているようです。
つまり、以前なら移植しか治療方法がないと思われていた病気
たとえばある種の心臓弁膜症には、いまでは治療法があるらしいのですね。
だから、「移植しか治療法がない」という病気とは、
今の時点で、具体的には何なのか、ということに注意しておく必要があります。
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心、肝、肺などが機能廃絶に陥った場合、非常に近い将来そうなることが確実な場合
移植で他から新しい代替の臓器を持ってこないことには確実に亡くなるという場合が
移植の適応になっている患者さんだと思います。
心・肺については、体外循環・人工肺あるいは、補助人工心臓によって
一時的に機能を肩代わりできますが、ごく短期間に限られます。
したがって、移植待ちのリストにある患者さんというのは、一縷の望み(移植)にかけている、
死を間近にした厳しい現実を生きている人たちだと思います。
移植以外の治療法がある場合(言い換えれば、その臓器に余力がある場合)
移植リストには載らないと思います。なぜなら、臓器提供は非常に少なく限られたものだからです。
年齢 投稿者:森岡正博 投稿日:02月29日(火)13時19分34秒
てるてるさんのおっしゃるとおり、脳死になるのは青年壮年のかたが多いはずです。
交通事故だけでなく、脳出血などの病気がかなり多いはずです(これは壮年)。>てるてるさん
いちおう確認ですが、てるてるさんは本人の意思を最大限尊重するべきだというお考えですよね。
で、子どもの場合も、親がOKなら移植OKという考え方には反対されるのでしたっけ。
子どもの意思を尊重するという意味で。
すみません、いろいろな議論をお聞きしているうちに混乱してしまいそうなので、確認です。
移植と年齢 投稿者:てるてる 投稿日:02月29日(火)09時02分02秒
> khさん
> それから死を待つ医療という表現についてですが,臓器提供者になる可能性のある人の
> 多くは年齢の高い人であろうと想定しての表現です.ということですが、交通事故などで脳死状態になった、青年壮年期の人の移植が多いのだと
思っていました。高齢者の臓器を移植するということは考えにくいのですが、どうなので
しょうか?
khさん 投稿者:森岡正博 投稿日:02月29日(火)07時01分25秒
おお、さっそくつくられましたね。khさんがもしよろしければ、
khさんのこのサイトに、反対運動を集結させましょうか。
ネット上でどれだけのことができるのは、わたしにはまだわからないし、
それが現実世界にどのようなフィードバックをなすのかもわかりませんが、
やれるだけのことはやってみるべきでしょう。インターネットの実力が
どのくらいあるのかを検証するいい機会になるかもしれません。khさんのサイトに掲示板をつけていただければ、そこでみなさんと相談しながら
やっていけることと思います。
RE: 改正案反対サイト 投稿者:kh 投稿日:02月29日(火)03時31分06秒
>森岡先生今のところ全く勝手に作っているだけですが、以下のサイトを準備中です。
http://ishokuho.tripod.co.jp/
http://ishokuho.at.infoseek.co.jp/
翠さんへ 投稿者:てるてる 投稿日:02月29日(火)01時26分31秒
利己主義という言葉について、納得致しました。
報道について、私も、「そういう事実がありました」だけでいいと思います。
実際、去年、脳死で臓器を提供した人もその家族も、そのような淡々とした報道を望んでいただろうと思います。しかし、最初の例はおおげさに報道されてしまうものだし、どうせおおげさになるのなら、せめて、ドナーやレシピエントに対して肯定的好意的であってほしいと思います。最初の例だからといって好奇の目で見たり、批判したり非難したりしないでほしいと思います。
去年、テレビで見ていると、脳死による臓器移植に反対運動をしている人のコメントは、ドナーに対する尊敬の気持ちに欠けるような気がしました。何も賞賛しなくてもいいとしても、いかにも、移植の実態を知らないからだまされたんだとでもいうような、こんな人がいるから反対運動がやりにくくなるとでもいうような迷惑そうな、同情しながら馬鹿にするような態度で、見ていて、何もそんな態度をとることはない
じゃないか、と思いました。
てるてるさんへ 投稿者:翠 投稿日:02月29日(火)00時32分03秒
>他人の存在を考慮に入れるから、ドナーになるのではないでしょうか。‘利己主義’という言葉が不適切だったのだと思いますが、私が「他人(の存在)を考慮に入れない」という表現で伝えたかったのは、そういう次元の問題ではなくて、ドナーに限らず、人間はどんな場合にも、世界がそこから開けているところの自分にとってよいをしたがるという、まぁ当たり前といえば当たり前のことです。(ちょっと永井均モード入ってます。)
漫然と生きていれば他人との関係の上で自分(の快楽や幸福)を優先しがちですが、よくよく考えると自分の存在など他人と並べようもなく、その唯一絶対であるところの自分の為によかれと思う生き方で生きるしかない。その地点から初めて他の生命への慈しみが生れるのだろうと私は思うし、「自分のために生きる」中にはふつう、他者への愛も含まれるのだと思います。私がドナーならそうありたいし、そうでしかあり得ないということです。
>どのように報道してほしいのですか?
