彼方からの呼び声−4

戸隠は上杉ゆかりの地である。謙信公の時代に武田との戦いに巻き込まれ、歴史を誇った戸隠の神社や村は、壊滅的なダメージを受けた。しかしその後、豊臣の天下となってから、上杉景勝の庇護により復興をとげたのだ。越後にも戸隠流の流れをくむ軒猿が何人もいたし、上杉にとっては味方ともいえる土地柄であった。
だが「だから自分達の味方だ」とは言えない。生前の味方が、怨霊となってからも味方である可能性は、実はそう高くない。自分の主人を恨んで怨霊になることだってあるのだ。
呼んでいるのは敵の策略か、それとも本当に助けを求めているのか。
綾子にも、まだどちらとも言えなかった。ただ、たとえ本人が純粋に助けを求めているとしても、その影で操っている者がいるのは間違い無かった。それが敵だということも。
弱い波動が、少しずつ近くなっていく。綾子はその声に神経を集中させていた。

やっと聞き取れるくらいのその小さな声は、どうやら若い女のようだ。
「お願いです。助けてください。あの方を助けて。」
敵意は全く感じられない。感じるのは哀しみだった。胸の奥が締め付けられるような深い哀しみが、綾子に疑惑を忘れさせた。
「どこなの?どこにいるの?」
綾子は心の中で呼びかけた。一体誰を助けて欲しいと訴えているのだろう。なぜこれほど小さな声で呼ぶのだろう。まるで呼んではいけないと思っているかのように。

…呼んではいけない…?
綾子はハッと気付いた。これは美奈子の時と同じだ。
本当は助けて欲しいのに、だれかを気遣って自分を押えているのだ。
美奈子が気遣ったのは景虎だった。では彼女が気遣っているのは?

さすがにそこまではわからなかった。それでもこうして助けを呼んでいる。それほどに、彼女は「あの方」を助けたいのだ。
やはり会わねばならない。彼女を探すしかない。綾子は必死に呼びかけた。
「お願い、応えて!」
呼びかけに応えるように、声が聞こえた。綾子は急いで声のする方に向かった。
この木の裏側だ!
大きな杉の木の裏側に廻ると、そこはちょうど崖の下になっていて、小さな洞窟があった。声はその奥から聞こえてくる。

綾子は洞窟の中へと足を踏み入れた。
ひんやりとした空気が肌寒い。既に日も落ち、ただでさえ暗い洞窟の中は、まだ入り口に近いというのに、もう真っ暗で何も見えない。
霊視のおかげで、暗闇でも進むことはできたが、不用意に奥に進むのは避けたい。綾子はもう一度呼びかけた。
「来て下さったのですね。」
 間近で声がした。もうあの小さな声ではない。しっかりとした、若い女の声だった。
「姿を現したらどうなの。ここまで来ちゃったんだから、かくれんぼは終りよ。」
 ぼうっと白い影が現れた。霊体だということに、綾子は少し驚いた。
 亡霊とか幽霊は、きちんと言葉を話すことが少ない。霊査能力の高い綾子でも聞き取れないことが多いのに、この霊の声は小さくても言葉がはっきりしていた。だから憑依霊かと思っていたのだ。

「上杉のお方ですね。どうかあの方をお救い下さい。」
 霊が言った。落ち着いた静かな声だった。
けれどその奥に、言い様の無い哀しみの影があった。
それが綾子の心の中にある何かと共鳴するのだ。綾子はその何かを知りたかった。
「あの方って、誰なの?」
 綾子の問いに、霊は何も答えない。
「教えて。あなたは誰?なぜあたしに呼びかけたの?」
 洞窟内の空気が震えた。重苦しい沈黙が続く。
言いたくても言えない、そんな気配がする。どんな理由があるというのか。
ここまで綾子を呼び寄せて、なお答えられない理由とは。

 突然、綾子の背に悪寒が走った。
 凄まじい怨念が、洞窟に近づいている!
 ここから出なければ!
 こんなところに閉じ込められたら、身動きがとれなくなる。
 綾子はすぐさま洞窟の入り口に戻った。
 まだほんの数歩しか入っていない。あの塊が来る前にはここから出られる。
 洞窟から出ようとして、綾子は愕然とした。
 ―出られないー

目の前に外の景色が見えている。月明かりに照らされた杉木立も、かすかに風が葉を揺らすのも、手を伸ばせば触れそうなのに、まるで透明な壁に遮られているかのようだ。
 結界だ!
強力な結界が張られている。いつのまに?
なぜ気付かなかったのか。今の今まで、結界が張られる様子など何も感じなかった。
 罠だとわかっていた。だから霊査しながら注意してここまで来たのだ。
その自分が、こうまで何も気付かなかったなんて。
今更悔やんでもしかたがない。この事態を切り抜ける方法を考えるしかない。
怨念の主は、すぐ近くに迫っている。
「そこの人!」
綾子はさっきの霊にむかって叫んだ。

