森岡正博さんの「脳死・臓器移植」専用掲示板過去ログハウス 2000年02月03日〜02月09日

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てるてるさん 投稿者:らら  投稿日:02月09日(水)23時50分53秒

てるてるさんがここまで話してくださったことを、どのように受けとめたらよいのか。
すみません、言い過ぎました私。お話しくださったことを聞きながら、そういえば、と
思ったことがあります。

てるてるさんは一人っ子ですか。わたしは一人っ子です。両親とは遠く離れて暮らしています。けっして仲がいいとは言えませんが私たちは血のつながった家族です。

ところで私は今ここで独身でありながら、一人暮しではありません。じゃあ、今私にとって家族とは誰か?と言われたら、即座に、「離れて暮らしている家族と一緒に暮らしている人」と答えるでしょう。
一緒に暮らしている人は法的には家族ではありません。でも私自身にとってはどちらもかけがえのない家族なのです。

もしも両親が亡くなったら、私はこの世界でたった一人の「らら家」になります。おじさんやおばさんには子どもはいません。おじさんやおばさんは亡くなりました。祖父母ももちろんとっくの昔に亡くなりました。

そうすると一緒に暮らしている人だけが私が「らら」であることを証明してくれる。しかし一緒に暮らしている人が先に死んでしまうかもしれない。そうすると一人。その時私は脳死となり、ドナーカードを持っていて意志を表明していたとする。さあ、どうか?私は次のように考えました。脳死になってしまった私にはもはや「過去に表明し書き残した意思」と、「臓器移植を執行する他人」へと自分の身体をゆだねるしか方法がない。

ここで私は「自分の意思を最優先させるべきだ」という考えに不充分さを感じます。脳死の状態にあって自分の身体は自分の思うようにはいかない、その時点から、自分の身体を掌握することができるのは自分ではなく他人なんだ、と思うのです。つまりそう考えるとこれは死を受容するプロセスと何ら変わりないではないか、と。だからゆだねられた他人は脳死の人の臓器を「いったいどうするのか」ということを真剣に考えてほしい、と思うわけです。そう、わかった。臓器移植のことについて私は議論を引き伸ばしたいんですね。「本人の意思を最優先する」という自動的装置に異議を唱えているんですね。すると「家族の同意」といった時の「家族」にあたる部分が変わってきます。森岡さんのドナーカードへの記入もいいですが、単純に「関係者」でもいいかな、と。


てるてるさん 投稿者:森岡正博  投稿日:02月09日(水)17時25分00秒

てるてるさんのおっしゃりたいことは、私は、理解できます。ほんとですよ。

こういう提案があったらどうですか? ドナーカードの裏に、「この人のことは私は家族と認めません」と記入する欄があるとしたら。その欄があることを条件にして、家族の承諾を必要条件とするということなら、どうですか?


家族の意思 投稿者:てるてる  投稿日:02月09日(水)13時41分04秒

>自分の身体(臓器とは何かという問題を含め)が、自分の意思のみに、その決定権
>が置かれることには、臓器移植の問題のみならず様々な議論があるはずです。
>近代確立されてきた「個」の尊厳では処理できないような課題を、私たちは抱えて
>しまっている、と思うのです。

おっしゃる通りだと思います。にもかかわらず、私は、個人の意思に頼らざるを得ないと思いますし、
そうすべきだと思います。実際に、家族の同意を移植の条件にできるのかどうか、疑問に思います。
私は、先に移植についての考えを示しましたが、それでもまだ最終的に臓器を提供するとも、しない
とも、どちらともまだ決定していないのです。どちらに決定しても、もし本当に脳死状態になったときに、家族の意思によって、その決定を曲げられたら、それを悲しく、残念に思います。

家族と言っても、別居している、年老いた母親と、ぼけてきた祖母と、こどものときに別れて、今どこに住んでいるのか、生きているのか死んでいるのかわからない父親だけです。
母親は、移植に反対していること、これは、はっきりしております。しかし、私にとって、今、さしせまってだいじなことは、日々の母親や祖母との交流を大切にすることです。

ところで、考えたくないことですが、母親が死んだ後で、私がまだ移植できるような臓器を持っている年齢で、事故か何かで脳死状態になったとしましょう。そのとき、どんな偶然で、私の側に、父親がいるかもわかりません。(母親より年下ですし)この父親は、私が小学生のときにいなくなったのですが、その後、私は喘息の発作が起こらなくなり、幸福になりました。しかし、成人後、一度、どうして両親の仲がうまくいかなかったのか知りたいと思い、当時の居場所をさがしだし、手紙を出して、会ったことがあります。そのとき、心温まる会話はできませんでした。もし、この父親が、何かの偶然で脳死状態になった私のそばにいたとしましょう。父親であることを証明できるものを持って。

そうすると、その場で、家族といえるのは、この父親だけです。この父親が、臓器を提供するにしろ、しないにしろ、私の決定に反する意思を表明し、その結果、私の望んだ通りのことが行われなかったら、とても残念です。そもそもその法律上血縁上の父親である人に、そんなことをする権利があるのだろうか、と思います。人によっては、どんな哲学か人生観かわかりませんが、権利があるという意見もあるでしょう。しかし、私にとっては、余計なおせわです。

あるいは、30代の人がドナーカードに臓器提供の意思表示をしていて、その人の家族は、幼いこどもだけ、という場合もあるでしょう。そのこどもに、親の判断に賛成か反対かたずね、それによって、決定するのでしょうか?