私について言えば、万一自分が脳死になりドナーの立場になったとして、「愚かもの」とか「ええかっこしい」とか言われるのは無論いい気はしませんが、「利己心のない善意の人」と言われるのもちょっと不気味です。でもそこは個人の趣味もあるだろうし、ドナー本人にとって大した意味はないかも知れません。
客観的にみた場合、‘命のリレー’的な報道の裏ではそんな言葉とはかけ離れた現実がある(らしく)、ドナー自らが喜んで差し出しているものを、受ける人が感謝するのは当然だとしても、報道が余計な修飾をつける必要はないと思います。
ただ、「そういう事実がありました」だけでいいのではないでしょうか。
改正案反対サイト 投稿者:森岡正博 投稿日:02月28日(月)22時21分06秒
えーと、今日の毎日新聞に、中山太郎衆議院議員の談話として、子どもからの移植についての改正案は、粛々と進めなければならないというのが載っていました。彼らは国会対策もはじめているようです。しかし、私にはそういう政治のコネもないし、あるのはインターネットだけです。
で、思うのですが、「15歳未満の子どもの場合には、親の承諾だけでOK」という改正案には反対したいという世論をもりあげるためのサイトを、作りませんか?この掲示板でいろいろ議論されたのを見てもわかりますが、脳死の問題については、みなさん多様な考え方をもっておられます。それはたしかに大事なことです。その多様性を否定することなく、ただ1点、「15歳未満なら親の承諾でOK」という案に反対するというポイントに相乗りできる方々で、団結しませんか? そして、15歳未満からの移植をどうするかについては、ゆっくり時間をかけて具体案を練り上げるということにしませんか。
国会にあがってくるのは、10月だと思われます。そのときには、具体的な法案が文章の形で整備されてあがってくるはずです。そのまえに、各メディアを使って、それへの疑問を投げかけつづける必要があります。ということなのですが、この意見に賛同される方で、どなたかgeocitiesあたりに改正案反対サイトを作って運営してくださる方は、おられないでしょうか? かなりきびしい戦いになると思うんですが、できるだけのことはしてみたいと思います。この問題に危機感をもっていて積極的にやってみたいと思われる方がおられましたら、掲示板に書き込んでみてください。
私自身はサイトを運営しないほうがいいと思います。というのも、この生命学ページに来られている方のすべてが私の立場に賛同しているわけではないのですが、それらの方々も生命学ページの大事な構成員のひとりだからです。この掲示板は、多様な立場や考え方が存在することこそがいのちだと思っています。私の立場もまた、この掲示板では、たったひとつの立場にすぎないし、それでいいのです。
だから、私は、この掲示板と、反対サイトとは、峻別したいと思います。
そのためには、私が反対サイトを運営しないほうがいいと思うのです。
ということなんですが、みなさんは、どう思われますか? まだ決まったわけではないし、ひとつの発想として、どうなんでしょうか?
re:無題 投稿者:森岡正博 投稿日:02月28日(月)22時00分03秒
臓器移植は、それ以外に治療法がない人に行うというのは当初の建前でしたが、実際には、移植対象者になっている患者のなかにも、手術によって効果があるはずの人も含まれているようです。
つまり、以前なら移植しか治療方法がないと思われていた病気
たとえばある種の心臓弁膜症には、いまでは治療法があるらしいのですね。
だから、「移植しか治療法がない」という病気とは、今の時点で、具体的には何なのか、ということに注意しておく必要があります。
RE: 無題 投稿者:kh 投稿日:02月28日(月)02時16分57秒
ご指摘ありがとうございます.>唯一の治療法として、それ以外に方法がなく、それをしないと助からない人のための治療です。
私のようなど素人がいまさら騒ぐまでのことはなかったというわけで,ひとまず安心です.
