『闇夜の灯火(やみよのともしび)』

 

すすきの揺れる高原を、澄んだ笛の音が近づいてくる。
力強く暖かいその調べが、懐かしい遠い記憶を呼び覚ます。
もう帰らないと決めたのだ。…なのに…
「兄上…!」
搾り出すように呟いて、唇を噛み締めた。
ぎゅっと目を瞑ると、寒さに震える子供のように、自分の体を抱え込んでうずくまった。
幻聴だ。
こんなところで兄上に出会うはずがないではないか。
だがいくらそう自分に言い聞かせても、景虎はそこから動けなかった。

「景虎さま! どうなされたのです?」
突然背後から声がした。ビクンと大きく肩を揺らして、景虎はかろうじて立ち上がった。
「直江か。なんでもない。」
青ざめた頬も、かすかに震えている指も、その答えが嘘だと示している。
それでも、景虎の冷たい声は、直江にそれ以上の詮索を許さなかった。

心の廻りに何重にも厚い壁を張り巡らせ、立ち入らせまいとするのはいつものことだ。
無理に触れようとすると激しい拒絶にあうとわかっているので、それ以上追求せずに退いた。
言いたくないなら、黙って見守るまでのこと。
いざとなったら、どんなに嫌がっても踏みこめばよいのだ。胸の内に。
(もし踏み込んだら…この人はどうするのだろう。)
そのときがきたら。いや、来なくても。
心にこの手で直に触れたいと、俺はいつのまにか望んでいる。
あの熱い痛みを孕んだ心に。
直江は歩き出した景虎の横顔を、そっと見つめた。

夕陽に照らされて黄金色に染まる尾花の波を、景虎に遅れまいと掻き分けながら進んでいた直江は、どこからか聞こえてくる調べに思わず足を止めた。
「美しい笛の音ですね。なかなかの名手と見える。」
誰が吹いているのかと辺りを見回した直江は、いきなり景虎の鋭い視線を受けてたじろいだ。
「おまえにも聞こえるのか! あの笛が!」
「?…ええ。確かに聞こえますが。」
こんなに動揺している景虎を見るのは久しぶりだった。
「どこだ。どこから聞こえる!」
高く伸びたすすきをザザッと押しのけ、あちらこちらと歩き回る景虎を追いながら、直江も笛の主を探した。

「あそこに見えるのが、そうではござらぬか?」
ちょうどすすきの途切れた先に、笠をかぶった僧らしき人が見えた。
「あれが?」
ふっと空気が変わった。さっきまでの張り詰めた気配が、ふいに緩んだ。
直江の指差した先を見つめた景虎の瞳は、僧を見ながら別のものを見ている気がした。
(なにを見ているのだ? その瞳に、俺の知らない何が見えている?)
「景虎さま。あの者を御存知なのですか?」
問いかけた直江に、
「いや。知らぬ。もうよい。なんでもないのだ。」
一瞬だけ、瞼を閉じて天を仰いだ景虎は、そう言うと何事もなかったかのように、ふもとの村に向って歩き始めた。

ざっざと後を追いながら、直江はもういちど振りかえって僧を見た。
僧は笛を吹きながら、ゆっくりと山の中へ入っていった。
「もう日も暮れるというのに、今から山へ入るとは…。あの者、大丈夫でござろうか。」
思わず口にすると、景虎がふふんと笑った。
「そなたでも仏心があったと見える。笛の音にほだされたか。」
むっと睨みつけた直江を見返した景虎は、もういつもの調子に戻っている。

先ほどまでのアレは何だったのか…。
憮然とした表情で歩き出した直江だったが、やはり景虎も気になったらしく、
「直江。気になるなら見て参れ。あの地蔵の横で待っていてやる。」
肩を掴んでひきとめると、顎で示した。
ならば始めからそう言えばいいものを…とは心の声で。直江は、
「御意。」
と頷くと僧の元へ走った。

さすがに、もう笛は止んでいる。が、道は一本。迷うことなく追いついた。
「ご坊。どこまで行かれる。これから山とは、危のうござらぬか。」
声をかけると、僧はにっこりと微笑んだ。

 

 

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