森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2000年02月17日〜02月25日

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「わからない」について 投稿者:らら  投稿日:02月25日(金)16時08分47秒

「わからない」の割合が多いですよね。
正直なところなんでしょうが、このままトントンと事が運ばれていくことに
不安を感じざるをえないです。うーむ、このまま手をこまねいているのも・・・。

なんと脳死の子どもからの移植が賛成多数! 投稿者:森岡正博 投稿日:02月25日(金)12時01分50秒

毎日新聞世論調査によると、親の承諾があれば脳死の子どもからの移植に賛成が48%、
反対が13%。うーむ、これが日本社会の実像なのか・・・。このままだと、改正案が国会を
通ってしまうぞ。大人の場合でも、家族がOKならばいいという意見が同じくらい高い。
なんでなの? 改正案に反対の方々は、ちょっと一緒に世論作りの運動でもしませんか? 
やばいなー。

下のURLを見てください。

http://www12.mainichi.co.jp/news/search-news/792872/88da90A-0-1.html

http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/science/zouki/200002/25-1.html

http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/details/science/zouki/200002/25-2.html


選択の余地 投稿者:kh  投稿日:02月25日(金)09時47分18秒

>みなさま

たくさんの方にご返事をいただき,感謝しております.うれしくもあり,しかし一方では,議論に飛躍や,行き過ぎや,粗雑な部分があったかなと,考えさせられてもいます.

反論をいただいた部分を中心に,私の考えを改めて整理し,お示しします.
なお献体は,ここでは議論の対象としていません.まずは臓器提供にしぼって論点を洗い
出し,整理するためです.

私が問題にしたいのは,次の論点です.

(1)臓器の提供に応じるか応じないかは本人の考え次第であり,制度的にも単なる議論の上でも,本人の考えが尊重されるべきだと,私は思います.ただし個々人が判断を下すにあたり,その判断が強制によってでなく,あくまで自発的になされることを,社会全体としてどう担保していくのかという議論が,個人個人がなす判断の是非とは別に,なされて然るべきだろうとも思うわけです.
臓器提供に応じる自由も応じない自由もある.このことを認めた上で,ではそれぞれの自由の内実を確保するためには,各個人にどういう社会的な権利が認められるべきで,かつそれを実効的に担保するために,いかなる制度的救済の可能性が確保されなければならないかというのが,私自身が臓器移植の問題を考えるさいの,第一の問題認識です.

(2)臓器移植の問題に関する議論は,現行の制度に規定されて進行しがちですが,現行の制度は臓器移植制度のあり方が種々存在しうる中の,単なる一つであるに過ぎないはずです.
先の書き込みで触れなかったのはまずかったかなと思いますが,制度のよしあしは,そのあり方に応じて変化します.たとえば現行の臓器移植制度は脳死という,新たに持ち込まれた概念に大きく依拠するもので,脳死と判断された人から臓器を摘出することをその基本にすえています.私は実をいえば,臓器移植そのものというよりも,むしろ臓器移植の制度が脳死の概念に依拠する形で組み立てられていることに疑義を感じています.心臓死まで待って臓器を取り出すのではダメなんでしょうか.待てないわけではないし,医療技術の進歩という意味でも,むしろその方が寄与するところ大なはずだと,私は思うのですが.
臓器提供者が相手を選べず,逆に移植される患者がどんな臓器なら移植されていいか(移植して欲しくないのはどんな臓器か)を選択することが想定されていない点も,問題ではないかと思います.


(上の続きです) 投稿者:kh  投稿日:02月25日(金)09時46分14秒

(3)これらの問題をクリアした上で考える必要のある問題として,社会に与える影響の問題があります.脳死の概念に依拠しない制度に改めたところで,臓器移植医療から死を待つ医療としての性格が消え去るわけではないでしょう.死者が出ることは移植用の臓器セット一式が新たに提供される可能性が出たことだと見る見方が,医者以外のふつうの人にも浸透していくことでしょう.一方医者にとっては,臓器の摘出を担当することは医者としてのステータスの向上を意味するとも聞きます.前者は臓器ゆえに人を貴ぶという,価値の転倒を誘発するでしょうし,後者は患者を殺さないということを最重要課題にし,実践しようとしてきたこれまでの医療の性格を大きく変える可能性があります.さらに現行制度下における臓器の流通が,少なくとも公式には国の100%のコントロール下にあることを考え合わせると,本来個人の処分権に属するはずであるヒトの臓器が,臓器移植制度ゆえに国の全的な管理のもとに置かれることになる可能性があるでしょう.意思表示をするためには意思表示カードを携帯することが定められ,なおかつ国民総背番号制により,意思表示カードの情報が個人番号入りのICカード上に集約されれば,これは何も大変なことではなく,まったく容易に実行されうることだろうと思います.