もちろん、臓器の移植にはさまざまな問題があります。移植は常に情報公開され、評価され、批判されるべきだと思います。医療全般にそうだと思いますが。

個人というものが頼りにならないからといって、その個人の意思決定と家族の意思とが一致したときだけ、実行しようというのは、慎重なように見えて、実は、安易です。家族とは、だれなのでしょうか? 本人とどんなかかわりをしているのでしょうか? どこまで本人を理解し、共感し、反発し、誤解していたのか。どんな深い関わりがあるのか。どんな浅い関わりしかなかったのか。そして移植について、どれだけ知り、考え、悩んだのか。

独りで暮らしている人間は、アパートを借りるのにも、病気で手術を受けるのにも、保証人を要求されたときに、困ることがあるのです。特に、手術などの場合、血縁者しか認めない場合もあって、困ることがあるのです。家族の同意を移植の条件にするのは、まるで家族を保証人のように使う気がして、反対です。


てるてるさん 投稿者:らら  投稿日:02月09日(水)10時43分18秒

あくまでも脳死の人自身の「意思」が尊重されねばならない・・・というお考えですか。
私が「いのちは自分一人のものじゃないと思っている」と言ったのは、この「意思」に関する問題なのです。臓器が他の人に移植され、そこで生き続けること・・・それは確かにいのちの連続性を示しているでしょう。しかしそれが実際に執行される決定的な理由が「本人の意思」のみに置かれることには反対です。私の臓器は果たして私の意思でどのようにでもできるものなのか。もしも法的な線引きが「本人の意思」に基づいてひかれるのであれば、その兆候が始まってしまえば、これから先、人類がさまざまな生命についての発見をしてゆくにつれ、てるてるさんのおっしゃる物語的な詩的な命の連続性がいかようにも展開していくでしょう、という気がします。物語的、詩的・・・と感じておられる雰囲気を、私はグノーシス的だと思いました。私が感じるのはその裏側、つまり、物語的、詩的というベールをかぶった裏側には臓器が物的に用いられ、人間のいのちが切り売りされていく様子です。人間の「意思」でさえ、もうすぐ解明される時代が来るでしょう。自分の身体(臓器とは何かという問題を含め)が、自分の意思のみに、その決定権が置かれることには、臓器移植の問題のみならず様々な議論があるはずです。近代確立されてきた「個」の尊厳では処理できないような課題を、私たちは抱えてしまっている、と思うのです。

遺言について 投稿者:てるてる  投稿日:02月09日(水)00時45分56秒

まったくおばかなおおまちがいをしたかもしれません。つまり、遺言の内容を生前に一部でも本人が公開することは、違法ではないでしょうが、遺言とは普通は死後に公開されるものですから、かぁのろまあひるすさまのおっしゃるように、まにあわないですね。
すみませんでした。

家族との話し合い 投稿者:てるてる  投稿日:02月09日(水)00時41分02秒

>かぁあのろまあひるすさま
>意思表示をするのであれば、親密な関係にある人と、どこまで、どんな覚悟が
>できているのか、きちんと話し合いを持っていて欲しいと思うのです。 

その御意見には賛成です。また、ドナーカードに、家族が同意しているかどうかということを表示することも必要でしょう。ただ、家族の同意を移植の条件にするのはよくないと思うのです。

同意している家族でも、いざ移植となると、つらい思いをすることがあると思います。ましてや、提供に反対している場合は、もっとつらいでしょう。どちらにしても、家族のためのケアは必要だと思います。
そして、それは、脳死の場合だけでなく、どんな病気やけがで亡くなる人の場合でも、必要なものでは
ないでしょうか。

遺言の存在は家族に知らされていなければならないと思いますが、その内容に家族の同意は必要ないと思います。

>ららさま
>いのちは自分一人のものじゃない…と思っています

それについては、いろいろな考え方があると思います。
私は、何もひとつの考えを確立しているわけではなく、常に揺れ動いているのですが、今の時点で考えていることを書いてみようと思います。

私は、もし、自分が脳死状態になったとき、家族が自分の代わりに息をしてくれるわけではない、というように考えています。そして、もし私が臓器をだれかに提供したら、ある意味で、その人が、私のぶんまで、息をしてくれるのだ、と、一種の物語的な、あるいは詩的なとらえかたで、考えます。それを命の連続性として受け入れる気持ちが、あります。

