光のかけら−1

 その男は薄暗い書斎に座って、ぼんやりとタバコをくゆらせていた。
誰かがドアをノックしている。男は溜息をついて立ち上がると、ガチャリと鍵を開けた。
「ああ・・そこんとこ、もう少し嫌そうな顔しないと。んじゃ、もう一回!」
「はい。すみません監督」
ここはテレビドラマの撮影現場だ。
主人公の小説家『白井隆』を演じている直江信綱は、端正なマスクと知的で深みのあるまなざし、演技の上手さで定評のある人気抜群の俳優だ。
監督の千秋修平とはコンビで何本もヒットを飛ばしている。
だが今日の直江は、いつもと違ってミスばかりしていた。

「いいかげんにしろよな。もう何回同じことやってんだか。」
不機嫌に言い放ったのは、仰木高耶。
新人だが天性の演技力でたちまちスターになり、若者のカリスマとも言われている。
このドラマ「光のかけら」では白井の担当編集者『松本洋二』の役だが、ドアをノックするシーンを3回続けてやり直しですっかりオカンムリだ。
「怒るなよ、大将」千秋が笑って言った。新人に大将なんておかしな話だが、不思議と違和感がない。
スタッフも他の俳優たちも、ごく自然に受けとめていた。

「今日の直江、なんか変よね〜。寝不足なんじゃないの?」
からかうように言ったのは、白井の別れた恋人『光』役の門脇綾子だ。
さっぱりした性格の美女で、おとなしい『光』とは正反対だがさすがは役者。
演じているときは『光』そのもので美しく儚げな女性になりきっている。
その変わり身の早さは驚異的だった。

「すまない。少し休憩もらえないか。」
「おう、いいよ。じゃあ次は30分後な。」
本当に今日はどうかしている。直江は隅の椅子に腰掛けて目を閉じた。
なぜだろう。胸が騒ぐ。
スタジオに入ったら役になりきるのが常なのに、今日は違う。
ふとした瞬間に「直江」に戻ってしまう。
さっきもそうだ。ノックの音を聞いたとたん、すっと役から気持ちが離れてしまった。
こんなことは初めてだ。直江は頭を抱えた。

「直江さん。あんた白井はなんで小説を書くんだと思う?」
きのう高耶にそう尋ねられて、直江はすぐに答えた。
「昔の恋人への思いが忘れられない、女々しい男だからさ。」
それはこのドラマの中で、白井が洋二に同じことを聞かれて答えた言葉だった。
その自嘲的な台詞をそのまま口にした。
すると思いがけない厳しい口調で高耶が言った。
「それは白井の言葉だろ。俺が聞きたいのは、あんたがどう思うかってことなんだ。」
ただの人気があるだけの新人だと思っていた高耶が、こんなことを言うとは思ってもみなかった。
直江は初めて高耶を見つめた。そして彼の瞳に魅入ってしまったのだ。
演じているときとは全く違う、強い意思の輝き。
その真摯なまなざしが胸を射た。

ドラマでは、白井は別れるしかなかった恋人『光』をずっと思い、その愛を美しいラブストーリーに描き続ける作家という設定になっている。
『光』は親の決めた相手と結婚したものの、白井のことが忘れられずに苦しんだあげく、精神を病んでしまう。
匿名の手紙でそれを知った白井は、自分自身を責め一時は執筆活動もやめてぼろぼろになるが、それでも『光』を愛することで立ち直っていく。
その過程で『光』の夫やその弟も絡んで、様々な人間模様が描かれるのだが、なかでも高耶が演じる松本洋二は重要な役どころだ。

高耶の演技は申し分無かった。
『光』の夫の弟で、義姉の病の原因である白井を許せずに匿名の手紙を書き、なおかつ担当編集者として白井に近づくが、深く関わる間にやがて白井を尊敬するようになり、後には彼の立ち直りを助けるという、本来は好青年でありながら胸の内に複雑な思いを抱える洋二を、とても魅力的に演じていた。
 天才とは、彼のような人間をいうのだろうか。
俳優になることが夢だった。役になりきろうと努力してきた。
そうしてやっと掴んだ今の地位が、彼といるとまるで意味のないことに思えてくる。

ドラマの中には『松本洋二』という生きた人間がいた。
それは原作者が描こうとした人物像とは違っていたかもしれない。
だが観る者に、単なるドラマの登場人物ではなく、感情を持った本物の人間なのだと実感させるほどの力を放っていた。
そしてそれがこのドラマに関わっている全てのものに影響を与え、深みのある特別な作品にしていることに、直江は気付いていた。

(はまり役だっただけだ)と思いたかった。けれど違うとわかっていた。
『松本洋二』と高耶は全然違う。演じているのだ。
なぜそんなことが出来るのか。なぜ自分には出来ないのか。
今まで役になりきっていると思っていた自分が滑稽でやりきれない。

「お前自身はどう思う?」
あれからずっと頭から離れない。
他人の言葉じゃなく、自分自身の言葉として語った事があるのかと問いかけてくる。
あのまなざしで、あの声で。
それ以来どうも役に集中できない。
『白井隆』が気持ちの中に入ってこない。
高耶のことが頭をよぎるたびに『直江』に戻ってしまうのだ。

 

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