『桜吹雪』

  

 その日は朝から風が強かった。
「早くしないと桜が散っちゃうよ。」
 美弥にせかされて、高耶は松本城に来ていた。
 先日から咲き始めた桜はいつのまにか満開で、青空の下を風に飛ばされたピンクの花びらがはらはらと舞っていた。
「あっ、いたいた。千秋さ〜ん!」
 場所をとって待っていた千秋と譲が気付いて手を振った。
「遅せえぞ、バカ虎…っと美弥ちゃん、ごめん。」
「いいのいいの。今日はお兄ちゃんが悪いんだもん。」
 美弥が笑いながら高耶を軽く睨んだ。
 そうなのだ。
 みんなで花見をしようと、美弥がはりきってお弁当をつくり、高耶も楽しみにしていたのに、いざ行こうとするとなぜか足が重くなってしまった。
 明け方に見た夢のせいだ。

 遠い昔の春。春日山城で妻子と共に桜を眺めた。
 風に舞う花びらが吹雪のようで、幼い道満丸がはしゃいで走り回っていた。
 美しくて哀しい遠い記憶は、懐かしさと痛みを伴なってふいに蘇る。
 人の魂は、生きてきた間の膨大な記憶を、全て覚えているのだろうか。
 忘れたい事も忘れたくない事も、こうして時折思い出す。
 別れを経験するたびに大人になるなんてうそだ。
 その証拠に自分はいつまでたっても、ちっとも大人になんかなってない。
「やっぱ人の言うことなんてアテになんねえな。」
 つぶやいて小さく笑うと、高耶は「よう」と手を上げた。

「さあさあ、景虎はこっち。美弥ちゃんはここ座って。」
 綾子は暖かそうなブランケットを美弥の席に敷き、
「女の子は冷やしちゃダメだからね〜。」
 と言ってにっこり笑った。もちろん自分もちゃんと敷いている。
「男どもはこのままでいいでしょ。」
 シートの上には、ぺちゃんこになった古毛布が敷かれている。
 待遇の違いはともかく、美弥への心遣いが嬉しかった。

 お弁当を広げると、彩りよく詰められたお重に歓声があがった。
「わあ、美味そうだなあ。」
「美味し〜い。このふき最高!」
「ああっ! こいつもう食ってる。俺の分、残しとけよ!」
「あはは。そんな慌てなくても。」
「お前ら…食うの早過ぎ…。」
 あっというまに、お重はほとんど空っぽになった。

「直江さんも来れたらよかったのにね」
 美弥の言葉に、綾子がすかさず応じて
「たまにはいいのよぉ。直江ってば、いつも景虎一人占めにしてるんだもの。
 んふふ。直江がいたら、こお〜んなことさせてもらえないもんねえ。」
 とふざけて高耶に抱きついた。
「ははは、言えてる。高耶。次、俺ね。」
「お前まで何やってんだ!」
 酔っ払い二人に抱きつかれてもがく高耶を、楽しげに眺めながら、
「そんなことしてると直江が飛んでくるかも知んねえぞ。」
 千秋が笑って言った。
「あ、ホントだ! 直江さんが来るよ。千秋さん、スゴイ!」
 美弥が歓声を上げた。

「美弥ちゃん。悪い冗談…!」
 ギョッとして固まってしまった。
 本当に直江が向うから歩いて来る。いや、走って来た!
「高耶さん。あなたって人は!」
「違っ!俺は何もしてねえ。」
 慌てる高耶を見て、いきなり千秋が背中を向けた。肩がヒクヒク揺れている。
(くっそー。こいつ笑ってやがんな…。)
 綾子も譲も抱きついたまま離れない。
「やだ。いっつも直江さんばっかズルイ。」
「そうよ、そうよお。」
 まるで駄々っ子のようだ。
 なんとか引き剥がして、直江はホッと息をついた。

「よく来られたな。」
 高耶が微笑んだ。
「ええ。間に合いましたね。」
 微笑んで見つめあう。それだけで胸の奥から暖かい思いが満ちてくる。
「お弁当、減っちゃったけど食べてくださいね。」
 美弥がビールを開けて渡した。

 絶好の花見日和の休日。
 たくさんの人々が、あちこちで同じように弁当を広げて、楽しげに笑いあう。
 まだ肌寒い風が吹いてはいたが、暖かい春の日差しと人の温もりに、
 心まで優しい桜色に染まってゆく。
 強い風に煽られて、桜の花びらが天に舞う。
 天を、地を、そして人の心を、優しい春の香りで癒しながら。

「高耶さんに桜を見せてあげよう企画」(by高瀬葵さま)に賛同してやってみました。
桜吹雪。あなたにも降り注ぎますように・・・

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