私は家族によって生かされていますが、同時に、多くの人のいろいろな力で、生かされていると思います。私もまた、何がしかのものをさしだして、命の連続性につながりたい、と思います。

今の時点では、以上のように考えています。


「遺言」ではまにあわないのでは? 投稿者:かぁのろまあひるす 投稿日:02月09日(水)00時00分02秒

てるてるさま

ばらばらしたレスでごめんなさい。
繰り返しますけれど、私は、てるてるさんの言う、「本人の意思を優先する」こと自体には賛成です。ただ、圧倒的な情報不足のままの、安易なドナーカード所持には反対なのです。

>もし、ドナーカードではなく、遺言で、自分が脳死状態になったら臓器を提供するように、
>と指定したら、どうでしょうか。遺言にはドナーカードよりも強い法的効力があると思います。
という書きこみについて、移植を前提にした脳死判定ならば、「遺言」は家族が知っていないと間に合わないのではないでしょうか。法的効果のある「遺言書」の内容とその場所を家族がちゃんと判っていないと、新鮮な臓器を提供するための処置を始めるために、一刻を争う事態には対応できないと思います。それだけ、きちんと把握している家族ならば、家族の意図はどうあれ、本人との話し合いは十分になされているとは思いますけど・・つまり、感情的には嫌だが本人の意思を尊重したい、という意味での合意はとれそうですよね。家族が断固として拒否している状態で、法的効果のある「遺言」を見るという事態はちょっと想像しにくいです。

脳死状態で数週間「生かして」その上で、「遺言」を確認して移植に移る、という手続きは可能なのかな?前に見たテレビで、「判定」が確定した時点から、「脳死の遺体」には臓器の鮮度を保つための処置をしていました。ただ、「生かしておく」のでは、臓器が劣化するではなかったでしょうか。


てるてるさん 投稿者:らら  投稿日:02月08日(火)23時37分33秒

てるてるさんの意見を聞いていて感じたことを書きます。

いのちはやはり自分のものだ…という生命観を持っておられるのかな、と。「全員一致」の議論のなかで、本人と周りの人たちの中で一つでも「否」と言う因子があるなら、それは無理でしょ?という話しとてるてるさんの意見がどうもかみ合っていないような印象を受けました。それはもしかして、いのちは誰のものなのか、果たして自分だけのものなのか?といった議論にも発展しかねない私たち日本人がこれから真剣に考えていかねばならない私たちの関係性の根本にかかわる問題を含んでいるのではないかと。私自身は、いのちは自分一人のものじゃない…と思っていますから、家族がつらい思いをして臓器移植に反対するなら本人が意志を表示していてもできないという森岡さんやToshikiさんの考えに賛成です。
てるてるさんの言われるように日本文化の特性の中に、家族間依存の様相があるとするなら、私は逆に「いい意味での依存」が希薄になってきているから、てるてるさんの提示されたような問題が起こってきているように思います。自分のいのちは自分で決められないという家族の結びつきの中で自分のいのちは生きるもののはずであるし、あるいは死ぬもののはずであるように思うのです。家族と言わずとも他人でもかまいませんが。


「死ぬ」まで生きているということ 投稿者:かぁのろまあひるす 投稿日:02月08日(火)23時04分24秒

てるてるさま

個人が個人として意思決定していくことの重要性は、私も同感です。ただ、いわゆる「日本の文化特性云々」ではなく、「死」を前にしたときの家族相互の関係をあらかじめ考え、話し合っておく必要性を強く感じています。そして、「日本の文化特性」なるものは、その「話し合い」を拒むものであるような気がします。暗黙の了解でわかりあいたい(暗黙の了解で分かり合える、なんていうのは、大抵が大いなる誤解が多いというのが私の考えですが)と、なんとかその「話し合い」をしないで済ませようとしているのではないでしょうか。
「臨終」はどこかの時点で区切ることになるわけですが、「死」そのものはかなり時間のかかるプロセスですよね。単に、肉体が死んでいくプロセスだけでなく、家族にかぎらず、看取る者と看取られる者との間で、「死」を受容していくプロセスでもあります。臓器移植にからむ脳死判定は、その時間を限定せざるをえない、非常に厳しい事態です。
特に、ドナーとしては、長期慢性の疾患で亡くなった方よりも、突然の事故等による健康な「死体」が望まれてしまうわけですよね。残された家族(あるいは親しい人)にとっては、非常に過酷なシチュエーションでの決断を迫られるわけです。
ドナーカードを持つということ、ドナーになる意思を表示することは、あまり安易に決定して欲しくないと思います。もちろん、提供したいという人の自己決定をないがしろにするつもりは毛頭ありませんが、意思表示をするのであれば、親密な関係にある人と、どこまで、どんな覚悟ができているのか、きちんと話し合いを持っていて欲しいと思うのです。 


