『月待草(つきまちそう)』
――――月が昇るまで――

 


   今日は5月3日。直江の誕生日だ。
そして、言わずと知れたゴールデンウィークの真っ最中。
ずっと仕事が忙しくて帰って来れない直江に、せめて誕生日くらい祝ってやりたくて、ここまで会いに来てしまったが…
(二人でゆっくり出来る場所なんて、どこにあるんだよ)
ポケットに手を突っ込んで歩きながら、高耶は心の中で溜息をついていた。

直江には『人前でくっつくな!』と言い渡したが、高耶だって久しぶりに会えたのだ。
本当は、もっと近くで直江の体温を感じたかった。
だがこうして二人で歩いているだけで、どうにも視線が集まってくる。
普段なら無視するか睨み返してやるところだが、直江の立場を思うとそうもいかず、
高耶は少し俯いて、数十センチ後を歩く直江の手を見つめた。

大きな手だ。
触れそうで触れない指先が、近づいては遠ざかっていく。
ふいにその手がひょいと伸びた。
「高耶さん、あれに乗ってみませんか。」
サッと手を掴むと、目をみはる高耶を引っ張って、直江はにっこり笑った。
「一度乗ってみたかったんです。付き合ってくれませんか?」
「いいけど…おまえが? これに??」

首を傾げながらも、走って乗り込んだのは、有名なマンガのキャラクターが描かれたバスだ。
新潟の観光地を巡るこのバスは、家族連れや観光客で溢れ、隅に押しやられた二人は自然と寄り添う恰好になった。
まさかこれを狙ったわけではないだろうが、さっきよりずっと近づいた距離に、ホッと肩の力が抜ける。
ちらりと見上げると、直江が嬉しそうに微笑んだ。

「この先に水族館があるんです。ペンギンやラッコもいるらしいですよ。」
「へえ…」
ちょっと興味を惹かれたのが、顔に出たらしい。
「行ってみましょうか。」
と言われて頷きかけた高耶は、直江をまじまじと見つめて首を振った。

「行かねえ。」
「どうしてです? イルカやトドのショーもあるらしいですよ。」
トド?
不覚にも心が揺らいだのを、直江はもちろん見逃さない。
「面白そうなのに…」
行きましょう。と誘う直江に、高耶はもう一度首を振った。

「ダメだ。今日はおまえの行きたいところに行くんだ。俺に合わせるんじゃない。」
そう言うと、高耶は直江の瞳をまっすぐ見上げた。
誕生日を祝う為に、ここに来たのだ。
だから今日は、おまえが喜ぶことをしてやりたい。
それが高耶の素直な気持ちだった。

驚いた顔で高耶を見つめ返した直江は、すぐに悪戯っぽい目になった。
「本当にどこでもいいんですね?」
直江は、さっきの女子社員たちが見たら、ぽわ〜んと目がハートになりそうな笑顔を浮かべ、高耶の耳元に唇を寄せると、
「夜の12時まで、あなたは俺に逆らえない。もう『待った』は無しです。」
さりげなく腰に手を廻して引寄せながら、とびきり甘く囁いた。

「ちょ、ちょっと待て! 俺はそこまで言ってな…」
慌てふためく高耶の唇に、直江は人差し指を押し当てた。
「バスの中ですよ。大きな声は出さないで下さい。」
「う…」
おまえのせいだろ〜!!と心で叫ぶ高耶の抗議を込めた視線を、直江は涼しい顔で無視した。
「ズルイ」
小さな声で言っても、直江は聞こえないふりだ。
とぼける姿があまりに楽しげで、高耶はついに諦めた。

「しょうがねえな。12時までだぞ。」
もっと小さく呟いただけなのに、直江はにっこり笑って頷いた。
「やっぱズルイ…」
ぼそっと呟いた声は、当然のように無視される。
高耶は直江を軽く睨むと、楽しそうに笑い出した。

あれだけ意味深なことを言ったにも関わらず、直江が選んだ行き先は水族館だった。
「さすがに人が多いですね。」
「うん。けど気持ちいい。こいつらホント優雅に泳ぐよなあ。すっげえ綺麗だ…」
目を輝かせて魚たちに魅入る高耶の隣で、直江はこっそりとその横顔を見つめていた。

