優しい雨−8

「橘さん、彼らは大丈夫でしょうか。」
 中川は中田たちと別れてから、ずっと苦しい表情をしていた。
「あんな偉そうなことを言って…。ひとりでも戦うのが赤鯨衆だなんて、
人の命とどちらが大事かわかっているのに。私がしていることは矛盾だらけだ。
他人の体を勝手に使って、なにが医者だ。そのうえ仲間を助けに行くより戦えなんて、医者のいうことじゃない。本当は私がこうして生きてることこそ間違っているんだ。なのに私は…。」
 なぜこの人にこんな話をしてしまうんだろう。話してもどうしようもないことなのに。

 自分が存在している限り、負わなければならない罪だと承知している。
 それを背負った上で、なお生きていたいと思うからこうしているのだ。
 自分自身の為に戦い続けてしまうのだ。
 そんな自分の思いを、どうして告げたくなったのか…。
 中川にもわからなかった。

「人のすることなど矛盾だらけだ。何をしたって偽善と自己満足に過ぎない。
それでも何もせずにいられなくて、苦しみながら戦い続けてきた人なら、
おれはもうひとり知っている。おれはあの人がいるから生きている。
間違っていてもかまわない。あの人と生きるだけだ。」
 運転しながら、遠い目をして憧れるように言う直江を、中川は驚いて見つめた。

 なぐさめを期待したわけではなかった。なぐさめられたとも思わない。
 けれど彼の言葉と表情で、中川は意外なほど楽になっていた。
 これほどの強さで言い切ることは、自分にはできないだろう。
 それでもたとえ自己満足でも、誰かの為に自分ができることがあるなら、それをしたいと思う。
 間違いだけれど、間違いじゃない。
 中川は直江の姿に、偽善と自己満足だけではないものを感じていた。

 もうひとりの人、それが誰かは言わなくてもわかった。
 その人の幸せを心から願う。  誰かの幸せを願う気持ちが、存在の苦しさを癒すことに、中川は初めて気付いたのだった。

「頂上までもう少しなんだが…。あの車が邪魔で通れないな。ここから歩こう。」
 木村をひとりで残すわけにもいかず、支えながら歩いていくと、道の真ん中に男が倒れていた。
「おい。大丈夫か?」
 介抱されて目を覚ましたのは西野だった。
 あの呪縛の効力がやっときれたものの、無理な姿勢で長くいた為にバッタリと倒れてしまったのだ。
 なんとか元気を取り戻したので、西野に木村を頼み、車に残ってもらう事にした。
 ちゃんと回復すれば、運転して山を降りることができる。
 救護班のいるアジトには、他にも怪我などで戦線を離脱した仲間がいるはずだ。

「もしかしたら、もう砦で戦闘が始まっているかもしれません。いそぎましょう!」
 中川のかばんの中には高耶に渡す新しい壷毒薬が入っている。
 この訓練で、高耶は壷毒薬を飲んでいるに違いない。
 多用しないようにと言っても、彼は必ず飲む。
 自分の毒で仲間を危険に晒すくらいなら自分の体に悪いことなど考えもしない。彼はそういう人だ。

 だから、この薬が必要なのだ。改良に改良を重ねてやっと開発したこの薬は、壷毒薬の副作用を大幅に軽減している。
 できれば高耶が何度も薬を飲まないうちに渡したい。
 この前の診察でも高耶の体はあきらかに弱ってきていた。
 それは本人が一番わかっているはずだ。
 それでも彼が歩き続けることを望むなら、自分にできるのは
 少しでも負担を和らげることしかない。

 診察かばんには点滴や注射の用意がぎっしり詰まっていた。
 あの崖崩れに潮たちが捲き込まれていないよう祈りながら、中川と直江は砦に走った。

 

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