彼方からの呼び声−2

 夕暮れの川辺を、高耶がポケットに手を突っ込んで、ぶらぶら歩いていく。そのほんの少し後ろを黒いスーツを着た直江が、なにげない素振りで歩いている。知らない人には、二人が会話をしているようにはとても見えないだろう。
「その件はお前にまかせる。三日で押えろ、いいな。」
 高耶の言葉に、直江は静かに反論した。
「三日ですか。ですが、彼は今日本にはいません。戻るのは確か二日後のはず。機会はその日の夜だけということになります。彼の方を後に廻して、先に同盟している他の怨将を潰した方が良いと思いますが。」
「お前の意見など求めていない。俺は三日で押えろと言ったんだ。」
 冷然と高耶は言い放った。
「敵を倒すには、まず頭を潰すのが一番早い。今回は特に、後回しにしたら逃げられる恐れがある。そんなこともわからないのか?」
 尊大な目に冷笑を含んで、肩越しに見下す視線が直江を射た。
 廻りから潰しておいても逃げられずに倒す自信はあった。しかし万一を考えれば、高耶の言う方が正しい。三日と期限を切ったのも、一週間後に迫った国会への影響を考えての事だろう。
 彼らは、頭を潰せば後は烏合の衆だ。こちらに付く可能性もある。
 短い期間にそこまで先を読むようになった高耶は、確実に以前の力を取り戻しつつあった。
 記憶を取り戻したのだろうか?

 そうだとしても、今の直江には前ほどの危機感はなかった。
 高耶が記憶をなくしたままでも、もうあの優しい関係には戻れない。
 こうして一緒にいるほどに、求める気持ちと憎しみがないまぜになって、頭がおかしくなっていく。彼を組み敷いて、無茶苦茶に引き裂いてしまいたいような欲求に駆られる。
 そんなことをしても彼が手に入るはずもない。ただ一時自分のエゴを満たすだけなのだ。
 そうわかっていても、力を取り戻し、まさに王者の風格をもって君臨する彼に寄せられる賞賛の目が、益々直江を追い詰めていた。

 彼の輝きは、誰よりも自分が一番知っている。
 だからこそ、それに届かない自分に絶望して、憎しみすら感じてしまうのだ。
 誰のせいでもない、所詮は自分のエゴなのだと、わかっているのに捨てられない。
 今では高耶の頭から押えつけるような態度が、いっそう直江を苦しめていた。
 憎しみが渦を巻いて、胸の奥でくすぶっている。
 暗い炎で燃えたぎる眼で睨みつけたまま、直江は黙って従った。

 そのまま高耶を追い越して歩いてゆく。
 去っていく直江の背中を見つめる高耶の瞳は、さっきまでとは打って変わって、哀しみを宿した気遣うような眼差しになっていた。
 少しだけ眉をひそめてから、悪い予感を振り払うように目を伏せると、土手に座って川面を見つめた。
 直江の力が少しずつ衰えていく気配がする。
 どうすればいい?俺達はもうどうにもならないのか?
 景虎の心を知りたいと思った。四百年もの間、一体どんな思いで生きてきたのか、なぜ自分はこんなにも、直江を失うことに脅えるのか、答えはきっとそこにある。
 そうして、少しずつ記憶は戻ってきている。覚悟はしていた。けれど、想像を遥かに超えたその記憶は、高耶の心に重苦しくのしかかっていた。

 時を重ねる毎に深まってゆく虚しさ。どれほど多くの怨霊を調伏しても、また新しい怨霊が生まれてくる。
 この世には報われない思いを抱えたままで、死を受け入れられない悲しい魂たちが、いつもどこかで苦しみ叫んでいる。
 いつ終わるとも知れない戦い。
 そんな日々の中で、直江は景虎をずっと見つめてきた。
 自分のどこに直江を超えるものがあるのか、景虎にはわからない。
 確かに調伏力や霊査能力は、直江よりも上だ。主人という立場でもある。
 でも、人間として直江より優れているなどとは、到底思えなかった。
 なのに直江は景虎を越えたいと願い、燃えるような熱い眼差しを注ぎ続ける。

