『仰木家のヘンデルとグレーテル』−4

 

「美弥! バカ。俺に構ってないで逃げろよ!」

無事な顔をみた嬉しさで胸が一杯になったとたん、今度は新しい心配が生まれて、 高耶の心は張り裂けそうでした。

(なおえ…直江、直江、直江…)

呼んだってしかたがないと思うのに、心の奥で祈るように繰り返してきた唯一つの名前。
声に出してしまったら、もう止まらなくなりそうなくらい、本当は来て欲しいと願っている人の名を、
高耶は心で叫んでいました。

「早かったな。あの迷路では簡単すぎたか? ふふふ。本当に期待以上の人材で嬉しいぞ。」

「ふざけないで! あたしを迷路に閉じ込めて、お兄ちゃんにこんなこと…!
 ひどいよ。今すぐ出してよ。こんなの、許さないんだから!」

「許さない? 誰が、どう許さないというのだ?」

高坂は、美弥の頭を撫でながら、手に少し力を込めました。
それだけで動けなくなってしまった美弥でしたが、それでもギュッと拳を握ると、

「あ、あたし絶対に許さない!直江さんだって…
 そうだよ、お兄ちゃんには直江さんがいるんだもん。きっと、お兄ちゃんのこと助けてくれる。
 いくら美形だからって、あんたなんか直江さんにコテンコテンにされちゃうんだから!」

余裕たっぷりで微笑んでいた高坂が、フッと表情を引き締めました。

「ナオエ?…そうか、それで…」

顔を上げ、高坂は軽く美弥を押しのけると、再び高耶の方へ手を伸ばしました。

掴まってなるかと、高耶が後ろへ下がったとたん、

「動くな! 高坂! それ以上その人に近づいたら、おまえの腕を二度と使えなくしてやる。」

忘れようとしても忘れられない声が、聞いたことのない凄味を帯びて、部屋に響きわたりました。

 
「やはり、おまえか。ギルドのナオエ。よもや貴様が、ここまで追って来れるとはな。」

振り向いた高坂の真後ろで、床から盛り上がった黒い影が、みるみる人の形に変わってゆきます。
やがて現れたのは、高坂の影を押さえつけている直江の姿でした。

「美弥さん、高耶さんは私が必ず連れ帰ります。
 今は私を信じて、あなただけでも早くこの世界を出て下さい。」

美弥の瞳が縋るように直江を見つめ、それから高耶を見つめました。

「お兄ちゃんを、お願いします。」

元の世界に戻る瞬間、頭を下げた美弥が見せた泣きそうな笑顔に、
直江は深く頷いて、厳しい表情で立ち上がりました。
足元の影が、さざ波のように震えました。

「『影縛り』は、ギルドでは禁じられた黒魔法だろう?
 しかも貴様、この本の魔法を根底から書き換えて侵入したな。
 こんなことをして、ギルドと依頼主になんと言い訳するつもりだ?
 それほどまでに、この男が大事か。 なるほど、恋は人を変えるというが、
 ギルドのナオエも変われば変わるものだな。」

高坂の言葉に青ざめたのは、直江ではなく高耶でした。

「直江…っ ばかやろう。頼むから、俺のことなんか放っておけよ! 
 お前に、助けてくれなんて言って無い。
 俺なんかの為に、お前の大事なものを捨てたりするな!」

悲痛な叫びが、高耶の喉から迸りました。

「…ええ、そうです。あなたはいつだって、私に助けを求めてくれない…
 だから私が来たんです。
 私には、あなた以上に大事なものなど無い。
 わかって下さい。私はあなたが思っているよりずっと、エゴイストなんです。
 私は私自身の願いを叶える為に、ここにいる。
 あなたが何を言おうと、引き下がるつもりはありません。」

きっぱりと言い切った直江は、影を踏みつける足に力を込めて、不穏な眼差しで高坂をギッと睨み据えました。

高坂は痛そうに腕を抑え、クゥッと顔を歪めると、高耶の籠に寄りかかりました。

「全く貴様は…戯言を言うのはかまわんが、そんな深刻な顔をされると、私が極悪非道な魔法使いに見えるではないか。」

その通りだろう?と言わんばかりの直江の顔に、高坂はフッと笑いを浮かべて、高耶の方へ手を伸ばしました。
すると高耶の手足に繋がれていた鎖が、パチンと籠の中央から外れ、高坂の手に吸い込まれるようにして、みるみる短くなりました。
当然のことながら、高耶の体も鎖と一緒に引き寄せられてしまいます。

「高耶さん!」

思わず駆け寄った直江の足が、高坂の狙いどおり影から離れました。

「ふふふ。『影縛り』が解けたな。」

自由になった高坂は、サッと直江の攻撃を交わし、あっというまに籠の反対側へ降り立っていました。
捕らえようにも、ちょうど高耶が盾になり、迂闊に攻撃できません。

高坂は高耶の耳に何かを囁くと、いきなりドンと勢いよく背中を突き放しました。
枷と鎖が消され、同時に吊るされていた大きな籠も消えて、高耶は思いきり床を転がりました。
…いいえ、正確には、床に落ちる寸前に、直江に抱きとめられて一緒に転がったのでした。

「あまりに反応が面白かったもので、つい遊んでしまった。
 おかげで面白いゲームが作れそうだぞ。
 出来あがったら届けてやるから、悪く思うな。」

遠くで聞こえた声は、もう追っても無駄に思えました。
なにより、高耶を腕に抱いた直江はもう、他のことなどどうでもいい気分だったのです。
そして高耶もまた…

 

やがて仰木家には、平穏な毎日が戻りました。
高坂のゲームが本になって届くのは、まだもう少し先の話ですからね(笑)   

              2010年3月22日

      

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