私が監視地獄に陥れられたのは1998年8月9日、NHK教育の将棋番組を通してのことです。私は盤に駒を並べて対局の検討をしていたところ、解説者の桐山清澄は私が駒を動かした内容を、正確になぞらえ始めたのでした。私にとって将棋の世界、とくに将棋の名人は、幼いころからの憧れでした。将棋の棋士の財産は記憶だと故・升田幸三は著しています。私も、解説者の顔は忘れてしまっても、局面は思い出すことができたのでした。私は、驚愕し、隠しカメラを探しましたが、そのような装置は一切みつかりせんでした。自分の視覚を読み取られていると思いました。それならば、頭の中の言葉などは容易に知られると推測しました。実際、その週以降、同番組や将棋の時間・囲碁の時間などで、思考内容に対する応答が継続的になされていました。私の提案した指し手を、聞き手の人が反復し、「その手は、全く見当違いです」などと、解説がつけられたりしていました。
心理電子工学技術や、マインドコントロールの知識が まったくない者にとって、普段見ているだけのテレビに、 逆に、こちらの考えが伝わってしまうというのは想起し難いこと です。かつて、医学書に精神科の患者さんが、そのような不平をいうことがあると、病気の症例として書いてあるのを読みました。そのような、記述は、当時の私のような、全くの素人をだますには、十分だと思われます。その将棋番組を視聴していたときの驚愕は、きわめて大きなものでした。非日常的な状態に陥れられ、監視に対する恒常的な恐怖や 不安に苦しめ続けられなければなりませんでした。
明示的な読心がその番組で行われたひとつの理由は、 私が他に定期的に見ている番組が他になかったことだと思われます。 もうひとつ考えられる理由は、私の幼少からの憧憬といった ものが、マインドコントロールのために、利用されてしまったということです。私にとって プロ棋士は理想の職業でした。その人たちがおかしな ことをやり始めても、悪い人とは、すぐに、考えにくいところがありました。その年の5月ごろ林葉直子と中原誠の不倫騒ぎを耳にしました。私にとっても、中原名人は神様 のような存在です。ですから、たとえどんな話であっても 中原名人は悪いはずがないと思う。もし、中原名人がいなく なったら、私は子供たちが「ウルトラマンコスモスを返して」と 叫んだのと同じように、「名人を返してくれ」と叫んでいたことでしょう。 幼少からの憧れとは、それほど影響力のあるものです。
メディアによる心理的虐待に使われる言動の種類は いろいろあります。好意的なものもあれば、敵意を持ったもの 猥褻なもの、無意味なものなどがある。そういったものの組み合わせによって、効果的に被害者を恐怖や混乱、絶望といった ものに陥れていくのです。言動の内容よりも、いかに標的者を、邪魔だてできるか。非日常的な不審を持たせられるかが、重要なのです。私にとって将棋の棋士は、最も利用しがいのある人たちだったのでしょう。考えてみれば、将棋界の収入は ほとんど新聞社などのマスコミからの協賛によっています。 将棋や囲碁の棋士がマスコミの、道具にされてもおかしくはあり ません。将棋の棋士の人たちには、おかしな副業に手を出さなくても、生計をたてられるように、くれぐれも努力していただきたいと願います。
なお、将棋関係者の関与は遅くとも96年のドラマの「ふたりっ子」 が放映された時点ではすでに始まっていたはずです。ドラマに出ていた、登場人物が、当時の私の境遇と、不自然な過多の一致があり、恐怖感を持たされたことがありました。札幌将棋 センターに行った際見知らぬ人から、暴言を加えられるなど したこともあります。将棋倶楽部24というインターネットの サイトにも、マインドレイプの関係者が出入りしているようです。 私が自分の名前をもじってつけたハンドル名について、しつこく問いたざしてきた、おかしな対局相手がいました。その直後、不思議な ことに、道場の入場者表示の上に本名を聞くなどの嫌がらせは やめてくださいというコメントが現れました。無料サイトだけに、注意が必要です。
NHKの将棋対局番組で読心内容に対する応答などを行った 棋士はかなり多いです。将棋に限ったことではありませんが、 かなり高名な人が言動に携わっています。私のリンクした英語サイト 出掛かれている言葉を借りれば、高い地位を与えられた人は、地位への偏執のために、道徳的なことをないがしろにして、こう いった犯罪行為に加担してしまう。また、能力が優れた人よりも、いかれ狂った人々が、メディアマフィアによって優遇されているという説もあります。
将棋番組は木曜日の録画だと聞いていたので、しばらくの間番組中で 読心が行われていることに確信が持てませんでした。そのあいだに、マスメディアの被害は、どんどん広がってしまいました。録画番組を通して双方通話を、行う技術は確立しているようです。 私がそのことを考えて、「光りよりも速く」というアメリカの物理学者本を読んでいたら、北大数学科に出入りしていた内通者に馬鹿にされてしまったことがあります。彼らにとって物理学書ほど、退屈なものはないなのかもしれません。思い起こせば、京都大学で不審な言動 を行った教授たちの中に、に非常に高名な素粒子物理学者が含まれていたことは、 私にとっていまだに辛い記憶です。
特定の世界への憧れなどを持っている人は、それを餌、もしくは、 意気をくじくための手段として用いられることが多いようです。くれ ぐれも注意してください。
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