日本の文化の特性 投稿者:てるてる  投稿日:02月08日(火)18時31分07秒

>日本の場合これをそのまま適用するのは文化的に無理があるかもしれません。
>やはり本人の生前の意志表示は絶対必要、肉親の同意がない場合、臓器摘出は
>現時点ではすべきではないと思います。
>これらがすべて満たされた、かなり稀なラッキーなケースのみ脳死移植が行わ
>れるべきというのが正論だと思います。

私はその日本の文化の特性にのっかるのがいやなのです。脳死のときの臓器提供だけでない、進学でも就職でも結婚でも、親の意向に影響を受ける人が多い。家族との関係に問題をかかえた人が、自分の人生を返せ、と親にいうことが多いでしょう? 登校拒否症、家庭内暴力、ひきこもり、自傷…いろいろな心の問題で、親と子とが無意識に依存しあいすぎているために起こる問題がたくさんあるでしょう。結婚してからも夫や妻よりも親との無意識な結びつきの強さにふりまわされて、夫または妻とうまくいかなかったり、子供に影響が出たりする例があるでしょう?

そんな問題は日本では山ほどあるのではないでしょうか? 日本人が西洋人のように個人主義を確立する必要はない、とも言われていますが、もっと個人を尊重すべきだと思います。個人を尊重することが家族を破壊することだと考えて、夫婦別姓や個人籍に反対する人々がたくさんいるんです。日本の文化の特徴とされる、無意識的な家族の依存しあいにもたれかかって、脳死による臓器提供へのストップにしようというのが、ものすごくいやです。

日本の軍国主義も日本の家族間の依存しあいにずいぶんもたれかかっていたのではないでしょうか。戦前の教育勅語は、個人を抑圧する家の力を利用していたのではないでしょうか。戦前の刑務所での政治犯のいわゆる「転向」は、多くの場合、家族のことをもちだして行われたのではないでしょうか。
日の丸・君が代・天皇陛下への忠誠心を広めるのにも、学校教育が利用されたのはもちろんですが、家族・家の力が利用されたのではないでしょうか。

戦後、核家族化と高度経済成長と「専業主婦」というものが一体となって日本を作ってきたと思いますが、そこでも、家族間の無意識的な依存が利用されたのではないでしょうか。無意識的だから、意識
して家族の関係を築く努力をせずに、家のことは専業主婦の母親にまかせっきり、ということができたのではないでしょうか。

先に挙げた登校拒否そのものは、必ずしもマイナスではないし、学校教育に問題があることも多い
のですが、学校教育の問題は実は家族間の無意識的な結びつきと相携えあっているのではないで
しょうか。
家庭でも学校でも職場でも、ものごとを根本的なところから話し合う、ということをしない習慣ができて
いるのでは。日本の医学教育で倫理的な問題がなおざりにされていることも、そういう下地があるからではないでしょうか。日本の医学教育の不備を批判するなら、日本の家族間の無意識的な依存関係にもたれかかることを利用して、ドナーカードの普及に反対してはならないと思います。

運転免許証の裏にドナーカードがあるのは、合理的だと思います。ずっと前にこちらの掲示板に、運転免許をとるか、免許をとって車を買ったら、脳死したときには臓器提供を義務づけることにしてもいい
くらいじゃないか、と投稿したことがあります。さすがに提供を義務づけるのは無理でしょう。
でもせめてドナーカードを持つことを義務づけるくらいはいいと思います。

自分が運転を失敗して、人を脳死状態に追い込むかもしれない可能性を持ったのだから。
自分が脳死したらどうするか、ということを考えればいいのです。意思表示をしないことを選んでもいいでしょう。提供しない、でもいいのです。もちろん提供する、でもいい。
自覚して運転すればいいのです。


(無題) 投稿者:toshiki  投稿日:02月08日(火)15時54分37秒

日本では医療倫理についてはっきりとした手本(マニュアル)がありません。実際、医学教育のなかに下記のような問題は全く含まれていません。一方米国では、これに関する問題はかなり整理されていて医師国家試験でも常に問われます。
まず、問題となりやすい状況は、末期状態での延命治療や脳死による臓器提供なで、本人が生前はっきりと意志表示をしている場合(advance directive)、あくまでこれが優先されます(respect for patient autonomy)。これは肉親の意見よりも優先されます。ただ、家族の心情をあからさまに否定することになる場合、訴訟となるるケースも多いと思われますが、法的にも本人の意志が優先されるようです。
日本の場合これをそのまま適用するのは文化的に無理があるかもしれません。やはり本人の生前の意志表示は絶対必要、肉親の同意がない場合、臓器摘出は現時点ではすべきではないと思います。これらがすべて満たされた、かなり稀なラッキーなケースのみ脳死移植が行われるべきというのが正論だと思います。
米国では、自動車事故によってドナーとなることが最も多く、ご存知のようにすべての運転免許証のうらにドナーカードと同じ形式のものが印刷されていると思います。本人のサイン、第一証人、第二証人、弁護士の住所氏名を明記するようになっていて免許発行時に提供の意志の有無を質問されますが、これに書き込むことは義務ではありません。カードは義務ではないですが、普及率は高いと思います。

続・野原にて 投稿者:たんぽぽ(le pissenlit) 投稿日:02月08日(火)15時15分38秒

なおみさんのおしゃる「満足する人の多い方即ち多数意見の方に流されちゃいたい気持ちもすてきれないぞ」はある意味で誰でも感じる正直な心の動きでおかしかったです。私は森岡先生の意見にそろそる傾いています。法の行使となると確かにパワー。「幸運にも全員納得だったケースに限って」というところで、一番破壊力を使わない生き方を選択することになるかな。
てるてるさんの「関係者」の定義について、これまた難題?決定条件に関わる人でしょうね・・・?