てるてるさんへ 投稿者:匿名  投稿日:02月24日(木)09時15分37秒

庶民にこだわってもらって嬉しかった。私は,あなた様のご意見も尊重します。

生きていく事で考えている最中に,私自身のこだわりが社会との関係でした。
てるてるさんの場合はご家庭にもかなりの影響がおありのようです。でもそれも社会の部分だとも感じます。生命のつらなりは,それぞれ個人が誕生したときの社会現象にも関わっていると思うからです。
私の思いは,私個人の環境と経験にかなり左右されるものであり,ふと気づくとそれは自分だけの活動から自分中心の考えが生まれており,立ち止まることになりました。そして,いろいろ考えてきたあげく,いまのところ庶民という意識に到達したところです。社会を担う一員としての庶民です。だからこそ,このサイトにかなりの興味を抱くのです。


>てるてるさん 投稿者:らら  投稿日:02月23日(水)22時39分40秒

いろいろ返してくださってありがとうございます。
自分の都合のいいように言う伝統論はやっぱり気分悪いですよ。でも、長年その土地や地方に培われてきた伝統は地球規模で言っても、あるんじゃないかな、と思いますが、どうでしょうか。西には西の、東には東の・・・。わたしはてるてるさんご自身が日本人である…とおっしゃる前から、日本人だろうな、という前提で話させてもらっていたし、そのこと自体、これといって意識せずに話し始めている、わけです。非国民のように感じられた・・・のであれば、言い方の失礼をお許しください。そういうつもりはありませんし、私自身、自分の論の都合にあてはめて話しているつもりもありません。ただ、私も日本人であり、伝統についてしばしば考えるものですから、ついつい、そのような言いまわしになってしまったのかもしれません。「和」の精神・・・とか好きなんですよ。だから。それに周りの人に話しを聞いた時のひとりがヨーロッパの方で、その時のリアクションがあまりにも「そんなの当然でしょ?」的だったもので、「日本人」ってのを強調して、こちらも奮起してしまいました。
こういう二項対立の図式に陥ってしまうのが、無痛文明のワナなんでしょうね(ーー;)。

・・・でも、日本人の伝統について考えることはやめません。


無痛文明 投稿者:森岡正博  投稿日:02月23日(水)21時47分04秒

>てるてるさん

ひとことだけ。脳死移植に反対する人は無痛文明にあらがっていて、賛成する人が無痛文明にのみこまれているとは、言えないと私は思います。反対する人の中にも賛成する人の中にも、無痛文明にのみこまれている人はいると思います。


世間と公共性 投稿者:マンソンジュ  投稿日:02月23日(水)20時27分24秒

てるてるさんへ
日本人のアイデンティティ、日本人と外国人との境界線、といったお話ですが、阿部謹也先生は、日本には「世間」があって社会がない、言い換えると公共性がないと主張されています。そして、この世間は時には日本人という大きな世間になることもあります。世間は、世間の外の人に対して差別的になります。また、世間の中にいる個人に個人意識は希薄であり、プライバシーの概念も未熟であると指摘されています。
グローバル・スタンダードが要請される今日、このような日本の精神風土、個人意識は、国際社会で大きくネガティヴに作用することは必至であり、憂うべき状況であると感じられます。

またも日本人の伝統 投稿者:てるてる  投稿日:02月23日(水)19時03分52秒

連続投稿が多すぎてすみません。m(_ _)m
日本では、養子を育てる人が少なく、不妊治療を受けるか、養子は血縁者から貰おうとする人が多いです。難民の子供を養子にする、などという人は、少ないのです。それも、よく、日本人の伝統だなどと言われます。この「日本人の伝統」とは、人と人との関わりを大切にする、という、「日本人のアイデンティティ」とどのような関係があるのでしょうか?

