『with you』

 

喧嘩のきっかけは、思い出せないくらい些細なことだった。

もしもあの時、こんなことになると知っていたら…

悔やんでも、時は戻らない。
そんなの、わかりきったことだ。
嫌というほど、思い知ってる。

…だけど…それでも…

ギュッと目を瞑り、奥歯を強く噛みしめた。
眠れない夜が、声にならない悲鳴を閉じ込め、風のない街を包んでいった。

 

  

 

「記憶喪失? 直江が?」

千秋からの電話に、何の冗談だと眉を顰めたのは、5月の半ば。
あいつと喧嘩して部屋を飛び出したものの、
久しぶりに帰った家は寒々しく、
一晩たってもなんだか温もりのない布団の中で、オレは鬱陶しい気分のまま言葉を返した。

けれど千秋は、そんなオレに突っ込みも入れず、急いた声で続けた。

「ああ。昨日の夜、車に撥ねられたんだってよ。
 怪我は大したことないんだが、頭を打ったらしくて…」

何を慌てていたのか、直江は周りも見ずに道路を渡ったのだという。
あの時、オレは追いかけてくる声を無視して走った。
まさか…
いや、きっと直江は俺を追いかけて…

電話の向こうで何か言っている千秋の声を、どこか遠くに聞きながら、
オレは茫然と目の前の壁を見つめていた。

 

  

 

「なおえ…!」

病室に飛び込んできた声の主は、
俺の顔を見て、安堵したようにホゥと小さく息を吐いた。

キツい印象の切れ長の瞳が、ふっと和らいで不器用な笑みが浮かぶ。
胸の奥がキュッとなった。

この、俺よりずっと年下の、おそらく二十歳になるかならないかの青年は、
明らかに俺を知っている。

なのに…

「すみません。その、なおえ…というのは私の呼び名でしょうか?
 私の名前は橘義明ですよね?  あなたは…」

みるみる彼の顔から血の気が引いた。
俺を凝視したまま、何も言えずに固まった体が、今にも倒れそうに思えて、
なぜか堪らなく引き寄せたい衝動に駆られた。

青ざめた頬、傷ついた瞳
胸がざわめく。

大切な人
泣かないで…
あなたのせいじゃない

湧き上がってきた言葉は、口から出ずに喉で詰まった。

呼びかけたい。
目の前にいる彼の名前を呼んで、大丈夫だと言いたかった。
なのに、 言葉が出てこない。

知っているのだ、絶対に!
それなのに、なぜ思い出せない。

俺は…

あなたは…

ドクン、ドクン、こめかみが締め付けられる。
激しい痛みに頭が割れそうだ。

「なおえ!しっかりしろ!なおえッ!」

薄れる意識の中で、彼の声と手の温もりだけが、唯一確かなものに思えた。

 

                                

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