この内容は,法律なり施行令なり省令なりで規定されているのでしょうか.何か裏付けになる文書がある場合,ご教示いただけるとありがたいのですが.>>心臓死後摘出でもつかえるのは 腎臓、角膜、皮膚などです。
>このため脳死判定が問題になっているのではないのですか?問題外。これはうかつでした.まずはコンビニドナーカードをチェックすべきでしたね.
ただあえて言えば,○○は××の段階で摘出しないと移植できない,というのを認めると,現在は全脳死について行なわれている判定が,それにいたる前の段階,さらにその前の段階というふうに,順繰りに前倒しされていく可能性がないのかは,気になるところです.(おまけ)脳幹死で検索をかけたところ,こんなページを見つけました.充実してます.
http://www3.justnet.ne.jp/~taranco/noshi/chino/index.htm
http://taranco.hp.infoseek.co.jp/index.htm
(無題) 投稿者:toshiki 投稿日:02月27日(日)23時57分45秒
>臓器移植は現在のところ治療法として有力視されているというだけであって,唯一の解決策では必ずしもないはずです
唯一の治療法として、それ以外に方法がなく、それをしないと助からない人のための治療です。
>心臓死後摘出でもつかえるのは 腎臓、角膜、皮膚などです。肺、肝、心は脳死後、心拍動化での摘出でしか、移植後うまく働きません。
このため脳死判定が問題になっているのではないのですか?問題外。
まず前提として,臓器移植は現在のところ治療法として有力視されているというだけであって,唯一の解決策では必ずしもないはずです.具体的に有力な代替手段として,医療工学や体内の器官の再生などが研究されており,これらは臓器移植につきまとうもろもろの倫理的問題とは,はなから無縁なわけです.次に,臓器移植を行うにしても,そのために心臓死後の患者の体内から臓器を摘出するのと,わざわざ脳死なる概念をあらたに導入し,脳死判定を行い,その結果に依拠して臓器の摘出を行うのとでは,ために生じる倫理的問題の広がりなり,煩雑さはまったく異なるはずです.
現行法のもとで自分の臓器をどうしても提供したいという人を止める権利は確かに誰にもないし,その人にとって上に記した倫理的問題は,問題ではないのかもしれません.
しかしある基準でなら自分の臓器を提供してもいいが,別の基準では乗れないという人はいる訳です.臓器提供を待つ人というのも厳密に言えば作為的な表現で,私は使いたくありませんが,彼女ら彼らに臓器の提供を受ける権利なるものが存在するとして,それを尊重せよというのならば,現行法制度におけるよりももっと多くの人が臓器提供に乗れるような方向をまずは模索してみるのが,第一に取られるべき手段ではないのでしょうか?
それから死を待つ医療という表現についてですが,臓器提供者になる可能性のある人の多くは年齢の高い人であろうと想定しての表現です.いわゆる臓器移植を待つ方の気苦労もわからないではないですが,いっぽうで年老いて死の床にある人も(場合によっては単に年老いているだけの人も),若い人からお荷物扱いされたり,金銭を不当にまき上げられていたりすることがあるわけです.とりわけ脳死段階で臓器を提供するということは,法の縛りの効かない自然状態であれば膨大な対価を生じるのであって,従ってむき出しの臓器売買に一応規制がかかっている状態においても,金銭を動機として老人虐待を苛烈化させるおそれがあると考えるのです.
表記の表現はかかる背景に照らすならば,過度に不穏当なものではないと思うのですが,いかがでしょうか.
>匿名さま 投稿者:kh 投稿日:02月27日(日)18時41分56秒
(1)制度的救済というのは,法的救済の意味で書きました.具体的には,臓器摘出(の行き過ぎ)
に関して訴えを起こした場合に,それが門前払いにされないことが最低ラインでしょうか.(2)残念ながら私は医者ではないので,心臓死後の臓器移植が可能なのか独自に判断を下すことは
できません.しかし心臓死した人からの臓器移植は可能だという情報をどこかしらで見るか聞くか
した覚えがありますし,また「臓器移植WEB」(リンク参照)のトップページには,心臓死後の
臓器移植が可能であることを前提とした記述があります.(3)挙げた論点は,うやむやにしたまま見切り発車してはまずいだろうと思う点です.
