彼方からの呼び声−1

 まただ。遠くから聞こえるあの声。
小さなかぼそい女の声が、助けを呼んでいる。
「どこにいるの?今すぐ行くわ!」
 そう叫んでいるのに、彼女に声は届かない。
のどが痛くなるほど叫んでも、それは声にならない。もどかしさで涙が滲む。
助けを求める声はどんどん遠くなって、走っても走っても追いつけない。
待って!お願い!やっと声が出た時、もう呼び声は消えていた。
苦い後悔が胸を締め付ける。
間に合わなかった…気付いていたのに…ごめんなさい、ごめんなさい…

 綾子は、自分の嗚咽で目覚めた。
 まだ胸の奥に苦い思いが残っている。顔は涙でぐしょぐしょだった。
とうに済んでしまったことなのに、今になってこんな生々しい夢を見るのは、最近の景虎と直江の態度のせいだった。
「美奈子…」
 30年前、あの阿蘇での出来事を知った時、綾子は(やはり起きてしまった)と思った。
あの頃、美奈子は景虎のたったひとつの安らぎだった。
そのことを心からよかったと思いながら、一方でなにか起こりそうな予感がしていた。
 追い詰められた直江がとった行動は、決して許せるものではなかったが、それでも直江を責める気にはなれなかった。

 「できることなら、私がもう一度あの人を産みなおしてあげたい。」
そう言った美奈子は、本当に慈母のような人だった。
景虎を心から愛し、彼の幸せだけを願った美奈子。
彼女は、直江が景虎を愛していることを知っていたに違いない。
だから無条件に直江を信じた。
直江が景虎を悲しませるような事をするなど、ありえないはずだった。
あんなことが起きるなんて、きっとほんの少しも思いもしなかったろう。
 深く傷ついた美奈子は、それでも直江を責めなかった。
美奈子はただひとつ、景虎に知られる事だけを怖れていた。
自分の傷より、それを知って傷つく景虎の心を気遣って・・。

 地獄のような戦いのなかで、直江は景虎を美奈子に換生させたという。
 なんという残酷!
そのせいで、景虎は記憶を封じてしまったのだと、綾子は思っていた。
 すべては信長のせいだ。
あの戦いさえなければ、誰もあれほど追い詰められたりしなかった。
本当はそれだけが原因ではないと、心の隅でわかっていても、そう思うより他に、責める相手など思いつかなかった。
四百年の間に屈折してしまった二人を思い、綾子は深い溜息をついた。

 
北条との戦いの頃から、二人の関係がおかしくなっていった。
はじめは直江が高耶を避けているようだった。ことさらに事務的で、努めてよそよそしい態度をとっているのがわかった。
高耶は何も言わない。むしろそれでいいと思っているようだった。

「直江、お前それでいいのかよ?」
ある日見かねた千秋が言った。直江は顔色ひとつ変えずに、
「なんのことだ。仕事はきちんとこなしている。何も心配することなどないだろう。」
そう言うと、冷静な表情のまま車に乗り込み、次の仕事へと向った。
見送った千秋は、
「ばかやろう」
とつぶやくと、心配そうに見ていた綾子に、お手上げのしぐさをして苦笑いした。
「まったく、どうしようもない奴らだよな。出来もしないのに、無理に自分を押えようとすっから、よけいにおかしくなるんだよ。」
「あんたみたいに、自分の好きなように生きられる人間ばっかじゃないのよ。こればっかりは、私達にはどうにもならないわね。」
そういいながら、綾子も千秋と同じ事を思っていた。
二人がそうできる人間だったら、もっと楽になれるだろうにと。

   

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