光のかけら−15

家に帰るタクシーの中で、直江は窓の月を見ていた。
(手が届かなくても心は届く。)
なぜあんなことを言ったのだろう。なんの根拠もないのに。
俺はそんな夢のようなことを、本気で考えるような夢想家じゃないはずだ。
それなのに言わずにいられなかった。
(あなたの思いなら届く…どんなに遠く離れていても…。)
言葉に出してから、それは真実に違いないと思った。
あの人の心が届かないはずがない。
誰も信じなくても、自分だけはそう信じられる。
この胸に、彼の思いが痛いほど伝わってくるのだから。

直江は目を閉じて、高耶との出会いから今までのできごとを思い返した。
彼の言葉。彼のまなざし。声も表情も、ひとつひとつが鮮やかに蘇る。
たった数ヶ月だ。それでもこんなにまで深く心に残っている。
これが十数年を共に暮らしたなら、そしてあんなに愛されたなら、
たとえ何年会わずにいても心は離れない。
彼の思いが、その記憶が、いつも心にあって支えになってくれる。
ゆっくりと目を開けた。
やはり自分は夢想家ではない。と直江は思った。
彼だからそう思うのだ。夢のようでも、それが現実だと。

そこまで考えてから、直江は初めて気付いた。
彼に告げた言葉こそが、本当は自分の願いそのものだったのではないかと。

手の届かないものに心を届ける。演劇とはそういうものではないか。
劇中の人間は、現実には存在しない。
どんなに触れたくても、けして触れることはできない。
埋まるはずのない距離を、次元を超えて埋めるのは『想い』なのだ。
  芝居の中にだけ存在する人間を、演じることで観客の心に届ける。
実際には存在しない人間。けれど劇中では、彼らは本当に生きている。
そこに息づいている『想い』を、見ている人の心に真実として伝える力を、求めてきたのだ、俺は。

(高耶の想いなら、届く。)
そう確信すると同時に胸の奥に感じた痛みの鋭さに、今更だな…と苦さを噛み締めた。
白い月は、つかず離れず追ってきていた。直江の痛みに寄り添ってくれているかのように。

部屋に帰ってシャワーを浴びると、目覚ましをセットしてベッドに入った。
いつもなら明日のシーンを頭に描く時間だが、やはり浮かぶのは高耶の寂しい横顔だった。
 大切な人の幸せを願う、祈りにも似たあの想いが何の役にも立たないなんて、そんな哀しい言葉を吐いた高耶の胸のうちを思って、直江は深いため息をついた。
求めて伸ばした手が誰にも届かない。
寂しくてたまらない夜を、彼はどれだけ過ごしたのか。
縋るものを失った気持ちがわかるからこそ、自分の今が許せないのだ。

どんな優しい言葉も、寄せる思いも、本物の温もりに比べたら、本当に僅かな力にすぎない。
喪ってはじめてわかるそれを、高耶は知っている。
同じ経験をした人など、数えきれないほどいるだろう。
苦しいのは彼だけじゃない。
けれど、痛みの感じ方は人それぞれに違う。
同じ経験だから同じ痛みだなどとは言えない。

ほんの少しでもいい。彼の痛みを和らげる力が欲しいと思った。
(おまえの白井なら、光への気持ちも嘘じゃない気がする。)
白井は光を捨てたんだと言った高耶。
ならば、白井の思いを本気で信じられたら…。
光に白井の思いが届いたと実感できたら…。
会わずにいても幸せを願う気持ちは届くのだと、信じられるかもしれない。
信じて欲しい。思いは届くのだと。
本物の手にはかなわなくても、真実の思いには確かな力があるのだと。

 

続きを見る

小説に戻る

TOPに戻る