「全員納得」とは? 投稿者:てるてる  投稿日:02月08日(火)13時56分40秒

関係者全員が納得するとは、どこからどこまでが関係者なのかわかりません。脳死したときに臓器を提供したくないという人の意思が、たとえ家族が提供したいと言っても、本人の意思だからという理由で最優先されるのならば、臓器を提供したいという人の意思も、たとえ家族が提供したくないと言っても、本人の意見だからという理由で最優先されるべきです。そうでないと、臓器を提供したいという人が差別されていることになると思います。

なるほど 投稿者:なおみ  投稿日:02月08日(火)12時24分33秒

皆様のご意見のおかげで、少しずつ、もやもやとしていたものが、晴れてきたような・・・。もう少し、自分なりに思考を掘り下げていけば、すっきりと納得のいく結論に到着できそうな気がしてきました。よかった、よかった。

「関係者全員が納得」という点に関しては、下記の森岡さんの説明でよく分かりました。その上で、森岡さんの意見に賛成する方に気持ちが傾いております。でも、森岡さんのように堅固な線引きをするより、「満足する人が多い方」すなわち「多数意見」の方に流されちゃいたい気持ちも捨てきれないぞ。


追伸 投稿者:森岡正博  投稿日:02月08日(火)03時17分21秒

誤解なきように・・・。下で言った「全員納得」というのは、全員になっとくさせよってことではありません。そうではなくて、幸運にも全員納得だったケースにかぎって、脳死移植を法的に認めることにすべきだということです。蛇足ですが・・・。

なおみさん(かなり下になっちゃった) 投稿者:森岡正博 投稿日:02月08日(火)03時11分05秒

まず法律による強制についてですが、たとえば私は国旗国歌法に同意していませんが、法律ができちゃったので、あれは私の国旗とかにかんする事実認識を縛ってきます。私は地方公務員ですしね、微妙ですよ。つまり、法律というのは、それに同意していない人間をも、束縛してくるのです。これは強制だと思います。さらに言えば、その強制は、
「同意しない人はドナーカードに×をすればいいじゃないか」という形で、強制力を発揮してくるのです。つまり、「同意するにせよ、しないにせよ、ドナーカードを使え」
という形の強制をしてきて、「ドナーカードを使わないという選択肢をのこしてほしい」
というやり方を強制的に排除してくるわけです。

第2の点ですが、「本人が関係者にはいっていない」というのは、そうではないと思います。
私の主張は、「移植をするためには、本人をも含めた関係者全員が納得することを前提とせよ」
ということです。だから、関係者の中に本人が入っています。私の意見というのは、「本人が関係者の中にはいっていない」ということではなくて、「本人の意思というものをオールマイティの切り札とは考えていない」ということだと思います。

もっとも、私は、心情的には、本人が決めたことを家族がひっくり返すなんてひどいと思います。しかし、法律の次元では、「全員納得」というところで堅固な線引きをするべきだと考えるわけです。


自然と作為(横レスすみません) 投稿者:てるてる 投稿日:02月07日(月)21時51分31秒

>どこからを作為的とし、どこまでを自然とするかは、個人により、また文化により幅があるでしょう。

これは、重要な点だと思います。
自然を強制されて苦しむ人もいます。

ミルクよりも母乳が自然だ、母乳の出ない母親はだめだ。母乳で育てなかった子供は問題児になる。そういうことをまことしやかに無責任に言う人々によって苦しめられる母親や当の子供がいます。

経膣分娩=自然分娩だが、帝王切開は自然分娩でない、というこだわりに不必要に苦しめられる人もいます。実際は帝王切開で生まれる子供も多い。それによって、出産時のおかあさんや赤ちゃんが死を免れることも多いのに。

たしかに、私も、医療の進歩に、不自然さを感じ、拒絶したくなるものもたくさんあります。たとえば私は、不妊治療はすべて不自然で、子供を育てたければ養子をもらうべきだ、と考えています。しかし、他の人は、不妊治療が自然か不自然かというような議論は、ナンセンスだと思うかもしれません。

個人の意思を家族が無視しても、そのほうが自然な状態になるのなら、強制ではない、という考え方は、私は受け入れられません。
むかしは、女が家事をすることが自然で、新聞記者やパイロットになることは不自然だったのです。その時代の人なら、女に、新聞記者やパイロットになるための教育を受ける機会を保障することは女に対する強制だが、女に家事だけをさせることは強制ではない、と言ったのではないでしょうか。