多くの人が、○○人だから、とか、家族愛だとか、伝統だとか、庶民だとかという言葉を、自分の都合のいいように使います。そういうことはできるだけ避けるべきではないでしょうか。


日本人のアイデンティティ 投稿者:てるてる 投稿日:02月23日(水)18時02分11秒

私は日本人ですが、日本人のアイデンティティというものがわかりません。そして、私の考えと反対の考えが、日本人の伝統はこうだ、というお墨付きをもって語られるのが、すごく嫌です。まるで、私に対して、おまえは非国民だとかアカだとか、戦前の人のように、差別し排除しようとしているかのように感じます。
人と人との関わりはたいせつだと思います。その考えには、私も賛成ですが、しかし、それは日本人だけの伝統なのでしょうか?日本人と外国人との境界線はどこにあるのですか?

庶民 投稿者:てるてる  投稿日:02月23日(水)17時55分19秒

庶民とは、どんな人ですか?
医者は庶民ではない。
学者は庶民ではない。
国会議員は庶民ではない。

それでは、庶民とは、サラリーマンですか? 教師ですか? 保母さんですか?
主婦ですか? 自営業者ですか? 村会議員ですか? 町会議員ですか?

庶民のなかに、自分の家族や自分自身のために、臓器移植を待ち望んでいる人はいないのですか?
移植を望んでいるけれどもお金が払えないから実現しない人が庶民で、外国に行ってでも移植手術を受けられる人は庶民ではないのですか?

移植を望んでいるけれどもお金がなくて諦めて悲しんで死んだ人は、庶民で、かつ、無痛文明にあらがって生きて死んだ人で、外国に行って移植手術を受けてきた人は、庶民でなくて、かつ、無痛文明にどっぷりと漬かっている人ですか?


献血・献体・臓器提供…マスコミ 投稿者:てるてる 投稿日:02月23日(水)17時40分07秒

献血は生きている人が行うもので、命になんの悪影響も与えません。だから、家族が献血することに反対する人はほとんどいないでしょう。献体は死んでいる人が生前の登録によって、行うもので、これも死んだ人間がもう一度死ぬわけでも生き返るわけでもないから、ある意味で、命になんの影響も与えません。しかし、家族が献体することに反対する人は多いです。

臓器提供だけが、生と死との境目で行われます。それは非常に微妙です。しかし、個々人の行為が、臓器提供をした人が無痛文明にのみこまれていて、臓器提供をしない人が無痛文明に抵抗している、などと図式的に判断できるものでもなく、その逆もまた、しかりでしょう。

私は自分と母親とののっぴきならない、数十年にわたる関係のなかから、家族愛とは利己主義と裏表であることを実感として語りました。それは必ずしも悪いことばかりではなく、どの親子も、排他的で利己主義的な愛なくしては、子供の成長はありえないし、また、排他的で利己主義的な愛だけでも、子供の成長はありえない、と、知っております。臓器提供を推進する側だけが利己主義的で、臓器提供に反対する側だけが、生命を尊重しているなどと考えるのは、一面的な正義感だと思います。マスコミの論調が臓器提供をした人を好意的に肯定的に報道することが、よくないことだと言われますが、提供者の家族は、ただでさえ、陰口や悪口の対象にされる恐れがあるのです。マスコミまでが否定的な態度をとったら国民的いじめになるのではないでしょうか。


khさんへ 投稿者:てるてる  投稿日:02月23日(水)17時12分08秒

> 「臓器をいさぎよく差し出す人はエライ」という評価だろうと思います.
> そこで質問なのですが,自分自身の臓器や死体に執着するのはみっともないと
> 考える考え方は個人の考えとしてあり得るし,また真っ向から否定することも
> なかなか難しいのですが,この考え方を賞賛し,逆に臓器や死体に執着する
> 考え方を否定的に見る見方が社会全体として力を持つようになった場合,
> そうした事態を全体としてどう評価しますか?

それはたいへんおそろしい、嫌な社会だと思います。それこそ一種のカニバリズムだと思います。
私は、最後まで親の意思でもって子のからだを支配しようとする親の「愛」の恐ろしさを身を持って知っております。と同時に、自分の子供のために他人の子供の臓器の提供を待ち望むことも、愛という名の利己主義であることもよくわかっております。日本では、献体・献血・臓器提供が少なく、外国から血液製剤を輸入したり、外国へ臓器移植の手術に出掛けたりしております。また、ドナーになった人の意思を尊重した家族は、隣近所から、死者に対する愛情がないとか陰口をたたかれることがあります。

ところで、臓器移植に反対の立場からは、ドナーになった人は変わり者だとか愚か者だとか、ドナーの意思を尊重する家族は愛情が足りないなどと陰口をたたかれたり、マスコミで冷たい論調で報道されたりするほうがいいのでしょうか?


