「美弥! バカ。俺に構ってないで逃げろよ!」
無事な顔をみた嬉しさで胸が一杯になったとたん、今度は新しい心配が生まれて、 高耶の心は張り裂けそうでした。
(なおえ…直江、直江、直江…)
呼んだってしかたがないと思うのに、心の奥で祈るように繰り返してきた唯一つの名前。
声に出してしまったら、もう止まらなくなりそうなくらい、本当は来て欲しいと願っている人の名を、
高耶は心で叫んでいました。
「早かったな。あの迷路では簡単すぎたか? ふふふ。本当に期待以上の人材で嬉しいぞ。」
「ふざけないで! あたしを迷路に閉じ込めて、お兄ちゃんにこんなこと…!
ひどいよ。今すぐ出してよ。こんなの、許さないんだから!」
「許さない? 誰が、どう許さないというのだ?」
高坂は、美弥の頭を撫でながら、手に少し力を込めました。
それだけで動けなくなってしまった美弥でしたが、それでもギュッと拳を握ると、
「あ、あたし絶対に許さない!直江さんだって…
そうだよ、お兄ちゃんには直江さんがいるんだもん。きっと、お兄ちゃんのこと助けてくれる。
いくら美形だからって、あんたなんか直江さんにコテンコテンにされちゃうんだから!」
余裕たっぷりで微笑んでいた高坂が、フッと表情を引き締めました。
「ナオエ?…そうか、それで…」
顔を上げ、高坂は軽く美弥を押しのけると、再び高耶の方へ手を伸ばしました。
掴まってなるかと、高耶が後ろへ下がったとたん、
「動くな! 高坂! それ以上その人に近づいたら、おまえの腕を二度と使えなくしてやる。」
忘れようとしても忘れられない声が、聞いたことのない凄味を帯びて、部屋に響きわたりました。
「やはり、おまえか。ギルドのナオエ。よもや貴様が、ここまで追って来れるとはな。」
振り向いた高坂の真後ろで、床から盛り上がった黒い影が、みるみる人の形に変わってゆきます。
やがて現れたのは、高坂の影を押さえつけている直江の姿でした。
「美弥さん、高耶さんは私が必ず連れ帰ります。
今は私を信じて、あなただけでも早くこの世界を出て下さい。」
美弥の瞳が縋るように直江を見つめ、それから高耶を見つめました。
「お兄ちゃんを、お願いします。」
元の世界に戻る瞬間、頭を下げた美弥が見せた泣きそうな笑顔に、
直江は深く頷いて、厳しい表情で立ち上がりました。
足元の影が、さざ波のように震えました。
「『影縛り』は、ギルドでは禁じられた黒魔法だろう?
しかも貴様、この本の魔法を根底から書き換えて侵入したな。
こんなことをして、ギルドと依頼主になんと言い訳するつもりだ?
それほどまでに、この男が大事か。 なるほど、恋は人を変えるというが、
ギルドのナオエも変われば変わるものだな。」
高坂の言葉に青ざめたのは、直江ではなく高耶でした。
「直江…っ ばかやろう。頼むから、俺のことなんか放っておけよ!
お前に、助けてくれなんて言って無い。
俺なんかの為に、お前の大事なものを捨てたりするな!」
悲痛な叫びが、高耶の喉から迸りました。
「…ええ、そうです。あなたはいつだって、私に助けを求めてくれない…
だから私が来たんです。
私には、あなた以上に大事なものなど無い。
わかって下さい。私はあなたが思っているよりずっと、エゴイストなんです。
私は私自身の願いを叶える為に、ここにいる。
あなたが何を言おうと、引き下がるつもりはありません。」
きっぱりと言い切った直江は、影を踏みつける足に力を込めて、不穏な眼差しで高坂をギッと睨み据えました。
高坂は痛そうに腕を抑え、クゥッと顔を歪めると、高耶の籠に寄りかかりました。
「全く貴様は…戯言を言うのはかまわんが、そんな深刻な顔をされると、私が極悪非道な魔法使いに見えるではないか。」
その通りだろう?と言わんばかりの直江の顔に、高坂はフッと笑いを浮かべて、高耶の方へ手を伸ばしました。
すると高耶の手足に繋がれていた鎖が、パチンと籠の中央から外れ、高坂の手に吸い込まれるようにして、みるみる短くなりました。
当然のことながら、高耶の体も鎖と一緒に引き寄せられてしまいます。
「高耶さん!」
思わず駆け寄った直江の足が、高坂の狙いどおり影から離れました。
「ふふふ。『影縛り』が解けたな。」
自由になった高坂は、サッと直江の攻撃を交わし、あっというまに籠の反対側へ降り立っていました。
捕らえようにも、ちょうど高耶が盾になり、迂闊に攻撃できません。
高坂は高耶の耳に何かを囁くと、いきなりドンと勢いよく背中を突き放しました。
枷と鎖が消され、同時に吊るされていた大きな籠も消えて、高耶は思いきり床を転がりました。
…いいえ、正確には、床に落ちる寸前に、直江に抱きとめられて一緒に転がったのでした。
「あまりに反応が面白かったもので、つい遊んでしまった。
おかげで面白いゲームが作れそうだぞ。
出来あがったら届けてやるから、悪く思うな。」
遠くで聞こえた声は、もう追っても無駄に思えました。
なにより、高耶を腕に抱いた直江はもう、他のことなどどうでもいい気分だったのです。
そして高耶もまた…
やがて仰木家には、平穏な毎日が戻りました。
高坂のゲームが本になって届くのは、まだもう少し先の話ですからね(笑)
2010年3月22日
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