光のかけら−28

公団住宅の一室は、窓から明るい日差しと優しい風が入ってくる、居心地の良い部屋だった。
ここに来るのは初めてなのに、なぜかそんな気がしない。
不思議だ、と思ってから気が付いた。高耶の部屋と似ているのだ。
部屋の大きさも造りも全く違う。けれど醸し出される雰囲気が似ている。

「変わってないでしょ? お兄ちゃんの机も、そのままにしてるの。
だからいつでも帰って来ていいんだよ。お布団だって、ちゃんとあるし。」
二人に珈琲を出しながら、美弥が言った。
「美弥…俺は…」
もう帰らない。そう言わなければと思うのに、高耶はそれ以上何も言えなかった。

待っていた。美弥は俺を、待っていてくれたんだ。
でも…。だから、言わなきゃいけない。
ぎゅっと拳を握り締めると、苦しげに眉を寄せて顔を上げかけた高耶の前に、
横からすっと直江の手が伸びた。

(言わない方がいい。今はまだ、もう少しこのままでいてあげて下さい)
高耶の言おうとしていることが何かは、顔を見ていればわかる。
彼の性格上、美弥の思いを知ってしまえば、このままでいるなどできないことも。
見返した高耶の瞳に、一瞬だけ縋るような色が浮かんで揺れた。
(直江)
声にならない声で名を呼んで、高耶は黙って目を伏せた。

後で泣かせることになる。とわかっていて笑顔でいるのは、騙すようで居たたまれない。
けれど、直江が止めてくれたことを、喜んでもいるのだ。
せめて今だけでも、楽しい時間を過ごさせて欲しいと願うのは、高耶も同じだった。
この暖かい幸福な時間が、少しでも長く感じていられるように…

高耶の珈琲に、砂糖とミルクを入れて、クルクルとかき混ぜていた美弥が、
「ねえお兄ちゃん、お仕事楽しい?」
と小さく首を傾げて尋ねた。
その仕草に、ふと既視感を覚えた。
似ている。兄妹だから当たり前と言えばそうなのだが、人見知りする子供のような表情が、
出会った頃の高耶を思わせて、直江はなぜかせつない気持ちになった。

「う〜ん。どうかな…」
俯いていた高耶は、顔を上げると少し遠くを見る目になった。
「あ…うん。楽しいっていうか…頑張りたいって思うな。すげぇ奴がいっぱいいて、
みんなでひとつのもの作ってくから、俺も負けてらんねえって気になるんだ。」
話しているうちに、だんだん声に力が入ってくる。
きらきらと輝きはじめた瞳がきれいで、思わず魅入ってしまった。

「お兄ちゃん、ホントに今のお仕事が好きなんだね!」
美弥が明るい声で笑った。
「だったらいいの。美弥、お兄ちゃんがずっと東京にいても、大丈夫だよ。」
微笑んだ美弥の瞳から、ぽつりと涙がこぼれた。
「美弥…!」
大きく目を見開いて、高耶は美弥を見つめた。

「あ、あれ? なんでかな。やだ、どうしてこんな…」
ぽろぽろ落ちてきた涙をティッシュで押さえながら、美弥は鼻をすすりあげた。
「美弥。俺は…」
「いいの。お兄ちゃん、美弥のことを忘れてないって、知ってるもん。」
グショグショになったティッシュの代りに、直江が差し出したハンカチで涙を拭きながら、
高耶は美弥の肩をぎゅっと抱きしめた。

やはりこの少女は知っていたのだ。
小さく首を傾げて、気遣うように尋ねる仕草は、ずっと前に高耶が直江に声を掛けたときと同じだった。
あのときも、高耶は直江のことを心配してくれていた。
人の痛みを思いやる優しい心は、隠した痛みまで知ってしまう。
寄り添うふたつの心を、そっと包んで抱きしめることができたなら…
祈るようにただ見つめるしかない直江のかわりに、柔らかい風がふたりの髪を揺らしていた。

 

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