 いつしか景虎は、その熱い思いを手放せなくなった。
 あの鳶色の瞳を自分だけに向けていて欲しいと願った。
 直江が勝ちにこだわるなら、俺がずっと勝ち続ければいい。直江を繋ぎとめる鎖はそれしかなかった。
 自分の狡さを嫌悪しながらも、直江を失いたくなかった。
 愛なんかじゃない。これは自分の身勝手なエゴだ。胸に重い痛みが刺さる。
(お前はもうこの勝負から引くつもりなのか?もうこだわるのをやめにしたいのか?)
 既に日は落ち、真っ黒な川が月の光を受けて、さざなみが時折銀色に光る。
 風はもう冬の匂いを含んでいた。

「高耶?こんなところで何してんの?」
 譲の声に、はっとして振り向いた。近くにきた譲は高耶の顔を覗き込むと、
「なんかあったの?お前泣きそうな顔してる。」
 一瞬詰まった。高耶はいきなり立ちあがると、
「ばあか、泣くわけねえだろ。それよりお前こそ、なんでこんなとこに来たんだ?」
 いつものように軽く言うと、譲はまだ心配そうな表情を残したまま、
「今日は部活の演奏会があってさ、その帰りなんだ。お前の姿が見えたんで、途中で車から降りちゃった。」と笑った。
「なあにやってんだ。もし人違いだったらどうすんだよ。」
「間違えてなかっただろ?」
 得意気な譲に、思わず笑った。こんなに普通に笑ったのはひさしぶりだった。
 あの日からまだ一年も経っていないのに、あの頃が遠くに感じられる。
 けれど後悔はしていなかった。自分はもう誰かに引きずられて戦っているんじゃない。
 闇戦国を終わらせることは、今はもう高耶自身の意志だった。

「帰ろう、高耶。あんまり遅いと、美弥ちゃんも心配するよ。ここからじゃ歩いて一時間はかかるだろ?」
「えっ。ここから歩いて帰る気かよ。」
「もちろん!ひさしぶりにゆっくり話せるだろ。」
嬉しそうに笑う譲に、なんだか暖かい気持ちになった。
「そだな、ま、いっか。」
高耶も笑って歩きだした。他愛ない話をしながら歩く時間。譲にとっても、それは貴重な時間だった。
こんな時間をもっと一緒に過ごしたい。心の中で譲はそう願っていた。

あの時、ぼくが信玄に憑依されていなければ、直江さんが来なければ…。
堂々巡りだ。考えてもどうにもならないことだ。
それでも悔やむ。運命を呪ってしまう。
高耶はもう違う世界に足を踏み入れてしまった。
彼はどんどん離れて行ってしまう。
いつかは違う道を進むことぐらいわかっている。
でもそれは、通う学校が違ったり、就く仕事が違うことぐらいだと思っていた。
どこに行ってもいつでも会える。心が離れることなんて一生有り得ない。
彼の一番近くにいるのは自分だと、ずっと無意識に思っていた。
なのに、こんなのは反則だ。
いきなり生まれる前から、それも四百年も前からの因縁なんて。
どうやって勝てというんだ。かないっこない。それなのに諦めたくない。
高耶の隣にいたい。
この気持ちをどうすればいい?

 学校の前まで来た時、人影に気付いた。
「千秋?こんなとこで何やってんの?」
 譲が声をかけた。高耶も訝しげな顔をしている。
「もちろん待ってたのさ。お前らがくるのをな。」
「お前ら、じゃなくて、高耶をだろ。いいよ、無理しなくても。」
 口を尖らせて拗ねたように言って、譲は高耶に向っていたずらっぽく笑った。
「じゃ、ここでバイバイだね。明日は学校来いよ、高耶。」
 そう言うと、振り向かずに走った。泣きそうな気がした。
 どうかしてる。こんな風になってつらいのはぼくじゃない、高耶なのに。