「あたしに力を貸して!あなたの大事な人を助けたいんでしょう!
今あたしがやられちゃったら、どうにもなんないわよ。」
 本来なら、呼び寄せた霊も敵だと思うのがスジだ。けれど、綾子にはどうしてもそうは思えなかった。美奈子と同じ呼びかけ方をした霊に、真実を感じたのだ。
「お願い!早く!」
綾子の叫びが、洞窟の中に響き渡った。

 白い影が綾子の隣に立つと、綾子の手を掴んだ。
 何も言わず、影は綾子の手を引いて、洞窟の奥へと信じられない速さで進んでゆく。
 綾子は走った。真っ暗な闇の中を、白い影を信じて。
 つまづいて何度も転びそうになったが、スピードを緩めることもできない。
 あの怨念の塊は、きっとここに来る。結界を張ったのも、あれが来るのも、罠をはった奴の仕業に違いない。何の為にここまでするのか。
 霊はどんどん奥へ走っていったが、どうやら行き止まりのようだ。
 やはり逃げられないのか。
 諦めて怨念を迎え撃とうと力を溜め始めたとき、行き止まりと思っていた壁が、いきなり開いた。
 向こう側には、小さな部屋があるようだ。
 霊がここに入れと言っている。綾子が入ると、霊は岩戸を閉めて洞窟側に残った。

 部屋は床に板が張られ、居心地は悪くない。
 忍者屋敷のからくり部屋を思い出した。
 戸隠は、忍びの里。あの霊も忍びだったのかもしれない。
 だがこんなところにいても、隠れおおせるだろうか。
 考えれば考えるほど、不安の種は増えるばかりだ。

それにしても、自分ひとりを狙う程度のことに、わざわざこんな手の込んだことをする必要があるのだろうか。
夢でおびき寄せて、結界に入ったところを、強力な怨念に襲わせる。
作戦としてはよくありそうな手だが、あの夢から場所を特定し、実際に会いに来るかどうかは賭けだ。
普通なら、あんな夢ではなく、もっと確実な方法を考えるだろうに。
夢を見始めてから、ここに来る決心をするまでに、すでに半月も経っている。
こんなに時間のかかる罠を張って待ち伏せるなんて、よほど気の長い奴だろう。
本当に、これは罠なのか?

でも、罠じゃなければ結界が張られる筈が無い。
「あたしに隙があったってことね。」
心の中でつぶやいた。
今の高耶に、これ以上の負担をかけたくなかった。
だからひとりで来たのに、これではなんにもならない。自分が情けなかった。
せめて、捕まって人質になるのだけは避けなければ。
「こんなところでぼんやりしてらんないわ!」
ここが忍者のからくり部屋なら、どこかに出口があるはずだ。
綾子は必死で探し始めた。しかし見つからない。部屋の入り口も、出口を探してぐるぐる廻っている間に、すっかりわからなくなってしまっていた。

綾子は外の音が聞こえないかと、岩壁に耳を押し当てて、精神を集中させた。
しんと静まりかえった部屋で、息を殺してじっと聞く。
やがて、かすかに声が聞こえてきた。
あの白い影の声だ。どうやらこの部屋のすぐ近くにいるらしい。
「まだ誰も来てはおりません。」
「まだ来ないとは。時間がかかり過ぎではないか。」
 男の声のようだ。やはり罠だったのか。
「もう日が無い。明日までに無理にでも連れて来るのだ。」
 影はなにか答えているようだったが、もう聞き取れなかった。
そしてそのまま、音がしなくなった。

今の声が、あの怨念の主なのだろうか。
なんとかこのままどこかへ行ってくれれば、この洞窟から出ることができる。
だがそれには、まずこの部屋から出なければ。
あせる気持ちをよそに、時間はどんどん過ぎていく。
なんだか息苦しい。
ここは密閉された部屋の中なのだ。
空気が入れ替わらないから、酸素が減っていくのは当り前だ。
どうにかしないと、死んでしまう。早くここから出ないと。
 重い二酸化炭素は、下に沈む。酸素は上になるはずだ。
少しでも多く酸素を得ようと、綾子は岩壁をよじ登った。
一メートルほど登って、取っ掛かりを求めて伸ばした手が岩を掴んだ。そのとたん、岩が壁に吸い込まれるように沈み、綾子はバランスを失って、思いっきり床に落ちた。

「いっっ…た〜い!なんなのよお、もお。」
おしりをさすりながら立ち上がると、
 突然、入り口が開いた。
 いや、これは出口だ!
その先の景色が違う。一歩出ると、もう洞窟の中ではなかった。
新鮮な空気を胸一杯に吸って、綾子はすっかり元気を取り戻した。
「ここは一体どこなの?」
 まったく見覚えの無い景色だ。かろうじて通れる隙間はあるものの、今いるところは、崖の一歩手前だった。
もし出口から飛び出していたら、崖下にまっさかさまだ。
 助けてくれたあの霊が気になったが、今はとにかく逃げるしかない。
これは自分だけを狙った罠じゃない。こんどはどんな手を使ってくるのか。
早く景虎たちに知らせなければ。
綾子は道を探しながら、急いで山を降り始めた。

 

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