>ドナーカードを義務づけて、普遍化するというのは有効性が高いように思われます。
>ただ、これをやると魔女狩り的というか、本当は提供したくないと思っている人も、
>提供する方にマルをつけざるを得ない状況に追い込まれるような気がしますね。

ドナーカードを義務づけることには反対ですが、義務づけたら提供する方にマルをつけざるを得ない状況に追い込まれるという御意見には、疑問があります。私は、夫婦別姓同姓選択制の法制化を求める運動に参加していますが、そういう運動に対する批判として、選択性を法制化すると、夫婦同姓にする人が差別されるようになる、というものがあります。それは杞憂だと思います。それと同じように、ドナーカードの(義務化には反対ですので)普及ということにしますが、普及が、臓器提供に向けての圧力になる、とは思えません。



強制への感性(なおみ様へ) 投稿者:マン 投稿日:02月07日(月)21時07分32秒

省略過剰気味の横レスについての解釈は、その通りです。さて、
「強制だということが、どうしてもピンときません」
との事ですが、le pissenlit氏も指摘する通り<感性の幅>なのかも知れません。
が、もう一度、最初の議論を整理してみます。
(1)臓器提供を希望したが、実現しなかった。
(2)臓器提供を希望しなかったが、臓器を提供した。
この(1)(2)はいずれも、「Aを希望したが結果はBであった」という論述式に変換できるとして、なおみ様は「同じ事」とされた訳です。これに対し私は、作為的行為と自然状態という観点から、上の二つは同じではないとしました。
(1)は、作為的行為を希望したが、自然状態であった。
(2)は、自然状態を希望したが、作為的行為が為された。
>ここでは、(1)と(2)は質的に異なっており、(2)には「強制」という述語を用いることができる、とした訳です。
ただ、どこからを作為的とし、どこまでを自然とするかは、個人により、また文化により幅があるでしょう。ラディカルに言えば、医療行為はすべて作為的でしょうし、大怪我をした人が殺してくれと叫んでも法律はそれを自然として許しはしません。「臓器移植」でこれだけ(どれだけ?)議論が起こるということは、人によって「臓器移植」に対する感性、認識、理解、文化、に大きな幅=差異があるということなのでしょう。そういう観点で見れば、なおみ様の言われる、ドナーカードを義務づけて、普遍化するというのは有効性が高いように思われす。ただ、これをやると魔女狩り的というか、本当は提供したくないと思っている人も、提供する方にマルをつけざるを得ない状況に追い込まれるような気がしますね。そして、思考をちょっとジャンプさせると、この問題は社会のために個人の自由意思に加えられる制限に対して寛容かどうか、ということのようにも見えます。「強制への感性」から、推察すると私よりなおみ様の方が寛容だ、ということです。さらに、もうちょっとジャンプすると、時代はドンドン
<制限に対して寛容>な方向に=多数派に、なっているようにも見えるのです。
(最後は脱線しました。飛躍し過ぎであれば御免なさい。そして、私はもう時代遅れなのか、とウナダレ気味=嘘嘘嘘。)


葬送の自由と臓器提供の自由 投稿者:てるてる 投稿日:02月07日(月)19時20分33秒

個人が葬送の形式を生前に指定しても、家族が反対して、実現しないことがあります。
私は、それは、家族が故人に対して暴力を振るっているのと同じだと思います。

それと同じように、個人が生前に臓器提供の意思表示をしたのに、家族が反対して提供しなかったら、故人に対して暴力を振るっていると思います。

もし、ドナーカードではなく、遺言で、自分が脳死状態になったら臓器を提供するように、と指定したら、どうでしょうか。遺言にはドナーカードよりも強い法的効力があると思います。

成人したら遺言書をつくる習慣を広めるとか、そのために、学校や家庭で教育をするとか、してもいいと思います。


許して 投稿者:なおみ  投稿日:02月07日(月)18時01分18秒

>小出しって言ったわりには長くなってしまった。
しかも、まだ、「子ども」のところまで話がいってない。

強制 投稿者:なおみ  投稿日:02月07日(月)17時59分12秒

強制だということが、どうしてもピンときません。
森岡さんは運転免許証を例にあげてましたが、免許不携帯への罰則も「強制」だとは思いません。
「運転をするためには免許証が必要だ」というのは強制です。国が押し付けた法律です。
交通安全の為に必要な法律だと思うからこそ強制に従っているのです。
そして、「免許証を取得している」というのは、「免許証不携帯なら罰則を受ける」という交通ルールに同意しているということへの証明だと私は考えます。同意しているのだから、強制とは言えないと思います。
「強制」と言われると、逃げ道のない印象があります。でも、臓器提供を希望しない人には、ドナーカードの「臓器提供しません」の欄に丸を付ける、という非常に簡単な道が用意されているではないですか。この考え方は、てるてるさんの言う「意思表示をしない、という意思表示」と対立するものですね。
私なんかは、ドナーカードの携帯を義務付けちゃえばいいじゃん、って思っちゃいますけど、これは、むちゃですね。ハイ。分かってます。忘れてください。

とにかく、「強制か否か」という部分をクリアできないと森岡さんの論旨が理解できないんです。何か、上手い例とか、分かりやすい説明とか、ありませんか?