>khさん、匿名さん、てるてるさん 投稿者:らら 投稿日:02月23日(水)11時59分49秒

「死生観」と言った場合、そこに含まれるいわゆる霊魂論のような宗教性をおびたものと、家族論のような社会性をおびたものと一緒になっていると思うので、khさんのおっしゃるように「“死生観について”人類普遍の共通項が存在する」という話しは自明ではないですよね。国、地域によって宗教性、家族性は違います。そのとおりだと思います。しかし、「日本人の伝統」という言葉に含まれている「霊魂論」の見方から、臓器移植に反対する側の人たちがいる、という問題に対して異議を放つために、あえて「共通項」に注目しようと思ったのです。

『脳死の人』で森岡さんが提起されているのは「関わり」に関することです。それは「無痛文明論」における「中心軸」の概念にも共通していると思います。私自身は、日本人は無意識にもこの「関わり」を「死生観」の根底に置いて生き延びてきたと思っていますし、それは日本人のアイデンティティーに関わる問題だと思っています。そしてさらには、このことこそ「人類普遍の共通項」にも匹敵する観点でもあると思うのです。もしも「関わり」という感覚が人類の中から消えてしまったら、khさんが予想されておられるような社会はすぐに来ると思いますし、「価値のある」という感覚だけで、物事がすすんでいくような仕組みは簡単に構築されるのではないでしょうか。「良さ」という価値観が勝利する社会がやってくるでしょう。すべてにおいて・・・。私は、「ほんとうにそれでいいのか?」と最後までそこにこだわった生き方をしていきたいし、そうするつもりです。


移植医療 khさんへ 投稿者:匿名  投稿日:02月23日(水)09時43分39秒

たまたま,角膜移植医の書かれたものと,「検証 脳死・臓器移植〜透明な医療をどう確保するか〜」と論座にある子供の意志表示についてを同時に読みました。

社会という場に生きていることで,我々の判断は揺らぎます。感情的に観ていけばうなづけることはかなりあります。移植に限らず,いわゆる病気が治せるようになったのは,過去の人体実験も全面では否定できない。そして移植の技術も,たくさんの経験を積んだ医師でないと成功率は高くはないはず。そこでコレを善い犠牲と考えていくことがわれわれ庶民が移植医療を肯定するという判断にいたる理由なのかな,と思いました。

khさんの書かれていることに私も似たような感情を抱きました。たぶん同じかもしれません。そう,社会生活の中でしか生きていけないほとんどの人間。人とのつながりを見失ったら,殆どの人間は生きていけないと思います。だから,自分の生きている社会の波,意識には大きな影響を受けるのが当然です。移植医療に関する意識も見えない社会に作り出されてしまいがちなのが,われわれ庶民なんです。移植医療を肯定しない現象が社会にでたら,この話は終わるはずです。でも,推進していくことの必要な理由がきっと庶民には理解できないものとして存在するのでしょうか。

角膜移植のことが知られたころは,私は小学生の頃のような気がします。その時は移植のことについて今のように真剣には考えなかったし,大人の意見から角膜は提供した方が善いことと信じていた時期でした。
発達段階は平均的なものがあるにせよ,十人十色であることを思うと,子供の判断は,子供のその時の社会状況と大人の影響がかなり強く,ドナーとして視るには賛成はしたくないですネ,いまのところ。そしたら,献血もそうかあ,と悩んでます。あと,検証は一言では言えないので,ここでは省きます。

このサイトの森岡さんのエッセイ等の掲載されているところの毎日新聞の記事を読むと「転徹」のことがわかりやすく書いてありました。このことに賛成とか反対とかそう言うことではないのですが,社会の変容への挑戦のようなものを感じています。


家族への愛 投稿者:kh  投稿日:02月23日(水)07時40分38秒

>てるてる様,みなさま

死後の献体に同意したり,いわゆるドナーになることを家族が嫌がるのは一種の利己主義
ではないか,と書いておられるのは,そこに所有意識を感じるということではないかと推
察します.面白い見方ですが,この見方を突きつめていくと,自分自身の身体をなげうっ
て他人(特定されていない他人)の生命を延命することに対して潔くあることが,原則と
して肯定されることになるのかなと思います.