マリントピア新潟は、海中トンネルを模した水槽や、イルカショー、ラッコやトドのお食事タイムなど、みどころがいっぱいの水族館だ。
大きなアクリルガラスの向こうには、海の中をそのまま移したような光景が広がっている。
そのトンネルを歩いていると、まるで自分たちもその中にいる気分になるから不思議だ。
小さな魚が群れて泳ぐ合間を縫うように、大きなエイがゆったりとした動きで通り抜ける。
きらきら光る銀の鱗も、コポコポと湧きあがる泡のつぶも、気にも留めずに歩く大人も多い。
けれど高耶と一緒に見ていると、そのどれもが本当に美しく思えた。

もっとも、どこで何を見ても、自分にとって一番美しいものは変わらない。
実のところ、直江は水族館に来たかったわけではなかった。
喜ぶ高耶の顔が、見たかったのだ。
「あ! 高耶さん。そろそろトドのショータイムですよ。急がないと!」
館内放送に気づいて、思わず高耶の腕を引っ張った直江に、
「おまえ、それが見たかったのか? 意外だな。」
高耶はポカンと目を丸くしてクスッと笑った。

違う!…とは言えないで、直江は苦笑するしかなかった。
見たいのはあなたの顔です。なんて言ったら、怒り出すのに決まっている。
それはそれで楽しいが、今日は笑顔を見ていたい。
誕生日だからと会いに来てくれた。
この幸福を、どう伝えればいいだろう?

あなたの笑顔が、どれほど俺を満たしてくれるかわかりますか?
俺の幸福は、あなたと共にある。
こんな時間を過ごせることが、何よりも幸せなのだと、あなたに伝えられるものなら…

トドの迫力に驚いたり、ラッコの可愛らしさに微笑んだり、笑っていると時間はあっという間に過ぎていく。
ソフトクリームを差し出した直江に、高耶は少し困った顔を向けた。
「なんか…これじゃいつもと同じじゃねえか? おまえ、本当に俺を従わせたいのか?」
「そんなに従いたいんですか?」
笑いながら高耶にアイスを渡した直江は、もう1つを美味しそうに舐めた。

「複雑な気分だ…って顔に書いてますよ。」
溶ける前にどうぞ。と言われ、アイスを食べ始めた高耶の目が、ムッと直江を睨んだ。
「慌てなくても、これから従わせてあげます。あなたが嫌がることをいっぱいさせてあげる。
 でも私は今も楽しんでますよ。あなたと一緒に楽しみたい。それじゃいけませんか?」
並んでベンチに腰掛け、直江は静かに高耶を見つめた。

ひたむきな光が宿る、嘘のないまなざし。
それは仕事で帰れない直江を待つ間、ひとりで見上げた月に似ていた。
いや、そうじゃない。
俺は月の光に、直江を重ねて見ていたんだ。

この瞳が見たくてたまらなかった。
今ここにいるのは、本物の直江。会いたくてたまらなかった直江だ。
いつもと同じであろうとなかろうと、直江が喜んでるならそれでいい。
俺はおまえと一緒にいたいだけなんだから。

「俺に聞くな。おまえが楽しいなら、それでいいんだ。」
自覚してしまうと、いきなり頬が熱くなる。
赤い顔で俯いてソフトクリームをかじる高耶を、直江は不思議そうに見つめて微笑んだ。

月が昇るのを待っていた、あの長い時間が、今日は飛ぶように過ぎていく。
このあと、直江がどんな難題を言っても、俺はきっと嫌だなんて思わないだろう。
直江をそっと横目で伺って、高耶は胸に広がる幸福を噛み締めていた。

 

                               (fin)

                    2006年5月22日

 

これは霞月しゃんが踏んで下さった 22000 のキリリクです。
彼女の作品『花宵草』の続き…ということで、ホント悩んだよ〜(^^;
いや、書くのは楽しかったんですが、イメージを壊すんじゃないかと心配で…
喜んで下さって本当にホッとしました!
霞月しゃん、10000 のキリリク、すっぽかしてごめん(>_<) これで許してちょ〜

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