本人が臓器提供を希望していて、家族が反対した場合ですが、なんで、そこが「やむなし」になってしまうかも理解できません。論文を読んでいる時にも、引っかかっていたのですが、「関係者全員が納得する場合」の「関係者」に本人が含まれていないですよね。この状況ではどう考えても本人は納得できません。本人は死んでるんだから関係者ではない、というなら、家族の同意のみで移植することにも問題はないはずですから、なんか変ですよね。補足説明していただけると、大変うれしいです。

「家族」についての、てるてるさんのご意見には賛成です。幸い、私は、「私自身の意思より家族の決断を優先してくれていい」と思えるような家族に恵まれていますけど、そうでなかったら悩みは増すばかり。


HPの野原での思いめぐらし 投稿者:タンポポ(le pissenlit)  投稿日:02月07日(月)15時44分07秒

論座の森岡論文を読ませていただきました。法改正を前に議論を積み突然起きる倫理的対応に準備する為のチャレンジ(あえてこだわる)であると理解しました。
早速なおみさんの明確な意見も聞き、さらに森岡先生の解釈も加わりHPの野原で思考が深まることは有り難いことです。その為の良い意味の緊張ある議論は森岡論文の目指すところと思います。大事なことが専門レベルやある一部だけで押し進まれ、あれよあれよとひとりひとりの参加無き決定がなされる危惧が充分にあるからです。法を否定するにも肯定するにも法を支えられる程の煮詰まった議論が前提。同じ意見でないと交われないというような風土では、深い人間の信頼は育たないし、生命に根ざした選びも無いと思います。苦しい戦いとおしゃる森岡先生は、同一性を求め易い風土との戦いなのかな。昔先生が禁煙運動をやって職場で浮いてしまい肺より胃を心配しなくてはならなくなったと冗談まじりの本音をおしゃっているのを読み思わず笑ってしまいました。先生が臓器を必要とすることがないように。なおみさんも小出しによろしく。さて私は脳死になった自分がまわりの人の必要と困惑とどう関わるかなと考えが走り、少なくても意識のあるうちにドナーカードでの有無の表明をすることは、皆さんの意見を聞きながら、まわりの人への思いやりと責任かなと思った次第です。意識を失った身体についてどう向き合うかは、案外育った環境により感性の幅があるでしょうとも。そんな感性の幅を知り合うことも大切なのでしょう。

書き落しです 投稿者:てるてる  投稿日:02月06日(日)23時23分40秒

意思表示がない場合は、臓器提供をしてはいけないと思います。

ドナーカードによる意思表示について 投稿者:てるてる 投稿日:02月06日(日)21時53分24秒

それを義務づけるのはよくないと思います。私は一生迷ったままで決定できません、というのもありだと思います。迷っている人、無関心な人に対して、意思表示がないからといって、脳死したときに臓器提供を強制するのは、よろしくないと思います。意思表示をしない、というのも、一つの意思表示です。

それに、だれもかれもがコンビニエンスストアでドナーカードを手に入れるわけでもない。
いつだって、「ドナーカードってなに? きいたことない」という人はいると思います。
学校教育で教える必要もあると思いますが、それでも、身に着かないで卒業する人もいると思います。別にドナーカードのことを知らなくても生きていけるし、生きていけてもいいんだと思います。


移植 投稿者:てるてる 投稿日:02月06日(日)21時46分31秒

私は、自分が脳死したときに臓器移植されるのは嫌だと言っているのに、移植されてしまうのは、たいへん嫌ですが、それと同じぐらいに、自分が脳死したら臓器移植してほしいと言っているのに、移植してもらえないのも、たいへん嫌です。

なぜ、私の意思が無視されなければならないのでしょうか。
なぜ、家族が私の意思を無視できるのでしょうか。

そもそも、家族とはだれでしょうか。
戸籍で同じ筆頭者のもとに記載されている人々でしょうか。
(戸籍が個人籍に変われば、また、話は別ですが。今のところ、家族法は数年以内に抜本的に改正されそうにはありません。)

同居している人々でしょうか。
血縁関係が証明されている人々でしょうか。

別居している老親でしょうか。
幼いときに別れた肉親でしょうか。
同居している親、妻、夫でしょうか。
法律上は結婚していないけれど、実質的に結婚生活を送っている相手でしょうか。

たとえば、幸か不幸か、同居している妻あるいは夫とは、心が通わず、別居している愛人と魂のふれあいを感じている人にとって、その人の臓器提供について、賛成・反対の意思表示をしてもらってもいいと認めている、または願っているのは、どちらでしょうか。