このことを前提した上での話ですが,臓器の摘出にかかる要件の緩和が臓器提供を理由に
議論され始めているのを見ると,脳死判定を前提とした臓器移植をさかんにしたいという
基本的なスタンスが,医者一般にあると考えます.またこのスタンスに基づく臓器移植に
関して行き過ぎが生じた場合,被害の補償が司法によりなされる余地が制度上は存在しま
すが,臓器移植法成立以降の裁判の動向を考えると,こと行き過ぎた臓器移植(臓器提供)について,司法がこれにチェックをかける判断を示す可能性は,実際のところは,ほとんど存在しないのではないかと考えています(注:単なる独断です).

ということは,脳死段階を迎えたら,臓器の摘出に同意するのが当たり前という考えが出
てくる可能性があります.司法の判断うんぬんはさておき,現時点においてもすでに,マ
スメディアなどには,臓器の提供に応じたいわゆるドナーの「善意」を,ほめたたえる論
調がしばしば見られます.

つまり,臓器をいさぎよく差し出すことを,自由意思によって自発的に同意するのではな
く,世の中の雰囲気によっていやいや,ないしは何となく変だぞと思いながら「同意」し,よって臓器を摘出される人が出てくる可能性があるのではないかと,私は考えます.

こうした変化が生じるとする場合,その何よりのとば口となるのは,「臓器をいさぎよく
差し出す人はエライ」という評価だろうと思います.そこで質問なのですが,自分自身の
臓器や死体に執着するのはみっともないと考える考え方は個人の考えとしてあり得るし,
また真っ向から否定することもなかなか難しいのですが,この考え方を賞賛し,逆に臓器
や死体に執着する考え方を否定的に見る見方が社会全体として力を持つようになった場合,そうした事態を全体としてどう評価しますか?

これを臓器提供の無言の強制とでも呼ぶことにすると,無言の強制が行き渡った社会とい
うのは(それは臓器がまさしくパンや弁当と同じように商品として流通する社会かもしれ
ませんが),ますます無痛化の進んだ社会になるのではないでしょうか.


日本人の伝統 投稿者:てるてる  投稿日:02月22日(火)18時00分22秒

> 「日本人の伝統がこうだから」という議論でなく科学に向き合うために、
> 「人類普遍の共通項がこうだから」という議論を必要としていると思うのです。

私もそう思います。
私の母親は、私がドナーになることに反対していますが、ドナーカードができる前は、死後の献体にも反対していたのです。その頃、日本では欧米に比べて死後の献体の登録をする人が少ないのは、やはり、日本人の伝統のせいだと言われていました。

私には、家族の死後の献体を嫌がるのも、ドナーになることを嫌がるのも、家族への愛という形をとった、一種の利己主義のように思えます。

一方で、移植医療が盛んになると、一種のカニバリズムのようになるのではないか?という不安や危惧もあります。現に今、臓器売買もあるのですから。
それに、死に逝く人とのわかれのときをゆっくりとおくりたいという想いや、もしも命が返ってくるのではという希望を最後まで捨てたくないという願いも、たいせつにしたい。

ただ、臓器売買という一方の利己主義に対して、家族の愛という、もう一方の利己主義を持ってきて、あまつさえそれに日本人の伝統などという国粋主義的な(?)修飾を施すのは、よろしくないのではないかと思います。


移植医療 投稿者:匿名  投稿日:02月21日(月)09時04分59秒

森岡先生,英語のページに遊びに行きました。??????ですが,これから勉強です。

ところで,今朝,移植医療の最新科学 BLUE BACKS (とりあえずこのくらいまで)を列車の中で読みました。私にわかりやすくて,恐さもいっぱい湧いてきました。なんか中途半端な人間の私は,呆然とするだけでした。情けない。


khさん、森岡さん 投稿者:らら  投稿日:02月19日(土)02時51分19秒

>「欧米では・・・」

わたしが話しを聞いた方はすぐに「ドイツでは・・・」と言われましたね。
もう反射的にです。運動神経いいですよね(^^)。
どうしていつもそうなのか?って問うってことですか。なるほど。わたしは運動神経よくそこにジャンプすること自体に問題があるわけじゃないように思います。
目の前の問題をそれに「すりかえている」ことが問題だと…。
そういう意味ではこの「すりかえ」も目隠し構造の現われの一つなのかもしれません。

「日本人の伝統がこうだから」という議論でなく科学に向き合うために、「人類普遍の共通項がこうだから」という議論を必要としていると思うのです。
それで、森岡さんの『脳死の人』のテーマをきっかけにできるかな…と考え始めました。人と人との「関わり」に関する議論です。そこが論点となるべきかと。

いずれにしろわたしの周りの方々は「大賛成!」か、「うーむ慎重に考えよう」のどちらかで、「大反対!」って人はいませんでした(ーー;)。

ちなみにもちろんわたしは森岡支持者の一人なので、まずは『脳死の人』を読みましょうネ!とまわりに方々を説得し、どこに論点があるのかを知ってもらうところから一歩はじめようと思っています。


RE: あれから・・・ 投稿者:kh  投稿日:02月17日(木)04時09分29秒

>らら様

「日本人はこうなんだ」では通用しないと私も思いますが,これをひっくり返してどうしていつも「欧米では…」なのか?と問うと,がぜん説得力ある議論になると思います.