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/5679/
経費 投稿者:匿名 投稿日:02月27日(日)14時32分42秒
なんらかの経費は必要ですから、公平さなどに疑問視したくなるかもしれません。
また、術後管理のことをかんがえると、予想できない事が多くなるので、ますます
研究的な視点がつよくなることも懸念されないでしょうか。
以前にも述べたように、医師をどこまで信ずることができるか、救急医療について
倫理性などを含めた問題が一番身近な恐怖です。健康な人の臓器が一番欲しいのが
医師の本音ではないでしょうか。
なし 投稿者:TOSHIKI 投稿日:02月27日(日)09時28分15秒
(ばうさんから引用)実際の臓器移植手術をやるとなっ
たら臓器以外にもとんでもない金が掛かる訳で、研究費などから補
填しない限り実際に臓器移植を受けられるのは臓器が有料だろうと
無料だろうと金持ちだけな訳ですから。
-----------------------------------------------------------------------日本では国民皆保険ですから、金持ちしか移植を受けられないというのはあり得ません。
それから、移植治療が一般の医療に比してけた外れに高額になるということは全くありません。保険適用がない場合、自己負担、大学負担になるということはあるかもしれませんが。
臓器売買を防ぐために、移植ネットワークによって公平に、もっともその臓器が適する人に分配しようとし、無償提供ということしているわけで、偏見でもなんでもないのでは。
臓器移植にはお金がかかる。 投稿者:ぱう 投稿日:02月27日(日)05時50分31秒
臓器提供者からは臓器は無償で提供しなければならないなんてのは医学界や製薬界のプロパガンダによる偏見でしかないと思います、死体から採取した脳硬膜などは平気で有料で売ってるんですから。
治療効果の大きさによる対価としてなら臓器は高価な代物の筈です。
それを臓器提供者に知られると、臓器を入手しにくくなるから隠す。臓器を有料にしたら、必要な人ではなく金がある人にしか渡らない。
なんてのは詭弁にすぎませんよね。実際の臓器移植手術をやるとなったら臓器以外にもとんでもない金が掛かる訳で、研究費などから補填しない限り実際に臓器移植を受けられるのは臓器が有料だろうと無料だろうと金持ちだけな訳ですから。
管だらけの数時間 投稿者:てるてる 投稿日:02月27日(日)03時02分09秒
なにもドナーにならなくても自己実現はできるのですが、ドナーになることがそれほどスキャンダラスなことなのでしょうか。
私の人生は脳死状態になったら、ほんとうは後数分あるいは後数時間あるいは後数日、人工呼吸器やいろんな器具に管でつながっていれば心臓が動いていられるのかもしれないけれど、それはもうはしょってもらってもいいですよ、ということが、それほど、人間を「他人の死を待つ医療」に鈍感にさせるのでしょうか?
レシピエントとドナーへのまなざし 投稿者:てるてる 投稿日:02月27日(日)02時50分58秒
臓器の提供を待っている他人の存在を考慮に入れるから、ドナーになるのではないでしょうか。
ドナーになる人は、家族という他人の存在を考慮に入れていない、と決めつけているのではないでしょうか。ドナーになることが、必ず、家族の心を傷つけるのでしょうか。
家族は、臓器の提供を待っている人を考慮に入れないから、傷ついてしまうのかもしれません。臓器の提供を待っている人は誰に気兼ねすることなく、生きる権利があります。
臓器移植のことを他人の死を待つ医療などと強調することは、移植を待つ人々の尊厳を傷つけるのではないでしょうか。他人の死を待たずに自分の死を待ちなさい、と押しつけるわけにはいかないはずです。「マスコミが臓器提供を『ドナー=善意の人』として賛美する」のを危惧する、という意見をこの掲示板でよく見ますが、では、私も既に一度書きましたが、ドナーを変な人とか愚かな人とか表現すればいいと思っているのですか?どのように報道してほしいのですか?
自己実現としての臓器提供 投稿者:翠 投稿日:02月27日(日)02時20分56秒
‘自分の臓器を(誰かに)捧げたい’と思うのも、一種の利己主義(というのもヘンですが)であり、また、そうでなければならないのだと私は思います。
この場合の利己主義とは「他人を軽んじる・蔑ろにする」という意味ではなく、むしろ「他人(の存在)を考慮に入れない(=自分自身のために生きる)」という意味です。つまり、誰かに臓器という‘いのち’を捧げることによって、自己実現を果たすということが実際ありうるのかも知れないし、それがエライとかズルイとかいうのでなく、人間はその様にしか(自分のためにしか)生きられないのだと思います。
ただ、その自己実現としての臓器提供を「ドナー=善意の人」として賛美するという図式によって、世の中がうまく回るように多くの人が思っていて、それが制度と結び付いてしまうことに、個人的には鬱陶しさを感じます。
khさんへ 投稿者:匿名 投稿日:02月26日(土)20時20分35秒
ちょっとわからなかったので、khさんの番号に合わせて感想?を書かせて下さい。
(1)社会が我々に何を求めているのかが、わからない、というのが現実だと思うから
私は恐いのです。
だから制度的救済をの可能性はいつ、我々に示されるのか・・。それがわからないから、
こうしてみんな、ああでもない、こうでもないと考えている。
そうかあ、khさんも同じなんですね。
(2)心臓死を待てない理由はなぜかはkhさんがご専門では?
