潤んだ瞳。桜色に染まった頬。
せつなげに眉をよせて、あの人の唇が俺の名前を刻んだ。
(な…お…え…)
声にならず伸ばされた指を、包み込むように握った。
「高耶さん。」
瞳をじっとみつめて唇を近づけると、あの人は逃げるように顔を背けた。
俺はひとつ溜息をついてから、苦しそうな息をもらす喉に、そっと指を這わせて囁いた。
「声が出ないんですね?」
風邪ぎみだったのは知っていた。無理をするなと言ったのに…。
伝染らないようにと、顔を背けたまま空いた手で俺を押しやって、
(大丈夫。寝てれば治る。今日休むって電話してくれ。)
身振りを交えて懸命に伝えてくる。
今日だけじゃなく、治るまでずっと休めばいい。いっそ辞めてもいいくらいだ。
だがそんな本音を言ったら、おまえに養ってもらうなんて御免だと怒るに決まっている。
いつまでたっても飼われてくれない野生の虎は、心配そうに俺を見つめて返事を待っていた。
「わかりました。電話しておきます。」
だからゆっくり休んで下さい。と言うと、こくんと頷いて微笑んだ。
素直だな。と思ったとたん、今度は俺のネクタイを掴んでドアを指差した。
(おまえは仕事に行け。)
全く。 この人はいつもこうだ。
自分のことは後回しで、人のことばかり考えている。
あなたを最優先したい人間が、ここにいるのに。
俺は握った手に口付け、そっと頬を寄せた。
あの人は、早く行け。と顎で示すと、それからずっとこちらを向かない。
ただ、振りほどかずに繋いだままの指が、本当の思いを告げている気がした。
いつもどんなに追い上げても、最後の最後まで欲しいと言わない。
だからよけいに言わせたくなる。
そうしてやっと口にするときの瞳が、たまらなく好きなのだけれど。
でも…。
言わなくてもいい。
俺は黙って立ち上がると、
「行ってきます。高耶さん。」
とだけ告げて、そっと部屋を出た。
続きを読む
TOPに戻る