臓器提供は善意なのか 投稿者:kh  投稿日:02月17日(木)03時35分45秒

掲示板の議論,いつも楽しみに拝見しています.

臓器移植(脳死の概念に依拠した)について,私自身も思うところはあるのですが,具体的に何か書こうすると話がややこしくなる気配がして,手を出しかねています.

ズバリのタイミングできっちり意見表明をされる森岡先生はさすがだと思いますが,問題そのものについては,もやもや感を払拭できないイヤな感じを持っています.

>匿名さん
治療できるかもしれない人の治療が途中で放棄されてしまうという危惧は,私も持って
います.またこのことが,とりわけ救急医療のあり方を変質させてしまうのではないか
という指摘も,同感です.

>しんぺいさん
善意の臓器提供という論調は,マスメディアでも頻繁に見たように記憶します.ただよくよく考えてみると,たとえば救急病院にかつぎこまれた時に,自分自身の治療はいわゆる脳死の段階までであきらめて,その先については私の臓器をご自由にお使いくださいと宣言するというのは,ただの善意というだけで果たして説明しきれる行動なのだろうか,と思います.いちおうは公平だろうと踏んでいる制度のおぜんだてが間に入っているから,単に善意とだけ言われてもそう違和感を感じないのかもしれませんが,おぜん立てを取っ払って考えた時に,個人にとって死活的に重要な私有財産としての臓器が,人と人の間で取引されているという見方が成り立つ余地は,厳然としてあるだろうと思うのです.なので,臓器がただ当たり前にあるということの重要さに対する注意を十分に喚起しないまま,提供者の善意だけを強調する議論を見ていると,なんか違うんじゃないかという気がします.
あと池田晶子さんが季刊仏教に書かれていた,臓器提供者が自分で提供相手を選べないのは不合理ではないのかという趣旨の議論は,その具体的な実施方法はともかく,臓器取引の形態の一つに個人から個人の間の贈与があってもいいという意味では賛成です.


あれから・・・ 投稿者:らら  投稿日:02月17日(木)01時48分47秒

「本人がたとえ意志表示をしていたとしても、周りが許さなかったら、できないんですヨ!他国ではたくさんの移植が行われている。日本ではどうですか?たったの・・・」。

あれから周りの人にちょこちょこ聞いてみたところ、こんな感じの言い分が、どうやら強いですね。
完全に、臓器移植の何が悪い?って言い方ですよね。そういう議論じゃないのに。

「いのち」は科学でも伝統でも育まれると思いますが、どうやら伝統ではこの議論、負けそうな気がしてきました。いわゆる「日本人はこうなんだ」ってやつでは説得力ないです。

だから森岡さんが「家族」のラインで防御って言っておられましたが、そういう次元で話しができる冷静な人たちがどれだけいるか?という気がします。「改正案」について是か否か、という議論をする前に、もっとなにか、対話をおこさねばなりませんね。


読みましたよ! 投稿者:しんぺい  投稿日:02月17日(木)00時21分34秒

「論座」。>子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示を

まったくですね。
親の同意とあるけれど、子供はあくまで子供自身のものです。
当然、彼の臓器も彼自身のものでなくてはならない。
ぼくたちは、臓器移植という制度がドナーの「温かい善意」によるものだという基本原則に、常に、そして明瞭に認識しなければならない。その趣旨を理解していない行為(たとえば借金などの問題で臓器を「やむを得ず」提供するなど)は犯罪として、きわめて重い犯罪とするべきです。つまり、社会の諸法を早急に変えていかなければ、いくらでも臓器移植の流れにつけこんだ悪魔の手先が跳梁跋扈してしまう、という危険性を、国ははっきりと知っていなければならない。ドナーとなるこどもたちもですが。

まとまりないけど、感想です。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~mokkun


「子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を」(『論座』2000年3・4月合併号)