また、臓器の選択はドナーカードに示すようになっているようです。
私が街頭でもらったカードはそのようになっています。
(3)そうなってしまえば、いまの我々の議論は無用になるしかないですよね。
khさんはこのことを肯定されているのではないと思っていいのですか?
(容易に実行されること)。
だから、移植医療に警鐘を・・・ということなんですか?また、ばうさんやtoshikiさんのご意見にも圧倒されました。
医師の自律組織を 投稿者:toshiki 投稿日:02月26日(土)16時16分34秒
各県医師会では日本医師会と日本医師政治連盟の会費が一括して徴収されているという事実は多くの医師にも知られていません。医師会費の一部が「医政対策費」の名目で県医師会特別会計に流れ、これが集められて日本医師会の日本医師連盟から、自民党などに10億円を超える額の政治献金として流れています。
医政連は選挙の度に自民党の後援にまわって政治活動を行っています。
この仕組みが脳死法案成立におおきな後押しになっていると思われます。
この問題点は外国マスコミでも指摘されています。こういう構図だから、医師会に都合の悪い法案はことごとく、退けられている。日本での医師paternalismはいつまでたっても変わらない。
医師の特に開業医の既得権益保持のためだけの団体としてしか日本医師会は機能していないわけで、医療界の多くの悪弊は是正されないままになっているのも一つの事実です。
広い、長期的なvisionを持った、自律的医師組織が是非必要です。一部の勤務医の悲惨な勤務状況(特に外科系)、過労と酷使で自殺したり、変死したりする例も過去ありました。
なのに、軽度の労力を要求される科(マイナー科、皮膚科、眼科)と年中睡眠不足で、休暇ゼロで手術と、末期治療にあけくれる科(外科、循環器科など)(休日働くのは当たり前)の給与が同じなのはなぜか。時間外給与などあり得ません。公務員と同じ給与のみ。
また、厚生省の医療職の無能。ほとんどの者が、臨床経験のない医学部卒業者で、平然と高給に甘んじている(9時ー5時男)。経験がないから、現場の問題点はなにもわからない。変える必要性が認識できない。くさっている。
以前ここで出ていた、日野原先生の医療界批判もこの現状をなんとかしないと馬の耳に念仏になってしまいます。
脳死 投稿者:ぱう 投稿日:02月26日(土)03時43分55秒
はじめまして「ぱう」と申します。>「わからない」の割合が多いですよね。
「脳死」の概念自体が「わからない」割合が多いでしょうし、厚生省の脳死判定基準が、甘い判定基準でまた素人には反証しにくい検査項目になっている事も知らないからという気がします。
厚生省の脳死判定をゴマ化すなら患者に麻酔剤と筋弛緩剤を投与して、薬物検査データを握り潰すだけでできてしまいますけど、一般の人は厳密な判断基準で判定されてるんだろうと思ってるのではないでしょうか。
とすれば後から検証ができる様に、脳死患者の体組織の一定期間の保存を義務づける事で薬物中毒や薬物投与の見逃しの抑止にはなるでしょうけど。結局、医療関係者にたいする信用度の問題なのでしょうが、現状の厚生省は信用すべくも無いと言う気がしますねえ。
遺言で、「医者から脳死になった場合の臓器移植についての話題を出された時には、時間稼ぎをする。(承諾を得ないうちに死なせる訳には行かないでしょ。)」
「脳死判定基準を満たすような状態なら、医療行為を停止する様要請する。(脳死になるなら助からないんだからムダ金を使うのは意味なし。)」
「死後には臓器移植は拒否するように。」とでも家族に通知しておくしかないでしょう。
いのちの文化史 投稿者:KANEKO Yasufumi 投稿日:02月26日(土)00時21分24秒
えー、突然流れと関係ない話題で恐縮ですが、いま新潮選書の新刊『いのちの文化史』を読んでいます。立川昭二さんの著書というと、『病いと人間の文化史』という迫力のある本があり、これほどではありませんが、『いのちの…』の方もなかなか興味深いものがあります。緊張感のある議論という感じではありませんが、現代と違った世相が、また味わい深いです。時間があるときにゆっくりどうぞ。