「何かあったのか?千秋。」
 高耶は景虎の顔になっていた。
「う〜ん、特に何かあったってわけじゃないんだなあ。」
千秋の言葉に、高耶は表情を翳らせた。
「直江のことなら、何も話す事はない。これはあいつとオレの問題だ。」
ふうっと溜息をつくと、千秋が苦笑いしながら言った。
「そう尖るなよ。お前達のことに口出しする気はないからさ。まったく、どうしておんなじような反応するかな。妙に似てんだよな、お前と直江って。」
「なんもないなら帰る。」
さっさと歩き出す高耶に
「おい、まあ待てって。晴家がさ、なんか気になることがあるっていうんで待ってたんだよ。まだ何にも起きてはいないんだが。」
 高耶が真剣な目で千秋を見た。
「姉さんが?どういうことだ?」
 千秋は並んで歩きながら話し始めた。

 綾子はこのところ、毎晩のように同じ夢を見ていた。
 夢の中の呼び声を、綾子はずっとあの時の美奈子だと思っていた。でも何かがおかしい。
 やがて気付いた。これは現在だと。
 今、誰かが助けを呼んでいる。どこかはわからないが、その思念が綾子に夢を見せているのだ。
「どこから誰がってのがわかんねえと、助けようがないだろうが。」
 そう言った千秋に綾子は、ひとつだけ思い当たるところがあるといったのだった。
「どこなんだ?思い当たるところって。」
「戸隠のあたりらしいんだが、探しにいくってひとりで行っちまったんだよ。」
 晴家のことだから大丈夫だろうけど。と言いながら、千秋はまだなにかを気にしている。
「気になるな。」
 高耶がつぶやいた。千秋はそのあとの言葉を待っている。

「助けを求める声が毎晩聞こえるなんて、おかしくないか?
 普通、助けてって叫んだら、すぐ助けてもらわなきゃダメだろう。
 悠長に毎日夢に出て来れるか?」
 立ち止まって問いかけた高耶に、千秋は満足そうに頷くと、
「やっぱそう思うだろ。本当に助けを呼ぶ声だとしたら、そいつはたぶん死霊だ。
 生霊だったら知り合いのとこに行くのが普通だからな。」
 晴家だって同じことに気付くはずなのに、今回はなぜか言っても聞かないんだと千秋がぼやいた。
 高耶は黙って考えこんでいる。
 しばらくして顔を上げた高耶は、
「千秋、姉さんの行方を追えるか?すぐ追ってくれ。俺も行く。なんかヤバイ気がする。」
言いながら、さっそく軒猿に連絡を取っている。
この行動の迅速さが大将なのだ。
一度方針を決めると、もう迷いが無い。しかもいつも憎らしいほど正しい。
命を預けてもいいと信頼できる。
確かに直江にとってはつらいだろうと、千秋は改めて思った。

千秋は景虎と同じ立場を得たいと思った事が無い。
組織のトップなどなりたいとは思わないし、他人の評価など元々どうでもいいと思っている。
始めから景虎とは対等だと思っている自分と直江とでは、景虎との勝負の土俵自体が違うのだ。
それでも、勝ちたくて勝てないつらさはわかる。
直江の場合、負けていると自分で思い込んでいる部分も多いのだが。

 今夜も家に帰れそうに無い。
「すまない、美弥。」心の中で詫びて、高耶は夜の道を走った。

 千秋の車に乗り込み松本を出た時は、もう真夜中を過ぎていた。
 一直線に戸隠に向う。まだ正確な場所は掴めなかったが、とにかく行ってみるしかない。
「怨将がらみだと思うか?」千秋が言った。
「わからないが、その可能性はあるな。けど姉さんはなんで一人で行ったんだ?いつもなら先に話してから行くのに。」
高耶はまた考え込んでしまう。
「そうなんだよな。どうもおかしいぜ。いつもの晴家となんか違う。焦ってるっつうか、余裕の無い顔してたし。」
千秋もそれがずっと気になっていた。
 思えば、今頃になって美奈子の夢を、見ること自体おかしい。
美奈子はとっくに浄化されたし、晴家だっていつまでもくよくよする奴じゃない。
 何かがある。行けばきっとわかる。
 

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