彼方からの呼び声−9

 洞窟の入り口に戻った高耶たちだったが、結界はまだ解けていなかった。
散々手を尽くした千秋は、よれよれになりつつも、最後の方法を試している最中だった。
「待ってろよ。もう少しだからな。」
これでダメなら、俺が知ってる方法はもうない。
解けてくれ!
祈るような思いで、千秋は念で造った目に見えない剣を、結界に向けて振り下ろした。
「結界解除!」
腹の底から搾り出した叫びと共に、稲光のような電流が走った。
山が震えた。
400年以上もの間、解けることのなかった結界が、ついに破られたのだ。

「千秋!」
高耶たちの目の前で、千秋の体がゆっくりと崩折れた。
「しっかりしろ、千秋!」
抱き起こした高耶に、憔悴しきった千秋が微笑した。
「絶対やるって、いったろ?」
「おう、やったな、千秋。」
高耶の顔を見てもう一度微笑むと、そのまま千秋は気を失った。
 杉の木の根元に千秋を寝かせ、側には綾子が付き添う。
「やるときはやるわね。ほんとにあんたには感心する。」
疲れて眠っている子供のような寝顔を見ながら、綾子は、ありがとう、と心で言った。

 もう夜になっていた。高耶は成田にいるはずの直江を思った。
 無事でいてくれと、何回願っただろう。
 こんな思いをするのがわかっていながら、自分はなぜ直江を行かせたのか。
 本当は離したくない。どうしようもなく、側にいて欲しいと願う。けれど、だからこそ直江を側に置くことはできなかった。
 直江の苦悩は、直江自身のものだ。誰にもどうすることもできない。
 その苦悩を、できることなら取り去ってやりたい。
 だが一方で、直江がこんなにまで苦悩している事を、心のどこかで狂いそうなほどに喜んでいる自分がいた。
 直江が側にいれば、自分はもっと弱くなる。これ以上、直江を求めるわけにはいかないのに。

 美奈子を愛していると、思っていた。そう、あのときまでは。
 直江の罪を知ったとき初めて、自分の心の奥にあった本当の願いに気付いてしまった。
(あなたの願いはきっとかなう)
 美奈子は何を思って、あの言葉を口にしたのか。
 景虎自身も知らなかった願いに、彼女は気付いていたのだろうか?
 彼女といると心が癒された。優しくて暖かい愛に包まれて、束の間の安らぎに浸っていたかった。
 それなのに、景虎が本当に欲しかったのは、美奈子ではなかったのだ。
 たとえ美奈子が許したとしても、景虎は自分自身が許せなかった。
 なによりも、直江が加害者意識によって、被害者である景虎の元を離れられなくなったことに、
 安堵と悦びを感じた自分を反吐が出るほど嫌悪した。
 こんな感情、知りたくなかった。思い出したくなかった。
 だが、たとえ思い出せなくても、自分はきっとまた繰り返しただろう。
 直江を逃がさない為に。

 この思いをどうすればいいのか、今の高耶にはわからなかった。
 高耶の隣には、もみじがいた。
 今頃こんなに美奈子を思い出すのは、もみじがいるからだ。
 自分が利用されているのを知っていて、なお愛する人を気遣う、そんなもみじの姿が、美奈子と重なって、高耶には痛かった。
 高耶の視線に気付いて、もみじがこちらを見上げた。なにか言おうとしたもみじが、そのまま凍りついたように動かなくなった。
「どうしたんだ?」
「あの方が、こちらに来ます。もうすぐ。」
 緊張が走った。綾子は千秋を起こそうとガンガン揺さぶっている。
「来る!」
 高耶が力をみなぎらせて身構えた。

 杉木立の中から現れたのは、昨夜千秋と戦った男だった。
 そして信濃の怨将たちが、彼を守るかのように廻りに立った。
「よく結界を破ったな。」
 その声は、どこか感嘆の響きを含んでいた。
 高耶の目を怯むことなく見つめて、戸隠の頭領は目の前に立っていた。
「今頃お前の仲間は、織田に倒されているだろう。真田昌幸にも、信じたものに裏切られる屈辱を、思う存分味わせてやったはずだ。ふふふ、どうだ。成すすべもなく仲間の死を知らされる気分は?」
 一瞬、高耶の動きが止まった。その瞳に狂暴な光が宿る。
 背筋が凍るような視線を、頭領は黙って受けとめた。

「あいつは誰にも倒されない。」
きっぱりと言い放った高耶の声には、迷いは無かった。
「本当にそう言い切れるのか?こっちにお前たちが人質になっていると聞いて、仲間が普通に戦えると思うのか?」
綾子が怒りに青ざめて、頭領を睨みつけた。どこまで卑怯な手を使うのか!
しかし高耶は動揺しなかった。
「残念だな。あいつは必ず勝つ。お前たちの汚い罠は、無駄だったってことだ。」
 高耶の自信がどこから来るのか、ただのはったりなのか。
 頭領は探るように眉を寄せて、じっと高耶を見つめた。
「どちらにしても、ここでお前たちは死ぬのだ。くだらない感傷につられて、罠にかかったことを悔やむがいい。」
 そう言って、戦いの合図をしようとした瞬間、
 パアン!
 綾子の平手が、頭領の頬を思いきり打った。

「許さない!くだらない感傷ってなによ!美奈子のことなんにも知らないくせに!
そのうえもみじまで汚い罠に利用したこと、絶対許さない!」
 頭領は唖然として綾子を見た。廻りの怨将たちも、呆気にとられて動けなかった。
綾子は怒りで震えていた。あのときの美奈子が胸にあった。
ただ一度の呼び声が、今もこだましていた。
間に合わなかった、そのくやしさ、哀しさの、なにがこの男にわかるのか。
もみじの一途な思いすら、罠に利用したこの男に。

「もみじ…だと。」
彼は目を見開いたまま、視線をさまよわせた。そしてもみじを見つけた。
「裏切ったのか。もみじ!」
 高耶はもみじを振りかえった。
 もみじは頭領と目を合わせたまま、悲しげに立ち尽していた。
「上杉に名を明かすとは!お前まで俺を裏切ったのか!」
叫びと共に、頭領はもみじに向って念を放った。
高耶の護身波がもみじを守る。もみじは泣いていた。
「忍びは影として生き、影として死ぬのが定め。でもわたしは死にたくなかった。
死んでも歳三さまのお側に居たかった。お願いです。どうか元の歳三さまに戻ってください!」
「もみじ、里は滅ぼされたのだ!なにもかも、もう戻らぬ。」
おれは何の為に影として生きたんだ。幸隆は信濃を守ると言ったのに。
戸隠を上杉には渡さぬと言った。それが滅ぼすという意味だったなんて。
絶望と無念が歳三を支配する。
凄まじい怨念が、陽炎のように歳三の体から立ち昇った。

「上杉いぃ!」
怨念が一気に高耶めがけて解き放たれた。
あまりの激しさに、綾子が烈風に吹き飛んだ。
ドオォンという音と共に、高耶の護身波が白く光って揺らいだかと思うと、ちぎれるように消え、高耶の体は岩山に叩きつけられた。

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