私は、家族とはどの人々をさすのかについて、無定義・無批判なままに、家族の同意を必要とするのは、よろしくないのではないかと思います。


なおみさん、マンさん 投稿者:森岡正博 投稿日:02月06日(日)19時59分56秒

なおみさんの出された二つの論点は、他の方からも出るであろう論点だと思います。

まず、意思表示をしてない場合に摘出されてしまうというケースは、臓器移植法がそのように改正された場合は、「強制」としてはたらくと思います。もちろん、「合法的」な「強制」です。運転免許証を忘れて運転していたドライバーが罰則を合法的に強制されると同じような意味で、それは強制です。だから、わたしなそのような強制がはたらくような方向への改正を阻止しようと考えています。そもそも「法」というのは「強制装置」なわけですから。

次に、本人が移植したいと言っていても、家族が反対してできないケースについてですが、私は、それはやむなしと考えます。論文でも書きましたが、関係者全員が納得する場合にのみ、移植は行なわれるべきだと考えるからです。移植は、そこまで、敏感な配慮が必要な医療だということだと思います。



マン様 投稿者:なおみ  投稿日:02月06日(日)12時26分12秒

レスありがとうございます。でも、正直言うと意味がよくわかりませんでした。おバカ仕様でもう少し、噛み砕いて説明していただけると大変助かるのですが。解からないなりに考えたんで、勘違い甚だしいかもしれないのですが、その辺は笑って許してもらうってことで言わせて頂きますと、
「(2)拒否したことを強制される」というのが改正案のポイントのように思われます。
これは、ドナーカードを携帯していなくて、でも、実は臓器提供には反対で、それなのに家族の許可によって臓器提供させられちゃった人を指してるのですよね? あってます?(自信ないので、ちょっと気弱) 
この状況を「強制される」と取るかどうかが、分かれ目のような気がするのです。私は強制されているとは、思えないのです。
「臓器提供をしない」と意思表示している人から、臓器を取ったら、それは強制ですよね。でも、意思が明確じゃない場合は「強制」とは言えないのではないですか? 意思表示をするチャンスは平等に与えられているのですから、それを怠っているのに「強制」って言われてもなぁ。

横レス「論座」 投稿者:マン  投稿日:02月05日(土)17時26分18秒

なおみ様
ちょっと反論(なぜ私が)させて頂きます。
(1)希望したことが実現しない、(2)拒否したことを強制される、は同じではなく、意味合いが違うと
考えます。
<拒否を希望し、それが実現しない>という抗弁に対しては、その結果が、作為的行為か自然状態かを区別して適切な用語を用いれば説明がつきます。(長文面倒なため手抜きでご勘弁)
如何でしょうか。

「論座」 投稿者:なおみ  投稿日:02月05日(土)14時14分59秒

ちょうど本屋へ行ったので「論座」さっそく読みました。「子供の意思を尊重するべき」という意見には大賛成ですが、具体的な方法論に関しては、あんまり森岡さんとは意見が合わないみたい。「家族の同意で移植できるようにする」というのも、私は賛成です。真っ向対立?!
意見は山ほど持っているのですが、一度に山ほど書くとひんしゅくかもしれないので小出しにしたいと思います。

まず、現状では、本人がドナーカードによって臓器提供の意思を示していても、家族が拒めば移植は行なわれませんよね? これでは、脳死になった本人の意思が尊重されていない、ということにはなりませんか? 改正案によって、意思が不明な人も家族の承諾で移植可能とした場合、森岡さんがご指摘されたように、当然、本当は臓器提供を望んでいなかった人も含まれてしまうものと思われます。でも、それは、本人の「提供したい」意思が尊重されないことがあるように本人の「提供したくない」意思も尊重されないことがある、というふうには考えられませんか?条件は一緒ですよね? それどころか、前者は書面にて明確な意思表示をしているにもかかわらず拒まれることがあるのですよ? もしドナーカードで「臓器提供をしない」と明確に意思表示をすれば、その意思は100%尊重されるのだという点において、提供を希望しない人の意見の方がより尊重されているとさえ言えます。それならば、いっそ、本人の意思を重視するのではなく、移植手術を必要としている人達の意思を最優先に考えて法改正してもいいと思います。ドナーカードを所持していなかった時点で、「書面にて意思表示をする権利」を放棄してしまっているのだと私は考えます。

子どものことに関しては、またあらためて。


新企画 投稿者:森岡正博 投稿日:02月03日(木)20時03分51秒

日記に書きましたので読んでいただきたいのですが、『意識通信』『自分と向きあう
「知」の方法』の全文入力ボランティアを募集します。

それと、明日発売の『論座』で、臓器移植法改正への反対論を書きました。


「子どもにもドナーカードによるイエス、ノーの意思表示の道を」
(森岡正博、『論座』2000年3・4月合併号)