『バレンタイン・ファントム』-1

 

 
…やさん…

たかや…さん…

声が聞こえる。
・・・が、俺を呼んでる。

今行くから
だから、そんな死にそうな声で俺を呼ぶな。

「・・・」

そうして俺は、・・・の声がする方へ手を伸ばした。

*  *  *  *  *

 

「高耶さん!」

ホッとした顔で、力いっぱい手を握り締められ、俺は面食らって思わずベッドの中で身を縮めた。

「ここ…俺の部屋…だよな。」

そう。ものすごく心配そうに俺を見つめた男の返事を待つまでもなく、ここは紛れもない俺の部屋だ。
間違いない。
だけど、この状況は一体どういうことだ?
いくら考えても、わからない。
俺は、とうとう最大の疑問を口にした。

「えっと…その…俺、どうしても思い出せないんだけど…あんた、誰?」

言ったとたん、男は大きく目を瞠った。

 
男の名前は、直江信綱。
信じられないことに、俺は奴の恋人で、ここで一緒に暮らしているらしい。

「本当に忘れてしまったんですか? あんなに愛し合ったことも?」

「ちょ…わあああ!止めろ!なんてこと言うんだよっ!」

全く、信じられない。
この俺が、何をどう間違って男と…
そんなこと、あるはずがない。

でも…

直江の悲しそうな瞳が、胸の奥に刺さって抜けない。

どうして俺は、忘れてしまったんだ。
信じられない。
俺は…

記憶のどこを探っても、直江のことを思い出せない自分が、高耶は何よりも信じられなかった。

「千秋、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ。」

こんなとき、頼れる相手といえば、この男。
電話の向こうで、いつもの軽口が応える。
無意識に高耶の口元が綻んだ。

「いいから、笑わずに聞け。こっちは真剣なんだよ。」

しばらく話をして、ふと振り向くと、直江が扉を背にして立っていた。

カチャッ

錠の落ちる冷たい音が響いた。

ギョッとして見上げた直江の顔は、さっきまでとはまるで違って、ひどく無表情で感情が読めない。

「てめえ…何のつもりだ。」

怒りを込めて睨みつけ、軽く腰を沈めて拳を握った。
細身でも、売られたケンカで負けたことはない。
たとえ本当に恋人だったとしても、今のコイツは不審人物ナンバーワン。
殴り倒すことに何の躊躇いも無かった。

だが直江は、大抵の奴が怯んで後ずさる高耶の視線を正面から受け止めると、
まだ繋がったままだった電話を取り上げ、
「千秋か。ああ、問題無い。心配は要らないと言っているんだ。切るぞ。」
勝手に話を切り上げて、電話を切ってしまった。

「…やっぱホンモノ…なんだな。…おまえとオレは…」

千秋は否定しなかった。
さすがに直江がオレの恋人なのか?とは聞けなかったが、オレ達が一緒に暮らしてることも、
そして今の会話で、それが本当にコイツなんだってことも…

だけど、オレは…

「高耶さん。あなたは、それで信じられるんですか?
 私とあなたとの関係を、こんなことで…
 千秋の話だけで、それを本当のことだと信じるんですか?」

サイドボードに電話を置いた直江が、冷やかな眼差しを向けてくる。

「何が言いたい。おまえだって、オレに信じさせようとしてたじゃねえか。
 良かったな、証明されたみてえだぜ!」

吐き捨てるように言い放ち、直江を睨みつけて、「どけよ」と顎をしゃくった。

ハッキリ言って、嘘だと思いたい。
それが本音だ。
でも…

「信じるとか信じないとか、どうだっていいだろうが!
 変なのはオレの頭ん中なんだろ?事実は事実なんだろッ!」

事実なのだ。
なのに、どうして思い出せない?

苦しい。
胸が、心が。
痛くて、苦しくて、もどかしくて堪らない。

ドアの前に立って動かない直江を、押し退けようと腕を伸ばしたとたん、
高耶の身体が宙に浮いた。

 
 

背景の壁紙は、こちらからお借りしました。→

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