雨に濡れた体で二人が飛び込んだのは、
誰が見ても老舗だとわかる、とても敷居が高そうな宿だった。
直江に半ば抱き込まれるようにして、
わけもわからず中に入ってしまった高耶の驚きをよそに、
まるで馴染みの宿といった風情の直江は、
恭しく差し出されたふかふかのタオルを受け取り、
濡れた上着を番頭に預けると、高耶に微笑みかけた。
「知り合いの宿なんです。雨宿りさせてもらいませんか?」
なんの含みもない自然な口調に、
目を丸くして、高耶は直江の顔を眺めた。
上着まで預けておいて、今更なにを言ってるんだ?
とツッコミたくなるほど確信犯なはずなのに、直江の瞳は真摯な色を宿していた。
もしも俺が望まないなら、
いつでもまた雨の中に戻ると言うように…
「雨は…止むのか?」
瞳を伏せてぽつりと呟いた言葉は、声にならずに口の中で消えた。
その笑顔の奥に、お前は雨を隠している。
俺に才能という幻影を見つけて、傷ついて苦しんでいたことも、
俺を閉じ込めてしまいたいと叫んだ、あの想いも…
お前はそうやって抑えこんでいたんだ。
だからきっと、お前が抱えてる苦しみや痛みは、今もお前の心に降っている。
「だったら雨が止むまで、ここにいよう。」
高耶は顔を上げ、はっきりと直江を見つめて言った。
その瞳には、もうひとかけらの迷いもなかった。
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案内された部屋は、落ち着いた離れの和室だった。
小さな部屋だが、奥の雪見障子を開けると、
磨きぬかれた縁側から、美しい庭に出られるようになっている。
この部屋専用だという露天風呂の湯気が、雨に煙る緑の生垣を通して、白く立ち昇っていた。
「すっかり冷え切ってる。さあ、早く湯に…」
案内が去ったとたん、直江は高耶を風呂に急かした。
「バカ! おまえの方がズブ濡れじゃねえか。さっさと服脱いで入れよ!」
濡れた服は、急速に体温を奪う。
とにかく早く、濡れた服を脱がせないと、直江が風邪をひいてしまう。
どこまでも高耶を優先しようとする直江を叱りつけ、
もどかしさに顔を顰めながら、
高耶は直江のシャツを剥がしにかかった。
シャツを脱がそうとする高耶に、他意は無い。
それがわかっていても、どうしようもなく心が乱れてしまう。
触れる息が熱くて
その冷たい指を、この手で包みたくて
「…高耶さん」
呼びかけた声が僅かに上擦った。
「ん?」
と顔を上げた高耶は、直江の瞳を見返した瞬間、パッと手を離した。
気付かれてしまった。
あなたはそんなつもりなど無かったのに…
赤く染まった耳に 唇を寄せたくなる
このまま強く抱きしめて
愛していると 囁きたくなる
あなたはそんなこと望んでいないのに…
苦しさに目を閉じた直江の耳に、
少し遠くから高耶の声が聴こえた。
「直江。風呂、入るんだろ? 早くしろ。」
目を開けると、高耶が露天風呂に続く廊下に立っていた。
そっぽを向く姿に、その意味するところを知って息を呑んだ。
開かれた扉から、静かな雨の音が聞こえていた。
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