優しい雨−3

 それぞれの班に分かれたときから、既に戦いは始まっている。
こっちがトラップを仕掛けているうちに、敵はもうずっと先に進んでいるかもしれない。
『敵を知り己を知れば百戦危うからず』有名な孫子の兵法は、今でも通用する真理だ。
言葉くらいは誰でも知っているだろう。だがそれを実行するのは難しい。
まず情報が必要だ。敵がどこにいて、何をしようとしているのかを探らなければならない。

 紅白戦の舞台となっている山は、この訓練のはじめにトレーニングで嫌というほど走り回らされたから、彼らはみんな自分の庭のように知っていた。
つまり土地感は五分と五分。トラップを仕掛けそうな場所も予想できる。
そんな状況で敵の裏をかくには、相手に間違った予想をさせるのが一番だ。
わざと情報を与えて敵の心理をあやつり、こちらの思い通りの予想に導くのである。
もちろんお互いそれがわかっているから、得た情報を鵜呑みにできない。

 何が正しくて何が間違っているか、その判断が難しい。
ひとつの情報から、いくつもの可能性を考えた上で結論を出す。
けれどそうしてやっと下した判断が正しいかどうかは、後にならないとわからないのだ。
 兵頭班も武藤班も、偵察に重点を置いているのは同じだ。
示し合わせたわけでもないのに、どちらも二人一組で動く偵察隊を二組作って、お互いを探り合っていた。

「あっちの班は三の谷に罠しかけて、上で待ち伏せしよる計画じゃ。」
武藤班の偵察隊のひとり、山下が連絡を入れた。
ペアを組んでいる寺内は、細かい情報を仕入れる為に後を付けている。
連絡を受けた谷口は、すぐに仲間たちに連絡した。
それが終わらないうちに、今度はもう一方の偵察隊の木村から、敵の偵察隊を見つけたと情報が入った。
「あいつらもこっちを偵察に来てるぞ。偽の情報を流した。西の岩場で待ち伏せしてることになってるから、そういうことにしといてくれ。」
聞いた谷口が連絡する。また違う情報が入った。手一杯の谷口に変わって岡村が聞く。
そんな事を繰り返しているうちに、誰にどこまで連絡したのかわからなくなってしまった。

しかも偽の情報を計画の変更と勘違いした一人が本当に西の岩場に行って、敵に狙い撃ちされて捕まってしまい、責任を感じた木村が助けに行くと言い出した。
「阿呆!ひとりで助けに行ってもどうもならん。わしらが勝てばあいつも解放されるきに。」
木村を説得している間も新しい情報が入ってくる。こうなると谷口も岡村も、全部の情報を処理しきれない。
しかたなく偵察隊が、関わりのありそうな仲間に直接連絡を入れ始めると、もう情報管理など全く出来なくなってしまった。
「どうしたらええんじゃ。」
「山下から連絡が入ったけど、その通りに動いてええのか?」
そう聞かれても、どんな情報が来ているのか、整理しなければわからない。
手を出さない約束を守らなければならない潮は、二人の様子を見ながら、唇をかみしめてじっと耐えていた。

 兵頭班でも連絡係の広瀬の元に次々と情報が寄せられ、その度に少しずつ当初の計画が変更になっていた。
西の岩場で一人捕まえたまでは良かったが、トラップを避けたはずのルートで別のトラップに嵌りこちらも一人捕まってしまった。
たった10人とはいえ、一箇所に集まっているのではなく、広い山中で散らばって動いているメンバー全員に、変更になった部分を伝えるにはインカムだけでは難しい。
元々彼らはインカムにも慣れていないうえに、いつもは命令どおりに動くだけでOKだったのに、今回は自分で考えないと誰も指図などしてくれないのだ。
「もうわけがわからん。」
「どうなっとるんかいのう。」
「いかんちゃ!今ここで発破かけたら、仲間まで巻き込んでしまう。」
「これじゃあ、罠しかけた意味がないでないか。」
情報が錯綜して、敵も味方も混乱してしまっている。
 偵察隊は、先の情報を次々と寄せてくるのだが、それを聞いて判断する方がパニック状態になっていては、正確な判断など出来るはずがなかった。

「思ったとおりだな。」
山頂の砦で、平四郎から様子を聞いた高耶がつぶやいた。
こうなることはわかっていた。だからこそ実戦形式の紅白戦にしたのだ。
参加者たちは今、自分で判断することの難しさを実感しているだろう。
「こっからがあいつらの踏ん張りどころじゃ。」
嶺次郎も頷いて応じた。そのまましばらく厳しい顔で外を見ていたが、
「あの二人いつまで黙って見ていられるかのう。おんしは兵頭と武藤のどっちに賭ける?」
ふっと表情を和らげると、振り向いて嬉しそうに尋ねた。
「どっちも口出さずに黙って見てるさ。賭けにはならねえよ。」
俯いたままそう言った高耶に、
「ほんまにおんしは、可愛げのないやつじゃのう。」
笑ってまた外を見た嶺次郎だったが、ほんの一瞬こっちを見上げた高耶が、はにかんだように微笑んだのを見逃してはいなかった。

 あの大転換から、ぎこちない思いが消えなかった。
高耶が悪いのではない。大転換をしようと言い出したのは自分だ。
あのとき高耶が自身の命よりも大転換を優先したことは、むしろ感謝するべきなのかもしれない。
実際あのとき大転換をしていなければ、今頃四国のエネルギーは全て織田のものになり、赤鯨衆はおろか反織田のものはほとんど滅んでいただろう。
 だがそれでも苦しい思いが消えないのだ。
裏四国となったこの状況が術者の思いを反映したものだとすれば、やはり高耶は怨霊が生きることを望んでいないのだとしか思えなかった。
今もやりきれない思いがある。高耶と自分の見ている先は違う。それが辛かった。

 お互いを思う気持ちにうそはない。
高耶が赤鯨衆を大事に思っていることもわかっている。
それでも心の奥でわだかまる思いがあるのだ。自分でもどうしようもない思いが。
 この訓練を高耶が提案したとき、そこに込められた願いが胸にズシンときた。
怨霊と生き人をどちらも大切に思っている、そんな高耶の心が感じられた。
『怨霊がいてもいい世界を作ろう。』
(あの言葉を、おんしは本気で言ったんじゃ。おんしの心はわしらと一緒に在るんじゃ。
生き人を大事に思うのと同じくらい、いやそれ以上に、わしらを思ってくれちゅう。)

 一瞬の微笑が高耶の寂しさを伝えていた。こんなふうに笑って話したのは、もうどれくらい前だったろう。
目指すものは違うかもしれない。けれどそれでもいいと思えるものが、嶺次郎の中に生まれていた。
「おんし、なぜあん男を指導者にせんじゃった?最適やと思うたが。」
あん男とは、もちろん直江のことだ。彼ならば上手に隊員を育て上げるに違いなかった。
「あいつは…。いや、この訓練には兵頭と武藤が一番なんだ。」
あの二人がお互いをもっとわかるかもしれないと思った。けれど、どう言えばいいだろう。
困ったように顔を上げた高耶と、嶺次郎の目が合った。嶺次郎の目が笑っている。
「わかってて聞いたんだな?」
むっと睨んだが、苦笑に変わってしまう。
「あん二人にとっても、いい訓練になるじゃろう。」
悪びれずに笑う嶺次郎が、とても懐かしい気がした。
「うまくいってくれるとええがのう。」
急ごしらえのあずまやから、二人は並んで外を眺めた。山はまだ静かだった。

 

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